<コース>
【往路】JR大阪(6:30) → (サンダーバード1号) → 金沢(9:13→9:27) → (あいのかぜ冨山鉄道) → 高岡(10:08)
高岡 → 徒歩10分 → 大仏寺

鳳徳山 大仏寺(浄土宗)
世間はオリンピア祭典一色?ですが、折角の四連休なので、普段は行き難い北陸路へ。20日からは18きっぷが使えますが
北陸本線で使えるのは金沢までで、そこから先は三セクで使用できないので、今回は特急SBを利用。
いずれ新幹線が敦賀まで延長した日には全て三セク化するという事なので北陸は益々遠くなりそうです。
22日は高岡で古刹巡礼。いずれも過去に訪れましたが、当時(平成5年)は無料で自由に境内を見た記憶があります。

大仏寺山門前にて
北側の御旅屋通りからの眺望。

境内の様子
大仏尊像と本堂(左)。
鳳徳山大仏寺(ほうとくさんだいぶつじ)は、
『今から800年前、摂津国多田の住人・源義勝が承久の乱を避け剃髪して越中に移住。その時に護持してきた八寸の金銅仏を
腹中に納めた一丈六尺の木造大仏を二上山麓に造営したのが、高岡大仏の嚆矢とされる。
その後、330年を経た天文弘治の頃、神保安芸守が守山城を築いた際にこの大仏を鎮守仏と崇めた。

いよいよ大仏様に参拝
手前の参拝者からその大きさが分かる。手前の灯籠も銅器の町らしく青銅製。

正面から見た高岡大仏
慶長14年(1609年)、前田利長公が高岡に築城の際に、現在の地に移転されたが、その後150年程を経て寺は荒廃する。
このことを憂いた坂下町極楽寺第15世・等誉上人は弟子の良歓を勧進職として、延享2年(1745年)に再建を果たす。
その堂宇も文政4年(1821年)の大火で類焼。腹中の金銅仏のみが焼失を逃れた。この時は極楽寺第26世・譲誉上人が
発願、田中源右衛門・津幡屋太兵衛・桶屋又治郎等が住職を助けて再建に奔走。天保12年(1841年)に木造一丈六尺の
坐像が完成した。

大仏様の詳細

大仏台座下回廊
内壁の13枚の仏画は、昔末広町にあった樹齢数百年の神木「七本杉」の古材に当市所縁の画家が描いたもの。
しかしその大仏も、明治33年(1900年)の高岡大火で再び焼失。この時も極楽寺第31世・良禅上人と信徒の世話係・
松本宗左衛門が中心となり、不燃の大仏の鋳造を発願。昭和7年(1932年)に完成、翌年に開眼式が挙行された。
昭和56年(1981年)には坐像の、平成19年(2007年)には表面のひび割れや腐食の大修理が行われた。』 とあります。

本堂近影
御朱印は右の納経所にて拝受。

本堂の「鳳徳山」の扁額と御本尊・阿弥陀如来様
奈良・鎌倉は別格として全国には大仏と称するものは【だいぶつ】ありますが、ここ高岡のものは頭一つ抜き出た感じ。
しかし、由来を見る限り金銅製になったのは二度の火災を経た明治時代の話。最初は兎も角、江戸時代の人々には
【今度】こそ金銅で再建するという発想はなかったのでしょうか?そこが不思議と言えば不思議です。

境内の時鐘(ときがね)
江戸時代には時計が普及しておらず、この鐘に拠り町民に時を知らせた。

時鐘由緒
銅器の町らしく町民の力で出来たもの。
初代藩主・前田利長は産業振興の為に高岡に鋳物師を呼び寄せました。今でも金屋町付近には「さまのこ」と呼ばれる
千本格子の家並みが続きます。今でも梵鐘の生産では国内シェアの90%以上を占める銅器の町。
産業振興という【動機】があるとはいえ、将来を見据えていたのは利家が【凡将】でなかった何よりの証左と言えます。

