<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR坂祝(9:40) → 徒歩5分 → 宝積寺 → JR坂祝(10:15) → JR美濃太田(10:20)
駅前レンタサイクル20分 → 小山観音 → レンタサイクル8分 → 古井神社 → レンタサイクル5分 → 中山道太田宿 → 万尺寺 → 祐泉寺

龍興山 祐泉寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三ヵ所第二十七番札所)
太田宿の上町付近には桝形が残りますが、そこに建つのが祐泉寺。境内から堤防を上ると木曽川の絶景が間近に。
寺は中山道に面していますが山門があるのは堤防側。このことからも中山道を通って参詣するよりも木曽川を下って
参詣する方が正式であったと言えそうです。

上町の桝形付近から東を望む
中山道を行く人々はここから境内へ入る。

由緒記

木曽川の堤防から見た全景

堤防から見た木曽川
龍興山祐泉寺(りゅうこうざんゆうせんじ)は、
『文明6年(1474年)、東陽英朝禅師(大道真源)がこの地に来り「ゆせな」と称した一草庵を「祐川庵」と命名。地蔵菩薩を
本尊に迎え修法の道場としたのを嚆矢とする。その後、永正年間(1504~1520年)に八百津大仙寺の末寺となり同寺領
太田郷賀茂県主神社神田の経営を任され、在地代官役として年貢の徴収に当たった。

山門近影

境内の様子
左から、観音堂、本堂、庫裏。
その後、寛永5年(1628年)庵号を改め法地の寺に昇格。第一世に広雲和尚を勧請開山、さおの弟子の徹禅和尚を
創建開山として中興した。更に寛文年間(1661~1672年)、本尊に聖観世音菩薩を祀り、龍興山祐泉寺と改称し現在に至る。

明治39年再建の本堂
5年の歳月を要して再建したが、屋根は平成元年に葺き替えている。

本堂より見た鐘楼と山門

本堂前の枯山水庭園
境内の西には滝場観音があり、その本尊である観音像は木曽川の川底から引き上げられたという伝承を持つ。
明応10年(1501年)、東陽禅師の霊夢に白衣の老翁が現われ、
「我は木曽川の松ヶ瀬に沈む運慶作聖観音菩薩なり。探して祀られよ。木曽川の交通安全と火伏の守りとならん。」
と告げた。目覚めた禅師は村人一同と早瀬より“聖観音菩薩”を迎え、堂宇を建立。滝場大悲閣として境内に祀った。
時代は下り享保元年(1716年)2月の火災に拠って村内の殆どは灰燼に帰したが、西からの火勢は不思議にこの
堂前にて鎮火、東の民家は火難を免れる。この霊験に感じた村人は堂宇の改築を発願、享保3年(1719年)に竣工。
元は本堂西南にあったが今は北に移されている。以来、美濃西国二十七番札所滝場観音として親しまれ、本尊は
厨子に納め秘仏。十七年毎の御開帳となっている。

観音堂(滝場観音)

平成元年の大改修に拠り文政年間の礎材・様式で改築した庫裏と大正5年新築の玄関

鐘楼前の庭
また創建以来、当寺は寺子屋として児童の教育に力を注ぎ、明治初年に義務教育の「明道義校」として、
後の太田小学校に繋がった。境内には播隆上人、日本ラインの命名者・志賀重昴の墓碑、北原白秋、
坪内逍遥の歌碑、松尾芭蕉の句碑などが立ち並ぶ。』 とあります。

芭蕉の句碑
・春なれや 名もなき山の 朝かすみ

坪内逍遥「椿の歌」碑
逍遥は太田代官所坪内平之進の三男として太田宿に生まれる。
・やま椿 さけるを見れば いにしへを 幼きときを 神の代をおもふ
・この木の実 ふりにし事し しのばれて 山椿ばな いとなつかしも

北原白秋の歌碑
・細葉樫 秋雨ふれり うち見やる 石燈籠の あお苔のいろ
日本ラインの命名者の墓碑があるのは木曽川沿いに建つ寺院に相応しいと言えます。境内には他にも句碑・歌碑や
墓碑が並びますが、これはここが教育機関であった事と関係がありそうです。
東の桝形付近にあって境内に辻堂やお地蔵様が多く祀られているのは、江戸から来る旅人の道中往来の安全を祈願した
からで、当時の人々の旅の様子が偲ばれます。禅宗寺院らしく境内に枯山水庭園がありますが、全体的に明るく感じるのは
周辺に木々がなく陽が降り注ぐからでしょうか?
滝場観音の由緒は伝説的ですが、火事が収まった事に感謝した村人の感謝の気持ちが伝わります。今の境内には全く
見当たりませんが、祐泉・祐川という名前からかつては豊富な水が湧出してそれが火事を防いだのではないかと勝手な
想像を巡らしています。

地理学者 志賀重昴の墓

槍ヶ岳開山播隆上人の墓

祐泉寺説明書

祐泉寺御朱印
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恵昌山 万尺寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三ヵ所第二十二番札所)
太田宿の上町から少し北へ向かい本町交差点の北西隅にあるのが美濃西国札所の寺。旧中山道沿いではないものの、
前を207号線が東西に走り、北に向かうとJR美濃太田駅前。西側には市役所があるという市街地の真ん中にありました。

