<コース> 阪堺電車は12分間隔で運転
【往路】天王寺駅前(8:18) → (阪堺電車) → 御陵前(8:56)
御陵前 → 徒歩5分 → 臨江寺 → 南宗寺

龍興山 南宗寺(臨済宗大徳寺派 和泉西国三十三ヵ所客番札所)
仏殿の前を通り入口と書かれた山門の先は有料拝観。¥400を払って参道と回廊に沿って回ります。
『明治3年(1870年)、牧宗宗寿は禅堂及び鐘楼を建立し、我が国最初の臨済宗専門道場を開いた。
その後、昭和20年(1945年)の太平洋戦争に拠り、開山堂・実相庵・方丈・庫裏を焼失。
太平洋戦争の戦火で一部焼失したが、浴室・坐雲亭・弁財天堂が昔ながらの佇まいを見せている。
方丈と実相庵は昭和35年(1960年)に、客殿・庫裏は平成23年(2011年)に再建された。

南宗寺拝観入口

正面から見た入口の門
狭義で言えば、ここから先が南宗寺に当たる。

受付手前に建つ禅堂

受付を過ぎ最初に現れる坐雲亭
太平洋戦争の空襲も免れたが、修復等で重文にはなっていないのが残念。とはガイドの方の言。
境内には西側を中心に三好一族の墓を初め、千利休一門の供養塔、師の武野紹鴎の供養塔、
方丈の横には津田一門・半井家一門の墓がある。加えて境内には室町時代の連歌師で
堺古今伝授と称した牡丹花肖柏の墓、大坂夏の陣で討死した徳川家康の伝説の墓がある。』 とあります。

坐雲亭(正面)脇にある千利休一門の供養塔
三好氏・茶道の一門・町衆の墓があるのは当然ですが家康の墓があったのは意外。
堺を灰にした張本人を良く大坂人が許したなと思いましたが、『南宗寺史』に拠れば、
『真田信繁の攻撃を受けた家康は、逃げる途中で西軍の後藤又兵衛の槍にかかって落命。そこで当山に仮埋葬した。』
との伝説があるそう。

開山堂跡地にある徳川家康の伝説の墓

これはお墓ではなく開山堂跡
家康の伝説の墓が小さく奥に見える。
俗説の類と思いますが、ガイドの方の話では、
「秀忠と家光は将軍代替わりの時に南宗寺に来訪し、家康の墓に参拝していますから
かなり信憑性はあると思いますよ。」と話されました。
史実の家康は翌年駿府城で病没しており、日時的にも無理があるので、家康に遣られっぱなしの
大坂人がせめて溜飲を下げる意味で拵えた話でしょうが…

こちらは正真正銘の「徳川家康の墓」
東照宮本殿跡地に水戸徳川家家老の末裔三木啓次郎が昭和42年(1967年)に建立した。

家康の墓(左)脇の回廊を抜け方丈と枯山水庭園へ
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<コース> 阪堺電車は12分間隔で運転
【往路】天王寺駅前(8:18) → (阪堺電車) → 御陵前(8:56)
御陵前 → 徒歩5分 → 臨江寺 → 南宗寺

龍興山 南宗寺(臨済宗大徳寺派 和泉西国三十三ヵ所客番札所)
これは最も外側にある北門。
臨江寺を過ぎて少し北へ行くと、広い塀に囲まれた寺院が。堺で拝観のできる数少ない寺院の一つ南宗寺は、
普通の寺ならば【何周】もできる程の広大な寺域があります。
龍興山南宗寺(りゅうこうざんなんしゅうじ)は、
『大永6年(1526年)、京都大徳寺の住職古嶽宗亘(こがくそうたん)が、堺の一小院を南宗庵と改称したのが始まり。
当庵で古嶽に参禅した大林宗套(だいりんそうとう)は、後に大徳寺九十世となったが、天文17年(1548年)、
師の遺命に拠り南宗庵に入った。

広大な境内を囲む築地塀
大林和尚に深く帰依した三好長慶は、父元長の菩提を弔うために、弘治3年(1557年)南宗庵を移転。
大林宗套を開山として南宗寺を創建した。
三好氏は織田信長よりも二十年以上も前に堺を拠点に畿内十三ヵ国を治めた一族。
堺の町は三好一族に拠って繁栄をもたらされたと言って良い。境内には元長初め三好一族の供養塔がある。

