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駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口 → 室津漁港 → 浄運寺 → 賀茂神社

賀茂神社(室明神社)
文化財の社殿で知られる賀茂神社ですが、忘れてならないのが境内にある植物群。
『石鳥居と表門の中間参道に沿って群生しているのが蘇鉄で、玉垣で囲まれている。
株数は大20株でそれぞれ分岐を持ち、雄株7割、雌株3割。最大のものは高さ6mで15本の分岐を持つ。

県指定文化財 賀茂神社のソテツの説明板

玉垣で囲まれた蘇鉄群

玉垣の後側から
崩れた塀の向こうに蘇鉄が見える。

蘇鉄群
温暖な気候のため、冬季でもむしろ等の防寒は不要。野生状態の群生林としては日本列島の北限に位置する。
また境内には二本の榊が途中から1本に結ばれている「連理の榊」があり、
「賀茂の愛の榊」と称されており、夫婦・良縁に御利益があるとされる。』 とあります。

蘇鉄群近影

「賀茂の愛の榊」
五社殿西側の旧多宝塔跡にある。

連理の榊の説明板
瀬戸内の温暖な気候を受けて、南方系の植物が繁茂したのでしょう。
蘇鉄や榊などの樹木以外にも檝取社への道脇には南方系の羊歯類と思しきものが地表に。
神道では山岳・磐座信仰として、名峰・巨石・瀑布・洞窟を御神体とする事が【浸透】していますが、
樹木もその範疇に入ります。多くの社には御神木がありますが、多くは神の憑代として信仰されています。
重文の社殿とは異なる意味で、こちらも天然記念物と言えるでしょう。
元は自然に対する畏敬の念だと思いますが、今では金運・恋愛・合格など現世利益を結びつける事が多く、
その方が参拝者にも受けるようです。まさか参拝者を【かも】にしている訳ではないでしょうが…。

檝取社への道

羊歯類と思われるが…
[参考書]
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駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口 → 室津漁港 → 浄運寺 → 賀茂神社

賀茂神社(室明神社)
浄運寺で友君の御墓に参拝した後は港の方へ戻りますが、室津漁港の南岸の明神山に鎮座するのが賀茂神社。
道すがら海に突き出た岬にこんもりとした森が見えるのがその場所です。
最初に訪れた海駅館で「室津では一見の価値がありますよ。」との話。
地元なので割り引いて聞きましたが、実際来て見ると小さな港町には不釣り合いなぐらいの広大な社でした。

岬の上に建つ神社

階段を上った先に建つ石鳥居
姫路藩主本多忠国の寄進である。

広い境内の案内図

石鳥居下から上って来た階段を見返る
賀茂神社(かもじんじゃ)は別名を室明神社(むろみょうじんしゃ)と言い、
『奈良時代の『播磨風土記』にも登場する室津は古代より良港として知られ、
平安時代には京都の北賀茂神社の神領となり分社が設けられ、そこから門前町が発達した。
御祭神は賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)である。
治承4年(1180年)、平清盛が厳島詣の際にこの神社に立寄り、海上祈願を行った。
そのとき、古びた5・6棟の社殿が立ち並んでいた事が「高倉院厳島行幸記」に見える。
表門をくぐると社殿の脇に出、正面に唐門を持ち回廊内に書く社殿が並ぶ。
表門は四脚門と呼ばれ龍の彫刻で有名。両側の上段にある龍の足の部分が馬の蹄で「馬足の龍」と呼ばれる。

鳥居の先の表門(四脚門)
平清盛参拝の杜の札が架かる。

境内側からみた表門

表門にある龍の彫刻
本殿と両脇の二棟を合せた五棟の社殿は、いずれも屋根が流麗な檜皮葺の流造で、
本殿は元禄12年(1699年)の再建、他の建物も江戸中期の建物である。
古代様式の清楚で荘厳な佇まいを今に伝える。
そして五棟の社殿と唐門、両脇の回廊を含めた八棟が国の重要文化財に指定されている。
奉納されている神馬図は狩野元信の筆になるもので重文、神社入口の石鳥居は姫路城主本多忠国の寄進である。

北側にある唐門、東西回廊とその奥に並ぶ五社殿
全て国の重要文化財に指定されている。

西回廊と唐門

正面から見た唐門

唐門の奥に建つ本殿の説明

東回廊から西回廊を見る

賀茂神社本殿

本殿東に続く摂社・片岡社太田社本殿と榲尾社本殿
文化元年(1804年)に出版された『播州名所巡覧図絵』には境内と周辺の様子が描かれているが、
五棟の社殿に加え、御祖(みおや)社・参籠所・拝殿・絵馬堂・表門(四脚門)・蘇鉄の群生等今と変わらぬ姿を見る事ができる。
また急な石段を上る参拝者や境内の商人、室津港に浮かぶ帆船や檝取(かじとり)社からの参拝道も描かれ、
室津と賀茂神社の殷賑が描写されている。かつては多宝塔、藤棚の他、御祖社に拝殿があった事も分かる。
江戸時代の室津には多くの外国人が上陸。オランダ商館長に同行したシーボルトも文政9年(1826年)に
室津を訪れており、参籠所からの播磨灘を絶賛している。
この図絵はその時に描かれたもので、彼の紀行文と併せ当時を知る貴重な資料となっている。
室津は海上交通の要衝として栄え、西国大名の参勤や外国人の参府にも関り人・物・情報が行き交った。
当社はこのような港湾都市室津の要となる歴史文化遺産である。』 とあります。

