<コース> 関西近郊 休日ぶらり旅きっぷ(2日間用 ¥4,500)使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR丹波竹田(8:11)
丹波竹田 → 徒歩20分 → 石像寺 → 徒歩30分 → 清薗寺 → 徒歩10分 → JR丹波竹田(10:16) → JR福知山(10:24) → レンタサイクル5分 → 御霊神社 → レンタサイクル15分 → 養泉寺 → レンタサイクル30分 → 長安寺
【復路】JR福知山(14:06) → JR篠山口(15:10→15:12) → (丹波路快速) → JR大阪(16:20)

医王山 長安寺(臨済宗南禅寺派別格地 丹波古刹第十三番 西国薬師霊場第二十六番)
萩の寺の後は、再び由良川を渡って駅から北西に5㎞。和久(わく)川を渡り
標高406mの姫髪(ひめがみ)山の裾にあるのは福知山巡礼のメインである長安寺。
近隣に聞こえた紅葉の名所ですが見頃は半月以上先。コロナの事があるとはいえ、
シーズンには観光客が押し寄せるでしょうから「三密」を避けての巡礼とはなりました。

途中に建つ寺標
ここから登り道になる。

石の寺標から1km程で入口に到着
拝観受付は左手、右の石碑には「長安 瑠璃浄界」とある。

境内案内図

受付から石段までの参道
木々は全て楓で、シーズンには紅いトンネルとなる。

今は未だ青紅葉
医王山長安寺(いおうざんちょうあんじ)は、
『用明天皇の第三皇子、麻呂子新王が勅命に拠って丹波の大江山に棲む鬼征伐の途中、
戦勝祈願の為に薬師如来を刻みこの地に奉納されたのが始まりとされる。
古くは善光寺と号し、真言宗の鎮護道場として威容を誇り院坊25に及んだが、
応永年間(1394~1428年)に罹災全焼。現在の本堂の東方にある善光寺谷はその旧跡と伝わる。

石段下へ到着

由緒記

青紅葉に囲まれた石段を上り境内へ

石段左手にある不動の滝
永享12年(1440年)に再建、文明6年(1474年)には夢窓礎石の法嗣悦堂(えつどう)が
諸国巡錫の途中に立ち寄って長安寺と改名した。
永正8年(1511年)には再度火災に遭い焼失。その後、天文13年(1544年)福知山城主杉原家次が
開基となり猪崎の醍醐寺6世眼光恵透(げんこうえとう)を招き中興開山として再興。
現在の本堂・庫裏・開山堂・薬師堂などは全て江戸時代の中・後期の建造である。

山門近影

山門前の霊木「薬師如来・授乳の銀杏」

山門前から見た境内
左が本堂(大方丈)と庫裏、奥が新書院。

本堂とその前にある「薬師三尊四十九燈の庭」

山門脇の梵鐘と庭園

新書院前からの眺望
庭園は江戸中期以降の造営で禅宗らしい幽邃な佇まいを見せるが、
本堂前の「薬師三尊四十九燈の庭」は重森完途氏に拠る近年の作である。
寺の周辺は現在長安寺公園となって居り、姫髪山では昭和27年(1952年)以降
毎年8月16日に丹波大文字が行われている。』 とあります。

大方丈前にて

本堂前から見た「薬師三尊四十九燈の庭」

薬師三尊四十九燈の庭

水琴窟

このような石のお地蔵様も

弁財天堂越しに本堂を見る

弁財天堂

弁財天堂の庭「四徳の庭園」

弁財天堂の横の階段を上り開山堂へ
開創時の伝説は丹波竹田の清薗寺に酷似。おそらく古くからの寺院に後から伝説が加わったものでしょう。
盆地の中心部から離れた場所にありますが、付近には下山古墳群、
飛鳥時代後期から平安前期の寺院跡も見つかっているので、
古来より人の住むには適した場所だったと言えます。
近世の城下町は盆地の中心部にありますが、由良川が余りにも近い。
光秀公が治水に務めたとあるくらいですから中世以前は暴れ川。その点、
長安寺付近は支流の和久川なので古代・中世の町には適した場所だったと思えます。
古代文明は大河の流域というよりもその支流に起こるようです。

開山堂

大師堂
開山堂の横にある。左奥は聖徳太子を祀る。

福知山初代藩主・杉原家次公の墓

上から見た薬師堂

薬師堂正面
仏殿又は瑠璃殿と言われる唐様建造物。

薬師堂の垂木と欄間彫刻
扁額は「瑠璃界」となっている。

薬師堂内陣の龍と鳳凰の彫刻

薬師堂内陣
本尊の薬師如来坐像は厨子内で、写真はその前立仏。

薬師堂の龍の天井画
板に描いた様に見えるが、彫刻した上に彩色したものである。
長安寺という名前の寺は各地にありますが、これは勿論唐の都長安を意識したもの。
平安京を築いた人の意識には東は洛陽、西は長安に似せた都市形成が念頭にありました。
唯、西側は疫病の為に早くに廃れ、中心は東側に移ります。
その結果、平安京は洛陽と呼ばれるように。上洛と言うのもそこから来ました。
しかし日本には洛陽寺はないようで、長安と洛陽の痛み分けといった所でしょうか?

紅葉の向こうの薬師堂

昭和58年建立の観音堂
仏師法眼 高村晴雲作の聖観世音菩薩を安置。

売茶堂
手前に植えられているのは茶の木。

売茶堂説明

長安寺説明書

長安寺御朱印
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丹波竹田 → 徒歩20分 → 石像寺 → 徒歩30分 → 清薗寺 → 徒歩10分 → JR丹波竹田(10:16) → JR福知山(10:24) → レンタサイクル5分 → 御霊神社 → レンタサイクル15分 → 養泉寺

明光山 養泉寺(臨済宗南禅寺派)
光秀公にお参りした後は由良川に架かる大橋を渡り川沿いを1㎞程進んで市内北東部の鬼ヵ城山麓へ。
ここまで来ると城下町から外れますが、それにしても鬼ヵ城山とは凄い命名です。
明光山養泉寺(みょうこうざんようせんじ)は、
『暦応2年(1339年)、この地の奥に造営中の醍醐寺の三光国師(孤峰覚明)の
居所として創建。国師の四筵開場の最初道場である。

