<コース> 夏の青春18きっぷ
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岡崎(9:48)
JR岡崎 → (愛知環状鉄道) → 中岡崎 → 徒歩10分 → 岡崎城 → 龍城神社 → カクキュウー八丁味噌 → 中岡崎 → (愛知環状鉄道) → JR岡崎 → JR金山 → JR大曾根 → 徒歩15分 → 建中寺 → 徒歩10分 → JR千種
【復路】JR千種(16:11) → JR名古屋(16:21→16:30) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

徳興山 建中寺(浄土宗)
三河岡崎で、お城とカードと八丁味噌を堪能した後は、再び東海道本線で西へ。
このまま終わりにするには時間が早く、以前に瀬戸市の定光寺を訪問した際に住職夫人が
「名古屋市内にも菩提寺がありますよ。」 と言われたのを思い出し尾張名古屋へ巡礼。
JRだと大曾根駅から南西へ少し歩きますが、周囲は地下鉄や国道が走る繁華街。交差点の表示は「徳川」とあるので、
尾張徳川家所縁の場所に繁華街が出来たと見るべきでしょう。
19号線から少し東へ入り東区役所に隣接した場所にその寺院はありました。道路に面して建つのは三門(山門)ですが、
道路を隔てて南には建中寺公園があり、その南には総門があり、こっちが境内の南端であったようです。

慶安4年(1651年)築の総門
総欅造り三間薬医門の建築様式で本瓦葺き。奥に見えるのが建中寺公園。

道路に面した三門(山門)
通常はここから入山。三門とは空門・無相門・無願門の三解脱門の意味を持つ。

慶安4年築の三門(山門)
総檜造り三間重層門で本瓦葺き。二階には釈迦牟尼を中心に十六羅漢が祀られるが非公開。

三門扉にある三つ葉葵の紋

三門脇の寺標
徳興山建中寺(とくこうさんけんちゅうじ)は、
『慶安4年(1651年)に尾張徳川家二代藩主光友公が創建。前年に逝去した初代藩主義直公(家康九男)の菩提を弔う
尾張徳川家祖先代々の菩提寺として、また藩内全ての人々の心の拠り所とするためであったと言われる。
5万坪の敷地に本堂を始めとして諸堂伽藍数十棟が並ぶ。
開山には茨城県結城市弘経寺の成誉廓呑上人を招聘。上人は学徳一世に高く御所参内して常紫衣の綸旨を拝した
高僧である。江戸時代は無本寺(別格本山)として塔頭寺院と末寺を有していた。

現在の境内の様子

天明7年(1789年)再建の本堂
入母屋造り本瓦葺きで古式に則った様式で再建された。

本堂の破風の彫刻と屋根瓦にある三つ葉葵の紋

本堂前面
間口15間、奥行14間、建坪210坪の市内木造建築としては最大級である。

本堂に掲げられた「徳興山」の扁額

本堂内陣の欄間彫刻と金襴緞子

本堂より三門を見る
天明5年(1785年)大曾根の大火に際し、火の付いた布団が本堂の屋根に巻き付き、総門、山門を残して灰燼に帰したが、
天明7年に尾張藩と住職の努力に拠って創建当時の姿に復元された。
大政奉還後の明治5年(1872年)に寺格を無本寺から知恩院の末寺へと降格され今に至っている。太平洋戦争では幸いに
して名古屋空襲を免れて堂塔伽藍は江戸時代の偉容を今に留め、その多くが文化財の指定を受けている。』 とあります。

本堂脇を通り御朱印拝受のため寺務所へ

本堂脇の書院
昭和39年(1964年)の再建。名工大竹利左衛門に拠る設計で壮麗なもの。

書院の扁額

徳興殿と寺務所(右)
徳興殿は明治29年(1896年)に旧名古屋商業会議所本館として建築され、昭和9年(1934年)に建中寺に移築された。

文政11年(1828年)創建の経蔵
第24~26世上人の三代を経て完成。内部には鉄眼禅師開版の黄檗版大蔵経五千八百巻が納められている。

経蔵の屋根裏の構造
徳興山の山号は「徳川が興る」事に由来すると思いましたが、御朱印を書いて頂いた若い僧侶の話ではお経の一節だそう。
境内の雰囲気は以前に訪れた岡崎の「大樹寺」に似た印象。浄土宗で徳川氏の庇護を受けたというのが共通点ですが、
沿革が似ると【遠隔】でも似るという好例に思えます。

三門左手の開山堂と不動堂(奥)

天明6年(1786年)再建の開山堂
大工は斎谷小一郎藤原長虎で寄棟造り桟瓦葺き。建中寺の開山上人、中興上人の木像と代々の住職の位牌を祀る。

昭和44年(1969年)再建の不動堂
本尊の不動明王は尾張徳川家の戦勝祈願の秘仏で、普段は前立て本尊を拝む。

龍の彫刻の石灯籠

天明7年再建の鐘楼
梵鐘には林羅山の銘が刻まれていたために戦時中の供出を免れたと伝わる。

賓客をもてなすための御成門
四脚平唐門、本瓦葺きの華やかな小門で、ここに移築される前は五代藩主五郎太公霊廟の紋であった。
名古屋の繁華街にあるものの、境内に入ると静かで厳かな雰囲気に浸ることができます。名古屋は太平洋戦争でも
空襲被害が大きく国宝名古屋城も焼失。そのような中で空襲を免れたのは奇跡的とも言えるでしょう。
建造物も再建等もあって年代の幅はありますが、それほど違和感がないのは、以前の様式を保っているから。
この辺りは名古屋人気質と言えましょうか?まさに都会の中で静かに息づく360年の歴史を体感できました。

