<コース> 近鉄1dayおでかけきっぷ(大阪・京都・奈良版;¥1000)使用
【往路】阿部野橋(6:50) → (近鉄電車) → 吉野(8:22)
吉野駅 → 徒歩35分 → 如意輪寺

塔尾山 椿花院 如意輪寺(浄土宗 近畿三十六不動尊霊場第三十番 役行者霊蹟札所)
観光案内やHPでは如意輪寺は拝観料が必要とありますが、山門から先の境内や御本尊如意輪観音を祀る
本堂や難切不動尊を祀る不動堂の拝観は無料。お参りだけならばこれで十分ですが、
丁度期間限定で後醍醐天皇御霊殿(ごりょうでん)の拝観をしていたので、そちらも参拝(¥500)。
本堂の奥にある庫裏の横から入りますが、それに先立って本堂裏手の石段を60段程上った場所帝の御陵に参拝。
御遺言通り北闕を望んでいるかどうかは分かりませんが、高貴な方だけに境内でも高所にある様子。
途中、世泰新王墓がありましたが、後醍醐天皇の皇子の一人でしょう。

御門脇にある後醍醐天皇陵への石段
右側には宮内庁管轄の説明板が。

石段途中から振り返った眺望
左親王墓への道。

本堂屋根

庫裏・書院(受付)の屋根

後醍醐天皇御陵

世泰親王墓
拝観入口を過ぎて直ぐに建つのが御霊殿。正面には御門がありますが閉鎖中。
皇族の方が見えた時のみ開けるのでしょうか?
『御霊殿には後醍醐天皇の御自作の木造を安置。加えて南朝歴代天皇の御尊牌が祀られている。』
とあります。

正面より見た庫裏・書院

庫裏右側の受付兼納経所

書院入口の唐破風

破風の鬼瓦に刻まれた菊水紋

破風下向拝の獅子(上)と龍(下)の彫刻

書院玄関の内部
菊と鎧が飾ってある。

霊殿前にある御門

受付を済ませ霊殿へ
弘法大師作の仏像はあちこちで聞きますが、ここは天皇自ら彫った像。
都を逃れて吉野の行在所にいる天皇に果たしてそのような余裕があったのか、真偽の程は分かりません。
唯、後鳥羽上皇が自ら日本刀を鍛えた記録も残っているので、倒幕の大志を抱いた帝ならば
考えられない話ではありません。

正面から見た御霊殿
南朝歴代天皇の御尊牌が祀られている。

御霊殿手前には南天と皇室御手植えの木が

御霊殿向拝の象の彫刻

同じく牡丹の彫刻

幼い頃の司馬光の甕割りの彫刻

御霊殿唐破風下の鳳凰
戦前の正閏論では明治天皇が南朝を正統としたため、後醍醐天皇は建武の中興を行った
偉大な天皇という評価が一般的。
戦後はその反動もあって、倒幕の為にはあらゆる手段を用いた、怪しげな宗教にも帰依した、
という個性的な天皇のイメージが強くなった様子。

御霊殿前から御門を見る

御霊殿から見た書院

御霊殿前に置かれた菊の鉢植え

今回特別に拝受した御霊殿御朱印
唯、中世史家の佐藤進一氏の『日本の中世国家』では、「平安時代末より朝廷の官職は特定の家に
固定されるようになり、それに風穴を開けようとしたのが後醍醐天皇である」 と記載されています。
そうなるとまた後醍醐天皇の評価も変わってきますが、人物評は棺を覆っても定まらぬと言いますから
中々一筋縄ではいかないようです。

脇より見た御霊殿

御霊殿脇に置かれた鬼瓦

脇にあるツワブキ

同じく藤袴
[参考書]
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【往路】阿部野橋(6:50) → (近鉄電車) → 吉野(8:22)
吉野駅 → 徒歩35分 → 如意輪寺

塔尾山 椿花院 如意輪寺(浄土宗 近畿三十六不動尊霊場第三十番 役行者霊蹟札所)
駅から30分歩いた後、石段を上り山門を潜ると正面に建つのが如意輪寺本堂。
如意輪観世音菩薩を祀るので如意輪堂の別名でも知られます。

山門近影
向こうに見えるのが本堂。

境内の眺め
正面奥は書院と受付。
如意輪寺は後醍醐天皇に拠って勅願寺になりましたが、
『後村上天皇の時、高師直を大将に足利氏の大軍が京から攻勢を掛けた。正平2年(1346年)12月27日、
楠木正行(くすのきまさつら)は一族郎党143名と共に行宮に参内し天皇と今生の別れをした後、
如意輪寺に詣で先の天皇の御陵に参拝。如意輪寺本堂に髻(もとどり)を切って仏前に奉納、
過去帳に姓名を残し、正行公が正面の扉に鏃を以て辞世の歌を刻んだ。
・かえらじと かねておもえば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる

本堂正面
寄棟造檜皮葺である。

本堂前面の向拝

向拝の欄間の彫刻は迦陵頻伽か?

本堂屋根の菊水の家紋
言わずと知れた楠木家の家紋である。

如意輪寺由緒記
そうして出陣した正行勢も、奮戦虚しく大軍の前に敗北。弟正時と共に23歳を一期として討死。
これが四條畷の戦いである。
江戸時代の慶安3年(1650年)、文誉鉄牛上人に拠り中興され真言宗から浄土宗に改宗。
公の辞世を刻んだ扉は、その際に外され現在は宝物殿に保存されている。』 とあります。
南朝との所縁が深いとはいえ、辞世の歌の扉を始め、髻を埋めた塚や碑文、
妻となる筈だった内侍の髪を埋めた塚など当寺は正に小楠公・楠木正行一色の感があります。

