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紀州街道 山中宿と山中神社(大阪府阪南市山中渓)

2021.03.31(21:07) 858

今は山中、今は花(2021.3.27)

<コース>
【往路】JR天王寺(6:49) → JR紀三井寺(7:58) → 徒歩10分 → 紀三井寺

JR紀三井寺(10:08) → JR和歌山(10:15→10:20) → JR岩出(10:41) → レンタサイクル20分 → ねごろ歴史の丘 → レンタサイクル5分 → 根来寺

【復路】JR岩出(14:44) → JR和歌山(15:06→15:10) → JR山中渓(15:26) → 徒歩5分 → 山中宿・山中神社 → 徒歩3分 → 子安観音地蔵尊 → JR山中渓(16:13) → (紀州路快速) → JR大阪(17:28)

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JR山中渓駅 上りホームにて

 紀州の二ヵ寺で観桜を堪能して和歌山駅に戻ったのが15時過ぎ。ここからお城まで行くと中御半端な時間になるので

帰路につきましたが、和歌山県から大阪府に入った最初の駅で途中下車。山中にあるその名も山中渓(やまなかだに)という

無人駅ですが、駅の周辺には桜が植えられており、知る人ぞ知る名所。近畿では東海道線のさくら夙川に匹敵するでしょうか?

普段もハイキングコースですが、この時期は特に多く、駅の上り下りホームにはカメラを構えた人が多数。

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ホームの端で列車の通過を待つ人達

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駅跨線橋から大阪方面を望む
駅周辺のソメイヨシノは満開。

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JR山中渓駅スタンプ  但し無人駅のため隣の和泉砂川駅に設置
(上) JR発足後の設置印  (下)2008年JR西日本和歌山支社印

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駅前からホームを望む

 このまま次の列車に乗るのも手ですが、ここはかつての宿場なので、少し足を伸ばして散策することに。

山中宿は、

『和泉山脈から流れ出る山中川の渓流地帯にあって、雄山峠越えで和泉と紀州を結ぶ古道が通っており、神武天皇東征の

道であったと言われている。古くは南海道と呼ばれたが、平安中期頃から熊野三山へ向かう道であった事から、熊野古道、

紀州街道と呼ばれるようになった。

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駅前の分岐点に建つ道標

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案内板

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宿場入口付近を北から見た所

 古くは南海道と呼ばれたが、平安中期頃から熊野三山へ向かう道であった事から、熊野古道・紀州街道と呼ばれるように

なった。この熊野古道と山中川沿いに古くから家が建ち始め、平安から江戸時代にかけて全盛を極めた宿場町である。

 旅籠も本陣はじめ二十数軒あり、紀州徳川藩の参勤交代時には近隣より三千人もの人夫、助人がこの山中宿に集い、

炊飯・運搬・補給などの業務に当たった。

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山中宿本陣跡地 三澤家

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本陣跡地説明

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街道北側から見た本陣跡地

 街道沿いの宿駅、馬継ぎ場として栄えた面影が今も残り、平成6年にはこの山中渓地区内の旧街道は国の指定する

「歴史街道」として石張・照明等が整備され保存される事となった。』 とあります。

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旅籠「とうふや跡」
昭和まで残っていた最後の旅籠。尚、「とうふや」は屋号で豆腐を商っていた訳ではない。

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街道を通り北へ向かう

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街道沿いの家屋には「まちかど博物館」の看板が
鬼瓦が特徴的な家。

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屋根の下に鎮座するのは鍾馗様?

 両側から山が迫って居り、阪和道、64号線も直ぐ横を走ります。平地は狭いながら交通の要衝だったことが、

早くから宿場として栄えた理由でしょう。
 歴史街道として整備されたのは、駅前の64号線から右に分かれ、山中川に架かる向田橋付近で再び合流する

300m程の区間。行政区では阪南市ですが市の中心からは遠く、離れた家も多そうです。

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旧庄屋屋敷

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庄屋屋敷説明
関西は「庄屋」、関東は「名主」と呼ぶのは初耳。

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64号線から見た旧庄屋屋敷

 宿場の雰囲気は十分ですが、資料館などは一切なし。今に残る家は生活臭があり、観光地化した宿場とは一線を画した

ものがあります。食事処もなさそうでしたが中程に修復中の家屋が。壁を塗っていた女性に訊くと、食事処とマリンショップを

兼ねた店だそうで、明日28日が開店との事でした。食事はカフェ以外には「卵かけ御飯」、智頭急行にもそのような店があったと

記憶しているので、今の流行りでしょうか?

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旧庄屋屋敷の北に面した家
門の構えがいかにも武家屋敷風に見える。

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無住の空き家をカフェに改装中

 街道を歩いていると、細い道の奥に山中神社の看板が。山中神社は、

『承暦3年(1079年)8月8日、澤四郎善眞が紀州の岡崎より信仰する八王子神(あまのほひの命)を持ってこの地に移住し

祀った事が始まり。後日、神のお告げに拠り西北の高山頂上に八王子神社上之宮を建立した。

 現在の山中神社には上之宮より移した八王子神(本地十一面観音)を祀る社と、熊野古道九十九王子の一社である

馬目王子の社がある。元和3年(1613年)頃、この観音は盗難に遭ったがいつの間にか元の社に返されていたと伝わる。』

とあります。

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この駒札の左から神社へ向かう

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山中神社由来記

 街道から細道に入った先にひっそりと鳥居が建ち、道はそこで行き止まり。まさに【建つ鳥居、後に続かず】という謂いが

ぴったりきます。山中渓にある山中神社とはそのままですが、それ程地域密着型の社だった証拠。無人で社務所もなく

祠があるだけの簡素な造りですが、それが却って【ほこら】しげに見えました。

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道の先に建つ鳥居

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手前にある馬目王子社

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少し高所に建つ八王子社

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道の駅「ねごろ歴史の丘」と根来寺の桜(和歌山県岩出市根来)

2021.03.30(21:34) 857

春は寝頃、花は見頃(2021.3.27)

<コース>
【往路】JR天王寺(6:49) → JR紀三井寺(7:58) → 徒歩10分 → 紀三井寺

JR紀三井寺(10:08) → JR和歌山(10:15→10:20) → JR岩出(10:41) → レンタサイクル20分 → ねごろ歴史の丘 → レンタサイクル5分 → 根来寺

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一乗山 大伝法院 根来寺(新義真言宗総本山)

 紀三井寺で参拝と観桜した後は、和歌山線に乗っての一つの桜の名所の根来寺へ。

といっても、和歌山線は30毎の運転で、寺院は駅から5㎞と紀三井寺に比べると遥かに厄介。

JR岩出駅前からレンタサイクルを利用ですが、さて昼食は何処で?と悩んでいると、窓口の御姉様が

「根来寺の近くでも食事できますよ。インターを降りた場所にはラーメン店もありますし…。」

とアドバイス。お店の名前は不明でしたが、道沿いに「武者麺」の看板が…。濃厚と銘打ったにしてはさっぱり味。

つけ汁に入った柚子のせいでしょうが、和歌山ラーメンも色々バリエーションがあるようです。

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JR岩出駅 歴代駅スタンプ いずれも国宝の根来寺大塔が描かれている
(左上) 国鉄時代最後の「わたしの旅印」  (右上) JR民営化以降に設置の和歌山支社印
(下) 2008年設置のJR西日本和歌山支社印

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昼食は、インター下の「武者麺」にて 濃厚つけ麺 ¥900

