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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR金山(9:48)
JR金山 → (名古屋市営地下鉄) → 赤池(10:05) → (名鉄バス) → 三好(10:29) → 徒歩3分 → みよし市役所 → 三好(10:42) → (名鉄バス) → 赤池(11:08→11:16) → (名古屋市営地下鉄) → 金山(11:45→11:48) → (名鉄) → 江南(12:10→12:18) → (名鉄バス) → 草井() → 徒歩10分 → 下水処理場 → 徒歩25分 → 音楽寺 → 徒歩20分 → 曼陀羅寺

日輪山 遍照光院 曼陀羅寺(西山浄土宗)
椋木に囲まれた参道を進み総門を抜けると正面に檜皮葺の巨大な堂宇が出現。
これが当寺の本堂ですが案内書等には正堂と記載されています。
日輪山遍照光院曼陀羅寺(にちりんざんへんじょうこういんまんだらじ)は、
『南北朝期の元徳元年(1329年)、後醍醐天皇の勅願に拠り、天皇の叔父に当たる天真乗運上人を開山として
天皇親政の大願成就と国家の繁栄、万民の安穏を願い創建された。当初は月輪山円福寺と称したが、
寛政3年(1462年)に観経曼陀羅示現し、曼陀羅寺と改称した。

境内より見た総門(唐門)
遥か向こうに矢来門が見える。

重要文化財・正堂
堂前には右近の橘、左近の桜が植えられている。

正堂説明板

正面の唐破風

正堂に掲げられた「曼陀羅寺」の扁額
天文10年(1541年)には改めて後奈良天皇から勅願寺の綸旨を受け、永禄6年(1563年)には織田信長からは禁制付与。
天正12年(1584年)には豊臣秀吉からは禁制及び204石の朱印状を頂いた。更に江戸時代の元和6年(1620年)には
尾張徳川家初代藩主義直から231石の寺領を頂き明治維新まで続く。
歴代の保護を受けると共に地域住民の信仰を集め、古文書類の他、多数の宝物を有している。
本堂に当たる正堂は寛永9年(1632年)、阿波徳島藩祖・蜂須賀家政に拠って再興。幼少期の家政が当山の塔頭である
本誓院で学んだため、その報恩感謝の故である。建物の様式は南北朝前期に建てられた京都御所の中心的建物である
紫宸殿に倣っており、屋根は檜皮葺。その広さは1,000㎡と東海三県では最も広い。

正堂前面

正堂からの境内の眺望

正堂前にある椋木

正堂廊下とそれに続く曼陀羅堂

渡廊下

渡廊下の向こうに建つ曼陀羅堂

境内横より見た正堂
本堂に続く書院は文禄元年(1592年)に建立された全国的にも珍しい室町風の書院造で、内部は鷹の間、鶴の間、上覧の間、
納戸に分かれ、上覧の間には床・付書院がある。創建当時の屋根は檜皮葺であったが、現在は銅版葺になっている。
江戸時代には幕府の巡見使が休憩所として利用した事でも知られるが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの前哨戦である
岐阜城攻略の際に、東軍諸将の軍議がこの書院で行われたと記されている。』 とあります。

正堂脇を通り書院へ

書院玄関の唐破風
書院内は拝見していない模様。

書院に続く庫裏で御朱印拝受
後醍醐天皇の勅願とはいえ、御所の紫宸殿を模したというのも凄い話。正堂前に橘と桜があるものそのため。
唯、寄進したのは皇族や公家ではなく武家の蜂須賀家。普通ならば僭越で不敬罪とも成り兼ねませんが、
このような事例には柔軟性を発揮するのも貴族社会といえそうです。

曼陀羅寺説明書 ¥100

曼陀羅寺御朱印

江南郵便局 ; 重文・曼荼羅寺正堂、境内の藤、今市場の獅子舞
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日輪山 遍照光院 曼陀羅寺(西山浄土宗)
紫陽花の音楽寺が無住で空を切った後は、南西にあるもう一つの花の寺院へ。
音楽寺前にはバス停があり次の寺院前にも行くようですが1日2本のみ。そこでバス通りに沿って道を行く事20分。
団地を右手に見ながら進み右折すると巡見街道。街道沿いに公園があり更に行くと大きな門が見えてきました。
同じ古刹ながら音楽寺とはけた違いの広さ。街道に面したのは矢来門で、その奥に総門とされる唐門が建ち、
本堂は遥か先。境内には幾つもの塔頭があるようでした。

巡見街道に面して建つ矢来門

矢来門近影

境内より見た矢来門
参道を進むと両側に巨木が。進むと説明板があり椋木との事。椋木は総門前に2本、正堂前に1本の計3本があります。
『椋木は関東以西に分布する落葉樹で樹高は15~20m、幹は太く雄大な樹形を形成。また秋には黒紫色の実を付け、
多くの野鳥が集まる。開祖法然上人に関して、美作の誕生寺には、
上人誕生の時、紫の雲が棚引き、天の彼方から二流の白い幡(仏事の旗)が飛来して、庭の椋の木に架かり、
幡に付いた鈴が鳴り響き美しく輝いた。その椋の木は今も現存している。浄土宗である曼陀羅寺はその伝承に
基づいて椋の木が植えられたと考えられる。』 とあります。

