<コース> 新快速は15分、石山坂本線は10分間隔で運転
【往路】JR大阪→ (新快速) → JR石山 → (石山坂本線) → 京阪石山寺駅
石山寺駅 → 徒歩10分 → 石山寺 → 徒歩25分 → 建部大社 → 徒歩8分 → 唐橋前 → (京阪電鉄京津線) → 三井寺駅 → 徒歩8分 → 園城寺

長等山 水観寺(天台寺門宗 西国薬師霊場第四十八番札所)
札所参拝の後は広大な園城寺の境内を1キロ余り歩いて帰路へ。
寺門派総本山の園城寺にはかつて別所と呼ばれる有力寺院が五ヵ寺存在しましたが、現在まで残るのは三ヵ寺。
先に訪問した微妙寺もその一つですが、境内には出口付近にもう一ヵ寺。残る近松寺(ごんしょうじ)は境内とは
【別所】の逢坂にあるとか。

水観寺説明
長等山水観寺(ながらさんすいかんじ)は、
『長久元年(1040年)、明尊大僧正に拠って三井寺五別所寺院の一つとして創建。別所寺院とは平安時代から仏法を布教し、
多くの衆生を救済するため総本山周辺に設けられた寺院である。明尊は三蹟で有名な小野道風の孫、三井寺長吏、
天台座主を歴任した高僧。また藤原頼通の帰依を受け、宇治平等院の初代執印を務めたことでも知られる。
慶長6年(1601年)、准三宮道澄大僧正に拠って現世利益を本旨とする薬師瑠璃光如来を御本尊として祀り整備された。
現在の本堂は明暦元年(1655年)の再建で正面四間、側面五間の一重入母屋造の杮葺きで昭和63年(1988年)に元の
別所の地から園城寺境内の現在地に移設された。
当寺は三井寺境内の南西、西国札所参拝路登り口に位置して居り、参拝に向かう人、終えた人で賑わっている。』 とあります。

御本尊は内陣で拝観できるが外からもこのように見える
尚、拝観の別途料金は不要。

昔ながらの駒札
境内はさして広くありませんが、落ち着いた静寂の中に本堂が、その前に石仏が並び、地味ななかにも人々に親しまれている
雰囲気が見て取れました。
本堂内陣で参拝しましたが、通りからも十分拝観可能。御本尊の薬師様に脇侍の日光・月光菩薩、それに十二神将が
並ぶ様は水観ならぬ壮観でした。

水観寺御朱印
小野道風の流れを汲むだけに中々の達筆。
これで園城寺拝観も無事終了ですが、もう一足伸ばして本寿院へ。
南院にある子院の一つですが、平成26年(2014年)に休憩所「本寿院ながら茶房」に生まれ変わっていました。
静かな雰囲気の中で一服。寺院の改宗は大ごとですが、このような改修ならば大歓迎です。尤も御朱印はありませんでしたが…。

本寿院山門

本寿院
茶房へは右から入る。

掲示されたメニュー

かつての書院玄関

庭の桜

庭の眺めての一服

巡礼らしく葛餅お飲み物セット ¥800
飲み物は勿論日本茶で。
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長等山 園城寺(天台寺門宗総本山 西国三十三ヵ所第十四番札所)
微妙寺の後は南へ歩き、石段を上り詰めた場所に建つのが三井寺観音堂。

毘沙門堂脇の石段を上る

石段の先が観音堂

石段脇の燈籠と桜の花弁

石段から見える大津市内と琵琶湖
西国三十三ヵ所第十四番札所の三井寺観音堂は、
『延久4年(1072年)、後三条天皇の病気平癒を祈願して西の山上、華ノ谷に創建された聖願寺(正法寺)が嚆矢。文明13年
(1481年)に現在地に移転するが貞享3年(1686年)に焼失。現在の観音堂は元禄2年(1689年)の再建で琵琶湖を眺望する
境内には諸堂が並び札所伽藍を構成している。

西国札所観音堂の全景

西国十四番札所 三井寺観音堂
元禄2年(1689年)再建。

観音堂からの眺め

観音堂御朱印
令和版と平成版。
本尊の重文・如意輪観音坐像は平安時代の作で三十三年毎に開扉される秘仏。堂前の崖に乗り出した月見堂は謡曲
「三井寺」の観月舞台で、展望台からは大津市内と琵琶湖、遠く三上山までが眺められる。』 とあります。

月見堂(観月舞台)に列をなす人々
嘉永3年(1849年)の建築。

謡曲「三井寺」と観月舞台の説明

文化11年(1814年)建築の鐘楼

鐘楼の内部

手水舎を抜け更に高所へ

西国札所の撮影ポイント
園城寺境内では南院に位置し、その中でも高台に建つ中心伽藍。西国札所ということもあり大勢の参拝者で賑わっています。
建物自体は国宝・重文ではないですが、遠く琵琶湖が一望できる場所にあるというのが重視された所以でしょうか?