207号線に面した入口
恵昌山万尺寺(えしょうざんまんしゃくじ)は、
『鎌倉初期の正治年間に鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠に拠って菩提寺として太田城房の地に創建。
天台宗寺院として七堂伽藍を備えた大寺であったが、その後兵火で焼失。文明3年(1473年)に妙心寺六世・雪江宗深の
高弟・景川宗隆禅師が現在地に移転、禅宗寺院として規模を縮小して再建された。

入って左側に建つこぢんまりとした薬師堂

正面には観音様を祀る本堂

本堂からの眺め
右奥は薬師堂。
江戸時代の寛文8年(1668年)に実性和尚によって臨済宗妙心寺派寺院として再興。伽藍は元禄5年(1692年)に火災で
焼失したが、2年後に再建を果たしている。現在の本堂は昭和50年の築。
美濃西国観音霊場に加え中部薬師霊場でもあり、観音菩薩、薬師如来、阿弥陀如来、荼枳尼天が祀られているが、
なかでも観音菩薩は子育て観音として篤く崇敬を集めている。』 とあります。
坂東武士の鑑とまで称えられた畠山重忠の所縁の地が遠く離れた美濃の地にあるもの不思議な縁を感じました。
決して【万尺】に合わない訳ではありません。

本堂前に建つ子育て観音石像

境内の椿

万尺寺御朱印
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中山道太田宿
重文・旧太田脇本陣林家住宅前にて。前の自転車はこの日の相棒。
小山観音、古井神社と参拝した後は、飛騨川沿いの371号、木曽川沿いの207号と走って神明堂の交差点で一筋南に
入るとそこは旧中山道。中山道太田宿は、
『69あった中山道の宿場の中で、太田宿は江戸日本橋から数えて51番目の宿場。飛騨街道と郡上街道の分岐点でも
あった事から大いに栄えた。
「木曽の桟(かけはし)、太田の渡し、碓氷峠がなくば良い」 と俗謡に歌われたように、木曽川を越える太田の渡しは、
旅人達にとって中山道三大難所の一つであった。

旧街道沿いにある看板

このような案内板も

飛騨街道追分に建つ法華経塚
伏見宿から二里(8㎞)、鵜沼宿まで二里の太田宿は、開幕当時には大久保長安が奉行として治めていたが、
長安没後は尾張藩が支配した。太田宿は中山道の宿駅の機能だけでなく、後に尾張藩太田代官所が設置される
など木曽川筋の軍事、政治、経済の重要拠点として位置付けられた。

上町の桝形
左は祐泉寺、中央は旧小松屋吉田家住宅。

明治40年建設の十六銀行旧太田支店
内部には金庫も残されている。現在は個人宅。

登録有形文化財・吉田家住宅主屋
江戸時代は「小松屋」の名で営まれた旅籠で、明治期には質屋と油搾り業、大正期には煙草の売り捌きを行った。
天保14年(1843年)の記録に拠れば、宿内の町並みは上町・中町・下町と、その長さは6町14間(約680m)。
戸数は118軒、505人が生活しており多くの人々は農商を兼ねた生活をしていた。
現在でも上町・下町の二ヵ所に桝形が残り、旧脇本陣林家住宅、本陣門や旅籠等の古い町並みが残っている。』
とあります。

街道沿いの御代桜酒造
明治期に始めた醸造元で、建家は旧病院だとか。

御代桜酒造の奥行

旧太田脇本陣林家住宅
主屋は明和6年(1769年)の建築で、裏の質蔵・借物蔵及び表門と共に重文となっている。

脇本陣説明

脇本陣の表門と卯建(うだつ)
中山道は東海道に比べて距離は長いですが、大河がないので川留めがなかったと聞いていましたが、この話を見る限り
太田宿でも川留めはあったようです。中山道と言えば、奈良井・妻籠・馬籠等山の宿場が有名ですが、山でない平地に
残っているのは珍しく、大井川を控えた島田宿に似たように思えたのが大河効果でしょうか?

林家住宅全景
右は当主の隠居所として建てられた場所で、内部見学可。

林家座敷?

林家庭へ続く場所

林家の庭の「一部」
塀の向こうに銀杏の大木が見える。
昼食は、宿場らしき建屋が並ぶ一角にある魚徳商店にて川魚を。御主人が話されたのは
「この辺りは、昭和58年の木曽川大水害で背丈まで浸水して昔の街並みで再建したものです。」 との事。
てっきり江戸や明治の家屋が残っていたので再建と知って驚き。しかし木曽川水害は江戸時代もあった、
というよりも江戸時代の方が被害が大きかったと思われるので、その時代の建屋が残る可能性は極めて小さいと言えます。

旧太田宿本陣門
文久元年(1861年)皇女和宮が江戸の将軍家茂に嫁ぐ際に新築された。

本陣門の説明

宿場の西端にある虚空蔵堂
付近は「承久の乱古戦場(大井戸の戦い)」と伝わる。

昼食は宿場半ばの「魚徳」にて

軽めの鰻定食(半尾) ¥1700

昔の旅籠風家屋だが、ここも水害後の再建だそう

美濃加茂郵便局 ; 日本ライン下りの中濃大橋、重文・旧太田宿脇本陣林家住宅
美濃加茂太田本町郵便局 ; 重文・旧太田宿脇本陣林家住宅、坪内逍遥顕彰碑、市花・紫陽花
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駅前レンタサイクル20分 → 小山観音 → レンタサイクル8分 → 古井神社文字色