高岡大仏の由来

大仏寺御朱印
書置きを拝受。

高岡大手町郵便局 ; 高岡大仏、高岡古城公園の朝陽橋
高岡本町郵便局 ; 高岡大仏、土蔵造りの家、紫陽花
[参考書]
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大田神社(賀茂別雷神社摂社)
社家の町を過ぎて東へ歩くと5分程で大田神社の石碑が見えます。独立した神社のようですが、上賀茂神社の社外摂社
という扱いになります。大田神社(おおたじんじゃ)は、
『延喜式神名帳記載の古社であり、一名に恩多社とも言われる。鎮座年代は不詳であるが、賀茂における最古の社であり
上賀茂神社よりも古い歴史を有する。賀茂県主族の移住以前より在住の農民が福神として長寿福徳の信仰が寄せられて
いたと思われる。

神社入口へ到着

由緒記

一の鳥居
上賀茂神社創建後、摂社となり現在に至る。御祭神の「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」で神話の天岩戸開きの際に
岩戸の前で神楽を踊った神、そのため今も芸能上達を願い参拝される人が多い。当社の里神楽は「大田神社巫女神楽」
として京都市登録無形文化財、当社が長寿の神を祀る事から老人に拠り囃し舞われる最古の形を残した神楽である。
俗に「チャンポン神楽」と言われ動きの少ない神楽として有名である。

一の鳥居に続く参道

拝殿(割拝殿)
寛永5年(1628年)の造り替えで、檜皮葺の屋根を有す。

拝殿の先に建つ本殿
当社参道東側の大田ノ沢には杜若の群落がある。この沢は深泥池同様、一万年以前の湿原地帯の名残で、平安時代に
藤原俊成卿は、
・神山や 大田ノ沢の かきつばた ふかきたのみは 色に見ゆらむ
との歌を残している。昭和14年に国の天然記念物に指定された。』 とあります。

三間社流れ造の本殿
こちらも寛永5年(1628年)の造り替えの檜皮葺。

拝殿前から参道を振り返る

参道右手社務所
御朱印はこちらで拝受。
参拝者向けに花を植える寺社は数多いですが当社の杜若は本当の自生。俊成の歌にあるくらいですから平安の世からの
名勝だったに違いありません。
「いずれが菖蒲か杜若」という位に区別の難しい両者ですが、外見の差異はさておき、土に映えるのが菖蒲、水辺に生える
のが杜若というのが簡単な見分け方。地質時代に京都市が湖であった頃の名残を今に伝えると言えます。

大田神社略記

大田神社のカキツバタについて
規模は小さいながらも上賀茂神社よりも古いとは驚きですが、境内はしんと静まり返っていました。
参道右手の社務所でベルを鳴らして御朱印拝受。杜若の印と杜若のオリジナル御朱印帳もありました。
和辻;「杜若池は閉鎖中ですか?」
夫人;「いいえ、網で囲っているだけなので、開けて入って下さい。」
和辻;「盗難防止ですか?」
夫人;「夜に鹿が入ってきてみんな食べてしまうので…。」
との事。どこの社寺も野生動物の食害には手を焼いている様子。
かつて池田市でも牡丹が猪の食害を受けたと聞きましたが、鹿なら紅葉を食べる訳ではなさそうです。

大田神社オリジナル御朱印帳
シンプルですっきりとしたデザイン。

大田神社御朱印

現時点(7月21日)での杜若池の様子
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賀茂別雷神社(山城国一宮 旧官幣大社 式内社)
上賀茂神社は下鴨神社と共に山城国一宮で世界遺産ですが、加えて神社の周辺の社家(しゃけ)は伝統的建造物群の
風致地区となっています。上賀茂神社境内を流れる御手洗川は奈良の小川と名を変え、境内を出ると更に明神川と名を変え
門前に続く社家町を東流します。

上賀茂神社から流れ出た「ならの小川」

明神川となった場所の南から社家が始まる
『社家とは上賀茂神社の神官の家柄で代々世襲制。社家が形成されたのは室町時代頃からで、閑静で独特な家並みを
形成している。明神川の上に家毎に架けられた土橋、川沿いの土塀や門、独特の妻飾りや塀越しの緑の庭が一体となって
社家の景観を今に伝える。
かつては300近くあった社家も今は40軒程、必ずしも神官が居住している訳ではないが、往時の姿を伝えるものとして
昭和63年に伝統的建造物群に指定された。