上から見た百体堂
宝暦3年(1753年)築。

上から見た月見堂

札所から見た市内と琵琶湖
湖上を走るのは遊覧船「ミシガン」

対岸の三上山

一番の高台には「大津そろばん」の碑が建つ
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長等山 微妙寺(天台寺門宗 湖国十一面観音霊場第一番札所)
御廟参拝の後は札所の観音堂に向かいますが、その手前にあるのが村雲橋。
『開祖円珍がこの橋を渡っている最中、長安の青龍寺が燃えている事を悟り、請雨の印を結んだ所、忽ち雨雲が橋下から
巻き起こり唐の方角に飛んだ。翌年、入唐した円珍が寺を訪れた所、
「千年の火災の際に大雨を降らせて頂き焼失を免れた。」 と謝礼の言葉を受けた。これが村雲橋の謂れとなった。』
とあり、円珍の超人的なエピソードとして伝わります。

参道に架かる村雲橋

村雲橋の袂は桜の撮影スポット
橋を北西の隅に石垣を巡らした中にあるのが勧学院。三井寺の子院の一つで杮葺きの客殿は国宝、庭園もありますが
ここは拝観不可でした。

村雲橋を渡り石垣に囲まれた勧学院を過ぎる

南の門から見た国宝・勧学院客殿

客殿説明
気を取り直して向かった先にあるのが微妙寺。長等山微妙寺(ながらさんびみょうじ)は、
『正暦5年(994年)、に慶祚(けいそ)阿闍梨に拠って大津大神宮の南西に創建された三井寺五別所の一つ。慶祚は
『往生要集』を書いた恵心僧都源信の盟友で、三井寺を隆盛に導いた高僧である。

参道の正面に建つ微妙寺
左の塀に囲まれた建物は文化財収蔵庫。

微妙寺正面

微妙寺案内
御本尊の十一面観音像は9世紀の平安仏で、古来より厄除開運、健康長寿、財福授与等を願って参詣者が押し寄せ、
被っていた笠が脱げる程、賑わった事から「笠ぬげの観音様」として信仰された。今は湖国十一面観音霊場第一番札所と
なっている。現在の本堂は安永5年(1776年)の再建、昭和54年(1979年)に今の場所に移転した。』 とあります。

微妙寺は内陣まで上がって拝観
御本尊は十一面観音で、元は別の別所・尾蔵寺の本尊であった。

花頭窓と湖国一番札所の案内

外から見た御本尊
平成4年に御朱印帳を始めた時の寺院が三井寺。その時は境内に四ヵ所納経所があり計¥1200。
「御朱印とは結構お金のかかるものやなぁ」 と思った記憶があります。
あれから30年近く経ち、現在境内の御朱印は7種。以前に拝受したものは除くと今回は3種。ところが「十一面観音 微妙寺」
で今回拝受したものと、「大悲殿 三井寺」で前回拝受のものは共に湖国第一番で印も同一。一体どのような経緯で墨書が
変わったのかは謎ですが、【微妙】な違いもあるようです。

微妙寺御朱印
(左)今回拝受分 (右)平成4年拝受分

微妙寺脇の天台大師石像

重文・毘沙門堂

毘沙門堂説明

彩色が復元された花狭間部分
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長等山 園城寺 唐院 (天台寺門宗総本山 西国三十三ヵ所第十四番札所)
鐘楼から南へ向かうと唐院。仁王門からは一番【とういん】場所ですが、高台で塀に囲まれ三井寺で最も大切にされている
聖域になります。重文・唐院は、
『三井寺の中興開祖・智証大師円珍の廟所。唐院の名は智証大師が入唐求法の旅で持ち帰った経典類を納めた事に由来する。
周囲は三重塔・四脚門・灌頂堂・大師堂・唐門が並び、大師堂には平安時代の智証大師坐像二体、重文・黄不動尊立像を祀る。

金堂から参道を西へ進み唐院入口へ
正面奥が金堂で、左の石橋の先が唐院。

石畳の先に四脚門が

髙い塀に囲まれた先が重文・唐院
円珍は弘仁5年(814年)讃岐国の生まれ。母は弘法大師の姪に当たる。比叡山での12年間の籠山修行中、黄不動尊を感得。
これは国宝・黄不動尊画像として今に伝わる。
貞観元年(859年)に園城寺初代長吏、同10年には第5代天台座主として24年に亘り日本仏教の発展に尽力。寛平3年(891年)
78歳で入寂したが、その功により醍醐天皇より智証大師号を賜った。

重文・唐院四脚門

四脚門説明

秘仏・黄不動尊の案内
但し、説明・御朱印は唐院ではなく三井寺五別所の一つ微妙寺にて。

今回拝受した黄不動尊御朱印
平成4年の参拝時には記憶がないので、後に出来たか?
天台宗延暦寺は三世・慈覚大師円仁、五世・智証大師円珍と傑出した二人の高僧に拠って発展するが、やがて門弟の
対立により二派に分裂。正暦4年(993年)、両派は武力闘争に発展し、円珍門徒は下山し三井寺に移る。
これが延暦寺を拠点とする山門派と三井寺を拠点とする寺門派の分裂の始まりで、以後両派は天台座主の継承や戒壇の
独立を巡って熾烈な対立を繰り返す事となった。

重文・唐院灌頂堂
平安京の仁寿殿を下賜されたものと伝わり、密教の儀式が執り行われる。

灌頂堂説明

唐院の桜
特に永保元年(1081年)の山門派の焼討ちは凄まじく三井寺の堂宇は尽く灰燼に帰した。その後も保安・保延・応保・建保
年間に焼討ちを受け、寺門派の僧侶からは「保の字の年号に三井寺は炎上する。」とまで言われた。
そのような状況にも拘らず、円珍将来の唐の経籍は門弟の努力に拠って今日まで伝わっている。』 とあります。

灌頂堂の奥に佇む唐門と大師堂
唐院の聖域でいずれも重要文化財。

唐門説明

大師堂説明

唐院北にある重文・三重塔

三重塔説明

三重塔の垂木部分
室町初期の建築の様式を今に伝える。
三井寺の開山は大友与多王ですが、今に至る発展の基礎を築いたのは円珍。空海の血縁だったので高野山に入るのが
自然ですが、何か心に期する事があったのでしょうか?
学問に加え政治力もあり自身も出世しますが、円珍の派閥が力を持ち過ぎた事が天台宗の分裂と抗争に繋がりました。
どの世界でも派閥争いは熾烈なものがありますが、宗教も例外ではありません。唯、円珍に続く有為な高僧が続かなかった
事が【抗争】になった訳で、これは日本の仏教界にも悲劇でした。
平安から戦国期まで23回の火災に見舞われますが、内14回は延暦寺の焼討ちと言うのがそれを表しています。唯、
比叡山と対立したが故に、信長の比叡山焼討ち時には難を免れたのは幸運だったと言えます。