古井神社(全幣社)
小山観音参拝後、再び駅方面に戻りますが、途中、桜の参道が目に入りました。ふと見ると古井神社、高山線の
駅名でもあり付近の字でもあるので予定を変更して急遽参拝。
古井神社(こびじんじゃ)は、
『天暦5年(951年)、美濃国の古井に中富神社が創設され牛頭天王社・須佐之男神社と記録されているのが嚆矢。
安元2年(1176年)には領主源頼政が社地を寄進し社殿を造営した。
文永年間(1264~1275年)、この地に流行した疫病に氏子は牛頭天王の神霊を柳に託し日夜祈願した結果、病は平癒。
以後、柳は御神木として保護される事となった。牛頭天王社別当として護国寺が建立されたのもこの時代である。

石灯籠、一の鳥居に続く桜の参道

参道から一の鳥居を見返る

太多線の向こうに見える二の鳥居
しかし永禄3年(1560年)の兵火で天王社・護国寺は焼失。社殿は慶長2年(1597年)に地頭伏屋左衛門佐の祈願で再建。
翌3年には八王子神社、同12年には津島神社も創建された。文政10年(1827年)には中富神社を西方400mに移転、
文殊院を別当として神事を執行させた。
明治42年(1909年)には「一村一社運動」に拠り、中富・八王子・津島・清水神社を合祀して古井神社を創設。昭和8年
(1933年)には参道の延長と桜の植樹を行い、現在の参道が飛騨街道と結ばれた。平成26年(2014年)には本殿・祝詞殿・
社務所を建立、脇本殿を解体し、境内三社等を建立した。』 とあります。

二の鳥居を過ぎ境内へ

鳥居越しに見た参道

御由緒

境内全景
由緒は古く、地元の信仰も篤かったようですが、兵火や政治的なM&Aで今の状態になったようです。全体として
古社の印象がないのはそのためでしょう。
太多線の線路越しに見る境内、参道や社殿の整備を見ても、地元の方の神社を護る熱意は伝わって来ました。
病気平癒が主な御利益ですが、名前が古井なので“こい”に御利益があればと思いましたが“こび”と読むのが
正しいので出世に御利益があるかもしれませんが…。

拝殿正面

拝殿に続く祝詞殿とその奥にある本殿

古井神社説明書

下古井郵便局 ; 国定公園の標識と日本ライン下り、太田橋、鮎、
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駅前レンタサイクル20分 → 小山観音

仁慈山 小山寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三ヵ所第二十九番札所)
坂祝での巡礼を終えて高山線で一駅。美濃太田駅からレンタサイクルで巡礼再開。
以前入手の「御朱印巡りin 岐阜(岐阜新聞社)」を見ると36ヵ所の寺社が掲載されていますが、その中で一際目を引くのが
二ヵ寺。一つは崖造りの舞台の高澤観音、もう一つが小山観音でした。飛騨川にある奇巌の小島に佇む写真でしたが、
「海は兎も角、河川の島に建てられた寺院は珍しい。」
「島にあったら小山でなく小島観音では?」
などとどうでも良い事を思いながら、これは是非見に行かねばと、今日の巡礼になりました。
自転車を借りた駅前のカフェのマスターも「水の中に浮かんで幻想的ですよ。」 と地元の方にも知られた名所のようでした。

飛騨川に架かる青柳橋上から
中央、橋で繋がった先が小山観音。川の向こうで木曽川と合流している。

飛騨川左岸から小山観音への入口

小山観音へと続く「かんのん橋」

橋上から観音堂を望む
仁慈山小山寺(じんじさんしょうざんじ)は、
『平安末期、朝日将軍木曽義仲が、下米田町山本で病没した母の若名御前の菩提を弔うためにこの地を訪問。ところが
飛騨川が荒れて渡れず困惑していた所、荒波の中から龍神が現われ、捧げ持った馬頭観音を祀るように勧め波を鎮めた。
喜んだ義仲がその観音像を奇巌の小島に奉安し供養したのが始まりとされる。
尚、一説にはその観音像は一寸八分の御姿で若名御前の護持仏でもあったとも伝わっている。

橋の袂にある由緒記

観音堂近影

観音堂向拝の龍の彫刻

観音堂内陣
但し、本尊の馬頭観音は秘仏である。
小山観音には以下の子授け観音の伝説も残る。
室町時代の永享6年(1434年)頃、上蜂屋のお島御前が子供を授かるように小山観音に百日の願掛けを行った。満願の夜、
夢に白髪の老人が現われ、一枚の唐銭を飲むように告げた。御前がそのお告げに従うと願い通り男子を出産。
しかしその赤子は左手の拳を開かなかった。お七夜に子が自ら手を開くとそこにあったのは満願の夜に飲んだ唐銭で、
その霊験に母親のお島御前は、その子を僧侶にする。
後にその子は岐阜市瑞龍寺の悟渓宗頓(ごけいそうとん)禅師に師事し、門下八哲の一人、仁済宗恕(にんさいそうじょ)
禅師として故郷蜂屋に瑞林寺、西脇に光徳寺を開き、後に京都大徳寺住職も務めた高僧である。
お島御前と仁済禅師の親子二代に亘り、唐銭「周元通宝」300枚を集めて高さ1尺の馬頭観音を鋳造しお前立とし、
義仲由来の馬頭観音は秘仏となった。