本堂前の木斛は楠木正行公お手植えと伝わり樹齢670年

木斛の根元には後醍醐天皇腰掛石が鎮座

本堂脇に建つ石碑群

弁内侍の至情塚
後村上天皇より正行公の奥方にとの御言葉があった辨内侍だが、正行公討死の後は尼となり、その黒髪を埋めた場所とされる。

塚の説明

藤本鉄石招魂碑
天誅組総裁である鉄石を讃えた碑であるが、正行公との直接関係はない。

後醍醐天皇の御霊殿前の御門脇に建つ石碑群

埋髻の墳
正行公及び143名が四條畷への出陣に先立ち如意輪堂へ奉納した髻を埋めた場所。

小楠公髻塚碑文

碑文の説明
天寿を全うした後醍醐・後村上天皇に対し、23歳の若さで夭折した武将への判官贔屓があることは
言うまでもありません。大楠公・楠木正成の湊川の戦いもそうですが、戦略家として負けると分かっている戦に
出陣するのは納得できない面もあった筈。
出陣に際し、後村上天皇からも「必ず生きて戻って参れ。」と言う旨の御言葉を賜ったのがせめてもの救いと言えます。
辞世を残して出陣せざるを得なかったのは【時勢】には逆らえなかった故でしょうが、
もう少し【自制】すべきであったかもしれません。やはり建武の【忠孝】のせいでしょうか?

楠公父子像
有名な「櫻井の子別れ」の場面。多宝塔近くにあるが、かなりデフォルメされた形に見える。

父子像の説明

鐘楼前にある退色した正行公の顔ハメ

如意輪寺説明書

如意輪寺オリジナル御朱印帳(表面)
大判(180×120㎜)タイプで、紺と桃の2種類。

御朱印帳(裏面)

如意輪寺御朱印
いずれも本堂だが、左のタイプは現在は行われていない様子。

本堂前の不動堂
難切不動尊を祀る。近畿36不動尊第30番霊場。

不動堂御朱印

山門脇の幽香楼(ゆうこうろう)
拝観はしていない模様。
[参考書]
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楠木正行・正儀:この楠は正成が子なり、正行が弟なり (ミネルヴァ日本評伝選220) 新品価格 | ![]() |

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【往路】阿部野橋(6:50) → (近鉄電車) → 吉野(8:22)
吉野駅 → 徒歩35分 → 如意輪寺

塔尾山 椿花院 如意輪寺(浄土宗 近畿三十六不動尊霊場第三十番 役行者霊蹟札所)
ここ最近の巡礼は南河内・和泉で南朝に関わりの深い寺社が多数。
そこで画竜点睛を欠く事がないように南朝所縁の吉野へ。
始発の阿部野橋駅6:50の最初の急行でしたが車内は結構な混雑。
「皆、吉野入りかしらん?」と思っていましたが、殆どが下市口で下車。
大峯山や大台ヶ原への登山客のようです。吉野駅には8:22着。
近鉄の終着駅ですが、吉野観光への最寄りと言う事で吉野杉の立派な看板や、記念乗車券も販売。
9時前にも拘らず、駅前の土産物店は皆開いており、こちらも甘味で腹ごしらえ。

吉野杉で出来た立派な駅の看板

運よく?台紙付き記念乗車券を販売中

台紙の裏面

駅前のお店で一服

桜餅1個+草餅2個を食べていざ出発!
そこからは坂を上って黒門、蔵王堂を経て中千本付近で川を挟んだ反対側の山の中腹が目指す如意輪寺ですが、
山の上り下りを考えると60分以上は掛かりそう。
ところが駅前の案内図を見ると川沿いに遡るルートがあると分かり、そちらを選択。
しかし町営住宅・吉野温泉元湯の他は人家もなく、観光客の姿は全くなし。
熊に出会ったらどうしようかと心配しましたが、運よく鹿が4頭横切っただけでした。

駅前に立つ天武天皇の吉野を詠んだ歌碑

万葉仮名で犬養孝先生の揮毫

道の途中に建つ吉野温泉元湯
周囲に人家は全くないが、車が結構駐車しており宿泊者は多そう。

元湯館の外観
その甲斐あって35分で如意輪寺着。途中からは車も通らぬ坂道となりましたが、
看板には「後醍醐天皇が歩かれた道」とあります。
帝は普通、牛車か輿に乗るものだろうと思いましたが、倒幕失敗後は、流された隠岐の島から脱出した帝の事。
これくらいの道は何でもなかったでしょう。

川沿いを坂道を上る
塔尾山椿花院如意輪寺(とうのおさんちんかいんにょいりんじ)は、
『延喜年間(901~923年)醍醐天皇が帰依された日蔵道賢上人に拠り創建。元弘3年(1333年)、
鎌倉幕府を倒して建武の新政を始めた後醍醐天皇は、足利尊氏との争いに拠り京より吉野山へ行幸。
如意輪寺を勅願寺と定めた。
その後の4年間を吉野山で過ごされた後、延元4年(1339年)の9月27日に後村上天皇に位を譲り52歳で崩御。
「身はたとえ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」
という辞世の御言葉に従い、如意輪寺裏山に京都の方向を向いて葬られた。
これが塔尾陵(とうのおのみささぎ)である。』 とあります。

「後醍醐天皇の歩かれた道」を通り如意輪寺へ

途中、「後醍醐天皇の歩かれた道」を振り返る
以前に訪れた吉水神社が南朝行在所だったので、てっきり帝もそこに葬られたと思っていましたが、
実は反対側の如意輪寺。帝の遺言に従って北向きに陵を作ったからと思います。
都を逃れたとはいえ、帝の御意には従う必要があったのでしょう。
それにしても醍醐天皇の時代に創建した寺院に、後醍醐天皇が入ったと言うのも不思議な縁を感じます。

