<コース> 南海バスは日中30分毎に運転
【往路】梅田(7:06) → (御堂筋線) → なかもず(7:40→7:45) → (泉北高速鉄道) → 和泉中央(8:01→8:07) → (南海バス 槇尾山口行) → 槇尾中学校前(8:33)
徒歩10分 → 道の駅 いずみ山愛の里 → 槇尾中学校前(9:34) → (南海バス) → 殿原(9:37) → 徒歩5分 → 和泉国分寺 → 黒石道(10:38) → (南海バス) → 和泉中央(10:59→11:37) → 栂・美木多(11:42) → 徒歩20分 → 櫻井神社 → 徒歩25分 → 泉ケ丘
【復路】泉ケ丘(13:22) → (泉北高速鉄道) → 中百舌鳥(13:30→13:41) → (御堂筋線) → 梅田(14:15)

桜井神社(式内社 旧府社)
和泉の国分寺参拝の後はバスで和泉中央まで戻り泉北高速鉄道に乗車。
このまま帰路に着くには早いので、栂・美木多駅で下車。
駅名に「・」が付くのはJR吾妻線の万座・鹿沢口が思いつくくらいで非常に珍しいものだとか。
一体どんな経緯があったのでしょうか?
泉北高速鉄道の周辺は住宅地や商業施設が犇めいていますが、皆人家も少ない場所を一斉開発したニュータウン。
そこから目的地には坂を下りますが、下るにつれ町並みもレトロな雰囲気に変わります。
そして妙見川に沿って暫く行くと大きな朱の鳥居が目に入ります。

道路に面した大きな朱の一の鳥居

鳥居に続く神門
元禄15年(1702年)の再建。
櫻井神社は、
『創建年代は悠遠の時代で、古代に当地方に居住の櫻井一族がその祖先武内宿彌命を奉斎したのが嚆矢とされる。
推古天皇5年(597年)に八幡宮を合祀、上神谷八幡宮(にわだにはちまんぐう)とも称し、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を
奉斎している。この付近は日本最古最大の須恵器窯跡があるので、その技術を大陸から移入した百済系渡来人漢族の
櫻井宿彌が、その祖先である阿知使主を祀ったものと考えられている。
和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守として967年の延喜の制には官幣社に列せられ、以来歴代皇室の御崇敬厚く、
神領として荘田の寄進を受けた。平安時代には亀遊山神宮寺が境内に建てられている。

神門からの眺望
右が国宝・拝殿、左が授与所。
拝殿は鎌倉時代前期の建築で国宝。木造切妻造、本瓦葺で屋根の勾配が緩い。
妻飾は二重虹梁蟇股式で、内部は天井を張らず、梁・垂木などの構造をそのまま見せた化粧屋根裏となっている。
内部は中央を土間の通路いわゆる馬道(めどう)とした割拝殿で、左右の間は板張りで桟唐戸を入れている。
神社の拝殿としては最古の建築である。
中世には武家の尊崇を受け、建武4年(1337年)には上神(にわ)城主上神常儀が社殿を造営。南北朝時代には
当社及び氏子は南朝に属し、上神・和田・櫻井・木寺等の武将は当社に御供田を献納して度々戦勝祈願をしている。
元亀2年(1571年)小谷城主小谷甚八郎政種は陣鐘を奉納、鐘撞料として御供田を献納した。

正面から見た国宝・拝殿

拝殿の説明

拝殿背面

本殿前面近影
左が部屋で中央に馬道が通る。

拝殿側面の屋根裏

拝殿中央を通る土間の通路である馬道

梁・垂木をそのまま見せた化粧屋根裏

拝殿背面の緩やかな屋根の勾配
神宮寺建立以来、神仏習合の霊場として神域も拡大し社殿も荘厳を極めたが、天正5年(1577年)織田信長の
紀州根来攻めに拠り、拝殿を残して悉く焼失、神領も没収された。
その後、天正16年(1588年)加藤清正の発願で阿弥陀堂が再建。次いで元禄15年(1702年)神門が、
更に享保16年(1731年)鐘楼と宝蔵が再建され漸く元に復した。
慶応4年(1868年)の神仏分離に際し、仏像・経典類は片蔵の金福寺へ、阿弥陀堂は別所の法華寺へ移管。
また鐘楼は神輿庫に改造され今に至っている。』 とあります。

拝殿の後方の中門と本殿

昭和6年(1931年)建立の中門

中門前の伊勢神宮遥拝所

遥拝所から見た本殿

境内右手に建つ絵馬殿

摂末社の白福稲荷社

神輿庫
享保16年に鐘楼として建立された。
説明にもあるように、拝殿は堺市に残る唯一の国宝。歴史の教科書に登場する堺の国宝がこれ一つというのは
信じられませんが、それだけ太平洋戦争の被害が酷かったとの証左でしょう。
本殿を差し置いて国宝に指定された拝殿ですが、境内では目立った感じはなく、あくまでも本殿の引き立て役。
それがまた奥床しい雰囲気を漂わせています。派手だけが国宝ではないという好例でしょう。
社地の字の片蔵は櫻井氏に拠る古代須恵器の一大産地で、それを貯蔵する蔵が多く存在したのが名前の由来。
地味と実用を兼ねたのは須恵器以来の伝統でしょうか?