北門近影

北門の傍らにある境内案内図
そんな名刹も天正2年(1574年)の松永弾正の乱、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で堂宇を焼失。
そのような状況下で当時の住職、第十二世沢庵宗彭(たくわんそうほう)と堺奉行喜多見若狭守勝重が
南宗寺の復興に尽力。元和5年(1619年)、現地内に再建した。
続く十三世住職清巌宗渭(せいがんそうい)は正保4年(1647年)、山門(甘露門)を造営し、
更に承応元年(1652年)には仏殿を建立した。
山門は三間一戸の楼門、入母屋造、本瓦葺の建物で禅宗様と和様の折衷様式になっており、
「甘露門」の扁額は清巌宗渭の筆になる。

境内を進むと先ず現れる重文・甘露門(山門)

清巌宗渭筆「甘露門」の扁額

境内側から見た甘露門

禅宗様と和様の折衷様式の甘露門
唐門は戦火に拠り焼失した東照宮へ通じる門で、その詳細様式から17世紀半ばのものと見られる。
簡明な構造の向唐門であり、屋根瓦の紋は三つ葉葵、木鼻の絵様繰形は甘露門に通じる共通性が認められる。
更に石橋を渡ると鐘楼・仏殿前に出る。仏殿は入母屋造、瓦葺、一重裳階付きの禅宗様。
内部は石敷きの土間で、中央仏壇上に本尊者釈迦三尊像を安置。
天井には狩野外記信政筆の八方睨みの龍が描かれている。府下では唯一の仏殿建築である。
尚、甘露門、唐門、仏殿の三者は重要文化財の指定を受けている。』 とあります。

甘露門の先にある三好長慶像
戦国大名の中では知名度・好感度は今一つだが、信長の前に近畿を支配していたのは彼らである。

参道より見た重文・仏殿
扁額は「大雄寶殿」である。

仏殿天井の「八方睨みの龍」
これは実物ではなく、案内板のもの。
境内は土塀に囲まれていますが、そこには瓦が埋め込まれています。ガイドの方に伺った所、
これは大坂夏の陣で焼失した寺院の瓦を使ったものだとか。
今風に言えばエコですが、血天井の様に供養の意味合いを込めたものと言えそうです。
【瓦の神に祟りなし】といった所でしょうか?
堺屈指の名刹ですが、古くから残っているものは非常に少数。それでも違和感が少ないのは新旧が調和して
再建されたからでしょう。度々の戦火にも拘らず、後世に残ったのは当時の人々が必至で移動したから。
そのDNAは【引っ越しのサカイ】に見事に受け継がれているようです。

境内にある瓦を埋め込んだ土塀

参道を抜け、いよいよ南宗寺の拝観へ。
[参考書]
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<コース> 阪堺電車は12分間隔で運転
【往路】天王寺駅前(8:18) → (阪堺電車) → 御陵前(8:56)
御陵前 → 徒歩5分 → 臨江寺

龍興山 臨江寺(臨済宗大徳寺派)
この日の巡礼は堺区を南から北上。阪堺電車の御陵前で下車し、最初の目的地南宗寺を目指しますが、
その手前に寺院があったのでちょっと立ち寄り。
龍興山臨江寺(りゅうこうざんりんこうじ)は、
『元は南宗寺の塔頭の一つで臨江庵と称した臨済宗大徳寺派寺院で、本尊は観世音菩薩。
承応元年(1652年)、茶匠として名高い豪商今井宗久の曽孫兼続が今井家の菩提を弔うため大徳寺から
清巌宗渭(せいがんそうい)を開山として開創。南宗寺との間にある公儀堀に臨んでいたところからその寺名が付けられた。

山門脇の由緒記
今井家累代の菩提所で、武野紹鴎の墓の他、堺の魚市に重税を掛けた信長に逆らい殺された
10人の堺商人の霊を弔った十王堂の跡、曽我兄弟の供養塔、その兄弟を助けた狐を祀った曽我稲荷社、
兄十郎の恋人だった遊女虎御前が石に化したと伝えられる「とらこ石」などがある。』 とあります。

木立の中に佇む近代的建築の本堂
起源は江戸初期ですが、境内に立つと真新しく塔頭というよりも独立した一寺院に見えます。 境内に今井家、
堺商人の墓所があるのは当然としても、関東所縁の曾我兄弟の史跡があるのはどういった事情なのでしょうか?
かつて曽我兄弟の史跡を見たのは東海道の大磯でしたが、実は【大うそ】なんて事にならなければ良いですが…。
とらこ石の真偽はさておき、堺に所縁の人物を開基・開山にした古刹であるのは確か。それでも境内に立つと
普通の寺院に見えるのは空襲被害のためでしょう。正露丸糖衣もとい清巌宗渭を開山とした当寺は、
戦後【満身創痍】から見事復興を遂げたと言えます。