観音堂前からの飛騨川の流れ

観音堂参拝後は、御堂の周囲を巡る
これは堂左側の身代わり地蔵。

身代り地蔵横から見た飛騨川
観音堂の建つ島自体は非常に狭い場所である。

観音堂側面
小山観音は元々住職不在で、地元の人々が護った寺。必要な時のみ他所から呼んできた経緯がある。
漸く明暦3年(1657年)に仁慈山小山寺が開創し小山観音堂はその傘下に入った。
当初の観音堂は飛騨川左岸と河原で繋がり、参拝者は河原を歩いた後、岩場を上って参拝した。昭和14年に木曽川に
今渡ダムが完成すると周囲は水没。以後は昭和13年に完成した「かんのん橋」に拠って飛騨川左岸の下米田より参拝する
のが正式ルートになった。』 とあります。
駅から飛騨川に架かる青柳橋を渡って左岸に向かうときは欄干が低く感じ、「こんな川中によくお堂を建てたものだ」
と思いましたが、かつては左岸と陸続きと知って納得。

かんのん橋越しに左岸を望む
右手奥が本坊。

小山観音遠景

かんのん橋周辺は桜の名所
かんのん橋周辺は桜が多く、もう1週間遅ければ花見もできたでしょうが、この日はお堂に参拝してから岸部に建つ小山寺に
向かい御朱印拝受。対応頂いた御住職も夫人も非常に気さくな方で、待ち時間に御茶菓子まで頂いたのには恐縮しました。
住職;「元々、島の観音堂があって、後からこの寺が出来ました。」
和辻;「源平の頃ですね。」
住職;「寺は350年ですが、観音堂は800年以上の歴史があります。」
和辻;「木曽義仲の母の若名御前を弔ったとか。」
住職;「一般には母親となっていますが、実際は側室の一人だったようです。」

左岸に建つ小山寺本堂へ

仁慈山 小山寺 門前より

小山寺境内
本堂の左奥に見えるのが小山観音堂。
和辻;「お寺の名前は“こやまでら”ですか?」
住職;「正式には“しょうざんじ”ですが、“こやまかんのん”の方が通りがいいので“こやまでら”と言っています。」
和辻;「よくあんな場所に建てましたね。」
住職;「あの島は周囲に比べ岩盤が固く、川の流れであそこだけ削り残ったようです。」
和辻;「海では松島の五大堂などありますが、淡水は見かけませんね」
住職;「わたしの知る限り、竹生島位でしょう。」
和辻;「お参りは一苦労ですね。」
住職;「昭和になってダムができるまで、こっちとお堂は河原で繋がっていました。参拝の人は河原を歩いて、最後は
岩をよじ登ってお参りしたそうですよ。」

唐破風の小山寺玄関
内陣へはここから参拝。御朱印は右の納経所で拝受。

本堂の扁額

本堂内陣
禅宗の祖・達磨像と正面にある布袋尊。布袋尊は弥勒菩薩の化身とか。

本堂前から見た庭園
わざわざ、船に乗ってお参りする人も珍しいですが、陸続きならば在り得る話。
当初、「小山ではなく小島やろ!」と思いましたが、河原伝いに歩き岩盤を攀じ登ったのならば小山観音と呼ばれたのも
理解できます。
最近の安易な地名改変には問題があると指摘する声は多いですが、深い歴史が刻まれている寺名を後世に伝えるのも
我々の役目と言えます。

小山観音説明書

小山観音御朱印

古井郵便局 ; 飛騨川にある小山観音、日本アルプス
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大祥山 宝積寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三ヵ所第二十一番札所)
この日は美濃太田駅から巡礼の予定ですが、一つ手前の駅前にも札所があったので下車して先に参拝。難読駅名で
有名な“さかほぎ”ですが、織田信長の東美濃攻略所縁の猿啄(さるばみ)城が築かれた場所と初めて知りました。
駅の跨線橋からは遠く山頂に城址が望めますが、城址からは一円が隈なく見渡せます。

JR坂祝駅跨線橋から猿啄城跡を望む

駅前の説明板
大祥山宝積寺(だいしょうざんほうしゃくじ)は、
『宝徳年間に犬山瑞泉寺の住持であった雲谷玄祥が自身の隠居所として犬山から木曽川を挟んだ向かいの鵜沼の
宝積寺山に開創したのが始まり。後に玄祥が武芸川汾陽寺に居を移した際にはその塔頭となるが、彼の没後は衰微する。

木曽川に向いて建つ山門

正面から見た山門

寺務所前から見た境内

禅寺らしい造りの本堂
外陣より参拝。

本堂の「大祥山」の扁額

本堂の軒下
正徳2年(1712年)になって美濃上有知清泰寺の泰嶺和尚がここ取組に中興した。昭和50年(1975年)に堂宇を改修し
今に伝わる。』 とあります。
堂宇は新しいですが、境内にある山門脇の杉・銀杏・椿が彩を添えます。元は犬山の瑞泉寺から川を隔てた場所に
ありましたが、時代の流れで木曽川の流れを遡って現在の地に至ったようです。