寺院へ続く曲がりくねった道

山門に続く階段下へ到着
[参考書]
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<コース> 阪堺電車は12分間隔で運転
【往路】天王寺駅前(8:18) → (阪堺電車) → 御陵前(8:56)
御陵前 → 徒歩5分 → 臨江寺 → 南宗寺 → 大安寺 → 徒歩5分 → 少林寺 → {かん袋} → {河合堂} → 徒歩7分 → 千利休屋敷跡 → 徒歩5分 → 顕本寺 → 祥雲寺 → 徒歩3分 → 開口神社 → 徒歩10分 → 妙国寺 → 徒歩3分 → 本願寺堺別院 → {つぼ市製茶} → 徒歩3分 → 神明
【復路】神明(15:18) → (阪堺電車) → 天王寺駅前(15:49)

紀州街道に沿って老舗和菓子店が並ぶ
利休の縁で茶道も有名な堺ですが、菓子の町でもあります。茶道には和菓子が付くので当然ですが、
未だ砂糖が高価であった戦国期に海外貿易で砂糖や異国の珍味を入手できた影響もあったのでしょう。
堺出身の与謝野晶子の実家も駿河屋という老舗の和菓子店でした。
今でも市内のあちこちには洋菓子店と並んで和菓子店が点在。
行った先の近くにあると言う事、値段が手頃というのが、大きな特色でしょうか?
午前中は、南宗寺拝観の後、新在家東の「かん袋」で一服。
『かん袋は、鎌倉時代末期の元徳元年(1329年)に和泉屋徳兵衛が和泉屋と言う商号で御餅司の店を開いたのが始まり。
五代目の忠兵衛が明国より堺に入荷した農作物を利用して、塩味で挽き合わし餅を包んで茶菓子を創案。
久留美(くるみ)餅と名付ける。
その後、呂宋(るそん)から輸入された砂糖に拠り甘味が加えられ現在のくるみ餅が出来上がった。
豊臣秀吉の時代の当主・徳左衛門は文禄2年の春に堺衆の一人として築城中の大坂城へ招かれるが
腕力に自信のあった徳左衛門は天守閣の瓦を次々と屋根に向かって放り上げた。
紙袋が舞い上がる様な光景を見た人々は感嘆し、それを見た秀吉は
「かん袋が散る様に似たり。以後、かん袋と名付けよ。」と命じた。
これが和泉屋の商号が「かん袋」となった経緯である。現在まで二十七代を数える。』 とあります。
創業690年の老舗ながら敷居の高さは感じられず、気軽に入店できるのも魅力です。
茶の湯文化の堺で草庵で用いる菓子を【創案】したもの成程ですが、商号の由来にもあるように
伝統から思い切った飛躍をする歴代当主の行動にも感心します。持ち帰りの壺入くるみ餅が有名ですが、
店内でも食する事ができ、1皿5個で¥400、10個で¥800がメイン。リーズナブルも魅力でした。

「かん袋」外観
少林寺から阪堺電車に向かう中間程に建つ。

かん袋名物・くるみ餅
これは5個 ¥400のもの。
開口神社には、かつて境内で「大寺餅」というあんころ餅が売られていましたが、
今は販売されていません。
そこで阪堺電車の線路を渡り、製造元の少林寺町西の「大寺餅 河合堂」へ。
店内で食べる事はできないので、土産用を3個¥500で購入。

「大寺餅 河合堂」 外観

店内にある大寺餅由緒記

土産は「大寺餅」3個入りを購入
別院参拝後は、阪堺電車で帰路につきますが、線路東の九間町東にある「茶寮 つぼ市製茶本舗 堺本館」で3時のおやつ。
大通りに面していますが、元禄時代の町屋をリノベーションした趣のある店舗となっています。
ここのメインは抹茶なので酷暑の時期なら抹茶金時を注文する所ですが、今回は特選抹茶パフェ(¥990)を注文。
坪庭を見ながら【まっちゃ】りしたひと時を過ごしました。
この日は三軒でしたが、甘味処はどこも結構な来客。下火になったとはいえ、この時期にとは思いましたが、
どこも【蜜】を避けてくるみ・餡子・抹茶だったので安心しました。

紀州街道に面した「茶寮 つぼ市製茶本舗 堺本館」

特選抹茶パフェ ¥990
[参考書]
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ニッポン全国 和菓子の食べある記: 高島屋・和菓子バイヤーがこっそり教える郷土の和菓子500品 新品価格 | ![]() |

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<コース> 阪堺電車は12分間隔で運転
【往路】天王寺駅前(8:18) → (阪堺電車) → 御陵前(8:56)
御陵前 → 徒歩5分 → 臨江寺 → 南宗寺 → 大安寺 → 徒歩5分 → 少林寺 → 徒歩7分 → 千利休屋敷跡 → 徒歩5分 → 顕本寺 → 祥雲寺 → 徒歩3分 → 開口神社 → 徒歩10分 → 妙国寺 → 徒歩3分 → 本願寺堺別院 → 徒歩3分 → 神明
【復路】神明(15:18) → (阪堺電車) → 天王寺駅前(15:49)

本願寺堺別院(浄土真宗本願寺派)
妙國寺から北東に数百m行くと、一際大きな伽藍が目の前に。
『堺御坊・北の御坊と呼ばれる本願寺堺別院は、別名樫木屋(かしぎや)御坊の遺跡と言われ、
南北朝時代の道祐二(どうゆう)の創建。道祐は足利義氏の四男で堺に来住し出家、
初め天台宗を学んだが本願寺3世覚如に帰依して浄土真宗に転じた。

宝暦2年(1752年)建築の山門
切妻造・瓦葺、桁行一間の四脚門である。西向き。

由緒記

山門の北にある御成門

御成門の北に続く太鼓楼
外観三層の入母屋造・本瓦葺、江戸時代後期の造りとされる。
道祐5世道顕(どうけん)は文明8年(1476年)、本願寺8世蓮如の住居として境内に信証院(しんしょういん)を
建立し御坊とする。それに対し蓮如は開基道祐の影像を免許した。
文明11年(1479年)堺の坊舎は、前年から造営に取り掛かった山科本願寺に移転。
堺の坊舎が再建されたのはかなり後になっての事である。
更に13世乗珍(じょうちん)に至り、寛文3年(1663年)寺地を西本願寺に寄進、以来別院となった。
明治4年(1871年)には当院を堺県庁に貸与、翌々年には宿院町東の今井屋敷跡地に移転したが、
1881年の堺県廃止に伴い復帰した。

