<コース>
梅田 → (大阪メトロ御堂筋線) → (大阪メトロ長堀鶴見緑地線) → 門真南 → 徒歩15分 → 三島神社

三島神社(郷社)
三島(みつしま)神社の境内には数本の楠がありますが、その中でも特に有名なのは何といっても本殿前にある大楠。
遠くから眺めてもそれと分かる巨木です。
『この大楠の木は薫蓋樟(くんがいしょう)と命名されており
薫蓋樟の名は、幕末から維新にかけて活躍した公家の千種有文の
・薫蓋樟 村雨の 雨やどりせし 唐土の 松におとらぬ 樟ぞ此の楠
と言う歌に由来。有文は村上源氏久我家の裔で左少将、代々和歌の家として知られる。

南側からの眺望
住宅の間から姿を見せる大楠。

四方八方に張出した枝

神社本殿側(後方)からの眺め

鳥居付近の別の楠
昭和13年には国の天然記念物に指定され、昭和48年には門真市の木に、平成5年には
「大阪みどりの百選」の第一位に選定された。
推定樹齢は1000年以上。樹高24m、幹回り13m、枝張り東西40mと環境庁の調査に拠って
「大阪府最大の木」と認定されている。
根元は瘤が多く、そこから四方八方に枝が張り出しており、かつては境内を越え周囲の人家や道路にまで及んでいた。
大正時代に電灯を設置する際に電柱の邪魔として枝を切ったが、その人物が腹痛を起こしたので取り止めたと言う逸話もある。
以来、切る人は居なくなったが、昭和9年の室戸台風などの暴風雨の影響でかつての樹勢は無くなっている。
かつては根元に毎年四斗樽の酒を蒔いて肥料にするのが慣例であった。』 とあります。

社務所の上まで伸びた枝

薫蓋樟の説明

天然記念物の碑

大阪みどりの百選

樟の説明
境内に入ると正面に大楠が聳えますが、唯高いだけでなく、根元から張り出した枝が伸びる様は宛ら動物。
昔の人々もその姿に生きた神の姿を見たのでしょう。
大阪府下の天然記念物の樹木は4件ですが、知名度ではここの楠に勝るものはなし。
それには千種有文が歌を詠み「薫蓋樟」などと言う雅な名前を付けた事も与っています。
建武の新政の際に後醍醐天皇の側近として権勢を振るった「三木一草」とされる人物がいましたが、
楠木正成や千種家の祖とされる千種忠顕もその一人。
千種有文が楠の歌を詠んだというのも因縁めいたものを感じます。

13mとされる幹周り

左少将の詠

樹齢1000年以上とされる幹の表面

拝殿前より梢を見上げる
楠自体は南方系の樹木ですが、河内にはここや萱島駅にも楠の古木が残っています。
いずれも人工的なものではなく、自然に生えて成長したものを周囲の人々が崇めるようになったと思われます。
楠学問という諺を出すまでもなく、楠は長い年月をかけて巨木になる樹種。
加えて樟脳の効果で虫が殆ど付かないという点も人々には畏敬の念を持たせたのかもしれません。
訪れた日は丁度クリスマス。樅ノ木に飾り付けをしてケーキを食べる家が多いですが、
こちらは楠を訪ねたクスリマスとはなりました。

中門上に伸びた枝

梢の様子

門真郵便局 ; 茨田堤碑、天然記念物・三島神社の薫蓋樟
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三島神社(郷社)
最近、テレビで大阪府の市町村を取り上げた番組がありましたが、そこでライバル関係No.1になったのが
守口市と門真市。隣接し、面積、人口、生活レベルもほぼ同じというのが余計にライバル心を掻き立てるのでしょう。
守口の由来がはっきりしないように、門真の由来も曖昧。潟沼が訛って門真となった、
船溜まりを意味する門間から生じた、寺社の門前を門間と読んだ事に由来、と諸説ありますが、
未だ決定打には至っていません。
【事実は諸説よりも奇なり】、意外とそれ以外の怪体な由緒がいきなり登場するかもしれません。

遠くからでも分かる樟の巨木
これは南側から見た所。
今月の4日に訪れた守口市の難宗寺は大銀杏で有名ですが、門真市にもそれに匹敵する巨木がちゃんと存在。
クリスマスの25日は樅ノ木に飾り付けをしてケーキを食べる家が多いですが、ちょっと趣向を変えて楠を訪ね三ツ島へ。
三ツ島は、
『村の起源は藤原期に遡るとされるが、木曽義仲四天王の一人、樋口次郎兼光の一子勝太郎が
当所の福島勝右衛門に養われたのが発展の始まり。
樋口家に拠って村の水辺に燈籠台が建てられた結果、漁獲高が増え村が富み栄え福島の名が起こった。
更に河内八ヵ庄の中で、今の大東市の氷野・赤井と共に水嶋庄と称せられた。
その後、氷野・赤井は湖の南岸陸続きとなって村を形成したが、最後まで島として残ったのが当村で、
江戸時代に入り上下の三ツ島に分かれたが、長く一村として村役も共通であった。』 とあります。

三ツ島の町並み
正面奥に見えるのが第二京阪道路。

町内を流れる水路
桜の季節にはここを和船で遊覧するとか。

門真市マンホールカード 配布場所はこちら
その場所に鎮座するのが三島(みつしま)神社、
『古来、山王権現と称したが、明治3年4月に今の社名に改称した。
創建時期は不明であるが、近隣の鶴見神社の史料には、
「後白河院の御代、近江国辻村の農民十七名が多数の人夫を随えてこの地に下向。
開村の時、日吉大社より分霊を勧請したのに始まる。」 と記されている。