由良川に架かる大橋を渡る

大橋上からの福知山城遠望

行く手に見えるのが養泉寺
国師は後醍醐天皇の御信仰篤く、帝が隠岐より船上山に逃れた際に出雲の雲樹寺より召されて
禅学を講じた高僧。帰洛後も禁裏にて侍講を行ったが、名刹を好まず養泉寺に戻ったとされる。
当寺には国師の「脚下照顧」の語が今にも伝わっているが、これは真理を遠所・高所に求めるのではなく、
挙手投足全てが真理の只中にあるという教えである。

入口に到着

山門脇の庭園

階段を上り境内へ
境内正面にあるのは薬師如来を祀る本堂であるが、更に高台にあるのが観音堂。
これは近隣の山中にあった大仙寺は廃寺になった際に唯一残った堂宇を元禄4年に
藩主の下知により移築したもの。明治29年の火災でもここだけ難を免れた。
本尊は十一面観音であるが、堂内の格天井には福知山城舞殿にあった
81枚の「花と鳥」絵図が極彩色で描かれている。

養泉寺由緒記

本堂
明治29年に焼失した後、明治37年に再建したもの。手前の切り株は花が終わった後の萩の群。

横から見た本堂

本堂脇の庭
但し、鶴は置物。
境内の庭にはかつての住職が植えていった白萩が生い茂り、季節には萩の寺として
近在から人が訪れる。』 となっています。
地元では萩の寺として知らぬ人はいない名刹ですが、訪れた時期が遅く来年に向けて剪定された後でした。
おはぎという位ですから毎年秋分あたりが見頃との話でしたが、このところ少しずる遅くなってきているようです。

本堂から少し上った場所に建つ観音堂

観音堂から境内を見渡す

仏足石

萩寺の碑
それよりも気になるのが開山の三光国師。後醍醐天皇の帰依を受けたとはいえ、
帝が帰洛された都を去りこの地へ来るとは中々の硬骨漢。
帝の政治に危うさを感じたのか、ここの方が【気楽】だったからなのかは分かりませんが、
普通の人ならな【ようせん】事です。

萩は終わったがホトトギスは未だ大丈夫

萩寺養泉寺の栞

養泉寺御朱印
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御霊神社
手前の像は「福知山おどり」
丹波竹田駅に戻ったのは10時過ぎ。この時間は上下共に16分なので間違わず福知山行きに乗車。
運良く駅前の観光案内所にレンタサイクルの空きがあったので、早速拝借。
駅前から真っすぐ進み、郵便局を右折して暫く行くと道路が鉤状に曲がり、そこに鎮座するのが御霊神社。

入口にある石標と一の鳥居

境内に上る階段途中から
紅葉にはちと早いのが残念。
御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、
『戦国時代、この地方は豪族の勢力争いの巷であったが、ここに入部した明智光秀公は
盗賊を討伐した上、領民の地子銭(宅地税)を免除。
そして掻揚(かきあげ)城と呼ばれた古い城に石垣を積んで福智山と命名。
由良川の水路を変更し、水運の城下町としての礎を築いた。

由緒記

境内の入口にある本能寺碑、筆塚と大欅。奥に見えるのが舞殿
善政を敷いた光秀公の人気は高く、火災や水害が起こった際には領民は光秀の祟りと考えた。
当時、紺屋町に樹齢400年以上の榎の古木があり、祠に光秀公の神霊を祀っていたが、
宝永2年(1705年)の秋に御霊神社として創建。元文2年(1737年)には町民が公に祀る事を願い出た。
現在地には大正7年(1918年)に移転、五穀豊穣、商売繁盛、災厄除けの神様として
一円から崇敬されている。』 とあります。

正面から見た拝殿

拝殿の後ろに建つ本殿
御祭神は産業発展の神・宇賀御霊大神(うがのみたまのおおかみ)と明智光秀公。
かつては別々に祀られていたものを合祀したもの。
言うまでもなく2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主役です。
私が小学校の頃、大河ドラマで「国盗り物語」を放送していましたが、
当時の戦国武将で酷評されていたのが明智光秀と石田三成。
前者は主君を殺した裏切り者、後者は主家を滅ぼした無能者というのが一般的でしたが、
現在ではどちらも民意に気を配り善政を敷いた武将として評価が高まっています。
神社の敷地を道路は避けて通っていますし、神社の前は御霊公園。
市民の憩いの場所として【御利用】されています。

境内北側にある堤防神社

叶石さん
これは伏見稲荷と違って持ち上げるのではなさそう。

境内の句碑
関ヶ原の戦いの後、この地に入部した有馬豊氏は過酷な検地を行ったために、農民の怨嗟の声が上がったとか。
20年後に久留米に転封となりますが、幕末まで続き維新後は伯爵に。善政を敷いた光秀が滅んだのとは対照的です。
人物評価は“棺桶の蓋を覆って定まる”ものですが、それにしてもここ50年間の変動はどういう理由になっているのでしょうか?

頼山陽に拠る「本能寺」

詩の解説

御霊神社説明書

御霊神社御朱印
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丹波竹田 → 徒歩20分 → 石像寺 → 徒歩30分 → 清薗寺 → 徒歩10分 → JR丹波竹田(10:16)

鎌倉山 清薗寺(高野山真言宗 丹波古刹第十二番)
石像寺参拝を終えて駅に向かい北東に10分ほど進んだ場所にあるのがもう一つの古刹。
途中、丹波らしく西山酒造の前を通過。造り酒屋さんは杉玉を吊るすのが常ですが、
ここは笹竹を立てる様子。場所が竹田だからか、お酒を笹と言うのはここに由来するのか?
とか考えながら歩いていると目的地に到着。石像寺は山麓でしたが、こちらは町の真ん中。

重厚な造りの小鼓・西山酒造場

玄関に立てられた笹竹
説明に拠れば、昔からの風習で一時期廃れたが、40年前に復活したとある。

笹竹復活の契機となった小川芋銭の句碑
・新しき 酒醸せりと 丹波路や 竹田の里に 竹立てし家
入口にある赤門は狭いですが、境内は遥か奥まで続いていました。
堂宇が広々とした空間にゆったりと点在する、人々が集う憩いの寺です。