授与所近影

授与所の奥にある社務所
社務所で宮司さんから御朱印を拝受しましたが、その時伺ったのは、
宮司;「元々、ここは和泉国でしたが、合併で堺市に編入されました。」
和辻;「でも、堺は海で山は無い筈ですよね。」
宮司;「本来は高石市あたりが合併するのが筋ですが、こんな山手まで市域が広がりました。」
和辻;「行政区が変わって大変でしょう。」
宮司;「校区も変わりましたし、氏子も行政区が変わったので祭を行うのも一苦労です。」

櫻井神社由緒略記

櫻井神社御朱印

泉北郵便局 ; ニュータウン、国宝・櫻井神社拝殿、郷土芸能・こおどりの面
[参考書]
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<コース> 南海バスは日中30分毎に運転
【往路】梅田(7:06) → (御堂筋線) → なかもず(7:40→7:45) → (泉北高速鉄道) → 和泉中央(8:01→8:07) → (南海バス 槇尾山口行) → 槇尾中学校前(8:33)
徒歩10分 → 道の駅 いずみ山愛の里 → 槇尾中学校前(9:34) → (南海バス) → 殿原(9:37) → 徒歩5分 → 和泉国分寺

護国山 国分寺(高野山真言宗 和泉西国三十三ヵ所第三番札所)
この日は、配布再開されたMHCを求めて道の駅「いずみ山愛の里」まで。
目的を果たして、めはり寿司で空腹を満たしたら、9時30分少し前。
ここから道の駅スタンプの図柄の槇尾山まで参拝も考えましたが、帰りが遅くなりそうなので次回を期すことにして、
バスで戻る事に。少し戻った場所が国分という字で、そこに建つ国分寺に立寄り。

道の駅 「いずみ山愛の里」にて 9時にオープン

道の駅スタンプ
左は近畿版で槇尾山、右はオリジナルキャラを描く。

道の駅にて配布の和泉市マンホールカード

道の駅で購入した「めはり寿司」
めはり寿司は紀州の名産だが、和泉では初。

バス停・殿原で下車し案内板に従い左手へ
右手には槇尾川が流れる。
護国山国分寺(ごこくさんこくぶんじ)は、
『創建年代は不詳であるが、国分寺建立の詔が出た天平13年(741年)には和泉国は河内国の一部であり、
安楽寺と称する寺院であった。
天平宝字元年(757年)に和泉国が成立し、承和6年(839年)に国分寺に指定された。
尚、和泉国には国分尼寺は設置されなかった。

バス通りから入った道の奥に本堂が見える

駐車場前からみた本堂

国分寺と和泉観音霊場の説明
寺域からは7世紀後半の軒丸瓦が出土しているが、本格的に整備されたのは8世紀に入ってからと考えられる。
国分寺成立以降は、延長5年(927年)の『延喜式』の国分寺料として稲5千束の記載があるが、
その後は嘉承元年(1106年)、天仁2年(1109年)の文書に国分寺領の記載があるのみ。
鎌倉末には衰退に入っていたとされる。
当寺は和泉国国分寺の後継寺院に相当、福徳寺の通称で呼ばれ、その法統を今に伝えている。
本尊は薬師如来であるが、和泉西国の本尊千手観音立像は平安時代の作とされ、市の文化財となっている。』 とあります。

山門?正面に建つ本堂

正面から見た本堂
平成の再建。

国分寺縁起

本堂前の向拝と国分寺の扁額

国分寺の扁額
和泉国一之宮は堺の大鳥神社、国府とされる場所は和泉市の府中辺りですから、三者共に随分と離れた場所にあります。
しかし境内には国分寺跡の石碑もあり、移転したのではなさそう。バス通りには国分峠という停留所もあり、
その先で乗り換えると河内長野へ至ります。国分寺も高台に建ち、国境の交通の要衝だったことが、建立の理由でしょうか?

説明板にある本堂内陣中央の写真
中央は本尊薬師如来、右は弘法大師

本堂左の写真
中央は秘仏の千手観音菩薩立像、左は不動明王、右は四天王か?

好意で撮影させて頂いた内陣の様子

御本尊薬師如来
御朱印を御願いすべく、呼び鈴を押すと御住職が対応下さいました。
和辻:「本堂は新しいですが、場所はそのままですか?」
住職:「はい、尤も以前は400m四方の広大な敷地で、槇尾川近くに大門が建っていました。
折角、いらっしゃったので本堂へ上がってお参り下さい。」
と内陣へ案内して頂きました。
和辻:「御本尊は薬師様で、西国が観音様ですね。」
住職:「お薬師さんは新しいですが、等身大の観音様は秘仏です。これは修理の時の写真です。」
と秘仏の観音様の写真を拝見して吃驚。
和辻:「普通、千手観音様の腕は40本ですけど、これは千本あるのと違いますか?」
住職:「私も数えてはいませんが、修復担当の方の話では千本あったらしいです。」
和辻:「観音様の衣装の彩色も綺麗ですね。最近修復されたのですか?」
住職:「私の知る限りありませんね。かなり以前の着色でしょう。時代ははっきりとは分かりませんが…。」

内陣の扁額
東大寺の官長さんの書、宗派は違うが国分寺故か?

境内に建つ国分寺跡碑

本堂脇に置かれたかつての国分寺の柱
柱はイヌマキ材で、高野山には多く自生するとか。

塀の周囲に植えられたイヌマキ
それから境内から出土した国分寺の瓦類も拝見しました。
住職:「昔は出土したこの瓦類を堺まで売りに行ったら、夕方まで呑んで帰れた位になったそうですが…。」
和辻:「それは凄いですが、考えたら怪しからん輩ですね。」
と暫く歓談。秘仏の写真もそうですが、瓦を飲み代に使った人の逸話も気さくな方でした。
尤も瓦を売って罰が当たらなかったのかは、気になりますが【瓦の神に祟りなし】と言う事で納得した次第。

内陣に展示されたかつての国分寺で使用された瓦類

境内右手にある水子地蔵尊

和泉国分寺御朱印
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【往路】難波 → (南海電車特急28分) → 泉佐野
駅前観光案内所 → (レンタサイクル20分) → 日根野天満宮 → 日根荘・日根神社 → 慈眼院 → (レンタサイクル20分) → 蟻通神社 → (レンタサイクル20分) → 食野家跡 → いろは四十八蔵跡 → 町屋ふるさと館 → (レンタサイクル5分) → 南海泉佐野駅
【復路】泉佐野 → (南海電車特急28分) → 難波