土橋、土塀と特徴のある社家

社家の前を流れる清冽な明神川

藤の木通りから神社方面を見る
保存地区は川が境内を出た場所から楠の巨木を御神木とする藤ノ木神社までの数百mの区間。その名も藤ノ木通りと
呼ばれる。長きにわたり社家の内部の様子は知られる事はなかったが、元社家の錦部家が「西村家別邸」として公開
されている。』 とあります。

これは楠ではなく藤の木通りの北にある楡の木

こちらは社家ではなく、名産「すぐき」の老舗

藤の木通りの中程にて
寺院と異なり神社は代々世襲が原則ですから社家自体には驚きませんが、通常一家か二家と思っていたので、
これほどの数があるのには驚き。しかし期限を遡れば賀茂県主の系列で、平安時代初期に上賀茂・下鴨の祠官家に
分かれ代々両社の禰宜を務めるようになったようです。

藤の木社の西側にある社家
堂々とした生垣と石垣が特徴。

通の最も東側にある社家
これだけ多岐に分かれたのは、賀茂一族が朝廷を【震撼】させる程の隠然たる勢力を保持していた事、或いは賀茂大社の
力が強く一家に勢力が集中する事を怖れた朝廷の思惑があった等、想像が膨らみます。
上賀茂では七家、下鴨では五家が有名で、前者からは賀茂真淵が、後者からは鴨長明が出ていることから日本史上にも
大きな貢献をした事になります。いい【しゃけー】勉強になりました。

明神川が南に向きを変える場所に建つ藤の木社と御神木の楠

藤の木社近くの明神川

上賀茂伝統的建造物群保存地区(社家の町)

京都上賀茂郵便局;上賀茂の伝統的な社家屋敷、大田の沢の杜若
(2020.10.19の局移転以前)
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賀茂別雷神社(山城国一宮 旧官幣大社 式内社)
・風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは 禊そ夏の しるしなりける 藤原家隆(いえたか・かりゅう)
京の夏の風物詩「納涼古書祭り」が開催されるのは下鴨神社の糺の森。京都の夏の猛暑は有名ですが、上賀茂付近は
北山と清流のために猛暑も少しは和らぎます。
京都の夏の猛暑は有名ですが、上賀茂付近は北山と賀茂川のために少しは過ごし易い雰囲気でした。境内を流れるのが
御手洗川と御物忌川。前者は祭事に使う器具を、後者は祭に関わる人が身を清めるもので本殿・権殿を囲むように流れ
橋殿辺りで合流。そこから先は「ならの小川」と名を変えます。

御物忌川

合流後の「ならの小川」

三の鳥居付近にある藤原家隆の百人一首の歌碑

歌碑近影

「ならの小川」の説明
「なら」については摂社「奈良社」があったこと、付近に楢の木があった事が理由とされますが決め手はありません。
京都にあって奈良とはよう【言えたか!】ですが、【下流】の呼び名なので不思議ではありません。家隆の歌は公家が
罪や穢れを祓い浄めた夏越祓式を詠んだものですが、葵祭で斎王代が手を浸すのもここだったと記憶しています。
少し遡った場所にあるのが渉渓(しょうけい)園。ここでは平安装束に身を包んだ歌人達が川に杯を浮かべながら和歌を詠む
「賀茂曲水宴」の祭事が催され、百人一首の世界を今に伝える【憧憬】の場所。城南宮の北区版と言った所でしょうか?

渉渓園と清流
後方に見えるのが賀茂山口神社。

庭園渉渓園について

ならの小川に架かる橋上から【下流】を望む

三の鳥居に続く奈良神社(左)と庁屋(右)
このように身を清める神聖な場所であるにも拘らず、近所の子供が水遊びに興じている姿がよく見受けられます。
神社も別段禁止している様子もありませんでした。そこが不思議な所ですが、本当に禊の必要なのは大人の方で
子供ならば川を汚すことはないという意味でしょうか?