入口にある赤門

垂木と欄間彫刻
門の柱の赤は褪せているが、こちらは鮮やかに残っている。

赤門から続く参道
上は柘榴、下は紅葉と赤尽くし。

石段を登ると見事な仁王門が

仁王門近影
明和4年(1767年)仁王尊造立、寛政7年(1795年)仁王門再建、同9年に落慶法要を行った。
鎌倉山清薗寺(かまくらさんせいおんじ)は、鬼伝説ゆかりの寺
『今から千四百年前、丹後与謝の大岳(大江山)に鬼が棲み国中に災いを与えていた。
これを憂いた用明天皇は第三皇子の麻呂子親王に征伐を命令。
親王は岩田、河田、久手、共庄の四勇士に一万騎の軍勢で都を出立。
伊勢にて神剣を授けられ駿馬を得た新王は現地へ入るが、鬼相手に苦戦を強いられる。
その時新王は七仏薬師の像を彫り兜の真向に立て出陣、首尾よく鬼たちを退治することができた。

仁王門の「鎌倉山」の扁額

仁王門下から赤門を振り返る

南北朝時代の貞和3年(1347年)奉納の銘がある石灯籠
高さ2.48m、石英粗面岩の八角形で、火袋に四仏の梵字、中台側面に散蓮華が彫られた古式ゆかしい優美なもの。

赤門から奥の本堂(薬師堂)まで建造物は一直線上に並ぶ
石燈籠の火袋を通して本堂(薬師堂)の薬師如来と目線が合う。
薬師如来に感謝した新王は勅命を仰ぎ、七ヵ所に伽藍を建立し薬師如来を安置した。
その中の一つの七堂伽藍を鎌倉山清薗寺と名付け、一山の本坊を親王院と定めたのが起こりである。
中世には広大な伽藍を有し隆盛を極めたが、明智光秀の丹波攻めの際に全焼。
現在に残る建造物はそれ以降の建築、唯一南北朝時代の石灯籠が残る。』 とあります。

薬師堂(本堂)

横から見た薬師堂
傍らにある大杉は樹齢500年を越える御神木である。

境内に掲げられた「鬼伝説」
ここは兵庫県ですが、一駅向こうの福知山は源頼光の酒呑童子退治で有名な場所。
場所も同じ大江山、四勇士は頼光四天王に酷似。
恐らく朝廷に従わない人々が居た事績が伝説となった際、頼光の伝説が遡ったというのが有力。
歴史の世界では「加上(かじょう)説」と言いますが、江戸時代大坂の町人学者であった富永仲基が
大乗仏教の研究で見出した説。学生時代、殷の紂王が敗れた牧野の戦いは
西周の幽王が犬戎に殺された事実が元になったと習いました。
【過剰な】期待は駄目ですが、一考するに値します。

薬師堂を抜けると石に山号と寺号が
左は丹波の黒豆畑。

お寺への参道

山門をくぐり寺務所へ

山門の「親王院」の扁額

山門から仁王門方面を見る

親王院を囲む白壁
入口の赤門からは仁王門、石燈籠、薬師堂(本堂)までは一直線上に並んでおり、
中央に立つと石燈籠の火袋を通して薬師如来像と目線が合います。参拝者目線で造られたのでしょう。
薬師堂にお参りした後、更に進むと山号と寺名を刻んだ石碑があり、今はこちらが清薗寺の様です。
御朱印を御願いすると大工仕事の手を停めて御住職夫人が対応して下さいました。
和辻;「ここが本堂ですか?」
夫人;「いえ、手前の薬師さんを祀っているのが本堂で、こちらは新王院です。」
和辻;「新王院とは?」
夫人;「お位牌を安置している場所ですね。法要とかはこちらでします。」
和辻;「新王院前の庭も綺麗に整備されていますね。」
夫人;「一応、枯山水様式なのですが、殆ど手入れもしないもので…。」
と仰いましたが、そんなことはありませんでした。

山門から境内を見る

親王院近影

親王院脇の庭園
但し、こちらは従。

親王院の持仏堂前の庭園
借景式の枯山水庭園で、こちらが主。
南側の土塀を低くして前方の外景を意識して見せる借景式庭園。
右の築山と左の滝石の組み合わせが見事でした。
杉苔も綺麗ですが、丹波地方は四方を山に囲まれた地形のため苔の生育には適しているそうです。

西側の土塀に比べ南側の土塀を低くして前方の借景を意識して見せる様式

隅に重点的な石組みを持って来て、前面に空間を広く採っている
中心は一番奥の守護石の立石である。

東側は築山も緩くなり、そこに十六羅漢式の感覚を持った石組みを置く

弘法大師とお地蔵様の石像
ふと見ると寺務所前に、見慣れたジブリのキャラの石彫刻が。
和辻;「これは何ですか?」
夫人;「檀家の方が、灯籠か何かをと言って下さったのですが、住職が今さら燈籠も…、とこれを彫りました。」
和辻;「燈籠の代わりにトトロですね!」
夫人;「いいえ、著作権の事もありますので、あくまで住職が彫ったキャラです。」
となかなかさばけた回答。これが今まで続く由縁かもしれません。
拝観料なども一切なし。これだけ歴史的なものがあれば、一ヵ所に集めて拝観するのも一考です。
建物の名前はやはり【夢清薗(むせいおん)】でしょうかね?