建中寺幼稚園
昭和2年(1927年)創立で、昭和37年(1962年)に建中寺幼稚園として認可された。

建中寺説明書

寺務所で購入した冊子 ¥200

建中寺御朱印

名古屋代官郵便局 ; 建中寺本堂、灯籠、、松
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 夏の青春18きっぷ
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岡崎(9:48)
JR岡崎 → (愛知環状鉄道) → 中岡崎 → 徒歩10分 → 岡崎城 → 龍城神社 → カクキュウー八丁味噌

八丁味噌 カクキュー(合資会社)
お城から西へ戻り矢作川を越えて駅に向かうと、黒塗りの板張り壁面と漆喰塗の白い土蔵のコントラストも鮮やかな
場所に出ます。これがいまでも続く「八丁蔵通り」。八丁味噌は、
『岡崎城から西へ八丁(870m)の距離に位置し、それが八帖町の由来にもなっている。
江戸時代は三河湾に注ぐ矢作川と東海道の交差する水陸交通の要衝、この地の利を活かした原料の調達や製品の運搬、
矢作川の良質な伏流水と湿度の高い風土環境の元、地場産業として発展した。

通から見たカクキュー正面

醸造所を兼ねたテーマパークと言った所か?

八丁味噌を使った食事もできるところがミソ!
今でもこの地に位置する二つの蔵元に拠って、二夏二冬以上の間熟成させるという伝統製法で作られている。
その結果、水分が少なく、固くて色の濃い、酸味と渋味がありながら旨味とコクのある独特の風味が生まれる。
蔵に置かれた木桶には職人の手になる大証さまざまな石が積まれているが、この積み方を習得するのは10年を
要するとされる。』 とあります。

昔ながらの黒壁の醸造蔵

売店で購入した「八丁味噌ソフト」 ¥400
愛知環状鉄道の中岡崎駅が左奥に見える。

岡崎市マンホールカード カクキュー八丁味噌の郷にて配布
内藤ルネの色違い第三段だが、デザインと配布場所に違和感を感じるのは私だけ?
家康は健康にも気を配って当時としては長命の75歳で没。決して武将一点張りの不精な人間ではなかったと言えます。
有名な八丁味噌は現代から見ても健康食で家康は兵食として珍重したようです。
尚、ハ丁味噌は生産地がお城から八丁(870m)離れていたことに拠るもので、家康が口八丁で天下を取ったという訳では
ありません。まさに岡崎の風土が育んだ戦国フードと言えそうです。

中岡崎駅前のモニュメント
八丁味噌は右のような樽に載せた石で熟成される。

八丁味噌概説
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 夏の青春18きっぷ
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岡崎(9:48)
JR岡崎 → (愛知環状鉄道) → 中岡崎 → 徒歩10分 → 岡崎城 → 龍城神社

龍城神社(旧県社)
岡崎城内を歩くと天守の直ぐ横に神社が鎮座。龍城神社(たつきじんじゃ)は、
『康正元年(1455年)、三河守護代西郷弾正左エ門稠頼がこの地に築城した日、柳の五ッ衣に紅袴姿の高貴な乙女が
天守に現れ、
「我は久しくこの地に住む龍神なり。汝我を鎮守の神と崇め祀らば永く此の城を守護し繁栄不易たらしめむ。」
と城主に告げた。
折しも城中の井戸より水が噴き出し、高く天に上り飛瀑の如く龍神に注ぎ、黒雲舞い降りて天守を包むと龍神の姿は
忽ち消え失せた。
この不思議に驚いた城主は天守楼上に龍神を祀り、城名を「龍ヶ城」、井戸の名を「龍の井」と称したという。

正面から見た拝殿

拝殿の扁額
上には三つ葉葵の紋が。

拝殿の向こうに聳える天守閣
その後、文明年間に松平氏の居城となった。天文11年12月に城主松平広忠の長男として城内坂谷御殿で産声を
上げたのが後の徳川家康である。彼が誕生した時には天守の上に雲を呼び、金鱗の龍が出現したと伝わっている。
かくして家康薨去の後、城内に東照宮を奉祀し当社の創祀とした。
後に東照宮を現社地に遷座し本田忠勝を合祀、明治9年に龍城神社と定めた。その後、一時社名を東照宮に復した
時期があったが、明治45年再び龍城神社となり、大正3年には県社に列し当地域の中心神社として崇敬を集めている。
昭和37年には現在の社殿が再建された。』 とあります。

神馬の銅像

鳥居越しの眺望

龍城神社由緒

龍城神社御朱印
家康が生まれた場所なので、お祀りしていると単純に思っていましたが、松平氏以前の守護の時代にまで遡る
由緒があると知って驚き。家康が誕生した際には奇瑞があったそうですが、よく【気付い】たものと感心します。
没後は御祭神になり本多忠勝も合祀されたとありますが、神君家康は当然としても本多忠勝は徳川四天王よりも
子孫が岡崎城主だった事で忖度された気もします。
いずれにせよ民衆というよりも多分に政治的な意図があったことは伺える話。
勿論、徳川の世が【まつだい】らまで続く事を願ったのは言うまでもないでしょうが…。