播州名所巡覧図絵

江戸時代の室津の説明

(続)江戸時代の室津の説明

唐門の向かいにある拝殿
とび拝殿という極めて特色のある配置となっている。

拝殿近影

拝殿の唐門にある葵紋
葵紋は賀茂神社の社紋である。

拝殿西側の絵馬堂と神馬舎

更に西にある参籠所(社務所)

社殿西側を囲む土塀
港の発展は賀茂神社と共にあったようですが、神社の場所も港を扼する或いは出入り口に当たる岬の突端の高台。
社殿の奥から坂を下った場所にある檝取社は正に港に出入りする船を監視する位置で、
更に進むと湊口御番所と単なる精神的な鎮護だけではなく、地勢的にも港を護る要の場所にあると言えます。
室津が神領になったのは平安時代で、その後分社が成立。
その歴史的意味を考えると、港として繁栄した室津が国家の税から逃れるべく権門の社寺に土地を寄進。
不輸不入の権を得たことで町は一層発展し社寺は分社を建てて己の勢力下にある事を示した、と言う事でしょうか?
平安時代の格差社会と言えますが、権門もその利益の一部を荘園の民に還元しているので、
今の格差とは格差があるようです。

岬の西突端へ下る坂道

坂を下った場所にある檝取社

檝取社正面
但し、崖っぷちに建つので注意!

檝取社から見える瀬戸内海

賀茂神社御朱印
[参考書]
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駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口 → 室津漁港 → 浄運寺

清涼山 浄運寺(浄土宗知恩院派 法然上人霊跡)
手前の石碑が友君の墓。
突端の藻振鼻から坂を下って戻る途中の小高い丘に建つのが浄運寺。
港から行くと石垣を持った城門風の山門が見えますが、これは北門。
正式には海に面した西門から入るのが筋のようです。
清涼山浄運寺(せいりょうざんじょううんじ)は、
『文治元年(1185年)、法然上人の高弟信寂上人が播磨国教化の道すがら、
室津の長者十川氏の帰依を受けて建立されたのが嚆矢。
当初は西方寺と呼ばれたが、慶長年間に浄運寺と改称された。

海側に開いた浄運寺西門

西門脇に掲げられた縁起

正門に当たる西門から入山

西門近影
奥に見えるのが本堂。

城門風の北門
室津港から向かうとこちらから入山になる。

境内から見た北門
上は鐘楼になっている。
当寺は法然上人25霊場の一つ。建永2年(1207年)上人が後鳥羽上皇の怒りに触れて
讃岐に流される際に、この地に立寄った。その時、以下の伝承が伝わっている。
室津は我が国で遊廓発祥の地とされ、土地の長者の娘であった「室の君」は容姿・品格・芸妓に
抜きんでていたが、他に「友君」と呼ばれた遊女が居た。
彼女は木曽義仲の側室「ふき」で義仲討死後は播磨に留まり、遊女となって義仲を供養していた。
自らの罪深さに苦しんだ友君は、法然上人が室津に居ると聞くと船を出して、将来の不安について法然に問うた。
「今の生業を変えることが出来ぬのなら、卑下することなく、ただ唯阿弥陀仏の本願を深く信じ、念仏を唱えなさい。」
と説いた。
それを聞いた友君は法然に拠って得度し出家。後に許され配流先から戻る途中に当地へ立ち寄った法然は、
友君が念仏往生を遂げたと伝え聞いた、と言われる。
海側の門前には友君の墓があり、寺には彼女に纏わる遺物があるという。
これらの話は浄土宗の広まりと共に、女人往生の説法に用いられたものであろう。』
とあります。

浄運寺から海側に下りた道にある「法然上人 貝堀の井戸」

法然上人が貝殻で掘ったという井戸の由緒
海辺なのに淡水が湧く不思議。

南側から見た境内
左が西門、正面が北門。

北門から見た庫裏(手前)と本堂

本堂正面

北門脇にある観音堂

書院玄関

玄関に置かれた鬼瓦
山門を抜けると正面に本堂。その手前には枝垂梅、山門脇には見事な貝塚伊吹(柏槙)がありました。
初め本堂は外陣から拝観しましたが、御朱印を御願いすると住職夫人が対応。
内陣まで案内して頂いた上、説明までして頂くという幸運に。
御本尊の阿弥陀如来は運慶の作。
その右奥には賀茂神社の旧仏であった多宝如来像、法然上人像、友君像と並びます。
上人の頭部は木造で法然作、胴体は粘土で友君の作。
友君の像は彼女の没後、配流先から戻った法然が彫ったものだそう。
随分と複雑な由来ですが、どこまで真実を伝えているのでしょう。