ならの小川が境内から出る付近にて
右奥に水遊びに興じる子供が見える。
境内をぐるりと巡って西の鳥居から出ましたが、正面の社務所の脇に喫茶店が…。何でも上賀茂の水を使った珈琲だそうで、
これは是非にと思いましたが生憎閉店中。御手洗団子ならぬ御手洗珈琲は次回以降に挽き直しとなりました。

西の鳥居の先に建つ社務所

社務所の横にある喫茶店
生憎、コロナで閉店中。
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賀茂別雷神社(山城国一宮 旧官幣大社 式内社)
川を渡り、重厚な楼門を潜るとそこは国宝の本殿と権殿。
『本殿御祭神の賀茂別雷大神は雷の如く強い力で厄を除く神。更に方除・雷除・必勝の御利益がある。
一方の権殿は本殿の修復が必要な時に一時的に御祭神が遷る仮殿の役割を持つ。
共に文久3年(1863年)造営で「流造」の典型として国宝に指定された。更に多くの重要文化財を含めた境内全体が平成6年に
世界文化遺産に登録された。』 とあります。

重要文化財の楼門
1628年の建造。

楼門正面

由緒記
上賀茂神社(かみがもじんじゃ)は、
『松尾大社、伏見稲荷大社と並ぶ京都でも屈指の古社。正式名称は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と言い、
かつてこの地域を支配した賀茂氏の氏神を祀る神社として下流の下鴨神社と共に賀茂社として山城国一宮を成している。
賀茂氏の祖は日向に天下った賀茂建角身(かもたけつぬみ)命。その娘の玉依姫から生まれたのが別雷命で当社の御祭神。
神代の昔、現在地の北北西にある神山(こうやま)に降臨されたとされる。賀茂建角身と玉依姫を祀るのが下鴨神社で、
そのため賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と呼ばれる。

楼門に続く中門

重要文化財・四脚中門
1628年建造。

幕に描かれた御神紋・二葉葵
賀茂氏は神武天皇の東征に従軍。奈良時代には強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城鎮護の神社として平安京の形成に
関わって来た。大同年(807年)には正一位を受け、弘仁元年(810年)以降は400年に亘り伊勢神宮の斎宮に倣った斎院が置かれ、
皇女が斎王として奉祀した。

中門の先にある権殿(左)と本殿(右)

重要文化財・直会殿(西局)

重要文化財・御籍屋(東局)

東西局の説明
毎年5月15日に行われる葵祭は下鴨神社と合同で挙行される市内最古の祭り。他に5月5日に境内の馬場での競馬会神事が
ある。葵は古く「あふひ」と読み、「ひ」は神霊を表す。御祭神降臨の際に「葵を飾り祭をせよ!」との神託があったことから、
神と人を結ぶ草として「二葉葵」が当社の神紋となっている。』 とあります。

本殿の塀に沿って川を遡る

ここは禊をする場所か?

伊勢神宮遥拝所もある
葵祭の神社とは知っていましたが一宮とは初耳。まだまだ青いと感じた一日でした。雨にたたられる事の多い葵祭ですが、
これと競馬会神事だけは人生で一見の価値あり。【人生万事斎王が馬】という諺がここに由来するかは?ですが…。

賀茂別雷神社 境内マップ

上賀茂神社御朱印

京都上賀茂郵便局 ; 葵祭と特産品すぐき
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賀茂別雷神社(山城国一宮 旧官幣大社 式内社)
国宝の本殿は境内の最も奥ですが、その手前にも重文の社殿が多数並びます。いきなり本殿に参拝するのではなく、
そこに至るまでに気持ちを清涼にする役割があるのでしょう。
楽屋、細殿(拝殿)、土屋、橋殿(舞殿)と並びますが、目を引くのは細殿前に置かれた立砂(たてすな)。これは
『御祭神が降臨された神山の形を模した円錐形状の盛り砂。賀茂別雷大神は方除の神としても信仰され、鬼門や不浄門に
斎砂を撒いて清めていた。これが「清めの砂」の嚆矢とされる。左側は陽を表し松の葉は3本、右側は陰を表し松の葉は2本。
これは神代の頃、神山の頂にあった松の木を模したとされる。』 とあります。

二の鳥居に続く境内案内図

二の鳥居からの眺望

細殿と前に置かれた立砂
細殿から本殿へは橋を渡りますがその下を流れるのが御手洗川。賀茂川の支流ですが、細いながらも清冽な流れ。
真夏でも上を通ると一陣の涼風が感じられます。こうして身も心も清めた私はいよいよ本殿へ向かいます。