江戸時代の商家・旧新川家住宅
佐野の豪商・食野宅跡を巡った後は、佐野町場で唯一公開している「ふるさと町屋館」へ。
海に近い「いろは蔵通り」から山側へ向かいますが、その「くるま道」は海と山を結ぶ最も古いルート。
途中、食野宅跡に向かう「下往還道」、更に進むと佐野の主要道「上往還道」と交差していますが、
この付近が佐野町場と呼ばれる地域。
先に訪れた「いろは蔵」もそうですが、狭く曲がりくねった道に様々な家並みが林立するのは宛ら迷宮地域。
1700年頃には大阪府下では大坂・堺に次ぐ8500の人口を擁しますが、城下町大坂、寺内町富田林とは一味違った
独特の町並みが見られます。このような町になったのは、城や寺院といった町並みを規制する力がなかったためで、
商人の持つエネルギーがそのまま町になった感があります。
向かった「ふるさと町屋館(旧新川家)」も建物は道路ぎりぎりに建てられていました。
母屋、蔵、塀が一直線にならずに少しずつずれており、建物平面も店の部分が台形になっていますが、
これも道が曲がり敷地が不整形のためだとか。

細い道ぎりぎりに建つ町屋館
旧新川(にいかわ)家住宅は、
『江戸の明暦年間にこの地で醤油醸造を始めた商家で、後に棉や綿布、呉服や各地の産物を扱う諸式問屋と小売りを兼ねた。
明治以降も地主としてタオル工業の経営に携わる。この家は平成初期まで住居として使用された。

入口付近
屋根裏には醤油醸造元らしく桶が置かれている。

座敷と床の間
琴、琵琶、掛け軸は主の趣味か、客をもてなすためか?
現在の住宅は二代目新川喜内が築いたもの。当初は店の間、土間、四部屋から成って居り、明治になって奥の二部屋と
内蔵が増築された。築200年の町屋は当時の泉南地域の建築様式を今に伝える貴重な文化財。
本体の建物に突き出した対屋という部分を持つのは佐野に良く見られる特徴。また四部屋を「田の字」に仕切らず、
真ん中で「食い違い」と言う間取りを採るのは泉州から紀北の古民家の特徴である。

襖絵は紀州出身の画家と言う話

二階の窓付近
12月25日は石川五右衛門の命日で、逆さに貼るのは泥棒除けだとか。これは初耳。

二階に展示された町屋の日常品
入母屋造で切妻屋根から一段下げて、四方ふきおろしの形に瓦を葺く「錣(しころ)葺き屋根」と言う凝った屋根が
見られるのも佐野町場の特徴である。』 とあります。
佐野で唯一の公開町屋ですが、見学だけにとどまらず種々のイベントにも利用可能。私が訪れた時は、
バザーと風呂敷造りが開催されていました。大風呂敷を広げるのは駄目ですが、泉州名産のタオルに所縁のイベントでした。

中庭に迫り出した舞台

母屋の錣(しころ)葺き屋根
佐野町場の民家や土蔵建築で多く見られる。
催し物があったので心配でしたが、見学はOKとの事。年配の男性が邸内を説明して下さいました。
家の間取りや構造に加えて、佐野地区の豪商についても詳しく伺いました。
訊くと、先程訪れた食野家の子孫の方とは同級生との事。成程良くご存じの筈でした。
府下で伝統的建造物群保存地区に指定されているのは富田林のみですが、ここ佐野町屋も宿場や寺内町とは
また違った意味での後世に残すべき町並みである気がします。

町屋の中庭

町屋館来館記念スタンプ
どことなく御朱印風なデザイン。
[参考書]
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いろは蔵通り
日根野と長滝で一寺二社の巡礼を済ませた後は、昼食も兼ねて駅に戻りましたが、昔の商家跡があると聞き海の方へ。
佐野と呼ばれたこの地域は岸和田藩領。元禄年間に急速に発展しました。
多くの豪商が佐野を足場に廻船業を展開、瀬戸内・日本海沿岸は勿論、遠く東北地方まで商圏を広げたと言います。
1700年頃の佐野は人口8500人。大阪府下では大坂、堺に次ぐ人口であったというから驚きです。
そんな豪商たちの中でも群を抜いたのが食野(めしの)家。
『食野氏は井原村の郷士。先祖は楠木正成の三男正儀で、子孫の大饗(おおば)氏が食(めし)氏と改称し商家になったと伝わる。
天正年間1573~92年には既に佐野に住み土地を集積、近世初期には100石余りの高持であった。
元禄年間には大坂の長堀にも出店、大名貸を行う。全盛期の食野家のもう一方の柱は廻船業、北前船を用いて
河内木綿の肥料となる鰊粕と干鰯を運んだ。江戸時代の長者番付では鴻池、三井と並び、西鶴の『日本永代蔵』にも
「泉州に唐かね屋(食野一門)とて、金銀に有徳なる人」として登場。落語「莨(たばこ)の火」などでも知られる。

第一小学校前に建つ食野家跡碑

碑の由緒

食野宅井戸跡

碑と井戸の説明

かつての「いろは蔵」
食野家は巨万の富で土地を開拓、大名貸に拠って藩財政にも関与する他、地域の発展や文化の普及にも貢献した。
その名残は今も残る「いろは四十八蔵」や妙浄寺の梵鐘から偲ぶ事ができる。
しかし19世紀に入り幕藩体制が揺らぎ始めると食野家の経済活動も衰頽に向かい、明治になると歴史の表舞台から去る。
代わってより地域密着型の商業活動の担い手として新川(にいがわ)家、古妻(こつま)家、覚野(かくの)家、山本家と言った
商人が台頭。彼らに拠って佐野の銀行第一号となった泉陽銀行が設立された。』 とあります。

いろは蔵通りの眺め
奥に建つのはりんくうタウンビル。

いろは四十八蔵説明

いろは蔵通りの端
赤い自転車はこの日の相棒。

旧覚野兵蔵家屋敷の米蔵

屋敷跡と米蔵の説明
『日本永代蔵』に登場するほどなので、余程【才覚】に恵まれたのでしょう。それよりも鴻池や三井は知っていましたが、
今まで訊いた事のない名前にこんな豪商がいたなんて思わず「クラっと」来ました。
そんな豪商も消えゆく運命だったのは、経済活動の厳しさを痛感しますが、これは食野家に限った事ではなく、
鴻池・淀屋辰五郎・紀伊国屋文左衛門も同様。むしろ三井家・住友家が例外であったと考えた方が良さそうです。
しかし食野家も商売からは身を引いたものの、今も佐野町場に居を構えて居られ、地元では名家として今も健在。

町屋史料館付近の町並み

ここは医院
通りの奥には西光寺が建つ。

西光寺の北門
これは食野家の方が来た時だけに開けられたとか!