 前回は駅前しかなかった筈ですが、27年も経てば変わるのは当然。寺へは少し迂回路になりましたが、

教えて貰った店で昼食を摂った後は、道の駅で甘味で一服。

「ねごろ歴史の丘」と言うだけあって資料や遺跡も展示されており、しかも無料。参拝前の下調べができました。

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道の駅に隣接する土産店にて「虹色パフェ」で一服

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道の駅に隣接する重文・旧和歌山県議会議事堂
明治31年(1898年)に和歌山市一番町に建築されたものを移築した。

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議場の内部

 現在の根来寺の境内は36万坪。これだけでも大概広いですが、全盛期とされる戦国時代には、平地だけでなく、

和泉山脈から南へ延びる丘陵上や谷筋までが全て勢力範囲。寺領72万石、子院と呼ばれる坊が300余り、僧侶と

僧兵を併せた人数が3万人と、これは寺院を越えた一大都市勢力です。

 これだけ勢力を持てば権力者が怖れない筈はなく、豊臣秀吉と対立したことが天正13年(1585年)の雑賀攻め、

主要伽藍焼失に繋がりました。

道の駅の傍には発掘された階段・排水施設、半地下式倉庫の遺構が展示されており、かつての隆盛が偲ばれました。

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道の駅に隣接する「階段遺構」

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こちらは半地下四季倉庫

 根来寺へは大門を過ぎて入山受付へ向かうのが常ですが、この日は直接受付へ。大門は帰りに見る事になりました。

歴史の丘から道を東へ800m程下ると、いよいよ根来寺門前。途中からでも全体が白い桜の様子が見えます。

私の独断では、和歌山県の桜の名所は、和歌山城、紀三井寺、根来寺 の順。紀三井寺は早朝の事もあり

人出は疎らでしたが、根来寺は昼過ぎもあって駐車場待ちの状態。こんな時には自転車は本当に助かります。

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根来寺大門
一山の総門で嘉永3年(1850年)の再建で左右には金剛力士像を配する。受付までは1㎞弱。

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大門裏側
ここに駐車して観光する人も多数。

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入山受付の横の駐車場に駐輪(無料)
奥に国宝・大塔が見える。

 大門から続く桜並木、受付脇の大谷川沿いが桜の名所ですが、その他に境内の多くの建物を囲むように桜が

植えられています。しかし前の二ヵ所に比べると根来寺は桜以外の紫陽花や楓も豊富で四季の変化に合わせて

花を楽しむ事ができるのが特徴。これは単なる鑑賞目的ではなく、植物の薬効にも注目したためかもしれませんが…。

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大谷川沿いではキャンパスを立てている人の姿も

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大谷川沿いの桜

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受付からの眺め
道路の向こうは古民家カフェレストラン「初花

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初花」入口
今回はスルーだが、次回は期待。

 戦国時代には寺領72万石、子院300余、僧侶と僧兵の総人数が3万と一大宗教都市を形成し、宣教師

ルイス=フロイスの記録にも「当時日本で最も栄えた寺院の一つ」として世界地図上でもNegraと記されています。

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参道の先の鐘楼門

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光明殿
開山・興教大師覚鑁の尊像を安置する。

 それよりも気になったのは、どうしてこれだけの人数を養うことが出来たのか?荘園や関所の通行税だけでは難しそうです。

資料館の方の話では、種子島に伝来した鉄砲をいち早く持ち帰り、鉄砲体を組織した事が大きかったようです。

各地で戦乱に明け暮れた時代には、僧兵も重宝されたに違いありません。勝手な想像ですが、鉄砲や火薬も手広く

販売していたのではないでしょうか?

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聖天池の周囲の桜と光明殿を配初めとする堂

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本坊前の桜

 「僧籍にある人間が、武器と傭兵で金儲けをしてどうすんねん!」と現代の考えで推し量るのは無理と言うもの。

己の身は己で守らなければならない時代にはそんなことは言って居れません。
  
早くに情報を得られたのは修験者の活動に加え、素破(すっぱ)・乱破(らっぱ)と呼ばれた諜報活動者の存在がありました。

忍者で有名な根来なら当然の事。スッパイ(素破)は成功の基を地で行く話です。情報を重視したのは信長にも通じるものが

ありますが、それが将来的に敵対する事になった気がします。

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大師堂と桜

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桜の向こうに見える国宝・大塔

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大日如来を祀る大塔

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紀三井寺の桜(和歌山市紀三井寺)

2021.03.29(22:46) 856

早起きして早咲き桜に来見いてら!(2021.3.27)

<コース>
【往路】JR天王寺(6:49) → JR紀三井寺(7:58) → 徒歩10分 → 紀三井寺

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紀三井山 金剛宝寺 護国院(救世観音宗総本山 西国三十三ヵ所第二番札所)

 “弥生も末の七日、曙の空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、紀伊の峰々かすかに見えて、

和泉紀州の花の梢またいつかはと心細し” と風雅な気分には程遠いですが、今年初めての桜を求めて紀州路へ。

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寺院と早咲き桜が描かれているJR紀三井寺駅歴代スタンプ 
(左上)国鉄時代最後の「わたしの旅印」  (右上)JR発足後の和歌山支社印
(下) 2008年JR西日本和歌山支社印

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駅東側の街道を南下すると先ず裏門に至る
ここから参拝の可能だが、楼門へ回る事に。

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楼門への途中から見た境内

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楼門下に到着
石段右が受付(入山料¥200)で、朝8時に開門。

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楼門から境内まで231の石段を登る
27年前はこれしかなかったが、今はエレベーターも設置されている。

『西国三十三ヵ所第二番札所として知られる紀三井寺は、境内から和歌浦湾一帯を見渡せる景勝地であるが、

「日本さくら名所100選」にも選ばれている観桜の名所。本堂に向かって左側の桜の木が和歌山地方気象台の

ソメイヨシノの標準木に指定されており、近畿地方では最も早く開花する。そのため、近畿に春を告げる寺として

知られる。』 とあります。

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石段先を左折すると桜に覆われた参道の先に本堂が建つ

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本堂前の標準木
幹の上にカメラが…。

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標準木越しに見た本堂

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標準木の満開のソメイヨシノ

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本堂納経所横の絵馬殿から見た標準木

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本堂前の満開の桜

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絵馬殿から和歌浦方面を望む
赤い欄干の先にはエレベーターがある。

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本堂前より桜の参道を見返る

 前日の開花予想で確認。和歌山駅から二駅ですが、翌28日が雨の予報なので混雑を避ける為に朝8時に到着。

流石に混雑という程ではありませんでしたが、それなりに参拝客が来始めているのは桜の名所由縁。例年よりも

随分早い開花ですが、まだ散るには至っていませんでした。この分では来週末まで大丈夫でしょうか?

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本堂前にて
右の庇の下に見えるのがドローン。

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大師堂脇の石段を上り多宝塔へ
遥か向こうには和歌浦が見える。

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石段途中から桜に囲まれた本堂を見る

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境内で最も高い場所に建つ多宝塔

 楼門を過ぎ231段の石段を上り左に向かうと本堂。参道には桜が咲き本堂に近付くと囲まれる状態。その先に、

よくTVで見る標本木がありました。固定カメラが設置されているのは、時間を追ってチェックするためでしょうか?

