<コース> 冬の青春18きっぷ使用
【往路】JR天王寺(6:35) → JR加茂(6:53→6:55) → JR亀山(8:16→8:23) → JR伊勢市(9:56)
近鉄伊勢市(11:12) → 斎宮(11:28) → 平安の杜 → 斎宮(12:28) → 松阪(12:41→12:48) → 四日市(13:25) → 近鉄四日市(14:54) → 東一身田(15:28)
【復路】高田本山(16:28) → 伊勢中川(17:21) → 近鉄桜井(18:31→18:43) → JR王寺(19:22→19:29) → JR大阪(20:08)

さいくう平安の杜
通常ならば正月に初詣ですが、巷は分散型を推奨しているので、一足早く初牛鳴(モー)出に伊勢国へ。
といってお伊勢さんは三密でしょうから、松阪と伊勢の中間の明和(めいわ)町。
とりたてて寺社はありませんが、かつての斎宮(さいくう)跡。近鉄山田線の東側にある広大な空間が
斎宮跡で公園になっており、平城京跡にも通じるものがあります。

近鉄電車斎宮駅ホームより東を望む
遥か向こうに「斎宮」の看板が見える。

神社を象った斎宮駅舎
現在は無人駅。

斎宮駅スタンプ
四半世紀以上前の有人駅時代に押印したもの。
古代(天武天皇)から中世の室町期まで、天皇の代行者として未婚の皇女の斎王(さいおう)が伊勢神宮へ奉祀した場所。
斎宮の役所であった斎宮寮の長官の元、儀式や饗宴に使用されたとされる正殿・西脇殿・東脇殿の三棟が復元されていました。
年末なので当然休館だったので、外から遥拝。来年は町名に肖って【めいわくなく明るく和やか】になって欲しいものです。
周りからは寒風と牛の鳴き声が聞こえてきました。

駅から続く平安時代の復元道路

道路から見た復元建物

正面に建つ正殿
斎宮寮の中心的な建物で、入母屋造・檜皮葺。床面積 94.5㎡、高さ 7.97m。

西脇殿
大人数の儀式などに使用した建物で、切妻造・檜皮葺、東面庇板葺。床面積 162㎡、高さ 7.59m。

東脇殿
儀式の準備等に用いられ、切妻造・檜皮葺、東面庇板葺。床面積 89.86㎡、高さ 5.86m。
参拝を終えて帰阪しようとすると紀勢線が強風でまさかの運転見合わせ。
近鉄の駅まで歩いて、伊勢中川から大阪線で帰阪となりました。18きっぷは使えませんでしたが、
代行輸送があったので、余分にかかったのは¥1000円程度。関西本線経由より却って帰宅は早くなりました。
「人生万事【斎王】が丑」です。皆様、どうか良いお年を…。

明和郵便局 ; 竹の都へいあん斎宮の杜、町花ノハナショウブ、めい姫
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<コース>
【往路】新大阪(6:06) → (ひかり501号) → JR新山口(8:38→9:13) → JR湯田温泉(9:31) → 徒歩5分 → 井上公園 → JR湯田温泉(9:58) → JR山口(10:02)
山口駅前レンタサイクル → 市内観光 → 山口駅(13:33) →JRバス → 萩・明倫センター(14:5) → 明倫館 → 徒歩5分 → 長寿寺・海潮寺 → 徒歩5分 → 野山獄跡 → 常念寺 → 徒歩10分 → JR東萩駅(16:58) → JR益田(18:10)

長栄山 不断光院 常念寺(浄土宗)
獄跡を少し南下すると道に面して大きな山門が見えます。これがこの日最後の巡礼先の常念寺。
長栄山不断光院常念寺(ちょうえいざんふだんこういんじょうねんじ)は、
『天文元年(1532年)、吉見氏の家臣であった安部家貞が開基となり、単蓮社信誉上人を開山として創建。
安部氏の法名であった常念を採って寺号とした。
当初は現在地より北に位置し、萩築城の際には藩主輝元が常念寺を宿舎とする。その縁で表門が寄進された。
これは京都聚楽第の裏門であった四脚門で、輝元が秀吉より拝領したもの。
桃山時代を代表する建築として重要文化財となっている。

西方に開かれている常念寺

重文・表門
江戸時代には総本山知恩院の命に拠り防長二ヵ国の触頭(ふれがしら)となった。
寛文9年(1669年)、類焼を受け堂宇を焼失したが、毛利家の援助を受け現在の場所に移転。
本堂は寛文11年に再建され今に伝わっている。
本堂の中には十六羅漢が祀られており、その11体には元治元年(1864年)京都禁門の変で戦死した
萩市勇隊の隊士16名の内、14名の法名が記されている。平均年齢23歳、法名と共に
「元治元年甲子七月十九日於京師戦死」の札が全てに立てられている。』 とあります。