参道の先の総門(唐門)と両脇の椋木

参道脇にある後醍醐天皇御創建地の碑

総門前から見た椋木

椋木は江南市指定文化財に
法然上人所縁の寺院は知恩院・誕生寺初め多く参拝しましたが、椋木の伝承は初耳。
というよりも見落としていたと言った方が正しいでしょう。偉人の誕生には瑞祥が付き物ですが、これもその類。
まさかこれで【無垢な】民の信仰心に訴えたとは思いませんが…。

総門(唐門)近影

正堂前の椋木
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琴聲山 音楽寺(浄土宗)
これは北側の道路から見た光景。
8月最後の日曜日は愛知県下でMHC巡礼。長く在庫切れだったものが復活した訳ですが、行先は二ヵ所ながら
お互い離れているのが玉に瑕。JRに加えて地下鉄・名鉄・バスを乗り継いで目的を果たしたのが漸く昼過ぎでした。
このまま帰るのも何なので、近くに見所は無いかと物色すると少し歩いた場所に古刹が…。

南側からこの参道を進むのが正式か?

由緒記と所蔵の円空仏
琴聲山音楽寺(きんせいざんおんがくじ)は、
『古文献や出土品より、壬申の乱に功績のあった村国男依所縁の寺院であったと伝えられる。
寺の前身は元暦元年(1184年)、源詠(げんえい)法師が創建した大乗院。
その後の、寛文覚書に「薬師堂一宇あり」と記録されるように寺名は薬師堂であったと思われる。
元禄2年(1689年)、中興開山の六世映誉和尚に拠って金聲山音楽寺と称し、更に大正時代に
二十一世輝道(きどう)和尚に至って琴聲山音楽寺と改めた。

参道の先に建つ本堂
但し、扉が閉まって居り人の気配は皆無であった。

本堂に掲げられた山号寺号の扁額
右書きと木目も露わな材に風格が感じられる。
現在、当寺は西山浄土宗に属し曼陀羅寺の末寺であるが、以前は今の西に位置し、曼陀羅寺を凌ぐ伽藍であった。
発掘調査では奈良時代の布目瓦や須恵器、平安時代の軒丸瓦が出土している。
境内の薬師堂に祀られている薬師如来は作者不明であるが、明応8年(1499年)の作とされる。
十三世淳教の1780年頃に設けられた役行者堂は災害等で廃止となり、その後に観音堂を建立。楊谷観世音を勧進した。

本堂前から境内を見る

薬師堂

薬師堂裏手の紫陽花群

僅かに咲き残った紫陽花

南の少し高くなった場所に建つ観音堂

観音堂正面
楊谷観音を勧請したもの。

参道脇の紫陽花越しに見る観音堂
また、ここは延宝4年(1676年)、45歳の円空が立ち寄り、鉈彫りの薬師如来、月光菩薩、日光菩薩、十二神将、
荒神・大護法神を寄進している。
ここの円空仏は、木曽川上流からの桧の流木で作られているのが特徴で、伝統的な仏像から脱すべく円空が
努力していた過渡期のものである。中でも十二神将は円空作の十二神将の内、最も初期に作られたものとされ、
その背面には全て陰刻の字が付せられ力強さが感じられる。
また荒神像は、昭和40年にドイツ、昭和55年にアメリカ合衆国に渡り海外の人々の目を楽しませている。
戦後、円空仏の評価が高まり最高傑作として昭和43年に市の文化財に指定された。』 とあります。

本堂脇に建つ村久野区歴史資料館
円空仏を展示しているが生憎休館中。

円空仏の説明

円空仏護法神
どことなくトーテムポールにも見える。
音楽寺と言えば秩父三十四ヵ所観音霊場が有名ですが、ここは全く別の寺院。仏教の声明が音楽の元になった訳ですから、
音楽と仏教徒は切っても切れない関係。そう考えると「音楽寺」と言う寺名ももっとあって然るべきかもしれません。
駅で入手したパンフに拠れば、ここは紫陽花の名所。堂宇の周辺には多くの株があったので、水無月には花が【皆付き】で、
さぞ壮観なことでしょうが、時期的にはもう遅く境内に数株咲いているだけで【皆尽き】でした。
もう一つは円空仏で収蔵庫もありましたが生憎閉鎖。境内を見渡しても人気は無く、無住か他寺院と兼務されている模様。
6月にあじさい祭があるようなので、見学はその時まで待った方が良さそうです。円空仏の寺は、【縁空】を切った形になりました。

境内の掲示板に貼付の 「紫陽花越しの薬師堂」 の写真
撮影者の名前が分からす、プロかアマチュアかも不明。

紫陽花と菖蒲越しに見た本堂

参道脇の紫陽花と本堂
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大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺 → レンタサイクル20分 → 吉崎御坊 → 吉崎寺 → レンタサイクル25分 → 深田久弥生家 → レンタサイクル5分 → 大聖寺
【復路】JR大聖寺(14:29) → JR敦賀(19:06→19:19) → JR京都(21:05)