道路に面した神社入口

石鳥居近影

「三島神社」の扁額
一応、三島神社が正式だが、こちらは三嶋と記載。

御祭神と由緒記
当社の史料にはないが宮座関係者には近江国の農民移住が語り伝えられており、
また安政3年の神社改築時の棟札には、近江の山王総本宮日吉大社からより分霊を勧請とあるので、
近江との関りは確実とされる。
山王社は素戔嗚尊と大巳貴命(即ち大国主命)を祀るが、明治5年郷社に列し、明治41年には
稗島(ひえじま)にある垣根神社を合祀したので、御祭神は天照大御神を加えた三柱となっている。
境内には大石燈籠があるが、これは明治初期に当村が大阪の石屋から購入したもので、
大正期までは当地の樋口家が燈明をあげていた。』 とあります。

大楠の奥にある拝殿

拝殿前から見た張出した大楠の枝と参道

拝殿の中門からの眺め
正面が石鳥居で、左は社務所。

拝殿全景
今でこそ、この付近は平地ですがかつては淀川水系が作った河内湖が広範囲を潤していました。
門真の名産とされる蓮根、慈姑もその地形を利用したもので、今でも一部には水路が残っています。
加えて付近の地名に三ツ島、二島、稗島など島の付く字が、遠く萱島まで見られるのは、
そこが湖若しくは湿地帯に浮かんだ島だった名残ではないでしょうか?

拝殿の垂れ幕に描かれた社紋
中央は「山王」の山を象ったものか?

大楠の根元に建つ朱い鳥居の稲荷末社

境内に建つ大石燈籠
家を建てるには不向きな場所ですが水運をうまく利用すれば、活発な経済活動も可能。
中世以降発展してきたのも、この地勢に拠るもの。
湿地を使って【失地】を、水運を利用して【衰運】を克服したと言えるでしょうか?

神社裏手の様子
左の石垣に沿って建つのが本殿で、右は代々神社を護った旧家に見える。

三島神社の案内と神社暦

三島神社御朱印
正に青丹よしである。
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東梅田 → (大阪メトロ谷町線) → 守口 → 徒歩3分 → 難宗寺 → 盛泉寺 → 文禄堤
或いは
淀屋橋 → (京阪本線) → 守口市 → 徒歩8分 → 難宗寺 → 盛泉寺 → 文禄堤

京街道 (東海道五十七次 五十七番宿)
守口の東西御坊に参拝し、この日の巡礼は終了。
しかし、すぐそばを東海道が通っているので、スルーするに忍びず、最後に宿場巡礼。
『文禄堤は文禄3年(1594年)に伏見城を築いた豊臣秀吉が、京都と大坂を最短距離で結び、
かつ降雨量が多い時なども使用可能な陸路が人様になった事から、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の
三家に淀川左岸の改修を命じて文禄5年(1596年)に完成させたもの。完成後は堤の上に京街道(大坂街道)を通した。

難宗寺からは文禄堤までは石段を登る

石段を登った先にある東海道(京街道)

東海道から石段を見る
かつてあった寺院に因み来迎坂と呼ばれる。
築造当初の堤の長さは枚方市から大阪市長柄までの27㎞。
安全な交通路としてまた淀川の氾濫から河内平野を守る役割を果たした。
しかしその後の淀川の改修や市街地の発展に拠りその大部分は消滅し、
今はここ守口に720mの堤が残るのみである。

街道脇に建つ説明板

文禄堤の説明

文禄堤と東海道の位置関係
堤の上を走る京街道は後に東海道の一部となり、元和2年(1616年)に守口には東海道五十七次の
最後の宿場が置かれた。56番目の枚方から約3里、枚方と異なり船付を持たず馬継もないが、
守口宿は東海道と奈良街道の分岐を成す要衝であった。難宗寺の傍に問屋場・本陣が置かれた他、
多数の旅籠や茶屋が立ち並び、当時の面影は今も文禄堤上に残っている。

徳永家
街道沿いの代表的な旧家。

徳永家に見られる袖卯建(そでうだつ)

代表的町屋の風景
かつては両側に昔風の家屋が並んでいたが…。

昔風の町屋で営業している「みよし写真館」

文禄堤の説明
元禄年間のオランダの長崎商館付医師ケンペルは最上の肉桂を作る所と記している。
宿場は南北約1290m、うち文禄堤720m、道幅3.6~4.5m、宝暦2年(1752年)の記録では家数203軒、
人口811人であった。』 とあります。

町屋を使った食事処「BUNROKU」

高札場

街道に架かる本町橋

橋上から見た京阪電鉄守口市駅

街道に架かる守居橋の脇には常夜灯が建つ

宿場及び文禄堤の大坂側の端

文禄堤から下って大阪方面へ街道は続く
江戸時代から守口宿は貧乏な片宿と呼ばれ、枚方宿の様な繁栄には無縁。
残っているのは文禄堤と少しの町屋だけという状況。
にも拘わらず、かつて東海道宿場町の総選挙いわゆる「TKD57総選挙」投票をした時には、
並み居る強豪を抑えて堂々の4位入賞。下手な細工をせずに、身の丈に合った状態を保持しているのが
理由のようで、何が幸いするか分かりません。
ここも時代の流れには逆らえず、取り壊された家屋も多いですが、一部は食事処として
第二の人生ならぬ家生を歩んでいます。今は文禄堤で舌鼓と言った所です。

