<コース> 阪急宝塚線は10分間隔で運転
【往路】梅田 → (阪急宝塚本線) → 池田
阪急池田駅 → 徒歩5分 → 本町通り → 徒歩5分 → 髙法寺 → 徒歩3分 → 池田城址 → 徒歩15分 → 一乗院 → 徒歩5分 → 尊鉢厄神 → 徒歩10分 → 石橋阪大前
【復路】石橋阪大前 → (阪急宝塚本線) → 梅田

鉢多羅山 若王寺 釈迦院(真言宗 摂津八十八ヵ所第五十七番札所)
一乗院から北へ歩く事5分。尊鉢厄神(そんぱちやくじん)の案内板に続く石畳の奥にある竜宮門をくぐると
樹木に囲まれた広大な境内が。周囲の住宅地とは一線を画す別世界が広がります。

入口に到着

竜宮門(山門)近影

竜宮門に掲げられた「鉢多羅山」の扁額
鉢多羅山若王寺釈迦院(はったらさんにゃくおうじしゃかいん)は、
『神功皇后の新羅出兵の折、その戦勝帰国に際して、国王の献上物に釈尊の仏舎利、袈裟、
鉄鉢(てっぱつ)の三宝物があった。
皇后は武庫の港(今の神戸港)に凱旋したが、当時の日本には未だ仏法が伝来しておらず、
宝物の処置に困った皇后は猪名の里(今の池田)にこの三宝を埋め、仏法流布の日を待った。

山門脇にある釈迦院縁起

山門から続く石畳

石畳脇の枯山水
聖武天皇の御世に至り、行基が行脚の途中当地に逗留。
その夢枕に観世音菩薩が現れ、件の宝物の埋葬されている事を告げた。
夢から目覚めた行基は早速その場所を発掘、お告げ通りに三宝を得た。
行基がそのことを朝廷に知らせると、聖武天皇の勅願に拠り神亀元年(724年)一大伽藍が建立され、
若王寺の寺号と莫大な寺領が寄進された。
山号の鉢多羅山は三宝の一つ、釈尊の鉄鉢に因んで命名されたものである。

順路は手水鉢を経て石畳右側の階段から

石段を上った先に建つのは虚空蔵尊堂

石段の正面に建つ厄神堂
その後、法灯は続いてきたが、天正元年に織田信長の兵火にかかり一山全焼。
宝物も釈尊の鉄鉢を除き灰燼に帰した。
天正17年に傳誉(でんよ)上人により復興されるが、規模は往時に比べ大幅に縮小。
天保11年(1840年)に再度火災に遭い、慶応元年(1865年)に宗浄・歓浄が再建して現在に至る。
釈迦如来を本尊とする若王寺東の坊を釈迦院と号して若王寺一山の命脈を伝える。
秀吉の朝鮮出兵に際し、北政所が戦勝祈願した本尊・厄神明王は厄除開運の信仰を広く集めている。』
とあります。

厄神殿に続く本堂と護摩堂

前から見た本堂

本堂の「若王寺」の扁額

本堂前にある仏足石

最も奥にある護摩堂
伽藍の配置や庭園も古刹の雰囲気は十分。国道176号の近くの住宅地の一角にこのような場所があるのも驚きです。
三宝で唯一残ったのが鉄鉢だったとは『三匹の子豚』の様な話ですが、それだけ厄除けに御利益があるという証でしょう。
176号線のバス停の名は尊鉢、標識の記載も尊鉢厄神。本堂に祀られている御本尊は釈迦如来ですが、
厄神明王が祀られる厄神殿は更に一段と高い場所。この位置関係からだけでも、どちらが信仰を集めて来たかは明らか。
尊鉢厄神の通称も【うそっぱち】や【はったり】ではありませんでした。

本堂前からの眺め

周囲に溶け込んだ雰囲気の庫裏

庫裏は山門から続く石畳の先にある

石畳脇の鐘楼
この梵鐘には寛永九壬申(1632年)の銘があり市内最古の一つである。

鐘楼から山門方面を見る

尊鉢厄神 釈迦院 略縁起

尊鉢厄神御朱印
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阪急池田駅 → 徒歩5分 → 本町通り → 徒歩5分 → 髙法寺 → 徒歩3分 → 池田城址 → 徒歩15分 → 一乗院

多羅山 若王寺 一乗院(真言宗 摂津八十八ヵ所第五十八番札所)
城址の後は、さくら通りを南下して駅前の交差点を左折。そのまま線路沿いの176号線を石橋方面へ2㎞程進むと、
道路沿いに案内板と広い駐車場が見えてきます。
境内にはここから入れますが、少し先を左折した所にある山門が正門になります。