深田久弥生家
吉崎御坊の参拝を終えこの日の巡礼は取り敢えず終了。
駅に戻る途中、国道305号が熊坂川を越える場所に架かるのが越前橋。
えらく雰囲気の良さそうな橋と思っていると、深田久弥生誕の地がすぐ傍。

大聖寺川の支流・熊坂川に架かる越前橋
『深田久弥は江戸時代から続く深田屋の五代当主弥一の長男として、明治36年3月にここ大聖寺で生まれた。
生家の二階からも眺められた白山が後の山の作家の基礎となった。
福井中学、第一高等学校、東京帝国大学と進学し、在学中に発表した小説が注目されたことで、大学を中退して
鎌倉文士として活躍。昭和39年に発表した「日本百名山」で読売文学賞を受賞し、山の作家としての地位を確立すると共に
登山者のバイブルとなる。後年、ヒマラヤ登山やシルクロード研究にも専念した。
昭和46年3月21日、茅ヶ岳登山中に頂上付近で脳卒中にて急逝、享年68歳であった。日本山岳協会副会長を務めるなど、
我が国の登山の発展に寄与した功績は大きい。』 とあります。

道に面して碑が建つ

壁に嵌め込まれた説明書
私が学生時代に初めて読んだ氏の作品は角川新書「シルクロード」で、シルクロード作家として記憶しています。
初めて彼の生誕の地に立って白山連峰を眺め、この環境に加えて江戸時代から続く紙問屋という生れが
山の作家の素地になったと分かりました。
大聖寺は加賀藩の支藩、十万石の大聖寺藩があった場所。観光ガイドには余り載っていませんが
レンタサイクルを借りた観光案内所で頂いたパンフを見ると見所は結構ありそうです。
観光したいのは【山々】ですが、この日は下調べで終了、後日を期すことにしました。

和風の生家
今も深田と表札が掲げられている。

洋風の建物は印刷所
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山と溪谷 2021年 増刊 6月号「深田久弥と『日本百名山』」 新品価格 | ![]() |

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大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺 → レンタサイクル20分 → 吉崎御坊 → 吉崎寺

吉崎寺(浄土真宗本願寺派)
蓮如の里 吉崎の三坊に参拝した後は、大聖寺へ戻りますが、道を隔てた場所に吉崎寺とあるので、そちらにも参拝。
吉崎寺(よしざきでら)は、
『浄土真宗本願寺派寺院。京都よりこの地に来た蓮如は吉崎の名主・大家彦左衛門吉久の館で布教。
吉久は本堂寄進のため千歳山を寄進、蓮如の弟子となって慶聞坊の法名を賜り寺の開基となった。
蓮如吉崎退去の際には小浜までお供し、見送ったとされる人物である。1474年の御山の大火の時は、
蓮如上人を背負い安全な場所まで避難したといわれ、門前には蓮如上人を背負った慶聞坊の銅像が建つ。

吉崎寺の説明

蓮如上人を背負った慶聞坊

像の説明
現在の吉崎寺は、蓮如が吉崎布教を始めた吉久の館跡に再建されたもので、宝物館には蓮如上人御自画像、
上人真筆の名号や、嫁おどし肉付き面などが展示されている。』 とあります。
年配の御婦人が対応下さいましたが、1階には宝物が展示され、2階が本堂。本堂で御本尊に参拝しましたが、
寺院と言うよりも真宗の開館といった雰囲気。歴史は古いのでしょうが、建物が新しいのでそう感じるのでしょう。
寺院の場所は正に越前と加賀の県境。少し先には「越前加賀県境の館」があり無料で見学。
館内に県境が通っているのが特徴でした。また庭先からは蓮如上人が好んだ鹿島の森も一望できます。

県境の館内にて

館の庭先から鹿島の森を望む
周辺には蓮如上人記念館があり七不思議館も見学可能。そのすぐ横に寺院風建物があり、伺うとレストランで
北潟湖と鹿島の森を眺めながらの喫茶が売りだそう。寺院と直接の関係はなく真宗の財団が経営。
蓮如の里吉崎と銘打つだけに表に出すのは当然でしょうが、余り元祖・本家と【あわら市】てしまうと
牽強付会に成り兼ねず、却って【県境不快】にならないか気になりました。

蓮如館

七不思議館

レストラン
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本願寺 吉崎別院(浄土真宗本願寺派)
東別院に参拝の後は、階段を下りて山門へ。その直ぐ左手に見える門が西別院への入口。
本願寺吉崎別院(ほんがんじよしざきべついん)は、
『蓮如上人吉崎退去の後、弟子たちに拠って遺跡が守られ、また道場も設けられた。
その内、延享3年(1746年)に山下道場のあった場所に建立されたものが浄土真宗本願寺(西本願寺)の吉崎の別院。
表門は念力門と呼ばれ、豊臣秀吉が京都の本願寺に寄進したもので、元治元年(1864年)の「蛤御門の戦い」では
兵火から堂宇を守った「火消門」として有名である。昭和23年の福井大地震で倒壊した別院の門の代わりに本願寺より下附。
翌昭和24年(1949年)11月に百余名の念仏奉仕団に拠って、念仏の声を力に歩いて運ばれた事から「念力門」と名付けられた。
命名者は本願寺第23世勝如上人である。