本堂前の枝垂れ梅

西門脇の貝塚伊吹

本堂入口

本堂に掲げられた「浄運寺」の扁額

本堂前からの眺望

本堂内陣

伝運慶作の御本尊・阿弥陀如来像

御本尊右側の多宝如来像

法然上人像

友君像
友君の墓と思って境内でお参りしたのは、実は「室の君」の供養塔。訊かなければ、スルーする所でした。
友君の塚は海を見下ろす場所、せめて墓所なりとも眺めの良い場所にという心遣いでしょうか。
遊女念仏往生はあくまでも伝説の域。親鸞聖人の悪人正機説もあるように、
浄土の教えはどのような人も極楽往生できる事を簡潔に伝えるところに主眼があったようで、
それが後世に信者の数が増える原因だった気がします。
キリスト教でもマグダラのマリアの説話があるように、洋の東西を問わないようですが…。

境内にある「室の君」供養塔
普賢菩薩の化身となっている。

西門の外に在る遊女・友君の塚
室津の海を見下ろす立地である。

友君の墓石

浄運寺御朱印
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室津の町並み
港町室津の町並みは、歩いても15分程度ですが、ここかしこにかつての繁栄が偲ばれる家屋があります。
『入口の坂を下った先に建つ家屋は「嶋屋」の遺構。嶋屋は近世から近代にかけて廻船問屋として活躍した豪商で、
現在の建物は嶋屋(三木)半四郎が江戸後期に建築。明治6年(1873年)に増築している。
切妻平入本瓦葺二階建てという室津の町屋の特徴を良く残しており、座敷回りの意匠が優れている。
二階建てが許されなかった当時としては珍しく、嶋屋の繁栄振りが偲ばれる。
現在は「たつの市立室津海駅館」として、海の宿駅として栄えた室津の歴史を展示、研修所としても利用されている。

室津港へ向かう坂道からの眺望

坂を下った先に建つ「たつの市立室津海駅館」
近世に豪商として活躍した廻船問屋「嶋屋」の遺構。

海駅館の案内板

港側に面した「海駅館」の部分

海駅館の内部

海駅館の向かいの建物
今は商店のようだが、二階の張り出しを見るとかつては旅籠だったような…。
さらに海岸線に沿って進んだ左側にあるのは旧魚屋。海藻類や生活物資を主に扱った。
江戸時代には名字帯刀(豊野家)を許され、姫路藩の御用達を務めた豪商の遺構である。
建物に対面する海側には惣会所や高札場を始め、本陣肥後屋や筑前屋が軒を連ねていた。
本陣が手狭な時は豪商の家にも分宿したので、魚屋には大名専用の入口、1階の奥座敷、
2階の上段の間があり、20室150畳を超える規模の建物であった。
建物は大型町屋であるが、一階入口の吊り上げ式二重戸、一階裏側の隠し階段など、
他の室津の町屋にはない仕組みがある。また二階の土間上は室津では珍しい虫籠窓となっている。
今は「たつの市立室津民族館」として江戸時代の古地図、漁業関係資料の展示を行っている。

海岸に沿った街道沿いに建つ「たつの市立室津民俗館」

「民俗館」近影
かつての豪商「魚屋」を改修したもの。

民俗館の二階部分
張出し武と虫籠窓が見える。
室津には、肥後屋・肥前屋・紀伊国屋・筑前屋・薩摩屋・一津屋の六つの本陣があったが、
昭和40年代にこれらの建物は姿を消し、かつてあった場所に石柱が建つのみである。
これらを含めかつてあった旧跡には計21本石柱が建っている。』 とあります。

街道沿いに建つ「本陣 紀伊国屋跡」

「清十郎生家跡」
西鶴作の「お夏清十郎」の清十郎の生家があったとされるが、今は名残を留めていない。

街道を隔てた民俗館の向かいの建物
普通の民家であるが、昔風の造りとなっている。

民家の側面は舟板塀か?
民族館・資料館に加えて、たつの市室津出張所・室津診療所など旧町屋を使用したものは多く、
室津派出所も新しいですが、古い町並みに考慮した造りとなっています。
空き家あるいは公共施設として残すよりも実際に生活する場所として残す方が遥かに大変ですが、
その辺りを上手く対応したと言えるでしょう。

室津診療所

室津駐在所

たつの市室津出張所
左の自転車はこの日の相棒。

出張所は姫路藩 御茶屋跡、朝鮮通信使宿舎跡に建つ

駐在所の向かいにある町屋を利用した料亭
町並みは港入口から賀茂神社への参道付近までの1㎞余りで、その先に建つのが室津小学校。
立派な校舎は室津の豪商からの援助もあったのでしょう。明治5年(1872年)開校の伝統校ですが
2021年3月末で御津小学校に統合され150年の歴史に幕を下ろしました。
最近まで伝統ある校舎が使用された小学校は、室津の他にも開智(長野)・吹屋(岡山)・登米(宮城)等がありますが、
老朽化と言うよりも生徒数の減少が主な原因。
しかし中には滋賀県の沖島小学校の様にそこでの教育に憧れて校区外から入学する人も居るとか。
教育というものの根本に立ち返る必要がありそうです。
室津に今に残ったものを見る限り、鞆の浦と似た状況ですが、観光客の数は雲泥の差。
映画の舞台になった云々もあるでしょうが、やはり公共交通機関の少なさがネックなのでしょうか?
町としてはより多くの観光客が望まれますが、この静かな姿を保って欲しいと思う気もします。