176号線沿いの入口
駐車場の奥に新築した庫裏が見える。

こちらが正式な山門
多羅山若王寺一乗院(たらさんにゃくおうじいちじょういん)は、
『若王寺一山の一院として、聖武天皇の勅願に拠って、行基が開創。弘仁5年(814年)には弘法大師が留錫し、
本尊・聖観音菩薩、雨宝童子、春日龍神の三体を刻造し祀ったと伝わる。
天正年間には織田信長の兵火に遭い堂宇は焼失。寛永15年(1638年)に檀家の協力を得て秀栄が再興。
更に200年後の天保5年(1834年)に快龍が復興し、以後、修理を経て現在に至っている。

山門の鬼瓦

正面から見た本堂
手前にあるのはかつての礎石か?
本堂に祀られている聖観世音菩薩は桧の一本彫りで高さ70㎝。脇に立つ多聞天と共に藤原期の作。
一方、融通尊堂に祀られている雨宝童子は室町時代、春日龍神は室町時代に南都で活躍した
宿院仏師の作と言われる。』 とあります。

山門をくぐった場所に建つ融通尊堂

融通尊堂内陣の欄間彫刻
御本尊はさておき、雨宝童子と春日龍神は室町時代の作らしいですから、弘法大師の自作というのは
やはり伝説の域のようです。
雨宝(うほう)童子とは初耳な名前ですが、説明板に拠ると神仏習合思想に拠って説かれたもので、
天照大神が日向国に下生したときの姿とも大日如来の化身とも言われるもの。何でも融通してくれる
仏様として「融通尊」と呼ばれているそうですが、本堂の他に融通尊堂があるのもその効果でしょう。

非常にモダンな建築仕様の庫裏

融通尊由来記
融通尊堂内陣にて拝受。
境内の鐘楼脇には石田三成軍旗塚が。さてこの辺りで戦があったかな?と不思議でしたが、
何でも三成の遺児・千代丸が遺臣や乳母に拠って軍旗にくるまれてこの地に落ち伸びたとあり、
当院にはその時の軍旗が奉納されているとか。
敗者にも融通を利かせてくれた訳ですから、御利益は十分でした。

境内に建つ石田三成軍旗塚

一乗院御朱印
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池田城址公園
髙法寺の後は、境内から天守閣が見えた城址公園まで。
正門は東側ですが、髙法寺からだと「さくら通り」を渡り、細い坂を上って西門へ。
池田城は、
『建武元年(1334年)頃、五月山の南麓丘陵地に摂津国豊島(てしま)郡の国人領主・池田教依が築城したのが嚆矢。
代々池田氏の居城として発展した。
標高50mの高台にあり、西側は崖、北側は杉ヵ谷川と天然の要害を取入れ、東と南には最大深6.5mの堀を築くなど、
当時では畿内屈指の規模を誇った城郭であった。

西門近影
ここから公園内に入る。

東側の橋を渡り大手門へ

大手門近影
そのような堅城にも拘らず、文明の乱では大内政広、永正の乱では細川高国、永禄時代には織田信長、
と攻撃を受け落城している。しかし、池田氏は滅亡することなく都度復帰、最終的には信長の6万石の家臣となった。
しかし元亀元年(1570年)荒木村重が池田氏を追放。居城を伊丹の有岡城に移したため池田城は衰頽。
有岡城落城の翌天正8年(1580年)、信長の命で廃城となった。
平成12年にかつての居城跡地を公園として整備。櫓風展望休憩舎からは池田市内が一望できる。』
とあります。

大手門に続く前庭

天守閣に見えるが正式には休憩舎

内部には無料で入ることが出来る

階段を上り最上階へ
天守閣と思っていたものは休憩舎。かつての天守閣を復元したものではないようです。
唯、展望の良さは名前の通りで、市街地は勿論、ビッグハープと呼ばれる阪神高速の新猪名川大橋も望むことができます。

最上階から公園内を眺める(東側)

北側の北摂山系

西側の阪神高速と新猪名川大橋

南側の市街地

上から見た高法寺境内
確かに名城ではありますが、3度も落城している所を見ると要害だけに頼っては駄目。
しかし都度復帰した処など池田氏の粘り強さを感じます。むしろ畿内で246年間も保った方を評価すべきでしょうね。

公園内の土塁

排水溝

枯山水庭園

公園内の茶室
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待兼山 髙法寺(真言宗 摂津八十八ヵ所第六十六番札所)
本町通から酒蔵を抜け、裏手の黒壁から城跡の方へ向かうと塀越しに屋根が見えるのが目指す札所。
待兼山髙法寺(たいけんざんこうほうじ)は、
『天平年間、行基が開基。当初は豊中市待兼(まちかね)山の頂上近くにあり、永禄年間(1558~1570年)までは、
池田城主築後守の祈願所であった。