三重塔の北に建つ一切経蔵

重文・一切経蔵

一切経蔵説明

経蔵堂内にある回転式の八角輪蔵
高麗版一切経を納める。
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長等山 園城寺(天台寺門宗総本山 西国三十三ヵ所第十四番札所)
釈迦堂を過ぎて石段を登ると、国宝・金堂。総本山三井寺の総本堂になります。
『金堂の御本尊は弥勒菩薩。天智天皇が信仰された霊像で秘仏として静かに祀られている。後白河法皇初め歴代の天皇や
源頼朝、足利尊氏、徳川家康などの武将からも篤く信仰された。創建以来、焼失と再建を繰り返し、現在の本堂は北政所に
拠って慶長4年1599年に再建された桃山時代を代表する建築である。

石段の先に建つ金堂

国宝・金堂近影
御本尊は弥勒菩薩。

金堂説明
昔はなかった記憶があるが、最近は御朱印も載せた詳細な説明となっている。

金堂の向拝と垂木の装飾

金堂御朱印
金堂の左手前にあるのが重文・鐘楼で慶長7年(1602年)の再建。そこに吊るされているのが近江八景「三井の晩鐘」で
知られる梵鐘で宇治の平等院、高雄の神護寺と共に日本三銘鐘に数えられる。

重文・鐘楼

鐘楼の説明

三井の晩鐘

近江八景「三井の晩鐘」
何故か、冥加料 ¥800 に目が行く。
金堂奥にあるのが名前の由来となった霊泉が湧く閼伽井屋。覆屋は慶長5年(1600年)建立の重文で、正面上部には
左甚五郎作の龍の彫刻がある。
その上に建つ霊鐘(れいしょう)堂に祀られているのが奈良時代の梵鐘。俵藤太秀郷が三上山の大百足退治の礼に
龍宮から持ち帰ったものであるが、後に山門との争いで弁慶が比叡山に引きずり上げたが、鐘が「いのう」と響くので
怒って谷底へ投げ捨てた。そのため「弁慶の引き摺り鐘」として知られている。』 とあります。

重文・閼伽井屋
金堂の西にあり、格子の奥の岩屋からは霊泉が湧出する音が聞こえる。

閼伽井屋説明

今も岩組から湧き出る霊泉

閼伽井屋の正面にある左甚五郎作とされる龍の彫刻

閼伽井石庭
日本最古の庭園とされる。
広い三井寺の中で中心伽藍の場所ですが、鐘や泉など著名なものが集中している場所でもあります。札所の観音堂を
除けば一番人出が多いでしょう。
金堂は大伽藍ですが、その他は全て小型。それでも観光客が絶えないのは「大きい故に尊からず」と言う事でしょうか?
三井の晩鐘は拝観時間内は何時でも撞くことが出来、冥加料¥800。鐘撞きにしては高額ですが、晩鐘御朱印と説明書付でした。

霊鐘堂入口

霊鐘堂説明

内部の巨釜と釣鐘

重文・弁慶の引摺り鐘
御丁寧に引き摺った跡も残っている。

引摺り鐘説明
弁慶の引き摺り鐘は撞かずに見るだけですが、こちらは無料。それはそれで有難いですが、秀郷の龍宮伝説も
弁慶の引き摺り伝説も荒唐無稽な話。伝承と割り切れば良いですが、御丁寧に鐘に引き摺った跡まであるのは遣り過ぎ。
自然のままにした方が【冷笑】されずに済む気もしますが…。

「近江名所図会」にある釣鐘エピソード

大津観音寺郵便局 ; 三井寺の梵鐘、鐘楼
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長等山 園城寺(天台寺門宗総本山 西国三十三ヵ所第十四番札所)
再び電車の人となり、石山坂本線三井寺駅で下車。三井寺自体が桜の名所ですが、そこに向かう途中の疎水沿いも桜の名所。
カメラを持った人の山でしたが4月3日とはいえ、もう散り始めで水面上は花筏状態でした。

琵琶湖疎水の桜
写真は三保ヵ崎の取入口。

取入口から蹴上まで12㎞に及ぶ

仁王門前の堀
疎水沿いの道を南西に向かうと、正面に見えるのが仁王門。広大な境内を有し何ヵ所もの門を有する三井寺ですが、
ここが正門。丁度昼時なので門前の風月で昼食。巡礼らしく蕎麦セットにしましたが、横の売店では江戸時代からの名物・
三井寺力餅の実演販売中。3串(¥330)を注文して土産にも購入。甘いものは別腹です。

「れすとらん風月」にて そば風月(冷) ¥1650

三井寺力餅

もう一つの銘菓「つりがね饅頭」

土産には両方を
長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)は、天台宗寺門宗の総本山。『寺門伝記補録』に拠れば、
『天武天皇15年(686年)、弘文天皇(大友皇子)の皇子・大友与多王(よたおう)が父の遺命に拠り田園城邑を投じて寺院を創建。
天武天皇より「園城」の勅額を賜り、長等山園城寺と称したのが始まり。
三井(御井)寺の名は往古より湧出する清水に由来し、天智・天武・持統の三帝が誕生の際に産湯として用いられた。以降
御井之地として尊崇を得るに至った。今でも境内には水が湧出している。後に寺を再興する智証大師・円珍が当寺の厳儀・
三部灌頂の法水に用いた事が三井寺と呼ばれる所以になった。

