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神福山 青龍院 大澤寺(高野山真言宗)
水が湧く場所には樹木が生えるのは何ら不思議ではありませんが、
境内は周囲の山々とはまた違った植生が見られます。
『池の周りには杉、樅、木斛、百日紅、カゴノキ等の古木がある。
放生池の畔にあるのは「智恵の柳」。
弘法大師の杖より芽が生じたと言われる結界を示す二株の柳で、
嵐で倒れても根元から新芽が出て育ち、現在では千年余りに。
古文書にも「この寺の法灯の輝く限り柳は朽ち果てる事はなかろう。」 と書かれている。

太鼓橋周辺の植生

本堂の周辺

智恵の柳
太鼓橋の手前左にある百日紅は、江戸時代の境内図に成木として描かれており、
樹齢500年以上を誇る。今も8月半ばには美しい花を咲かせる。
前山にある山桜、イロハカエデは老木が多く、江戸時代描かれた『五條十八景』に
「勢堂紅葉」として紹介されている。』 とあります。
御朱印を拝受した際の御住職の話では、
住職;「太鼓橋横の楓と池の端に植えられている楓が最も綺麗に紅葉しますね。」
との事でした。

太鼓橋袂の躑躅

太鼓橋脇の百日紅の古木

樹齢を感じさせる百日紅の幹

太鼓橋周辺の樹木

太鼓橋横の楓
住職の話では、これが紅葉すると見応えがあるとか。

青竜ノ池の東端からの眺望

池の東側

庫裏の正面付近

十三重石塔と紅葉
琵琶ノ池の奥、護摩壇の周囲には巨木が聳えますが、立て札には有志の寄進とあります。
樹木を育成するのは当寺の伝統なのでしょう。
それよりも生命力が強く、‘柳に雪折れなし’とは言うものの何度枯れても復活する柳に驚き。
人の眼に効果がある水は植物の芽にも効果があるようです。

手入れが行き届いた庫裏に続く書院の前栽

本堂と庫裏の間の中庭

キク科の花?

池の北側の護摩壇

護摩壇の周囲は寄進された樹木が生長して巨木となっている

購入した「せのどうの昔話」 ¥500
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神福山 青龍院 大澤寺(高野山真言宗)
瀬之堂の薬師さんと呼ばれる当寺の名前については次の様な言い伝えがあります。
『当寺は尾根の上にあり、流れ込む川は一つもないにも拘らず、境内にある池には枯れることなく水を湛えている。
今も30㎝も掘れば水が湧くと言う。
14世紀後半の縁起にもそのような趣旨が記されており、これが大澤寺の由来と考えられている。
池には病気祈願のため鯉や亀が放生されてきたので「放生ノ池」、
また水底には水を司る大きな龍が棲むという伝説から「青龍ノ池」とも呼ばれる。

太鼓橋からの放生池(青竜ノ池) 西側

池の説明

太鼓橋から東を望む

由緒記

唯一残った本堂
御本尊は楠の一木造の薬師如来で秘仏。

本堂向拝の下

本堂の扁額「瑠璃光仏」
薬師如来は瑠璃光如来の別名を持つ。

向拝欄間の龍の彫刻
「青龍院」だがら彫られた訳ではないと思うが…。
また池の向かいには断層線からこんこんと浄水が湧出し、
これは「御香水」として眼病治癒に効果があると伝えられる。
ここは古来、「琵琶ノ池」「眼洗い池」と呼ばれ、左が男性、右が女性用となっている。』 とあります。

青竜ノ池の北側にある「琵琶ノ池」
古来、眼病に効果があると言い、今も御香水が販売されている。

琵琶ノ池の説明

太鼓橋の北側にある「一刀三禮ノ石」
役行者はこの石の上に木を置き、御本尊薬師如来を刻んだと伝わる。

享保年間の手水鉢

東側にある庫裏
御朱印はここで拝受。
眼の薬師さんと呼ばれる寺院は各地にありますが、どの寺院も例外なく境内から清冽な水が湧出しています。
衛生状態が今よりも悪く、医薬が乏しかった時代には、綺麗な水は何よりも重宝された筈。
湧き水は川の水と違い、降った雨が長い年月をかけて地中でろ過される訳ですから、
自然に得られる水では群を抜いて清潔。昔の人も経験的に知っていたに違いありません。
青龍池ならぬ清流池といった所でしょうか?