本堂前の椿の巨木

山門脇の杉の巨木

御朱印はこちらで拝受

宝積寺御朱印

坂祝郵便局 ; 坂祝神社、猿啄城展望台、サルビア、南天
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郡上八幡駅 → 駅観光案内所レンタサイクル5分 → 城下町 福よせ雛展示場 → 城下町プラザ→ 徒歩10分 → 郡上八幡城 → 秋葉三尺坊 → 善光寺 → 安養寺 → レンタサイクル10分 → 郡上八幡駅
【復路】郡上八幡(15:03) → (長良川鉄道) → 美濃太田(16:38→17:01) → JR岐阜(17:32→17:51) → JR米原(18:39→18:47) → JR大阪(20:13)

遠郷山 安養寺(真宗大谷派)
駐輪場まで戻ってきましたが、城の登り口に聳える巨札が安養寺。
通常、真宗寺院は御朱印がないのでスルーが多いのですが、ここは敬意を表して参拝する事に。
遠郷山安養寺(おんごうざんあんにょうじ)は、
『近江源氏佐々木高綱の三男・高重が親鸞聖人の弟子となって西信の法名を賜い、康元元年(1256年)江州蒲生郡に
一宇を建て安要寺と称したのが始まり。佐々木高綱は宇治川の先陣争いで有名であるが、その相手の梶原景時の
乗馬磨墨(するすみ)は郡上の気良の産と伝わっている。

城下町プラザの正面に建つ安養寺

石段を上り境内へ

堂々とした山門
正面向こうに見えるのが宝物館。
安要寺六世の仲淳の時に美濃安八郡大榑へ移転し、蓮如上人の命により安養寺と改称。ここを中心に越前穴馬や
郡上方面へと布教するが、この時に仲淳は本願寺より正信偈の一部、蓮如上人の五男で本願寺九世の法統を継承した
実如直筆の裏書のある親鸞聖人御影を授かっている。その後、再び越前国穴場(現在:大野市)へ移転する。
文明3年(1471年)に本願寺八世・蓮如上人が吉崎に道場を開くと、郡上から吉崎に赴き法弟となり帰国後は真宗を伝える
ものが多くなった。このため郡上では真宗の勢力が急速に拡大。これを重く見た領主の東氏は安養寺を白鳥に招く事とし
安要寺七世・了淳の天文5年(1536年)に越前穴場から白鳥(大島村野里)へ再び移転する事となった。

山門脇の鐘楼

山門を過ぎた場所からの境内眺望
大きな伽藍など真宗の特徴を備えている。

安養寺ご案内(由緒)
安養寺は朝倉氏、三木氏が領内に侵攻した際には末寺門徒千余人を集め撃退する功を挙げ、また織田信長との
石山合戦には武田信玄・朝倉義景・浅井長政等の反信長勢力結集のために奔走した。当寺にはその時の文書が残り
文化財に指定され宝物館で展示されている。
天正6年(1588年) 郡上城主稲葉定通の入部の際には八幡中坪村園野へと移った。本堂焼失後の明治14年(1881年)には
八幡城三の丸跡地であった現在地へ移転。明治23年(1890年)には本堂を再建した。大正8年の大火で再び焼失したが
昭和11年(1936年)に再建、これが現在の本堂で郡内随一の雄大な寺観を誇る。

昭和11年再建の本堂

八幡城への登山道から見た壮大な本堂

本堂屋根の装飾
明治19年(1886年)の佐々木家廃絶まで20代の住職が法統を護り、寛文6年(1666年)昇級院家、天保8年(1837年)御坊分に
昇格した。佐々木家の後を本山は蒲郡の専覚寺から楠潜竜を住職に任命今に至っている。』 とあります。
八幡城への登城口は寺院が集中していますが、その中で一際大きな威容を誇るのがこの寺院。それだけ城下でも影響力が
あったという事でしょう。開山が近江源氏の佐々木氏だった事に加えて本願寺の門主とも密な関係。現在、越美北線と長良川
鉄道(旧越美南線)は未通ですが、かつては越前と郡上は指呼の間。吉崎御坊の一翼を担う重責を果たしたと言えます。

書院玄関の唐破風

書院脇の池と庭園
戦国時代に民衆の生活を守るために蓮如が教団を組織したことが、今日の浄土真宗の繁栄の基礎となった訳で、その目の
付け所が慧眼。宗教が政治に関わる事には否定的な日本では一向一揆に関しては否定的な意見もありますが、何度にも亘り
外部からの干渉を撃退し独立を護った点は正当に評価すべきでしょうね。
境内は広大ですが、その東一角にある宝物殿を訪問。御朱印を拝受するためですが、
和辻;「真宗の寺院で御朱印は珍しいですね。」
受付;「ここは宝物殿がありますので対応しているのですわ。」 との事。
本来の趣旨から外れると言えばそれまでですが、昨今のブームと¥300とはいえ経済効果を考えると良い傾向と思います。
御朱印にも「寛恕」とあるようですし…。