西光寺前にあるかつての銭湯
三階建てのレトロな建造物なので観光施設としてリニューアルするらしい。
見学時は丁度、昼時。食野宅跡(めしのたくあと)の後は【飯の焚く後】となります。
泉州は「茅渟(ちぬ)丼」という大阪湾の魚介類を用いたメニューがあるそうですが見付からず。
結局、駅前の喜八で鰻料理となりました。

泉佐野駅北側の「喜八」

昼食 ¥2400 は大阪市内よりも安め

土産は駅南の和菓子店「むか新」にて
[参考書]
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蟻通神社(郷社)
蟻通(ありとおし)神社は、
『第9代開化天皇の勧請により五穀豊穣・国土開発を祈願して紀元93年に祀られたのが起源。
かつては紀州(熊野)街道沿いに広大な境内を有し、長い参道に松並木が続く泉州の古社。
平安時代には「蟻通明神」として御神徳が都まで伝わったとされる。
社名縁起については清少納言が『枕草子』の244段「蟻通の明神」に詳細に述べられている。それによると、
「昔、四十歳を過ぎた人を棄老していた帝の御世に、唐土から「七曲りの玉に糸を通す方法」の難題を吹きかけられた。
この時、老父の「蟻に糸を通し、出口に蜜を塗れ」と言う知恵で中将が見事その難題を解決したのがその由来。」

阪和線長滝駅スタンプ
2008年JR西日本和歌山支社印。駅自体は大阪府だが和歌山支社に属するので紫色。

バス通りに面した南鳥居
通常はここから参拝する人が多い。

南参道に並ぶ石燈籠
正面に二の鳥居と拝殿が見える。
また後世に、紀貫之が紀の国からの帰り道、蟻通明神の神域に騎馬のまま乗り込んだため、神罰を受けて馬が斃れた。
神の怒りを悟った貫之は咄嗟に、
・かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしをば おもふべしやは
と詠んだ。神はこの歌に怒りを鎮めて馬を復活させた、と言う。
後に世阿弥はこれを下敷きに紀貫之を主人公にした能曲「蟻通」を書いたため更に有名になり、
江戸時代に浮世絵の創始者・鈴木春信が「雨中夜詣美人(副題:見立て蟻通明神)」と言う作品を描いている。

南参道の右手に建つ案内板

紀貫之ゆかりの冠の渕

貫之の歌碑
岡部長景書とあるのは最後の岸和田輪藩主の嫡男で政治家・外交官。

紀貫之冠之渕の由来

謡曲「蟻通」と蟻通神社
平安時代には「蟻の熊野詣」が盛んになるが、蟻通明神はその街道沿いのランドマーク的存在であった。
鎌倉時代には摂関家の日根荘が成立するが、正和元年(1316年)に描かれた絵図に「穴通」と記されている。
延徳元年(1489年)には山内氏の支配が始まり、永正6年(1509年)には長滝荘を管理する根来寺より正式に任官。
そのため、天正5年(1577年)秀吉の紀州攻めでは本殿を焼失している。

太鼓橋の先の表門と両側に続く回廊

正面に建つ舞殿

舞殿とその奥に建つ拝殿

毎殿近影
その後、地元民の手で再建されるが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で再び社殿が焼失。
万治3年(1660年)になって岸和田藩主岡部宣勝の命で社殿等が再建された。社殿は永らく、
安松と市場の間の熊野街道沿いにあったが、昭和19年の飛行場建設で現在地へ移転した。』 とあります。

拝殿及び幣殿

入口の唐破風

内陣の様子

拝殿脇の由緒記

拝殿の奥に建つ本殿
起源が紀元93年と弥生時代に属するのも凄いですが、蟻通の社名に関わる故事伝承が多いのにも驚き。
曲がりくねった穴に糸を通す話は姥捨て伝説でお馴染みですし、落馬した歌人が歌を詠む話も実方中将にあった記憶が。
無礼者におかんむりとなった神が乗った人の冠を落としたのは貫之流の洒落でしょうか?
余りにも伝承が多いため、却って見え辛いですが、「様々な説のある時は最も無理の少ないものが真実に近い。」
というのが学生時代の師の言葉。
蟻の熊野詣の途中にあったからというのはそのままですが、恐らく起源はそのような単純な話だった気がします。

北鳥居と北門

南参道右手にある足神神社
古代、長滝の神興寺にあった仏足石を祀り、足腰の健康に御利益がある。

和泉五社を祀る
大鳥(第一)・穴師(第二)・聖(第三)・積川(第四)・日根(第五)

境内奥の石の祠
そんなことを考えながら境内を一巡して社務所へ向かいましたが、生憎無人。
人の気配も感じなかったので、一時的な不在ではなく、祭事の時のみの駐在なのでしょう。
紀貫之が冠を落とした故事や、『枕草子』にも登場する古社ですが、ずっと人が【在り通し】するのは難しいのでしょうか?

境内遠景

立派な造りの社務所

参拝のしおり
拝殿前に置かれていた。

「蟻通神社跡碑」
国道481号空連動長滝交差点約60m南方に建つ。
[参考書]
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大悲山 願成就寺 慈眼院(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所客番 仏塔古寺十八尊第十二番)
国内には多種多様な仏塔がありますが国宝指定を受けているものは30基。
その内訳は五重塔11基、三重塔13基、多宝塔6基となっており、ここ慈眼院の多宝塔もその一つ。
御朱印拝受で寺務所へ伺いましたが、呼び鈴の横には、「多宝塔拝観の方は、お声掛け下さい」の案内が。
日根神社境内から柵越しに金堂と多宝塔は見えますが、拝観は要予約と訊いていたので諦めていた処。
早速拝観料¥200を払うと、住職夫人が庭園の入口まで案内下さいました。【多宝は寝て待て】とは良く言ったものです。