大澤寺説明書

御住職から頂いた大澤寺略縁起

大澤寺御朱印
法要のため、境内を30分散策した後に拝受。
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神福山 青龍院 大澤寺(高野山真言宗)
陀々堂念仏寺に参拝した後は、再び吉野川を遡りJR五条方面へ戻る事に。
次の目的地は、駅の北方5㎞程度と陀々堂よりも近場ですが、
陀々堂が川沿いで殆ど起伏が無いのに対し、こちらはひたすら山道を上る羽目に。
大澤寺という位ですから山中に沢がある場所なのでしょう。途中までは住宅地を通りますが、
そこを抜けると周囲は家も殆どない山道になって、車のすれ違いも困難。
そんな道の行く手に塀が見えたら目的の寺院。

途中まではこのような道を進む

やがて寺院が近づくとこのような道に

道沿いに白壁塀が見えると大澤寺

塀際に咲く菖蒲
神福山青龍院大澤寺(かんぷくざんせいりゅうじだいたくじ)は、
『今から1300年前の白鳳年間、修験道の開祖役小角が
この地を扶桑第一の行場として一宇の草堂を結び、一刀三禮の薬師如来を勧請し
朝夕祈願の浄域と定めたのが瀬之堂(せのどう・せんのんどう)の開基とされる。
弘仁年間、この地を巡錫した弘法大師が伽藍及び真言行者の僧坊の建立など、
真言密教の一大霊場の容相を整え、金剛七坊の一つとして栄えたとされる。
鎌倉末期には仁和寺の別格本山となり、広大な寺域には十二の塔頭を初め
諸国に末寺を擁していたとされるが、今に残るのは本堂と庫裏のみである。

塀の脇には庫裏に続く入口が
但し、ここは正門ではない。

本堂を囲む塀

こちらが正門
但し、ここからは入れない。

正門に続く太鼓橋
かつての木造も昭和8年にコンクリート製に。奥が本堂。

一番奥の駐車場横にある手洗い水
元享年間には後醍醐天皇が南朝興隆のためここを勅願所と定め、
紀州名手の庄に田地25町歩を下賜された。
続く南朝二代目の後村上天皇は瀬之堂を行宮とされ朝廷復権の御心を研がれたと伝わる。
大塔宮護良親王をはじめ楠公一族等、南朝所縁の寺院として栄え、
京都聖護院法親王より「柳の宿」の庵号を賜った。
江戸時代には紀州徳川家の祈願所となり、毎年正月高野山大先達により
息災増益の柴燈護摩法要が厳修されるなど繁栄を見せた。
この頃の事は『五條十八景』に「勢堂紅葉」として紹介されている。
しかしその後は徐々に荒廃し、明治になると無住となり一時は廃寺ともなっていた。
現在、本堂には藤原時代の楠一木造りの薬師如来が秘仏として安置され、
「眼の薬師」として霊験あらたかであり、眼病はじめ子供のひきつけ耳疾等の
平癒の祈祷所として朝野の尊信篤い。』 とあります。

大澤寺由来

西側の駐車場横の入口からの眺望

本堂の南に広がる青竜ノ池(放生池)

池の説明

薬師様のお使いの鯉
人の気配から餌が貰えると思って寄って来たところ。

北側からの池の眺望
山腹ながら良質な水に恵まれたことが寺の発展を支えたようです。
南朝の行在所とされたのも護り易い事に加え、水の影響が大きかったと言えます。
そんな寺院が何故廃れたかという方が気になりますが、
それだけ明治の廃仏毀釈が徹底していたと言う事でしょうか?