山門の扉の菊の彫刻

山門正面に建つ本堂
本願寺御大工水口一門の手になる。

北側からの本堂近影
前の向拝は本山に準ずる三間、桁行9間、梁間11間の規模は堺市内最大。

本堂の前面

本堂の庇部

本堂前より山門方面を望む
本尊阿弥陀如来像は元聖徳太子作と伝えられ、江戸築地本願寺に移された。
現在の仏像は本願寺12世准如作とされ、彼の時代に本堂も再興された。
現在の本堂は寛政10年(1798年)に焼失の後、第19世本如の文政8年(1825年)に再建されたもので、
京都西本願寺と全く同じ設計である。
昭和20年の堺空襲にも奇跡的に焼け残り、木造建築物としては堺最大の規模を誇っている。
境内の建物は歴史的価値が高く、平成13年には梵鐘が、平成31年には本堂を始めとする9棟が
堺市指定文化財となった。』 とあります。

本堂の南側を通り蓮如堂へ

本堂南廊下から見た蓮如堂拝殿

正面から見た蓮如堂拝殿
奥に見えるのが蓮如堂。

拝殿唐破風の彫刻

蓮如堂
真宗の寺院が大きいのは各地で目にしているので驚きませんが、堺では周囲の寺院が小さいので
その大きさが一層際立つのでしょう。明治に入り堺県庁に貸与されたのもその立地と壮大な伽藍故。
しかも先の大戦での被害を免れているのも市内では貴重。
信者ならずとも境内や堂内を自由に拝観できるのも他の真宗寺院と同じでした。

1798年の火災を免れた方一間の鐘楼
梵鐘は大坂夏の陣後の堺奉行・長谷川藤広が念仏寺(開口神社神宮寺)に寄進したもので、元和3年(1617年)の銘がある。

山門脇の経蔵

本堂屋根の獅子?の鬼瓦

山門下に建つ堺県庁址の石碑
本堂の内陣は煌びやかに装飾されていましたが、その奥には獄彩色の襖絵が。
内容は戦国時代の堺の南蛮貿易を描いたもの。信徒と思しき家族がその前で記念撮影をしていたので、
堂内に居られた若い僧侶に撮影の可否を尋ねるとOKでした。
ガイド等には載っている事の少ない寺院ですが、堺観光の締めを飾るに相応しい参拝となりました。

煌びやかな本堂内陣

内陣の扁額は「信證殿」

内陣の欄間彫刻は金色の牡丹と極彩色の天女

向かって右側の襖絵

堺港に入る南蛮船と灯台

南蛮人の服装

向かって左側の襖絵

本願寺 堺別院 説明書
[参考書]
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完訳フロイス日本史〈1〉将軍義輝の最期および自由都市堺―織田信長篇(1) (中公文庫) 新品価格 | ![]() |

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【往路】天王寺駅前(8:18) → (阪堺電車) → 御陵前(8:56)
御陵前 → 徒歩5分 → 臨江寺 → 南宗寺 → 大安寺 → 徒歩5分 → 少林寺 → 徒歩7分 → 千利休屋敷跡 → 徒歩5分 → 顕本寺 → 祥雲寺 → 徒歩3分 → 開口神社 → 徒歩10分 → 妙国寺

広普山 妙国寺(日蓮宗)
妙國寺は蘇鉄に加え、幕末の堺事件の舞台としても知られます。
『慶応4年(1868年)2月15日、フランス軍艦デュクプレス号が堺沖に回港し、数十名が上陸した。
当時の堺の町は土佐藩の兵士が警備していたが、フランス人水兵を船に戻すべく説得しようと出勤した。
しかし言葉が通ぜず、水兵が隊旗を奪う等したため11名を殺傷する結果となった。
諸外国はこれに強く抗議、下手人である隊長以下隊員全員の斬首、土佐藩が15万ドルの賠償金を支払う等、
5項目の要求を明治政府に要求。その結果、箕浦・西村両隊長以下20名が妙國寺で切腹する事になった。

妙国寺駒札に記載された「堺事件」

妙国寺北側に建つ「ひらがな書き」の石標
切腹には日仏代表が立ち会ったが、凄惨を極める光景となり、11名が切腹した所でフランス側も遂に
残りの者の助命を乞うて引き上げた。
切腹した11名は妙國寺の筋向いの宝珠院に埋葬され、残った9名は土佐に流罪となった。
後日、山内容堂は宝珠院に十一基の墓を建て、法名・実名・行年・辞世を刻して追悼している。
大正5年(1916年)に仏首相クレマンソーは、戦死仏兵の碑を並び建てる事を条件に、十一士の顕彰碑を
妙國寺に建てる事を承諾。十一士は靖国神社にも合祀されている。』 とあります。

道路を挟んだ石標の北側には宝珠院が建つ

宝珠院由緒記駒札
こちらの寺院は拝観しておらず。
堺事件に関しては大正3年(1914年)に森鴎外が発表した『堺事件』が有名で、これが史実に近いとされますが、
大岡昇平は、それに疑問を持ち『堺港攘夷始末』を書いています。
鴎外の本業は医学者、大岡も日本地質学会会員でしたのでデータ史料の扱いは【知悉】していた筈。
果たしてどちらが真実に迫っているのかは、どちらに無理が少ないかで判断すべきではないでしょうか?
切腹の場面では武士道の潔さを体現した土佐藩士と、途中で退席したフランス兵が対照的ですが、
両方の死者が11名に達したので取り止めたという判断も可能です。
唯、安政条約で不平等条約を結ばされた我が国としては、単に諸外国の言いなりになるのではなく
一矢報いたいという気概があったとは言えそうです。