公園内にある本多平八郎忠勝公像

城の北側に架かる龍城橋

橋上からの天守閣遠望
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岡崎(9:48)
JR岡崎 → (愛知環状鉄道) → 中岡崎 → 徒歩10分 → 岡崎城

岡崎城
・五万石でも岡崎さまは お城下まで船が着く
と歌われた岡崎は奈良平安時代の古道に遡る東西交通の要衝、江戸時代には東海道38番目の宿場が置かれました。
それにも増して有名なのが徳川家康誕生の地。家康の祖父松平清康に拠る町づくり以来の歴史があり、市内を歩くと
葵町やら康生町やら家康縁の地名が至る所に。家康は岡崎城で生まれましたが、そこの地名は康生町。
家康が生まれた事に由来するのは言うまでもありません。

西側の堀に架かる「たけちよ橋」を渡り城内へ

橋の先にある竹千代通りと石像
岡崎城は、
『清流乙川(菅生川)と矢作川の合流地点にある龍頭山の丘陵を利用したもの。
当初は三河守護代大草城主西郷弾正左エ門稠頼(つきより)が室町中期の康正元年(1455年)に龍頭山を護る砦として築城。
後に松平清康が奪取し城を整備拡張するが、享禄4年(1531年)家臣の謀反で落命(森山崩れ)。
後は息子の広忠が継ぎ城内で竹千代(家康の幼名)が生まれるが、天文18年(1549年)広忠もまた家臣に拠って殺害された。

堀端から

坂を上り天守へ
竹千代は7歳で今川の人質となり岡崎城も今川の支城となった。岡崎城が家康の下に戻るのは永禄3年(1560年)
桶狭間の戦いで今川義元が敗死した後の事である。
元亀元年(1570年)に家康は本拠地を浜松城に移し、岡崎城には長男の信康は入る。信康自害の後は、石川数正・
本多重次が城代を務める。家康の江戸転封以後は、一時豊臣系の田中吉政が入り近代的な城郭に整備、岡崎の
二十七曲りと呼ばれる道が造られたのもこの時である。
1602年(慶長7年)以後は、徳川譜代の家臣が城主を務め明治維新を迎える事となった。明治に入り廃城となったが、
昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで天守が再建された。』 とあります。

昭和34年再建の天守閣

天守閣前に建つ家康公遺訓

家康公遺言

樹木の向こうに見える天守閣

天守の北側にある壕

天下人家康公出世ベンチ
幼き竹千代と家康公の石像が建つ。
現在は旧岡崎城本丸、二ノ丸を中心にした岡崎公園。園内には三河武士の館・家康館、龍城神社、遺言碑などがあります。
浜松城は出世城として知られますが、岡崎城は天下人家康を形作った城と言えましょうか?
城主の家系に生まれたのは幸運と言えますが、幼い頃に親を失って人質となったのは不幸の極み。
そんな中でも自暴自棄にならなかったのは、己を冷静に見つめる事が出来たために他なりません。
今川の人質生活も思った程悲惨ではなかった事、大多数の家臣が離れず従った事などは、家康がひとかどの
器を持ったからに他なりません。
何故、家康が最終的に天下を取ったかについては色々あるでしょうが、
①失敗を活かせた事
②退く事が出来た事
が他の戦国大名との差ではなかったかと思います。

公園内にある家康公の顰(しか)み像
三方ヶ原の惨敗を教訓にするために、自らの姿を描かせた。

像の後方にある庭園

岡崎市マンホールカードと歴史まちカード
それぞれ三河武士の館、天守閣にて無料配布。

岡崎康生通西郵便局 ; 史跡・岡崎城、船着場跡、菅生祭の花火
岡崎康生郵便局 ; 岡崎城、花火、石燈籠、三つ葉葵の紋章
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR糸魚川(6:00) → JR南小谷(7:20→7:27) → JR豊科(9:11)
JR豊科 → 徒歩7分 → 法蔵寺 → JR豊科(10:15) → JR松本(10:35→10:40) → JR岡谷(11:13→12:26) → JR塩尻(12:36→13:08) → JR須原(14:22) → 徒歩5分 → 須原宿 → 徒歩5分 → 定勝寺 → 徒歩15分 → 岩井観音 → 徒歩25分 → JR大桑
【復路】JR大桑(16:17) → 中津川(16:51→16:55) → JR名古屋(18:17→18:30) → JR米原(19:39→19:54) → JR大阪(21:17)

岩出観音堂(臨済宗妙心寺派 定勝寺別地境内)
定勝寺参拝後は中山道を通り次の宿場の野尻宿というよりもJR大桑駅に向かいます。暫く進むと平地も狭くなり、
木曽川・旧中山道・JR中央本線・国道19号が平行に走ります。
水運・徒歩・鉄道と移動手段は変わっても交通の要衝であることには変わりはありません。

