<コース>
【往路】JR北新地 → (学研都市線) → JR星田
JR星田 → 徒歩15分 → 星田神社 → 星田寺 → 徒歩15分 → 星田妙見宮 → 徒歩20分 → 天田神社 → 徒歩5分 → JR河内磐船
【復路】JR河内磐船 → (学研都市線) → JR北新地

星田神社(村社)
1月も終わりですがオミクロンが猖獗を極める状況下。
何とか神仏のパワーを貰って収束をと、全く勝手な理屈で星田妙見宮へ。
北河内では有名なパワースポットですが事前に調べると社格では星田神社の摂社とか。
【拙者】も今回初めて知りましたが、それなら先ずは本社へとお参りせねばなりません。
学研都市線(片町線)星田駅から南東へ少し行くと星田神社。

石橋を渡り境内へ

石橋の上から見た放生池
星田神社は、
『現在、本殿には住吉四柱を祀っているが、それより遥か以前に一本の大杉があり、そこに当地の
交野物部氏の御祖・饒速日尊(にぎはやひのみこと)を氏神として祀った交野大明神が嚆矢とされる。
交野大明神は延喜式に見える式内社。平安から鎌倉にかけての序列では一の宮であったとも言われ、
天文4年(1534年)の神名帳にその名が記載されている。

階段脇の狛犬

正面から見た拝殿

拝殿入口の唐破風
その後、宝永年間(1704~1711年)に近隣の村の惣社であった磐船神社と宮座を争い、住吉大神として
祀られていた分霊を遷した。それに及んで交野大明神よりも大きな神殿が建立され、以後交野社は古社とされ、
また大杉も枯死したのでその芯を御神体として祀るようになった。
住吉神については謎が多いが、物部氏が蘇我氏との争いに敗れた後、祭神の饒速日尊を隠す必要から、
物部系の津守氏の奉祭していた住吉大社の神を表の祭神とした。』 とあります。

拝殿に掲げられた「星田神社」の扁額

拝殿の内部の様子

拝殿後方にある本殿

塀越しに見た本殿
放生池を過ぎ、階段を上ると鳥居の正面が拝殿。その奥には本殿が建ち周囲には摂社が。
集落に囲まれた境内は広く明るい雰囲気。地元の氏神様と言う表現がぴったり来ます。
境内を見回しても人は不在。運よく社務所前に置かれてあった由緒書と書置き御朱印を頂きました。
妙見宮の本社とはいえ、摂社に比べて参拝者も少ないのは場所柄にも拠るのでしょう。
スピンオフは企業ですが、飾りのないそのままの当社は差し詰め【スッピンオフ】でしょうか。

境内奥にある摂社群
左から交野社、八幡社、恵比寿社。

交野社脇にある「おもかる石」

星田神社由緒書

星田神社御朱印
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網干駅前 → レンタサイクル10分 → 鵤荘牓示石 → レンタサイクル10分 → 斑鳩寺 → レンタサイクル20分 → 網干駅北口 → JR網干(11:15) → JR御着(11:38) → 徒歩5分 → 播磨国分寺跡・播磨国分寺 → 徒歩10分 → 御着城址 → 徳證寺 → 徒歩5分 → 御着駅前
【復路】JR御着(13:08) → (快速) → JR加古川(13:20→13:22) → (新快速) → JR大阪(14:13)

金剛山 徳證寺(浄土真宗本願寺派)
国分寺があれば国分尼寺がある筈ですが、播磨国分尼寺跡は国分寺跡の北方600m付近に比定されています。
唯、住居表示がないので辿り着けず。その代りと言っては何ですが、後継寺院を訪問。

寺標とその先にある山門

山門近影
但し閉鎖中なので、左奥から境内へ入る。
金剛山徳證寺(こんごうさんとくしょうじ)は、
『播磨国分尼寺の後継寺院。当初は真言宗であったが、明応5年(1496年)に浄土真宗に改宗。
天文年間(1532~1555年)初年に御着城主小寺氏の帰依を受け御着城内に移転した。』 とあります。

正面に建つ御影堂
但し、外陣からの参拝であった。

鐘楼と多宝?塔

塔近影
唐破風の付いた珍しい形。
説明通り、国道南の城址から歩いて直ぐの場所。南の山門前に建つと、綺麗に整備された境内が見えました。
大きな御影堂と開祖の銅像が建ち真宗寺院の特徴を備えています。
唯、由緒書などは一切なし。ベルを押して尋ねましたが、説明書等も作っていないとの事でした。
天平の衣鉢を継ぐ寺院としては聊か寂しい気もしますが、盛者必衰の理は俗界も聖界も関係ないようです。

漢文で記された由緒記

開祖の像

御影堂前からの眺望
[参考書]
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【復路】JR御着(13:08) → (快速) → JR加古川(13:20→13:22) → (新快速) → JR大阪(14:13)