さくら通りから塀越しに見える本堂屋根

寺を囲む白壁
しかし戦国時代の兵火に遭い堂塔は焼失。時の住職が御本尊と「高法寺」の扁額のみを背負い
池田城下の当地に逃れ小堂を建て祀った。慶長3年(1598年)、僧静弁の中興である。
御本尊の十一面観世音菩薩は、桧の一木造りで高さ80㎝。藤原時代の弘仁風の円満相である。
秘仏であるが、正月とお盆には開帳される。』 とあります。

山門前の道標
「みのを山かつ尾寺道」とある。

山門前にて

山門の「待兼山」の扁額

山門から境内を見渡す
中央奥には池田城が…。
近くの山は五月山なのに、豊中の待兼山が山号とは不思議でしたが、お寺の由緒を聞いて納得。
数キロ程度とはいえ戦乱の中を逃げるのは命懸け。加えて仏像と扁額を背負ってなので困難は倍。
信長は叡山を焼討ちした程ですから、仏像を持っていたからと見逃してくれる筈もなかったでしょう。
乱世の人々の信仰心は並々ではなかった証です。

本堂正面

本堂の山号・寺号の扁額
これを背負って逃げたのか?

山門正面にある金比羅権現、豊川稲荷、八大龍王の各御堂
境内からは池田城が指呼の間に見渡せるので、【こうほう】支援も期待できたのでしょう。
観音様の待ち兼ねた安住の地を得たように思います。

境内にある俳人・川田祐作(田福)の句碑
田福は与謝蕪村に師事し、松村月渓(呉春)と親交があった。

髙法寺御朱印
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本町通り(能勢街道)
西側から東方面を見た景色。
この日は阪急宝塚線で池田下車。次の駅は兵庫県なので大阪府西端の町。
目的は市内にある摂津八十八ヵ所の札所巡礼ですが、その間隙を縫って市内散策。
線路と並行して走る本町通りがかつての主要道の能勢街道。西国巡礼道や西国街道に続く道で
両側には今昔の街並みが残ります。

本町通りにある案内板

本町通り南側に建つ池田呉服座
江戸時代に建てられた芝居小屋・呉服座の外観を一部再現した大衆演劇劇場。昼・夜の二部制。
『古代の呼び名は「呉服(くれは)の里」。応神天皇の御代に、呉の国から渡来した工匠の呉服媛が
猪名川を遡ったこの地に居住。機織裁縫の技術を伝えたとされる。
市内には呉服媛を祀る呉服神社があり、呉服橋、呉服町の地名も残る。
平安時代には「呉庭荘(くれはのしょう)」と呼ばれる荘園が成立し、鎌倉時代には池田と呼ばれるようになる。
南北朝時代には池田氏の居城池田城が築かれたが、元亀元年(1570年)荒木村重が池田氏を追放。
居城を伊丹の有岡城に移したため城下町としての池田は終焉した。

本町通り北側に面した呉服店

登録文化財・河村商店
かつての銀行で現在は繊維商品の販売を手掛ける。外は煉瓦造りだが、内部は木造。
江戸時代には天領大坂の商業都市として古代以来の繊維産業に加え池田炭の集散地、酒造の町として発展。
明治以降は阪急電鉄の敷設と共に北摂の住宅地として知られ、戦後は日清食品がここを発祥の地とするなど
企業城下町としての性格も持っている。』 とあります。

ビリケンさん
通天閣でお馴染みだが、池田市出身で繊維商社(株)田村駒の創業者・田村駒次郎が商標登録を行った。

登録有形文化財・稲束家住宅
かつての庄屋格で南北に走る尼崎伊丹道に面して建つ。今でも子孫の方が住まわれており観光施設ではない。
繊維産業には綺麗な水が不可欠ですが、北摂山系からの伏流水と猪名川水運に目を付けた渡来人は流石と言えます。
綺麗な水のある所には酒があるのも必然。池田と言えば「呉春」が有名ですが、硬質の五月山の伏流水に恵まれ
最盛期には38軒の蔵元があったとか。しかし、その繁栄も伊丹に移り、更には伊丹から灘へと移ります。
理由は至極簡単で日本酒の大量輸送に向いていなかったから。良いものを造るのは当然ですが、
全国展開するにはそれだけでは駄目なようです。
かつては吉田酒造もありましたが、阪神淡路大震災のため廃業し今は呉春株式会社が一社。
谷崎潤一郎の愛飲した酒でもあり、その名は池田市に所縁の絵師・呉春から。呉春は与謝蕪村に南画を師事。
号は池田の古い雅称「呉服の里」で新春を過ごした事に因みます。

能勢街道に面した文化財・吉田酒造

吉田酒造説明

呉春株式会社
尼崎伊丹道に面して建つ。

東側に連なる呉春株式会社の酒蔵

呉春の向かいに建つ家屋
この前の尼崎伊丹道は戦国時代の名残の桝形を留める。
城下町で酒処と言えば、やや堅苦しいイメージを持ちますが、実際はいたって庶民的。
阪急創業者の小林一三が沿線に住宅地を開発し自宅も構えますが、常に官ではなく
私の目線で事業を推進したのが町のカラーになったのでしょう。
池田がネタになった落語も二つ。「池田の猪買い」は知っていましたが「牛ほめ」が池田とは初耳。
駅構内には「池田の牛ほめ」の顔ハメもありました。
穴が隠れて火の用心にはなりますが、顔を出したら何になるのでしょうかね?