妙国寺境内にある土佐烈士供養塔

供養塔近影
向かって左に土佐烈士、右に仏蘭西将兵の供養塔が建つ。土佐烈士の方が若干大きい。
[参考書]
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【往路】天王寺駅前(8:18) → (阪堺電車) → 御陵前(8:56)
御陵前 → 徒歩5分 → 臨江寺 → 南宗寺 → 大安寺 → 徒歩5分 → 少林寺 → 徒歩7分 → 千利休屋敷跡 → 徒歩5分 → 顕本寺 → 祥雲寺 → 徒歩3分 → 開口神社 → 徒歩10分 → 妙国寺

広普山 妙国寺(日蓮宗)
西門より本堂を望む
商店街で昼食を済ませた後は、もう一つの拝観寺院妙國寺へ。
阪堺電車には「妙国寺前」という駅がありますが、お寺はそこから南東に300m程。
広普山妙國寺(こうふさんみょうこくじ)は、
『永禄4年(1561年)、摂河泉を領した三好義賢(実休:じっきゅう)が京都頂妙寺の日珖(にっこう)に帰依。
一族を日蓮宗に改宗させ、東西3丁・南北5丁の土地、寺領五百石、及び阿波より移植した蘇鉄の大株と共に
寄進した事に始まる。日珖は堺の油を扱う豪商伊達常言(じょうごん)の次男で、頂源寺(現在の長源寺)にて出家。
京都・奈良に遊学しその該博な知識と徳行で知られた高僧である。

由緒記駒札

北側に建つ「土佐烈士の案内石碑」
しかし翌永禄5年、義賢は久米田の戦で志半ばにて戦死、日珖はその死を悼み懇ろに供養した。
境内には義賢の墓がある。因みに義賢の戒名は妙國院殿光徳實休と言う。
永禄9年(1566年)、日珖は父常言から寄進を受け、兄常祐の協力も得て伽藍造営に着手、
義賢念願の寺は同11年(1568年)にその完成を見る。日珖は頂源寺開祖の院号から広普山妙國寺と名付け開山となり、
学問所を設立して法華経と天台教学を講じた。天正11年(1583年)頃には壮大な寺観を呈した。
また日珖は天正7年(1579年)に織田信長が命じて安土の浄厳院で行われた所謂安土の宗論に
法華宗側代表として参加し、浄土宗側と問答した人物である。この宗論は日蓮宗側の敗北に終わったが、
これは勢力を広げていた日蓮宗の弱体化を狙った信長の策謀とされる。その経緯は「安土問答」に詳しい。

北側から山門越しの本堂の眺望

山門と両脇の仁王像

山門近影
元皇室勅願所のため菊の御紋が掲げられている。
天正10年(1582年)の本能寺の変には、徳川家康が穴山梅雪と共に堺に滞在。一度は信長の同盟者として
切腹しようとしたのを思い止まり、当寺で茶を一服してから伊賀越えを経て三河に帰ったと伝えられる。
また1585年、豊後の大友宗麟が四国征伐の秀吉を助けた時、ここで宿泊した。
妙國寺は開創以来二度の戦火に見舞われている。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣では豊臣方武将の大野治胤が堺に火を放った為に寺院町屋一万戸が焼失。
妙國寺も堂宇伽藍が悉く灰燼に帰した。
戦後、幕府は長崎奉行の長谷川藤広に堺奉行を兼務させ、家臣風間六右衛門が地割を担当。
妙國寺は北之庄の寺領から現在地に移転、庫裏が元和2年(1616年)、寛永4年(1627年)に本堂、
万治元年(1658年)に三重塔、寛文2年(1662年)に表門、同5年(1665年)に書院、元禄9年(1696年)に宝蔵、
正徳元年(1711年)には客殿と鐘楼がそれぞれ再建された。

正面より見た本堂
朱塗りの堂々たる造りだが、昭和48年(1973年)の再建。

南側から見た本堂
寛永年間の記録では十坊があったと記され、明治の明細帳に拠れば寺域は3151坪であった。
江戸時代には靈元天皇の勅命に拠って、江戸末期まで歴代貫主が勅願所として国土の安穏と天皇家の長久を祈った。
その伽藍も昭和20年(1945年)7月10日未明の堺の大空襲で大部分の伽藍が再び灰燼に帰す。
現在の本堂は昭和48年(1973年)に客殿と共に再建されたものである。

本堂右手に建つ宇賀徳正龍神を祀る徳正殿
当寺には創建時に寄進された蘇鉄が今も境内に植生しており、高さ7m・周囲17mの大蘇鉄で国の天然記念物。
天正4年(1576年)、織田信長は噂に名高い妙國寺の大蘇鉄を完成したばかりの安土城に運ばせ、
諸大名と酒宴を開き悦に入っていた。
しかし数日後、夜な夜な蘇鉄の株から「妙國寺に帰りたい!」と声が聞こえるようになった。
信長は激怒し、家臣に切り倒す様に命じたが、切り付けると幹から鮮血のような液が流れ家臣が苦しみ出した。
この光景を見た信長は直ちに蘇鉄を妙國寺に返したと言う。
堺に戻った蘇鉄は傷だらけで枯死寸前であったが、日珖上人が蘇生を願って日夜法華経を読経、
その夢枕に宇賀徳正龍神現れ鉄分を埋めるように告げたので、それに従った所、蘇鉄は見事に蘇生したと言う。
現在、本堂の奥にある大蘇鉄の周囲には新たに十数本の蘇鉄が植えられ、岩組と白い敷砂利が
枯山水風に配されている。』 とあります。

天然記念物 妙国寺の大蘇鉄
本堂の廊下の南側に見えるが撮影禁止。これは境内の案内板から。

妙国寺庭園
こちらは本堂の東側にある。これも案内板から。

境内西側の客殿脇にも蘇鉄が
妙國寺には三好・織田と戦国を代表する武将が登場しますが、前者が日蓮宗に帰依したのに対し、
後者はあくまで敵対とその関わり方は正反対。ここ妙國寺について信長はあくまで悪者で三好は善者。
古い気質を持っていた三好と、合理的でなければ古いものを容赦なく破壊した信長の差とも言えましょう。
下克上の典型の様に言われる三好ですが、堺の町衆の印象は良好なようです。
これも本人よし・町衆良し・世間体良し、と言った【三好】の政を実践したからでしょうか?