本堂前にある「とらこ石」
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<コース> 阪堺電車は12分間隔で運転
【往路】天王寺駅前(8:18) → (阪堺電車) → 御陵前(8:56)

始発の天王寺駅前の阪堺電車ホームにて
晴天に恵まれた文化の日、府下でも文化の香りのする堺に巡礼。
市内には南海空港線・高野線、JR阪和線が南北に走り、大阪メトロ御堂筋線、泉北高速鉄道が一部をかすめる
交通の要衝ですが、観光には意外と不便で、最も便利なのは街道沿いをのんびりと走る阪堺電車。
府下で唯一の路面電車でもあります。

御陵前付近の光景
道路の中央を走るのがチンチン電車。
『堺は摂河泉3国の境に発達した集落。南北朝時代に入り南朝方の軍事・経済上の要港として注目され、
室町時代には守護大名が相次いで支配した。応永6年(1399年)の記録には戸数1万の、町として栄えたとある。
文明元年(1469年)に中国帰りの遣明船が入港して以来、日明貿易の根拠地となり、黄金期を迎える。
16世紀にはポルトガル・スペインの商船も入港する国際的な貿易港になった。商人も力を蓄え、
周囲に堀を巡らせ、住民の選んだ会合衆の合議に拠り運営された。

道路脇に建つ糸割符会所跡碑

糸割符会所跡説明
明治にはドル箱となった生糸だが、江戸時代は輸入品であった。
安土桃山時代を経て江戸初期まで堺の繁栄は続き、その経済力を重視した幕府は、堺とその周辺を天領としている。
しかし、宝永元年(1704年)の新大和川の開削に拠って土砂が堆積、町も衰頽に入った。
明治の新政府の下、堺県が設置されるが、その後奈良県が独立、残りも1881年大阪府に移された。
現在は大阪市に次ぐ政令指定都市として新たな歩みを見せている。』 とあります。

こちらは商工会議所発祥の地碑
歴史の教科書には中世の自治都市として必ず登場し、西洋のベネツィアとも比較される堺ですが、
観光地としての知名度はいま一つ。それは空襲で多くが失われたからに他なりません。
極端な話、古から残っているのは大仙古墳古墳(伝仁徳天皇陵)くらいでしょうか。

さかい利晶の杜
利休と晶子を通じて堺を体験できる新しいミュージアム

「利晶の杜」の展示
堺と言えば鉄砲衆、さいとうたかお氏も堺市出身。

堺市マンホールカード 配布場所はこちら
最近、令和4年1月15日 堺市第二弾が発行された。
日本の伝統的な街並みの多くは戦国の動乱や自然災害で焼失の憂き目を見ていますが、多くは都度再建。
それに続く江戸の260年の平和が守ったと言えます。
太平洋戦争の被害を免れた京都・奈良と異なり、工業地帯として繁栄したが故の悲劇でした。
市内を歩くと史跡の後は殆どが石碑となって居り、【碑】の目を見ることは少なそう。
京都で先の戦と言えば応仁の乱の事ですが、堺の人が大坂夏の陣を先の戦と呼ぶような状況であったなら
と思うのは思い入れが過ぎるでしょうか?

商店街にある地元出身の偉人の顔ハメ

堺柳之町郵便局 ; 堺旧式灯台、阪堺電車
[参考書]
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<コース> 南海バスは日中30分毎に運転
【往路】梅田(5:35) → (御堂筋線) → なかもず(6:08→6:20) → (泉北高速鉄道) → 和泉中央(6:36→6:50) → (南海バス 槇尾山口行) → 槇尾山口(7:16)
徒歩40分 → 槇尾山 → 徒歩30分 → 施福寺 → 徒歩70分 → 金剛寺 → 天野山(12:19) → (南海バス) → 河内長野駅(10:59) → 徒歩3分 → 長野神社 → 徒歩5分 → 酒蔵通り → 徒歩10分 → 烏帽子形八幡神社
【復路】河内長野(14:42) → (南海電鉄) → 中百舌鳥(13:30→13:41) → (御堂筋線) → 梅田(14:15)

烏帽子形八幡神社(旧村社)
市名を冠した神社に参拝した後は、石川に架かる旧西條大橋を渡り高野街道を南へ。
橋を渡ると通称「別久(びっくり)坂」と言う急な坂を上り国道371号線を横断。
「南に向かうのに住居表示は喜多町とはこれ如何に」と阿呆な事を考えていると右手に小高い山が出現。
これが烏帽子形山(えぼしがたやま)で山の容貌が烏帽子に似ているためこの名が付きました。