賀茂神社への参道の曲り角の町屋

町屋の間から見える港

今は閉校となったなった室津小学校
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室津港
瀬戸内の穏やかな海を眼前に控える室津は1300年の歴史を持つ港町。
『室津は『播磨国風土記』に、室のように風を防ぐ泊であったと記され、
行基が定めたと伝える摂播五泊の西端の港で、奈良時代から栄えた港である。
平安時代には京都の北賀茂神社の神領となり分社が設けられ門前町が発達、
室町時代には室山城の城下町が成立した。

室津の沿革

観光案内板

港に停泊中の漁船

漁師町室津は賀茂神社の建つ岬に守られた自然の良港
江戸時代には姫路藩の港となり、一番の栄華を迎える。慶安2年(1649年)には港の入口に湊口御番所を設置。
西北の隅に灯籠堂を建て、姫路藩の侍が昼夜に亘り港を監視した。
西国大名は参勤交代の時、殆んどがここ室津で船から上陸、陸路を江戸へ向かった。
室津は海と陸の接点、宿場町として賑わい、薩摩屋をはじめ6軒の本陣があった。
明治以後、交通手段と交通路の変化に伴い、「室津千軒」と言われ殷賑を極めた港町も急速に衰退していった。
しかし今でも町内には町屋が残り、かつての繁栄を物語っている。』 とあります。

岬側から見た室津港

防波堤

湊口御番所跡碑

御番所跡公園の巨石

巨石の説明
時代と共に町の盛衰があるのは珍しい事ではありません。
交通路が変わったのは事実ですが、漁港としての室津は昔のまま。この日も港には多くの漁船が停泊していました。
播磨は瀬戸内の魚介類が豊富なことで知られますが、この付近は、いかなご・穴子・牡蠣が夙に有名。
しかし地元の方の話では、近年いかなごの漁獲高が激減、若い人も町を出ていく人が多いそうです。
いまは牡蠣の養殖に力を入れているようで、室津への途中にあった道の駅・地元販売所はどこも車で満車状態。
いかなごに代わる目玉商品になるよう【釘煮】を刺さないといけませんね。

もやい石

もやい石の説明

御番所跡公園から坂を上ると賀茂神社へ続く

御旅所
漁港の北側、漁協の上に建つ。
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室津の海
この日は、晴天で気温も上がるという天気予報を聞き、朝一番の電車で山陽本線の倉敷へ。
そこでの野暮用は直ぐに片付きましたが、そのまま帰宅するのも芸がないので港町と梅を見るべく、早春の播州路へ。
室津・綾部には山陽本線終点の網干が最寄り駅。
バスもありますが、一日の本数が余りにも少なく非現実的なので、JR網干駅前からレンタサイクルを利用。
地図上では12㎞程に見えましたが、南下して山陽本線網干までもそこそこの距離でした。
山陽網干駅の直ぐ南を通る国道250線をひたすら西へ。揖保川とその分流の中川・元川を渡ると旧御津町になります。

倉敷市マンホール蓋
配布場所はホテル グラン・ココエ倉敷 3階フロント。

倉敷市マンホールカード (E)
早くも倉敷市のMHCは5種類目に。
『室津までの道筋には海水浴や潮干狩りで知られる新舞子浜が、
また綾部山には梅林があって春から夏にかけて、阪神・姫路方面の多くの観光客を迎えている。
国道が南に向かう場所には岩見港があり、そこから室津までの3㎞の海岸は七曲りと呼び、断崖絶壁と屈曲した道が続く。
ここは海上に家島群島や唐荷(からに)島を望む景勝地で、瀬戸内海国立公園の一部となっている。

国道から見た岩見港

港の向こうの山肌には露出した岩が…
これが岩見港の語源では?

岩見港から室津まで続く七曲り
七曲りの終わる場所が室津への入口で、町へは国道の左側にある細道を海岸まで緩やかに下っていく。
海岸に出た場所が室津漁港で、更に道を南にいった先が藻振鼻。
その沖合い2㎞に浮かぶのが唐荷島。三つの島の総称で、それぞれ地の唐荷・中の唐荷・沖の唐荷と呼ばれる。
その昔、唐土の船が難破してその積み荷がこの島に流れ着いたことからこの名が付いたとされ、
古くから多くの歌人に詠まれている文学の島でもある。藻振鼻には
・玉藻刈る 辛荷の島に 島廻する 鵜にしもあれや 家思はざらむ
と詠んだ山部赤人の万葉歌碑が建っている。』 とあります。