旧中山道からの眺め
右に向かってJR中央本線、国道19号、木曽川。

中山道から見た木曽川
中流なので、大きく丸い石が多い。
寺から西へ1㎞程進むと橋場地区、木曽三大橋の一つ伊奈川橋の番をするために置かれたのが橋場集落の始まりと
言われます。この山腹の岸壁に清水寺を小さくしたような懸崖(けんがい)造りの御堂が岩出観音堂。
『岩出観音は農耕馬として生活に欠かせなかった木曽馬を守護する馬頭観音を祀る。
今から300程前、須原に馬の沓を作り商う一老父がいた。或る日、威厳に満ちた馬上の侍が馬の沓を求めたが、生憎
片方分しかなかった。老父はその旨を伝え、不足分を急いで作り侍を追いかけて渡した。
その場所は今の橋場付近であったと伝わる。
侍は喜び代金を渡そうとしたが、その尊容に打たれた老父は代金を辞退。そこで侍は傍らにあった木に「馬頭観世音」
と書き、「これを祀れば必ずや御利益があるであろう。」と言って立ち去ったと言う。

観音堂遠望
橋場地区に入ると中山道は左に曲がるが、そこにある中部北陸遊歩道案内板付近から。

道路から懸崖造りを見上げる
老父はそれを家に持ち帰り神棚に祀った所、光明を放ったので、恐れおののき橋場の岩出山の岩間に祀った所、
一層の光明を放つようになった。
これが忽ち近郷の評判を呼び、来拝する者が引きも切らなかったので、この木片に観世音菩薩と刻み、京都まで
出向いて妙心寺の名僧・愚堂国師の開眼を受け、この地に堂宇を建て奉安したものである。
別名、伊奈川観音、橋場観音と呼ぶ他、コツパ観音と言うのはこの由緒に由来する。

懸崖造りの上に建つ御堂

御堂へと続く細い石段
木曽日義の岩華観音、開田高原の丸山観音と共に木曽三大観音の一つとして信仰を集めた。堂内には
木曽代官山村家の絵師・池井祐川の絵馬を始め、多くの美しい絵馬が奉納されており、中でも「木曽式伐木運材法」や
「刈手(干し草刈り)」の情景を描いたものは当時の庶民生活を今に伝える貴重な資料となっている。
懸崖宝形造りの堂は江戸時代に一度焼失し、文化10年(1813年)に再建された。舞台の上の堂宇は端麗な美しさであり、
『木曽街道六十九次』の英泉画「伊奈川橋遠景」にも描かれた名勝である。』 とあります。

石段を抜け御堂に向かう

観音堂近影
御堂の周囲は狭いので、撮影場所に一苦労。
成程、街道からは一望でき名勝であると同時に旅人が安全を祈願したのも当然と言えそうです。唯、場所が狭いので
お堂まで上らず、麓から拝んで去った人も多かったでしょう。私はお堂まで上りましたが、足元も狭いのであまりお勧めできません。

岩出観音説明板

観音堂の舞台からの眺め
中央付近に白く見えるのが浮世絵に登場する伊奈川橋で、目指すJR大桑駅は正面の山の更に向こう側。
この後は只管歩き、町役場で所用を済ませた後、大桑駅へ到着。電車の時間には30分以上ありましたが、
駅について暫くすると雷鳴と共に車軸を流すような驟雨が…。あと10分遅かったら濡れ鼠になる所だったので、
まさに【おーこわ!】。これも岩出観音様の御利益さんかと思った次第です。

伊奈川橋から

大桑村マンホールカード 配布場所は大桑村役場

今は無人化されたJR大桑駅のかつての駅スタンプ
平成5年押印。
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JR豊科 → 徒歩7分 → 法蔵寺 → JR豊科(10:15) → JR松本(10:35→10:40) → JR岡谷(11:13→12:26) → JR塩尻(12:36→13:08) → JR須原(14:22) → 徒歩5分 → 須原宿 → 徒歩5分 → 定勝寺

浄戒山 定勝禅寺(臨済宗妙心寺派)
蓬莱庭園遠景
定勝寺の本堂、庫裏、山門はいずれも桃山時代の建造物として国の重要文化財に指定されていますが、その庫裏の
前に広がるのが鶴亀蓬莱庭園。
『鶴亀蓬莱庭園は、平成5年(1993年)の造園。右奥には三尊石を中心とした枯滝石組を造り、下の石砂は海を表現している。
全体のイメージは桃山時代末期から江戸時代初期に見られる庭の様式を取入れている。

庫裏(左奥)の前に広がる庭園

庭園は樹木の向こう側に

庫裏の前から参道と庭園(左)を見る

山門前からの庭園の眺望
枯滝中央の小さな五石は鯉魚石と呼び鯉が滝を上って昇天する様を表したもの。岬型灯篭や石橋を架けるあたりに
桂離宮など京都の雰囲気を出している。
左奥にあるのが亀島で、前ヒレを水面より持ち上げて滝に向かって勢いよく泳ぐ姿を表現したもので中心石を据えて
蓬莱島の意味を出している。
手前から点々と一直線上に据えられた石は夜泊石(よどまりいし)と言い、蓬莱島の宝物・不老不死の薬を取りに行く舟を
表したもの。左手前の鶴島は蓬莱島の意味を持つような折鶴をイメージして造ったものである。』 とあります。

これが枯滝か?

左奥の亀島

折鶴を象った鶴島

岬型灯篭や石橋で桂離宮の雰囲気を出している

鶴島の向こうに亀島が見える
桃山時代の建物に対するのは平成の庭園と400年の差を感じさせない所がポイント。重文の建物に対して新たな作庭を
することには賛否両論があったと想像できますが、これだけ違和感なく調和しているのを見ると結果【ホーライ】と言える
でしょうか?