石川に架かる旧西條橋

道路から見た烏帽子形山
『烏帽子形山は標高182m、高野街道を眼下に収め周辺を見渡す眺望を持つ事から、山上には烏帽子形城が築かれた。
築城年代は不明であるが、楠木正成の築いた楠木七城の一つとされる。
また源平合戦時に源行家が拠った長野城をここに比定する向きもある。但し、文献に登場するのは室町以降である。
戦国時代には山城烏帽子形城が築かれた。中世の城は天守閣や石垣などはなく、自然の地形を生かした土塁や
空堀で守られていた。和泉守護の畠山氏を始め、織田信長・羽柴秀吉もこの城を利用している。
城は高野街道を山裾に取り込む事で、通行税の徴収、旅人からの情報収集を行ったとされる。

山の裾に建つ一の鳥居

鳥居から境内までは階段が一直線に続く

由緒記
その中腹に建つのが烏帽子形八幡神社で、かつての烏帽子形城を鎮護するために創建したと伝わる。
静かな静寂に包まれた本殿は重要文化財。棟札の墨書から河内源氏の末裔とされる石川八郎が文明12年(1480年)に
建立した事が判明している。また江戸時代の初期にはこの地の領主で最後の烏帽子形城主と言われる旗本・
甲斐庄喜右衛門正保(かいのしょうきえもんまさやす)が、神社の修繕を行った記録が残る。』 とあります。

石段を上った先に見える鳥居と本殿

中門の奥に建つ本殿

本殿の説明

塀越しに見た重文・本殿

本殿前の造り
先の長野神社と違い、ここは高台にある軍事上の要衝。その鎮守は戦とも切っても切れない関係です。
祀られているのが八幡神というのもその表れ。先の長野神社が民衆の社とすれば、ここは武士の社と言えるでしょう。
河内の悪党と言われた楠木正成の城というのは伝説と言われますが、楠木正成の直系の甲斐庄正保が
最後の城主と言うのも縁を感じます。
参拝後は御朱印を拝受しようと境内を見渡しましたが、社務所らしき場所は閉まっていて、
御自宅と思しき場所も人影なし。唯、いずれも清掃が行き届いていたので無人ではなさそうです。
年明けの1月に放送された「鶴瓶の家族に乾杯」は河内長野でしたが、地元の御家族がここで七五三参りをされており
神職は居られる様でした。コロナの影響と思えますが、もしかすると南朝所縁の場所と【けんむ】されているのかもしれません。

本殿前にあるのは社務所と祈祷所か?

右手奥は御自宅か?
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徒歩40分 → 槇尾山 → 徒歩30分 → 施福寺 → 徒歩70分 → 金剛寺 → 天野山(12:19) → (南海バス) → 河内長野駅(10:59) → 徒歩3分 → 長野神社

長野神社(旧村社)
河内長野駅前の東西高野街道合流点を南に進むとすぐ左手にあるのが長野の地名を冠した神社。
『創建年代は不詳であるが、旧長野・古野の一部を氏地とし素戔嗚大神を祀っている。
また長野恵比須としても知られている。かつては木屋堂宮、牛頭天王宮と呼ばれたが、
幕末頃から長野神社と呼ばれるようになった。

社の正面から

板に横書きされた由緒記
本殿は天文12年(1543年)頃の創建で重要文化財。
一間社流造で正面に千鳥破風と軒唐破風を付けた檜皮葺である。
更に境内末社の一宮にて熊野・多賀・八幡・春日・高良宮の五社を合祀している。
古来より10月11日の秋祭りには松明神事が行われる。
これは境内に用意された直径1.5m、高さ5mの大松明に点火する荘厳な祭である。
また本殿脇の榧の巨木は府下最大で天然記念物となっている。』 とあります。

横に並んだ本殿(左)と末社(右)

重要文化財・本殿

本殿斜め前からの近影

本殿屋根の唐破風(手前)と千鳥破風(奥)

本殿脇にある末社

末社に合祀された五社
境内は広大とは言えませんが高野街道に面して居り、駅からも至近の場所。
河内長野市の氏神というよりも、かつて八百万の神々を祀った神社が、
改称する際に長野を名乗ったというのが真に近いと思います。
例えは多少違いますが大宮・浦和・与野市が合併して「さいたま市」となったようなものでしょうか?