吉崎御坊の御案内

駐車場に面した山門(念力門)

京都の本願寺より下附された念力門

念力門の由来
門を過ぎて右側に建つ中宗堂は、江戸時代に吉崎の隣村の豪商で門徒であった松下吉三郎が、この地に蓮如を
安置する御堂のない事に心を痛め、延享2年(1745年)自費で蓮如堂を造営寄進したのが始まり。
以後、数度の火災に見舞われるが、昭和45年(1970年)に正面14m、奥行17mの重層造りとして再建され今に至る。
昔から「御廟堂(おたまや)」と呼ばれ、蓮如上人が61歳で吉崎退去の際、上人自身の手で描かれた「御形見の御真影」
が安置されている。

中宗堂近影

中宗堂の説明

中宗堂内陣
正面に掲げられているのが「御形見の御真影」か?

中宗堂脇の唐破風の門
本堂は十一間四面、総欅による紫宸殿造。延宝6年(1678年)建立のものは寛政7年(1795年)に焼失、寛政9年に
再建されたものが現在の本堂。本尊は阿弥陀如来で、極彩色の彫刻に拠って荘厳されている。』 とあります。
東別院に比べると樹木に囲まれ鬱蒼とした雰囲気。かつての御坊もこのような感じだったのでしょうか?

寛政9年に完成した本堂

本堂前の向拝

本堂内陣

本堂からの眺望
説明書を頂こうと寺務所の呼び鈴を押すと、若い住職が対応。説明書に加えて、御朱印を拝受。
和辻:「こちらは御朱印をされているのですか?」
住職:「御朱印ではありませんが、参拝された方にお渡ししています。」との事。
通常、真宗寺院では御朱印はされませんが吉崎では三寺院全てで頂くことに。これも庶民目線の【別印】です。

東側にある門

門の彫刻
それから御住職からはここの歴史を拝聴。お仕事の手を止めて頂き有難い事でした。蓮如上人がここを退去した経緯、
本願寺の東西分裂に関しての詳しい話を真宗の立場で伺いました。
和辻:「政治的とはいえ、結果的に東西に分裂してしまいましたね。」
住職:「でもね、結果的にはそれが良かったと思います。」
和辻:「と言いますと…。」
住職:「石山本願寺のような強大な教団のままでは、徳川幕府に目を付けられきっと取り潰されたでしょう。」
和辻:「家康も一向一揆には手こずりましたからね。」
住職:「それから二派に別れてお互い切磋琢磨することも良かったと思います。」
和辻:「今の真宗は10派程、ありませんでしたか?」
住職:「あれは地方の分家のような感じで、大きくは東西の二派です。」
と質問にも的確に答えて下さいました。
話しぶりからは、政治的に分裂した事に対する後悔はないようす。尤も、西本願寺は石山本願寺を率いた
顕如の後継者とされた准如が祖なので、主流の矜持が大らかな気持ちにさせるのでしょう。
西本願寺と言えば、明治時代に西域探検で知られた大谷光瑞が門主を務めた寺院。
その後も東大で東洋史を専攻した門主が続くなど、政治的な東に対して学究的な西のイメージがありましたが、
この日の御住職の話を聞き、改めて納得した次第です。

本願寺 吉崎別院 説明書

御朱印の様なもの
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吉崎東別院(真宗大谷派) 山門
かつての本坊の後は、最も奥にある別院へ。吉崎東別院(よしざきひがしべついん)は、
『延享4年(1747年)、吉崎山の麓に建立された浄土真宗大谷派(東本願寺)の吉崎の別院。境内には山門、本堂、
宝物館、鐘楼堂などがあり、本堂は1747年の再建。蓮如上人が船上で書いたという六字名号の掛け軸も所蔵している。

山門に続く石段
正面には本堂が建つ。

石段右手にある鐘楼堂
蓮如上人が布教のため京都から吉崎に向かった240㎞の道のりを門信徒が歩いて辿るのが「蓮如上人御影道中」
毎年4月17日に京都東本願寺を出発、湖西周りで一週間御下向の旅が続き4月23日夕刻に吉崎御坊に到着。
吉崎東別院で10日間の御忌法要を勤めた後、5月2日早朝に出発。湖東回りで280㎞を8日間かけて上洛し
5月9日に御帰山となる。これは340回以上続いている仏事である。』 とあります。

1747年再建の本堂

本堂正面

御由緒というよりも案内書
名前は東本願寺の別院だからで、御坊の東側にあるからではありません。本願寺が西と東に分かれたのは、
本願寺11世顕如の後を継いだ三男准如に反発した長男教如が京都堀川の本願寺の東へ寺を造り移ったから。
宗教よりも政治がらみの分裂でした。
東別院は本堂も立派ならば、信徒会館も鉄筋の見事な造り。多くの信者の寄進に拠るのでしょう、
今の東本願寺の実力を見るようでした。

本堂脇の書院玄関

境内から北潟湖と鹿島の森を望む
受付で説明書を頂き、申し出て内陣から本堂へ参拝。門徒以外にも門戸を開いているのは流石です。
御本尊と並び、開祖親鸞聖人と蓮如上人の御影が飾ってありましたが、歴史書で見た「鹿の子の御影」もありました。
道中をするだけの事はあり、立派な建物も単なる【みえ】ではなさそう。