文禄堤にある日本料理の店「茶味」

来迎坂を下った場所にあるカレー店「うぺぽ」
店名はスワヒリ語で風という意味だそう。

守口市マンホール

守口市マンホールカード 配布場所は「守口市役所」
[参考書]
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盛泉寺 (浄土真宗大谷派 東本願寺)
西御坊に参拝したら東御坊にも参拝しないと画竜点睛を欠くと言うもの。
町名は変わりますが、難宗寺から京都方面に100m程行った場所にあるのが守口東御坊盛泉寺。
盛泉寺(じょうせんじ)は
『当寺は守口東御坊と称する東本願寺末寺。慶長11年(1606年)教如上人の創建で阿弥陀如来を本尊とする。
戦国末期の本願寺東西分裂に際し、肝煎りの高岡又兵衛の提言で町を二分し、それまであった御坊に対し
東御坊を建設、本尊は東に坊舎は西に、住民全員いずれかに所属するように図った事に拠る。
東本願寺別院となったのは慶長16年(1611年)の事であった。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣で伽藍は焼失。現在の堂宇は天保11年に再建されたものである。

山門に相当する大門(福正昭門)

由緒記

大門前に建つ内侍所奉安所碑

大門脇の塀重門
お羽車はここを通した。

大門近影

明治天皇聖蹟の碑
慶応3年12月に王政復古が実現、明くる慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕府軍は大坂城に敗走。
新政府軍はそれを追う形で天皇を戴き3月20日に京都を出発。
淀で一泊した後、22日の夜9時頃、雨の中を難宗寺に到着しここを行在所とした。
これに先立ち新政府の参与・大久保利通は人心を一新するため大阪遷都の急務を進言。
副総裁・岩倉具視は公卿が異議を唱える事は必然と考え、表向きは大阪親征とし、
密かに遷都の意志を持った行幸と言う立場を採った。親征軍には文武百官も同行し、
三種の神器は当寺本堂前に賢所を作り奉安。
天照大御神の御霊代として神鏡を祀る内侍所が置かれ、盛泉寺は一時仮宮殿となった。
その折に大門の横に塀を重ねて塀重門を造り、お羽車を通したが、これは今も残っている。
しかし4月11日に江戸城の無血開城が実現したため大阪遷都論は幻と化し、一転して江戸遷都となった。
その由緒故に梵鐘は太平洋戦争時に弾丸になる運命を免れたという逸話が残る。』 とあります。

境内の様子

本堂
但し、参拝は外陣からのみ。

内侍所碑

石灯籠に彫られた「守口御所」碑

本堂前から書院玄関を見る

書院玄関

書院玄関の唐破風
明治維新は一種の革命ですから遷都論が出るのは当然の事。
大久保の考えは都を京都にすれば因習に縛られ天皇親政に支障がある、かといって江戸は未だ幕府の影響が強い
とのことで都市の規模は大きいが政治色の薄い大阪に白羽の矢を立てたのでしょう。
しかし勝海舟と西郷隆盛の会談に拠って江戸が無傷で【かつ回収】できた事で、大久保も江戸遷都に大きく傾いたようです。
これを後押ししたのが前島密。後に郵便の父と呼ばれるだけあって地勢や海外の情勢についての知識がものを言ったのでしょう。
これが【ゆうせい】となって東京遷都となる訳ですが、議論が【密か】に行われた事は言うまでもありません。

戦時中の供出を免れた梵鐘

境内の銀杏

東御坊説明書
[参考書]
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難宗寺 (浄土真宗本願寺派 西本願寺)
境内にあるのが樹齢500年の老木。竜田通りならば楓ですがここは銀杏。紅葉ではなく黄葉でした。
大銀杏で知られた寺院だけに、周囲のどこからでも目にすることができます。

北側の道路からの眺望

長屋門越しに見た大銀杏

西の山門越しに見た大銀杏

境内から見た大銀杏
『この銀杏は樹齢約500年、樹高25m以上、南北直径1.5m、枝張り28m、根は100m以上離れた八島交差点に届くと言われる。
由緒に関しては来迎寺開山の実尊上人のお手植え、蓮如上人のお手植え等の説があるが詳細は不明である。
この銀杏は雄木で実は成らず、燃え難いので防火用に植えられている。』 とあります。

大阪府指定天然記念物「難宗寺のいちょう」

500年の樹齢を感じさせる幹の表面
銀杏の樹木が植えられている寺社は多いですが、これは有事にギンナンを食用にすると言うよりも、
木に水分を多く含むので類焼をくい止める役割に期待したから。
これは葉も同様で、葉っぱを集めても燃えが悪いので焼き芋は無理。
その代わり弾力があるので境内では小さい子供が銀杏の絨毯で遊んでいました。
落葉は掃き清められるのが常ですが、当寺では暫くの間、そのままにしてあります。
子供も含め参拝者への配慮な訳で、秋の風物詩にもなっているようでした。
【落葉が寺価を高める】と言った所です。
銀杏は雌雄異株ですが、ここに在るのは雄株だったのが幸いしたようです。
もし雌株だったらギンナンは採れますが、その匂いに思わず【難臭寺】となったに違いありません。

御殿前から見た大銀杏

山門周辺に散り敷いた黄葉

長屋門から本堂を見る

長屋門(左)と庫裏(右)方面の景色

生垣の上の黄葉
一通り大銀杏を見た後、境内を散策しましたが、何と本堂と御殿の後方に日本庭園が。
更にその先には茶室と思しき建築物もありました。こちらは落葉と違って常緑の庭。
頂いた案内書や境内の看板にも一切記載されていませんが、庭も茶室も綺麗に整備されており、
十分鑑賞に値するもの。気が付けば境内を【なんしゅう】も巡っていました。
観光寺院としての知名度は低くても、このような寺社があるのが古い町の強みと言えますね。

本堂南側を抜けて御殿裏へ

御殿(書院)裏にある庭園

庭園の先にある茶室

茶室の看板

境内北側に建つ茶室
中央付近に見えるのが躙り口か?