重文・仁王門

仁王門前に建つ寺標
長い歴史の中で山門比叡山との争いや再三の兵火で焼失したが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興。現在も広大な境内に
国宝・重文・名園など貴重な文化財を今に伝えている。
入口の重文・仁王門(大門)は宝徳4年(1452年)の建立。元は甲賀の常楽寺にあった仁王門であるが、豊臣秀吉に拠って
伏見城に移築。更に慶長6年(1601年)徳川家康に拠って浄域への表門として寄進された。
蟇股や組物には室町期の特徴を有し、両脇の金剛力士像は康生3年(1457年)の作である。

仁王門近影

仁王門由緒
門を過ぎて右手に建つのが食堂(じきどう)。御所の清涼殿を移築したもので、多くの僧や衆徒を擁した中世大寺院にあった
食堂の古式を今に伝えるもの。檜皮葺屋根に半繁垂木の簡素な住宅風建築。須弥壇は室町時代のもので本尊に清凉寺式
釈迦如来を祀るため釈迦堂とも呼ばれている。』 とあります。

重文・食堂(釈迦堂)
仁王門をくぐって直ぐ右手にある。

食堂由緒

食堂入口の唐破風

食堂前面

清凉寺式釈迦如来像
内陣で拝観できるが、外からでもこのように拝む事が出来る。
三井寺の語源は有名ですが、大友与多王に由来する園城寺の話は初耳でした。信憑性は低そうに思いましたが、
大正15年(1926年)に金堂修理が行われた際に白鳳期の瓦が出土。その時代の園城寺の存在が裏付けられた訳で、
単なる【与多】話ではなかったようです。
与多王の父は天武天皇にとっては壬申の乱で皇位を争ったライバルですが、そんな彼に勅許を与えたのは天武天皇の
【温情】か勝者の余裕かか、それとも【じんしん】掌握を狙っての事でしょうか?
そんな由来の三井寺が後世には激烈な争いの元になったもの歴史の皮肉と言えます。

釈迦堂御朱印
平成4年拝受。御朱印帳のトップを飾った記念すべき第一号。

三井寺オリジナル御朱印帳
近江の御朱印も今回で三冊目に突入。

三井寺説明書
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石山寺駅 → 徒歩10分 → 石山寺 → 徒歩25分 → 建部大社

建部大社(官幣大社 近江国一之宮)
・もののふの 矢橋の船は 早けれど 急がば回れ 瀬田の長橋 宗長
石山寺参詣の後は、三井寺ですがその手前に近江国一之宮があるので敬意を表して参拝。
京阪電車の石山寺から一駅歩き唐橋前を右折。見えて来るのが「日本三大名橋」に数えられる瀬田の唐橋。
東国から京都に入るには矢橋から船で琵琶湖を渡り大津へ向かうのが最短コースですが、比叡おろしの影響で
船が遅れることもしばしば。その反面、南にある瀬田の唐橋を渡れば距離は増えるものの日程は狂いませんでした。
これが宗長の歌になり、諺「急がば回れ」の語源です。

唐橋前から東へ向かう
古来より東国から畿内に入る要衝で、『日本書紀』にも登場する古橋。応神天皇の異母兄・忍熊王が武内宿祢に瀬田で
攻められ、瀬田川に身を投じたのは伝説的ですが、歴史上では壬申の乱で激戦地になったのを始めに、恵美押勝の乱、
源平合戦の治承・寿永の乱、承久の変、本能寺の変と歴史の教科書に登場する戦には軒並み登場。伝説ではありますが、
俵藤太(藤原)秀郷の三上山の大百足退治の舞台もここになります。

唐橋の袂に建つ俵藤太の大百足退治の説明
琵琶湖から流れる唯一の川であり、急流である瀬田川を渡らないと都には着けないためですが、そのため当初は現在より
300m下流の蛍谷付近でしたが、天正3年(1575年)織田信長に拠って今の位置に移りました。江戸時代の寛永7年(1630年)
から文久元年(年)まで16回の架け替え、明治以降も4回と何度も架け替えられています。現在の橋は昭和54年(1979年)に
架けられました。この唐橋を東に渡り、500m程進んだ先にあるのが近江国一之宮。要衝らしく道路が交差し交通量が多く
周囲は住宅地という人間臭い場所です。

瀬田川を渡った東側にて
今も交通の要衝である事には変わりない。

門前にある老舗鰻店
生憎、開店前だったので泣く泣くスルー。

道路脇に建つ社標とその奥に建つ一の鳥居

入口へ到着
建部大社(たけべたいしゃ)は、
『景行天皇46年(116年)、勅命に拠り日本武尊の妃・布多遅比売(ふたじひめ)命が神崎郡建部郷の千種岳に神社を創設し
建部大神と名付けたのが嚆矢。その後、天武天皇の白鳳4年(675年)に勅命に拠って建部連安麿が瀬田の東の大野山に
神殿を建て御祭神の日本武尊をここへ移した。これ以降、近江一之宮と定められた。

一の鳥居から東へ向かう参道

境内案内図

二の鳥居からは北へ向かう

参道に掲げられた由緒

我が国初の千円札に描かれた当社
貞観2年(860年)に官社となり『延喜式』に名が載る。更に延久4年(1072年)には正一位が授けられ神田1町5反が与えられた。
また武運の神としても知られ、平家に捕らわれた源頼朝が伊豆へ配流の途中、永暦元年(1160年)、当社で源氏再興を祈願した
と言う。寿永2年(1183年)の木曽義仲の入洛の際には、社地に陣敷いた太田倉光に拠って境内が荒廃したが、建久元年
(1190年)、征夷大将軍となった頼朝は上洛の途中この社に立寄り神領を寄進して報いている。