境内に建つ開祖・日蓮上人像

蘇鉄越しに見た本堂と徳正殿
三好以上に有名なのが霊木・大蘇鉄。
「夜泣き蘇鉄」として夙に有名ですが蘇鉄が話す筈もなく、太宰府の飛梅と同様の伝説でしょう。
案内して頂いた方は、蘇鉄の内部の空洞に風が当たった音が「堺に帰りたい!」と聞こえたのではないかとの事。
私的には
『大蘇鉄を安土に持って来たものの、直ぐに飽きてしまった信長が「用なき蘇鉄じゃ、返して参れ!」と堺に戻した。
堺の人にとっては喜ぶべき事でしたが、飽きられて返されたというのも癪に障る話。
そこで「用なき蘇鉄」を「夜泣き蘇鉄」としたうえで、信長が蘇鉄の怨念に怯えたと言う話を脚色した。』
と天下統一の権力者にも屈しなかった堺の反骨精神の表れと勝手な想像をしてしまいますが…。

本山 妙国寺縁起

妙国寺御朱印

堺材木町郵便局 ; 堺旧式灯台、妙国寺の蘇鉄
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開口神社(式内社 旧府社)
これは東側の朱の鳥居
枯山水庭園を見たあとは、丁度昼時。堺山之口商店街に良い店があるそうなので、そちらへ向かいましたが、
宿院駅の東側、旧堺の中心山之口筋に位置するのが開口神社。
堺の総氏神として「大寺さん」の通称で広く親しまれています。
私は朱塗りの鳥居の建つ東側から境内に入りましたが、本来は石の鳥居の建つ西側から参拝するのが正統。
海に所縁の神様なので海側からお参りするのは当然です。

山之口商店街に面した石の鳥居
こちらが正面。

石の鳥居向こうに見える朱の鳥居
開口神社(あぐちじんじゃ)は、
『神功皇后が三韓より石津浜に上陸され、塩穴松原にて忍熊王(おしくまのみこ)の反乱を平定すべく
戦勝祈願の祈祷をした折、老漁師が赤目魚(鯛)を献上した事を吉祥の証と喜ばれ、
「八重潮路に向かう地に、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)の御魂をお祀りせよ」
との詔に拠り創建。
この神はそれまで口を開けた事がなかったが、神功皇后が神撰を奉ったところ初めて口を開いたと言われ、
神社の名はこの伝説に由来するとされる。

由緒記と御祭神

北側からの境内の眺望
平安後期にはここ開口村の家並みも増え、天永4年(1113年)に木戸村の素戔嗚神、原村の生国魂神を合祀。
三村の神社の併合に拠り、三村宮または三村明神と称され信仰も広まった。
祭神の塩土老翁神が住吉大社と関係があった事から、住吉奥之院・外宮と呼ばれる程、両社は深い繋がりを持った。
境内には住吉大神が降臨された場所と言い伝えのある影向石が今も残る。
朝廷に拠って20年毎に式年遷宮が行われる他、6月晦日には住吉大社の神輿が堺の浜に出御、御祓いが行われる。
その仮宮が宿院頓宮である。

南側より見た本殿
昭和36年(1961年)の再建。

東から見た本殿
天平18年(746年)、行基に拠り密乗山念仏寺が建立、神仏習合の霊地となった。
当社を「大寺さん」とも呼ぶのもこれに由来する。
その後、室町時代の応永32年に朝廷の祈願所、同34年には幕府の祈願所にもなり堺の町と共に発展した。
太平洋戦争の空襲で焼失するまでは、三重塔を始めとする建物も多く残っていた。

扇塚(芸能神)
11月初旬に芸事、習い事の上達を願い使い古した扇を供養する扇まつりをこの塚前で行う。

歌塚(敷島会歌碑)

影向石
御祭神の開口大神が御影向の際に、ここに腰掛けたと言われる。
古来よりの勅願所のため公武の崇信篤く寄進された宝物も数多い。土佐光起筆の大寺縁起絵巻、
伏見天皇宸翰御歌集冬百種、粟田口派の刀工藤四郎吉光銘の短刀はいずれも重要文化財となっている他、
中世以来の古文書は開口神社文書として重要な歴史資料となっている。
この他、境内入口には金龍井(海会寺井)が、更にかつて境内に設置された女紅場(現泉陽高校)、
府立第二尋常中学(現三国丘高校)、私立堺幼稚園の発祥の碑が建つ。』 とあります。

茶室「無礙庵」 (再建)
千利休の師、武野紹鷗好みの茶室である。

本殿奥(北側)にある薬師如来を祀る薬師社と摂社

西側にある金龍井

金龍井と湧き出す水

泉陽高等学校発祥之地

三国ケ丘高等学校発祥之地
今は左程感じませんが、かつては広大な境内を有していた神社。
いまは他所にある旧制中学・女学校が境内にあった事実でもそれが分かります。
旧街道に近い場所にこれだけの社域を持つからには、町の崇拝を一身に集めたからに他なりません。
境内には様々な建物や碑がありましたが、気になったのは社紋。初めは三つ巴と思いましたが、良く見ると三つ茄子。
何でも白鳳年間に氏子より一つの蕚に茄子が三つできたものを瑞祥として奉納されたものだそう。
徳川家康の好んだものに、「一冨士、二鷹、三茄子」がありますが、徳川嫌いが多い大阪でそれはなし。
泉州は水茄子で有名ですが、堺は三つ茄子に変わるのかもしれません。