室津への入口
右が国道250号線。

岬の西側を藻振鼻へ
中央に見えるのが賀茂神社の杜。

藻振鼻から見た沖合に浮かぶ唐荷島

かつてここに在った観音堂跡
250線を西行している間は道も広く気になりませんでしたが、そろそろ坂道に差し掛かったら七曲りの入口。
岩見漁港から南を見ると七曲りの道が遥か向こうまで続いています。
思わず【太陽に吠えろ】と言った気分でしたが、進んでいくと意外にも勾配は緩く自転車を押す事はありませんでした。
途中、振り返るとおおきな岩肌が山の中腹に。これが岩見の名の由来なのでしょう。
室津の入口からは岬の突端まではすぐ。徒歩でも15分程度でしょうか。
藻振鼻と呼ばれる場所にはかつて観音寺があったそうですが今は無く石碑のみ。
唐荷島の由緒は唐土の船の積み荷とありますが、赤人の歌に「辛荷」とある【からに】は、
海に投げ出された積み荷が塩辛くなった事例が、後に「辛→唐」と文学的に変化したように思いますがどうでしょうか?
由緒は兎も角、ここからの瀬戸内の眺望は素晴らしく、地元の年配女性3人が展望所のベンチに腰掛け談笑中。
周囲には梅もあり、塩と梅の香りが混ざっていい【塩梅】でした。

沖に三つ並んだ唐荷島

突端では磯釣りに興じる太公望の姿も

山部赤人歌碑
万葉仮名は犬養孝揮毫。

藻振鼻にある白梅

白梅近影
萬葉の里には桜より梅が似合う。
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知多半田 → 徒歩3分 → 旧中埜家 → 徒歩8分 → 半田運河 → 半六庭園 → JR半田(11:14) → JR名古屋(12:03→12:06) → JR桑名(12:28) → 観光案内所 → レンタサイクル5分 → 七里の渡し跡 → レンタサイクル10分 → 照源寺 → レンタサイクル5分 → 勧学寺 → レンタサイクル7分 → 観光案内所
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走井山 勧学寺(高野山真言宗 伊勢西国三十三ヵ所第三十一番札所)
藩主の菩提寺に参拝した桑名での巡礼は果たした様なものですが、少し南へ下った場所に
古刹があると案内にあったので、欲を出してそちらへも参拝。丁度、伊勢西国札所であったのも幸いでした。
走井山勧学寺(はしりいさんかんがくじ)は、
『聖武天皇の天平年間、東国巡化の折に当地を訪れた行基菩薩がその風景を愛でて、
自ら千手観音立像を彫刻し安置したのが嚆矢。境内にあった名水「走り井」に拠って山号とした。
付近の丘陵は観音山または走井山と呼ばれる突角の要地で、
元亀或いは天正年間に矢田半右衛門尉俊元が矢田城を築城した。
当主は観音を信仰し、これを城の北方に祀ったという。
矢田城は織田信長の家臣・滝川一益の勢州平定に拠り陥落、当主俊元は自害した。

由緒記

丈六の千手観音を祀る本堂
江戸の元和元年(1615年)に桑名城主・本多忠勝の家臣であった本多半弥が山麓にあった観音堂を
矢田城址走井山に移し、更に後の藩主松平定重がこれを再建修復した。
伊勢湾を一望できる景勝地で、石段から表門を入ると正面に本堂・太子堂、左手に鐘楼・庫裏と続き
右手に水茶屋があって常に遊山の人々で賑わったと言う。

本堂前面の様子

本堂に掲げられた「走井山」の扁額
本尊は県文化財の千手観音立像で約六尺、かつて西北にあった海善寺が廃寺になった際に本尊が移されたもの。
寺伝に拠れば弘仁年間の810年の作とされるが、破損が著しく、修復を経て今に至っている。
開帳は毎年8月10日でこれを十日観音と称し、前日の九日より山は人で埋まったと言われる。』
とあります。

本堂前から南を見る

本堂脇の聖徳殿・太子堂
成程、実際に来て見ると説明通り周囲を見渡す要害の地。
城址に寺を移転した訳で、有事の際にはここを陣地にも転用できる事を見越しての事でしょう。
そんな境内を見渡すと、寺務所、庫裏がなく人の気配もなし。参拝すべく本堂前に行くと、
・御朱印は大福田寺で行っております。
との記載が。札所では時折見かけるパターンですが、伊勢西国三十四ヵ寺では五ヵ寺がそうなっていました。
当寺は風景印にも記載されている名刹。歴史もあり、要衝ながら無住になってしまうのもまた運命。
今は立地よりもリッチなお寺が生き残る時代と言えそうです。

境内の白梅

大福田寺で拝受した勧学寺の御朱印 (伊勢西国札所)

桑名馬道郵便局 ; 走井山勧学寺本堂、千手観音立像、サツキ
[参考書]
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東海山 照源寺(浄土宗)
照源寺で創建当初から今に残るのは山門と墓所ですが、加えて境内に鬱蒼と生える樹木が一層の趣を添えます。
『本堂前に生える二本の黒松は、両方の根元からほぼ水平に出ている側根が互いに癒着して連立しており、
夫婦松(別名、連立の松)と呼ばれるもの。日本の名松・百選にも選定された桑名市天然記念物である。