境内から見た表門
両袖に潜り門が付けられているのが分かる。

正面から見た表門
表門は切妻本瓦葺で控え柱を持った桁行3.66m、梁間3.12mの四脚門で、両袖に潜り門が付いていました。
天下人から萩藩主、そして当寺と流転していますが、重文の決め手となったのは、
門に彫刻された狛犬であったと言うのも不思議な話です。
一方の羅漢は由来も定かでなく、何故14名の名が記されているのかも分からないそうでした。
明治半ばまでは、七月十九日に焼香する人がいたそうですが、昭和に入ると全く途絶えたとの事。
長州藩からは維新の元勲が輩出しますが、その過程で流された若い血も忘れてはいけないでしょう。

表門にある狛犬 (阿像)
一説では左甚五郎の作とされる。

同じく狛犬(吽像)
境内を見ていると、小中学生と頭巾を被った母親と祖母らしき人が戻って来られました。
和辻;「お寺の方ですか?」
母親:「そうです。」
和辻;「御朱印を御願いできますか?」
母親;「暫くお待ちください。」
暫くすると戻って来られましたが、頭巾を外した姿は法体姿。
和辻;「ここは尼寺ですか?」
祖母;「いいえ、先代が数年前に亡くなり、孫は未だ小さいので新たに僧侶の資格を取りました。今は小僧都です。」
と庭で遊んでいる小学生の男子の方に目を遣られました。
御主人が亡くなっただけでも大変な状況ですのに、その上僧侶の資格をとるとは並々ならぬ事。
維新を支えた人の【情念】は今にも受け継がれているのを実感しました。

寛文11年再建の本堂

本堂の「長栄山」の扁額と向拝の彫刻

常念寺御朱印
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両側に寺が並ぶ
萩城址からJR東萩駅まで続く通り。
寺院の密集する地区から東へ向かうと道を挟んで両側に石碑が建った場所があります。
そこが史跡野山獄・岩倉獄跡で、
『正保2年(1645年)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組・禄高200石)は酒に酔って、
道を隔てた西隣の藩士・野山六右衛門(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。
この事件の後、両家は取り潰され屋敷は藩の獄となった。野山獄は上牢として士分の者を、
岩倉獄は下牢として庶民を収容した。尚、現在の指定地は獄の一部である。

道の西側にある野山獄跡

野山獄・岩倉獄略図
幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられた。
金子は牢死し、岩倉獄跡にはその死を悲しんで松陰が詠じた詩碑及び
萩出身の首相田中義一の手になる牢死の場所を示す石碑が建つ。
一方、野山獄には11烈士碑やその絶命の場所を示す石柱が建てられており、
11月の第一日曜には町内会に拠って両獄所縁の人々の慰霊祭が行われている。』 とあります。

こちらは東側の岩倉獄跡

岩倉獄跡説明碑
喧嘩両成敗が武士の常とはいえ、切り込んだ岩倉家は兎も角、被害者の野山家も取り潰しとは、酷な話。
説明では分かりませんが、一体どんな経緯があったのでしょうか?
悲惨な成り立ちの両獄ですが、幕末に活躍した人には結構縁があります。既述の吉田松陰の他、
高杉晋作は脱藩の罪で、明治政府の参議となる広沢真臣は反対派の弾圧で入牢しています。
入牢した事が己に箔を付けた訳ではありませんが、
それくらいの気概がなければ維新の大役にはなれなかった証でもあります。
今は石碑が建つだけですが、これを監獄ロックと呼ぶかどうかは定かではありませんが。

吉田松陰が詠じた詩碑(左)と田中義一首相の手になる石碑
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総源山 海潮寺(曹洞宗)
(左)本堂、(右)庫裏
古風な長寿寺のある通りからほんの少し北へ行くと対照的な大きな山門が目に入ります。
総源山海潮寺(そうげんざんかいちょうじ)は、
『応永15年(1408年)、不見明見を開山として石見の温泉津に創建された温津山海蔵寺が嚆矢。
第12世大佐の慶長12年(1607年)、毛利輝元の防長移封に際し萩に移転。現在の山号寺号に改称。
総源は流派を総括する本源から、海潮は観音経の海潮音の義に由来している。
江戸時代には石見・長門に11の末寺を擁した。