庭園の奥は高台に続く

庭園脇から鐘楼へ

高台に建つ鐘楼

鐘楼から庫裏を望む
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JR豊科 → 徒歩7分 → 法蔵寺 → JR豊科(10:15) → JR松本(10:35→10:40) → JR岡谷(11:13→12:26) → JR塩尻(12:36→13:08) → JR須原(14:22) → 徒歩5分 → 須原宿 → 徒歩5分 → 定勝寺

浄戒山 定勝禅寺(臨済宗妙心寺派)
須原宿の西の桝形を曲がらず、真っ直ぐ進むと寺小路。その左手に建つのが定勝寺。
浄戒山定勝禅寺(じょうかいざんじょうしょうぜんじ)は、
『嘉慶年間(1387~1388年)に木曽家第11代右京太夫源親豊が祖先菩提の為、木曽川辺に開創、初屋(すうおく)和尚を
開山とした。
その後、文安5年(1448年)の木曽川洪水で流出、第14代右京太夫家賢(いえかた)が再建、香林(こうりん)和尚を以て
中興開山とした。しかし文禄4年(1596年)8月の洪水で再度流損。慶長3年(1598年)犬山城主石川備前守兵蔵光吉が
木曽義在(よしあり)の屋形跡である当地に移築したのが現在の諸堂宇である。

寺小路に面し定勝寺入口がある

境内は木曽氏屋形跡の石垣の上に建つ

入口の脇には湧き水を湛えた水舟が…。

山号寺号石碑
寺の敷地は木曽氏の館跡で、裏の愛宕山には城の構えを示す空堀や郭跡がある。木曽氏は義仲六代の孫・家村が
足利尊氏から木曽の地を与えられてから須原城に住したが、家村の子は高遠・安食野・馬場・贄川の諸家を興し、
木曽氏は家村の弟に当たる家道が継いだ。親豊は家道の曽孫であるが、その子信道は福島に興禅寺を、孫の豊方は
福島の長福寺を建立。これを木曽三寺と呼ぶ。
豊方の曽孫義元が飛騨国司に殺された後、子の義在が継ぎ、天文2年1533年福島への新道を開いた。それまで
福島と須原は木曽氏の両拠点となっていたが、義在の子義康が福島に移ってから須原は廃城となった。

石段を上り境内へ
左手に「明治天皇行在所」の碑が建つ。

山門近影
桃山時代の築で重要文化財となっている。

境内側から見た山門
大きくはないが時代を感じる外観である。

山門からの境内の眺望
左奥が庫裏。
本堂、庫裏、山門は桃山時代の建造物として建立時の豪壮な様式を留め、山門の棟板、玄関渡廊下を附けたりとして、
昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定されている。
他にも長野県宝になった木曽義元の画像や歴代和尚の頂相等の絵画もあり、古文書も多く所蔵している。
また金永という人物が、蕎麦切りを振舞ったという我が国最古の記録が残ることでも知られる。
本堂は六の本堂と言い、間口九間、奥行六間、いずれも京間の禅宗建築。地方寺院としては大規模な入母屋造、
正面と左右の板敷は鶯張りである。入側天井は鏡天井、蝦虹梁の曲線は直線的な堂内の対照的で手法上の意図が
伺える。内部の竹節欄間、吹き寄せ菱欄間、三部屋通し竿の平天井、正面の桟唐戸の透かし彫り等、簡素でしかも
豪壮であるのが特徴である。

山門の左手にある本堂
手前の閉じた門は御成門か?

境内から本堂遠景

本堂と書院の間にある唐破風玄関

重要文化財・本堂
本尊の釈迦如来は外陣から参拝。

本堂前の庭
庫裏は間口17.7m、奥行21.8mの切妻造妻入銅版葺の堂々たる構えで、入口の扉は武家屋敷風の大扉である。
この庫裏は全体として出城とでも言うべきもので、二階の一画が頑丈な踏み天井になっており、武者隠しの用をなしていた
と言われる。

重要文化財・庫裏

切妻造りが特徴の庫裏

庫裏の内部
庫裏に続く書院の欄間も簡素な中に美しさを持ったもので、千羽鶴の壁画は創建当時のものと推定される。
明治13年(1880年)6月27日、中山道御巡行の明治天皇は当初で御昼宴を召されたことから明治天皇須原行在所となっている。
御休憩は2時間30秒で、次の間には三条実美、伊藤博文、松方正義の明治の元勲が控えていたと記録にある。』 とあります。

庫裏に続く書院

書院の欄間彫刻

明治天皇が休憩された書院

創建時からの千羽鶴の壁画

書院から見た中庭

書院廊下と中庭

廊下と中庭

中庭全景

中庭越しに見える本堂

書院に続く本堂
木曽地方は川沿いの僅かな土地に人家が集中した場所。ここもその例に漏れませんが、山に張り付いた寺院ではなく、
京都市内に見られるような平地に建つ巨刹の印象でした。これは恐らく重文となった本堂と庫裏がそのようなイメージを
与えるのでしょう。
普通は本堂の方が立派に見えますが、ここでは庫裏の方が優勢。やはり木曽では【くり】がメインになるのでしょうか?