参道先にある神門

御神木の三本杉と拝殿

三本杉全景
これは当社の神紋にもなっている。

神門の幕に描かれた神紋

境内に湧く頼朝公の出世水
1221年の承久の乱の時、北条泰時軍に拠って神宝や諸記録を失い、延慶2年(1309年)勢多判官の中原章則がこの神社を
再興した。現在残る最古の記録は元和4年(1618年)のもの、重文・女神像3体は藤原時代の作で布多遅比売命と伝わる。
また境内には文永7年(1270年)の銘の石灯籠があり近江の石灯籠では最も古い。』 となっています。

拝殿とその奥に続く本殿

本殿(左)と権殿
本殿は日本武尊、権殿は大神神社から勧請した大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る。

権殿の屋根の装飾

本殿と権殿に参拝

古来より当社に伝わる「願い石」
石に願い事を書き持ち帰り、叶えばお礼参りして返納する慣わしである。

文永7年(1270年)造営の重文・石燈籠
一之宮なので繁華な場所にあっても不思議はないですが、それにしても人と車の多い場所。
社務所の巫女さんに訊くと「境内から清水が湧出していますので。」との答え。
日本最大の水瓶が直ぐ傍にあるとはいえ、琵琶湖の水を直接飲む訳には行きません。この湧き水がここに鎮座された
理由でしょうか。拝殿前には大きな杉の木がありますが、これは神紋になっている御神木。境内の水が育んだのでしょう。

宝物殿

桜越しに見る摂末社

宝物殿の展示案内
女神像は日本武尊の妃とされ平安時代の重文。

境内東に湧く池と大燈籠

大灯籠の説明

織部燈籠

「山の神」って
御祭神の日本武尊は伊吹山の神の毒気にあてられた際に、麓の居覚の清水で癒されたとされ、これが今の醒ヶ井の由来。
水との関りが示唆されます。古代ギリシアの哲学者ではないですが、【万物の歩けは水】ですね。

建部大社御由緒

建部大社御朱印
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石山寺駅 → 徒歩10分 → 石山寺

紫式部像
石山寺境内奥の源氏苑の一角にある。
・石山の 石より白し 秋の風 はせお
『奥の細道』の那谷寺での詠ですが、比較の意味で近江の石山寺の石が登場。石山寺横の幻住庵に住んだ芭蕉としては、
石山寺は非常に身近な存在だったのでしょう。

月見亭(左)と芭蕉庵
『江戸時代の松尾芭蕉を出すまでもなく、石山寺は多くの文学先品に登場。
『右大将道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)の記事、『枕草子』では二百八段に登場。菅原孝標女の『更級日記』では
寛徳2年(1045年)、『和泉式部日記』には参籠の記録がある。
特に紫式部は石山寺に参籠した寛弘元年(1004年)、八月十五夜に金勝山から上る明月を見て、『源氏物語』の須磨・明石
の巻を綴ったという伝承は殊に有名。本堂には「紫式部の間」が作られている。

本堂外陣(礼堂)入口

本堂内にある「源氏の間」
かつては前に金網が張られていたが、今は撤去。現代的な顔立ちの紫式部は御所人形司の作。

「源氏の間」の説明

石山寺縁起絵巻に描かれた源氏の間

本堂の横を上った場所からの眺望
直ぐ下にあるのが硅灰石。
また尾根の東の突端部には後白河上皇行幸の折に月見亭が建てられ、瀬田川や琵琶湖を望む場所から見る月は
「石山の秋月」として近江八景の一つに数えられる。』 とあります。
伝承は真実からは離れた事も多いですが、紫式部の事は自らの日記にも記載があるので信憑性は高いと思います。
加えて平安時代の女流文学の著者が多く訪れているもの有力。

境内の東端に迫り出した月見亭

月見亭の玉座
遥かに琵琶湖を眺めながら瀬田川の景色を楽しむ事が出来る場所。

月見亭の下の石庭

石庭

高台にある第二梅園「東風の苑」からの眺望
心経堂(左)と多宝塔が見える。
今でも文筆家や画家には世間を離れた別荘で創作に勤しむ人が居ますが、平安時代の彼女達にとっても石山詣は
非日常体験、創作の発想を得るものであったと想像できます。
都から適度な距離があり、それなりの広さで様々な場所を散策できるのがポイントでしょうか。大和の長谷寺も文学に
多く登場しますが、位置や景観が石山寺に似ている事もこの説を裏付ける気がします。

西側にある第三梅園・牡丹園からの眺め

牡丹園の向こうに建つ光堂

八重桜

光堂
平成20年(2008年)石山を発祥地とする東レ㈱により寄進された堂宇。鎌倉時代の光堂を再現した懸造で、本尊は阿弥陀如来。

宝蔵付近

ミツバツツジの花
平安文学には登場する石山寺も鎌倉時代以降は登場が減ります。鎌倉時代で見れば阿仏尼の十六夜日記・海道記。
政治の中心が貴族から武家に移った事、それに伴い行動範囲が近畿内から東海道までに広がったと言えますが、
動乱の時代に入った事も大きいでしょう。
石山寺が再び登場するのは元禄の松尾芭蕉、明治の島崎藤村を待って漸く【夜明け前】になります。

八大龍王社
龍穴と呼ばれる池の中島に建てられており、炎天下でも請雨法をすれば必ずや降雨があるとされる。

滝

西側にある庭園「無憂園」

本堂を仰ぎ見ながら受付へ

江戸時代に境内にあった水車の復元
村人が収穫した米をここで脱穀したと伝わる。

石山寺境内図
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石光山 石山寺(東寺真言宗大本山 西国三十三ヵ所第十三番札所)
『平安遷都後は、都に近い観音霊場として歴代天皇や藤原氏をはじめとする多くの貴族の参詣・参籠が行われた。
折しも末法の世の到来に怯える貴族の意識が観音菩薩へ利益を求める事に拍車をかけ、物見遊山を兼ねた
「石山詣」が盛行するに至った。