本堂内陣の様子

内陣の欄間彫刻

展示コーナー法宝物 「鹿の子の御影」
尤もこれは説明書からの抜粋。
説明書に「参拝記念スタンプ」とあったので、受付嬢にスタンプ帳を渡し押印して頂きました。
御影のデザインかとも思ったのですが、押されたのは寺院の寺印。
和辻:「これは御朱印ですか?」
受付:「いいえ、スタンプです。御朱印は扱っていませんので。」
との事。しかし、どう見ても御朱印にしか見えません。
これなら御朱印帳に押しておけばと後悔しましたが、【別印】と言う事で納得しました。

吉崎東別院説明書

受付で頂いた 「参拝記念スタンプ」
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吉崎御坊 願慶寺(浄土真宗大谷派)
山上の御坊跡に行った後は、階段を下った先に建つ願慶寺へ。順番としては駐車場に続く山門から参拝するのが
筋ですが、「吉崎御坊の本坊と御朱印はこちら」という案内に惹かれたのが理由です。

願慶寺山門
吉崎御坊願慶寺(よしざきごぼうがんけいじ)は、
『文明3年(1471年)、蓮如上人に拠る吉崎道場(坊舎)創建の際、和田重兵衛が吉崎三十人衆共々、蓮如の弟子に。
重兵衛は祐念坊霊空の坊号を賜り願慶寺の初代となった。蓮如の吉崎退去後は「道場」として道場跡を護持する。
享保6年(1721年)、願慶寺本堂を本山の御坊とし「吉崎御坊願慶寺」と称した。吉崎最古の旧跡である。
現在は山門、本堂から成り、本堂では嫁おどし肉附面の拝観と、その縁起を聴くことができる。

由緒記

境内から見た山門

本堂正面
肉附面の縁起は次のように伝わる。
細呂木の坂口の谷に住んでいた百姓与惣次夫婦は蓮如に帰依し、毎夜吉崎詣りに通っていた。それを妬んだ姑が
文明4年1472年3月21日夜、一人参詣に行った嫁を竹藪で待ち伏せ鬼の面を被って驚かせたが、嫁は少しも驚かない。
当ての外れた姑は面を外そうとしたが、顔にくっつき離れなかった。困った姑は蓮如の教化をうけ懺悔、すると漸く
面が外れた。後に嫁姑は共に吉崎に参詣するようになった。』 とあります。

拝観無料の宝物館

パンフにある嫁脅の面
肉附面は「牛に惹かれて善光寺」と同類の仏教に拠る教化譚。江戸時代には「雪国嫁威谷(ほっこくよめおどしだに)」
の題で戯曲化もされています。
一見、酷い姑のようですが、相手の命を奪ったり追い出したりしない分、まだ可愛げがあるとも言えます。
唯、面はここだけでなく吉崎寺にもあるそうで、もしかすると似た話があちこちにあって、それをお寺で纏めて【肉付け】
したのがこの話なのかもしれません。

宝物館での嫁脅しの場面の展示

伝説の説明
御朱印を御願いすると、御住職が対応。印は肉附面でした。
住職:「江戸時代ここは御坊として本山に準ずる格式でした。その本坊がここです。しかし明治の廃仏毀釈によって
御坊が廃止され別院に格下げされて、東と西の別院ができて三分されました。でも本家はここなんです。」
との話。
話し方もやや残念そうでしたが、他の寺院の手前、面を被る事も必要なのでしょう。

願慶寺縁起
御住職曰く、「江戸時代から同じものを渡しています」。

願慶寺御朱印

吉崎郵便局 ; 肉付き面、北潟からの吉崎御坊
[参考書]
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大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺 → レンタサイクル20分 → 吉崎御坊

史跡 吉崎御坊址(浄土真宗)
安楽寺参拝後は、北潟湖を右に見て来た道を吉崎へ。湖にかかる開田橋を渡った場所にある小高い山上が旧吉崎御坊。
橋のある場所は浜坂漁港、橋を渡った先は「蓮如の里 吉崎」の看板と真宗の別院が建ちます。
日本で最大数の信者を擁する真宗らしく広い駐車場や商業施設が並びますが、いささか人が少なく活気がなさそう。
コロナの影響でしょうが、昨今は宗教離れで観光地も【かんこう】鳥が鳴いているのでしょうか?

305号線から見た北潟湖
船が停泊している付近が浜坂漁港か?