茶室前から入口を見る

大銀杏越しに見る本堂屋根

大銀杏越しに見る太鼓楼

大阪市営地下鉄 谷町線守口駅スタンプ
図柄は地下鉄車両と難宗寺。当寺の最寄駅でもある。
[参考書]
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難宗寺 (浄土真宗本願寺派 西本願寺)
真宗八代目の蓮如上人は越前の吉崎御坊を退去後、山科本願寺へ移るまでの3年間を
枚方の光善寺で過ごしましたが、淀川を利用してここに立寄ったことで真宗に改宗したのが始まり。
東海道沿いにある真宗寺院の内、西にある難宗寺を守口西御坊、東側の盛泉寺を守口東御坊と呼ぶ習わしです。
『この付近は淀川水路の船着場があり、当寺の西側の道が野崎から奈良への街道であった。
元の寺地は融通念仏宗の実尊上人に拠って1347年に創建された来迎寺の跡地。
来迎寺は住職が代わる度に移転することで知られ、現在は市内の北端の佐太中町にあるが、
難宗寺の西側には今でも来迎町の名が残る。

美しい左右対称の本堂
明和2年(1765年)の募財開始から弘化3年(1846年)の完成まで80年を掛けた大事業である。

真宗寺院らしく長く伸びた勾配を持つ瓦屋根

本堂前面
本堂再建は摂津富田の本照寺住職慧光院が監督。彼の墓は本堂裏手の墓地にある。

本堂は優雅な二重廊下の造りとなっている
文明7年(1475年)、越前吉崎を退去した蓮如上人は山科本願寺に移るまでの3年間を枚方の光善寺で過ごした。
その間、淀川水系を利用し河内・大和・和泉の布教に専念。守口に立寄った同9年(1477年)に
坊舎ごと真宗に改宗したのが始まりとされる。
戦国時代末の本願寺の東西分裂は、当寺にも大きな試練となった。
この時は肝煎りの高岡又兵衛の提言で町を二分し東御坊を建設、本尊は東に坊舎は西に、
住民全員いずれかに所属する東西御坊並立の時代に入る。
当寺が本願寺掛所(本山別院)として西御坊と呼ばれるようになったのは慶長16年(1611年)の事であった。

本堂前からの境内の眺望

本堂から大銀杏と黄葉の敷かれた地面を見る

床紅葉ならぬ床銀杏
これは本堂内に掲げられた宣伝用の写真から。
元和元年(1615年)ので伽藍は焼失するが、戦後には本格的な復興が始まり、
寛永13年(1679年)に本堂が再建された。その後、度重なる風水害で老朽化したため
明和2年(1765年)に再建募財を開始、文化4年(1807年)に完成したのが現在に伝わる本堂。
引き続き御殿・長屋門・太鼓楼・鐘楼・外塀等を改修し全て終了したのが弘化3年(1846年)の事である。
この本堂の平面は完全な左右対称で典型的な真宗寺院本堂の形式を採っており、
鐘楼・太鼓楼・山門の配置も市内の真宗寺院として最も整った構えが残されている歴史的建造物である。

二重廊下から見た山門

本堂内陣の様子
御好意で撮影させて頂いた。

御本尊と御影を祀る内陣奥
勿論ここは立入禁止である。
大坂夏の陣後の再建は元村上水軍の武将で豊前中津浄喜寺住職であった村上良慶師に拠って進められ、
村上家は代々留守居役を勤め茨田郡29ヵ寺掛所として明治に至った。明治以降は本山制度改革に拠って
一般の末寺に、また村上慶応師に嗣子がなかったため、住職は本山から入寺して今に至る。』 とあります。
守口大根、門真蓮根は知っていても守口ゴボウは初耳ですが、これは難宗寺という落ちが付きました。
真宗の法主は他の宗派と異なり代々世襲なので、真宗寺院が世襲であっても不思議ではありませんが、
江戸時代以降の再建に功のあった住職が村上水軍の末裔とは驚きでした。
石山合戦で毛利方から援助を受けた石山本願寺ですが、木津川河口の合戦で活躍したのは
村上水軍を主力とする部隊。江戸時代には水軍を怖れた徳川家康に拠って、各地の水軍は海から離されたので、
村上水軍も旋回して新たな生き方を見つけたと言えるでしょうか?

本堂の「遍照十方」の扁額
‘遍く十方を照らす’意味か?