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石段の右手に平成20年落慶の仏殿

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桜越しに見た仏殿

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仏殿前から北側、本堂方面を見る
手前の桜は234の石段脇のもの。

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仏殿前から西方、和歌浦方面を見る

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仏殿前の桜

 本堂前ではテレビ局のスタッフと思しき人達が撮影の準備中、ニュースで開花状況を放送するのでしょう。

ふと上から音がしたので見上げると境内にドローンが。通常は駄目ですが特別に許可されているのでしょう。

上空からの眺めは気になりますが、【空見た事か!】とはならないように注意が必要。好天に恵まれたので

問題はなさそうです。やっぱりドローンは【太陽がいっぱい】に限ります。

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和歌浦の眺望

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和歌浦干潟を望む

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仏殿前の正博桜と和代桜

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正博桜と和代桜の説明

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日本のエーゲ海 牛窓(岡山県瀬戸内市牛窓)

2021.03.28(20:14) 855

牛が窓から「ええ下界!」(2021.3.13)

<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → (快速) → JR姫路(7:30→7:31) → 東岡山(8:52→9:08) → (赤穂線) → JR邑久(9:20) → JR邑久駅(9:40) → (両備バス) → 牛窓(10:02)

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牛窓港から東方を望む

 丑年の2021年、牛に所縁の天満宮三社にモー出ましたが、今度は牛の名前の付く場所へ行ってみることに。

といっても牛津(オックスフォード)は余りにも遠いので、瀬戸内にある牛窓まで。

 前日から家を出るまでは生憎の空模様でしたが、現地へ到着するころには快晴。予報通りではありますが、

この日はJRのダイヤ改正の当日。ダブル【かいせい】で晴男の面目躍如と言った所です。

 竹久夢二の故郷である赤穂線の邑久(おく)で下車してバスで海に向かって更に奥に12㎞行った終点。

まさに【夢路より来りて】です。30年前の訪問時、駅は邑久町、終点は牛窓町と全く別の行政区でしたが

平成の合併で瀬戸内市に。合併が必ずしも悪いとは言えませんが、町のイメージが全く変わってしまうのは否めません。

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赤穂線JR邑久駅前にある竹久夢二碑

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バスの終点 牛窓にて
停まっているのは、前島行きフェリー。

『牛窓の名の由来は、神功皇后の一行が船でここを通りがかった際に、邪魔をしようと現われた牛鬼(うしおに)が

投げ飛ばされたことで、牛転(うしまろび)が訛って牛窓になったことに拠る。
  
縄文時代から人が住んだ形跡がある昔から重要な場所であった。江戸時代以前は瀬戸内海が国内の物流の

大動脈だったので、牛窓千軒と言われる程の繁栄。江戸時代には朝鮮通信使の受け入れ港でもあった。

今でも街道沿いには古い街並みや寺社が残る。

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牛窓バス停前から「古い町並み」へ向かう

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「しおまち唐琴通り」案内図

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江戸時代の道幅のままの唐琴通り

 風待ち、潮待ちの古い港町であるが、近年は「日本のエーゲ海」を前面に押し出している。ヨットハーバーやペンションがあり、

年間を通して若い世代が集まる場所。温暖少雨の地中海に似た気候、波静かな海と島々、オリーブ園と欧風の雰囲気があり、

ギリシアのミティリニ市と姉妹都市提携を結んでいる。』 とあります。

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和洋船舶用品商 木崎商店
船で繁栄した場所柄、このような店も。

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本町付近の町並み
ここを抜けると船留りへ。

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本町の船留り
江戸時代は御茶屋、湊在番所、足軽屋敷等、岡山藩の施設が並んだ。

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本町の船留りで西を望む
明治以降は漁師の住いが並んだ場所である。

 牛転が訛って牛窓とは落語の様な話ですが、大阪の樟葉にも似たような話が伝わっており、古代の町の由来には

よくある話。決して【誇大】広告ではありません。神功皇后の事は伝説でしょうが、それくらいの古から発展した港町。

最近になって発展した町ではなく、昔からの町の上に新たな街を重ねたと言った方が良いでしょう。

かつての牛窓千軒は今やエーゲ海宣言の町。通常「日本の○○」と言った場合は二番煎じで首を傾げるものも多いですが、

ここはあまり違和感がなし。古いものを徒に破壊するのではなく、古いものを残しながら発展してきた歴史の厚みが

そう思わせるのでしょう。

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牛窓燈籠堂跡
17世紀後半に建てられ唐琴の瀬戸を行く船の安全を見守った。堂は明治に無くなったが、かつての石垣の上に昭和63年再建。

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燈籠堂跡の説明

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燈籠堂の石垣から唐琴の瀬戸を望む

 気候風土は兎も角、オリーブ園は昭和15年に小豆島から移植したのが嚆矢とあるので、歴史としては新参。

アテナイは小麦の時給ができず、風土に合った商品価値の高いオリーブを交易することに活路を見出す。そのために

海運が発展し、漕ぎ手であった市民の発言力が大きく民主主義が興った、というのは古代ギリシア史の「いろは」ですが、

牛窓にはそのような歴史の歩みはありません。

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唐琴通り東町にある若葉屋(東服部家)
文政年間に梶屋から材木業部門を分家、名主を務めた。750坪の敷地に明治43年から15年を費やし、奥座敷・茶屋・土蔵を配す。

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若葉屋に隣接する「うしまど茶屋

海が迫り耕地は少ないようですが、斜面を利用したレモン栽培が有名。加えて牡蠣や穴子など海の幸にも恵まれた場所。

昼食は案内書で教えて貰った民宿「青島」の1階で穴子重。鰻に比べるとあっさりしたイメージのある穴子ですが、ここで

食べたものは濃厚な味。「厳選肉厚上あなご重」の名に偽りはありませんでした。

早々と体制側に組み込まれ、発展を遂げたのがその理由でしょうか。今でも高台に登れば瀬戸内海が一望できる場所が

多々あり、治める側には【ええ下界!】と見えた事でしょう。

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唐琴通りの先、牛窓海水浴場に建つ万葉歌碑
・牛窓の 浪のしおさい 島とよみ よさえし君に 逢はずかもあらむ  伝 柿本人麻呂

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牛窓神社への途中、望洋亭からの眺望

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昼食は牛窓ヨットハーバーにある民宿「青島」にて

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厳選肉厚上あなご重 ¥2880

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正明寺(滋賀県蒲生郡日野町松尾)

2021.03.26(20:39) 854

檜皮葺本堂のある禅宗寺院(2021.3.6)

<コース>
【往路】JR大阪(6:21) → (快速) → JR近江八幡(7:38) → 近江八幡駅南口(7:45) → (近江鉄道バス) → 向町(8:25)

向町 徒歩5分 → 馬見岡綿向神社 → 徒歩10分 → 信楽院 → 徒歩15分 → 正明寺

【復路】大窪(14:32) → (近江鉄道バス) → 近江八幡駅南口(15:20) → JR近江八幡(15:36) → JR大阪(16:42)

283-6-1.jpg
法輪山 正明寺(黄檗宗)

 氏神様、菩提寺と日野商人街道沿いに参拝しましたが、この日最後の参拝は綿向街道である国道477を越え北に1㎞

程の場所。街中ではなく小高い丘の木々に囲まれた場所に寺標が表れますが、その佇まいは以前訪問した石塔寺に酷似。

同じ東近江だからでしょうが、こちらは石ではなく檜皮葺であるのが大きな違いでしょうか?