黒田家廟所
御着城址の奥に佇むのが黒田家廟所。
ここの墓所には黒田孝高(官兵衛のちに如水)の祖父重隆(しげたか)と生母(明石氏)の二人を祀っています。
城主小寺氏よりも注目されているのが黒田官兵衛。駅のホームにも「官兵衛の育った地」と看板が上がっています。
大河ドラマの主人公にもなった豊臣秀吉の軍師として竹中半兵衛と並ぶ参謀。
戦一辺倒ではなく知略を用いた点が人気の理由でしょう。

JR御着駅上りホームに掲げられた看板
『黒田家は近江源氏佐々木氏の流れで、近江国伊香郡黒田村(現・長浜市木本町)の出身。
官兵衛の祖父重隆の代に播磨に入り御着城主小寺政職に家老として仕え、城主として姫路城を護った。
姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高(よしたか)と続くが、天正8年の羽柴秀吉の播磨平定の時、
孝高は姫路城を秀吉に譲り自らは父と共に国府山城(妻鹿)に移った。職隆の墓所は妻鹿にある。
後に黒田家は筑前福岡藩主となったので、どちらの墓所も地元では「ちくぜんさん」と呼ばれている。
この墓所は享和2年(1802年)に資材を九州から運んで造られた。廟屋を有する立派なもので、
周りの龍山石の石塀から内部は昭和56年(1981年)に姫路市指定史跡となっている。』 とあります。

御着城址にある黒田官兵衛顕彰碑

顕彰碑と共に建つ説明文
一般的には官兵衛一人に焦点が当てられますが、彼に至る迄には何代にも亘る助走期間があったと言えます。
元、近江の土豪であった黒田氏が遠く播磨まで移ったのは、そこで一旗揚げる意志があったからでしょうが、
それなりの勝算もあった筈。琵琶湖の水上交通で賑わった近江には各地の情報が集まったからではないでしょうか。
播磨では薬の販売で財を成し、周囲の人々の信用を集め、ここぞという時に投資する。
三代かけて大名にまでのし上がった訳ですが、そこには近江商人の強かな計算があった気がします。
関ケ原の後の引き際も見事という他ありません。もし今に官兵衛が居て
「本当に天下を狙う積りはなかったのですか?」と訊けば、
「それはもう【かんべえ】して下さい。」と否定するか、【知らぬ顔の官兵衛】を決め込むでしょうが…。

城址北側に在る墓所入口

黒田家廟所

廟所説明

廟所入口からの眺望
右手の城郭風建物は市役所東出張所。
[参考書]
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御着城址
国分寺参拝に後は、国道2号線を東へ。天川を渡った北側にあるのが御着城址。
『御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城である。
永正16年(1519年)、姫路城主小寺政隆が築城してここに移り、以後、則職・政職と三代60余年続いた。
天正7年(1579年)、羽柴秀吉の三木城攻めの時、別所長治に味方したため攻略されて滅亡した。
築城は永正年間とあるが、嘉吉年間(1441~1444年)には既に構居が設けられていたとされ、
明応年間(1492~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していたとされる。

国道2号線沿いに建つ案内板

城址入口に建つ石碑

本丸跡

御着城跡説明
昭和50年代の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに
本格的な縄張りが行われた事が判明。中世の人々の生活に関わる土器・木製品も多数出土した。
宝暦5年(1755年)の絵図には、城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、
北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町屋の記載があり、惣構えの城が描かれている。
現在の御着城址は中央に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館が、
道路を挟んだ南側に城主と関係者を祀った小寺大明神が建つ。』 とあります。

本丸跡に建つ姫路市役所東出張所
城郭を模した造りとなっている。

2号線を挟んで南側に建つ朱の鳥居

小寺大明神説明

小寺大明神
小寺氏は守護赤松氏の庶流。国分寺のある御着に拠ったので小寺を称したと思いましたが、
小寺と称したのは政隆の五代前なので、それはあり得ませんでした。
姫路から御着に移ったのも現在の考えでは?ですが、古代より国分寺等が置かれたという地勢に着目したのでしょう。
戦国時代の領主としては取り立てて無能とは言えません。
唯、周囲に流され易い性格だったようで、それが下に着く相手を間違えた遠因になったと想像します。

小寺城主奥都(津)城と歌碑

奥津城碑の手前にひっそりと置かれた五輪塔と石仏
小学校発掘調査の際に出土したものを祀ったもの。

御着郵便局 ; 黒田家廟所、御着城址碑、天川橋
[参考書]
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牛堂山 国分寺(真言宗)
国分寺跡の北にあるのが現在に残る播磨国分寺。
史跡に続く場所に立派な山門がありますが何故か閉鎖。そのため大回りした北門から参拝することに。
参拝する人は国分寺跡も見る筈ですから、南から入る工夫はないものでしょうか?