本堂内陣の欄間彫刻(右)

本堂内陣の欄間彫刻(左)

守口西御坊 難宗寺案内
観光寺院という意識はなかったので、このような立派な説明書があったのは驚き。
[参考書]
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難宗寺 (浄土真宗本願寺派 西本願寺)
12月最初の休日は去り行く秋を求めて師走の街へ疾走。行先は守口駅前の竜田通。
竜田ならば楓となるところですが、この日のお目当ては難宗寺の大銀杏。紅葉ならぬ黄葉でした。
難宗寺は浄土真宗中興の祖である蓮如上人に遡る名刹で、長い築地塀の向こうに大きく枝を張った銀杏が遠望。
大阪メトロならば長屋門か山門、京阪電鉄ならば南門から境内に入ります。

南側の塀越しに本堂が見える

京阪電鉄で下車すると南門が近い

南門屋根の鬼瓦

西側に開いた長屋門
奥に見えるのは太鼓楼。

太鼓楼近影
文化7年(1810年)頃の完成か?
お目当ての大銀杏は山門を抜けたすぐ奥ですが、その手前には明治天皇守口行在所の碑が。
『慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕府軍は大坂城に敗走。
新政府軍はそれを追う形で天皇を戴き3月20日に京都を出発。
淀で一泊した後、22日の夜9時頃、雨の中を難宗寺に到着しここを行在所とした。
西本願寺門主は水路到着し出迎えたと伝わる。
軍には文武百官も同行し、三種の神器は同じ真宗で東にある盛泉寺の賢所に奉安された。
この親征には大坂遷都の計画があったと言われ、守口は一夜の帝都となった。
翌23日は晴天の下、新政府軍は出発し大坂の北御堂に入ることとなる。

北西隅に建つ行在所等の碑

長屋門近影

西に開いた山門正面
弘化3年(1846年)の再建。奥に見えるのが本堂。

由緒記

山門脇に建つ「明治天皇守口行在所」碑

塀越しに見る鐘楼

天保10年(1839年)完成の鐘楼
梵鐘には天和2年(1682年)の銘が残り、境内では最も古い什器である。
明治43年10月4日、皇宮殿下(後の大正天皇)が淀川旧河川敷での演習御観覧のため、
京阪電車の貴賓車で御来阪。当寺に御仮泊された。
これは若き日の父帝の御苦労を偲びたいとの御希望であったと言われる。境内には今お手植樹の碑が残る。
当時は大逆事件の直後であったので、厳重な警備が敷かれ境内はアーク灯で昼間の如く照明された。
これが守口での電灯照明の嚆矢となる。
昭和13年には行在所跡は文部省史跡に指定され、3月22日は町の祝日となった。現在は解除されている。』
とあります。

山門と銀杏の先に見える本堂

境内に散り敷いた銀杏の葉

境内遠景

本堂前から大銀杏、山門を見る

本道前に建つ明治天皇聖跡碑

本堂と庫裏の間に建つ御殿

御殿玄関正面

御殿に建つ唐破風上の瓦
明治天皇は全国行脚され、足跡は至る所にあります。そこを行在所とするのも各地で見ましたが、
ここ守口に関しては実際大阪遷都計画があったので行在所と名乗るのも理由のある事。
唯、東海道の宿場だったとはいえ、どうせ遷都するならば大阪市内と普通は考える所です。
それでも明治末に皇太子が仮泊される等、皇室との所縁が深いのには驚きました。
それが電灯照明の始まりに繋がったのも不思議な縁。アーク灯で【悪党】を防ぐためでしょうが、
昭和の皇太子御成婚を機に一般家庭にテレビが普及したことを思い出しました。

東宮殿下行啓記念松

屋根に置かれた鬼瓦

猩々緋菊紋船印
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久遠山 地蔵寺(浄土宗 京都六地蔵)
嵐山から阪急電車に乗り桂で京都線に乗換。但し、この日は桂駅近くの京都通称寺へ立ち寄り。
桂付近で地蔵といえば、上桂の地蔵院が知られますが、この日に向かうのは地蔵寺。
久遠山地蔵寺(くおんさんじぞうじ)は
『平安時代の貴族、桂大納言、源経信、伊勢女等がこの桂の地に山荘を営み、
桂河原で月を愛でたと言うのが寺の嚆矢とされる。

道路に面した地蔵寺入口

入口から境内を望む
丁度、通り雨が上がった所。

本堂への参道
全体的に樹木が少なく、境内が広い印象を与える。
本尊の地蔵菩薩は平安初期の公卿・小野篁が一度息絶えて冥途へ行き、生身の地蔵尊を拝して甦った後、
一本より六体の地蔵菩薩を刻んだ尊像である。
篁はその六体の像を伏見の六地蔵の地に安置したが、この地蔵を深く信仰した後白河天皇は平清盛に勅命を下し、
保元2年(1157年)に都の街道の入口の六ケ所に六角堂を建てて一体ずつ御尊像を分置した。
これより京都の宗教行事として広く庶民に親しまれる「六地蔵巡り」の風習が起こった。
この内の一つがこの桂地蔵で、世に姉井地蔵菩薩(2.6m)と呼ばれている。
元は八条殿の近く七条西山陰街道にあったが、室町中期に現在の地に移築された。

参道正面に建つ本堂と客殿(右)

本堂近影

本堂の庇と向拝

本尊の地蔵大菩薩(説明書より)
極彩色、木造、台上八尺五寸の伝小野篁作とあるが…。

本堂前から入口を見る

本堂屋根瓦
ここに刻まれているのが寺紋か?
この地蔵尊については次の様な逸話がある。
その昔、山陰道を毎日普請する白髪白髯の老人が居た。彼は人、牛馬や車が困らぬようにと溝土を上げて穴を埋め道を直した。
村人は不思議に思い、日の落ちるのを待ち後を付けたが、桂地蔵の裏藪で姿が見えなくなった。
村人達はかの老人は桂地蔵の化身と語り、旅の守り仏・交通安全のお地蔵様と呼ばれるようになったと言う。
本堂には地蔵菩薩・薬師如来が祀られ、開基当時のものと思われる石造宝篋印塔、六地蔵尊、
石造小仏群が境内にある。現在の伽藍は平成19年に落慶法要を営み、新たな本堂・客殿・庫裏となった。
客殿中庭には樹齢400年の五色の散椿があり、3月から4月にかけて咲き誇る様は非常に幻想的である。』
とあります。