壮麗な山門
明治の大火にも焼け残った。

山門越しに本堂を見る

山門に掲げられた扁額
「栴檀は双葉より芳し」に由来か?尚、栴檀とは白檀の別名である。

塀越しに見た山門側面
明治7年(1874年)の火災で山門と蔵を残して全焼。萩明倫館の聖廟を買収して、翌年当寺に移して本堂とした。
藩政時代、全国の藩校では構内に広大な聖廟を造営し、孔子を学神として祀るのを理想とした。
明倫館もその例に漏れず、嘉永2年(1849年)に江向に再建された時、敷地の中心部に南面して造営され、
宣聖殿と称している。建物は木造平屋建、入母屋造本瓦葺で、桁行17.28m、梁間9.6。
中央部正面に、入母屋造本瓦葺の入口のある前室が張り出している。
聖壇には孔子の木造を祀っていた。』 とあります。

山門から見た本堂
明倫館聖廟の遺構である。

本堂正面
中央に張出しているのが入母屋造本瓦葺の前室。

本堂の扁額「総源山」
萩自体が毛利の城下町になってから発展したので、寺院が移って来たこと自体は驚きませんが、
明倫館の聖廟まで持ってきたとは凄いですね。
明治維新は薩長が中心だったので新築も可能だったでしょうが、
敢えて【孔子】混同しなかった事に維新の人達の矜持を感じます。

本堂左手にあるのは坐禅堂

十三重石塔
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涼松山 長寿寺(浄土宗西山禅林寺派)
明倫学舎から道を北へ向かいJR方面へ。細い道を抜けて寺院が並ぶ地域に入り古風な佇まいを見せるのが長寿寺。
涼松山長寿寺(りょうしょうざんちょうじゅじ)は、
『山口の長寿寺5世が毛利輝元の帰依を受け、萩に慶長16年(1611年)に建立。その後焼失し、
寛永15年(1638年)に本堂、正保元年(1644年)に庫裏、慶安2年(1649年)には山門が再建された。
明治18年に末寺の松厳寺を合併した際に不動明王も移転している。

慶安2年築の山門はこれか?
但し、閉門中なので入れず。

山門の「涼松山」の扁額

境内には右側の門をくぐる
古瓦を塗り込んだ土塀、卍を刻んだ切支丹墓、十三重石塔が残る。十三重石塔は元和4~6年(1618~20年)に
萩藩の当職であった榎本元吉が長門市の二尊院にあったものを萩の自宅に引き取って建てていたが、
その後、熊谷浄味が貰い受け当寺の境内に建立したもの。
頂きの相輪は欠落したが、高さ5.45m、軒の一辺は底部で1.17m、最上部で0.75mの堂々たるもの。
嘉元4年(1304年)の銘が微かに読め、鎌倉時代の様式をよく表している。』 とあります。

寛永15年築の本堂

本堂前に建つ十三重石塔
御本尊は阿弥陀如来ですが、移って来た不動尊は木造で平安後期の作。
鎌倉時代の作とされる十三重石塔と共に県の文化財になっています。
生憎、人の姿が見えなかったので、堂宇は外からの参拝で、お不動様も拝めずでした。
不動という割には彼方此方移転していますが、末寺で朽ち果てるよりも
格上の寺の方が【長寿】を保てると【諒承】したのかもしれません。

本堂前の夏みかん
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<コース> JRバスは2時間毎に運転
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萩・明倫学舎 本館
山口観光を終え、次の目的地は萩。普通ならば、山口線で益田まで出て山陰本線で東萩へとなりますが、
線路が迂回している上に昼間はダイヤが殆どなし。結果的に山口駅から高速バスとなりますが、
バスは75分で街の中心まで行くのでこちらがメインでしょうか?
時間がなかったので、駅前で購入したスイーツが昼食替わりと言うのもバス旅ならでは。

JR東萩駅の時刻表
昼間の本数がこれだけ少ないとは!

山口駅前の「本多屋 懐古庵」
レンタサイクル店の並びにある老舗。ここだけの限定品もあり。

限定品が昼食
JR東萩駅は萩の観光地からは距離がありますが、バスセンターは観光の中心地。
下車してすぐ目の前にあるのが明倫学舎。
『萩藩校明倫館は、享保4年(1719年)に5代藩主毛利吉元が家臣の子弟教育のために堀内に開いた藩校。
その130年後の嘉永2年(1849年)に現在地の江向に拡大移転。
約5万㎡の敷地内に学舎、武芸修練場、練兵場などがあり、吉田松陰も教鞭を採った。