本町通り北側に建つ「落語みゅーじあむ」
落語の紹介や資料を展示する他、落語会・高座も開催される。

みゅーじあむ前の顔ハメ 「池田の猪買い」
これは最後の落ちの場面。

池田駅構内の顔ハメ 「池田の牛ほめ」

池田市マンホールカード 配布場所はこちら
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<コース>
JR大阪 → JR天王寺 → 近鉄阿部野橋 → (近鉄南大阪線) → 古市 → 徒歩2分 → 白鳥神社 → 徒歩10分 → 白鳥陵古墳

白鳥神社(旧村社)
この日は所要で足を伸ばして古市駅まで。ここは堺市と並んで世界遺産に登録された百舌鳥古市古墳群。
近鉄古市駅の東に隣接するのが白鳥神社。白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、
『元はこの西方の軽墓(軽里)の伊岐(いき)谷にあった伊岐宮(いきみや)が嚆矢。日本武尊が祀られていたが、
南北朝や戦国時代の兵火で焼失。峯ヶ塚古墳上に小さな祠として存在していたが、
それも1596年の慶長の大地震で倒壊。そのまま放置された。

古市駅東口に隣接する白鳥神社への入口(南向き)

正式には神社の東側にあるこちらの鳥居が正式な様子
寛永年間(1624~1643年)になって古市村の産土神としてこの地へ遷座。
日本武尊を祀る故に白鳥神社と称したと享和元年(1801年)の河内名所図会にある。
その後、日本武尊に加え素戔嗚尊も御祭神とした。
現在の場所は6世紀後半とされる前方後円墳(荒陵)の後円部。一方、前方部は駅と国道170号線との間に
低い台地として残存。括れ部分が明治31年1898年の河陽鉄道の開通工事の際に削られ駅地となった。
この古墳は571年、欽明天皇を河内古市でもがりした際に仮の陵として造営された。』 とあります。

東側の鳥居の周囲
確かに古墳と思しき形をしている。

由緒記

階段を上り境内を見渡す
社務所らしきものはなく通常は無人である。

正面から見た拝殿

拝殿脇の小社
各地へ遠征した後、三重の能褒野で息を引き取った日本武尊は白鳥に姿を変え、大和の琴弾原を経て
古市に飛来したと『日本書紀』にあります。その後、埴生の丘に羽を曳くが如く飛び去ったのが羽曳野の由来。
飛び去った先が和泉の大鳥神社とされます。
日本武尊伝説のある古市ですが、日本武尊の白鳥陵古墳はここではなく西へ数百の場所。
日本武尊は伝説上の皇子とされ、明治期の古墳の比定も誤差があるようですが、
どうせなら古墳の場所に神社がある方がインパクトがあると思うのは私だけでしょうか?

日本武尊御陵への参道
近鉄の線路を越え西へ坂を上る。

白鳥陵古墳
前方部北西角から東南向きに見る。良く写真に撮影されるアングルである。

古墳説明板

白鳥陵古墳の北側を通る竹内街道

仁賢天皇陵古墳
白鳥陵古墳から藤井寺駅に向かう途中にある。

濠越しに見た仁賢陵古墳
古墳の東側には二つの大きな池が隣接する。

羽曳野市マンホール蓋

羽曳野市マンホールカード 配布場所はこちら(現在休止中)
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<コース> 京阪特急は10分間隔で運転
京阪淀屋橋 → (京阪特急) → 京阪三条 → 徒歩10分 → ほてい薬師 → 徒歩10分 → こぬか薬師 → 徒歩20分 → 清荒神

常施無畏寺 護浄院(天台宗 勅願所)
こぬか薬師から東へ向かい、御所を回って荒神口へ。京都への入口の一つで、東から西へ向かうのが筋ですが、今回は逆。
その手前に、古い門構えがあるのが鴨沂(おおき)高校。明治5年(1872年)、日本最初の公立女学校として
創立された京都一女が前身。旧京都一中(現洛北高校)が深泥池近くにあるのに対し、京都一女は御所の直ぐ東。
出身者も森光子・山本富士子・加茂さくらの女性陣を始め、田宮二郎・沢田研二の諸氏まで。タイムショックでした。
その通用門のすぐ横が目指す寺院。