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道路の先にある入口

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御由緒

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木々に覆われた参道を進む

法輪山正明寺(ほうりんざんしょうみょうじ)は、

『推古天皇の頃、聖徳太子の創建とされる。平安以降は天台宗に属し、寺領は松尾全域に及び、93の末寺と300人余りの

僧を擁していた。鎌倉時代には禅宗に改宗したが、戦国時代の兵乱で一山悉く焼失。戦火から救い出された僅かな仏像が

村人たちに拠って粗末な草堂に祀られている状態であった。

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山門近影

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山門前の地蔵堂と墓石群

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山門正面には本堂が建つ

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参道右手の禅堂と鐘楼
禅堂の屋根は銅版葺であり檜皮葺の本堂と対照的である。

 江戸時代になり村人の頓宮宗右衛門が正明寺の再興を発願し、寛永20年(1643年)に永源寺管長・一糸(いっし)和尚が再興。

正保2年(1645年)には後水尾上皇から御所の清涼殿を拝領し、本堂として再建した。

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重文の正明寺本堂
方五間、寄棟造、檜皮葺で桃山建築の粋を見せる。

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本堂正面の唐破風の向拝

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唐破風の向拝と対照的な勾配の寄棟屋根

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横から見た破風と屋根の出っ張り

 再興に尽力した一糸和尚は40歳で入寂。寛文4年(1664年)には後水尾上皇の信任篤い黄檗山萬福寺の龍渓禅師を

中興開山として迎え黄檗宗に改宗。禅堂・経堂等を整えて専門道場の寺格を備えた禅道場となった。』 とあります。

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本堂前から山門を見る

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後水尾天皇真筆の「正明寺」の勅額

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済堂前からの眺め
これから本堂前を抜けて開山堂へ向かう。

 ここも聖徳太子まで遡る古刹ですが時代と共に改宗。天台宗から臨済宗を経て最終的には黄檗宗に。

周囲が木々に囲まれている割には境内が枯山水的なのは禅宗の影響でしょう。

御朱印を御願いすべく、庫裏に回って大魚板を鳴らそうとすると丁度御住職が帰って来られたので無事拝受できました。

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放生池の奥に建つ経堂
一切経五千有余巻を収める。

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龍渓禅師像を安置する開山堂

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経堂前からの眺望
放生池、廊下、本堂と続く。

和辻;「近江の札所で黄檗宗は珍しいですね。」

住職;「黄檗宗の寺院なら40ヵ寺ありますが、札所で御朱印をしているのはうちだけです。」

和辻;「この辺りは永源寺の影響で臨済宗が強いと思ったのですが。」

住職;「やはり再興の一糸和尚が夭逝したのが大きかったようですね。」

“企業は人”とは良く聞く言葉ですが、“寺院も人”であるのは企業と同じ。【いっし】相伝とはいかなかったようです。

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本堂と庫裏を繋ぐ玄関

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済堂内にある大魚板

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正明寺説明書

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正明寺御朱印

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信楽院(滋賀県蒲生郡日野町村井)

2021.03.25(20:27) 853

蒲生家菩提所にある雲龍図(2021.3.6)

<コース>
【往路】JR大阪(6:21) → (快速) → JR近江八幡(7:38) → 近江八幡駅南口(7:45) → (近江鉄道バス) → 向町(8:25)

向町 徒歩5分 → 馬見岡綿向神社 → 徒歩10分 → 信楽院

283-5-1.jpg
佛智山 信楽院 大松寺(浄土宗)

 最初に日野の氏神様に参拝した後は、街並みを眺めながら西行する訳ですが、じきに商人街道から南に蒲生家菩提寺の

大きな石標が見えます。領主の菩提寺ならばと、敬意を表して早速お参りすることに。

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日野商人街道に建つ寺標

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門前の御由緒

 佛智山信楽院大松寺(ぶっちざんしんぎょういんだいしょうじ)は、

『聖武天皇の勅願所として天平年間に甲賀の信楽に建立されたのが嚆矢。

その後、貞和5年(1349年)に当山の阿弥陀如来に感銘を受けた蒲生高秀の懇願に拠り日野小御門の城内に安置され、

その時以来、天台宗寺院として蒲生家代々の菩提所となった。

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安政5年(1858年)再建の表門
棟梁、南卯兵衛の作。

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表門の「佛智山」の扁額と向拝の彫刻群

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門扉の孔雀と牡丹の彫刻

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境内から見上げた表門の彫刻

 文明16年(1484年)に蒲生貞秀が新たに築城した音羽城の内に庵を造り、金勝の阿弥陀寺住職・厳誉宗真(ごんよそうしん)上人

を初代住職に懇願。浄土宗寺院に改宗したのはそれ以降である。

享録4年(1531年)には西大路に築かれた中野城内へ移転するなど、蒲生家との繋がりが強くなった。

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門から見た境内
手前は記念植樹の枝垂れ桜。

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庫裏と本堂
庫裏は寛延元年(1748年)、棟梁・田中善右衛門による再建。

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本堂近影
本堂は元文2年(1740年)、京都東寺五重塔の棟梁・高木但馬の上棟。

 しかし天正12年(1584年)の蒲生氏郷の松阪転封時には日野に留まり、更に会津への転封後には日野が水口城主・長束家の

支配地になった事も重なり荒廃した。慶長元年(1596年)には檀家代表が会津藩主・蒲生秀行にその窮状を訴えた結果、

再び蒲生家の庇護を受けるようになり、翌2年に現在の場所に本堂が建立された。

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本堂の「法王殿」の扁額
前面に土間があるのは浄土宗寺院としては特異な形式である。

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本堂前から境内を望む

本堂の天井には日野出身の画家・高田敬輔が寛保3年に描いた雲龍・韋駄天・八大龍王、飛天の水墨画が掲げられている。

寛永11年(1634年)の蒲生家断絶の後は、檀家の合力に拠って護持を続けて今に至っている。』 とあります。

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本堂天井の雲龍図
寛保3年(1743年)日野出身の画家・高田敬輔(たかだけいほ)の水墨画。縦・横11mの大作である。

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天井画左・韋駄天

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天井画右・八大龍王

 聖武天皇まで遡る古刹ですが、大きく発展したのは当地へ移転し蒲生氏の菩提寺になって以降。檀家に恵まれて

【ひの】眼を見る事になった訳です。蒲生家は氏郷の代に戦国大名にのし上がりますが氏郷自身は松阪へ転封。

日野に残った信楽院は、遠方の蒲生家及び地元の檀家に拠って危機を乗り切った様子。日野商人の経済力が

あったとはいえ、その経済力の元になったのが蒲生氏郷の治世だった事を思うと、彼の陰徳が寺を支えたと言えるでしょう。

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秘仏堂前から見た大師堂と本堂
大師堂は文化7年(1810年)、施主・脇村貞月に拠り建立。秘仏堂は昭和54年の再建。

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明治28年(1895年)、棟梁・坂田吉兵衛が再建の鐘楼
梵鐘は貞享2年(1685年)の鋳造。

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境内にある蒲生氏郷公の遺髪塔

 信楽を「しがらき」と読むのは有名ですが、「しんぎょう」とは難読。御朱印を御願いした住職夫人に尋ねると、

信楽にあった頃から「しんぎょう」と読んでいたそうですが、由来は分かりませんでした。真相が【陽の】眼を見るのは

【しがらき】先になりそうです。

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信楽院説明書
全6頁に亘り詳細な説明があり、特に棟梁や施主の名が記録されている。

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信楽院御朱印

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馬見岡綿向神社(滋賀県蒲生郡日野町村井)

2021.03.24(21:11) 852

日野祭を主催する氏神様(2021.3.6)