寺務所前の水琴窟

御住職が彫ったと言うキャラ

清薗寺説明書

清薗寺御朱印
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丹波竹田 → 徒歩20分 → 石像寺

正法山 石像寺(曹洞宗 丹波古刹第十一番)
昨年の秋の紅葉は丹波の紅葉めぐりで終始しました。今年も行こうと企んでいますが、
その時の「丹波古刹十五ヵ寺霊場」の中に石庭の綺麗な寺院があったので、
高揚する気持ちを抑えられず紅葉に先立ち巡礼開始。
JR福知山線は篠山口までは複線電化で30分間隔の運行ですが、そこから先は単線で60分間隔。
行き違いの待ち合わせも含めて2時間15分。兵庫県の端、福知山の一駅手前の丹波竹田で下車。
無人の駅舎を抜けて南西へ進み、西山酒造場を西へ。175号線を越えると
正面の山の中腹に10mを越える巨岩群れが屹立。目指すお寺はその麓にあります。

JR福知山線丹波竹田駅舎

175号線バイパスを越えると山の中腹に磐座が

石像寺入口に到着
但し徒歩の場合は、ここ脇門になる。

改めて正門から入山

時期は早いが参道の紅葉も中々のもの

参道の先にある総門
扁額には「正法山」の文字が。
正法山石像寺(しょうほうざんせきぞうじ)は、
『斉明天皇の元年(655年)、天竺より渡来した法道仙人の創建と伝わる古刹。
裏山の磐座はその雄渾さでも全国で屈指。太古の昔より人間は自然を崇拝し石を神格化してきた。
当寺についてもこの磐座を神と見做して麓に寺を建て、当初は磐座寺(いわくらじ)又は
岩蔵寺と称したものが後世に石像寺に転化したと思われる。

総門に続く石段
石標には「四神相応之庭」とある。

石段途中から見る寺院の石垣

石段の先に建つ中門
奥に見えるのが本堂

本堂正面

本堂の扁額
この寺院も戦国の例に漏れず、天正7年(1579年)明智光秀の丹波攻めの際の兵火に拠って全山烏有に帰した。
慶安元年(1648年)の秋、氷上郡幸世村の圓通寺から透関本徹大和尚が入山し寺院を再興。
その際に曹洞宗に改宗し現在まで二十五世を重ねる。
境内は庭園でも知られ、本堂西には江戸初期の池泉の庭。
北側には中興開山・透関本徹の作庭に拠る江戸中期の蓬莱の庭がある。

本堂の坐禅堂の奥に見える庭園

本堂の西(向かって左側)の池泉の庭
江戸初期の作。

江戸初期の庭全景
滝は竜門瀑形式の石組で、北部には洞窟がある。

江戸初期の庭の横にある池
周囲は紅葉の名所。

本堂北(向かって右)の中興開山・本徹の庭
こちらは江戸中期作庭の蓬莱の庭で、心字池には舟石、亀石を配し、裏山の借景を取入れた湖畔の趣である。

蓬莱の庭の出島にある小川芋銭の句碑
・鷹鳴いて 蘭若の秋の 晴に坐す

出島から見た蓬莱の庭

庫裏から裏山に続く道

裏山から見た蓬莱の庭
それにも増して有名なのが本堂前の四神相応の庭。
昭和の作庭家・重森三玲氏が背景の磐座から発想したもので昭和47年(1972年)春の作庭。
都を守る四神の着想から東西南北に四神を配したもので、
具象と抽象が一体化した日本庭園として類を見ないものである。

本堂前にある四神相応の庭
坐禅堂からの眺め。右奥が庫裏。

これは北を表す玄武

これは東を表す青龍

これは南を表す朱雀

これは西を表す白虎

白虎越しに見る本堂

本堂前から白虎と中門を見る

朱雀と白虎の向こうにあるのは坐禅堂
また氏は塀脇に句碑を中心とする霧海の庭も同時に作庭。
従来あった地元出身の俳人西山泊雲と彼と親交のあった高浜虚子の句碑があった場所に、
俳句の五・七・五に因んだ十七石を配し、丹波の霧海を阿波名石と白砂で表現したものである。
この庭も平成26年(2014年)の丹波豪雨で土砂が流れ込む甚大な被害を受けたが、3年後に復興した。』
とあります。

雲海の庭
句碑を中心とする詩碑の庭で、従来の句碑の概念を打ち破った。

雲海の庭にある泊雲句碑
当地出身の俳人西山泊雲は高浜虚子と親交があり、これは泊雲没後の昭和22年に建立された。

雲海の庭(西側)

雲海の庭(西端)
早朝に出発したので寺に着いたのは8時半。通常9時から拝観の場所が多いですが、
開門していたので境内に入って庭を見学。拝観料は不要でした。
通常、観光寺院の庭と言えば江戸以前のものが多いですが、ここは昭和。京都で活躍した重森氏が
こんな離れた場所に作庭したのは、この地の自然に是非とも惹かれるものがあったからでしょう。
我が国では各地に磐座がありますが、遠くからでも一望できるのは少なく、記憶している限りでは
近江の太郎坊宮くらいでしょうか。ここに皆の信仰が集まったのも当然と言えます。

砂防工事中の裏山

砂防壁の向こうに見える磐座
今は近づけず、残念。
御朱印を拝受すべく訪問すると丁寧に対応して下さいました。9時前にも拘らず本当に頭の下がる思いです。
御住職夫人の話では、
夫人;「台風被害でここまで土砂が来たのですよ。」
と当時の写真を見せて頂きました。
和辻;「磐座はどうもなかったのですか?」
夫人;「大丈夫でした。」
和辻;「では近くまで見に行けますね。」
夫人;「裏山では砂防工事中なので駄目です。」
との事でした。
自然への崇拝と恐怖は紙一重。昨今は台風被害が酷いですが、
土砂崩れは山林の樹木を一斉に伐採する事で引き起こされるもの。
復興できる程度の被害で済んだのは磐座が守って下さったからでしょうか?
今一度、自然との共生を真剣に考える【ししん】にしなければなりません。
こうして早朝から【自身相応】?な庭を見て巡礼終了。
ミレーの落穂拾いも良いですが、三玲の庭も捨てがたいものがありました。

石像寺縁起

石像寺御朱印
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:12) → (岐阜バス・岐阜関線) → 関シティターミナル(10:00)
長良川鉄道関駅 → レンタサイクル60分 → 高澤観音 → レンタサイクル20分 → 吉祥寺 → レンタサイクル30分 → 立蔵寺 → 長良川鉄道関駅
【復路】関シティターミナル(15:30) → (岐阜バス・岐阜関線) → JR岐阜(16:21→16:49) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

玉樹山 立蔵寺(曹洞宗 美濃西国三十三観音第三十二番札所)
札所二ヵ寺巡礼を終えて関駅までレンタサイクルを返却。
しかし、頂いた札所案内を見ると駅近くに32番札所がある様子。
時間も少し余裕があったので住所表記を見ながら探すと、以前に訪れた関善光寺の直ぐ前にお寺はありました。