境内に茂る樹木群

日本の名松百選の一つである「夫婦松」

夫婦松の説明
また境内にある金龍桜は定綱が摂津の天台宗金龍寺から分植したもので、
一重と八重の花が同じ枝で咲く珍しいものである。
その他、本玄関と書院と間に中庭が、書院奥・墓所前には「二十五菩薩来迎図」を
表現した書院庭園がある。』 とあります。

庫裏の玄関前からの境内の眺望

玄関から夫婦松と本堂を望む
寺務所で御朱印を御願いしましたが御住職が不在なので書置きを拝受。
通常の御本尊に加えて、松と桜の見開き御朱印があり3月なので桜を拝受。
但し、境内の金龍桜は蕾も膨らんでいない状態でした。

参道の左にある金龍桜
季節柄、このような状態。

金龍桜の見開き御朱印

金龍桜の説明と御好意で頂いた「アマビエの御札」
デザインは近隣のお寺の僧侶との話。
和辻;「藩主の墓所は見学できますか?」
夫人;「大丈夫です。本堂横を進むと案内がありますので。」
和辻;「中庭・書院庭園の見学は?」
夫人;「申し訳ないですが、庭は拝観していないのですよ。」
との事。早速、歴代藩主に敬意を表して墓所にお参り。

松平家墓所への石段

史跡 墓所の説明

五代藩主松平定綱墓所

右は白河藩主松平定信(楽翁)の墓所
明治維新まで改易・転封がなかったのは、松平氏の当地での統治が的確だったからでしょう。
加えて墓所の帰りに塀越しに書院庭園を見ることが出来たのも幸運でした。
松は青々と屹立していましたが桜は春を【まつ】状態。常緑だから当然ですが連理となったのは稀有の事だそう。
何故かと考えるに藩主が久松から松平に改姓したからだと納得した次第です。

本堂裏手にある書院庭園

「二十五菩薩来迎図」を表現した書院庭園
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東海山 照源寺(浄土宗)
桑名の町割りを定め、近世桑名藩の礎を築いた本多忠勝公に続き、嫡男忠政が藩主となりますが
大坂夏の陣の後、播磨姫路へ転封。
といっても10万石から15万石への加増で、しかも西国の要衝である姫路ですから栄転といえましょう。
代わって当地には徳川家康の異父弟であった松平定勝が入部。久松松平氏の統治が始まります。
東海山照源寺(とうかいさんしょうげんじ)は、
『桑名藩主松平隠岐守定勝の菩提を弔うため、子の定行が寛永元年(1624年)に遠州掛川より
伝挙三甫上人を開山として創建。当初は崇源寺と号したが、秀忠夫人の法号を憚り照源寺に改称した。

照源寺由緒

桑名指定文化財となっている寛永元年(1624年)建立の山門

美しい筆致で書かれた山門の説明

下から見上げた山門の屋根裏構造
松平定勝は徳川家康の異父弟、於大の方(伝通院)の再婚した久松氏の出である。
家康に仕えて小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いで武功を重ね、家康の信頼も厚く葵紋と松平氏を賜った。
元和3年(1617年)には二代将軍秀忠より桑名十一万石を与えられている。
定行は寛永12年(1635年)に伊予松山に転封となるが、桑名は実弟の定綱が継ぎ、
照源寺も歴代桑名藩主の菩提寺として寺領200石を安堵されている。
江戸時代には多くの僧侶を輩出する修行道場として隆盛を極めた。

山門前にある「仙台枝垂れ桜」
創建当時から残っているのは、山門と26基の松平家霊廟でいずれも市の文化財と県の史跡。
本堂は明治23年の改築で入母屋・桟瓦葺で内陣には本尊の阿弥陀如来を祀る。
当寺には家康公由来の仏舎利、二十五菩薩来迎図、楽翁公(松平定信)肖像等、寺宝が残されているが、
中でも「解体新書」挿画を書いた小田野直武に拠る日本風景図は日本絵画史上貴重とされる。』 とあります。

山門を潜りすぐ左手にある鐘楼堂

参道から山門を振り返る

参道の先に建つ本堂

左側より見た本堂

本堂に掲げられた「東海山」の扁額
宿場町である東海道沿いは海に近く庶民のエネルギーを感じますが、菩提寺の建つ線路の西側は
木々に囲まれた静寂の地。
同じ東海でも海と山ではこれだけ違うと言う事ですが、歴代の名将の眠る【名勝】と言えましょう。
家康の異父弟とはいえ、入部した時には家康は既に泉下の人。
それでもこの要地に封じられたのは、幕府の信頼が厚かったために他なりません。
本多忠勝に比べると知名度は低い久松松平家ですが、勤勉実直な人だったのでしょう。
桑名藩も幕府の信頼に応え、幕末に於いて最後まで幕府に忠誠を尽くしたのが、会津藩、庄内藩とここ桑名藩でした。