<コース>
【往路】JR大阪(6:21) → (快速) → JR近江八幡(7:38) → 近江八幡駅南口(7:45) → (近江鉄道バス) → 向町(8:25)

向町 徒歩5分 → 馬見岡綿向神社

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馬見岡綿向神社(式内社 旧県社)

 この日最初の参拝は、昔の街並みの東端、向町から北へ。ふるさと館の前を通り突き当りにある広大な敷地が目指す社。

場所といい、規模といい、この地区の氏神様であるのは素人にも分かりました。

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日野商人街道から北へ向かう入口に建つ社標と灯籠

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道の突き当りにある結界を示す注連縄
左は若松の森でその奥が神職の御自宅。表札には「社」さんとある。

 馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)は、

『神武天皇の御代、近江日野東方の鈴鹿山系に聳える綿向山(1110m)に出雲国開拓の祖神を迎え祀り、

欽明天皇6年(545年)にその頂上に祠を建てたのが始まり。

御祭神は天穂日(あめのほひ)命・天夷鳥(あめのひなどり)命・武三熊大人(たけみくまうし)命の三柱で、

天穂日命は出雲の国譲りの時、父である大国主命を助けて国土の開拓に当たったとされる。

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注連縄の先にある境内遠望

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境内から振り返った注連縄と巨木

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御由緒

 その後、平安時代の延暦15年(796年)に里宮として現在の地に移され、蒲生上郡の総社、日野の大宮として当地の

産土神として人々の信仰の中心となった。麓に社を移したのは、ある日、山頂から二羽の雁が山裾に向かって飛来した

のでそれを見た村人が神の降臨と思ったからだと言い、そのため神紋は二羽雁となっている。

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太鼓橋の奥の拝殿

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拝殿前から見た太鼓橋と鳥居

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拝殿の扁額は有栖川宮熾仁新王の筆
東征の際に立寄られたのかと思ったが、禰宜さんの話では大正時代になって京都に伺って書いて頂いたそう。

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拝殿の屋根瓦にある御神紋「雲に二羽雁(にわかりがね)」

 鎌倉時代から安土桃山時代にかけてこの地の領主であった蒲生一族は氏神として当社を尊び庇護した。

更に江戸時代には近江商人として名をはせた日野商人達の財力に支えられ出世開運の神として崇敬を集めた。

御本殿と回廊を除く拝殿などの主要建物、灯籠、庭園など彼らの寄進の品々が境内に多く残る。

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本殿正面

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本殿の三段破風

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本殿説明

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本殿前面

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本殿の修飾

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本殿裏にて
説明では、神様により近い「裏参り」を奨励している。

 また絵馬殿には奉納された絵馬も多く、日野の豪商中井家より文化9年(1812年)に奉納された「祭礼渡御図大絵馬」は

蒲生氏郷公の誕生祝として弘治3年(1577年)に盛大に行われた祭礼渡御の様子を日野の絵師・谷田輔長が描いたもので

県の文化財になっている。

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綿向大神の神使い「神猪像」

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猪と神社の関り

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絵馬殿の奉納絵馬

 拝殿脇の五葉松は「千両松」と呼ばれ、関東地方で蓄えた財産を松の盆栽に隠して無事持ち帰った辻惣兵衛が

感謝を込めて境内に植えたもの。現在も道中安全の守護として親しまれている。

 尚、綿向山山頂に祀られる奥ノ宮(大嵩神社)は古来より20年毎に社殿を建て替える式年遷宮の祭事が今も

絶えることなく続けられている。

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拝殿の右にある千両松

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千両松の説明

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千両松の根元には次世代の松と小判が

明治9年に郷社、同2年に県社に列せられ今に至るまで崇敬されている。嘉応2年(1170年)に始まったとされる春季例大祭は

日野祭の名で知られ、湖東きっての祭であり滋賀県の無形民俗文化財に指定されている。』 とあります。

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日野祭のパネル

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拝殿(左)と絵馬殿(右)

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本殿前右にある鎌倉時代の石灯籠

 日野から見て【陽の】上る方角にある綿向山山頂に社を建てたのは自然な発想。その後、麓に移されたのは雁が飛来した

ためとありますが、それは【かり】の姿。参拝には不便だったというのが本音でしょう。平地の方が【うまみがおおか】ったと

言う所でしょうか?

 突き当りの結界を示す縄を過ぎると広い境内があり、更に先に拝殿、本殿が続きます。境内の建造物は拝殿・本殿から

石灯籠・石橋に至るまで立派なもので、江戸時代の日野商人が寄進したもの。儲けが多かった証拠ですが、千両松の話も

考えように拠っては現金持ち歩きには常に危険が伴った証拠ではあります。

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拝殿右奥にある放生池と富士浅間神社

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鳥居前の庭と猪の顔ハメ

 早朝なので社務所も拝殿も閉まっていましたが、暫くすると若い男性が来られて扉を開けていかれました。

尋ねると権禰宜さん。

和辻;「物凄く広い境内ですね。」

禰宜;「土地だけはふんだんにありますので…。」

和辻;「昔は山頂にあったのが、ここに移転されたと聞きましたが…。」

禰宜;「はい。でも年一度の大祭の日には私も白装束で山頂に行きます。」

和辻;「途中まで車ですか?」

禰宜;「いいえ、麓から徒歩です。機会があれば、見に来て下さい。」

和辻;「余所者が勝ってに見に行って良いのですか?」

禰宜;「勿論です。立入禁止区でもないですし、ハイキングの方も歩いて居られますので。」

当社は日野祭が有名ですが、この話のように古代の信仰の形を今も護って居られるとは凄い事。

いつも楽な参拝ばかりしてきましたが、近江商人に倣う必要がありそうです。

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社務所も開けて頂きました

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社務所玄関に飾られた京雛
明治時代に下鴨神社から当社に嫁がれた方が持参されたもの。

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馬見岡綿向神社 ご奉拝のしおり

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馬見岡綿向神社御朱印

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蒲生氏郷の事ども(滋賀県蒲生郡日野町)

2021.03.22(20:05) 851

日野が生んだ蒲生氏郷公(2021.3.6)

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蒲生氏郷公のパンフレットより

 日野を歩いているとよく目に付くのが蒲生氏郷公。

『蒲生氏郷は弘治2年(1556年)、日野の中野城で蒲生賢秀の子として誕生。幼名は鶴千代と言った。

13歳で織田信長の岐阜城へ人質となるが、彼の才能を見込んだ信長は元服させた上、娘・冬姫と結婚させ日野へ帰郷させる。

以後、信長の下で戦功を建て、日野を含む東近江6万石を勢力範囲とした。

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町内にある蒲生家菩提寺信楽院(しんんぎょういん)

 本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕え伊勢平定に活躍。天正12年(1584年)にはその功で、松ヶ島12万石を拝領。

日野から転封した氏郷は町の名を松阪と改名し城下町を整備。日野からも多くの商人が移り住んだ。

 天正18年(1590年)の小田原攻めと奥州仕置きの後は、その功で会津黒川92万石の大大名になり黒川の名を

会津若松に改めた。松阪・会津若松共に故郷の日野にあった森の名前に由来している。

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馬見岡綿向神社前の「若松の森址」
この森が松阪と会津若松の由来となった。