寺務所へは境内以外にもこの小さな門から入れる

寺務所の脇から多宝塔の建つ奥の庭園に向かう
木々と苔の雰囲気は大原三千院に似ている。正面奥に見えるのが本堂。

庭に建つ食野(めしの)家十三重石塔
江戸時代の建立。
『慈眼院は文和2年(1353年)、南北朝の戦火で炎上。その後、後村上・後亀山の両帝の勅命に拠って再興された。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州鎮撫の時も兵火に遭うが、金堂・多宝塔のみは炎上を免れて現在に至っている。
庭園の手前に建つ金堂は重要文化財。文永8年(1271年)の再建。平面方三間、屋根は単層本瓦葺で、
小堂ながら鎌倉時代の端正な建築様式を今に伝えている。本尊は薬師如来で、毘沙門堂、一願薬師堂とも呼ばれる。
正面向かって右の柱には永享2年1430年と釘で刻んだ落書きが残る。堂内に伝えられてきた笹卒塔婆は
長さ30㎝・幅10㎝程の薄板に経文が書かれ、渦巻形に束ねられたもので、中世の庶民信仰の重要な資料とされる。

庭園の手前に建つ重文・金堂

金堂近影

正面から見た金堂

金堂全面の庇部分

単層・寄棟造・本瓦葺の金堂屋根

金堂前から奥の多宝塔を眺める

庭園越しに見た金堂
正面向こうに見えるのが本堂。

庭園遠望

地面は杉苔でびっしり
更に奥に建つ多宝塔は国宝で金堂と同じ文永8年(1271年)の再建。
全高10m余り、三間二層、檜皮葺で本尊には鎌倉時代中期の大日如来像を安置する。
国宝・重文指定の中では我が国最小の塔として知られ、その優美さから石山寺、高野山金剛三昧院の塔と共に
三名塔の一つとされる。』 とあります。
境内に入ると金堂・多宝塔が目の前に。柵越しでも参拝できましたが、やはり至近だと迫力が違います。
国宝の多宝塔は国内に6基。私も切手になった石山寺初め全て見て来ましたが、ここ慈眼院のものは他とは一風違った印象。
一般の多宝塔はむき出しの地面に建っており、その大きさと色調で存在感をアピールしているのに対し、
ここは樹木の間に溶け込んでいます。

国宝・多宝塔
屋外にある多宝塔では日本最小であるが、日本三名塔の一つでもある。

これは下から仰ぎ見るアングル
その昔、♪森と泉に囲まれて静かに眠る…♪
と言うヒット曲がありましたが、それをそのまま体現したような幽玄な佇まいでした。
内陣は拝観できませんが外陣だけでも十分。加えて庭全体が苔に覆われており、それが堂宇と絶妙の
調和を成していると言えるでしょう。宛ら箱庭を見るようでした。

多宝塔の木鼻、垂木と屋根の反り

多宝塔内陣に祀られる大日如来
普段内陣は拝観できないので、これは説明書からの引用。

大日如来説明

多宝塔本尊の御朱印 平成23年拝受
眺めていると何処からか、枯れ草を掃く音が…。音の方角を見ると、年配の御婦人が庭を掃き清めて居られたので、
話を伺うことができました。御住職のお母様でしょうか?
和辻;「苔が綺麗ですが、植木屋さんが頻繁に入って居られるのですか?」
お母様;「業者の方は年に1~2度来て貰うだけですね。」
和辻;「苔の生育に適した環境なのですね。」
お母様;「まあ掃除は殆どこちらでしています。京都と違って零細なので(笑)」
お母様;「内陣拝観は三が日のみですが、またいらして下さい。」
和辻;「お正月は凄い人出ではないですか?」
お母様;「この辺りは大した事はありません。」
掃除もお寺の修行の一つですが、ここまで来ると玄人はだし。お陰で、庭と堂宇を堪能したのは言うまでもありません。

多宝塔前から金堂方面を見る

多宝塔から更に庭園の奥を見る

かつて弘法大師の像が建っていた場所
戦争で供出されたそう。

境内の石仏群

境内に咲く「ホトトギス」

かつての国鉄時代の日根野駅スタンプ
図柄は慈眼院の多宝塔のように見えるが…。
[参考書]
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大悲山 願成就寺 慈眼院(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所客番 仏塔古寺十八尊第十二番)
日根神社と井川を挟んで隣接するのが慈眼院。日根神社はこの地で活躍した豪族・日根野造の祖先・新羅国の
億斯富使主(おしふのおみ)を大井堰大明神として祭祀していましたが、慈眼院はこの位置関係からも想像できるように
日根神社の別当神宮寺として、明治初年までこれを主管。大井関御坊とも呼ばれました。

慈眼院山門と言うより入口
大悲山願成就寺慈眼院(だいひざんがんじょうじゅいんじげんいん)は、
『天武2年(673年)、天武天皇の勅願寺として、覚豪阿闍梨(かくごうあじゃり)に拠り創建された泉州の最古刹。
創建当初は、井堰山願成就寺無辺光院と呼ばれた。天平年間には聖武天皇の勅願寺となり寺領に1千石が加えられた。
弘仁6年(815年)には空海が2年間滞在。多宝塔、金堂の造営を始め、一山悉く鎮護国家道場に相応しい堂宇を形成した。

入口前(境内外)にある鐘楼

入口正面に建つ本堂と弘法大師像
大師像は元来多宝塔の建つ庭園の奥にあったが、太平洋戦争で供出されたので、ここに再建されたもの。
南北朝の文和2年(1353年)に兵火で焼失、天正13年(1585年)秀吉の紀州攻めの際にも罹災したが、
慶長7年(1602年)豊臣秀頼の命に拠り再建されたと伝えられる。
江戸初期の寛文年間には岸和田藩主岡部氏の帰依を得て一山の大営繕が行われた。
その時の総法務官であった仁和寺の性承門跡より寛文5年(1665年)に「慈眼院」の院号が下賜され、
仁和寺の末寺となって今に至っている。』 とあります。