バス停から直ぐにある南門
藩校明倫館の正門として建てられ「明倫館」の扁額が掲げられている。

本館の玄関部分

本館の二階の階段

二階の廊下
明治以降はその跡地に明倫小学校が建てられ、2014年に新校舎に移転するまで現役であった。
現在は観光インフォーメーションセンターとして利用されている。』 とあります。

旧校舎の中庭
中には入れず、外から眺めるのみ。

横から見た明倫館
手前が本館で奥が二号館。
東側にあるのが有備館。槍・剣道場として利用されたとありますが、現地ガイドの方の話では、
ここは藩士よりも他国からの修行者が主に使ったとの事。
江戸時代の藩は独立しており、閉鎖的と思っていましたが、意外と交流があったようです。

有備館正面

横から見た有備館

有備館内部
ここは砲術の練習場。

有備館内部
ここは剣道の練習場。

東側にある観徳門
江戸時代には藩校があった藩は多いですが、明倫館は水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並ぶ三大学府とされます。
古今東西を問わず教育の重要性は当然ですが、身分を越えて開かれたという点が【明倫】維新の原動力になったのでしょう。

萩市マンホールカード 明倫館にて配布

JR東萩駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅シリーズ」 (下) 2008年設置のJR西日本広島支社印
[参考書]
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「志」が人と時代を動かす! 吉田松陰の人間山脈 (青春新書インテリジェンス) 新品価格 | ![]() |

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瑞雲山 龍福寺(曹洞宗)
八坂神社参拝後、その南にあった大内氏居館跡へ向かうと敷地には大きな寺院が建っています。
大殿大路から続く山門前の参道は両側から紅葉が覆っており、開放的な空間の瑠璃光寺とは対照的に
閉鎖的ですが宛ら紅葉のトンネル。瑠璃光寺程ではないですが観光客もチラホラと。
当初は旧居館を見るだけの予定でしたが、寺院の雰囲気から急遽巡礼。

竪小路に面して寺標が建つ

大殿大路から山門に至る参道
瑞雲山龍福寺(ずいうんさんりゅうふくじ)は、
『建永元年(1206年)、大内氏18代満盛が創建した宝珠山瑞雲寺が嚆矢。創建当時は今の場所から西方の
鴻の峰の麓にあった。その後、享徳3年(1454年)、28代教弘が雪心和尚を迎えて中興開山とし、
宗派を臨済宗に、寺号も瑞雲山龍福寺と改めた。
弘治3年(1557年)4月、32代大内義長が滅び、その跡を継いだ毛利隆元は31代義隆の七回忌に
後奈良天皇から再建の綸旨を賜り、大内氏館跡に当寺を建立し、大内義隆の菩提寺とした。

山門近影

山門から大殿大路方面を見る
弘治3年建立の本堂は明治14年の火災で焼失。同16年の再建には、大内氏の氏寺であった
興隆寺釈迦堂を移築したのが今の本堂である。
その正確な建築年代は不詳であるが、建築様式からは室町後期の作とされる。
その本堂は平成17~23年にかけ保存修理が行われ、屋根も浅瓦葺から檜皮葺に生まれ変わった。
周辺には広大な池泉庭園、西門や枯山水庭園が復元整備され、大内氏の居館であった当時を
偲ぶ事ができる。』 とあります。

山門に掲げられた「瑞雲山」の扁額と垂幕
垂幕の紋は大内氏遺跡シンボルマークで、凌雲寺から出土した軒瓦の文様に由来する。

由緒記
かつて大内氏が創建したお寺を、毛利氏が大内氏の菩提寺として再興したもの。
大内氏の事実上の最後の当主義隆は重臣の陶晴賢の謀反で滅亡。毛利元就はその陶晴賢を厳島の戦いで破り
中国地方の覇者になります。晴賢を討ったことで義隆の仇を討った訳ですから、元就としても
義隆を蔑ろにはできなかったと言えるでしょうか。実直な元就の性格が出ています。
大内義隆については、中国・九州地方の七ヵ国の守護となり、位も従二位に進み、富と権力は
天下に並ぶものがないと言われました。唯、尼子氏との戦いで後継者を失ってからは政治的に無気力になり、
文化に浸ったために家臣に裏切られた軟弱な当主というのが一般的な解釈です。

山門から本堂へ続く参道

本堂から見た本堂
明治16年の再建に当り、大内氏の氏寺興隆寺釈迦堂を移築したもの。
しかし軟弱な当主に七ヵ国も治められる筈もなく、当主に権力を集中させようとした義隆に
危機感を抱いた晴賢が先手を打ったという説もあります。
大内義隆や今川義元など敗死した武将に対する後世の評価は非常に低いですが、織田信長もそのパターン。
しかし信長を低く評価することは稀。人物評ももう少し客観的に考え直す時期に来ている気がします。