太鼓橋から西側を見る

太鼓橋から東側を見る
橋の袂にあるのは百日紅の古木。

知恵の柳 (大師のお杖)
弘法大師の御手植えと伝わり、嵐で倒壊しても根元から新芽が出て育ち千年余りに。
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阪合部山 念仏寺(高野山真言宗)
金剛寺参拝の後は、吉野川に沿って奈良と和歌山の県境まで。
JR和歌山線の駅では一駅先の大和二見が最寄りですが、駅から40分程歩くので自転車が便利。
道は起伏がありますが一本道なので迷う事は無い筈ですが、和歌山県に入ってしまい慌てて引き返して
吉野川を渡る橋へ。そこを渡る手前の木々の生い茂った場所の向こうに寺院はありました。
観光案内所で聞いた鄙びた茅葺の御堂が見えたので、ホッとしましたがそれも束の間。
入口に立つと目ぼしい建造物はこれだけで、すぐに無住寺院と分かりました。

吉野川に沿って走ると、脇の階段を上る事に

東の集落から見ると正面に茅葺の本堂が見える

入口にて境内を見渡す

入口に建つ寺標
念仏寺が正式名だが、地元では陀々堂で通っている。
阪合部山念仏寺(さかいべさんねんぶつじ)は、
『創建の時期は定かではないが、平安末期か鎌倉初期には真言宗寺院として存在していたとされる。
時代は下るが安永3年(1774年)9月の「大津村鑑明細帳」に
「右念仏寺と申者坂合部十二ヵ村之氏寺にて御座候」 とある。
阪合部山という山号から当寺は土地の豪族坂合部氏の氏寺として創建されたという説が有力である。
現在は真言宗に属する無住寺院で、境内には阿弥陀如来を祀る茅葺屋根の本堂(阿弥陀堂)が残るのみである。
この堂宇は陀々堂(だだどう)と呼ばれ、地元では念仏寺という名よりも陀々堂で知られる。

灯りの向こうに建つ本堂

由緒記

茅葺屋根が美しい本堂

正面より見た本堂

本堂前面

擦れて見え辛いが本堂の「陀々堂」の扁額
この名は、松明をかざしてその火の粉で身を浄め禍を焼き払う達陀(だったん)の秘法を行う故事に由来する。
この行法は室町中期に領主坂合部是房の弟頼澄別当が東大寺二月堂の修二会に倣い始めたもので、
毎年1月14日の修二会結願に鬼走り行法を創始し厄除福授を願ったものである。
鬼面4面が今に伝わるが、その一つに文明18年(1486年)の墨書があることから、
その頃には鬼面を使った行事が行われていた事は確実である。
この行事は以後500年以上に亘り絶えることなく伝えられてきた行事で、
国の重要無形民俗文化財に指定されている。』 とあります。

本堂側面

本堂裏面
寄進者の名札が並んでいる。

本堂の茅葺屋根

本堂屋根の頂上部分

本堂後方の収蔵庫

「鬼はしり」の説明板

鬼走りの父鬼
陀々堂とは怪体な響きですが、達陀の秘法由来の言葉【だったん】か!と納得。
鬼が登場する行事は由緒が古いものが多いですが、それだけ昔の人は
異形の鬼に対して畏敬の念を持ったのでしょう。一概に怖がっただけではないようです。
今は無住寺院ですが、地元の方は大切に守っているようで、
途中道を尋ねた「いちご農園」の経営者も「毎日、お参りしています。」との事でした。
地元の人が見守る限り、廃寺になることはなさそうですが…。