国分寺北門

境内側から見た北門
牛堂山国分寺(うしどうさんこくぶんじ)は、
『聖武天皇に拠りに日本各地に建立された国分寺の内、播磨国分寺の後継寺院とされる。
聖武天皇の国分寺は平安末期頃まで存続したが戦国時代には荒廃。
慶長6年(1601年)姫路藩主松平忠明から30石の寄進を受け、再興されたのが現在に残る国分寺である。
寛永年間(1624~1644年)には姫路城下の池田・本多両家の菩提寺の大堂が移され、これが現在の本堂とされる。
また慶安元年(1648年)には三代将軍家光から朱印地として30石の寄進を受け、これは幕末まで続いた。』 とあります。

北門に続く参道の左側に建つ観音堂

南に開いた中門
但し、こちらも閉鎖中。

中門から西へ伸びる参道

寺務所玄関の唐破風

国分寺跡へと続く山門
かつての寺域からは大分縮小していますが、立派な山門、本堂と参道脇には観音堂・開山堂がある堂々としたもの。
その多くは江戸時代の再建ですが、本堂前の宝篋印塔は室町初期の史跡でした。
このような由緒ある寺院ですが訪れる人は稀。世界遺産となった姫路城とは対照的といえます。

正面から見た本堂

本堂前面の造り
向拝の欄間彫刻は龍であるが、その他は簡素な装飾となっている。

本堂の庇、屋根、壁の扉

天満宮ではないが、本堂前に置かれた牛

本堂の右手に建つ開山堂

開山堂由緒

室町初期の宝篋印塔
丁度、境内を御住職が歩いて居られたので御朱印を御願いしました。
和辻;「本堂前に牛がありますが、山号と関係あるのですか?」
住職;「古代の弁韓地域の仏教では牛が聖獣だったと聞いています。」
和辻;「お参りに来られる人は少ないのですか?」
住職;「大阪の太融寺さんあたりは裕福ですけど、同じ真言宗でもこの辺の経営は厳しいです。」
と非常に現実的な話。天平の法灯を継ぐとは言うものの、内情は厳しい様子でした。

開山堂脇の石仏群

鐘楼と梵鐘

播磨国分寺御朱印

JR御着駅スタンプ
上;1990年代 下;2008年JR西日本石川支社
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播磨国分寺跡(県史跡)
現在の姫路市の中心は城下町であるJR姫路駅周辺ですが、その原点とも言うべき場所は二駅東に行った
JR御着(ごちゃく)駅北方。御着という名前も由緒がありそうですが、何でも神功皇后が当地に着いた事に拠る命名とか。
行政区では姫路市ですが、日中は30分毎に普通が停車するのみ。
弥生・古墳・奈良を初め各時代の遺跡が集中した古代文化の発祥地。今は姫路風土記の里として整備が進んでいます。

JR御着駅舎
無人駅ではないが、駅員不在時間が多い。

風土記の丘歴史公園

播磨国分寺跡説明

播磨国分寺伽藍配置図
駅の西方200mの所にあるのが播磨国分寺跡
『天平13年(741年)、聖武天皇の詔に拠り建立された国分寺は、七重塔と南大門・中門・金堂・講堂他
多くの建物を持つ200m四方の大寺院であった。
17個の礎石と土壇を持つ塔跡が現存し、また数次の発掘調査に拠って南大門・中門・回廊の一部が確認されている。
主要伽藍は南から一直線に配されると共に、南東隅には塔が配される東大寺式伽藍配置である。
寺域からは瓦・土師器・須恵器が大量に出土。その状態から平安末期までの存続が確認される。』 とあります。

南東隅の塔跡

塔跡説明

塔の礎石

南大門跡

南大門跡説明

南大門跡から現在の播磨国分寺山門を望む

中門跡

中門跡説明

中門先に建つ石燈籠

石燈籠の北にある現在の播磨国分寺山門
但し、ここは閉鎖中で、参拝は北側から。

西側から見た国分寺跡
いまは一部が公園になっている広大な寺域。古代の都市は自然災害の少ない場所に発達する傾向がありますが、
加えて南には古代山陽道とJR、北側には国道も通っていることから交通の要衝であった事も分かります。
しかし近世以降は西の姫路城に中心が移ることに。思うに但馬・因幡・出雲への街道が通った事、
より広い平野を持った事、加えて河や海の水運を利用出来た事がその理由ではないでしょうか?