開田橋上からの北潟湖と鹿島の森
蓮如は開祖親鸞と並ぶ浄土真宗の指導者。小説にも取り上げられる他、親しみを込めて「蓮如さん」と呼ばれるように
民衆の中に溶け込んだ宗教家でした。
1415年本願寺七世存如の長男として生まれますが、当初は後継者から外され、八世として法灯を継いだのは
43歳という、当時としてはもう高齢に属する年齢でした。
活発な布教活動で本願寺の勢力を向上させた彼が、何故都を遠く離れた越前に赴いたのか?
彼の勢力に恐れを抱いた比叡山延暦寺衆徒に拠る執拗な攻撃から逃れるのが主な理由とされます。
寺院の建つのは、越前と加賀の国境近く北潟湖に面した吉崎の山上、通称「御山(おやま)」と呼ばれる場所でした。

開田橋から見た御坊方面

吉崎御坊の前の駐車場
『文明3年(1471年)吉崎に来た蓮如は坊舎「吉崎御坊」を建立、布教の本拠地とした。蓮如が生み出した「講」、
「御文章・御文」などに拠って、吉崎御坊には身分・階級・性別・職業等に拘らず多くの信者が集まり、
一帯には急速に本願寺教団が形成。親鸞の同朋思想が体現された一大宗教都市となり、やがて
一向一揆蜂起の基盤となった。
文明7年(1475年)頃になると、加賀国守富樫政親の圧力が吉崎御坊にも及ぶようになり、
蓮如は同年8月21日、僅か4年余りで吉崎を退出。御山の背後「七曲り」から乗船退去したと伝わる。
その後、蓮如は山科本願寺(京都)、石山本願寺(大坂)において、1499年に85歳で入寂するまで精力的に布教活動を続けた。

本願寺吉崎別院表門から御坊跡地に向かう
表門から徒歩5分。正面奥は願慶寺。

石段横の案内板

石段を上った先に広がる吉崎御坊跡
蓮如退去御、越前守護朝倉氏は永正3年1506年8月、越前に侵攻した加越の一向一揆を撃破。一向宗門徒を
加賀へ追放すると同時に吉崎の坊舎も破却。以後、廃坊となった。蓮如が吉崎に築いた町は寺内町の発祥とされるが、
1473年当時、多くの宿坊があった寺内町も、その面影もない。』 となっています。

かつての栄華の跡は
今に伝わる別院の間の細道を抜け海抜33mの山上へ。かつては伽藍が聳えた場所も今は跡が残るのみ。
中央奥に高村光雲作の行脚姿の蓮如像、その周りに本堂跡、腰掛石、蓮如第4子見玉尼の墓、
血染めの聖教で知られる本光坊了顕の墓等が残ります。
山上からは北潟湖、開田橋、浜坂漁港が至近に見え、その向こうの鹿島の森は石川県。
更に向こうには大聖寺川が日本海に注いでいます。

山上に建つ蓮如上人像

上人像近影
台座を含め12mの高さを誇り、高村光雲四大名作の一つに数えられる。

銅像の説明
都で迫害を受けた蓮如がこの吉崎の地に坊舎を立てたのは、母方の遠縁に当たる興福寺門跡経覚の所領であった事、
本願寺の末寺の住持が吉崎の代官を勤めていた事が主な理由とされます。
しかし現地に来てみて、もう一つの大きな理由に気付きました。ここは三方を北潟に囲まれた要害の地であることに加えて、
北潟湖と大聖寺川が日本海に注ぐ場所。素人目に見ても、交通の要衝、天然の良港であることが分かります。
蓮如の頃は古代の荘園制は崩壊途上、貨幣経済がようやく浸透し始めた時代。一方、土地の生産性が上がった結果、
各地で定住する町ができつつありました。吉崎のような場所は町として発展する要素を備えた場所と言えます。

吉崎御坊本堂跡

本堂跡説明
古代の寺社は、巨石・洞窟・瀧といった自然崇拝の対象となる場所に建てられましたが、当然人里離れた場所。
そこへ参拝するのが信仰でした。蓮如はその常識を180度転換。多くの人が集まる場所を選んで、そこを布教の
場所とすることで人々の間に信仰を広めるというもの。人が集まる場所は経済も活発で、お金も集まった事でしょう。
寺院としては信者からの寄付も多くあったと思われます。といってしまえば身も蓋もありませんが、後に越前の信徒は
守護の富樫氏を追放し、越前に一向宗の国を造ることになります。もし、蓮如の教えが収奪を目的とするだけであったら、
人々がここまで付き随うことはない筈。寄進・寄付に見合うだけのものを得たと感じたからに違いありません。
余談ですが、「地獄の沙汰も金次第」は、金が全国に流通するようになった戦国期に出来た諺という事です。

蓮如上人お腰掛けの石

石の説明

御坊跡にある上人次女見玉尼の墓

墓の説明
蓮如と同じ発想の人物が100年後に登場しますが、それが織田信長。
町の経済力に着目し、そこから得た金で最新兵器の鉄砲を量産。
それまで武士と言う一部の特殊階級が独占してきた戦の様式をひっくり返し、戦国乱世に終止符を打ちました。
蓮如も信長も同じ方向性を持っていたので、衝突するのは極自然の成り行きと言えます。
結局、宗教勢力は武士勢力に屈服することとなり、諸外国のような宗教政権は我が国では誕生しませんでした。
しかしそのために悲惨な宗教戦争を経験しなかったことは日本人にとり幸福だったと言えます。