開口神社(大寺さん)由緒書

開口神社御朱印
秋の特別バージョンだそう。
またここは歌人与謝野晶子の生家に近く、幼少期にはよくこの神社で遊んだとか。
その縁で晶子が詠んだ歌で恋の行方を占う「晶子恋歌みくじ」が用意されています。
これが【みくじヶ丘】の由来とは思いませんが、御神籤のパワーは凄い人気の様子。

境内に建つ与謝野晶子の歌碑
私も御利益にといきたい所ですが、参拝後は商店街にある「れすとらん浪花亭」へ。
昭和20年から続く老舗でハンバーグが絶品ですが、味とボリュームの割にはりーずなぶるな値段。
やはり色気は食い気には勝てないようです。

れすとらん浪花亭

この日の昼食
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龍谷山 祥雲寺(臨済宗大徳寺派)
歴史のある祥雲寺ですが、境内の建物は戦後の復興で古いものはなし。
戦火を免れた絵画も普段は公開していない様子。
そんな中で、唯一と言える見所が方丈前にある枯山水庭園。
『当寺の庭園は京都大徳寺方丈南庭を造った当山二世の天祐禅師の作。大徳寺の庭と類似する点が多く、
背後の土塀は俗に「屏風塀」と呼ばれる。空襲で焼失したが、残った岩組みを元に一耕師が再現整備した。

山門脇に建つ名勝「祥雲寺庭園」の石標

西側入口から見た枯山水庭園と方丈(左)
石組みは冨士石を初め鶏冠石・霊芝石・臥牛石・枯滝等を配し、江戸初期の特色を持った
禅院枯山水庭園として名高い。最も古い部分は、向かって左側にある二つの集団石組で、
左は須弥山形式、右は冨士石を中心とした蓬莱山形式をとり、そこに観賞の重点を置いている。
このような集団石組は室町末期から桃山時代にかけて全盛を見た様式である。』 とあります。

枯山水庭園近影

向かって左にある最も古い集団石組
左は須弥山、右は蓬莱山形式とある。

庭園と背後の屏風塀

向かって右側の集団石組と蘇鉄の植込み
木々に囲まれた参道を抜けると正面に建つのが本堂(方丈)。その右手(南側)が庭園のようですが、
勝手に見て良いものかどうか。迷っていると礼服姿の人が行き交って、法要を執り行う様子。
運よく、お寺の関係者らしき女性が通られたので尋ねると、
夫人;「どうぞ御自由にご覧下さい。」
と法要にも拘らず快諾して下さいました。
和辻;「御朱印も御願いできますか?」
夫人;「書置きですが、日付を入れて直ぐお持ちします。」
と嬉しい返事。御住職が直接持って来られたので、
和辻;「法要の最中に申し訳ありません。」
住職;「いいえ。零細寺院ですからお気遣いなく。」
繊細な心遣いに感動しました。

東側からの庭園の眺望と方丈(右)

方丈東側からの眺望

方丈の東側にて

方丈北側の「亀の庭」
ついでにお寺の説明書も頂き、それと比べながら庭を鑑賞できたのは言うまでもありません。
瓦を埋め込んだ塀が庭園を引き立てていると改めて感心しました。
唯、塀の向こうには高いビルが林立。堺の中心部なので当然とは言えますが、
その辺りが京都の寺院の借景との違いかと良い【借景】勉強になりました。

祥雲寺説明書

祥雲寺御朱印
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龍谷山 祥雲寺(臨済宗大徳寺派)
フェニックス通りを今度は北へ向かうと、瓦を埋め込んだ築地塀に囲まれた寺院が目に入ります。
南宗寺同様、大坂夏の陣での瓦の残骸を再利用したものでしょうか?
龍谷山祥雲寺(りゅうこくざんしょううんじ)は、
『俗称松の寺と言い、豪商谷正安(しょうあん)を開基、沢庵宗彭(たくわんそうほう)を開山とする。
徳川時代初期、沢庵に帰依する正安は夭折した子供の菩提の為に寺院創建を発願したが、
その頃、新地での寺院建立は禁じられていた。
折しも大坂夏の陣で焼失した南宗寺の復興に尽力していた沢庵は、同じく夏の陣で焼失した海会寺を
南宗寺山内に移転再建。その跡地に新寺を建立することにした。

祥雲寺由緒記

築地塀越しに見た境内

東側の築地塀は少し高い
寛永2年(1625年)から同5年にかけて正安は海会寺跡地に方丈、庫裏などを造営。
瑞泉寺と号して沢庵を勧請開山に迎えた。これに伴い南宗寺と法類の縁が結ばれた。
その後、寛永9年に祥雲庵、同16年には祥雲寺と名を改めた。
正保2年(1645年)12月に沢庵が示寂後は、暫く無住であったが、万治元年(1658年)に
第二世天祐紹果(てんゆうしょうか)が入山。以後、伝外宗佐、天倫宗忽と続いた。
元禄2年(1689年)、京都大徳寺大仙院派の輪住地となり伝心宗的が入山、この時大仙院の末寺になった。
輪番は明治まで続き明治以降一代住職制となった。また三代将軍家光の時から幕府巡見所の一つとなっている。