御手洗川に架かる樟橋(長寿橋)
向こうに楼門が見える。

御手洗川

こちらも御手洗川
本殿へは御手洗川に架かる樟橋(別名長寿橋)を渡ると行けますが、橋殿を渡りもう一つの御物忌川を渡る行き方もあり。
後者は玉橋と片岡橋の二橋が架かり、橋の袂にある岩は葵祭の際に宮司が勅使と対面する神聖な場所。
どうもこちらの方から参拝するのが正式な様子なので、私もこのルートを採用。二度も橋を渡るのは一見無駄に見えますが、
神に対面する前に時間を掛けて身を清めると考えれば納得です。

川に架かる橋殿
但し、ここは渡れない。

楼門の向かいにある岩上
葵祭で宮司が勅使と対面する神聖な場所、奥に見えるのは橋殿。

岩上の説明

楼門前から見た二橋
右奥に見えるのが岩上。

二橋の案内板

唐破風造りの片岡橋

高欄付きの玉橋
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賀茂別雷神社(山城国一宮 旧官幣大社 式内社)
この日はワクチン接種のため有給休暇。会場入りする夕方までには時間があったので、身を清めるために北山にある
上賀茂神社へ。9時前に到着しましたが、もう参拝の人がチラホラ。流石に世界文化遺産だけの事はあります。ここは
門前の焼き餅が有名で早くに売り切れると聞いていましたが「神馬堂」は閉店中。コロナの影響かと思いましたが単に
水曜が定休日。バス停脇の「葵家やきもち総本舗」は開店していたので早速購入。北山付近は「川端道喜」を始め老舗の
菓子補は目白押し。参拝者は良い【かも】なのでしょうか?

有名な焼き餅の「神馬堂」
バス停から道を隔てた場所にある。

葵家やきもち総本舗は営業中

名物「やきもち」
英語ではジェラシー?
バス停前にある賀茂大社の石碑と朱色の大鳥居の向こうに次の鳥居が…。説明板に拠れば、それが一の鳥居とあります。
ではバス停にあるのは零の鳥居となるのでしょうか?

バス停脇の零?の鳥居

一の鳥居
一の鳥居を過ぎても神殿は大分先。その間には広大な緑の平地が広がりますが、ここが上賀茂の馬場。毎年5月15日に
行われる葵祭は下鴨神社と合同で挙行される市内最古の祭りですが、他に5月5日に開催かれる競馬会神事はこの馬場が舞台。
鶴岡八幡宮初め境内に馬場のある神社は国内にも数多ありますが、ここは長さに加えて幅もあり流石平安京と言った所。
ジャイアント馬場とは呼ばないようですが、これだけ広い場所を疾走できれば馬も幸せでしょう。

一の鳥居から二の鳥居まで続く白砂の参道
右には御所桜、斎王桜が植えられている。
競馬会神事に参加するのは地元で代々神事に関わった家に限られるようで、その中の一家が歌手のばんばひろふみさんの
御実家で「ばんば」という苗字も馬場に由来するとか!
御本人もかつて参加され御子息も練習されているとかつて対談で話されていました。
歌の内容とは離れた印象ですが、【あの素晴らしい乗りをもう一度】見てみたいものです。

参道先にある馬場殿(御幣殿・御所屋)

馬場殿説明
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【往路】阪急梅田 → (神戸線) → 西宮北口 → (今津線) → 逆瀬川
逆瀬川 → 徒歩5分 → 平林寺 → 徒歩5分 → 宝塚神社 → 徒歩20分 → 金龍寺 → 徒歩5分 → 仁川 → (今津線) → 西宮北口 → 徒歩5分 → 法心寺 → 徒歩5分 → 大日寺
【復路】西宮北口 → (神戸線) → 阪急梅田