御坊跡のビュースポットからの北潟湖と開田橋の眺望

鹿島の森とその奥に広がる日本海
鹿島の森は大聖寺川河口に位置し、江戸時代は独立した島、現在は石川県に連なっている。
[参考書]
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天王山 安楽寺(高野山真言宗)
長雨の合間を縫って、この日は越の国へ。以前から気になっていた一向一揆の拠点の吉崎御坊を訪問。
福井県あわら市で最寄りの駅は北陸本線牛ノ谷ですが。無人駅で駅周辺も施設がなさそうな雰囲気。
バスの便も悪くさてどうしたものかと悩んでいたら、大聖寺駅前にレンタサイクルがあることが判明。
大聖寺は石川県加賀市なので県境を越えての巡礼となりました。
駅から御坊までは5㎞程ですが、それに先立ち更に4㎞先の北潟に建つ古刹を訪問。計9㎞の道のりですが、
北潟湖は日本海に続く湖。波穏やかな湖面を眺めながらの湖畔のサイクリングとなりました。

北潟湖北岸の305号線からの眺め

北潟湖に架かるアイリスブリッジと湖畔荘hanaゆらり
その中程の北岸に建つのが安楽寺。国道305号線から北へ少し入ると巨大な銀杏が目に入りますが、
そこは脇門だったので、改めて正門から参拝。
天王山安楽寺(てんのうざんあんらくじ)は、
『養老2年(718年)、泰澄大師が白山から西北を望んだところ紫雲が棚引いていた。
それを奇異に思った大師がこの地を訪ねた所、一人の老翁が現われ、
「我は北天の守護の祇園牛頭天王である。衆生済度のため伽藍を建立すべし。」と勧めた。
そこで泰澄大師は薬師如来像を彫刻して本尊とし、一寺を建立したのが安楽寺の嚆矢とされる。
真宗の多い越前にあって白山信仰と真言宗の習合した寺院として法灯を現在まで伝えている。

脇門からの眺め

改めて正門から参拝する

境内から見た正門

正門の二階に吊るされた梵鐘
山門を潜った右手には樹齢300年の大銀杏が聳え、あわら市天然記念物となっている。また、体高3mの金剛力士像が
あり県指定彫刻文化財。阿形像と吽形像の対になっているのが本来の姿であるが安楽寺にあるのは吽形像のみ。
しかも山門ではなく本堂に置かれており、阿形像は顔の一部と足の一部が残っている。』 とあります。

本堂正面

本堂の向拝と垂木

本堂の内陣
中央が御本尊の薬師様。御住職の好意で撮影。
山号の天王山は牛頭天王に由来するのでしょう。大きな山門を潜ると、丁度若い御住職が境内を掃除中でしたが、
来訪の意を述べると、仕事の手を停めて御朱印と本堂内陣に案内下さいました。
本堂内に入ると、直ぐ左手に巨大な金剛力士像が。
和辻:「これが文化財の仁王様ですね。山門には置かれていませんね。」
住職:「はい。由来ははっきりしないのですが、元は二体あったようです。足元に御顔の一部と足首が残っています。」
和辻:「御本尊は薬師様ですが、内陣は真宗の様に煌びやかですね。密教系は全体的に黒っぽいものが多い気がしますが…。」
住職:「この辺は真宗が多いので、その影響もあったと思いますよ。」

本堂内の金剛力士像
御顔の一部と足首は左足の奥に。

境内には観音像も
和辻:「あの大銀杏はここの御神木ですね。」
住職:「一応、防火対策のようですが、毎年実を付けてくれます。でも一昨日の大雨で枝が折れて片付け中です。」
見ると、境内に銀杏の枝が置かれてありました。御本尊が薬師様なので【いちょう】とは縁が深いようです。
和辻:「ここへ来る前にネットで見ましたが、HPを作られていますね。」
安楽寺HP
住職:「安楽寺という名前は多く、間違って来られる方も多いので…。」 との事。

山門脇の大銀杏

御住職が片付けて居られた、大雨で折られた銀杏の枝
頂いた説明書を見ると、
「未来へ。変わり、ゆく。」の題で、宿坊の案内、動物性の材料を使わずにスイーツを作る「ナチュラルスイーツ教室」、
SHOGOさんのバイオリンをBGMに本堂で仏画の切り絵をする「仏活ワークショップ」とお寺の新たな取り組みが掲載。
御住職が若いことも理由ですが、安楽にしていてはお寺も立ち行かないので、日々精進されているようでした。

安楽寺説明書

安楽寺御朱印

北潟郵便局 ; 白山連峰、県指定文化財・安楽寺の金剛力士像、北潟湖の釣風景
[参考書]
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小松駅前 → レンタサイクル25分 → 安宅住吉神社 → 安宅関址 → JR小松(14:41) → JR松任(15:02) → 徒歩7分 → 聖興寺
【復路】JR松任(17:03) → JR敦賀(19:06→19:19) → JR京都(21:05)

中埜山 聖興寺(浄土真宗大谷派)
安宅関に続いて金沢方面へ向かい松任駅で下車。かつては松任市でしたが、平成の市町村合併で白山市に。
白山は北陸の名峰ですが、街中で白山と言われても今一つピント来ないのは私だけでしょうか?
松任と言えば江戸時代の女流俳人・加賀千代女(1703~1775年)の出身地。市内の表具師福増屋六兵衛の娘として
生まれました。商人の娘でしたが、天性の文才を持った彼女は諸国の俳人と交わり草風の号を持つ俳人として精進。
晩年は出家し素園と号しました。朝顔の句を多く詠んだので、朝顔は松任市、合併後の白山市でも市花となっています。
市街地を歩くと、朝顔が目につきますが、これも彼女の偉功。北陸らしく真宗寺院が多く立ち並びますが、朝顔と良い
コントラストをなしています。