塀越しに見る本堂

本堂の前庭
これだけでも十分鑑賞に値する。

本堂前から寺務所へ
明治4年(1871年)の神仏分離令で神宮寺は廃止されますが、慈眼院はこの地方の有力寺院として生き残り今に至っています。
慈眼院は平成に参拝しており、今回は二度目。前回は大日如来の御朱印を拝受したので、今回は和泉西国で拝受。
西国札所は観音様ですが、祀られているのは正面にある新しい本堂。中には入れなかったので外陣より参拝。
頂いたパンフレットに拠れば本尊は薬師如来で、その両脇を千手観音立像、毘沙門天立像が固めています。
仏像以外にも、経典・古絵図・茶席等見所は多いのですが、常時拝観は出来ないのが心残りではありました。

神社と本堂の間にある姥桜

慈眼院説明書

今回拝受の御朱印
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日根神社(式内社 旧府社)
「ろじ渓」から来た道を引き返し、荘園跡地に鎮座するのが当地区を代表する神社。バス通りからは石鳥居が見える
だけですが、そこから進むと拝殿に辿り着くまで計4の鳥居を潜ると言う奥行きの深い神社でした。
和泉五社の一つと呼ばれるのも伊達ではありません。

バス通り脇に建つ石鳥居

駐車場前の二の鳥居

二の鳥居に続く参道と府社碑

三の鳥居
正面右が社務所。

四の鳥居を過ぎるといよいよ神門が
日根神社(ひねじんじゃ)は、
『樫井川から水を引き、上之郷と日根野の一部を開発した人々が祭った溝口大明神(比売神社)が嚆矢とされる。
後に新たな井堰・水路を作って樫井川流域の大規模開発を進めた豪族・日根造が樫井川の水を押さえる重要な
場所に大井関大明神(日根神社)を祭り、溝口大明神を吸収したとされる。
霊亀2年(716年)、河内国から和泉国が分かれた際に、大鳥・穴師・聖・積川・日根神社を和泉五社とした。
延喜5年(905年)に延喜式が施行された際には式内社になっている。

由緒記

御祭神

神門とその奥にある拝殿

神門下から四の鳥居を見返る

境内側からの神門近影
鎌倉時代に日根野は九条家の荘園となり開発が進み、日根神社は大井関大明神の名で呼ばれるようになった。
南北朝の動乱の正平8年(1353年)には兵火に拠り社殿が悉く焼失したが、2年後に再建されている。
戦国時代には盛大な祭礼が行われていることが、領主九条政基の日記「旅引付」に載っている。
戦国末期には500石の朱印状を受けるが、天正4年(1576年)豊臣秀吉の根来攻めで再度炎上。
天正13年(1585年)には秀吉に拠り神領地が没収された。

正面から見た拝殿

横から見た拝殿
その奥に本殿が建つ。

本殿全景

本殿説明

本殿の屋根部分
千鳥破風の手前に唐破風屋根が付いた構造。
慶長5年(1600年)豊臣秀頼は吉田半左衛門を奉行として社殿を再興、これが現在の社殿である。貞享4年(1687年)には
岸和田藩主岡部美濃守が水田一町余を寄進した。現在は日根野、上之郷、長滝地区の総社となっている。
5月5日の「まくら祭」、7月第三土曜の「ゆ祭り」は今も続く祭礼である。』 とあります。

日根神社境内図

社務所前の池
和泉山系から流れ出た樫井川はこの付近で平地になり流れも緩やかになります。
神社はバス通りと樫井川に挟まれた場所に鎮座。この位置を見るだけでも、
田畑を潤す灌漑の起点とされたのは明らかで、取水源に祀られたのが日根神社と言えそうです。
この地域を開墾した日根野造が祖先神を祀ったのが始まりで、中世以降も九条家がここの荘園を管理したのも、
その重要性に勅目したからに違いありません。

比売神社本殿
三の鳥居を過ぎた右側に建つ。

比売神社本殿全景

比売神社庇部分

比売神社に続く丹生神社
「ゆ祭り」の「ゆ」は灌漑用水の事ですが、「まくら祭」の「まくら」は井堰を堰き止める土嚢を模ったもの。
こうした祭は地域住民の結束を高めた、あるいは争いを鎮めたと言えそうです。
治水に相応しい地勢が治世を決めた訳で、古代人の知性に驚かざるを得ません。

社務所入口
御朱印はこちらで拝受。

社務所前からの眺望
四の鳥居と慈眼院本堂。

日根神社由緒略記

日根神社御朱印
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総福寺鎮守天満宮
神無月も半ば、先週に引き続き泉州の泉佐野へ。泉佐野駅東の泉佐野市観光案内センターに10時にMHCを入手。
今年の4月25日の配布予定がコロナ禍で延期となり、10月1日に漸く配布となったもの。一日【泉州】とは正にこの事。
野暮用を済ませた後はお決まりの巡礼ですが生憎バスは1時間毎の運行なので、観光センターにあるその名も
「さのチャリ」と言うレンタサイクルで市内巡り。

泉佐野市マンホールカード
南海は泉佐野、JRは日根野と異なります。市の名称にもなっている泉佐野は空港や漁港のイメージですが、
元々佐野町場と呼ばれた地域が昭和23年(1948年)市制を敷いた段階で旧国名を冠したもの。
佐野は鎌倉時代の荘園に登場しますが、北西で大阪湾に面する狭い原野の狭野(さの)が転じたと言うのが一般的です。

JR阪和線日根野駅スタンプ 2006年JR西日本大阪支社印
一方、日根野は奈良時代に遡る由緒ある名前で、渡来氏族の日根野造(ひねのみやつこ)の居住地に由来するとされます。
唯、「初代の神武天皇が大和へ入る前に戦勝祈願した場所で、日の神である天照大御神と根の神である須佐之男命を
祀った野原であることから日根野と呼ばれた。」という由緒も地元の日根神社の社伝にあります。よくできた話ですが、
天皇家との繋がりを殊更強調したやや出来過ぎの感があり、私は日根野造説の方が無理の少ない気がします。
尚、今でも海側は佐野、山側は日根野と呼ばれています。

日根野地区の景色
中世日根荘の風景として有名なのは犬鳴山に近い大木地区。レンタサイクルで向かうにはかなり厳しいですが、
その手前の日根神社付近にも荘園跡があるらしいと聞き、巡礼を兼ねて荘園巡り。
犬鳴山方面へ進みJRを過ぎると道幅は狭くなり、代わりに家が広くなって中世日根荘の風景が目に入ります。
バス停「久ノ木」脇に大きな石があり、総福寺天満宮本殿(重要文化財)の案内が。

バス停脇の石標

何とも言えない風情のある民家を左へ進む

ブロック塀の向こうに鎮座する日根野天満宮
「これは見ておかねば」と進んでいくと、住宅の向こうに小さな社が鎮座。これが総福寺鎮守天満宮で日根野天満宮とも
呼ばれる神社で、行基が創建した古刹総福寺の南に鎮守社として建てられたようです。
鳥居の向こうに見える非常に小さな祠が本殿ですが、これが一間社春日造檜皮葺で安土桃山時代の建築様式を残しており、
九条家文書にも“御湯立を行う天満宮、天神社”と書かれています。
神社をその規模だけで判断してはいけないという好例でしょうか?