道路に面した入口

門前から東を望むと関善光寺が視界に
玉樹山立蔵寺(ぎょくじゅさんりゅうぞうじ)は、
『宝永2年(1705年)、肥前龍泰寺23世の古谷如神が関市倉知にあった龍蔵庵をこの地に移し、
玉樹山龍蔵寺としたのが嚆矢。
後の嘉永3年(1850年)、龍泰寺36世の弘道辨玉が山号を玉樹山、寺名を立蔵寺と改めた。
本尊の聖観音菩薩は元来、高山寺にあったもの。
戦国時代の合戦で、この寺の鐘を打ち鳴らしていた所、敗軍の土岐頼芸が
「時を打つ【土岐を討つ】とは何事か!」
と憤り、高山寺に火をかける。伽藍は焼失したが、
本尊のみは焼けずに灰の中から現れたと言われる。』 とあります。

山門近影
奥に見えるのが本堂

正面から見た本堂
但し内陣には入れず、外から参拝。

敷石に彫られた家紋
これは開祖・道元禅師の実家・久我内大臣家の家紋。

本堂前から境内を見る
境内は関駅のすぐそば。山門の右手の高台には関善光寺が聳え、札所は見下ろされている状態。
善光寺の駐車場には車が停車していますが、ここは私一人。札所とはいえ、観光寺院ではないためでしょう。
そういえば以前に新長谷寺を訪れた時も私一人。【美濃一人だに無きぞ悲しき】状態でした。

本堂左手にある川崎弘法大師の分祠

立蔵寺御朱印
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<コース>
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:12) → (岐阜バス・岐阜関線) → 関シティターミナル(10:00)
長良川鉄道関駅 → レンタサイクル60分 → 高澤観音 → レンタサイクル20分 → 吉祥寺

神宮山 吉祥寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三観音第二十三番札所)
昼食の後は津保川を1㎞遡った道の駅に立寄り。この日のメインである一番札所巡礼を無事終えたので、
土産を買った後は再び関駅まで引き返すだけですが、納経所で対応下さった住職夫人が、
夫人;「自転車で戻られるのでしたら、途中に二十三番札所がありますよ。」
和辻;「分かり易い場所ですか?」
夫人;「ええ。小学校の横を通り美濃市へ向かう道を少し入った場所です。」
との嬉しいお知らせ。
美濃西国札所のガイド等は販売されていませんが、御親切にも観音霊場の札所マップを拝受。
巡礼では人の情けが身に沁みます。
58号を走ると途中の畑の横に札所の道標が建ちますがそこではなく、更に数百m行った先の交差点を右折。
立て看板に従い少し坂を上った小高い場所が目指す寺院。

58号線沿いに建つ道標
でもここからはまだ遠い。

坂を上った先にある吉祥寺
神宮山吉祥寺(じんぐうさんきちじょうじ)は、
『暦王元年(1338年)、美濃の太守に招かれた峰翁祖一(ほうおうそいち)が、
臨済宗建長寺派寺院として開いたのが嚆矢。峰翁禅師は興国4年(1343年)よりここに住持した。
その後、衰頽するが承応元年(1652年)に市内にあった梅龍寺の善仲が再興に動き、
元禄7年(1694年)になって梅龍寺七世の大徹法源が妙心寺派の寺院として再興した。
7年後の元禄14年に火災に見舞われるが、延享2年(1745年)に堂宇は再建。
現在の堂宇は昭和56年になって再建されたものである。』 とあります。

山門らしきものはなし

境内の様子
高台のため広大な敷地といった雰囲気ではない。

本堂正面
工事中のため、リモート参拝。
周囲には家は無く孤高の禅宗寺院といった感がありますが、威圧感を感じないのは伽藍が新築されたからでしょう。
この日も、本堂は改修中なので、内陣には入れず。外からのお参りとなりました。
御朱印を拝受した際に頂いた資料に拠れば、
「明智光秀の先祖の内、7代前の頼秋が神野と小瀬を支配し、4代前の頼定が美濃武儀郡神野に居住した。」
と記録されているとか。明智氏に関しては父親の異なる複数の家系図が存在しており錯綜していますが、
明智氏の所領として関市を中心とした中美濃である武儀庄(むげのしょう)が古文書に記録されており
【無碍】には否定できないでしょう。

玄関の唐破風
御朱印はここで御願いした。

本堂前の鐘楼と地蔵尊

頂いた資料
お寺の案内という訳ではない。
吉祥寺の寺紋は土岐氏や明智氏と同じ桔梗紋。
偶然といえばそれまでですが、土岐氏との繋がりを感じます。
明智光秀が都に上って歴史の表舞台に登場したのもお寺の【吉祥】の力が預かったのかもしれません。

玄関正面の瓦にも桔梗紋が
うっかり見逃したので、資料の写真を載せた。

吉祥寺御朱印
横の線がほぼ同じ角度で右上がりになっている幾何学的書体である。
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大日山 日龍峯寺(高野山真言宗 美濃西国三十三観音一番札所)
以前、郡上八幡に行った際に関市にある清水寺のような舞台造の寺のポスターが目に入り、
早速JR西日本の休日きっぷ(2日間;¥4500)を使って美濃までお出かけ。
当初は初日に「卯建の街」美濃市に行く予定でしたが、施設の関係で関市の寺院に行先変更。
関市ならば長良川鉄道の駅があり、岐阜駅から直通バスもあるので楽勝と思いましたが、
なんと市街地から12㎞も山奥でバスも1日4本のみ。

高澤山観世音道標
津保川沿いの58号線を行くと左手に見えるが、目立たないので通り過ぎそう。
観光案内所とバス営業所の方に確認して貰い何とか自転車で行けそうな事が判明。
期待と不安を抱えながら国道58号を長良川支流の津保川(つぼがわ)に沿って遡り50分でバス停に到着。
この道は「平成こぶし街道」と呼ばれています。
そこから更に坂を上る事10分で漸く門前に到着。細く暗い山道を上った幽谷の場所は
いかにも古寺巡礼に相応しい場所。このときだけは電動に感謝しました。

高澤観音への道

入口の駐車場からの眺め

入口にある由緒記
大日山日龍峯寺(だいにちさんにちりゅうぶじ)は、
『寺伝に拠ると岐阜県下最古の寺で、美濃西国三十三ヵ所第一番札所。
海抜283mの高澤山の山頂に位置するため通称高澤観音、
また本堂が舞台造りであるため、美濃清水の異名でも知られる。