国宝・石山寺本堂

本堂の説明

礼堂下の懸造(舞台造)

石段を上り礼堂へ

本堂前面
中世に入ると源頼朝の庇護を受け寺内の堂宇が整備された。本堂の内陣は承暦2年(1078年)に焼失したが永長元年
(1096年)に再建された滋賀県最古の木造建築で国宝。舞台造りの本堂外陣は慶長7年(1602年)、淀君に拠って建てられ
大棟で内陣と繋がっている。本尊の如意輪観音半跏像は自然の岩盤の上に安置され、縁結び・安産・福徳の霊験あらたかで
勅封で秘仏。33年に一度の御開帳である。

舞台からの眺め

懸造り

重文・三十八所権現社
本堂を上って最初の場所に建つ。

重文・経蔵
県下最古の校倉造りで、かつては「石山寺一切経」が収められていた。

経蔵下にある「安産の腰掛石」
同じく普通切手の図案にもなった国宝・多宝塔は上層が円形、下層が方形を成し、独特の均整美を鎌倉時代の建築である。
その他、鐘楼・東大門・仁王像も鎌倉時代の建立である。
境内にある奇岩は、所謂石山の名の由来になった硅灰石から成って居り、天然記念物に指定されている。』 とあります。

国宝・多宝塔
源頼朝寄進とされ日本の多宝塔の代表とされる。

多宝塔亀腹部分と垂木、木鼻

多宝塔説明

源頼朝供養塔と亀谷禅尼供養塔
禅尼は頼朝の二の姫の乳母で、剃髪後石山寺へ隠棲。頼朝に寺の再興を勧めた功労者である。
古代には皇室に縁のあった石山寺ですが、中古以降は貴族に、中世以降は庶民へとその信仰が広がりを見せます。
東大寺建立は疫病への鎮魂を込めたものだったようですが、観音信仰は現世利益への願望が主。それだけ生活レベルが
向上したのか、庶民の力が強くなったのかは意見の分かれる所でしょうが、時代の推移にも拘らず信仰の場所として
【岩盤】っている石山寺に惹かれる事だけは確かでしょう。

心経堂

由緒

心経堂前から多宝塔を見返る

境内ではミツバツツジが満開

石山寺 巡拝供養券

石山寺御朱印
西国三十三ヵ所札所印。

石山寺郵便局 ; 花頭窓の外枠に石山寺月見亭
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石光山 石山寺(東寺真言宗大本山 西国三十三ヵ所第十三番札所)
一週間前に紀三井寺・根来で満開のソメイヨシノを見たのに続き、この日は近江へ。例年より異例に早い桜を追ってというよりも、
紀三井寺に行って三井寺に行かないと画竜点睛を欠くと【紀】になったからに他なりません。
京津線沿いの桜の名所は三井寺と石山寺ですが、朝8時から開門する石山寺からスタート。
京津線の終着石山寺駅を降りると、もうそこは門前町。瀬田川を行く漕艇を左に、旅館や土産店を右に見ながら歩く事10分。
大きな仁王様と提灯のある東大門がお出迎え。
ここから参道を真っすぐ進むのも良いですが、途中右手にある「くぐり岩」を抜け手水舎で清めた後、老杉が見下ろす大坂を
上るのが正式でしょう。

京阪電鉄石山寺駅前にて
多宝塔のモニュメントが建つ。

瀬田川沿いの桜並木と漕艇
琵琶湖に流れ込む河川は多いが、流れでるのは瀬田川ただ一つ。

境内を囲む塀越しに見る桜

重文・東大門
建久元年(1190年)源頼朝の寄進により創建し、慶長年間に大修理。

東大門の説明

大門の仁王像
石光寺石山寺(せっこうざんいしやまでら)は、
『聖武天皇が大仏建立の際、金が無い事を憂いて良弁(ろうべん)を吉野の金峯山に籠らせた。すると夢に蔵王権現が現われ、
瀬田の霊山で祈願せよと教示される。良弁は瀬田で老人と出会い、石山の辺りに観音を祀るよう告げられた。早速この地に
庵を結び如意輪観音を安置した所、陸奥に金脈が発見された。その後、この像を本尊に堂宇を建立したのが石山寺の嚆矢と
される。これは『石山寺縁起』にある話であるが、『扶桑略記』にも同様の話が載る。

大門に続く参道
両脇には桜と紅葉、塔頭が並ぶ。

入山受付右手にある「くぐり岩」
歴史的には天平宝字5年(761年)東大寺の建築用資材の集積地としてこの地に「石山院」という「造東大寺別当」所轄の
出先の役所が置かれた。その普請に大僧正良弁が深く関わって居り、翌年には陣頭指揮も行っている。これら一連の工事は
正倉院文書にも記録され、石山寺の増改築の結果、有力諸大寺に比肩するに至ったと推定される。』 とあります。

石段を上り本堂へ向かう

石段を上った先から境内を望む
正面に見えるのが国宝・多宝塔と寺名の由来となった硅灰石。

西国三十三ヵ所の観音様を祀る観音堂と御神木の千年杉

観音堂に続く毘沙門堂

毘沙門堂説明
聖武天皇に遡る古刹であり、兵火に遭うこともなかったため、古文書等を多数所持。加えて『石山寺縁起』の存在で
由緒に関してはかなり詳細に伝わっています。
唯、縁起にあるように良弁大僧正がここに観音様を安置した結果、陸奥で黄金が見つかったと縁起は良いですが、
話の繋がりがやや強引で【演戯】っぽく【弄弁】。東大寺の役所が置かれたという方が余程しっくりします。それよりも
境内に聳える石群がポイント。一山全体を磐座とした信仰が基本にあるように思います。皆で奇岩に祈願したに違いありません。