御所に面した鴨沂(おおき)高校校門

明治天皇滞在碑と塀越しに見える鴨沂(おおき)高校校舎
常施無畏寺護浄院(じょうせむいじごじょういん)は、
『宝亀3年(772年)、光仁天皇の開成皇子が摂津勝尾山で修業中、荒神尊が八面八臂の鬼人となって出現。
その荒神尊の姿を自ら彫刻して清師に祀り、勅命に拠って鎮護国家の霊場として光仁天皇より
田地百畝を賜ったのが嚆矢。清荒神の名もここに由来する。

北から見た清荒神
因みに向かいには鴨沂高校学友会館が建つ。

正門前にて

山門近影
室町時代になり後小松天皇から「勝尾山は遠方で勅使代参も労少なからず」との勅命を受けた乗厳律師が、
明徳元年に京都高辻堀川の東に境内地を得て荒神尊を遷座。同3年、南北朝の和合祈願の勅命が下った。
その後、後陽成天皇より「皇居守護のため東南の地に遷座せよ」との勅命を受けた豊臣秀吉の命で、
その死後の1600年に現在地に移転。後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体を併せ祀った。
天皇より「常施無畏寺」の号を賜ったのはその折で、元禄7年(1694年)には御所の浄域を護ることから「護浄院」の号も賜わった。

山門脇の由緒記駒札

山門越しに境内を望む

荒神様を祀った本堂

本堂手前の鳥居
神仏習合の名残か?
天明8年(1778年)正月の大火で罹災するも、寛政年間に再建。慶應2年(1866年)には孝明天皇の持念佛の
千手観音を安置、明治24年(1891年)には皇太后・皇后より殿堂造営費が下賜された。』 とあります。

ここは拝殿に当たる

清荒神の扁額

拝殿奥にあるこれが本殿
山門に接する位に近い。
荒神さんと言えば、竃・火の用心の神さまで、宝塚市の清澄寺がすぐ頭に浮かびますが、
日本最初とあるからには、ここが始めなようです。

不動明王、歓喜天、観音様を祀るお堂

書院入口と寺務所
御朱印はここで拝受。

清荒神御由緒

清荒神御朱印

西側にある通用門
ここを出ると鴨沂高校通用門がある。

鴨川に架かる荒神橋
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<コース> 京阪特急は10分間隔で運転
京阪淀屋橋 → (京阪特急) → 京阪三条 → 徒歩10分 → ほてい薬師 → 徒歩10分 → こぬか薬師

医徳山 薬師院 (黄檗宗)
菩提薬師さんに続いて、向かったのはこぬか薬師。祀っているのは同じ薬師さんですが、
場所も同じ二条筋。ひたすら西へ向かうこと10分。

こぬか薬師入口
釜座通りの西側にあるが、ここはかつての裏門であったとか。
医徳山薬師院(いとくさんやくしいん)は、
『伝教大師最澄が16歳の時、比叡山草創の大願に拠り一刀三礼彫刻された薬師如来が本尊。
本尊は七体の内の一つであったが、比叡山女人禁制を嘆き岐阜県に安置された。
寛喜2年(1230年)、疫病が全土に流行した時、薬師如来が院主の夢に現れ
「一切病苦の衆生、我が前に来たらば諸病悉く除くべきに、来也(こぬか)、来也。」
とのお告げがあった。
感涙した院主が人々に知らしめた処、疾病諸病が忽ち平癒。
これ以降、人々は仏の言葉を仰ぎ奉り「こぬか薬師」と呼ぶようになった。

門前にある由緒記
これを駒札と呼ぶ事を、住職夫人に聞くまで知らなかった。
16世紀に上洛した織田信長が斎藤道三より伝来した薬師如来をこの地に移転。1688年に鉄面禅師が再興し
天台宗から黄檗宗に改宗。現在より数倍の境内を有する禅風寺院として知られたが、幕末蛤御門の変で焼失。
明治21年(1888年)萬福寺塔頭緑樹院の竺丈禅師が近衛・三井家に働きかけ再建に着手。
その際、井戸から大黒様が現れ大黒町となった裏門を正面にした。
以前の表門は薬師町として名を留め、二条通り一帯の薬問屋・漢方薬店が名残を留めている。』
とあります。

東向きの本堂

石の台座にも薬師如来の文字が
以前はこの町内一帯が境内でしたが、今は本堂と庫裏を残すのみ。通りに面した入口から見ると、
少し離れた場所に本堂が建っている様子は裏門だからでしょうか?
参拝を終え御朱印を貰おうと見渡せば、本堂前に書置きの箱が。鎌倉時代の疫病を退散させた薬師様ですが、
令和の舶来の病魔は勝手が違うようです。