安養寺説明書

安養寺御朱印
参拝の後は博覧館まで北に向かいましたが、安養寺の西側の小径には水路が流れて居り、湧水の場所も。
丁度、喉が乾いていたので一服できました。
この付近は柳町と呼ばれるそうですが、観光メインの鍛冶屋町に劣らず古い町並みが残っています。中心から少し外れた
だけで静かな歴史空間にタイムスリップした感じです。水利を考えるとここに巨札や町が出来た訳も【推理】できそうです。

安養寺西側を流れる水路
手前には飲用の湧水も。

水飲み場にある石地蔵様

水路から見上げた安養寺本堂

柳町通りの古い町並み

柳町にあるかつての会所跡
今は集会所となっている。

柳町での雛人形展示
[参考書]
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郡上八幡駅 → 駅観光案内所レンタサイクル5分 → 城下町 福よせ雛展示場 → 城下町プラザ→ 徒歩10分 → 郡上八幡城 → 秋葉三尺坊 → 善光寺

鞍馬山 善光寺(天台宗)
秋葉山から少し下ると善光寺の看板が。道路沿いから見るとお堂はあって寺院の様ですが、寺カフェ、民宿の看板の方に
目がいってしまいます。
鞍馬山善光寺(くらまやまぜんこうじ)は、
『養老7年(722年)、泰澄大師が加賀白山中宮の社坊として創建。その後、白鳥町長滝にあって長滝寺の持善坊として
永く栄える。長滝寺は白山信仰の美濃馬場であった。しかし当地で真宗が盛んになるに従って衰微。明治初年の
廃仏毀釈の変革に拠って廃寺に等しい状態となっていた。

入口にある看板

左手に建つ本堂
そこで当院の真誠はその子・真静と共に、許可を得て私財を投じて八幡城跡の一部であるこの地を取得。堂宇を建てて、
泰澄作とされる長滝寺の地蔵菩薩を安置した。
明治34年(1904年)には信州善光寺より分身体を勧請して郡上八幡善光寺と称した。昭和25年(1950年)には京都総本山
鞍馬寺より尊天毘沙門天の分霊を奏請し、鞍馬郡上別院として現在に至っている。』 とあります。

本堂内陣の善光寺分身の御前立

正面にあるのが寺務所、カフェ兼民宿
丁度、女性が表に出て来られたので伺うと、
夫人;「左手が本堂で善光寺からの分身のお前立を祀っています。」
と言われたので本堂に上がって参拝。善光寺のお前立が御開帳の年度が決まっていますが、ここはいつでも参拝できました。
参拝を終えて御朱印を尋ねると、ある様子。
和辻;「こちらの寺院は無住ですか?」
夫人;「いいえ、主人が住職を務めて居ります。」
と御夫婦で分業されているようでした。

ここの境内にも「およし観音堂」が

寺カフェの様子
壁には善光寺縁起の押絵が掛かる。
夫人;「宜しければ、お雛様や善光寺縁起の押絵もご覧になって下さい。」
と言われたので、カフェに注文もしないのに中を見る事ができました。
心遣いに感謝ですが、カフェは簡素ながら落ち着いた様子。値段もリーズナブルなので、次回には是非ここで一服したいもの。
今時はお寺のバーもあるくらいですから、カフェなどは健全なものです。
中部地方は善光寺の影響が強いですが、ここもその例に漏れず。その寺院が京都の鞍馬寺の別院になったのはどういった
経緯があったのでしょうか?まさか儲けに目が【くらま】山になったとは思いませんが…。

カフェに展示の京雛

数ある押絵の中から「牛に惹かれて善光寺」

善光寺御朱印
墨書は鞍馬寺と同じ「尊天」。
[参考書]
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香厳山 悟竹院(曹洞宗)
天守閣に登って魚の形の町を見たあとは町へ下りますが、途中に寺院の看板が。
秋葉三尺の名前に惹かれ、三尺下がってちょっと寄り道。

案内板に沿って行くと石段下へ
香厳山悟竹院(きょうげんざんごちくいん)は、
『大永元年(1521年)、謹甫嵓公(きんほかんこう)和尚が五町に開基。その後、永禄12年(1569年)に福井県心月寺七世・
才應惣芸(さいおうそうげい)和尚を開山に迎えて曹洞宗に改宗。現在まで23代を数える。本尊は釈迦牟尼仏、脇侍に
阿弥陀如来、弥勒菩薩が鎮座する。
明治12年(1879年)十八世・惠了一元和尚の時、静岡県袋井の秋葉総本殿可睡斎から秋葉三尺坊大権現の分身を勧請、
明治15年(1882年)に威徳堂を建立した。昭和7年(1932年)十九世・定山活元和尚の時に、五町より現在地に移転。

石段の先に建つ秋葉三尺坊真殿

真殿の扁額と天狗扇の紋
境内には威徳堂の他、聖徳太子堂・豊川堂・賽の河原地蔵堂・六地蔵堂・鐘楼堂・稲荷堂、更に八幡城内に秋葉三尺坊
奥の院がある。鐘楼堂の鐘は明治29年(1896年)から先の大戦の供出3年間を除き、時の鐘として毎日四度鳴らし続けている。』
とあります。
さして広い境内ではありませんが堂宇が多いのには驚き。本堂は悟竹院ですが石段を登った先に建つ秋葉三尺坊真殿が
正面に当り、こちらが本殿のような扱いです。かつて参拝した袋井の可睡斎で秋葉三尺坊は火防の神様とは知っていましたが、
今から1200年前に戸隠で生まれた修験者とは初めて知りました。