境内に建つ「大内義興公馬上展望像」
義隆の父で30代当主、足利義稙を奉じて上洛、11年間に亘り幕政を左右した実力者であった。

大内義隆卿主従供養塔
という訳で予定外の参拝でしたが市内観光の最後を飾るに相応しい名刹。
これは運が良かったと思っていましたが、帰宅して以前の御朱印帳を見ると、
何と平成11年のお盆に訪問済。これだけの寺院を覚えていないとは、【瑞雲】焼きが回ったものです。

龍福寺御朱印
(左) 今回、令和2年拝受 (右) 平成11年8月14日 拝受
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大内義隆:類葉武徳の家を称し、大名の器に載る (ミネルヴァ日本評伝選) 新品価格 | ![]() |

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山口祇園 八坂神社
入口に建つ大鳥居。
今八幡宮から駅に向かうと、広い境内に建つ大きな朱の鳥居が目に入ります。
これが山口祇園と言われる八坂神社。山口祇園八坂神社(やまぐちぎおんやさかじんじゃ)は、
『応安2年(1369年)、大内氏24代の弘世が京都の八坂神社より勧進したと伝えられる。
最初の鎮座地は上竪小路であったといい、長禄3年(1459年)28代の大内教弘の時代に
香積寺門前の川の右岸である水の上に移転。
その後、永正16年(1519年)に30代の大内義興が高嶺大神宮(現山口大神宮)を創建するに当り、
当社もその地に移し、翌17年に社殿を新築した。

銀杏散り敷く境内
狛犬、神徳碑、豊後立石が並ぶ。

正面に建つ楼門
移転した元治元年(1864年)に新築されたもの。
幕末の元治元年(1864年)、毛利敬親が萩より藩庁を移すに際し、警備上から旧築山館の跡地で
当時畑であった現在地に移築遷座。なお本殿は永正年間のものを解体して運搬した。
社号は長く「祇園社」であったが、明治2年の「神仏判然令」を受け「八坂神社」と改称し今に至っている。
7月20日から1週間続く山口祇園祭には京都から受け継いだ鷺舞神事が行われる。』 とあります。

楼門の内部

拝殿(左)に続く重文・御本殿
永正16年(1519年)建立の三間社流造で檜皮葺。
御社殿は本殿・拝殿・楼門が一直線に連結した「楼拝殿造り」。先に訪れた今八幡宮と同じですが、
近郊には見られますが全国的には珍しい様式。拝殿及び楼門はこの地に移築した元治元年の新築ですが、
永正16年建立の本殿は重要文化財に指定されています。
西の京、山口を創ったのは南北朝時代の大内弘世ですが、単なる町割りだけでは「仏作って魂入れず」と思ったのでしょう。
その徹底ぶりは八坂神社の勧進までしてしまったという事です。
加えて長禄3年からは祭礼も始まっているので、【肝心】なところは抑えているようでした。

重文・本殿の説明板

本殿・拝殿・楼門が一直線に連結した「楼拝殿造り」
鷺舞と言えば津和野が有名ですが、津和野城主の吉見氏は天文11年(1542年)に山口から鷺舞を採り入れています。
こちらが本家だったとは驚きですが、小京都としても山口は津和野の先達。
津和野の知名度が上がったので逆転現象が起こったのでしょうが、【サギだ!】などと言わずに
鷹揚に構えている所が、いかにも貴族的と言えます。

山口祇園 八坂神社説明書

八坂神社御朱印
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今八幡宮(郷社)
瑠璃光寺参拝の後は、一の坂川を渡り国道9号を過ぎ神社が建ち並ぶ一角へ。
派手な鳥居のある野田・豊栄神社の脇を抜け、小高い丘の参道を上ると古風な社が目に入ります。
山口の総鎮守とされる古社ですが、それにしては小さいと思っていると来た道は裏道で、
南側にある正門に行くと立派な鳥居がありました。

正門に建つ一の鳥居
今八幡宮(いまはちまんぐう)の社伝に拠れば、
『初め宇治皇子一座を祀り今八幡宮と称した。創建年代は不明であるが鎌倉時代の弘安年間の
大内氏19代の弘成の娘に「今八幡殿」の名が見え、それ以前からあった事が分かる。
一説では大内氏の山口入府以前からの古社ともされる。
文明3年(1471年)、29代の大内政弘が朝倉八幡宮を遷し、社号はそのままに主祭神を応神天皇とし、
他に三座が合祀された。