格子の間から見た本堂内陣

本堂前に提示してある御朱印あれこれ
早速開けると中身は空。結局ベルを押してお寺の方に書いて頂きました。
書いた後、御本尊にお参りされてから拝受と言う念の入れよう。
夫人;「お前立とは違って、ここの薬師様は10㎝程度の小さな御本尊ですよ。」
和辻;「前の通りは珍しい名前ですね。釜座(かまざ)通でしたっけ?」
夫人;「“かまんざ”と読みます。」
和辻;「お釜でも作っていたのですか?」
夫人;「三条釜座には、室町時代から続く千家十職の釜師・大西清右衛門の工房がありますので。」
和辻;「なるほど、茶道に所縁の通りですね。」
夫人;「通りの向かいには表千家脇宗匠の御自宅がありますし。」
老舗旅館とばかり思っていたのが茶道の脇宗匠の家と知ってびっくり、というよりも納得しました。
無事参拝を終えて次の目的地はと、地図を見ると結構な距離。
車で移動しようかと、周囲を見渡して暫く待ちましたが、結局「来ぬか、タクシー」。
徒歩で御所までのトホホ移動でした。

こぬか薬師御朱印
通称寺で拝受。「不来乎」で「こぬか」と読むらしい。

本堂前から通りを見る
紅葉とホトトギスの脇に手水鉢があり、毛氈を敷いた蓮台がある。ここで一服するのかしらん?

通りを挟んだ向かいにある表千家の脇宗匠の御自宅
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京阪淀屋橋 → (京阪特急) → 京阪三条 → 徒歩10分 → ほてい薬師

瑠璃光山 利生院 大福寺(天台宗 京都七福神)
この日の午後は大学の近くで開催かれる公開講座に参加予定ですが、午前中は自由時間。
以前、松ヶ崎大黒天で京都には通称寺と呼ばれる寺院が点在する事を教わり、この機会に近場を巡礼。
京阪三条駅から市役所方面に歩き麩屋町通りを北上。二条通を少し上った場所にあるのが大福寺。
麩屋町通りに面して本堂があり、周囲の民家とほぼ変わらない位のこじんまりとしたお寺ですが、
ほてい薬師の通称名で知られています。通常、「ほてい」は布袋ですが、ここでは菩提と書きます。
仏教らしいと言えますが、理由は今一つ分かりませんでした。

薬師さん入口
麩屋町通りの西側に家屋の谷間にある。

本堂正面
瑠璃光山利生院大福寺(るりこうざんりしょういんだいふくじ)は、
『推古天皇の598年、大和国宮田郷に建立。御本尊の菩提薬師如来は聖徳太子の自刻と伝わり秘仏。
京都十二薬師の一つとされる。桓武天皇の794年頃、勅旨に拠って平安京に移転。
方八丁の浄域を賜り七堂伽藍を建立、歴代皇室の崇敬が篤かったと言う。
しかし、天明年間に炎上し、寺域の多くを焼失。今は僅かにその名残を留めるだけである。

由緒記

内陣には入れず、通りに面した外から拝む
御本尊の他に京都七福神の七番になる布袋尊を祀り正月には宝印を授与。
それを出納長に貼ると商売繁盛になるとされ、出納帳を大福帳と呼ぶ様になったのはここに由来する。
また幕末には勤皇の志士、梅田雲浜が仮寓を営み妻を迎えた。』 とあります。
その規模からは想像できないような古刹ですが、通称名が示すように朝廷だけでなく
庶民の信仰に支えられた面も多々あったと思います。参拝は内陣ではなく通りから礼拝。

本堂の屋根に鎮座まします布袋様

本堂脇の案内を通り寺務所へ
御朱印を拝受すべく堂内に入ると直書き御朱印が25種、書置き御朱印が25種。傍らには「千手四十臂」とあります。
「よくもこれだけ!」と感心しましたが、千手観音の腕は通常40本、1本につき25通りの方法で人を救うそうですから、
御朱印もその数だけ用意しているそうです。

受付に展示?してある「書置き御朱印」

ノーマルと見開き

こちらは見開き
目移りするような数ですが、「通称寺の御朱印で。」と御願いすると、ごくノーマルなものを墨書。
値段も¥300円と通常価格。強いて高額なものを勧めないのが好感を持てました。
その代わり、説明付き「通称寺御朱印帳」を¥1000で購入。何でもファイルに御朱印を挟み込む形式だそう。
寺の新旧の変更があるからという理由ですが、従来の蛇腹式に取って代わるでしょうか?
大福寺の法印を授与された店は商売繁盛に繋がるそうですが、御朱印は寺の商売繁盛に繋がっているようでした。