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「若松の森址」説明

 秀吉の朝鮮出兵に従軍し、九州まで出陣したが病のため京都屋敷にて40歳で没。文武両道に秀でた武将としても知られ

利休の筆頭弟子の一人でもあった。また利休切腹の際には養子の少な庵を会津若松城に匿うなど骨のある所も見せている。

城下町の発展にも秀で楽市楽座をいち早く開くなど、商業都市としての日野・松阪・会津若松の基礎を築いた。』 とあります。

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信楽院のある氏郷公の遺髪塔

 戦国大名としての氏郷が有名ですが蒲生氏は中世以降、蒲生郡に勢力を持った豪族。400年に亘り東近江に勢力を張り

室町以降は守護の六角氏に仕えています。

 豊臣秀吉とは異なりれっきとした基盤を持っていたわけですが、氏郷になって大きく飛躍したのは彼の実力。信長が

娘を嫁がせたのもその才能を見込んだからに違いありません。

 一般には武将としての功績が有名ですが、戦での才能もさることながら、和歌や茶道にも優れた文化人としても

知られていました。加えて兵站や補給などの経済的な側面で戦を支えた人物だったような気がします。その辺は

同じ近江長浜出身の石田三成にも通じるものがあります。

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氏郷公が茶の湯に使ったとされる「若草の清水」
信楽院から少し南西に行った場所にある。

 商人が輩出した近江出身である事に加え、転封先に商人が付いて行った事は、彼の経済政策に期待した故でしょう。

古今東西、戦は金喰い虫ですから【死の商人】なら兎も角、日野商人は戦争ばかりする武将には付いては行かないものです。

大大名に出世しながら秀吉に先立っての没は豊臣政権にとっても痛手。5年後の関ヶ原にもし氏郷が存命ならば

日本の勢力図も随分と違ったものになったに違いありません。

日野が生んだ蒲生氏郷公とありますが、日野を生んだ蒲生氏郷公という見方もできるでしょう。

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若草の清水の説明

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近江日野商人の400年 [後編](滋賀県蒲生郡日野町)

2021.03.21(20:44) 850

日野商人の商才の詳細(後編)(2021.3.6)

<コース>
【往路】JR大阪(6:21) → (快速) → JR近江八幡(7:38) → 近江八幡駅南口(7:45) → (近江鉄道バス) → 向町(8:25)

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近江日野商人 ふるさと館 「旧山中正吉邸」
これは座敷に飾られた雛人形。

 お椀と薬で小金を貯めた日野商人ですが、これで【おわん】ない所がまた凄い。

『関東平野の農民層を対象とした行商で小金を貯めた日野商人は関東平野での出店経営に発展。酒・醤油・味噌・酢

などの醸造店を経営し、これは他の近江商人にはない日野商人の特徴であった。

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ふるさと館での醸造酒の展示
家紋の四ツ目紋は近江源氏佐々木氏所縁と思ったが、館の方の話では、酒の桝を象ったものだそう。

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展示雛近影

 出店の奥では醸造加工を行い、表ではその加工品を始め周辺住民の需要に見合った様々な雑貨類の仕入れ販売、

卸販売を行い、更に質屋や金融業を兼営していたのが実態であった。出店数は江戸時代を通じ、北関東地方だけでも

延べ350店以上が確認でき、400年間の全国総数では千店舗を優に超えたとされる。

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ふるさと館の女性部屋

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ふるさと館 浴室
昭和8年築の洋風。

「八幡大店、日野千両店」の言葉が伝わるように、八幡商人は都市部で大型店を、日野商人は地方で小規模店を経営。

消費者人口の少ない地方での出店経営では、資本が蓄積できても出店の規模拡大はせず、

「三里四方、釜の飯喰う所に店を出せ」

と伝えられるように新たな市場に出店、枝店をチェーン店方式で多店舗経営する所にあった。現在の系列店商法の原理

そのものであるが、このような小資本・多店舗経営には危機分散という一面もあったのも事実である。

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ふるさと館 新座敷
来客はここで応対する。

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新座敷から見た庭園

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ふるさと館 洋間

 出店間の緊密な情報交換に拠る需要と供給を見据えた「産物廻し」商法も日野商人ならではのもの。現在の合資会社に

当たる「乗り合い商い」を採用、会計管理においても複式簿記を江戸時代から採用するなど先進的な商いを繰り広げた。

主人は家族を日野に残し出店へ単身赴任し帰郷するのは藪入りの二回。日々の経営においては薄利多売や商業道徳、

三方よしなどの商業哲学を重視し、社会への貢献を常に意識した。利益は祭の曳山、寺社への寄進、学校の建設等、

故郷に還元することも熱心であった。一方、富を誇示することはなく、家の表側は非常につつましやかで、

「八幡表に日野裏」という言に表れている。』 とあります。

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大窪にある「近江日野商人館」
本家・山中兵右衛門の本宅を利用した資料館。

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山中兵右衛門の説明

 江戸時代の商人で金を持っていたとされるのは、両替商・醸造業・廻船問屋の三つ。醸造は利益も大きいですが、

反面資本を寝かす期間が必要。あえてリスクを伴う業種を選んだのは、当時は未だ江戸の酒は関西に及ばなかった

という事があったのでしょう。

店を出すに当たっては先ず伝手を頼り、そこで成功したら、今度は次に来る人の役に立つ、というのが日野商人の

モットーだったようです。

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日野商人館の玄関脇の庭
麻縄で巻かれた石は関守石と呼ばれ、これより先の立ち入りを禁ずる慣わしです。

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玄関正面の雛人形

資料館で見た記録では、関東で最も古く今に伝わる酒店は真壁の村井酒造。以前に、真壁の雛祭りに行った際に、

酒蔵の夫人が「近江の日野から嫁ぎました。」と言われたので、確認すると天明年間創業の西岡本店と全く別。

しかし日野との繋がりが今まで続いているのは流石と言えました。

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日野商人館 座敷の盆梅
この座敷は不況時に「お助け普請」という公共事業的な目的で建設された。

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座敷に掛けられた絵

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絵の説明

・屏風と店は広げると倒れる。

というのは関西の商売人の間でよく言われる謂いですが、支店・枝店を増やしていくのはそれを地で行く遣り方。

思うに店は拡張するよりも縮小する方が厄介なもの。そのためには支店の方が都合良かったのは否めません。

その辺の【視点】が違いますね。

チェーン店にしても最近登場したものではなく、その原型は江戸時代まで遡る訳で、近江日野商人の商法には

高度な内容が多く含まれています。近江商人に学ぶと言った内容が現代まで求められているのは、その発想のため。

こんな時節にはもう一度振り返る事が大事な気がします。

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日野商人館の二階からの庭の眺望

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庭の向こうにある社
屋根には瓦彫刻の修飾が見られる。

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庭から見た商人館の建屋

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近江日野商人の400年 [前編](滋賀県蒲生郡日野町)

2021.03.19(22:24) 849

日野商人の商才の詳細(前編)(2021.3.6)

<コース> 近江鉄道バスは60分毎の運転
【往路】JR大阪(6:21) → (快速) → JR近江八幡(7:38) → 近江八幡駅南口(7:45) → (近江鉄道バス) → 向町(8:25)

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町立日野小学校にある日野商人の像

 このような豪華な雛祭りができる日野商人。財をなしたのは、どのような遣り方だったのでしょうか?