真殿からの眺望
左は受処、水屋と石段の先には城下町の町並みが見える。

悟竹院由緒

石段下に建つ賽の河原地蔵

地蔵の横にある聖徳太子堂
中では地元の方々が、一仕事終って昼食中。
御朱印を御願いすべく境内を彷徨っていると、御住職が別堂から登って来られ無事拝受。
住職;「この辺は人家が密集して火事が多く、各地区で秋葉山を祀っていました。それを明治になってここに統合した訳です。」
和辻;「この辺が旧城下町だと、吉田川の向こうはどうだったのですか?」
住職;「私の幼い頃でも、あちらは田圃や畑が多かったですね。」
城から魚の形に見える町割りも歴史は浅いようでした。
和辻;「山号は何と読むのでしょうか?」
住職;「“きょうげんざん”と読みます。僧侶の名前ですね。」
和辻;「江戸時代の人ですか?」
住職;「いいえ、唐の人です。由来は本堂に記載しています。」
と本堂に案内して貰って由緒を確認。

石段の右手にある本堂
悟竹院・達磨堂も兼ねる。

本堂の扁額「香厳山」
左書きなので新しい。
唐代末期の禅僧・香厳知閑(きょうげんちかん)は師の問いに答えられず師の元を去ったが、ある日掃除をしていた時に、
飛んだ小石が竹を打った音で悟ったと言うもの。伝説ではありますが【きょうげん】ではないでしょう。
その頃の唐は武宗による会昌の廃仏の時期に重なるので、仏教側も対抗措置を考える必要があった筈。ひたすら人や
書物を読んで理解する顕教は為政者には魅力が薄いもの。達磨大師が開いた禅宗は己の経験から悟りに達する教え
だったと理解しているので、そんな僧侶は【そうとうすう】居たに違いありません。

本堂に掲げられた香厳智閑の説明

秋葉三尺坊郡上威徳堂略縁起

秋葉三尺坊御朱印
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山内一豊とお千代の像
お城へ上る遊歩道を少し上がった場所にあるのが城山公園。その一角に、戦国武将・山内一豊と妻千代の像があります。
『関ヶ原後の土佐藩主・山内一豊の妻千代は賢夫人として知られ、一般的には近江の出身とされるが、郡上には
「初代郡上八幡城主・遠藤盛数の娘が山内対馬守室。」とする系図が各所に残っている。また近年には高知県から
家系図、陣立図等の資料も新たに発見され郡上説を裏付ける。昭和60年には市民有志に拠って「山内一豊夫人顕彰会」
が設立され、この銅像を建立した。』 とあります。

八幡上を仰ぐ場所に建つ一豊と妻の像

千代と郡上の繋がりについて
賢夫人の代名詞のように称えられ、大河ドラマにもなった千代の出身地となれば郷土の誇り。新たな資料も追い風に
なっている様子です。歴史は常に書き換えられるものですから、定説が覆るのは驚くに当たりませんが、どうぞ【検証】
だけはきちんとしないといけません。

八幡城天守閣に展示の遠藤・山内氏家紋
山内一豊の出世の糸口は、千代から貰った小判で名馬を買い信長の馬揃えで目に留まった事。銅像もそれを表してか
夫婦と馬になっていますが、それは若い頃の話。後に土佐一国の大名になったのは、関ヶ原の前夜、上方での石田勢の
様子を詳細に記した密書を会津征伐に向かった夫の元に送った功績に拠ります。一豊もそれを開封することなく家康に届けた
そうですから、大したもの。場合に拠ってはひとつの情報が戦場での勝ちに勝るほどの価値のある場合があるようです。

千代の肖像画(複製)
博覧館にて。

山内一豊肖像画(複製)
博覧館にて。
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郡上八幡城
今回の目的は城下町の雛祭り見学ですが、時間に余裕があったので、郡上八幡城まで登城する事に。
春の桜・夏の新緑・秋の紅葉と季節を通じて観光客が訪れる場所ですが、最近は夙に人気が上がっている様子。
奥美濃きっての山城であり、司馬遼太郎『街道をゆく』でも日本で一番美しい山城と称えていますが、人気急上昇の
理由は「天空の城」ブーム。但馬の竹田城がネット上で人気沸騰したのを皮切りに越前大野城、備中松山城、
郡上八幡もターゲットに。泉下の司馬さんはどう思って居られるでしょうか?

八幡城登城口
城下町プラザ、安養寺の横にある。

坂道、石段を上りいよいよ本丸へ

石段の先に見える郡上八幡城
郡上八幡城は
『戦国末期の永禄2年(1559年)、郡上領主、東常慶(とうのつねよし)と遠藤盛数(もりかず)の間に支配権を巡って赤谷山城
の戦いが勃発。その際、盛数がここに陣を敷いたのが郡上八幡城の創始である。盛数の後は子の慶隆が郡上を統一、
城下街を整備する傍ら信長・秀吉に従い全国を転戦したが、天正16年(1588年)加茂郡小原に転封、代わって城主となった
稲葉貞通は天守台等を設け本格的な山城として大改修を行った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に付いた慶隆は郡上八幡の戦いを起こし、戦後、郡上八幡藩主として返り咲いた。
慶隆の孫・常友は城や城下町の大改修を実施、寛文7年(1667年)に幕府から城郭として認められた。