総福寺鎮守天満宮(日根野天満宮)

狛犬と撫で牛
以前の写真ではもっと木立に囲まれていたが切り倒された模様。

石鳥居の扁額と注連縄

重文・天満宮本殿

重要文化財の説明

正面から見た本殿

本殿とその脇の摂社
続いてバス通りを東上まで行った先が、寺社のある日根荘遺跡地区。
『和泉国日根郡の地は平安初期まで未開の原野が多く、『日本後紀』延暦23年(804年)10月条には桓武天皇の日根野遊猟が
記されている。その後、開発に拠って耕地が作られ、摂関家の九条家に寄進され日根荘が成立したのは1234年の事であった。
その後も九条家は1309年には土地調査を実施、村の水路や溜池、寺社など克明に記した二枚の絵図が今に伝わる。
この絵図は現代の地図を比べても、驚くほど一致する箇所が多いことで知られる。
戦国時代に入り武士に拠って荘園経営が危うくなり始めるが、領主の九条政基は日根荘に4年間滞在。当時の様子を
詳細に日記「旅引付」に残している。
その荘官であったのが、日根造(ひねのみやつこ)の後裔と言われる日根野氏。鎌倉時代までは中原姓であったが、
足利尊氏に従い北朝方として活躍。室町中期以降は和泉守護の細川氏の被官となったが、その後衰退し、
永禄5年(1562年)を最後に記録から消えた。』 とあります。
神社境内を抜け本堂脇を案内図に従って奥へ進むと大井関公園がありますが、この付近が荘園遺跡になるのでしょう。
一帯は桜の名所でもあります。加えて大井関山から流れる樫井(かしい)川が横を流れ「ろじ渓」という景観を成しています。

かつての日根野荘園遺跡「大井関公園」
桜の名所でもある。

樫井川に架かる朱塗の「ろじ橋」

橋の上から見た「ろじ渓」

付近一帯を潤した樫井川の流れ
この川の水利が荘園を潤したと【推理】できますが、更にここから取水したのが井川(ゆかわ)。土丸の取水口から崖沿いを進み、
日根神社と慈眼院の境内を抜け十二谷池まで続く2.75㎞の水路で高度差3mで流れるように高度な土木技術を駆使しています。
井川は現在でもほぼ当時のルートを踏襲して広範囲の田畑を灌漑、その姿には【感慨】深いものがありました。
試験問題でも【なじみ】の743年(天平15年)発布の墾田永年私財法に始まり、16世紀の豊臣秀吉に拠る太閤検地で
終焉を迎えるまで、荘園は我が国の政治・経済・社会・生活を生み出す基盤でした。
その荘園も一様に続いたのではなく色々と盛衰があったのは当然ですが、そんな中でも日根荘が長きに亘って続いたのは、
恐らく領主であった九条家の努力の賜物でしょう。
都の貴族が地方の荘園に長く滞在するもの珍しいですが、地図や記録を残すなど物見遊山でなかったのは確か。
日記には村で揉め事があり【苦情】もあったとあります。まさか訴えた村人を【折檻】したとは思えませんが…。

井川(ゆかわ)
日根神社(手前)と慈眼院(奥)との境界を流れる。
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登美山鼻高霊山寺(霊山寺真言宗大本山) バラ園
寺院としては温泉・レストラン・ゴルフ練習場・宿坊と多角経営を展開している霊山寺ですが、加えて有名なのがバラ。
境内に入って直ぐ右手側に1200坪のバラ園が広がります。
『太平洋戦争でシベリアに抑留された当時の住職が、帰国後一番に願った事が世界平和。
寺を訪れる人が花を見て心の安らぎを感じ、平和の大切さを知って欲しいと考えたのが始まり。
開園は昭和32年(1957年)5月、京都大学農学部造園学教室が中心となって設計した近代的洋風庭園。
バラはアジアを始め世界各地から200種類以上、2000株以上が集められている。
庭園は本堂の鬼門(北東、艮の方角)に当り、鬼門なので棘のある薔薇を植えたとも言われるが、
一説では輪廻を表現したとも言われる。』 とあります。

ばら庭園説明

プリンセス・ド・モナコ 作出国 フランス

聖火 作出国 日本

プリンセス・チチブ 作出国 イギリス

オリンピックファイヤー 作出国 ドイツ
お寺で薔薇とは不思議でしたが、説明を見て腑に落ちました。
加えて輪廻を表現したともあるので、【リンネ】ならば植物分類で薔薇が登場するのも納得です。
カラタチではなく薔薇なのは世界平和を願ったからでしょうか?
5~6月と10~11月には境内のバラ庭園に大輪の花を咲かせるとの情報で期待して行ったのですが、
受付の方の話では、夏の長雨の影響で蕾が落ちて今年は開花が少なく開花は来年以降になりそうとの事。

万葉 作出国 日本

アンジェラ 作出国 ドイツ

ユーロピアーナ 作出国 オランダ

エナ・ハークネス 作出国 イギリス
特別入場料は不要で、庭園を見て回りましたが、遠くから見ても分からず、
近寄ってようやくちらほらと花が咲いているのが分かる程度でした。
それでも普段は眼にしない品種が20種程度、オリンピックイヤーに関連した名前が多かったのが印象的でした。
こうして薔薇を求めての巡礼は竜頭蛇尾に終わりましたが、家に帰ると夕食は牛バラ肉のカレー。
霊山寺の薔薇の仇を討った形になりました。