石段途中にある旧一の鳥居(現二の鳥居)
寛永年間に毛利秀就が寄進。

石段の先に建つ楼門
向拝付きで、左右に翼廊を配し、床板を敷く「楼拝殿造り」と呼ばれる特異な形式で、必要に応じて拝殿として機能する。

楼門近影
上層部は三つに分け、中央を扉、左右を連子窓とし、輪宝や木製の柱基礎は禅宗様式である。
当宮は大内氏の居館の北東の鬼門除けに当たる守護として、また産土神であることから暦代当主の崇敬篤く、
分国法「大内氏壁書」の内、文明10年(1478年)政弘より布達された「今八幡宮条々」において
特別に保護が与えられており、重要視されていたことが伺える。
31代の大内義隆は網代車と輿を乗り継ぎ、自ら社参した記録が残る。』 とあります。

楼門に続く拝殿
右が楼門で、左が本殿に続く。

本殿前面
上部の蟇股は、当代一流の工匠の作。
大内氏以前にまで遡るとされる古社らしく、本殿は拝殿を介して楼門までを一直線に連結させる構造。
これは全国的にも山口地方だけに見られる独特な様式で、限られた土地を有効利用したものだとか。
本殿は三間社流造り、楼門は楼拝殿造りと呼ばれる特異な形式で上層部は禅宗様式になっています。
といって質素な造りではなく、本殿及び拝殿上部の蟇股は当代一流の工匠による芸術作品でもあります。

御本殿
向拝を付した三間流造りである。

本殿・拝殿・楼門と一直線上に並ぶ
由緒と実物を兼ね備えた神社ですが、境内を見ても社務所らしきものはなし。
ここも無住の神社になってしまったのかと、思い次の八坂神社に向かいますが、
そこで社務所は一の鳥居の南側にある事が判明し、再び戻って御朱印拝受。
画竜点睛を欠くことにならず何よりでした。

一の鳥居から少し南にある社務所
目と鼻の先にあるが、住所は山口市八幡馬場と変わる。

今八幡宮説明書

今八幡宮御朱印
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保寧山 瑠璃光寺(曹洞宗)
洞春寺参拝の後は、門前の坂道を上って行くと行く手に美しい五重塔が目に入ります。
その美しさから山口と言うよりも日本を代表する五重塔。
一般には国宝・瑠璃光寺五重塔として知られますが、塔のある広大な場所は香山(こうざん)公園として
山口市が管理しており、瑠璃光寺はその奥の一角を占めるに過ぎません。

香山公園入口
石碑には「曹洞宗 瑠璃光寺」とある。

池と山を借景にした五重塔
よく撮影に用いられるポイント。樹木の雪吊りは、観光目的で積雪はまずないそうである。

国宝・瑠璃光寺五重塔
紅葉は一週間前がピークであったそう。
保寧山瑠璃光寺(ほねいさんるりこうじ)は、その沿革も複雑で、
『大内氏25代の義弘がこの地に建てた香積寺が嚆矢。その義弘は応永6年(1399年)の応永の乱で足利義満に敗死。
弟で26代を継いだ盛見(もりはる)が兄の菩提を弔うためにこの地に五重塔の建設を始めるが、
その盛見も九州の少弐・大友氏との戦で永享3年(1431年)に戦死。
五重塔は10年以上も経った嘉吉2年(1442年)頃にようやく完成したと伝わる。

正面から見た五重塔
檜皮葺で31.2m。二層にのみ回縁が付いているのが特徴。内部は拝観できないが、大内義弘像と阿弥陀如来を祀っている。

中門前からの眺め
ガイドの方の話では、五重塔の比率が最も美しいのがここからの眺望と言う。

大内弘世像越しに五重塔を望む
一方、瑠璃光寺は大内氏第一重臣であった陶氏6代弘房が応仁の乱で戦死した後、
夫人の妙栄大姉が菩提寺として文明3年(1471年)に建立。大庵須益大和尚を開山とした。
当初は安養寺と呼ばれ今の山口市仁保高野にあった。
薬師瑠璃光如来を本尊とし、明応元年(1492年)に瑠璃光寺に改名した。

公園内に建つ雪舟像

若山牧水の歌碑

歌碑の説明
江戸幕府の成立後、萩に拠った毛利氏はこの地にあった香積寺を慶長9年(1604年)萩に移転。
その跡地に元禄3年(1690年)に、仁保にあった瑠璃光寺を移転した。これが今に伝わる瑠璃光寺である。
中国三山の一つとされ本山に次ぐ寺格を有した。』 とあります。