毘沙門堂の向かいに建つ蓮如堂
蓮如上人の母は石山観音の化身とされ、その形見と伝える蓮如鹿の子の小袖を安置している。

蓮如堂説明

天然記念物・硅灰石
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鹽増山 大廣寺(曹洞宗 大本山総持寺末寺)
伊居太神社参拝の後は参道から東へ向かい五月山公園へ。穴掘り熊と呼ばれるウォンバットで有名ですが無料で晴天
ということもあって家族連れがたくさん。いくら緊急事態宣言といってもGWに家に籠れというのは土台無理な話。
公園を抜けて、寺標のある道を北へ向かい階段を上ると塀の間に寺院が現われますが、そこは陽春寺で別の寺院。
更に石段を上った先が目指す寺院でした。

五月山公園脇の道路に建つ寺標
目指す寺は右の道を奥に進む。

巨木に囲まれた参道を行く

石段の先に山門が見える
この場所の左手が陽春寺になる。
中国風の山門を過ぎると広い境内が現われ山門下からは市内が一望できます。地勢的にも市内を俯瞰でき、隣接する
伊居太神社の神宮寺という位置付けだったのではないかと想像しましたが、そのような記載はなし。
また山門の裏側には白龍が描かれていますが、言い伝えではこの白龍が毎晩本堂西側の弁天池の水を飲みに行くので、
時の住職が目玉を白く塗り潰すと飲みに行かなくなったとか。直下の六角形の石の石には龍の爪痕と称するものも残って
いました。

中国風の山門

正面から見た山門と扁額「鹽増山」

山門下からの市内の眺望

山門裏側に描かれた白龍
この龍が毎夜弁天五池の水を飲みに行ったとか。

山門直下の六角石にある龍の爪痕
鹽増山大廣寺(えんぞうさんだいこうじ)は、
『応永2年(1395年)、永平寺開山道元禅師より七代目に当たる天巌禅師に拠り創建。山号の鹽増山は昔山上に池があり、
その水が潮の干満に応じて増減した事から、寺号の大廣寺は仏法の広大無量の恩恵を大いに廣く世に弘めるとの願いに拠る。
文明年間の第四世・祥山祖琳禅師の代に池田城主五代、築後守充正公が禅師の徳を慕い帰依。伽藍諸堂を再建し、山上に
修行の場としての「望海亭」を設けた。以後、池田氏の菩提寺となり今も境内には充正公を始め池田一族の墓が残る。
余談であるが充正の弟恒元の子恒利は池田城を出て、その子孫は備前岡山の藩主となっている。

境内(本堂より西側)
左から、坐禅堂、納骨堂、本堂、庫裏。

境内(本堂より東側)
左から、本堂、書院玄関、庫裏。

蘇鉄の奥に建つ坐禅堂

釈迦如来と十六羅漢を祀る本堂
永正初年頃、池田一族の誘いに拠り京都の連歌師肖柏が当山塔頭泉福院に住み、「夢庵」と称して13年に亘り風流韻事に
過ごした。此の間に和歌・連歌を教え、源氏物語・伊勢物語を講義した。当地に文雅の気風を生んだのは彼の功績である。
また牡丹の苗を持参して境内を牡丹で彩り、自らも牡丹花と号したのはこれ以降のことである。

本堂前に建つ牡丹花肖柏碑

鐘楼と庫裏

鐘楼に納められた梵鐘の由緒
永正5年(1508年)、管領細川澄元を細川高国が攻めたが、多くの城が高国に降伏する中、池田城は高国の大軍と戦い、
六代城主貞正は遂に城に火を放ち一族郎党自刃した。その時の血の跡の縁板は血天井として本堂玄関前に使用されている。
尚、肖柏はこの戦いを避けて播磨に逃れ戦の後、池田に戻ったが最後は堺で没している。
戦国時代には荒木村重によって伊丹に移されたが、村重没落後は池田知正によって池田に戻され、慶長年間に諸堂を
再建している。

本堂西側にある弁天池
山門の白龍が夜な夜な水を飲みに来た池である。

境内裏手の墓地から見た寺院全景

庫裏の手前にあるのが鹽増池

鹽増池を囲む庭園とその奥にある本堂

上から見た庭園
第十九代崇山和尚の元文4年、当山諸堂の改築が竣工。現在の堂宇はこの時のものである。江戸中期には繫栄し、子院も
40余りあったとされるが明治初年には三塔頭を数えるのみとなり、現在は陽春寺のみが残っている。
このように歴史と故事に彩られているが、今は境内に60余種、1500株に及ぶ牡丹の名所でもある。』 とあります。

裏山の一角に植えられた牡丹

同じく牡丹

由緒のある古寺ですが、それ以上に色々な故事に驚き。龍の爪痕の真偽は兎も角、歴史の爪痕は明らかでした。
形は変わったものの本堂裏には今も鹽増池が残り、西側の弁天池はどんな旱魃にも枯れることはないとか。鹽増池の
水の増減、弁天池の白龍の故事は、かつて池を巡って水の争いがあった事の名残。そしてこのような山麓にも拘らず
境内から池が湧くという所が、池田の名の由来になった気がします。