鎌倉時代から使われている宝篋印塔

境内の石像群
左から日比地蔵、子安地蔵、水子地蔵

石造六体地蔵尊
自然石に地蔵尊六体を刻んだもの。

稚児養育地蔵尊
阪急桂駅から桂離宮に向かって進むと左手に大きな門構えが。
そこが目的の桂地蔵ですが、境内の堂宇が真新しいので古刹の雰囲気は感じません。
客殿に続く庫裏で御朱印拝受。京都の通称寺になるので、御朱印対応は速やかでした。
唯、本堂内陣へは入れず窓越しにお地蔵様を拝んだのみ。
また客殿に入る事もできなかったので、中庭の五色椿も拝めず仕舞いでした。
拝観の有無についてはあくまで寺院独自の対応なので仕方がありませんが、
菩薩の中では最も庶民的な地蔵菩薩様なのでもう少し、庶民目線でも良かったのではないかと思った次第です。

客殿玄関の唐破風

客殿前の植込み

水琴窟

かつての井戸と水盤

桂地蔵寺説明書

桂地蔵御朱印 (京の通称寺)
参拝後は、俄雨が降り出したので雨宿りを兼ねて昼食探し。
桂川へ向かう途中に離宮と言うオムライスの店がある筈でしたが、どこを探しても見つからず。
やはり四半世紀前のガイドでは無理がありました。
気を取り直して土産の和菓子店へ向かいましたが、幸いにもこちらは営業中。
しかも店内で食事もできるようになっていました。そこでお茶漬けを注文しましたが、
周囲を見ると皆さん、食事と甘味をセットで頼んでいる様子。私も右へ倣えで追加注文。
密を避けた洛西巡礼ですが、最後は蜜で〆とはなりました。

御菓子司 中村軒
創業明治16年、桂離宮の道路を挟んだ向かいにある。

店内の様子
御菓子を運ぶ入れ物が展示されている。

昼食は「鰻茶漬け」

白玉餡蜜を追加注文

家族への土産

麦代(むぎて)餅と猪子餅
麦代餅は田植え時の間食だったため、通常の餅に比べて大ぶりである。
[参考書]
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智福山 法輪寺(真言宗五智教団)
千光寺境内で嵯峨野の眺望を堪能した後は嵐山駅に戻って桂へ向かいますが、その途中にある法輪寺へ立ち寄り。
嵯峨野の寺社の大部分は渡月橋を渡った側にあり、手前にあるのは千光寺と法輪寺くらいのもの。
・知恵の虚空蔵さんの流麗な御朱印
で参拝済ではありますが前回(2017.4.30)は春、今回は秋という事でまた違った景色があると言うもの。

嵯峨街道に面して建つ寺標

境内へ続く橋
但し、振り返ってはいけないのはこの橋ではない!

由緒記駒札
京都市内には法輪寺という名の有名寺院が二ヵ所あるので、区別し易いように通称で呼ばれる事が主。
上京区にあるものは達磨寺、ここ西京区にあるものは嵯峨虚空蔵、嵯峨の虚空蔵さんとして知られます。
会津柳津、伊勢朝熊と並んで日本三大虚空蔵さんと地元では言われていますが、
茨城の東海村は何処へ行ったのでしょうかね。
嵐山駅から歩いてすぐの嵐山中腹にある智福山法輪寺(ふくちさんほうりんじ)は
『真言宗五智教団の京都本山で、寺伝によれば、和銅6年(713年)元明天皇の勅願で行基が創建した葛井寺
(かづのいでら)が嚆矢。その後、天長6年(829年)空海の弟子道昌(どうしょう)が中興して虚空蔵菩薩を安置。
貞観16年(874年)には伽藍が整備され、寺号も葛井+寺(かづのいでら)から法輪寺に改称した。

法輪寺山門

山門脇の紅葉

土塀前の南天
‘難を転ずる’から植えられえているとか。

山門に続く階段
平安時代には清少納言の『枕草子』の寺の段に代表的寺院として挙げられるなど、多数の参詣で隆盛を極める。
その後、応仁の乱や蛤御門の変で兵火を受けるが都度再興、現在に至っている。
本尊の虚空蔵菩薩は知恵と福徳を授かるため、数えの十三歳の男女が全国から「十三参り」に訪れる。
平安時代に清和天皇が廃針を納めた針堂を建立したことから針供養が行われる他、惟喬親王の故事から
漆寺としても知られる。また境内には電気・電波守護の電電宮社が祀られている。』 とあります。

電気電波関係者の霊を顕彰する電電塔
左右のレリーフは電波研究者のヘルツ(左)と電気研究者のエジソン(右)。

電電塔の説明
創建当初の名前は葛井寺(かづのいでら)、五穀豊穣・国家安穏・産業興隆を祈願するように天皇から
【げんめい】があったようです。法輪寺では和服姿の子供が多く十三参りだとか。
密教の秘法に「求聞持法」というのがあり虚空蔵菩薩の真言を唱えると記憶力が飛躍的に伸びるといわれます。
干支が一巡する数え13歳になると虚空蔵さんに知恵を授けて貰うそうで、京の子供達は3月13日から5月13日の間に
渡月橋を渡ってお参りする習わしがあります。確か、好きな漢字を一字書いて貰ったと記憶しています。
帰る際に渡月橋を渡るときに振り返らないのが鉄則。授かった知恵を返してしまうそうで、
洋の東西を問わず振り返る事には禁忌があるようです。
前回は春なので、和服姿の子供が多かったですが、今回は秋なので、参拝者はぐっと減っていました。