境内にある大銀杏

本殿脇の天然記念物・榧の巨木
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徒歩40分 → 槇尾山 → 徒歩30分 → 施福寺 → 徒歩70分 → 金剛寺 → 天野山(12:19) → (南海バス) → 河内長野駅(10:59) → 徒歩3分 → 長野神社 → 徒歩5分 → 酒蔵通り → 徒歩10分 → 烏帽子形八幡神社

高野街道
金剛寺参拝を終えた後は、1時間毎のバスで河内長野駅前へ。
市内を南北に縦断しているのが高野街道。高野街道は
『空海が高野山を開いた平安時代以降、人々が参詣のために歩いた平安京と高野山を結ぶ街道。
京都・八幡から生駒西麓を通る東高野街道、堺から南下する西高野街道、大坂から南下する中高野街道があるが、
河内長野駅前辺りで一本に合流し、紀見峠を越えて高野山に至る。
高野街道沿いには里程標・道標・常夜灯など、高野街道の整備や利用に伴って設置された石造物が残されている。

東と西の高野街道合流地点の碑
この奥に見えるのが河内長野駅。

碑の脇にある高野街道の図

合流地点の南に建てられた街道を表す石造物
河内長野市は昔から宿場町として栄え、今でも街道周辺には古い町並みや史跡が多くみられる。
街道の合流点から少し南下した場所には道標が建つが、その直ぐ脇にあるのが吉年(よどし)邸。
邸内には高さ20m、幹囲5m、枝張り30mの楠の巨木が聳え、市の天然記念物となっている。

石造物の直ぐ後ろに建つ吉年邸

吉年邸の楠
街道を往く旅人の目印になったか?

くすのきの説明板

四方に伸びた楠の枝と幹に着生した羊歯類

楠の向かいにある趣のある家屋
ここの表札も吉年とあった。

吉年邸と楠を後に街道を南下
更に進み石川に近付くと伝統的な古い町並みが続く「酒蔵通り」に。
その中心となるのが西條合資会社で、創業は享保3年(1718年)と言う日本酒の蔵元。
現在の店舗は道の北側にあるが、南側にある旧店舗は幕末に建てられ、
その造り酒屋に相応しい風格を持った建物は登録有形文化財になっている。
戦国時代には天野山金剛寺で醸造された「天野酒」が各地の武将に好まれたと記録にあるが、
西條合資会社では昭和46年(1971年)に僧坊酒「天野酒」を復刻している。
尚、南の石川に架かる橋は西條橋の名で呼ばれる。』 とあります。

街道沿いの町並み

街道はいよいよ酒蔵通りへ

屋根の鬼瓦も大黒様

酒蔵通りの垂れ幕

高野街道の両側にある西條合資会社
かつて金剛寺で造られた「天野酒」の復刻醸造元である。

現在の店舗
日本酒の他に酒を使ったスイーツも扱う。

店舗内に吊るされた杉玉
河内長野市に市制が施行されたのは昭和29年(1954年)と比較的新しいですが人口は現在10万人。
それだけの市民がいる場所で、駅の周辺に昔の家並みが残っているのは不思議といえますが、
交通の要衝としての平地は長く伸びており、新たな人口は少し高台にできたニュータウンが吸収しています。
河内長野駅前から高野街道を進んだ先にある醸造元が最も風情ある街並み。
場所が石川の直ぐ脇にあるのは、水運を利用して酒を運んだためでしょう。
川に架かる橋は東から、西條橋・旧西條橋・西條大橋となっていますが、
どれも西條が付くのはこの醸造元が経済的貢献をしたからでしょうか?
店の前に杉玉があるのは醸造元として当然ですが、店内にも多くあるのはここ独自。
令和4年1月17日放映の『鶴瓶の家族に乾杯』はここ河内長野市でしたが、
杉玉は酒造会社が地元の人達の協力を得て造っているものだそう。
てっきり大和の大神大社から買ってくるものとばかり思っていましたが、町興しの目玉になりそうです。

西條合資会社旧店舗玄関
現在の店舗の街道を挟んだ向かい側。国の登録有形文化財でもある。

旧店舗全景

旧店舗主屋・土蔵の説明

街道を進んだ先から見た現店舗(左)と旧店舗(右)

天野酒の入った葛餅を土産に
酒蔵を過ぎると、同じような町屋の前に「究極のかれいぱん」の看板が…。
以前、「三宅裕司のふるさと探訪」で紹介されたお店では?と従業員さんに確認するとやはりそう。
営業時間内でしたが、お客さんが途切れたので早めに閉店する所だったので、滑り込みセーフ。
お昼はその町屋カフェ「三佳屋(みよしや)」で「うどん」という贅沢な一日でした。

昼食はここ「三佳屋」にて

町屋を改装した店内

うどんランチ ¥1800 を注文
お猪口の底にはオーナーが自ら描いた似顔絵が…。

前菜は地元の食材

メインはかれいうどん

食後のスイーツ

駅前にある老舗の御菓子司「友井堂」

土産は河内長野らしさを強調した御菓子で…
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徒歩40分 → 槇尾山 → 徒歩30分 → 施福寺 → 徒歩70分 → 金剛寺