築地基壇・落下瓦復元模型

築地基壇・落下瓦復元模型の説明

復元築地塀

築地塀断面

歴史公園の北側を抜け国分寺へ向かう
[参考書]
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斑鳩山 斑鳩寺(天台宗 新西国三十三ヵ所第三十二番 西国薬師四十九霊場第二十三番)
仁王門を過ぎて左手に建つのが太子を祀る聖徳殿。
『聖徳殿前殿は元聖徳太子立像を祀っていた太子堂で、本来五間四方で内部中央の三間四方を内陣とする。
斑鳩寺で最も重要な建造物で、嘉暦4年(1329年)の「鵤荘絵図」にも描かれている。永正16年(1519年)、
政所僧が寺の門を閉め太子堂に立て籠もり、赤松氏の軍勢が鵤荘に入るのを阻止したとの記録も残っている。
御本尊は太子16歳の尊像で御髪を植えてあることから「植髪(うえがみ)の太子」と呼ばれる。太子16歳の時、
病床にあった父用明天皇の平癒のため飲食を断って、七日七夜神明仏天に祈られた御孝養の御姿である。

仁王門を過ぎて左手に見える聖徳殿

聖徳殿前殿
天文20年(1551年)再建、寛文5年(1665年)に大修理を経ている。

正面から見た聖徳殿前殿
県指定有形文化財でもある。

前殿前の高松宮お手植えの松

前殿(旧太子堂)由緒
板に見事な達筆で墨書してある。
御衣は往古より新王皇家より寄進を受けてお召替えが行われる慣わしで、現在の御衣は昭和37年に
高松宮殿下よりの御寄進である。
尚、太子堂は天文10年に焼失した後、天文20年(1551年)に再建。江戸時代の寛文5年(1665年)に再築されている。
また明治43年から大正5年にかけ、従来の太子堂の西側に中殿、法隆寺夢殿を模した奥殿(八角円堂)を増築。
竣工した大正5年(1916年)に御本尊を奥殿に遷座した。』 とあります。

前殿全面より内陣へ

前殿向拝の欄間彫刻

重文・聖徳太子勝鬘経講讃図 (鎌倉時代) 説明書より
中央が太子で、下中央の横向きが蘇我馬子、右端が小野妹子とある。

前殿南側を抜け中殿へ

南側から見た中殿・奥殿

大正5年(1916年)建立の聖徳殿中殿
国登録有形文化財である。

中殿説明
現在、当寺の拝観のメインは講堂と三重塔ですが、重要さでは太子の御姿の御本尊を祀っている聖徳殿。
前殿の前には高松宮殿下お手植えの松がありますが、これは御衣を寄進された際のものでしょうか?
聖徳殿全体を見るとやや特異な形ですが、これは夢殿を模した奥殿が単独ではないため。
法隆寺に遠慮したのか経済的な事情かは分かりませんが、もし単独であったらと要らぬ夢想をしてしまいます。

大正5年(1916年)建立の聖徳殿奥殿
中殿と同じく国登録有形文化財。

奥殿(後殿)説明

西側より見た奥殿
太子16歳像を祀り、法隆寺夢殿を参考にした裳階付八角二重円堂となっている。

北側から見た奥殿と中殿

北東から見た奥殿と中殿
それぞれ単独ではないので特異な形に見える。

北から見た聖徳殿全景

講堂からの聖徳殿の眺め
堂前の境内には太子の銅像が建っており聡明な御姿に見えますが、御年なんと二歳。
平均年齢の短い古代とはいえ随分と大人びた像です。思えば太子は「二」に随分と縁のある人で、
亡くなったのが西暦622年2月22日。青く見えるので【青二才】などと言ったら叱られますが、
それで二歳にしたのかもしれません。
と思っていたら何と、太子は二歳で天を指さして「南無二」と言ったと記されているそう。お釈迦様の話の焼き直し
ではないかと思いますが、我が国仏教発展の基礎を作った方なので、これくらいの伝説は必要だったのでしょう。
将来的に二万円札の肖像画に再登用とはならないでしょうが…。

聖徳殿手前にある聖徳太子尊像
二歳の時の像。太子二歳の砌、天を指さして「南無二」と言われたとか、お釈迦様の様な話が伝わる。

築地塀越しに見える奥殿

今回拝受した斑鳩寺御朱印 (聖徳太子霊蹟)
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斑鳩山 斑鳩寺(天台宗 新西国三十三ヵ所第三十二番 西国薬師四十九霊場第二十三番)
仁王門を潜ると広大な寺域が現れますが、その正面に建つのが伽藍の中心になる講堂。
『天文10年(1541年)の戦禍で斑鳩寺全焼の後、弘治2年(1556年)に再建。明和6年(1769年)に大修理を経ている。
御本尊は釈迦如来(中央)、薬師如来(右)、如意輪観世音菩薩の三尊で、いずれも国の重要文化財。
丈六の巨大な坐像で鳥仏師一刀三礼の作と伝わる。秘仏であり毎年2月22~23日の太子春会式に御開帳される。