ほてい薬師御朱印

「京の通称寺」御朱印帳

御朱印帳の「ほてい薬師」の頁
シールを¥100で購入して貼付するようになっている。
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駅観光案内所レンタサイクル30分 → 大矢田神社 → レンタサイクル5分 → 道樹寺 → レンタサイクル15分 → 清泰寺 → 美濃街並み → 来昌寺 → 善應寺 → 美濃市駅
【復路】美濃市(16:51) → (長良川鉄道) → 美濃太田(17:22→17:36) → JR岐阜(18:07→18:21) → JR米原(19:09→19:18) → JR大阪(20:42)

慈雲山 善應寺(曹洞宗 中濃西国八十八ヵ所第十六番札所)
陽も西へ傾きかけた頃、この日最後の巡礼に参拝。来昌寺から歩いても5分程の距離ですが、
参道を上ると美濃市街が一望できる山麓にあります。
慈雲山善應寺(じうんざんぜんのうじ)は、
『戦国時代末期に鉈尾山城(今の古城山)の城主であった佐藤氏に仕えていた山田伊右衛門は
関ヶ原の戦いで西軍に付き戦死した主君の菩提を弔うため、元和2年(1616年)に上有知(こうづち)に月鏡庵を開創。

道路沿いに建つ寺標の横の石畳を進む

枝垂れ桜と紅葉の奥にある山門
その後、寛永年間に鈴木与三右衛門が開基となって松森の地に開創。寛文8年(1668年)に
鈴木仏統の尽力に拠り現在地に移転し、月鏡庵と併合して新たに善應寺として開創した。
現在の本尊はその時に造られたものである。延宝5年(1677年)には長霊正鎮和尚を開山として招いている。
歴代住職は現在まで27世を数えるが、十一世・玄透禅師、十七世・禅知和尚は名僧として知られる。

山門近影
かつての寛保4年(1744年)築の山門は老朽化のため平成10年に再建された。

山門に続く鐘楼門
右にあるのは保育園。

境内全景
以前は鬱蒼とした杉木立に囲まれていたが、伊勢湾台風で殆どが倒壊。
本堂脇の桧一本を残すのみになった。
文政12年(1829年)には火災に遭い天保6年に山門・鐘楼門を残して再建された。
尚、山門は寛保4年(1744年)築の山内で最も古い建造物であったが、
傷みが激しく平成10年に新たに再建している。』 とあります。

玄関と本堂

本堂正面

本堂内陣で参拝
参道の石段を経て山門から鐘楼門へと上ると、本堂を正面に庫裏と坐禅堂である円通堂が対峙。
再建とはいえ、300年の禅宗の伝統は伊達ではありません。
唯、台風で古木がないのは寂しく、枯山水の前庭があるだけに残念でした。

円通堂(坐禅堂)
本堂の左手に建つが、余り使用されていない様子であった。

本堂前の枯山水庭園
御朱印を御願いしようと、ベルを押すも返事なし。
山門脇に保育園があったので伺うと、お寺が経営する美濃保育園だそうで、
親切にもお寺の方に連絡して下さいました。その答えは、
保母さん;「先代が先月に亡くなったので、御朱印は書けないそうです。」
和辻;「それは残念。」
保母さん;「でも本堂内に印が置いてあるので、自分で押して頂くのはOKだそうです。」
和辻;「代金はどうしましょう?」
保母さん;「賽銭箱に適当に入れて下さいとの事です。」
と言う遣り取りの後、本堂に参拝して自ら押印。本堂には立派な説明書があったので頂きました。
見本があったのでそれに倣いましたが、こんなことは初めて。
墨書はなしですが、自分で書いた【僕書】で御朱印となるのでしょうか?

善應寺説明書
本堂内陣にて頂く。

説明書にある開基夫妻の肖像画

善應寺御朱印
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長栄山 来昌寺(浄土宗西山禅林寺派 美濃西国三十三ヵ所第三番札所)
大福で一服した後は、うだつの町並みを囲む道路の外にある美濃西国札所へ。
長栄山来昌寺(ちょうえいざんらいしょうじ)は、
『天正2年(1575年)、法空寿養に拠り開山。
金森長近が城下町を整備した際に、町の鬼門除けとして現在地へ移転した。
本堂には多数の鬼瓦が使用されており、魔除けの意味を持つとされる。

陽が西へ傾く頃に到着

山門近影

境内から見た山門
脇には棕櫚と満天星が。11月23日には「どうだんつつじお茶会」が開催される。
本尊は阿弥陀如来だが、眼を守る観音様として柳谷観音、円空作の伝わる聖観音菩薩があり、
多くの参拝者を迎えている。山門前には槍ヶ岳山頂の登頂者として知られる幡隆上人の石碑が建つが、
これは上人が天保2年(1811年)に来寺した際に記したものである。』 とあります。