天野山 金剛寺(真言宗御室派 新西国三十三ヵ所第七番札所)
本坊の見所は北朝行在所である観蔵院ですが、その間に広がるのが日本庭園。
現在は工事中ですが、そのため庭園の中央から見る事ができます。拝観受付で、
「庭の入口の手水鉢ですが、水の出る龍が金属でなく自然の竹と言う珍しいものです。」
と聞いたので、早速拝見。
金属に比べ地味な感は否めませんが自然の造形を上手く利用したもの。【離宮好み】と言ったら良いでしょうか?

庭の入口にある手水鉢
さて龍は何処かしらん?

手水鉢近影
ようやく龍に見えて来た。

庭側から眺めるとより一層龍に見える
『本坊より観蔵院へは渡り廊下で繋がっているが、その間にある庭は室町期に創成の庭園。
桃山末期に阿波の国守蜂須賀家政公が手直しした。家政は利休の嫡男道安に師事した茶人でもある。
一面に茂った杉苔の中に樹齢600年の五葉松の鶴島、亀島、枯瀧等が配置された枯山水庭園で、
江戸の寛政10年に雪舟流家元の庭師谷千柳の設計に拠り改装された。
「草行山水自然形」の庭園である。』 とあります。

本坊から観蔵院へと続く仮の渡廊下

渡廊下の右側

観蔵院手前の庭園

観蔵院から渡り廊下方面を眺める

観蔵院脇の庭

切支丹灯籠?とツワブキ

廊下を戻り本坊へ

庭園の説明
南朝行在所であった摩尼院の庭に比べると、規模も内容も桁違い。
勿論、造園時期が皇統が北朝に確立した桃山時代末だったことに拠るのでしょうが、
幽閉と言っても結構自由のある優雅な暮らしであったのかもしれません。

本坊の庫裏裏の池

「出船入船」は植木の刈込か

廊下脇にあるのが亀島

庭園の奥にあるのが枯瀧

苔の緑に映えるツワブキの花

廊下に続く持仏堂

持仏堂遠景
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天野山 金剛寺(真言宗御室派 新西国三十三ヵ所第七番札所)
摩尼院拝観後は、門を出て天野川に沿い境内最も奥に。築地塀に沿って石が敷かれていますが、
これは唯の道ではなく、天野街道と呼ばれる金剛寺へと続く中世以来の由緒ある道だそう。
川を挟んで東側に建つのは講堂となっていますが、門前には高野山金剛流詠歌大成之寺の碑が建ちます。
ここで詠歌の会が開催されたのでしょうか?
何気なく見える場所にもこのような物があるのは流石、文化財の宝庫と呼ばれる所以です。

天野街道に沿って流れる清流天野川

川の東側に建つ講堂

講堂前の碑
そして川沿いの建物が途切れる場所にあるのが金剛寺の本坊。
今は寺務所として使われていますが、ここにも南北朝の旧跡が。
『観蔵院は金剛寺の子院の一つ。南朝に捕らわれた北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)が幽閉された場所で、
北朝御座所或いは北朝行宮所と称される。現在に残る貴重な子院の一つである。』 とあります。

本坊の内、寺務所として使用されている部分

寺務所脇の表門を抜け拝観へ

本坊より観蔵院へと続く渡廊下
現在は工事中なので、このような臨時の造りになっている。

観蔵院の入口付近
北朝行宮所に相応しく菊の御紋が各所にあしらわれている。
三上皇が幽閉されたのは南朝が優勢であった時期でしょうが、対立する両朝が同じ寺院で共に暮らしたのも数奇な運命。
幽閉と聞くと悲惨な状態を想像しがちですが、庭園は後世の作庭ですが、寺内を見る限りではそれ程でもない様子。
命を奪われなかった事も含めて後嵯峨天皇を祖とする血縁故でしょうか?
因みに現在の皇室は北朝の流れを汲んでいます。
内部は摩尼院同様の造りでしたが、ここは撮影OK。微妙な箇所で南北朝の違いを実感した次第です。