體性山 大日寺(高野山真言宗 摂津八十八ヵ所第七十八番札所)
77番札所から78番へは東へ300m程。歩いても5分掛かりませんが、町名は高木西町から高木東町に変わります。
體性山大日寺(たいしょうざんだいにちじ)は、
『天正年間の荒木村重の兵火で堂宇共々記録が悉く焼失し以前の寺歴は不詳である。慶安元年(1648年)より隆尊が
堂塔伽藍を建立し、中興開山として当寺を再興したとされる。創建当時は高野山萬智院の末院であったが、元禄7年
(1694年)に庫蔵院末に移り、更に庫蔵院が高祖院に合併したためその末院となった。

山門前にて
享和2年(1802年)火災のため堂宇は焼失、文化13年(1816年)第16代住職に拠って再建復興。明治36年には第19代住職が
本堂を瓦葺に、大正9年には第20代住職により庫裏と境内が拡張された。
しかし平成7年の阪神淡路大震災で堂宇が全壊、平成17年に再建復興を遂げ今に至っている。』 とあります。

正面から見た本堂

本堂の扁額と向拝の彫刻

本堂木鼻の獅子彫刻と蝦紅梁
真新しい雰囲気を見る限り札所とは気付く人も少ない様子。寺名の御本尊は大日如来。天災と人災の違いはありますが、
ここも前寺同様、荒木村重と阪神淡路大震災からは免れなかったようです。木造建築では火災が一番の厄災ですが、
「たいしょう」という山号ながら【耐焼】にはならなかったようです。

境内の様子

大日寺御朱印
法心寺周辺もそうですが、大日寺周辺もお屋敷が並びます。御朱印に対応下さった住職夫人?に伺うと、
「この付近は、昔から住んで居られる方が多いので」 との事。
そういって前を通ると同じ表札の家屋が多く、一族で居住されている人が多いのでしょう。
固定資産税や相続税で大変とは思いますが、西宮だけにえびっさん効果があるのでしょうか?

法心寺から大日寺への道沿い

大日寺周辺の家並み
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<コース> 神戸線・今津線共に日中は10分間隔で運転
【往路】阪急梅田 → (神戸線) → 西宮北口 → (今津線) → 逆瀬川
逆瀬川 → 徒歩5分 → 平林寺 → 徒歩5分 → 宝塚神社 → 徒歩20分 → 金龍寺 → 徒歩5分 → 仁川 → (今津線) → 西宮北口 → 徒歩5分 → 法心寺

慈眼山 法心寺(高野山真言宗 摂津八十八ヵ所第七十七番札所)
金龍寺から仁川に向かい西宮北口で下車。ここの駅から数百mの場所に摂津札所が二ヵ寺。
北口にはアクタ西宮の商業施設のビルが聳えていますが、そこを抜けて5分も行くと人も疎らに。

北から見た法心寺全景
後方は西宮北口のビル群。

寺院入口

山門正面
慈眼山法心寺(じげんざんほうしんじ)は、
『正親町天皇の御代に七十余坊あった甲山神呪寺も天正6年(1578年)の荒木村重の兵火で多くの坊が焼失した。
そんな中で常住院の本尊・十一面観世音菩薩は灰燼の中でも遺り、常住の名を明らかにした。
その後、寛文6年(1661年)に阿闍梨清誉大徳が夢のお告げでこの地に草庵を結び十一面観音菩薩を御本尊としたのが、
当寺の嚆矢とされる。

境内の様子
護摩堂(左)と山門。

正面から見た本堂

本堂前面

本堂の扁額
その後、正徳5年(1715年)と明治12年(1879年)に建て替えられたが、平成7年の阪神淡路大震災で崩壊。現在の堂宇は
平成15年に落慶されたものである。建物は壊滅的な被害を受けたものの、本尊初め諸仏は大きな被害を免れ、修復後
本堂を中心に祀られている。』 とあります。

本堂内陣の龍の欄間と赤べこの切り絵

幾多の災難を逃れた御本尊
お寺の好意で撮影させて頂いた。

本堂から山門を見る
境内は山門も含めて真新しい雰囲気ですが、これは震災から復興したからでしょう。御朱印を御願いすると女性が対応
下さいましたが、出て来られたのは尼さんでした。
和辻;「ここは尼寺ですが?」
尼僧;「いえ私は副住職で、主人が住職を務めて居ります。」
との事。御朱印拝受の後、御寺の御好意で本堂内陣の参拝をさせて頂く事ができました。
和辻;「こちらも震災被害は酷かったのでしょう?」
尼僧;「はい、建物は壊れましたが、仏様の被害が少なかったのが幸いでした。」
和辻;「正面の欄間は再建後のものですか?」
尼僧;「これも震災で被害を受けなかったものです。」
和辻;「これだけの欄間を今製作する人もいませんからね。」