階段途中から山門を振り返る

階段の先に見える本堂の屋根

階段を登り詰めた先から
紅葉スポットなので、人混みが消えるまで30分待ち。
知恵・健康を参詣で願うのは普通ですが、針・漆・電気という普段の生活で必要な物も祀っているとか。
蒟蒻に針を刺す針供養、木地師が開祖と仰ぐ惟喬親王と漆については聞いたことがありますが、
電電社のことは【でんでん】聞いた事もありませんでした。
しかも祀っているのがエジソン・ヘルツと電気の功労者ではあるものの、日本とは余り関係がなさそうな人物。
まさか嵐山なので雷から電気を連想したわけではないでしょうが…。

明治以降に再建された本堂
前回に比べ人は少ない。

本堂に掲げられた「智福山」の扁額

左手にある多宝塔
春とは異なり着物姿の子供は余り見かけませんでしたが、多くは境内の紅葉が目当ての参拝者。
加えて前回は見過ごしていた見晴らし台からは市内が一望。どこかで見た記憶があると思いましたが、
2時間サスペンス「狩屋親子シリーズ」で最後に犯人が追い詰められた場所。
寺の舞台はミステリーの舞台でもありました。
こうして足早ながら法輪寺参拝も修了。嵯峨の虚空蔵さんは秋にもホーリンラブでした。

書院玄関と銀杏の巨樹

境内にある漆の碑

見晴らし台からの眺望

法輪寺御朱印
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嵐山 大悲閣 千光寺(黄檗宗系単立寺院)
崖に建っている観音堂から比叡山を遠望。
仮本堂で諸々の仏様と了以の像に参拝した後は、いよいよ千光寺の中心大悲閣へ。
『鐘楼の上に建つ大悲閣は崖に張出した崖造(舞台造り)の建物。
本尊である千手観音像を祀っているので観音堂、または客殿・展望閣と呼ばれる。
尚、大悲閣とは観世音菩薩像を安置した仏堂の事を言い、名前は菩薩の大きな慈悲に由来する。
大悲閣の縁側からは遠く比叡山、大文字山を初め東山三十六峰、
麓には京都市街が一望できる絶景の場所である。』 とあります。

参道から見る大悲閣舞台部分

舞台の土台部分
崖の場所で安定するように工夫がされている。

土台の奥に置かれた天龍寺村、角倉町と書かれた龍吐水

本堂拝観後、大悲閣(観音堂)へ
左は角倉了以顕彰碑。

大悲閣入口
土足厳禁である。
平地の多い嵐山に在っては遠くまで見通す事ができる数少ない場所。
正面には大河内山荘、その向こうに続く船岡山、比叡山。
眼下には保津川下りの船、トロッコ列車と静と動の眺望が楽しめます。
縁側には椅子が置かれその上、無料の双眼鏡まで備えられているので遠くを見る人が引きも切りません。
といっての渡月橋を渡った嵯峨野の混雑とは段違いの密度。周辺に見所が少ないためか、
ガイド等でも取り上げられる事が少ないからかは分かりませんが、その分ゆったりと眺望に浸る事ができました。

先ずは入口から縁側に沿って一周

南の縁側から東へ

南東隅からの眺望

大悲閣の南側

最も眺望の良い東の縁側から
眼下に見えるのは鐘楼と紅葉の波。

嵐山屈指の眺望

眼下を流れる保津川と遊覧船

正面に見えるのは大河内山荘の庭
その向こうは船岡山か?

紅葉の波に埋もれた鐘楼

色鮮やかな紅葉

左下には嵯峨野トロッコ列車の線路が見える
了以もこの一角に住んだとあるので、さぞ景観を楽しんだかと思いましたが、
了以の念頭にあったのは開削した河川の状況を常に監視する事にあった筈。
了以と言えば、高瀬川が有名ですが、その他にも保津川・富士川・天竜川と開削した川はいずれも
暴れ川として有名な河川。開削後のメンテナンスにも気配りを絶やさなかったのは技術者としての矜持を感じます。
角倉一族の一人に吉田光由が居り、彼は我が国最初の算術書『塵劫記』を記した人物。
この書籍は明治まで続くベストセラーになりましたが、角倉一門に流れる理系の血がそうさせたのでしょう。
このため、千光寺は数学・理科【専攻】の寺として信仰を集めているようですが。

東側の縁側より景色を楽しむ人達

大悲閣の内陣

内陣に置かれた種々の遺物

陳列の様子

大悲閣北の窓からの眺望
[参考書]
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嵐山 大悲閣 千光寺(黄檗宗系単立寺院)
保津川から山道を二丁登った山門を過ぎ、紅葉に彩られた千光寺境内へ。
嵐山大悲閣千光寺(あらしやまだいひかくせんこうじ)は、
『元、清凉寺の西方中院にあり後嵯峨天皇の祈願所であったが、長く衰頽していた。
慶長11年(1606年)に保津川開削に成功した嵯峨の土倉業者・角倉了以(すみのくらりょうい)が
同19年に河川開削工事に協力した人々の菩提を弔うために現在地に移転、
大悲閣を建立し二尊院の道空了椿(どうくうりょうちん)を請じて中興開山とした。