定勝寺略縁起

定勝寺御朱印
これは御本尊で、もう一つ木曽七福神布袋尊霊場の御朱印もある。
[参考書]
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<コース>
【往路】JR糸魚川(6:00) → JR南小谷(7:20→7:27) → JR豊科(9:11)
JR豊科 → 徒歩7分 → 法蔵寺 → JR豊科(10:15) → JR松本(10:35→10:40) → JR岡谷(11:13→12:26) → JR塩尻(12:36→13:08) → JR須原(14:22) → 徒歩5分 → 須原宿

須原宿(中山道第三十九宿)
諏訪湖付近を列車で回った後は丁度昼時。「うなぎの町」として有名な岡谷市ですが、乗換えの都合で泣く泣く塩尻に戻り
中央西線で名古屋まで向かう事に。鰻のようにニョロッと逃げられてしまいましたが、塩尻駅には以前にもお世話になった
蕎麦店の桔梗が健在。30分の待ち時間で昼食を済ますことができました。

JR塩尻駅構内の桔梗にて「とろろそば」を
木曽川に沿った線路は旧中山道に沿った道でもあります。塩尻を過ぎて最初の宿場贄川から中津川までが所謂木曽路。
駅名の改称が進む昨今、旧中山道の宿場名を残した駅は貴重な存在ですが、如何せん日中の電車の本数が少ないのが
致命的。
ほとんどの駅が普通した停車せず、2~3時間待ちはざら。前もって拝観と電車の時間の配分を決めておかないといけません。
この日はJR須原駅で下車して宿場・名刹を見た後、徒歩で次の野尻宿のあるJR大桑駅まで。電車間隔が2時間と程よい
時間でもあったのが幸運でした。

JR中央本線須原駅舎
無人駅である。

駅前の道路を大桑方面へ
この先で旧中山道に合流する。
中山道須原宿は、
『戦国時代には宿場が成立していたが、場所は現在地より低い木曽川の川岸にあった。
正徳5年1715年の洪水で流出したため高台の富岡と呼ばれた現在地に移転。享保2年1717年に完了している。
新しい設計で造られた宿場で町幅五間。中央に用水路を通し、宿場の両端は桝形に曲げている他、中央付近で往還を
くの字型に曲げている。裏山から引いた豊富な湧き水で七ヵ所の水場を設け、十数軒ずつの共同井戸とした。
清水が湧く宿場町として軒先には丸太を刳り抜いた水舟が置かれ、野菜や果物を浮かべる情緒豊かな光景を今に伝える。

合流地点にある武家屋敷のような立派な門構えの家
この前が旧中山道に当たる。

上町下付近の清水
飲用できるので暑い時には重宝される。

本町にある本陣跡
木村平左衛門とある。
中心部は本町付近で、左手に本陣の木村氏、右に脇本陣の西尾氏があり、問屋と庄屋を兼ねていた。
天保14年(1843年)には宿場内人別は740人、家数は104軒、旅籠屋は24軒あったという。
この辺りは耕地が少なく宿場の諸業務に加え、木材の伐り出しや運材に従事する者が多かった。ここには梅・桃・桜などの
花漬を売る大和屋という店があり、幸田露伴の『風流仏』にも登場する。元は本町右手にあったが、大正期に須原駅前に
移転した。』 とあります。

脇本陣西尾家は今も健在
醸造業をされている模様。

脇本陣西尾家沿革

須原宿石碑と水舟
水舟は木曽五木の一つ、サワラで造られている。

正岡子規の歌碑

日本名勝写生紀行の一節

島崎藤村『ある女の生涯』の舞台となった清水医院跡

中町付近の町並み
無人のJR須原駅で下車して木曽川沿いに下りますが、初めての訪問なのに既視感が…。以前に大桑駅から野尻駅まで
中山道を歩いた時の記憶ですが、いずれも木曽川沿いの狭い平地にある宿場なので、似た外観になるのでしょう。
戦国期には既にあったように木曽谷では最も早くから栄えた宿場町。理由は勿論、豊富な湧き水にあったと思われますが、
そんな由緒ある宿場も木曽川の洪水で移転。【一転】して木曾で一番新しくなったのは皮肉。
宿場の盛衰は【水物】と言うことでしょうね。

茶屋町付近の家屋

同じく茶屋町付近

茶屋町付近から須原駅方面を見た所

民宿すはらと家の前に置かれた水舟
今でも宿泊できるならば【すはら】しい!

古い立派な造りの「かしわや」
西の桝形付近にある。
[参考書]
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JR豊科 → 徒歩7分 → 法蔵寺

周岳山 信楽院 法蔵寺(浄土宗知恩院末寺)
寺務所で御朱印を拝受した後、パンフも頂きましたが、中には庭園の写真が掲載。
和辻:「こちらの庭園は拝観していないのですね。」
夫人:「拝観はしていませんが、宜しければ御覧下さい。」
と思わぬ庭園拝観。併せて本堂の御本尊も内陣から参拝できました。

本堂とそれに続く本玄関

本玄関と庫裏の大玄関

玄関先の仏足石
何故か亀が背負っている。
枯山水風の庭を想像していましたが池泉回遊式の立派なもの。有料拝観では割合にありますが、拝観していない
池泉回遊式は記憶に残る限りありません。
勿体ない気もしましたが、地元の檀家の方が法要を行う際には、庭を鑑賞できるそうなので、地元密着型な寺院でした。

本堂へ続く廊下から見た庭園
奥に見えるのは書院。

同じく廊下からの眺め

池に架かる石橋

池の向こうにある水車

池の畔にある葉の大きなものは水芭蕉

法蔵寺冊子 ¥800

法蔵寺説明書
こちらは無料のもの。

法蔵寺御朱印
これは墨書を印刷したもの。日付のみ手書き。
[参考書]
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JR豊科 → 徒歩7分 → 法蔵寺