正面から見た講堂 (太子町指定有形文化財)

講堂の張出した庇部分

講堂の内陣手前

内陣に掲げられた新西国札所の御詠歌

扉の菊の御紋は聖徳太子の所縁か

講堂の御本尊三尊 (左から如意輪観世音、釈迦如来、薬師如来) 説明書から
いずれも丈六の坐像で、国の重要文化財。普段は秘仏で毎年2月22日(太子の御命日)、23日に御開帳。

東側から見た講堂側面

講堂前から仁王門を見る
講堂の右手にあるのが斑鳩寺のシンボルとも言える三重塔。
戦国末期の永禄8年(1565年)龍野城主赤松下野守政秀の志願に拠って再建された。
輪柱に太子伝来の仏舎利が納められ、露盤には永禄5年に赤松政秀が天下泰平を祈願して発願したという銘文が刻まれている。
三重であるが五重を思わせる均整がとれた壮麗な姿で朱塗りが美しい和様を主とした建造物である。
西播磨地方に残る古建築の内、最初の国指定重要文化財となった。
またその背後にある鐘楼は袴腰付の珍しいもので、龍野城主赤松広秀が但馬竹田に移った後に
当寺に寄進したものである。』 とあります。

講堂からの眺望

大楠越しに見える三重塔

大楠に着生した風蘭?

北側より見た重要文化財・三重塔
境内では最古の建造物。

南側からの眺め

垂木・裳階等の三重塔組物

塔の上の水煙

県指定有形文化財の鐘楼
天正20年(1592年)再建、元禄6年(1693年)の大修理を経ている。

弥勒堂と三重塔
弥勒堂の手前が納経所となっている。

比較的新しい弥勒堂

東の塀の前に並ぶ新西国札所の観音様

東隅に建つ聖霊権現社
稗田神社御旅所で文政10年(1827年)の再建で太子町指定有形文化財。

権現社の前の社標

講堂の奥にある聖宝殿
宝物館だが閉館の様子。
伝説的な記述はあるものの、聖徳太子が日本の仏教史上に果たした功績は誰しも認める所。
ですが太子信仰が盛んになるのは中世以降の事。支配階級がそれまでの貴族から武士になり、
民衆も少しずつ力を蓄え始める頃。政治家+宗教家として新たな崇拝の対象になったと想像できます。
講堂や三重塔があるのは本家の法隆寺を意識したものでしょう。その上、御本尊が鳥仏師作となれば尚更です。
しかし残念にも戦国末に焼失。もし今に残っていれば姫路城と並ぶ世界遺産は間違いなしでしょうが、
法隆寺が現在まで残った方が奇跡的と言えるでしょう。

今回頂いた説明書

前回(平成19年)に頂いた説明書

斑鳩寺御朱印 (新西国札所)
平成19年の拝受で、「如意殿」と墨書。

太子郵便局 ; 重文・斑鳩寺三重塔、十七条憲法巻物
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【往路】JR大阪(6:46) → (快速) → JR網干(8:37)
網干駅前 → レンタサイクル10分 → 鵤荘牓示石 → レンタサイクル10分 → 斑鳩寺

斑鳩山 斑鳩寺(天台宗 新西国三十三ヵ所第三十二番 西国薬師四十九霊場第二十三番)
私が御朱印を始めたのは平成4年4月ですが、当時の天台座主であった山田恵諦師がその年の12月に日本経済新聞に
「私の履歴書」を執筆。その中で師が兵庫県太子町の出身で、そこに太子所縁の古刹があると記載されていたのが、
斑鳩寺を知った嚆矢でした。
地蔵堂から参道を300m程北上すると、壮麗な仁王門がお出迎え。百数十m四方の境内の南と東は
整備された塀に囲まれ、西播磨屈指の古刹とは聞いていましたが加えて広大な敷地を持った巨刹でした。

参道の先にある寺標、仁王門、三重塔

門前の寺標
一般には「はんきゅうじ」だが正式には「いかるがでら」。

寛文13年(1673年)再建の仁王門
その先に見えるのが講堂。

広大な境内を囲む築地塀
参拝前に周囲を散策。門前には「一隅を照らす」の石碑が、天台宗寺院で良く目にする開祖最澄の言葉です。
東側にも門があり境内に続く門は赤門、更に先の本坊に続く門は黒門となっていました。
東大や市場とは無関係でしょうが…。
斑鳩山斑鳩寺(いかるがさんいかるがでら・はんきゅうじ)は、
『推古天皇14年(606年)、天皇は聖徳太子に請うて勝鬘経を講ぜしめられ、太子は豊浦宮で3日間に亘り経を講説した。
その夜、蓮華の花が講演の地に降り敷いたと伝えられる。
それに叡感された天皇は播磨国揖保郡にて水田360町を太子に賜った。太子はその場所を鵤荘と名付け一伽藍を建立。
それが斑鳩寺(はんきゅうじ・いかるがでら)の嚆矢で、大和の仏教文化を移植して建てられた。
その後、太子は鵤荘を法隆寺に寄進したので、現在の太子町一帯は法隆寺領となり千年以上に亘り繁栄した。