本堂脇より庭を見る

山門右手に建つ護摩堂(行者堂)

護摩堂脇の歴代就職の墓
和辻;「あちこちに赤べこの切り絵がありますが、疫病除けですか?」
尼僧;「いいえ、母親の趣味で、毎年干支の切り絵を造って檀家さんに配っています。」
和辻;「という事は、来年は寅ですね。」
などの話で盛り上がり。
震災の際、西宮は甚大な被害を受けましたが、御本尊が残ったのは不幸中の幸い。常住の名前は伊達ではありません。
またこの周辺の人家はビルが少なく広大な敷地があり、類焼を防いだ面もあったのでしょう。
駅前の喧騒とは【次元】の違いに【放心】状態になりました。

寺務所前から見た境内

法心寺御朱印
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【往路】阪急梅田 → (神戸線) → 西宮北口 → (今津線) → 逆瀬川
逆瀬川 → 徒歩5分 → 平林寺 → 徒歩5分 → 宝塚神社 → 徒歩20分 → 金龍寺

大雲山 寶蔵院 金龍寺(真言宗 摂津八十八ヵ所第七十四番札所)
宝塚神社から次の金龍寺までは阪急で二駅ですが、直線でも2㎞程なので線路東側を歩くことに。
途中、道沿いに寺標があるとガイドにあったので歩きながら探すと、人家の生け垣に隠れるようにありました。
ここから寺へは直ぐですが、道も狭く車も漸く1台が通れる程。こういうときは徒歩巡礼の有難味を実感します。
道の先にある桜のトンネルを抜けるとそこが寺院。

ようやく見つけた寺標

桜の参道
大雲山寶蔵院金龍寺(だいうんざんほうぞういんきんりゅうじ)は、
『聖徳太子に拠って建立された摂津国七大寺の一つとされる。
天正年間(1573~1592年)の荒木村重と織田信長の戦で堂宇を悉く焼失。その後、文禄年間(1592~1596年)に再興。
豊臣秀吉の堺強制分散に拠って堺から移築したらしいと、現在に残る泉州型屋敷、広大な寺領、両墓性から推察される。

参道を通り入口へ

山門近影

山門前の石のお地蔵様
当寺本堂が泉州型屋敷を移築したものと考えられる理由は、キリシタン改宗諸控、尼崎藩に関する手控え、元禄8年
(1695年)頃の仏具の一部や現在の庫裏の様式に拠るものである。その名残は本堂欄間の剣菱模様、襖の引手、
柱の釘隠しにも見られ、キリスト教の十字架を思わせる装飾は仏教寺院に隠れたキリシタンを髣髴とさせる。
宝永年間(1704~1711年)に泉州堺の碩学・宝州尊者が当寺を再建復興したのが今日に伝わっている。』 とあります。

山門正面の庫裏と本堂

境内の鐘楼

枝垂桜や躑躅に囲まれた境内
ここも戦国の兵火の難に逢いましたが復興。江戸時代の移築とありましたが、正面の建物は本堂と庫裏が一体化した形式で、
古刹の雰囲気はありません。扁額の「大雲山」は雲を表すような独特の書体ですが、これは住職の遊び心でしょうか?
残念ながら内陣の拝観はしていないようで泉州型屋敷を確認する事は叶いませんでした。札所の雰囲気は本堂の扁額と
前庭の様子から感じましたが、【一日泉州】の思いで次の札所へ向かった次第です。

本堂前にて外陣から参拝

入口に架かる「大雲寺」の扁額

本堂右手にある延命地蔵菩薩を祀る小堂

金龍寺御朱印

弁天池を眺めながら仁川駅へ
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逆瀬川 → 徒歩5分 → 平林寺 → 徒歩5分 → 宝塚神社