受付脇にある楓の巨樹

楓の下に置かれた蓮台
紅葉を愛でながら茶を嗜むためか?
本尊の千手観音菩薩は恵心僧都源信の作と伝わり了以の念持仏であったとされ、
了以自身も大悲閣に住み開削した河川の通舟の便益を念じたと言われる。
かつて大悲閣の一室には遺命に拠り造られた了以像が安置されていた。
巨縄を巻いた形の円座に坐し、法衣姿で石割斧を持った右立膝の構え。
今も仮本堂で保津川の安全を見守っている。
了以は天台宗を奉じていたが、子孫の角倉玄寧が文化5年(1808年)に大顛を迎えて再興した際に黄檗宗となり今に至っている。
明治維新の際には大悲閣を除いた境内や多くの山林を失ったが、漸次諸堂を再建している。
しかし昭和34(1959年)年の伊勢湾台風に拠る被害は著しく、本堂は1978年に解体され、
大悲閣も暫くは元の状態を取り戻せなかった。大悲閣の改修が終了したのは漸く2012年になっての事である。
本尊や了以像は本堂解体後に建立された仮本堂へ安置されている。』 とあります。

千光寺仮本堂

本尊、開山等を祀っている本堂

仮本堂に掲げられた扁額

本堂手前に吊るされた木魚
黄檗宗寺院ではよく目にする。
山腹にあるので境内は狭く、そこに堂宇が犇めいていると言えば良いでしょうか?
正面にあるのは仮本堂らしく仏様達を空間に押し込めた様。中興開山の像も一緒にありました。
御住職に撮影の可否を尋ねると、「どうぞ御自由に撮影下さい。」との返事。随分と開放的な寺院です。

祀られたというよりも陳列されたという表現がしっくりくる本堂内陣

正面の御本尊と脇立ちの不動明王と毘沙門天

御本尊千手観世音菩薩立像

左側には大日如来と宗祖隠元と始祖達磨大師?

右側には中興開山の道空了椿(どうくうりょうちん)木像
そしてその脇には角倉了以の像が。説明に在る通りの姿でしたが、その顔は眼光鋭く、強い意志を持った
人物であろうと想像できます。仏像というものは理想的に描かれるのが常ですが、この像は非常にリアルな印象。
商人と言うよりも冒険家・探検家といった方が相応しいでしょうか?
前近代で何ヵ所も石を穿つ突貫工事をやり遂げた人物は、己の意志を貫く人物でもあったのでしょう。
千光寺の創建が【穿孔】の達人というのも何か因縁めいたものを感じます。

本尊の脇にある角倉了以木像

了以木像近影
石割斧を持ち、片膝を立てた法衣姿の坐像である。
中興の祖とも言うべき角倉了以は土倉業者(金融業者)なので、【隅の蔵】から金銭を拠出することは十分可能。
唯、当時の豪商が権力と癒着したのとは対照的に了以は権力とは一定の距離を置き土木事業に専念。
己の利益に加えて社会貢献も考えていた事が政商とは一線を画します。
加えて千光寺への援助が【先行】の了以一代限りではなく子孫まで受け継がれた事。
創建だけでなく維持管理の重要性を見抜いていたのは、河川改修に携わった技術者故でしょうか?。
まさに千光寺は【良医】に恵まれたと言えましょう。

遠く安南まで船を出した様子が描かれたもの

大悲閣説明書

千光寺御朱印

了以翁顕彰碑
林羅山が撰文したとある。

石碑の由緒

碑文の一部
[参考書]
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嵐山 大悲閣 千光寺(黄檗宗系単立寺院)
大堰川右岸を歩いて向かった先は千光寺。
嵐山大悲閣千光寺(あらしやまだいひかくせんこうじ)は、
『大堰川(保津川)の右岸を渡月橋から約1㎞上流に遡った所に入口があり、松尾芭蕉の句碑
・花の山 二町のぼれば 大悲閣
の句碑が建つ。
更に九十九折の山道を350m登ると眼下に千鳥ヶ渕が見える。
その嵐山の元禄山中腹に位置するのが千光寺である。』 とあります。

入口手前に建つ由緒記駒札

駒札の奥には「大悲閣道」の石碑が建つ

芭蕉の句碑

入口を過ぎると柴垣が続く
保津川沿いにある大悲閣道と彫られた石碑から柴垣の山道を上る事に。
その先には黒板で囲まれた小橋が。
なにげなく通りましたが「来遠橋(らいえんばし)」と見掛けに拠らず立派な名前がついています。
途中、参道と書かれた行く手が閉鎖中だったので左手の表参道へ。

黒板で囲まれた「来遠橋」

正面の参道は閉鎖中のため左へ迂回

大悲閣への道

途中にある歌碑?
摩滅している上、説明板もないが、説明書にある
・うつらうつらに のぼりきて をかのかなたの みやこをぞみる 会津八一
ではないかと。

参道から見上げた先には鐘楼と大悲閣が

紅葉と樹木に彩られた参道

参道は九十九折に
芭蕉は二町と詠みましたが、結局、山門までは300m強の道のり。
山頂までは優に三町はありました。参拝というよりもちょっとした【はいく】でした。
大和と言い、尾道と言い、千光寺と言う名の寺はどうしてこう高い山にあるのでしょうか?

ここを曲がるといよいよ山門

千光寺の山門
表面の木目と屋根の草が時代を物語る?

山門に続く鐘楼

鐘楼からの絶景
紅葉の奥、下を流れるのは保津川。

鐘楼から見上げた大悲閣

大悲閣の横を通り境内へ向かう
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