今でも、旧正野薬店が「日野まちかど感応館」として観光協会に。旧山中正吉邸が「近江日野商人ふるさと館」、

本家筋の旧中山兵右衛門邸が「近江日野商人館」として開館され往時の商人のあらましを知る事ができます。

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日野町マンホール蓋
日野商人、琵琶湖、鈴鹿山系、町花の石楠花

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日野小学校にある中江藤樹の像
普通は二宮尊徳だが、近江聖人に敬意を表したか。

『近江日野商人の歴史は「日野椀」から始まった。今から400年前の江戸初期には特産物に椀が記録され、日野は

全国漆器八大産地に数えられる。「日野椀」は庶民向きの漆器で日野商人の行商により全国に販売された。

正徳2年(1712年)頃には大窪町だけでも380人余りの商人が、関東平野の農民層を対象に「掛け売り」という巧みな

商法を展開し漆器の大衆化に大きな役割を果たした。埼玉、群馬、栃木などの旧農村部には「近江国日野椀商人」が

生き生きと商いに精を出している記録が残る。

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日野椀
大窪町の「近江日野商人館」にて展示。

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日野合薬の漆塗り金看板
同じく「近江商人館」にて展示。

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日野まちかど感応館
日野合薬を創製した正野玄三氏の旧薬店で、今は観光案内所。

 その100年後、日野椀に続き合薬(あわせぐすり)と呼ばれる漢方薬が登場し、椀同様、日野商人に拠って全国に広められた。

行商人であった正野玄三は元禄14年(1701年)、母の病気を治療した京の名医・名古屋丹水に感銘を受け医業を志す。

京都で8年の修行を終えた後、当地で製薬業を始めた。これを機に日野では椀に代わる新興産業として日野合薬が発展し

今に至っている。中でも正野玄三が考案した「神農感応丸」は万病に効くとの評判を呼び、遂には「万病感応丸」と呼ばれる

ようになった最大のヒット商品で現在まで生産される歴史的な名薬である。

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正野感応丸の由緒

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まちかど感応館の雛人形展示
かつては店の前に薬草園が広がり包装場もあった。今は観光案内所だけでなく、休憩所、軽食、特産販売も行う。

 日野合薬は、越中富山に代表される置き薬商法が一般的な江戸時代に、取次販売店(特約店)を各地に設ける販売方法が

特色。今日のフランチャイズ方式の先取りである。荷が軽く持ち歩きに便利で利益の高い日野合薬に拠って日野商人は

大きく飛躍し、日野祭に登場する豪華な曳山に見られるように庶民層まで潤った。』 とあります。

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西大路にある「近江日野商人ふるさと館」の遠景
左を進むと馬見岡綿向神社に至る。

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ふるさと館入口
山中兵右衛門氏の分家・山中正吉氏の邸宅。

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ふるさと館玄関

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座敷と床の間

 中国古代の殷(商)に由来する商売は、安く仕入れたものを他所に運んで高く売るのが元来の形。質素倹約、社会還元は

共通していますが、近江商人と一口に言っても内容は様々なようです。日野の商売事始めはお椀、東近江は木地師の里

だったからで、その辺のところは司馬遼太郎の『街道をゆく』に記述があります。最初だから【ワン】なのではありません。

文徳天皇の第一皇子でありながら藤原氏の為に皇位に登れなかった惟喬(これたか)親王がこの地に隠棲し轆轤を使った

木工技術を杣人に伝授したのが始まり。その後、全国に広がったという説があります。

都の貴人が近江の山奥まで【これたか】は謎ですが、木を求めて全国を渡り歩く木地師にとっては、新王の名前は

錦の御旗に相当する効果があったのでしょう。

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ふるさと館の仏間

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柱の釘隠しの蝙蝠
蝙蝠は「遍く福」に通ずる。

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桟敷に飾られた雛人形
ふるさと館の桟敷は金庫のある部屋に。

 二番手の薬は甲賀の里も有名ですが、商人館の館長さんの話では、

「甲賀の薬は修験道・山伏の系列、日野は医者に学んだもので全く別です。」との事。

甲賀と違っても【こうか】は抜群だったようで、顧客から万病に効くと太鼓判を押されています。

商売の遣り方も独自のものがあって、

・京、大坂は先約があるので避ける

・関東の中小都市で農民を相手にする

・薄利多売の商いを心掛ける

・下向する際には東海道ではなく川留めのない中山道を使う

と言った細かいところまで気配りが見られます。

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ふるさと館の床の間に展示の享保雛

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ふるさと館中庭

 今の我々にとって漆器といえば高価な印象がありますが、近江商人が扱ったのは、むしろ廉価な品物。少しでも利益を

大きくしたい商売人としては薄利を狙うのは意外に思われますが、通り一遍の遣り方では利益も少なく、他人と違った事に

着目するのは商人の眼としては確かです。

 江戸で最初に「現金掛値なし」で呉服を販売した三井高利は松阪の生まれですが、先祖は長く近江在。その発想には

相通ずるものがあります。

 様々な【せいやく】の中で、漆器と合薬でオンリー【わん】を目指した近江商人の面目躍如と言ったところです。

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立派な造りの日野小学校
日野商人の貢献もい大きいか?

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西大路の曳山
祭以外は格納されているが、偶々修理を終えた時で見学できた。台車は長浜、障子は町内で修復したとか。

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日野 ひな祭り紀行(滋賀県蒲生郡日野町)

2021.03.18(22:37) 848

日野祭の地でひな祭り(2021.3.6)

<コース>
【往路】JR大阪(6:21) → (快速) → JR近江八幡(7:38) → 近江八幡駅南口(7:45) → (近江鉄道バス) → 向町(8:25)

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新町にある桟敷窓
こちらは日野まちかど感応館前の正野家の桟敷。

 弥生も初の土曜、電車とバスを乗り継いで東近江の日野町へ。

滋賀では近江八幡、五個荘と並ぶ近江商人発祥の地。「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の心構えでも

知られます。

日野といえば鯉のぼりならぬ「ほいのぼり」が奉納される4月4日の南山王祭、曳山が登場する5月2~3日の日野祭ですが

今回は雛祭り。「の」と「な」の一字違いですが大違い。

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案内パンフレット

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感応館に展示の「ほいのぼり」

 関東に比べると雛祭りイベントが少ないように思う関西にあって、近江は五個荘、日野を筆頭に【五ケ所】以上の開催。

やはり全国に聞こえた近江商人の地だからでしょう。観光案内所や資料館には伝来の雛人形が飾られていますが、

それ以外にも一般の家庭でも雛人形を飾り通りから楽しむことができます。さしずめ祇園祭の町屋で調度品を飾るようなもの。

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まちかど感応館の享保雛

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同じく感応館の御殿雛

『近江商人の町として栄えた日野には今でも商家の町並みが残っており、独特な文化を伝えている。その範囲は

バス通りの大窪西から向町の6停留所の1.7㎞の間に亘り、中でも岡本・南大窪町、清水町、新町の三ヵ所では

白壁の土蔵、板塀、弁柄格子に代表される家々が建ち並ぶ。

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町並みの最も西側にある岡本町・南大窪町
弁柄格子の塀が映える。

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南大窪町
近江商人の家は質素が多いとされるが、このような土蔵もある。

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札の辻付近
土蔵と見えるのは大窪町曳山蔵。

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大窪町のタバコ屋さん

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大窪町の一般の家屋では廊下に飾りつけ

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座敷に飾られたお雛様

 重厚な土蔵が特徴の岡本・南大窪町、各家の水路に小さな石橋が架かる清水町の町並み、薬種店が軒を連ねた新町と

それぞれに個性を持つ。そのような街角や商家に各家が所有する江戸時代から現代に至る雛人形や創作人形が飾られる。

通行する人に見て貰うものであるが、珍しいのは新町地区の桟敷雛。昔の商家に造られた桟敷窓越しに雛人形を見ることが

できる。』 とあります。

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清水町の町並み
家の前の水路に小さな橋が架かる。

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清水町の町並みの説明

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水路と橋の近影

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清水町の岡家
「モーア」と記された表札も並ぶが、これは日野の建屋に惹かれて移り住み町並み保存をされているモーア・オースティン氏。