宝塚神社(旧村社)
平林寺の塔頭四ヵ寺に参拝して、南に向かうと宝塚神社。摂津西国巡礼ではありませんが、地名の付いた由緒のありそうな
神社なので御参り。今津線の踏切を越えて、正直坂、清明坂の坂を上ると、見晴らしの良い場所に鎮座するのが宝塚神社。

宝寿院の南にある神社への参道

阪急の線路を越える

先ずは正直坂を上る

正直坂から清明坂へ
宝塚神社は、
『隣接する平林寺も含めた小林(おばやし)の地は六甲山系の東麓。古代から西宮と有馬を結ぶ交通の要衝で、同時に
武庫川右岸の農業地帯の中心でもあった。付近には6~7世紀の古墳が数十基残る。
ここの背面にある岩倉山(488m)に山の神を祀り、小林の村人が五穀豊穣を祈願したのは自然な流れであった。当社の
創建年代は不詳であるが、平林寺が聖徳太子の時代とされるので同時代の斎祀とされる。ここは日吉の神を祀る里宮、
岩倉山は奥宮という位置付けである。

神社入口

境内全景
当初は山岳修験道から白山権現を祀り白山権現社と号した。また牛頭天王を祀る村内の東氏神に対し西氏神と呼ばれる
こともあった。明治の廃仏毀釈に際し日吉神社と改称、更に昭和41年には牛頭天王社を合祀し宝塚神社に改称した。
境内からは大阪市内を始め、生駒山地、金剛山地まで眺める事ができ初日の出の名所として知られる。』 とあります。

正面から見た拝殿

拝殿近影

摂社えびす社
隣接するとはいえ平林寺に比べると遥かに高台にあって眺望に関しては比べ物になりません。日吉神社の名前も当然と
言えます。それを合祀を機に宝塚神社にしてしまったのは、高級住宅地をイメージした社名改悪ではないかと思ったのですが、
社務所で宮司さんに伺うと、
宮司;「付近の古墳から勾玉等が出土したので、宝塚の名になったそうですよ。」 との事。
日吉も宝塚も吉祥の漢字ですので、宝塚の名前の由緒を知り納得するとともに、己の無知を反省して次に向かいました。
尤も、タカラジェンヌが巫女さんをしているかどうかは聞きそびれましたが…。

境内からの眺望
遠方に見えるのが生駒山系。

宝塚神社御朱印
右下はえべっさんで宮司さんの手書き。
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逆瀬川 → 徒歩5分 → 平林寺

武庫山 平林寺(真言宗 摂津八十八ヵ所第七十三番札所)
こちらは宝寿院山門
札所の平林寺は無住のようで、塔頭の四ヵ寺が護っています。
塔頭は道の北側に西から成就院(じょうじゅいん)、西光院(さいこういん)、成福院(じょうふくいん)と並び南側に宝寿院(ほうじゅいん)
があります。全て住職が居られるのに加え、境内の庭が整備されているのも共通。広さで言えば宝寿院が最も広いですが、
脇に弁天池があり白壁に囲まれた独立した寺院にも見えます。

東側から見た宝寿院
石垣の上に建ち威容を誇る。

宝寿院書院玄関の唐門

宝寿院境内

弁手池の睡蓮

宝寿院本堂
成就院は一見、人家と見紛う外見で山門と言うより玄関と呼ぶ方が相応しい感じ。整えられた内庭も邸宅の庭と言った
雰囲気で、知らなければ人家としてスルーしてしまいそうでした。
線路の西側には無量寿院が建っていますが、これは成就院が管理しているそう。

成就院入口

成就院内庭

無量寿院
一番東の成福院は最も塔頭らしい外見。御朱印は人が居られた西光院で拝受しましたが、ここは最も今風な造りでした。
山号は全て武庫山、塔頭なので平林寺と同じ真言宗は当然ですが、細部では、成就院(東寺真言宗)、西光院(高野山真言宗)、
成福院(真言宗大覚寺派)、宝寿院(真言宗大覚寺派)と違いが見られます。外見と宗派との関係は分かりませんが、同じ塔頭で
宗派が分かれたのにはどういった経緯があったのでしょうか?

成福院山門

成福院境内

御朱印は西光院にて

西光院のお不動さん
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