畳の敷かれた廊下部分を進む

板戸に描かれた猫と牡丹

明り採り窓にも芸術的工夫が

御簾の遥か奥に見える御座所

三上皇の御座所近影

御座所の一段高くなった畳と襖絵
[参考書]
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天野山 金剛寺(真言宗御室派 新西国三十三ヵ所第七番札所)
楼門の内部の諸堂を拝観した後は、門を出て塀で隔てられた隣接する寺院へ。
かつて百を超す子院の多くは無くなりましたが、ここは今に残る物の一つ。
加えて南朝の御座所になったという由緒を持ちます。
摩尼院書院は、
『創立や沿革は不明であるが、最盛期には百ヵ寺近くあった金剛寺の子院の一つ。史料に拠れば
南北朝時代の正平9年(1354年)から同14年(1359年)まで南朝後村上天皇の行在所とされていた事から、
中世以来有力な子院として栄えた。

築地塀の前に建つ行在所の石標

共に重要文化財の表門と築地塀
重要文化財に指定されている書院は茅葺で桁行東西9間、梁行南北に7間で東側の妻側に土間と玄関を配している。
南面の三室が表に当たる公的な部分で、南と西が広縁となり庭に臨む。
北面の四室が裏に当たる私的な部分で、建築年代は慶長期(1596~1614年)と考えられている。
広縁の外に雨戸を備えているが、普及し始めたのがこの時期位なので初期の雨戸に相当している。
鎌倉時代の文永6年の墨書がある木造十一面観音像の他、「櫻井の別れ」で父楠木正成から渡されたと言う
正行の守り刀や軍旗が今に伝わっている。』 とあります。

表門から書院を望む
敷かれた砂は禅宗寺院の様にも見える。

書院入口
内陣は御座所らしい優雅な造りでしたが撮影はNG。帝ゆかりの場所故に畏れ多いのでしょう。
【紅葉の錦、神の摩尼間に】と言った所でしょうか?
女人高野で知られる天野山金剛寺(あまのさんこんごうじ)は南朝の行宮(あんぐう)でもありました。
線路の東の観心寺に行宮があったのは知っていましたが、西側にもあったとは!
小楠公所縁の学校に通った身としては、己の【暗愚】さに思わず【あんぐう】りしました。

窓から僅かに見える行宮の様子
帝の使用された御簾も見える。

この後はもう一つの行在所へ

摩尼院説明書
[参考書]
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天野山 金剛寺(真言宗御室派 新西国三十三ヵ所第七番札所)
これは観月亭。
金堂、多宝塔よりも更に高台にも歴史的建造物が並びます。
南から薬師堂・五佛堂・御影堂となりますが、参拝のメインは五佛堂。
『五佛堂は平安時代の創建、慶長11年(1606年)再建。三宝院とも大日堂とも称された。
本尊は五智如来で平安時代作の重要文化財。
蔀戸は右側面のみに取り付けられているが、これは御影堂の方角を向いており非常に珍しい構造である。

境内隅にひっそり佇む宝蔵

薬師如来を祀る薬師堂

薬師堂の右に五佛堂が続く

五智如来を祀る五佛堂

五佛堂前面から
向こうに見えるのが多宝塔。

五佛堂の前から境内の金堂・楼門を見る

五佛堂の右側の蔀戸
それに続く御影堂も平安時代の創建。真如新王筆の弘法大師御影を奉安し、承安2年(1172年)に御影供を始修。
以来800年以上続く法要で、特に百味飲食(ひゃくみおんじき)は有名である。
その東側には後村上天皇が京への想いを寄せて月見をされた観月亭が連なる。
更に法具蔵、護摩堂、開山堂といずれも重要文化財が続き、最も高所に分骨された光厳天皇陵がある。』
とあります。

重要文化財・・御影堂
但し、五佛堂と異なり前までは行けず眺めるのみ。

御影堂に続く観月亭

御影堂・観月亭の説明

重要文化財・法具蔵

重要文化財・護摩堂

重要文化財・開山堂

光厳天皇陵(分骨所)
開山堂から石段を上った更に高台にある。

天皇陵からの眺望
左に見えるのが摩尼殿。

天皇陵から東方面を見る
護摩堂(左)と法具蔵(右)の屋根。
個別で見る限り印象の薄い建造物もありますが、全て歴史の貴重な証人。
府下では大阪市に次いで国宝を多く所蔵する河内長野市の面目躍如と言った所です。
寺院の中心は本堂(金堂)ですが、御影堂がより高所に建つのは開祖に対する敬意でしょう。
そんな場所に建つ観月亭で天皇が月見をしたとは随分と優雅な話。
南北朝時代は南朝が常に北朝に押され気味だったと思われがちですが、時期に拠っては北朝を圧倒する事もあったようです。

摩尼殿との境界を成す白壁

金剛寺子安地蔵尊御朱印
[参考書]
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徒歩40分 → 槇尾山 → 徒歩30分 → 施福寺 → 徒歩70分 → 金剛寺