門前にある「一隅を照らす」の石碑

寺の南東隅の様子

寺の東側の塀と富の小川

東に向いた赤門
門を潜ると境内へ。
勝鬘経の講義は『日本書紀』にも記載がある史実とされ、また天平18年746年に法隆寺が官に提出した
財産についての文書にも播磨国揖保郡の土地の記述が見られる。
寺の東に流れているのは、富の小川で太子が命名した。東南1500mにある檀特山は太子が上って
伽藍建立の霊地を選んだ場所と伝わり、山頂には太子が御馬を繋いだ駒縛の松が、
その傍らには駒の蹄の跡の如き窪みのある馬蹄石が今も残る。
また北2㎞程にある清水は御手洗と言い太子が御手を濯がせた所と伝えている(貞和4年峰相記)。

寺の北東には塔頭宝頭院(寺務所兼務)が建つ

北東隅にある黒門は寺務所へ続くが通常は閉門している
往古には七堂伽藍、数十の坊庵が甍を並べ壮麗を極めたが次第に衰頽。
鎌倉時代には尚、堂塔の周囲に十五六の坊を有していたが、
天文10年(1541年)4月7日、播磨に侵攻した出雲守護尼子氏の戦禍を受け堂塔悉く焼失した。
後に龍野城主赤松政秀と子の広英、当山中興の昌仙(しょうせん)法師等により漸次復興した。
創建から一千余年は大和法隆寺の支院であったが、復興後は天台宗となった。

赤門越しに見る三重塔

仁王門の阿像(右側)

同じく仁王門の吽像(左側)
天正の頃には鵤荘の大部分は人の領する所となり、豊臣秀吉に至って三百石の御朱印を、
徳川時代に至り歴代将軍の御朱印地となった。
しかし太子創建より今に至る迄1400年余りその法灯は連綿として続き太子信仰の霊刹である。
毎年2月22日の太子御命日に行われる春会(はるえ)式は「お太子さん」として播州随一の賑わいを見せる
春の風物詩。また太子の物部守屋討伐に由来する勝軍会(しょうぐんえ)・法伝哉(ほうでんや)等は
他所では見られない古式を伝承している。』 とあります。

由緒記
一般的には「はんきゅうじ」で、私もそう思っていましたが、寺標には「いかるがでら」とあるので、こちらが正式な様子。
但し、納経所で確認すると「どちらでも結構ですよ。」との答えでした。
境内には徳川初期の境内図がありましたが、主要な堂宇に加えて周囲には多くの塔頭が描かれています。
今では北側は人家や農地、西側は公園になっています。
また「関西花の寺」にはなっていませんが、境内には山茶花が多く植えられ参拝者の目と鼻を楽しませてくれました。
さざんが九で「はんきゅうじ」ではないでしょうが…。

徳川初期の境内図
神戸燐寸(マッチ)株式会社というのが、時代にマッチしている。

境内を彩る山茶花の巨木

渡廊下の脇にも

山茶花近影

同じく山茶花近影
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鵤荘牓示石
向こうに見えるのは山陽新幹線。
冬の18きっぷの5回目は最終日の10日に没後1400年の聖徳太子所縁の寺院へ。
行政区では太子町、寺名では斑鳩寺ですが、河内でも大和ではなく飛鳥から遥か100㎞西へ行った播磨国揖保郡。
なんでも法隆寺の荘園があった事による命名で、町の名も聖徳太子の名に拠る由緒あるものです。
その中心は大和の仏教文化を今に伝える斑鳩寺ですが、その途中にかつての荘園の史跡があると聞き寄り道。
JR網干駅からレンタサイクルで北上。寺院への道半ばで山陽新幹線にぶつかりますが、あるのはそのすぐ南。
地図を頼りに自転車を漕ぎましたが中々見つからず。30年前のガイドブックなので、もしや開発で石も除去されたか
と思いながら走ると家の脇の整備された一画に発見。