駐車場から進み門に到着
正面が納経所と庫裏であるが、ここは裏門になる。

表参道に建つ仁王門

仁王門脇にある境内案内図

仁王門から本堂へと続く表参道
右手に小さな滝が見える。
開創は5世紀前半。飛騨の国に両面宿儺(りょうめんすくな)と言う豪族が居て権勢を誇っていた。
その噂が天皇の耳に入り宿儺は都に上り天皇に謁見。その帰路、美濃加茂野ヵ原で休憩中、
どこからともなく二羽の鳩が不思議な囀りをした後、高澤の峰に飛び去った。里人に尋ねると、
「高澤の山脈に池あり、神龍住みて近郷の村人に危害を及ぼす。」
との事。宿儺は峰に上り大悲の陀羅尼を唱えて神龍を退散させ、その後に寺を建立したという。

参道を上った場所から見た本堂(左)と籠堂

高澤観音のシンボル本堂
間口6間、奥行5間の入母屋造、高澤山中腹の岩上傾斜地に建てられている。北条政子の寄進であったが応仁の乱で焼失、現在の物は寛文10年(1672年)の築である。

本堂へと登る階段
手前の石塔は鉈尾山城主佐藤方政公と家臣のもの。

石塔群の説明
これは多分に伝説的だが鎌倉時代に中興。北条政子の時代に、天下は旱魃に見舞われた。
その時、政子の夢に神龍が現れ、
「日龍峯寺の池に法華経を書写・供養すれば多雨忽ち降りなむ」
と言って池に消えた。
出家していた政子は沙門に命じて法華経を納めると、忽ち霊雨が降り五穀が実った。
将軍家からはその謝礼として荒廃した七堂伽藍を再建、寺領八十町歩を賜った。

本堂への階段を上る

本堂の舞台造り
これは内側からの撮影。

本堂内部
正面には千手千眼観世音菩薩、脇仏は毘沙門天・不動明王、東側には寺開創の両面宿儺、西側には弘法大師を祀る。

本堂からの眺め
京都の清水はいつもごったがえしているが、美濃の清水は独りで悠々と眺望が楽しめる。

本堂前にある千本桧
樹高20m、根本周り3mの巨木。根元より分かれた枝葉は両面宿儺が登山の折、杖として使用された枝が群立したと伝わる霊木である。

本堂に掲示された御朱印案内(3種類)

みたらしの霊水
本堂裏手の洞窟から湧出。1333年建立。

霊水の奥にある宝篋印塔
源頼朝を分骨埋葬したと言われる。

霊水の販売
その伽藍も応仁の乱で焼失、江戸時代なって再建された。
唯一、焼失を免れた多宝塔は将軍家建立になる唯一の建造物で
鎌倉時代を代表する重文である。』 とあります。

本堂横に建つ籠堂
文化3年(1806年)の建立で、修行僧や参詣者が堂内に籠って修行する場である。

籠堂の奥にある洞窟
当初はここに籠って修行したのでは?

本堂横の階段を上り多宝塔へ

下から見上げた多宝塔の裳階

重文・多宝塔
北条政子の寄進で、応仁の乱でも唯一焼失を免れた。

多宝塔を過ぎて境内の奥へ
両面宿儺は顔が二つ、手が四本ある剣術の達人。そんな阿修羅男爵の様な豪傑が居たかどうかは兎も角、
古代に辺り一帯を治めた人物が居たのでしょう。
数百坪に及ぶ境内は古木が鬱蒼と茂り観音霊地に相応しい場所ですが、本堂からは遥か平地が見渡せる事、
本堂裏手には今も清水が湧出している事が、ここに寺を建てた根本的な理由だったのではないか。
一番札所に選ばれたのも当然な気がしました。

薬師堂

不動堂
左奥に見えるのは薬師堂。

鐘楼
境内の最も高い場所にある。

日龍峯寺説明書

日龍峯寺オリジナル朱印帳
落ち着いた図案であるが、¥1000は良心的。

美濃西国三十三ヵ所御朱印

多宝塔御朱印
拝観を終えると13時前。「ここから市街地まで戻ると、飲食店も昼休憩か。」と諦めかけていると
「津保川うなぎ街道」の幟が…。参道入口脇にあった「丸登屋」さんで無事昼食。
創業100年以上の地元では知られた店。焼きは関西風で甘めのタレ。
丼でしたが二段重ねで肝吸いまで付いて¥2200はお得。決して【量目少な】ではありませんでした。
うだつは上がらなかったですが、ウナギを食べて最後はあがり。
これも【平成】の行いの賜物と12㎞走った御褒美と自分なりに納得。
刃物の町である関市はウナギの名店も多く【美濃一つだに無きぞ悲しき】とはならず。
美濃札所巡りは【つぼ】にハマったようです。

うなぎ街道の幟

昼食は「丸登屋」さんにて
食事は左の建屋で、右は旅館だが今は休業中とかで残念。

街道沿いの看板
中々いいキャッチフレーズだと思うが…。

鰻丼 ¥2200

更に遡ると「道の駅 平成」が
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JR西舞鶴 → 徒歩5分 →田辺城址 → 徒歩5分 → 桂林寺 → 徒歩5分 → 朝代神社 → 徒歩2分 → 円隆寺
JR西舞鶴(10:58) → JR東舞鶴(11:04→11:06) → JR青郷(11:19) → 徒歩30分 → 中山寺 → JR青郷(14:07) → JR東舞鶴(14:22) → 徒歩10分 → 赤煉瓦倉庫群
【復路】JR東舞鶴(15:18) → JR綾部(15:53→16:07) → JR園部(17:12→17:16) → JR京都(17:53→17:59) → JR大阪(18:27

赤れんが倉庫群
奥には東港停泊中の自衛艦。
青葉山の参拝を終えて小浜線に戻って東舞鶴へ。ところが舞鶴線への接続が悪く50分待ち。
舞鶴線と小浜線は線路も続いており共に電化。舞鶴線は1999年、小浜線は2003年ですが、
直通特急が運転されるわけでもなく山陰・北陸から乗入れる電車もなし。
一体何のための電化なんか?と思いながら、次の電車まで駅周辺を散策。
午前中に訪れた商港西舞鶴に対しこちらは軍港。江戸時代には西港程の栄はありませんでしたが、
『明治22年1889年に舞鶴鎮守府が設置されると横須賀・呉・佐世保と並ぶ軍港となり、軍港都市として発展。
一方、西港が民間に開放され鉄道連絡船の基点となった。