本堂前からの境内の眺望

本堂と庫裏前の枯山水庭園

照源寺説明冊子

照源寺御朱印 (御本尊)
[参考書]
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東海道五十三次桑名宿
七里の渡が有名ですが、桑名は松平家の城下町、かつ東海道五十三次42番目の宿場町でもあり、
旅籠数120軒を数える賑やかな場所でした。今でも町のそこかしこには宿場の雰囲気が残ります。
ここ桑名の町割に功績があったのが、本多忠勝公。
『本多忠勝公は関ヶ原の戦いの戦功により、慶長5年(1600年)上総大多喜より伊勢桑名十万石に転封になった。
入部した忠勝公は木曽三川の水運で栄えた港町を、城を中心とした城下町に造り変えるという
大胆な都市再開発事業を断行。これを「慶長の町割」と呼び、桑名で計画的に町造りが行われた最初とされる。
城下町・港町・宿場町という三機能を併せ持つ桑名の町は公の第一の功績である。
慶長15年に63歳で没した忠勝公は、城下の浄土寺に葬られている。

九華公園にある本多忠勝像

忠勝公像近影

像の下にある忠勝公事績

蟠龍櫓内に展示されている忠勝公の肖像画(複製)
旧東海道は七里の渡から南に向かいますが、渡跡から八間通までの川口町・江戸町付近が
宿場らしい場所で、案内図ではかつては花街であったと言う。
渡付近にはかつて大塚本陣、脇本陣駿河屋があったが、現在前者は料理旅館船津屋に、
後者は料亭山月となっている。
明治42年桑名に講演に来た泉鏡花は船津屋に宿泊、その時の印象を基に小説『歌行燈』を書いた。』
とあります。

渡跡から八間通りの旧東海道
桑名宿では旧東海道はベージュでカラー舗装されている。かつては花街であったと言うが、今は、はまぐり専門店が多い。

大塚本陣跡
かつては裏庭から直接乗船できたと言う。現在は料理旅館・船津屋として営業。

船津屋の東に隣接する船番所・脇本陣の駿河屋跡
こちらも今は料理旅館・山月として営業中。

駿河屋跡に建つ石碑
本多忠勝公と言えば「槍の平八郎」の異名を取った徳川四天王の一人。
関ヶ原では軍鑑を務めるなど武人の印象が強いですが、桑名の町割を造った事など武辺一本槍ではなかったようです。
船津屋脇には歌行燈句碑が建ち、戯曲『歌行燈』を書いた久保田万太郎の作。
てっきり作者が詠んだとおもいましたが説明を見て【行燈】。作者ならやはり【狂歌】になるでしょう。

船津屋脇に建つ「歌行燈」句碑
但し、摩滅しているためか読み辛いのが難点。

句碑の説明
丁度昼時でしたが、船津屋や山月は敷居が高くて敬遠。街道沿いにあるその名も「歌行燈」で昼食。
明治10年創業の老舗のうどん屋さんですが、鏡花の作品に由来する名前。
「うどん」に「たあん」を加えると「うたあんどん」。他案の入り込む余地はなかったのでしょう。
巡礼で饂飩は定番ですが、またこの付近は弥次喜多道中でも有名な蛤の店が多くあり、
名物「蛤歌行燈御膳」を頂きました。もし半田で昼食ならば【す】うどんだったでしょう。
昨今、漁獲量が激減し価格が高騰気味の蛤ですが、それなりのリーズナブルな値段で頂くことができました。
もっと安くなれば、焼き蛤を頂きたい所です。勿論、【しちりん】で…。

旧東海道沿いにある「歌行燈」

正面から見た「歌行燈」

名物「蛤歌行燈御膳」

桑名郵便局 ; 名産・白魚、蛤、七里の渡碑、揖斐川堤の桜
桑名城南郵便局 ; 旧東海道沿道の安永の常夜燈、町屋川、町屋橋

JR桑名駅スタンプ
(上) わたしの旅 シリーズ (下) 関西本線 名古屋~亀山電化記念

JR桑名駅スタンプ 2008年JR東海名古屋支社印
[参考書]
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七里の渡跡
半田運河を巡った後は武豊線・東海道本線で名古屋まで戻り、関西本線で伊勢の桑名へ。
JR東海道本線は名古屋から北上して関ヶ原・米原方面へ向かいますが、
江戸時代の東海道はほぼJR関西本線コース。国道一号線もこれを踏襲しています。
唯、線路や道路で行ける現在と異なり、江戸時代は名古屋(宮宿)から桑名までは唯一の海路でした。
理由は色々とあるでしょうが、この付近は木曽三川が複雑に入り混じって伊勢湾に流れ込んでおり、
大きな橋を架ける事に抵抗があった幕府が、川ごとの渡しではなく一気に海を渡る事にしたと思えます。

七里の渡跡に建つ伊勢国一の鳥居
ここから伊勢国という意味合いか?