チャールストン 作出国 フランス

レッド・カスケード 作出国 イギリス

高台からの眺望
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登美山鼻高霊山寺(霊山寺真言宗大本山) 薬師湯殿
前述したように登美山鼻高霊山寺(とみさんびこうりょうぜんじ)は
『小野妹子の息子の小野富人(とびと)は壬申の乱で敗者側にあったため右大臣を辞職、この地に隠棲。
薬師如来を祀り、その地で薬草を栽培して薬湯を施した。そのため彼は登美仙人、鼻高仙人と呼ばれ尊敬を受けた。
その後、聖武天皇の皇女(後の孝謙女帝)の病がここに祈願して治癒した事から、聖武天皇の勅願を受け行基が創建、
大仏開眼の導師として来日した印度の高僧菩提僊那(ぼだいせんな)が故郷の霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから
霊山寺と名付け山号を賜った』 とあります。

薬師湯殿近影
主参道の左手に建つ。

薬師湯の由来
聖武天皇の大仏建立は諸国に蔓延した疫病を鎮めようとするもの。日本古代の仏教は自然災害や疫病に対する
国家鎮護を第一としました。同時期に建てられた国分寺も薬師如来を祀る所が多いのはそのためです。
このような由緒のある当山には、宗教的建造物に加え温泉・レストラン・ゴルフ練習場・宿坊と多角経営を展開。
寺院としては異色ですが、お寺の経営も厳しいと言われる昨今、伝説の開祖の生き方を継承しているとも言えます。

鳥居に続く主参道

薬師湯殿の前に建つ八体仏霊場
鳥居を過ぎて直ぐ右手、八体仏霊場の上に建つのが聚楽殿。昭和33年(1958年)築の木造二階建てで宴会・集会場に
使用されます。その奥にあるのが昭和10年(1935年)築の天龍閣で食事・宿泊に利用される宿坊でした。
唯、緊急事態が解除されて間がないためか未だ閉鎖中にも見えました。
参道を挟んで宿坊の向かいに建つのが薬師湯殿。開祖の小野富人の志を再現したと言えますが、
今でも天然成分のみを用いた薬湯だそう。入湯には予約不要というのも大衆的でした。

聚楽殿

天龍閣
お昼は境内の「仙人亭」にある薬膳カフェ「花美津姫(はなみずき)」にて。
僊那カレー(¥990)にも惹かれましたが、ここは一番人気に【せんな】と薬膳ランチ(¥1650)で。
黒米の御飯、野菜の天麩羅、オクラのお浸し、温泉卵に加え薬膳スープがメイン。
骨付き鶏の出汁に、枸杞・松の実・棗を入れ、菜っ葉・冬瓜・茄子・鶏肉を加えたさっぱりとした味付けでした。
スイーツもありましたが、この日は腹八分目で留め。日頃FACEBOOKで豪華な昼食を見る機会が多いですが、
ここの食事は質素ではないものの健康的。【花見好き】にはたまらんでしょうが、正に【良膳事】と言うべきものでした。

薬師湯殿前を流れる湯屋川

薬師湯殿手前にある「仙人亭」

入口ではスイーツ案内

薬膳ランチ
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登美山鼻高霊山寺(霊山寺真言宗大本山) 重要文化財・三重塔
本堂拝観の後は、境内を流れる湯屋川に架かる朱塗橋を渡り三重塔へ。
谷を挟んで本堂とは反対の南側斜面に建ち、敷地は狭いものの遠くからでも望むことができます。
『高さ17m、檜皮葺の三重塔は鎌倉中期弘安年間の建立とされ重要文化財。
初層内部の全面には巨勢金岡筆と伝わる極彩色の壁画が描かれている。
この壁画は剝落や退色が少なく保存状態が良好で11月3日のみ内部公開される。

湯屋川に架かる橋を渡る

諸堂の案内板

木々の向こうに見える三重塔

三重塔正面

上方からの眺望

屋根の垂木と木鼻

屋根と裳階

奈良帝塚山南郵便局 ; 重文・霊山寺三重塔とバラ庭園
塔の脇には行者堂、石段の奥は菩提僊那(ぼだいせんな)の墓、更に上った先には開山大師堂が建つ。
行者堂は神変大菩薩・不動明王・青面金剛・蔵王権現を祀り、9月15日には柴燈護摩法要が行われる。
開山大師堂は、古くは行基菩薩を祀っていたが、江戸時代には弘法大師を本尊とし、歴代徳川将軍の
位牌を祀るようになった。』 とあります。
朱塗りの三重塔は本堂とは対照的ですが、それよりも内部の壁画が見所の様。一般公開は文化の日のみ
なのは残念ですが、後世に伝えるための方策。拝観者は後悔しないように公開に合わせて参拝することになります。

行者堂

菩提僊那の墓
行者堂にしては役行者の名がないと思っていましたが神変大菩薩とは役行者の事でした。
開山が高台に祀られているのは敬意を表してのことでしょうか?開山堂の本尊は度々変わっています。
これは決して【改竄】などではなく時代の流れに沿ったまででしょう。今は辯天堂への登り口脇に行基像が建ちますが、
これは赤膚焼で近鉄奈良駅前の噴水の上、御所の九品寺にある像と同時期に作られたもの。
三体の像は【ぎょうぎ】良く、全て東大寺大仏殿の方向を向いているそうです。

石段の先に建つ開山大師堂
外陣から参拝。

開山堂正面

横から見た開山堂

赤膚焼の開山・行基菩薩像

奈良学園大和郵便局 ; 霊山寺開山大師堂、開山行基菩薩像とバラ庭園
開山堂脇には湯屋川の流れから分かれたと思しき千体不動滝が。この場所から当山の修行が始まったのでしょう。
参拝者を受け入れる本堂に対し、こちらは開山を始めとする人を祀る場所。拠って建つ場所も広くはなく、
木々の静寂の中に佇む奥津城と言った感じでしょうか?

開山堂からの眺望
左が湯屋川、右が放生池

千体不動滝
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