北吸隧道
JR東舞鶴から赤れんが倉庫群へ向かう途中にある。ここはかつての国鉄線路跡を遊歩道にしたもの。

トンネル入り口にある舞鶴市マンホール蓋

四面山を抜けた場所から隧道を振り返る
戦後、舞鶴港は引揚港に指定され、昭和20年(1945年)10月7日に第一船の雲仙丸が入港。
初めは西港だけであったが、1946年12月からは東港も使用され以後、66万人が祖国への第一歩を記した。
市役所西には旧海軍時代の赤煉瓦倉庫群がある。
これは明治34年(1901年)に旧海軍の魚形水雷庫として建造されたもので、
現在は各倉庫群を用いた商業施設となっている。』 とあります。

遊歩道脇に立つ「東門」駅表示
かつてここを線路が走っていた。

駅表示の説明

駅表示の前にある遊歩道
私達の世代には舞鶴と聞くと『岸壁の母』。
「港の名前は舞鶴なのに、何故鶴の様に舞い戻ってはくれぬのか!」
と言う二葉百合子さんの名台詞がすぐ浮かびます。
戦争の悲劇は後世まで伝える義務がありますが、今は専ら平和利用。赤れんが博物館もありますが、
地元の名産も販売。海軍所縁の地らしくカレーが人気。
元々、航海中の船員が曜日の感覚を忘れないために金曜日にはカレーを出したのが始まり。
加えて、舞鶴鎮守府に赴任した東郷平八郎がイギリスのビーフシチューを元に肉じゃがを作ったので、
色々なバージョンがあります。まさに【華麗】なるレシピです。

赤れんが倉庫群入口

舞鶴市マンホール蓋

舞鶴市マンホールカード
配布場所は舞鶴赤れんがパーク。
午前中は西舞鶴、午後からは東舞鶴と時間も街並みも異なりますが、どちらにも共通するのが歌。
それを繋ぐのが赤【連歌】といった所でしょうか?
こうして東西舞鶴を鑑賞したあと、【かえり船】となりました。

赤れんがパークにて

赤れんがパークの先にある舞鶴港

JR東舞鶴駅スタンプ
(上)国鉄時代 (下)2008年設置 福知山支社印
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丹後本 ひ・み・つの丹後本 丹後人が教える京都・丹後半島ローカルガイド 新品価格 | ![]() |

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JR西舞鶴(10:58) → JR東舞鶴(11:04→11:06) → JR青郷(11:19) → 徒歩30分 → 中山寺 → JR青郷(14:07)

青葉山 中山寺(真言宗御室派)
西舞鶴散策の後は舞鶴線の終点東舞鶴で舞鶴線から小浜線に乗換え福井県に入ってすぐの青郷駅で下車。
舞鶴線と小浜線は連続しており、どちらも電化区間ですが、東舞鶴から小浜方面への乗換となると途端に本数が半分に。
電化の際には京都や大阪から直通の特急が出るかと期待しましたが、それもなし。
若狭方面は関西でも海水浴や釣りのメッカ。大半の人は自家用車ですが、もうちょっと何とかならんのでしょうかね?

JR小浜線青郷駅
列車本数は少ないが、ロッジ風駅舎の有人駅である。
正面に見える標高699mの青葉山は別名「若狭富士」。丹後と若狭の境界をなす秀麗な容姿ですが、
この西の中腹にあるのが西国三十三ヵ所第二十九番札所松尾寺。そして東側の中腹にあるのが今回訪問する中山寺。
共に同じ青葉山の山号ですが、御本尊が馬頭観音というのも同じ。
山の中にあって中山寺とはそのままですが、私も【若さ】には縁遠くなって来たので躊躇していました。
今日は他に所用もあり、駅から坂道を30分。

青葉山雄姿

山門前に到着

山門近影

山門(仁王門)に安置される重文・金剛力士像 (境内の説明板)
平成3年にロンドンの大英博物館で一般公開され西洋の人々に絶賛されたとか。
青葉山中山寺(あおばさんなかやまでら)は、
『天平8年(736年)、聖武天皇の時代に白山開山で名高い泰澄(たいちょう)が開創。
創建当時は釈迦・阿弥陀・観音の三尊像を安置していたと縁起にある。
鎌倉時代になり天台僧の覚如法印が寺名を一乗寺と改め、馬頭観音坐像を本尊として再興。
室町時代になって今の中山寺に改称した。

山門から石段を上り境内へ

石段の先に本堂が見える

境内の様子
本堂の奥の道路を進むと直ぐに野外施設「青葉山ハーバルビレッジ」がある。

由緒記
本堂は桁行・梁行共に5間の入母屋造檜皮葺で内部を内陣・外陣・脇陣に分けた
密教系本堂の構成を持つ重要文化財。室町時代の康永2年(1343年)の建立である。
本尊馬頭観音は秘仏。檜の寄木造で79.3㎝、鎌倉時代の重文とされ湛慶の作と伝わる。
境内からは若狭湾が一望でき、このような場所に寺院が建立されたのは、
当時の若狭と大陸との交易の産物であったと考えられる。』 とあります。

重文・本堂

本堂拝観は左の扉から

本堂前面の蔀戸
北陸観音霊場では発願、若狭観音霊場では結願の名刹である。

本堂の檜皮葺と木鼻、垂木
山門から中に入り石段を上ると重文の本堂が正面に。成程、中世の構造というのがぴったり来ます。
見学した後、御朱印を拝受すべく寺務所へ向かうと、「拝観受付」の文字が。
伺うと本堂内陣で参拝できるそうで、¥400を支払って御住職夫人から説明を受けました。
本尊の御開帳は2029年だそうですが、脇立ちの不動明王・毘沙門天は間近で拝観できました。
山門前、境内の端に立つと由緒通り若狭湾が手に取るように見て取れます。
小浜が貿易港として発展したのは南北朝時代以降ですが、港としての機能は随分昔からあったようです。
その理由の一つが若狭富士という呼び名。古代では陸地を見ながらの航海ですが、
富士と呼ばれる秀麗な姿は遠くからでもはっきり見えたに違いありません。