本堂と枝垂れ桜
柳谷観音様、円空作の聖観世音菩薩像を祀る。

本堂の「長栄山」の扁額と向拝の龍の彫刻

唐破風の玄関
鬼瓦が見下ろすとあるので、怖いお寺を想像しましたが、訪れてみると至って普通の敷居の低いお寺。
円空仏は見られませんでしたが、彼も庶民の目線で多くの仏を彫った人ですから、その意識は共通するものがありました。

塀際にある楠の巨木と紅葉

山門前に建つ幡隆上人の名号石
上人は越中出身の念佛行者で槍ヶ岳初登頂者。この石碑は天保2年(1811年)に来昌寺に招請された際の書を刻したもの。

来昌寺御朱印
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うだつの上がる町並み
清泰寺参拝後は次の札所ですが、美濃市街まで戻ったので、昼食も兼ねて市街地散策。
『美濃は長良川左岸の小倉山城の築城に合わせて造られた城下町。
156号から東側に入った一番町・二番町の二筋の大通りを中核に明治から大正・昭和と拡張された。

二番町通りの南に面する重文・小坂家住宅
安永元年(1772年)頃の尾張藩政下から酒造業を営む。丸みを帯びた「むくり屋根」が特徴。

小坂家住宅のうだつ

同じく二番町通りの古川家住宅
明治初期の建築で、江戸時代は呉服商。現在はそば切り「まる伍」として営業。

古川家住宅説明

古川家のうだつに隣接してうだつを建てた稀有な例
「うだつの上がる町並み」として知られるこの一帯は明治末まで上有知(こうづち)と呼ばれ、
商業の中心地として発展し、現在は重要伝統的建造物群保存地区として今に伝わる。』 とあります。

北に面した鈴木忍家住宅
庇の上にある祠は秋葉様を祀っている。

鈴木家住宅説明

旧今井家住宅
一番町北に面した泉町にある。

今井家玄関
かつての紙問屋で、うだつの上がる家としては市内最大規模。現在は美濃史料館として開館している。
「うだつ(卯建)」は元来火災の際に、隣家からの類焼を防ぐための防壁。
城下町から商家町へと発展した上有知では、次第にこのうだつが防火の機能と共に商人の権威の象徴となり、
商人は競ってうだつを建てるようになったとか。皆に【承認】されたかったのでしょうが、
結構な金額が掛かったようなので、「うだつが上がらない」人も多くいたに違いありません。

旧武藤家住宅
一番町通り南、観光協会番屋の向かいに建つ。金森長近が招いた刀鍛冶が発祥。

旧武藤家説明

武藤家前にある馬繋石

一番町通り南の卯建連棟家屋

北側の家は美濃和紙アートを展示

一番町通りを望む

うだつ連棟の近影

旧武藤家の脇から東方面を見る
このような繁栄の源になったのは美濃和紙。良質の原料が周囲にある上に、清流にも恵まれました。
紙漉きには清水は不可欠ですが、周囲の河川はその輸送にも恩恵を与えました。
現存する最古の美濃和紙は702年の正倉院所蔵の断簡。
これは揖斐川流域ですが平安時代には美濃周辺に移動。
板取川の中濃地区は土岐氏の奨励もあって和紙作りが発達。
大矢田地区には定期市も立ち、美濃和紙の名は全国的になります。

番屋から156号線に抜ける細道
老舗旅館や和菓子店が並ぶ。

老舗和菓子店

旧須田邸
156号を渡った場所にある旧家。

須田家説明

雁行する三棟が並ぶ須田家
江戸時代には障子紙・書院紙・小菊紙等、多種の和紙を生産し、徳川幕府に御用和紙として納めたと言います。
和紙を中間的に商う商人が出現するものこの頃。
明治以降は衰頽すると思いきや、いち早く海外貿易に目を向け販路を拡大しています。

一番町通りの大石家
今は大石華表堂として営業。

技巧を凝らした大石家うだつ

隣接する「美濃だんご あかり」
私たちには和紙と言えば障子と書道くらいしか浮かびませんが、洋紙の寿命が100年とされるのに比べ、
和紙の寿命は千年以上。その丈夫で長持ちする点が最大のメリットだったと思います。
いくら良いものであっても売れなければ金になりませんから、紙を扱う人々が常に先を見ていた事が
今に続く発展の基礎。紙は漉いても隙は見せなかった事に尽きましょうか?

西尾家住宅
現在は「茶房とみや」として営業。

西尾家説明

茶房一押しの「クリームわらび大福」で一服

駅に帰る途中の「此の花亭」

「たらちね」が売り切れだったので、こちらを土産に

美濃郵便局 ; 美濃紙、紙漉き風景、花御輿、奥長良峡
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知りたい、歩きたい! 美しい「日本の町並み」: この国の「原風景」に戻れる場所 (知的生きかた文庫) 新品価格 | ![]() |

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