重要文化財・絹本着色沢庵像 「大阪府歴史散歩 下」 の口絵より引用
谷正安が沢庵の肖像を写し沢庵が賛を付す。使用した布は「祥雲布」と呼ばれる。

西門から参道を進む

正面に建つ方丈

南から見た方丈(本堂)
本尊は観世音菩薩。吉野の山林王北村又左衛門氏等の寄進で、昭和27年再建。
創建後、寺域は逐次整備され、仏殿・開山堂(昭堂)・鐘楼・小方丈などが建立された他、
冷泉庵・江岩庵・妙玄庵等の塔頭が創建されている。これら壮大な寺域は太平洋戦争の空襲で全て灰燼に帰したが、
絹本着色沢庵和尚自讃画像、土佐光長筆と伝わる絹本着色釈迦二声聞像などが伝わっている。
戦後の昭和21年(1946年)に一耕宗純が入山し再興に着手。没収された寺地の払い下げに始まり、
昭和23年(1948年)に歓喜天堂、同27年(1952年)に方丈を建立、現在の寺域がほぼ完成する。
昭和62年(1987年)には新たな庫裏が落慶した。』 とあります。

方丈手前の井戸

境内の石灯籠
沢庵の供養塔である寂然塔と思ったが…。

かつての仏殿跡・昭殿跡
創建の経緯は、子供の菩提を弔おうとした豪商と寺の再建を目指した僧侶の【そうほう】の思惑が一致した事。
美談的な由緒ですが、まさか何か【たくわん】だ訳ではないでしょう。経済力だけ、宗教心だけでは駄目と言う事です。
名僧が開山にも拘らず、以後の祥雲寺は【迷走】。無住や空襲などの試練を受けますが、都度復帰。
由緒記には、その時々の住職と援助した在野の方々が記されています。
戦後の復興に吉野の山林王北村一族の浄財があったのはその一例。創建時の精神がずっと継承されているようでした。

歓喜天堂
堀畑氏他の寄進に拠る。方丈落慶までは仮本堂として用いられた。歓喜天の他、「朱銀の石」を祀る。

堺出身の大野翠峰(明治24年~昭和44年)の句碑
俳人としての創作に加え、文化財保護委員として郷土史を研究した。
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常住山 顕本寺(日蓮宗)
利休旧宅跡からフェニックスという名の大通りを東へ500m程行き、少し南に入った場所が顕本寺。
門前に立つとお寺と言うよりも豪邸の門の様な造りです。
それにしても高野街道と交差する通りの名がフェニックスとは!
椰子の並木というよりも度々の戦災から不死鳥の如く復活したからの命名でしょう。
常住山顕本寺(じょうじゅうさんけんぽんじ)は、
『戦国末期には三好氏の保護の下、七堂伽藍が整備されていた。
寺域は現開口神社の地にも及び、その広大さは当時のこの寺の勢いを示している。
三好元長が細川晴元に味方した一向宗門徒に包囲されて切腹したのも当寺境内である。

顕本寺由緒記

山門より見た境内
また、現在の小唄の始祖・高三隆達(たかさぶりゅうたつ)の墓も境内にある。高三家は小西行長の
本家同様の薬種商で、末子であった隆達は父親が隠居所としていた顕本寺境内の自在庵を相続していたが、
本家の兄が亡くなった際にその幼い子の後見人として還俗し余生を送った。
この間、隆達は「隆達節」と呼ばれる独特の小唄を歌い、貴賤を問わず歌わぬ者がなかったと言われる程大流行した。
その歌詞は多分に中世小唄の影響を受け、加えて和歌・連歌の知識も入っており隆達の教養が伺える。
三好氏の臣下に松山新介という堺出身の小唄の名人が居たと『太閤記』にあり、また中小路という人物が
日本に初めて三味線を伝えたとの俗説もあり、音曲における堺の役割は大きいものがあった。』 とあります。
堺は茶道では有名ですが、小唄にも関りがあったとは初耳。
しかし、貿易港で裕福な町衆が居るとなれば芸事が盛んになるのは博多の例でも明らか。
加えて上昇志向が強いので【隆達】したのも当然かもしれません。

朱色が映える近代的な本堂

隆達碑

小唄の始祖・高三隆達
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千利休屋敷跡
観光施設「利晶の杜」から南北の筋を挟んだ直ぐ東側にひっそりあるのが千利休屋敷跡。
『開口神社文書「念仏差帳日記」に今市町(現、宿院町)にありと記されており、今も宿院駅西側に空地として残されている。
利休は魚屋(ととや)の屋号を持ち、本名を田中(納屋)与四郎と言う豪商であった。初め北向道陳に茶道を学び、
後に武野紹鴎に師事し、南宗寺の大林宗套(だいりんそうとう)に参禅して宗易の号を受けた。
茶禅一味の悟りに達し侘茶を完成、同じ堺の豪商であった今井宗久の推薦で織田信長に出仕、
次いで秀吉の茶頭として仕え、正親町天皇から利休居士の号を賜った。

屋敷跡前にて

入口から屋敷内を見る
ボランティアの方が説明中。
秀吉の北野大茶会では総監督の役割を演じ、天下一の茶人として工夫を凝らし、侘び・寂の境地を極めた。
後に僭上の振舞いがあったとして秀吉の怒りに触れ、天正19年(1591年)2月28日に切腹を命ぜられた。
利休の墓は京都大徳寺内の聚光院にあるが、堺の南宗寺にはその遺髪を埋葬。
その周りに表・裏・官休庵の三千家代々の供養塔が建てられている。』 とあります。

敷地内にある利休の事績碑

碑に記された事績
堺出身の有名人も多く、千利休と与謝野晶子が双璧。その名を冠した「利晶の杜」が中心部にあり、
観光の目玉を目指している様子。他にも漫画家さいとうたかお氏や沢口靖子さんも出身者なので、
【ごる後】新たな町おこしの起爆剤になりそうです。もし堺県が続いていれば、と言うのも【仮想県】の話ではありますが…。

碑の周りには茶の木が植えられている

利休の使ったとされる井戸
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堺あれ? これ!―茶聖・千利休こと堺商人・田中与四郎宗易 その他 新品価格 | ![]() |

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