周岳山 信楽院 法蔵寺(浄土宗知恩院末寺)
二日目は糸魚川から大糸線で長野県へ。真宗の国から信州の国への移動ですが、糸魚川~南小谷間は非電化区間。
しかも列車が1日5本と、ここで遅れると後が大変なので気合を入れて6時の始発乗車。もうすこし何とかならんのかと
思いますが、この区間はJR西日本管内で南小谷以南のJR東日本管内とは政治的?にも不連続。今後も本数が増える
可能性は低そうです。
南小谷で乗り継いで安曇野市の中心地、豊科駅に着いたのが9時過ぎ。道祖神で有名ですが、どちらかと言うと
西洋的な雰囲気を持った町。駅舎もそうですが、目的の市役所もホテルに似た外見でした。

JR豊科駅舎
大糸線はこのようなメルヘンチックな駅が【おおいと】ころ。

リゾートホテル風の安曇野市役所

安曇野市マンホールカード
市役所にて配布。

しかしマンホール蓋は何故かこのデザイン

豊科郵便局 ; 常念岳、道祖神、神代文学碑
市役所でカードを貰い、郵便局窓口で押印した後は駅に戻るだけですが、ふと横を見ると、安曇野の念佛道場の垂れ幕が。
予定には全く入っていませんでしたが、見ると木々に囲まれた古刹の雰囲気。急遽予定を変更して巡礼することに。
北側にある垂れ幕の門から入りましたが、正式な山門は西側。改めて西から境内へお参りしました。

市役所側(北側)から見た法蔵寺入口

正式には西側にある山門から入山するのが習わし

山門の説明
周岳山信楽院法蔵寺(しゅうがくざんしんぎょういんほうぞうじ)は、
『今から800年前、松本市平瀬養老坂に天台宗法性寺として草創されたと伝わる。その後、時代は下って永正3年(1506年)、
吉野区梶海渡(安曇野市豊科)に創建。開山は承蓮社傳誉上人で京都の人と伝わる。
次いで慶長13年(1608年)松本城主石川光長が新田成相の宿場建設に際し、群奉行青山出羽、丸山丹後守、岡村小兵衛、
吉野村の地侍に命じて吉野区梶海渡から現在地に移転。その時の常連社然誉上人が中興開山となっている。

山門にある欅の白木の彫刻群

山門から鐘楼門へと続く参道

鐘楼門遠景
明治4年、松本藩の廃仏毀釈の為、本堂・庫裏が破壊された。その後、再三復興を計画するが中々実現せず、漸く
昭和25年(1950年)より9ヵ年を経て本堂が落慶した。
廃仏毀釈以前の建造物としては、寛政元年(1789年)建立の山門と楼門が今に残る。第21世性達大和尚の時で、
上諏訪の大工棟梁伊藤(柴宮)長左衛門矩重の手になる。矩重は江戸時代後期に現れた非常に個性的な工匠であり
「近在に比肩する者なし」と讃えられた。諏訪大社下社春宮幣拝殿を始め、我が国の社寺建築に名作を残している。

鐘楼門の阿吽の仁王像と錫杖
奥に見えるのが本堂。

法蔵寺縁起

鐘楼門脇にある成新学校跡
山門は銅版葺きの唐風造りの薬医門で正面に相応しい重厚な造りである。この門の最大の特徴は各所に欅の白木の
彫刻で、唐獅子・龍・鳳凰・松・牡丹・梅・雲などが躍動感を持ち見事なまでの調和をしている。
楼門は二重屋根で、下には阿吽の仁王像、階上には梵鐘が吊るされ、今でも毎昼夕2回安曇野に時を告げる鐘音が
響き渡る。庫裏は徳川時代中期の建物で、間口9間、奥行き11間の信州特有の本棟造りで、正面は白壁蔵造りの重厚な
木造建築である。』 とあります。

本堂側から見た鐘楼門

参道の先に建つ本堂

本堂前の礼拝石?

本堂の「法蔵寺」扁額と飛天彫刻

扁額を支える二匹の龍の彫刻
成程、山門から楼門へ至る参道は古刹の雰囲気十分。唯、それらに比べると本堂が新しい印象でした。
寺務所で対応下さった住職夫人の話では、
夫人:「松本は廃仏毀釈が非常にきつかったので、多くのものが破却されました。」 の事。
善光寺を有する信州は、木曽・伊那・上田・飯山それぞれに名刹がありますが、松本近辺だけは寺院は思いつきません。
こんな経緯があったのかと改めて思った次第です。それにしても県では日本三位の面積を誇る長野だけの事はありますね。

本堂からの眺望

本堂前から見た鐘楼門

境内から見た鐘楼門
晴天の日には後方に北アルプス常念岳が見えるが…。

徳川時代後期建築の観音堂
[参考書]
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【復路】高岡 → (バス) → 新髙岡(16:24) → (北陸新幹線) → JR糸魚川(17:01)