公園内の参道の向こうに建つ中門
その奥にあるのが本堂。

本堂横から見た境内

石段の先にある本堂
大内氏の粋を集めた最高傑作。奈良の法隆寺、京都の醍醐寺と並んで
日本三名塔の一つに数えられるのも故なしとしません。
要は、五重塔はこの地に建立されましたが、瑠璃光寺は全く別の場所にあった寺院。
瑠璃光寺がここに移転してきたので、瑠璃光寺と呼ばれるに過ぎません。

石段から見た鐘楼
梵鐘は末寺であった光明禅寺が廃寺になった後に、移って来たもの。

知足の手水鉢。
寺社の盛衰は常の事ですから、生き残っただけでも良しとすべきでしょう。
大内氏から分かれた家臣の陶氏に滅ぼされた大内ですが、その寺が陶氏の寺と一緒となる事で
今に残ったのは歴史の皮肉。「別れても陶に合わんとぞ思ふ」を地で行く話です。

納経所前にて

瑠璃光寺御朱印
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正宗山 洞春寺(臨済宗建仁寺派 中国観音霊場第十六番札所)
お伊勢参りの後は、山口観光のメインの香山公園へ。
県庁から行くと、先ず目に入るのが中国観音霊場第十六番札所の洞春寺。
元就の菩提寺で26年前に訪問済ですが、さてどのような寺だったか?
山門と観音堂が重要文化財とありますが、とんと記憶に御座いません。という事で今回の再訪。
ところが門前に来ると山門がまさかの改修中。なんでも来春に完成予定だそうで、
世界遺産登録も視野に入れているそうですが、何とも残念。

山門前に到着

重文・山門もこんな状態
正宗山洞春寺(しょうしゅうざんとうしゅんじ)は、
『元亀3年(1572年)、毛利輝元が祖父・元就の菩提寺として安芸吉田の城内に開基。
開山には嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)禅師を迎えた。
禅師は元亀元年(1570年)、正親町天皇から紫衣を賜り、建仁寺、南禅寺等の名刹に住持した傑僧。
生前の元就は禅師を膝下に招いて参禅の師としたと伝わる。
足利義昭が扶桑十刹に列したとも伝わり、寺領2300石を有した名刹であった。
尚、洞春とは元就の法名である。

本堂手前の中門
看板とのギャップが面白い?

山門前に居る山羊
【しょうしゅう】山という山号の為か、獣臭はしない。
関ヶ原の戦いの後、周防・長門に減封された毛利家に従い山口へ、次いで慶長11年に萩市内に移る。
幕末になり、毛利敬親が再び藩政を山口に移したので、当寺もそれに従い明治2年(1869年)山口へ移った。
この地には、応永11年(1404年)大内氏26代当主盛見(もりはる)が天下泰平、家内繁栄の祈願場として
国清寺を建立したが筑前で戦死。この寺が盛見の菩提寺となり墓標も建つ。
のち毛利隆元の菩提寺となり常栄寺と称していたのを譲り受けた。

山門右に建つ楼門

由緒記

中門正面に建つ本堂
坐禅も行っている。

本堂前面の眺め
境内では山門が創建時からのもの。
観音堂は永享2年(1430年)、大内持盛の菩提寺として今の県庁裏の滝の観音寺の仏殿として
建立されたものを、大正4年(1915年)に移築したもので、共に重要文化財になっている。

重文・観音堂
方三間の入母屋造で、唐様の典型的な建造物。

観音堂内陣
この岩屋の奥に観音様が祀られている他、大内義弘・盛見・持盛の木像があるらしい。
晩年の元就は戦乱に斃れた敵味方の兵士の英霊を供養するため法華経千部を読誦。
この読誦の方法は独特のもので、俗に長州法華と呼ばれ、以来、この法要は現在に至るまで欠かさず続けられている。
常に政治拠点の移動と共に転生し、毛利家の栄枯盛衰と共にあった寺院である。』 とあります。

観音堂からの境内の眺め

観音堂横の紅葉のトンネルを抜け裏山へ
寺の名前こそ毛利元就に由来していますが、建造物はかつてあった大内氏のものを移築したものが大半。
今風に言えばエコとなりますが、西国の覇者となった毛利氏も決して飛び抜けた独裁者ではなく、
多くの地方豪族の取り纏め役のような存在でした。その事が寺の運営にも生きている気がします。
菩提寺の割にはこじんまりとした寺の記憶だったのですが、再訪してみると意外と広い奥行きと大きな伽藍。
しかも境内奥にある墓所も結構な広さ。以前の訪問では墓所には気付かなかったので、
その広さを実感しただけでも再訪の価値はありました。