天野山 金剛寺(真言宗御室派大本山 新西国三十三ヵ所第七番札所)
1時間以上歩いて門前に到着しましたが、ここから河内長野駅までは6㎞。門前にバス停があったので、
時刻を確認すると60分毎の運転。拝観も含めて90分後のバス乗車を目指しました。
天野山金剛寺(あまのさんこんごうじ)は、
『天平時代に聖武天皇の勅願に拠り行基菩薩が開創、後に弘法大師が修行された霊蹟である。
その後400年、寺運は衰微し堂塔・伽藍は荒廃したが、時の高野山の阿観(あかん)上人が住持となると、
後白河法皇と皇妹八条女院の帰依を受け、金堂等現存の伽藍を復興させた。

楼門右手の受付で入山料と御朱印を拝受

左手の池の前に建つ「勤王護国之寺」碑
南朝所縁の寺院故か?
八条女院は高野山より真如新王筆の弘法大師御影を当山御影堂に奉安、当山を女性が弘法大師と御縁を結ぶ霊場とされた。
また女院の侍女とされる浄覚(じょうかく)と覚阿(かくあ)の姉妹が阿観の弟子となり、師の没後に相次いで院主に付いた
事から女人高野と呼ばれるようになった。
南北朝初期から南朝方の祈願所となり、正平9年1354年から1359年までは、後村上天皇の行在所(天野行宮)や
捕えられていた北朝方三上皇(光厳・光明・崇光)の幽閉所であった。南朝方の本拠地のため再三兵火を受け、
中心伽藍のみが今に伝わる。その多くは慶長10年(1605年)から豊臣秀頼に拠って整備を受けている。
鎌倉時代創建の食堂(じきどう)は一山大衆の食事や研学を行う場所であるが、後村上天皇が6年間正殿として
大政を執られたことから天野行宮天野殿と称する。

納経所に続く食堂(じきどう)

食堂は天野殿とも呼ばれる

食堂正面の唐破風

食堂正面の蔀戸と側面

金堂前から見た食堂全景
金堂は治承2年(1178年)の創建で、南に建つ多宝塔と同じく平安時代の作で重要文化財。
内陣には丈六の大日如来像を安置するため極めて高い天井となっている。
堂内の三尊像は大日如来は平安時代、脇侍の不動・降三世明王は鎌倉時代の仏師行快の作でいずれも国宝。
智証大師請来の尊勝曼荼羅を極めて忠実に立体化して表現したもので、他に例を見ない。
国宝「日月四季山水図屏風」を始め、南北朝時代の学頭禅恵法印が書写した数百巻の経典が「禅恵文書」として今に伝わる。

重要文化財・金堂

金堂正面

金堂前面の向拝の彫刻と飛天の絵画

金堂前から向かいの多宝塔を望む

高台から見た金堂全景

平成9年に拝受した新西国の御朱印
この間、室町末期から江戸初期にかけて「天野酒」を醸造し、貴重な財源として寺院を支えた。
各地の戦国武将からも「天下に比類なき美酒」と称賛され、特に豊臣秀吉はこの酒を愛でて朱印状を下している。
現在、天野酒は河内長野唯一の酒蔵、西條合資会社が「僧坊酒」として復刻している。』 とあります。

後村上天皇御手植桜

多宝塔とその奥に見える金堂

重要文化財・多宝塔

多宝塔建立は平安時代末という日本最古の部類に属する
天平時代に遡る古刹ながら、ここにもアカン時代が。そこから復興させたのが【アカン】上人というのも因縁めいていますが、
経済的に富裕であった女院に目を付け更にその侍女を後継者としたのは卓見。
男性主導の仏教界ですが、人口の半分は女性なのですから、その力を利用しない手はないと言う事でしょう。

重要文化財・経蔵

重要文化財・鐘楼
室町時代前期の建築。

経蔵前から見た池と楼門
また寺を支えるものとして酒造りに取り組んだのも流石。清酒発祥の地である大和の正暦寺を挙げるまでもなく
寺院と酒の関りは深いですが、その後も続いて行くのは稀。他人より寄進を受ける生活をしている寺院で
自ら金を稼ぐ行為を積極的に行ったと言う点に先見の明があったと言えます。

金剛寺パンフレット 無料配布分

パンフレット裏面

金剛寺 寺史ガイドブック ¥200

金剛寺小史 ¥500

今流行りの巡礼スイーツ、受付で購入した和三盆クッキー

河内長野郵便局 ; 重文・天野山金剛寺多宝塔、観心寺建掛塔、天然記念物・夕照の楓
[参考書]
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