重文・馬頭観音像 (境内の説明板)

本堂前の鐘楼と杉や椎の巨木群

御朱印は本堂横の持仏堂にて
阿弥陀如来坐像、曼荼羅、孫文・魯迅の書など所有しているが、内部は拝観できず。

境内から見た若狭湾

中山寺説明書 (拝観時に拝受)

中山寺御朱印
もう一つは馬頭観音。中山寺はじめ青葉山西側の松尾寺、東の高浜町の馬居寺、
上中町の天徳寺と馬頭観音を本尊とする寺院が犇めきます。本堂拝観時に伺った話では、
「高浜の奥にいた漁師が海で遭難した際に、材木にしがみついて命を救われました。
その木が馬になって漁師を陸地まで運んだという伝説が残っています。」との事。
同じ本尊を祀る寺院が点在するのは、同じような信仰形態が付近に存在した証左でもあります。
材木が馬に変わったかどうかどはどちらでも良い話です、と言っては観音様に【罵倒】されそうですが…。

高浜町マンホール蓋

高浜町マンホールカード
配布場所は高浜町上水道センター

旧丹後街道沿いに建つ菓子司「大次郎」
看板と店の造りに惹かれて立寄り。

帰りの車中でのおやつ
「六方焼」「大次郎餅」が売れ筋の双璧だそう。いずれもサッパリした甘さ。

青郷郵便局 ; 重文・中山寺本堂、馬頭観音坐像、青葉山
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JR西舞鶴 → 徒歩5分 →田辺城址 → 徒歩5分 → 桂林寺 → 徒歩5分 → 朝代神社 → 徒歩2分 → 円隆寺

慈恵山 円隆寺(真言宗御室派)
朝代神社に隣接して直ぐ南には大きな伽藍が見えますが、そこが円隆寺。
参拝後は朝代神社に続く北側から入りましたが、正式には駅から西進して
高野川を渡り、東側に向いた総門から入るようです。

高野川に架かる橋上から
奥に見えるのが円隆寺総門。

入口へ到着

総門近影
扁額は「慈恵山」。
慈恵山円隆寺(じけいざんえんりゅうじ)は、
『長徳年間(995~999年)、谷の阿闍梨と呼ばれた皇慶上人の開山で、
上人に帰依した土豪田辺小太郎が寄進したと伝わる。
最盛期には寺域5町・僧坊70余りに及んだが、文禄4年(1595年)の山津波で4坊を残して壊滅。
その後、藩主牧野氏の援助で復興したものの、享保17年(1732年)の大火で全焼。
1737年より再建を始め、天明6年(1786年)まで50年をかけて、
鎮守堂・多宝塔・総門・鐘楼・本堂の順に復興した。

本堂正面
桁行5間・梁間5間の入母屋造。

木立の向こうに見える多宝塔

間近で見上げた多宝塔
遠くでは分かり難いが、赤色が強い。

亀腹と言われる部分まで瓦葺である
本堂は桁行5間・梁間5間の入母屋造で本尊・阿弥陀如来坐像、
脇侍の木造釈迦如来坐像・薬師如来坐像を安置している。
いずれも信者が火災から守ったもので、平安時代作の重文である。』 とあります。

本堂脇を抜けると寺務所への階段が

階段から本堂を見返る

寺務所への入口は御成門とある
階段を上った先には非常に大きな本堂が。なんでも御本尊は丹後大仏と呼ばれる程なので、
大伽藍が必要だったのでしょう。本堂前から南側に木々に隠れるように見えるのが多宝塔。
この付近では珍しいとは思いますが、亀腹と言われる部分まで瓦葺にしたユニークな造りでした。
一見して鱗にも見えましたが、眼から鱗ならぬ屋根から鱗でした。

御成門からの景色
ここは拝観コースではないが、綺麗に整備されている。

寺務所庭園
但し、立ち入り禁止となっている。

御成門の右奥にあるのが鎮守堂か?

円隆寺御朱印

舞鶴引土郵便局 ; 重文・円隆寺阿弥陀如来坐像、田辺城址、愛宕山
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JR西舞鶴 → 徒歩5分 →田辺城址 → 徒歩5分 → 桂林寺 → 徒歩5分 → 朝代神社

朝代神社(旧府社)
桂林寺参拝の後は南にあるもう一つの寺院に向かいますが、その手前に由緒ありそうな神社があったのでお参り。
朝代(あさしろ)神社は
『天武天皇の白鳳元年(672年)9月、淡路国少宮(わかみや)を遷座したのが始まり。
御祭神は伊弉諾(いざなぎ)尊である。江戸時代には朝代大明神と称し、
田辺城下の氏神として歴代藩主の崇敬篤く、神輿・鳥居の奉納が続いた。
享保17年(1732年)の大火で類焼したが、元文9年(1739年)に本殿が再建。
昭和3年には府社に昇格し、「朝の参りは朝代さまよ」「日毎夜毎の朝代参り」
と歌われるなど、今に伝わっている。』 とあります。

鳥居前の歌碑
地元出身の歌人・西村尚氏の作。

社記

二の鳥居の奥の石段を上り境内へ
丁度、宮司さんが登って居られる所に遭遇。
道沿いの石鳥居が直ぐ目に入りますが、それに続く細道を南へ行くと江戸時代に建てられた御本殿。
地元の方々が朝から掃除されていました。流石【朝しろ】神社と呼ばれるだけの事はあります。
丁度、宮司さんが七五三の行事のため石段を上られる場面に遭遇。近くに社務所はなさそうなので、
別の所から通って来られるのでしょう。朝代わりだけではないとは思いますが…。
参拝を済ませて参道を戻ると、脇に広い境内と伽藍が…。
掃除の方に尋ねると、「あれば円隆寺です。」との答え。次に向かう寺院はすぐそばでした。
寺と比較すると神社は狭く感じますが、別段【えんりゅう】した訳ではないでしょうが…。

拝殿前にて

境内奥の本殿から拝殿方面を見る

本殿近影

本殿の彫刻
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