JR松任駅スタンプ 2006年金沢支社印

千代女の里俳句館前に建つ千代所像

像の脇の千代女略歴

中町の千代尼通りの朝顔の鉢植え

千代尼通りの北側に建つ聖興寺
駅の南側を西へ向かうと真宗の巨刹があり、門前に千代女所縁の案内があったので少し立寄り。
中埜山聖興寺(なかのさんしょうこうじ)は、
『明応4年(1495年)、守護富樫氏の一族で在地領主であった徳光弥二郎政明が蓮如上人に帰依し明源と改名。
石川郡御手洗村徳光の中埜の地に開創した中埜山徳光寺が嚆矢。
その後、文禄4年(1595年)に聖興寺と改称、慶長6年(1601年)に宮保へ移転。更に慶安元年(1648年)現在地へ移った。
阿弥陀如来を本尊とし松任四カ寺の一つとされる。
本堂は明治24年に焼失するが、明治31年に再建落慶。宮内庁内匠頭であった木子棟斎を棟梁、荒木保太郎を
副棟梁とした十三間四面埋桝組総欅造瓦葺である。彫刻は越中井波の九代岩倉利八に拠って彫られた。
明治の寺院建築の代表として国の文化財になっている。

山門脇の千代尼塚標石

境内の千代尼塚の案内図

本堂正面

本堂の壁面

本堂に続く遺芳館と寺務所

唐破風下の彫刻
境内には加賀千代女の記念館「遺芳館」があり多くの遺墨が保管されている。また彼女の辞世の句
・月も見て 我はこの世を かしく哉
を刻んだ千代尼塚があり命日の9月8日の千代尼忌には追善供養が行われ多くの俳人で賑わう。』 とあります。

明治の大火を逃れた鐘楼

境内奥にある千代尼塚

塚の説明書き
・朝顔や 釣瓶とられて もらい水
は私でも知っている名句ですが、確か「朝顔に」だった筈。何でも35歳の時に「朝顔や」に推敲したものだそう。
俳人とは一文字にも拘るものなのでしょう。正岡子規はこの句について俗っぽいと酷評していますが、素人にも
分かり易い秀句と思います。
地元の人にとっては、朝顔を枯らさないように気配りのできる女性という事で好まれる気がします。加賀美人の
面目躍如といった所でしょうか?昨今はレディー・カガと呼ぶ向きもあるようですが…。

塚の奥にある茶室

通りから見た茶室

松任安田郵便局 ; 女流俳人・加賀千代女像、句碑、朝顔
松任郵便局 ; 女流俳人・加賀千代女、「あさがほや」の句、釣瓶と朝顔、白山
[参考書]
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小松駅前 → レンタサイクル25分 → 安宅住吉神社 → 安宅関址

安宅住吉神社(住吉三神)
安宅関址は松林の中にありますが、そこは安宅住吉神社の境内。
正式には神社に参拝した後、拝殿横の道を抜けるのが正式なルートのようです。
安宅住吉神社(あたかすみよしじんじゃ)は、
『天応2年(782年)創建の古社で、かつては安宅住吉大明神・住吉宮と称した。当初は琴佩山に鎮座したが、
天暦2年(948年)に鷹降山、天正5年(1577年)の小倉野と遷座し、正保4年(1647年)に現在の二堂山へ移った。
梯川(かけはしがわ)が日本海に注ぐ河口の南岸にあり、海陸共に北陸道の要衝で永きに亘り旅人の崇拝を集めた。
特に奥州に落ち延びる途中の義経一行が関守の富樫から逃れたという勧進帳で有名な安宅関が境内にあり、
殊に難関突破に御利益があると言われる。』 とあります。

駐車場に続く階段

石鳥居

鳥居に掲げられた扁額

由緒記
住吉神社とあるので、摂津の住吉大社を勧進したものと想像はつきます。
大阪人に馴染みの住吉さんは航海の神様、海の安全を願っての勧進だったに相違ありません。
しかし、後世の勧進帳が有名になり、日本で唯一の難関突破の神様として崇拝を受けるようになったとか。
今は、航海よりも受験や就職で【後悔】しないように参拝する人が多いようです。これも時代の流れでしょうか?

拝殿前にて

拝殿の構造

向拝の彫刻

拝殿の後方にある本殿

拝殿前から鳥居を見返る
社務所前に巫女さんが居られたので、御朱印の有無を訊くと「あります。」との事。
そこで後で貰う事にして関所跡へ向かいましたが、戻ると拝殿でお宮参りの真っ最中。
神社総出で対応されているので、これは終わるまで無理だと判断して辞去する羽目に。
こんな日も【あったか】もですが、やはり【かんじん】な事は先にするべきだったと後悔した次第です。

社務所横の階段を下ると関所跡へ

境内にある勧進帳の弁慶像

勧進帳説明

境内の様子

脇にある神亀石
[参考書]
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