鵤荘牓示石
これは「東南の投げ石」と呼ばれているもの。

鵤荘牓示石説明板
鵤荘牓示石(いかるがのしょうぼうじいし)は、
『推古天皇の6年、聖徳太子が法隆寺に土地を施入した事に拠って法隆寺領鵤荘が成立。
この荘園は6町四方の正方形を基準にした古代の条里制に従った整然とした碁盤の目のような地割を有していた。
鎌倉幕府が滅ぶ直前の嘉暦4年(1329年)に作られた絵図に拠れば、この荘園は周囲12ヵ所に牓示石(ぼうじいし)
を置いて境界としていた。底辺の長径が45~130㎝、高さが45~98㎝と大きさも様々な自然石である。
現在、牓示石と考えられる石は県指定文化財4ヵ所、参考地5ヵ所が知られ、荘園の境界争いが激しくなった頃の
荘園史の生き証人であると共に条里制との関係の上でも重要視されている。
これらの石は聖徳太子が自分の領地の境界を決めるために、檀特山(だんとくさん)の上から投げたと言い伝えられ、
「聖徳太子の投げ石」として大切に守られてきたものである。』 とあります。

鵤荘牓示石近影
今に残る5ヵ所の中では最も厳重に保管されている様子。
古代飛鳥朝廷での太子の功績については事実と伝説が半ばしますが、人民の間での人気は相当なもの。
歴史家の和歌森太郎が述べたように、右からも左からも悪口を言われない政治家は少ないようです。
近くで見ても別段普通の石ですが、太閤検地で荘園制が完全に崩壊しても今まで残っているのは実用というよりも
太子への信仰に拠るのでしょう。
示石を史跡とする事と言い、地名が現在まで残っている事と言い地域に密着した偉人と感じました。

石の傍らに建つ石碑
道沿いに「徳道上人出生の地」とあったので、そこへも参拝。
大和長谷寺を創建した事で知られる徳道は、斉明天皇の656年この地で出生。各地を巡錫して寺院を建立した他、
神亀年間(724~728年)にはこの地に住み、水利や農業振興に尽力したとか。
現在、その地にはお堂が建てられ地元保存会に護られています。
出世したあとも故郷を忘れなかったのが、今も敬愛される所以でしょう。

徳道上人出生地の石碑

徳道屋敷跡に建つお堂

説明板

お堂の前には桜と石碑が建つ

お堂に掲げられた「光明山」の扁額
と言う事は、ここは寺院か?

お堂の前の徳道上人塔

屋敷跡全景
さて史跡のあとは寺院へ向かいますが、その手前にあるのが太子山公園。
小高い丘で名前から太子所縁の人物の古墳か何かと思いましたが、
元は播電鉄道株式会社が経営していた西播磨随一のレジャーランドだそう。
園内に古民家やSLが展示されているのはその名残でしょうか?
山の北側に地蔵堂があったので、お参りして振り返ると遥か向こうに目的の寺院が。
ここから一直線に参道が続いていました。

新幹線の線路を越えた場所にある太子山公園

公園内にある旧尾野家住宅の母屋

旧尾野家住宅の説明

母屋全景

旧尾野家土蔵

公園北側に建つ地蔵堂

地蔵堂近影

地蔵堂から真北を望む
参道の先に見える瓦が斑鳩寺の屋根。
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【復路】JR福山(16:04) → JR姫路(18:44→18:56) → JR大阪(19:58)

海岸山 千手院 福禅寺(真言宗善通寺派別格本山)
御本尊参拝の後は、いよいよ絶景へ。
『現在の本堂と隣接する客殿は江戸の元禄年間(1690年頃)に建立。
江戸時代を通じて朝鮮通信使の迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家等との交流の場となった。
その座敷からの眺望は素晴らしく、正徳元年(1711年)には通信使の従事官・李邦彦が「日東第一形勝」と称賛し、
延享5年(1748年)には同じく通信使の正使であった洪啓祺が客殿を「對潮楼」と命名、同行の子息洪景海が
それを書写し僧侶に与えた。後に福山藩主阿部正福がこの書を扁額に仕立てたものが現在ある扁額である。

対潮楼説明

境内に建てられた説明板

説明板のアングルで撮影

窓枠を最大にして撮影
對潮楼にて窓枠を額縁に見立てて見ると、瀬戸内海と仙酔島が宛ら一幅の名画に見える事が
「日東第一形勝(日の昇る東の国で一番の景色である)」と言われた所以である。
平成29年(2017年)にはユネスコ世界記憶遺産登録、重要伝統的建造物群保存地区に選定、
平成30年(2018年)には日本遺産に認定、みなとオアシスに登録された。』 とあります。

窓枠下の境内の松越しに見た弁天島と仙酔島

窓脇に掲げられた正面に見える島の説明
窓を額縁に見立てる手法は京都の宝泉寺でもあるので、ここ独自という訳ではありませんが、
背景に海があるのは寡聞にして知りません。
加えて、ここを有名にしたのは朝鮮通信使という言わば外来の人達の評価だった事。
1711年以降は寺も荒廃し、次の1748年の通信使には別の施設が用意されたとか。
それでも通信使一行がかつての福禅寺に拘ったので、日本人は改めてこの場所の良さに気付いたとも言われます。
閉ざされた島国のせいかは?ですが、日本が外国の高評価に敏感なのは今も昔も変わりません。