七里の渡の案内板

七里の渡跡付近の地図
太い赤線が旧東海道。

七里の渡跡説明
『宮宿と桑名宿の間は東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28㎞)であった事から七里の渡と呼ばれる。
七里の渡は丁度、伊勢国の東入口に当たるため、伊勢国の一の鳥居が天明年間(1781~1789年)に建てられた。
渡の西側には舟番所、高札場・脇本陣・駿河屋・大塚本陣が、南側には船会所・人馬問屋や庭本陣があり、
東海道を行き交う人々で賑わい桑名宿の中心として栄えた。
昭和33年(1958年)に三重県指定史跡になるが、翌34年の伊勢湾台風でこの付近は甚大な被害を受けた。
その後、渡跡の前には堤防が築かれたため、江戸時代とは異なる景観となっている。

渡跡の前に築かれた堤防
堤防の向こうには揖斐川が流れる。

少し高みから見た堤防

堤防の上から見た揖斐川
更に向こうが長良川で遠くに長良川河口堰が見える。

堤防の上から見た七里の渡跡

七里の渡跡にて鳥居を仰ぐ
また渡の東には蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が建つ。桑名城には元禄大火後の再建時にも51の櫓があったが、
川口にある七里の渡に面して建てられた蟠龍櫓は東海道を行き交う人々が目にする桑名の象徴的存在であった。
廣重の東海道五十三次(保永堂版)でも描かれている。』 とあります。

渡跡の先に続く蟠龍櫓

渡跡から南へ伸びる水路
今でも多くの船が停泊する場所である。

陸側から見た蟠龍櫓全景

揖斐川側から見た蟠龍櫓

櫓の屋根の鬼瓦
藩主本多家の家紋「立ち葵」と蟠龍。

櫓内部に展示されている蟠龍

櫓の狭間から七里の渡跡を望む
七里の渡は伊勢湾を横断しますが、尾張の宮の渡も伊勢の桑名の渡も海でなく
川で少し内陸に入った場所にあったとは今回初めて知りました。
内海とはいえ荒波を防ぐ意図があったようですが、海に棲むフナクイムシの被害を防ぐためでもあったのでしょう。
現代の感覚からすれば途中に海路を挟むのは能率が悪いように思えますが、
陸上の移動では徒歩が主流であった時代には、船の移動は時間的・物量的にも効率の良い方法でした。
外海と異なり伊勢湾では海難事故も殆どなかったと思えます。
それを思えば海の字を持つ東海道と言う呼び名は相応しいといえましょう。

歌川廣重 東海道五十三次 桑名「七里の渡し」 (保永堂版)
蟠龍櫓に展示されているもの。

桑名市マンホール蓋

桑名市マンホールカード(B) 配布場所はこちら

桑名八幡郵便局 ; 歌川廣重 東海道五十三次 桑名「七里の渡し」 (保永堂版)
[参考書]
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知多半田 → 徒歩3分 → 旧中埜家 → 徒歩8分 → 半田運河 → 半六庭園 → JR半田(11:14) → JR名古屋(12:03)

半六庭園正面入口(西門)
半田の豪邸は個人宅なので、中に入って見ることはできませんが、唯一見る事ができるのが旧中埜半六邸。
半田運河沿いの中埜酒店の南に隣接した場所に建ちます。
源兵衛橋から北上すると、道沿いに朱色塀が見えますが、こちらは裏の南門。正面玄関は西門になります。

邸の西側を南北に走る道

邸の南西端にある朱色塀

半六庭園の説明

庭園地図

景観重要建造物
『中埜家は江戸時代から地元の発展に貢献した豪商。
現在に残る屋敷と庭園は、明治22年(1889年)建築の中埜半六旧邸宅。
かつては母屋を始め茶室や九つの蔵など多くの棟が立ち並んでいた。
回遊式の日本庭園の泉水は海水を引き込み、潮の干満に合わせて水面が上下したと言われる。

南側側から見た母屋正面
今は1階がHANROK、2階が半六コラボと言う施設になっている。

母屋二階部分の張り出し

母屋西側の「ばぁむくぅへん研究所」
製造販売も行っている様子。

母屋南側の茶室跡

母屋の一角にある井戸と炊事場
また昭和40年代半ばから50年代初めまで、大相撲名古屋場所の折には
二所ノ関部屋宿舎として使用されており、第48第横綱大鵬も母屋二階で就寝していたと言われる。
現在、建家はフレンチレストラン・バームクーヘン専門店や貸部屋として利用され、
屋敷前の半六庭園は来訪者の憩いの場として無料で開放されている。』 とあります。

母屋の南にある広場
先には半田運河が流れる。

東側から見た母屋
この二階に大鵬関が泊まった?

東から見た庭園と母屋全景

母屋の縁側から北側を望む
奥の黒板塀は中埜酒造の建物。

庭園と四阿、その奥に建つ岸蔵(左)・前蔵
岸蔵は現在お手洗いとなっている。
半田の富豪・豪商の邸宅は今も子孫の方々が住まれている現役の建物が殆ど。
浮き沈みの激しい世の中での保持は、余程しっかりとした家訓が守られていると想像しています。
そんな中で見学できる半六庭園は貴重な存在。といって持ち主は中埜家ですから
左前になって手放したのではなく、地域に対する貢献といえるでしょうか。
大鵬関が定宿としただけあって邸内や庭園は横綱級。庭園が整備されているのは勿論ですが、
邸が綺麗に保たれているのは施設として利用されているから。玉子焼きではなくバームクーヘンでしたが、
なまじ使わずにいるよりも適度に使用する方が、良好に保存される道理です。

母屋と西蔵の間の中庭

中庭の紅梅

南から見た中庭
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