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岡家に飾られた雛人形

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清水町の弁柄格子

 新町はバス通り、他は通りから南に入った場所。雛人形だけでなく、南山王祭に使われる「ほいのぼり」も家の前に

飾られていました。観光案内所で伺った話でが、「ほい」とは垂れ下がった枝に付けられた桜を象ったもので厄災を

除ける願いを込めたものだそう。今の時節では不可欠ですね。

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まちかど感応館の向かいにある正野家
左に桟敷がある。

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日野商人街道(バス通り)にある昔ながらの家屋
飾ってあるのは「ほい」。

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商人街道沿いの家屋にある「ひなみくじ」

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桟敷窓に飾られたお雛様
商人街道沿いにて。

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街道から見るとこんな感じになる

 新町あたりは江戸時代から町内でも薬屋が集まっていた場所で、20軒程の町内に薬局、薬屋が7軒あったとの事。

元々、桟敷窓は850年の歴史を持つ「日野祭」を家の中から楽しむために設えられた床と窓。祭の5月2~3日は赤い

毛氈と御簾を付けて飾り付けられ、祭の曳山を桟敷で弁当を食べながら見たそうです。贅沢な話ですが、

それだけ薬は儲かったという事でしょうか?

桟敷を日野祭だけに使って【もう、せん!】とはならずに、雛祭りにも使うことは自分達に加え来る人にも喜んで貰う

「三方よし」という発想でしょう。日野商人の心はこんな場所にも活かされていると思った次第です。

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新町の街道沿いの町屋

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同じく街道沿いの骨董の「かく福」

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新町の町並みの説明

 昔はあまりなかったようですが、今は町屋を利用した施設も充実。昼時には新町から清水町へ向かう道筋の古民家

カフェ「らっこや」で昼食。頂いたのはランチでしたが、マスターが自家焙煎に拘って居られるようで屋内は珈琲の香り。

次回はコーヒータイムに訪れたいです。尚「らっこや」とは「楽古屋」の字を充てるそうで、海のラッコとは無関係でした。

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古民家カフェ「らっこや

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「らっこや」内部の様子
マスターは正面奥で焙煎中。

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昼食のランチセット 
これで¥1000でお釣りがくる。

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街道沿いの そば処「守貞」
次回はここが目標?

 土産も街道沿いの「かぎや菓子補」にて。花火を作っているような名前ですが黒船が来た頃よりの老舗。

土産は「いがまんじゅう」。甲賀の地で【いが】まんじゅうとはこれいかに?ですが、「いが」は毬と書いて、

餅の表面に付けられた糯米を栗の毬に見立てたもの。色も紅白共に値段も手頃でボリュームもあり

「味よし、見場よし、値段よし」ですが、日持ちしないので、買い置きが出来ないのが難点でした。

こうして雛祭りと町並み散策も無事修了。三方よしの町は【散歩よし】の町でもありました。

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かぎや菓子補

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かぎや菓子補の自宅に飾られた雛人形

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毬まんじゅう
これはこの地域の他の店でも売られており、店により独自性があるらしい。

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八はし寺(京都市左京区黒谷町)

2021.03.17(20:04) 847

聖護院に近い八ッ橋の寺(2021.2.27)

<コース>
阪急梅田 → (快速急行) → 桂 → (普通) → 松尾大社 → 徒歩10分 → 梅宮大社 → (市バス) → 円町駅前 → 徒歩5分 → 達磨寺 → 徒歩7分 → 椿寺 → 徒歩5分 → 北野天満宮 → 徒歩5分 → 上七軒 → 徒歩5分 → 千本今出川 → (市バス) → 熊野神社前 → 徒歩10分 → 常光院

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常光院(浄土宗大本山 金戒光明寺山内塔頭)
境内からの眺め、正面は黒谷さんの三門。

 熊野神社から丸太町通の一つ北の筋を東へ行くと黒谷さんの門が出迎えますが、

その大きな三門の横の坂を上る途中にあるのが常光院。常光院(じょうこういん)は、

『天正5年(1577年)の創建と伝わり初めは明壽院と号したが、正保元年(1644年)に常光院と改称。

以後、大本山の金戒光明寺と共に発展した。

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坂を上る途中にある「やつはし寺」

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塔頭らしくこぢんまりした山門

 江戸初期の筝曲家であった八橋検校(やつはしけんぎょう)の菩提寺でもあり、検校自身も当院で祀られている。

彼は近世筝曲の祖とされ、それ故、当院は「八はし寺」の名で呼ばれる事が多い。毎年6月12日の命日には

「八橋忌」として箏の演奏が奉納される。』 とあります。

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山門前に建つ石碑

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山門正面の庫裏
門は開いていたが、ベルを押しても生憎不在であった。

 盲人として最高位の検校まで上った八橋検校に敬意を表したのでしょう。作曲や楽器の定型化も行ったとされます。

場所が聖護院の近くで「やつはし寺」となれば、京都を代表する和菓子を直ぐ思い浮かべますが寺名の由来には関係なし。

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山門を過ぎ参道を奥に進む

282-7-7.jpg
参道の先の本堂へ

 勿論、八橋は本名ではなく、最終的に名乗ったのが八橋検校だった事に拠ります。それでは何故、八橋か?

『伊勢物語』の東下りの段に三河国八橋の話が出ていますが、そこは川が多く流れ雲手と呼ばれる場所。

杭の上に板を並べて橋としたので八橋と呼ぶとあります。歌の名手業平と箏の形状に似た八橋、思うにこれが

名前の由来の気がします。

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本堂近影
但し、外からの参拝

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本堂前の庭

 和菓子の八橋も八橋検校の箏の形に由来するという説と、三河の八橋の板の形から来たと言う二説があって

決定打はない模様。箏の【連奏】は纏まっても、お菓子の連想は膨らむ一方です。

お寺の方は生憎不在でしたが、もし尋ねて真相を知れば【やっはし!】となるでしょうか?

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京都市内 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
2021年03月
  1. 紀州街道 山中宿と山中神社(大阪府阪南市山中渓)(03/31)
  2. 道の駅「ねごろ歴史の丘」と根来寺の桜(和歌山県岩出市根来)(03/30)
  3. 紀三井寺の桜(和歌山市紀三井寺)(03/29)
  4. 日本のエーゲ海 牛窓(岡山県瀬戸内市牛窓)(03/28)
  5. 正明寺(滋賀県蒲生郡日野町松尾)(03/26)
  6. 信楽院(滋賀県蒲生郡日野町村井)(03/25)
  7. 馬見岡綿向神社(滋賀県蒲生郡日野町村井)(03/24)
  8. 蒲生氏郷の事ども(滋賀県蒲生郡日野町)(03/22)
  9. 近江日野商人の400年 [後編](滋賀県蒲生郡日野町)(03/21)
  10. 近江日野商人の400年 [前編](滋賀県蒲生郡日野町)(03/19)
  11. 日野 ひな祭り紀行(滋賀県蒲生郡日野町)(03/18)
  12. 八はし寺(京都市左京区黒谷町)(03/17)
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