山頂に聳える郡上八幡城

入口にある力石

力石の説明

人柱となった「およし塚」

およし塚由緒
遠藤氏が近江三上に転封後は井上・金森氏が相次いで入部するが、宝暦年間に起こった郡上一揆(1754~1758年)のため
金森氏は改易。代わって入部した青山氏に拠って100年以上の治世が続くが、明治4年(1871年)の廃藩置県に拠って
郡上八幡四万八千石は終焉。城郭も取り壊された。現在の天守は昭和8年(1933年)に再建された模擬天守で、
木造の天守としては日本最古である。』 とあります。

八幡上正門

郡上八幡城沿革

正門正面

復元天守閣
天空の城は竹田城以外すべて小京都に登録されている町。城だけでなく町と一体になった場所で、小藩ながら
交通の要衝であった事が築城の理由でしょう。坂を上った先からは城下が一望できますが、よく知られているように
町は魚の形。「ウォーっ」と思うか「ギョっ」とするかは人それぞれです。

奥の院
天守閣前に建ち「およし」を祀る。

城からの眺望
城下町が魚の形に見える。

天守閣から正門を見る

天守閣から西方を見る
城下町の魚の尻尾に当たる。

天守閣から東方を見る
右を流れるのは吉田川。
お城の例に漏れず、ここも力石や首洗いの井戸がありましたが、変わった所では「およし」を祀る祠の存在。急斜面の
修復が困難を極めた際、大和村の農民の娘であった17歳のおよしが自ら志願して人柱になった事を讃えたもの。
強制ではなく志願したそうですが、古代ならいざ知らず、江戸時代にもなって人柱と言う行為の効果を信じた人が
何人いたのかが気になります。「およし!」と言ってやる人はいなかったのでしょうか?

天守閣での甲冑展示
左より遠藤氏、井上氏、青山氏甲冑。

郡上本染「鯉のぼり」の展示

天守閣裏側にある首洗い井戸
[参考書]
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郡上八幡城下町「福よせ雛」
・さざ波や 志賀の都は 晴れにしを ひな見ながらの 山桜かな
気温も上がって近畿では桜の開花情報もチラホラ。それでも雛祭りを求めて、長良川鉄道で奥美濃の郡上八幡へ。
本州最長の三セク鉄道で国鉄時代の古い駅舎も多く、川の流れと景色をのんびり見【ながら】の列車旅。美濃太田駅9時56分発
の列車はその名も「ゆら~り眺めて清流列車」。湯の洞温泉口駅~郡上八幡駅間の景勝地で徐行運転する観光列車ですが
乗車券だけで可。但し、車両も普通と同じでした。

早春の長良川

美並駅のホームでは円空仏がお出迎え

文化財の長良川鉄道郡上八幡駅舎

令和3年の雛祭り案内

駅舎内の観光案内書での展示
途中の関駅で女性車掌さんが乗車。何だろうと思っているとマイクで沿線の説明が。こちらもある程度の下調べは
してきましたが、これには非常に助かりました。郡上八幡駅まで6つの橋梁を渡るとか、駅に円空仏が置いてあるとか、
難読駅名の話など時間の経つのが早く感じました。
唯、線路は頻繁に川を渡るので、川を眺めるには頻繁に座席を左右に移らなければならないのが難点でしょうか?

新町入口付近の旅館

メイン通りの商家

和菓子店「金華堂」で展示の繭雛

宗祇水入口の桜間見屋(肉桂飴の店)

桜間見屋の展示

郡上八幡城での展示

郡上八幡城での展示

郡上八幡城での展示とお城御朱印

郡上八幡城での展示とお城御朱印
清流、円空と郡上踊りの町ですが、2月6日~4月3日にかけて城下町では「福よせ雛」のイベント開催中。
通常は雛壇に並べる人形を使って日常生活や祭りを再現するもの。関西では余り見ませんが、かつて茨城の
石岡で見た記憶があります。

郡上八幡博覧館
雛祭りのメイン会場。

かつての主流だった土雛

郡上踊りの雛人形

お雛様の露店

獅子舞

密を避けての宴会風景

凧揚げ

百人一首

筝曲

アマビエも登場
郡上八幡のもう一つの顔は食品サンプル発祥の地。
サンプル工房という施設では、体験もできるようでTVでも紹介されているとか。
こんな食品サンプルを見たら空腹に勝てず。当然、鮎が有名ですが、時期外れなので別の川魚で昼食。その後、
駅カフェで甘味も頂きました。いつもと違って随分とお金が掛かりましたが、【円食う】の郷ゆえでしょうか?

さんぷる工房
郡上八幡の新たな名所になりつつある。

さんぷる工房の店先の展示

食品サンプルの沿革

創業者岩崎龍三氏
博覧館での展示。

博覧館でのサンプル展示(スイーツと洋食)

博覧館でのサンプル展示(和食と中華)

昼食は新町商店街の炭焼きうなぎ「うおとら」にて

これはサンプルではない

帰りの列車を待つ間、駅カフェで団子セット ¥700

駅前の顔ハメ

郡上市マンホールカード 配布場所は郡上八幡旧庁舎記念館
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