墓地に建つお堂

国清寺一切経蔵の礎石
ここにあった経蔵は慶長年間に近江の三井寺に移築したため、礎石だけが残った。尚、移築した経蔵は重要文化財。
重文や史跡に混じって本堂前の中門には文化祭のポスターのようなイベント案内があり、
門前には何故か山羊が二頭繋がれてと、不思議な空間でもありました。
唯、無住では無い筈ですが、お寺の方の姿も見えず、詳しい話を伺う事は出来なかったのが心残りです。
・再訪も 悔い残るなり 洞が春

五重塔を建立した26代・盛見の墓
無縫塔の墓としては県内最古。

長州ファイブの一人、井上馨の墓所

洞春寺御朱印(中国観音札所)
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山口大神宮(県社)
市役所の裏手にあるのがザビエル記念聖堂ならば、県庁の傍に鎮座ましますのが山口大神宮。
名前も立派ですが、その名の通り大内氏最後の当主義長が築いた高嶺城のある鴻ノ峰の麓、山の口にあります。

県庁方面から、その名も五十鈴川を渡ると大神宮

道路に面した石鳥居
寛文3年(1663年)に長州藩主・毛利綱広が寄進。元は伊勢橋傍にあったが、交通事情で最近、神社正面に移転した。

石鳥居横に建つ日参一万日成就の碑
江戸時代には伊勢信仰が盛んになり日参する人も多く、一万日に達したら碑を建てた。
山口大神宮は
『永正17年(1520年)に大内義興が朝廷に奏聞して後柏原天皇より勅許を得、伊勢皇太神宮より御分霊を勧進した神社。
大内義興の時代、前将軍足利義稙が都を追われ山口に来て大内氏を頼った。
義興は永正5年(1508年)、これを奉じて上洛し、以後十一年間、管領代として将軍に代わり日本の政治に与った。
大内氏の武力と財力のお陰で、応仁の乱後の京都には久々に平和が訪れたと言われる。

由緒記

石段を上る

途中にある二の鳥居
義興は京に滞在中の永正11年(1514年)に伊勢の皇太神宮に参拝。
その際に、この太神宮を山口に勧進したい思いに駆られたとされる。
永正15年に帰国した義興は直ちに神社建立に着手。翌年には外宮、翌々年には内宮が落成した。
当初は「高嶺神明」と称していたが、後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の勅額を賜り、
「今伊勢」と称せられるようになった。昭和3年に県社となり、昭和22年に「山口大神宮」と改称した。

参道右手にある鷺岩
江戸時代、祇園社はこの境内にあり、鷺舞神事があると、鷺の頭や羽をこの岩の上に置いたことからそう呼ばれる。

手水舎

参道の曲がり角に建つ神楽殿
丁度、七五三の家族が参拝中。

神楽殿前から参道を望む
左奥が県庁舎。

多賀神社
近江の多賀大社の御分霊を勧進したもので、元は水の上にあったが、昭和24年に大神宮境内に遷座した。右にあるのは安産石。

神楽殿を抜け内宮・外宮への参道へ
伊勢皇太神宮より直接御分霊を受けたのは明治以前ではここ山口大神宮のみ。
以来、御神徳は赫々として現在に及んでいる。御神殿の造替遷宮は21年毎に行われ、
戦乱などで多少のずれはあるものの今に至っている。』 とあります。

内宮(右)・外宮(左)遠景

外宮社殿

横から見た外宮社殿

内宮社殿

次回御遷宮のための御敷地(古殿地)

外宮前方の籾置岩
稲籾麦の種子をこの上に置いて作物の虫除け豊作を祈った。
大内氏24代弘世が京の都に憧れて西の京山口を創ったのは有名ですが、それに続く当主も
それを【踏襲】した模様。お伊勢さんまで勧進してしまった訳ですから…。都への憧憬だけでなく、
ゆくゆくは天下を手中にして、山口を都にする構想もあったのではないかとさえ思ってしまいます。

鷺岩横の池

末社の高嶺稲荷神社
元は神楽殿付近にあったが、現在地に移され大正12年に改築された。

石敢当(いしがんとう)
中国大陸起源の魔除けとして道端に立てられる石碑。本州では珍しい。
戦国時代は幕府の力が地方には及ばず、下克上の世であったとされますが、
金銭的な遣り取りがあったとはいえ大内氏は官位もきちんと幕府に願い出て拝領しています。
きちんと筋を通すところなどは名家のプライドと言えますが、その保守性が仇となって
近世大名としては残らなかったとも言えましょうか。

石灯籠と紅葉

山口大神宮説明書

山口大神宮御朱印
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