仙酔島に建つ鳥居と多宝塔
但し、この島は無人である。

皇后島と島に渡る福山市営渡船

弁天島の前を行く渡船
鞆町鞆から仙酔島までは、往復¥240、運行間隔20分毎、所要時間5分と非常に便利かつリーズナブルである。
窓の向こうに見えるのはてっきり仙酔島と思っていましたが、正面の多宝塔のある島は弁天島、
右の半円形の島は皇后島、仙酔島はそれ以外の島の総称と今回初めて知りました。
仙酔島は仙人がその姿に酔いしれる事からの命名、仙人が船酔いするからではありません。
そんな事は兎も角、誰が見ても【センスいい島】なのは変わりません。
春の鞆の浦の風物詩である鯛網は出漁に先立ち仙酔島で「鞆の浦大漁節」を披露し、「大漁祈願祭」が行われる場所とか。
漁場は更に沖合にあるそうですが、もし楼から見える場所であれば【鯛潮楼】となったに違いありません。

福山藩主阿部正福の揮毫になる「對潮楼」の扁額

扁額の由緒

「日東第一形勝」の扁額と幕末の志士達の集合写真
坂本龍馬も写っている。

扁額の説明
見ると眼下にレトロな船が走っていましたが、これは仙酔島への渡船。
福禅寺の受付で聞いた話では頻繁に運行され運賃も格安だそう。
今回は時間の都合で×でしたが、次回は是非にも島に渡ってその眺望を楽しみたいものです。
勿論、島へは渡し舟、決して【潜水】して向かう訳ではありません。

客殿(対潮楼)の欄間にある菊の御紋の透かし彫り
村上天皇の勅願であることに由来する。

客殿の内部

朝鮮通信使の人達がここで詠んだ漢詩
江戸時代は言葉が通じない場合でも筆談で交流を図ったとある。
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【復路】JR福山(16:04) → JR姫路(18:44→18:56) → JR大阪(19:58)

海岸山 千手院 福禅寺(真言宗善通寺派別格本山)
鞆の浦を自転車で一回りして渡船横の店に返却した後は、振り返った石垣上に建つ伽藍に参拝。
最後に残ったのが鞆一番の観光名所になりました。

對潮楼
細い路地を抜けるとこのような看板も!
鞆の浦を自転車で一回りして渡船横の店に返却した後は、振り返った石垣上に建つ伽藍に参拝。
最後に残ったのが鞆一番の観光名所になりました。
海岸山千手院福禅寺(かいがんさんせんじゅいんふくぜんじ)は、
『平安時代の天暦年間(950年頃)、村上天皇の勅願寺として空也上人に拠って創建された真言宗の寺院。
本尊は千手観音で観音信仰が盛んな古刹である。

海岸山の扁額

境内から見える風景
現在の本堂と隣接する客殿は江戸の元禄年間(1690年頃)に建立。
江戸時代を通じて朝鮮通信使の迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家等との交流の場となった。
正徳元年(1711年)には通信使の従事官・李邦彦が「日東第一形勝」と称賛し、
延享5年(1748年)には同じく通信使の正使であった洪啓祺が客殿を「對潮楼」と命名、
同行の子息洪景海がそれを書写し僧侶に与えたとされる。
以後、對潮楼は鞆の浦の絶景としてその名は広まるが、実際は客殿が出来る前からこの場所は
通信使に高く評価され記録にも残されている。
幕末の「いろは丸」沈没の際には、海援隊と紀州藩の交渉の場としても用いられた。』 とあります。

御本尊を祀る本堂(観音堂)

本堂前部

本堂から境内を望む
山号は寺の建つ海岸、院号は御本尊由来とは想像できますが、禅宗でもないのに寺号が福禅寺と言うのは
摩訶不思議。参道を歩くと境内の様子は禅宗様にも見えるので、予備知識がないと禅宗寺院と間違えそうです。
景色ばかりが強調されますが、ここはれっきとした寺院。きちんと本堂で御本尊の千手観音様にお参りした後に、
絶景を堪能するという手順を踏みました。
また客殿は歴史の舞台ともなった場所で、通信使所縁の書に加えて坂本龍馬も写った「幕末維新の志士たち」の
写真が展示されていました。撮影者は我が国の写真家の元祖上野彦馬。景色に加えて歴史の重要な舞台でもありました。

独特の書体である本堂の「観音堂」の扁額

内陣に置かれた「海岸山」の扁額

對潮楼御朱印 (今回拝受と平成6年拝受のもの)
印は同じだが、墨書は随分おとなしくなっていると思えるが…。
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