池田公一族の墓

墓の説明

境内奥にある「風人碑」
昭和3年に没した三好風人の碑。風人とは詩歌を吟ずる風流人の事。

地蔵石仏
永禄7年(1564年)の銘がある。
御朱印を御願いすると、住職夫人が対応
和辻;「本堂裏にあるのが鹽増池だと思うのですが、まさか塩からいとか?」
夫人;「舐めた事はありませんが、蛙や鮒がいるので真水でしょうね。」
和辻;「観光案内所では牡丹の寺と聞いたのですが、どこでしょう?」
夫人;「すいません。皆、やられてしまいました!」
和辻;「不心得者が盗んだのですか?」
夫人;「いいえ、猪が荒らしてしまって…。」
和辻;「牡丹は木ですよね。あんな硬いものを食べますか?」
夫人;「どうも根っこを食べるみたいであちこち掘り返されています。」
和辻;「それでは元に戻るのは難しいですね。」
夫人;「相当時間が掛かると思います。折角いらして下さったのに申し訳ありません。」
人が盗んだのではなかったのがせめてもの救いですが、野獣の害は深刻な様子。落語『池田の猪買い』は古典の世界と
思っていましたが、現実の世界でもありました。牡丹花肖柏が滞在したお陰で、牡丹の花との縁ができましたが、その花を
ボタンの肉が食べてしまったというまるで三題噺のような落ちでした。

墓地の一角には猪捕獲の罠が

大廣寺 当山境内と沿革

御好意で頂いた冊子

大廣寺御朱印
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穴織宮 伊居太神社(式内社 旧村社)
呉服神社参拝の後は、市街地から五月山の伊居太神社へ。下の宮、上の宮と互いに縁のある社ですが、
権禰宜さんの話では親戚ではないとの事。
穴織宮伊居太神社(あやはぐういけだじんじゃ)は、
『延喜式他、古文書にもその名が記され、歴代天皇、皇族、将軍の勅願所として官幣を奉られた古社である。

道路から続く石段

石段の先に建つ一の鳥居

一の鳥居から続く参道
その由緒は呉服神社と同じく、応神天皇の御代に阿知使主(あちのおみ)を勅使として呉国から渡来した機織裁縫の媛に由来。
裁縫の師として兄媛(えひめ)、弟媛(いろとひめ)、機織の師としての穴織(あやは)、呉織(くれは)の四姉妹である。
兄媛は筑紫に留まったが、他の三媛は阿知使主が領地に建てた織殿、縫殿にて機織裁縫の業を興した。
仁徳天皇76年(389年)9月17日に穴織が長逝、翌18日には呉媛が長逝され、穴織の遺骸は姫室へ、呉媛の遺骸は梅室に
納められた。仁徳天皇は両媛の功績は大であるとして翌77年勅令で御神祠を建立し鎮座式を行った。これより呉織(くれは)の
里と呼ばれていたこの地を伊居太(いけだ)と改め、当神社を秦神社伊居太神社(はたかみのやしろいけだじんじゃ)と称したのが
創始である。

参道の先に建つ大門

大門の扁額

社務所前から見た大門

境内から大門を見返る
延暦4年(785年)桓武天皇の勅命で社殿を改造、貞観2年(860年)清和天皇の勅定で社殿を修復、天禄2年(971年)には
円融天皇の命で鎮守府将軍源満仲公が造営を再興と歴代の皇室の崇敬篤かった。正中2年(1325年)には後醍醐天皇より
穴織(あやはとり)大明神の宸筆を賜り、穴織宮伊居太神社と名を改めた。
暦応2年(1339年)には足利尊氏が社殿を改造し神田を寄付する。天正7年(1579年)に織田信長と荒木村重の戦で焼失するが、
慶長9年(1604年)に豊臣秀頼公が片桐且元を奉行に命じ再建、現存する社殿は全てこの時のものである。
文政2年には有栖川宮殿下の御祈願所となり、明治28年、大正10年、昭和41年の修繕を経て今に至っている。池田市に残る
最古の神社である。』 とあります。

境内全景

拝殿近影

拝殿の向こうにある唐門と御本殿
要するに由緒は呉服神社と同じで葬られている媛の違いによるもの。姉妹の名前や字が異なるのは古代史ではよくある事で
驚くには当たりません。穴織(あやは)媛は綾織媛とも書き、現在の神社の地名の綾羽に伝わっています。
姉妹が一日違いで亡くなったというのも出来過ぎの感がありますが、機織を伝えたのは四姉妹だけではなく、機織集団が
渡来して来て、加えてその功績が大きかった事が姉妹社創建になった気がします。

本殿前の唐門

御本殿の屋根
穴織姫、応神天皇、仁徳天皇の三柱を祀る。

神輿庫
中には御輿があったが、使われれていない様子。

参集所と頼光松
松は源頼光が大江山の賊徒を討ちに行く際に、当社に祈願し自ら植えたと伝わる。
御朱印を御願いした宮司さんに話を伺いましたが、
宮司;「現在の池田と伊居太の繋がりははっきりしません。」
との事。それだけ古いと言うことでしょうが残念でした。
宮司;「このようなもので良ければ。」
と頂いたのが、全5頁に及ぶ伊居太神社略摘記。由緒が極めて詳細に書かれていました。
概略を述べると勅使として呉に赴いた阿知使主がその功績で領地を賜り、その中に機殿を建て渡来した媛が機織りを広めた
訳ですが、その地域は、尼崎、西宮、伊丹、池田、川西を含む広大な地域だった様子。同じ伊居太神社が尼崎にあって、
こちらは「いこたじんじゃ」。どうやらこちらが本家で、池田に移した際に「いけだ」の読みになったのが真実ではないでしょうか?
木々に囲まれた古社ですが、山手にあるせいか呉服神社ほど参拝者はなし。それでも凛とした雰囲気を持っているのは、
私的な呉服神社に対して官的な社と言えそうです。

参道右手にある姫室
穴織姫の墳墓とされる。

頂いた 伊居太神社略摘記

伊居太神社御朱印
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