高岡山 瑞龍寺(曹洞宗)
北回廊の大庫裏。
総門から山門、仏殿、法堂と巡礼すると瑞龍寺参拝も一段落。通常なら「さあ、帰ろう!」となる所ですが、伽藍を結ぶ
回廊があるので、そこを回りながら出口へ。
『山門の右手にあるのが重要文化財の大庫裏。ここは寺の調理配膳や寺務運営を行う堂である。向拝は明治初年の
廃仏毀釈に際し、砺波の千光寺へ売却されたが、後の復元修理に際し、千光寺側の好意で返却され復元された。
天井は漆喰を弓型状に塗り、結露に配慮すると共に防火設備としての役目も果たす。隅柱及び荷重の架かる柱を
特に太くした点も見逃せない。正面には韋駄天尊像が祀られている。

正面から見た重要文化財・大庫裏

大庫裏に掲げられた扁額

大庫裏説明

大庫裏内部の様子

回廊を回り反対側の禅堂へ
一方、庫裏の反対側に建つのが同じく重要文化財の禅堂。禅堂とは坐禅修行をする建物であるが、坐禅だけでなく、
食事・睡眠も摂れる生活空間である。瑞龍寺の禅堂は古規僧堂として高い評価を受け、国内で重文指定の禅堂は
京都市東福寺、宇治市萬福寺とここの三ヵ所のみである。
延享3年に焼失するが直ちに再建。幕末に三分の一に縮小されたが、平成の修理で再び創建当初の姿に復元された。
回廊の一番東側には、南端に手洗いである東司(とうす)、北端に浴室が設けられたが、現在は残っていない。』 とあります。

南回廊にある重要文化財・禅堂(僧堂)
これは山門からの眺め。

正面から見た禅堂

「選佛場」の扁額

禅堂の説明

時を知らせる魚板
これが木魚の原型とか!
寺は僧侶の修行の場ですが同時に生活の場。通常は本殿や仏殿は参拝しても、手洗いや浴室は見ないものですが、
修行・食事・入浴・排泄・睡眠どれひとつ欠けても生活は成り立ちません。そんなことは当たり【前田の利長公】ですが、
毎日それを繰り返すのが人の一生。回廊を巡る事で参拝者は自ずと人の一生を辿る事ができる訳で、そこに創建者の
卓見を感じます。
曹洞宗の開祖・道元禅師は宋に渡り修行中、師が自ら市場へ食材を買いに行くのを見て不思議に思い尋ねました。
師曰く、「食事の準備も僧侶にとっては大切な修行の一つである。」と。
この言葉で食事の重要さを知った道元は帰国後、その教えを取入れることになります。
食事に携わる典座(てんざ)と呼ばれる職務に拠って我が国の精進料理が大きく飛躍するのはそれ以降の事。食事に限らず、
日常生活に関係の深い事も取り入れた事が、密教と比較して禅が広く庶民に広がる契機になったと思います。
まさに【衣食道元】と言えるでしょうね。

北回廊の半ばにある鐘楼

回廊の南端には東司跡が
尚、回廊も重文である。

韋駄天尊御朱印
大庫裏正面の厨子に祀られる。

烏瑟沙摩(うすさま)明王御朱印
本来は東司に祀られる仏様である。

南西回廊の奥(外側)にある茶室

南西回廊奥には前田利長公初め石廟が五基並ぶ
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高岡山 瑞龍寺(曹洞宗)
国宝・法堂
仏殿の後は境内の最も奥にある法堂へ。国宝・法堂は、
『明暦年間(1655~1657年)の竣工で建坪186坪。総桧造りで境内第一の大建築、構造は方丈建築に書院建築を
加味したもので六室より成る。
中央奥の内陣には二代藩主前田利長の位牌が安置されている。戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」。
中央二室の格天井には狩野安信の四季の百花草が描かれており、正面内陣の欄間には高岡という地名の由来と
なった鳳凰が刻まれている。

法堂正面
入母屋造、銅版葺きである。

法堂入口からの眺望
左から鐘楼、大庫裏と仏殿。

掲げられた「瑞龍寺」の扁額

法堂の廊下
内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きである。
法堂の奥にあるのが重要文化財の大茶室。ここは住職の接賓や行事打ち合わせ、また大衆に向かって法儀を行う場所で、
全国で一例しかない貴重なものである。背面と北面の外壁と妻壁は城や土蔵と同じく土を厚く付けた大壁、軒裏は城のように
土で塗り上げた揚げ裏、内部の天井は船底型に漆喰仕上げされた土天井と、その特徴は他に例を見ない防火対策を講じた
構造にある。これはこの建物の奥に日常住いである書院や小庫裏があり、七堂伽藍との接点に当たるため類焼を防ぐ目的
から考え出されたものである。』 とあります。

重要文化財・大茶堂
天井の曲線に注目!

大茶堂説明
何気なしに見ると気付きませんが、こうして説明を受けると時代を先取りしたモダンな意匠や珍しい構造に改めて感心。
高岡の由来が鳳凰とは全く知らず。調べると利長公が築城と開町に際し「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)」
と言う詩経の一節を採った瑞祥地名とありました。
利長公の戒名が当寺の名前になった訳ですが、自らの名に龍、町の名に鳳凰とは随分欲張ったもの。今で言えば
キラキラネームとも言えましょうが、明治22年(1889年)に市制が施行された際に高岡は最初の市になった事を思うと、
利長公の姿勢は見事に実を結んだと言えます。

大茶堂の釘隠し
梅鉢紋は前田家の家紋だが、桐は太閤さんのものか?

法堂と大茶堂の間にある中庭

法堂の格子から見た大庫裏
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