境内の護摩壇と宝篋印塔

宝篋印塔近影

境内から見た集落
これらの方々の努力で寺が守られている。

吉野川に架かる橋の名は「さかいべばし」
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小松山 福寿院 金剛寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五霊場第二十三番札所 西国薬師四十九霊場第九番札所)
牡丹園から庫裏の茅葺屋根を望む。
関西花の寺として知られる金剛寺には境内には藤や躑躅なども見られますが、
この時期の見所は何といっても牡丹。
『牡丹は東洋を代表する銘花の一つ。
百花の王として古くから絵画や詩の題材とされ、その花姿から富貴草とも呼ばれる。
中国の甘粛省、陝西省が原産地とされ、日本へは仏教伝来と共に輸入。
施薬として寺院で栽培されていたものが、元禄時代の頃から観賞用として今日の様な牡丹が作られるようになった。

山門下にある「関西 花の寺」と牡丹の図柄

山門を過ぎて直ぐの藤棚

山門脇、白壁前にある躑躅

枯山水庭園(元禄四年の庭園)

境内で一際目立つ榧の巨木

庫裏前の紫蘭
当山の牡丹は、文政5年(1822年)に当寺の住職で唐招提寺長老の本常大和尚が
薬用として植えたのが始まり。以後、牡丹寺として知られるようになった。
北に霊峰金剛山、眼下には吉野川を借景とする牡丹寺は正に浄土を表している。
二千㎡の牡丹園には百種類、二千株の牡丹を中心に椿、木蓮、都忘れ、花水木、
石楠花、金雀枝、大山蓮華等が咲き続ける。
牡丹の花も白、紅、薄紅等、花弁の色模様や花の形も多彩である。
牡丹の栽培には手間暇がかかるが、歴代住職の熱意と吉野川の川霧もその生育に一役買っている。
毎年4月下旬から5月上旬に掛けて牡丹祭が開催される。』 とあります。

観音堂の横を抜け牡丹園へ

手前にある石楠花

石楠花

鉄扇

大山蓮華

柏葉紫陽花?

金雀枝

大デマリ

これはキク科の何でしょう?
芍薬は文字通り根が薬用になりますが、類似の牡丹も同様。根は一つのようです。
僧侶が薬草を栽培するのは奇異に思えるかもしれませんが、
当時の僧侶は学問に加えて最新の技術も習得していたようで、
鑑真和上も唐では医療に従事し来朝時に砂糖や薬を持参したそうです。
時代は下りますが黄檗宗の開祖・隠元禅師も普茶料理と豆を齎しています。
戒律は一般人には余り関係ありませんが、薬や食物となると話は別。
僧侶がいなければ食生活も随分違ったものになっていたでしょう。

牡丹園の様子
少し時期が遅かったような…。

白牡丹

黄牡丹

薄紅牡丹

赤牡丹

紅?牡丹

菖蒲と茅葺屋根

今回拝受の御朱印 (関西花の寺)
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小松山 福寿院 金剛寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五霊場第二十三番札所 西国薬師四十九霊場第九番札所)
本堂参拝の後は、観音堂と庫裏ですが、いずれも唐招提寺と縁が。
山門前の寺標にもそのような記載があります。
『江戸時代の金剛寺は唐招提寺の長老の隠居寺として知られ、
歴代就職は当寺から唐招提寺に出かけた。
奥に建つ観音堂は明治30年(1897年)、当時の唐招提寺長老、大森覚明大僧正に拠って再建。
唐招提寺の金堂を模した造りとなっており、鴟尾には「唐招提寺金堂之模造」と印されている。
堂内に祀られている十一面観音、准胝観音は明治の神仏分離時に天満宮・御霊宮より移したものである。

境内奥に建つ観音堂

鴟尾には「唐招提寺金堂之模造」と刻印
また手前に建つ庫裏は元禄4年(1691年)の建立で茅葺屋根。
長老の隠居の間であると共に、弟子育成の場も兼ねていた。
内部には仏像、曼荼羅図、池大雅や伊藤若冲の書画が展示されている。』 とあります。

庫裏玄関

「江戸時代の金剛寺」
本堂、護摩堂、観音堂と順に参拝した後、庫裏に向かいましたが、
堂内とは打って変わって広々として光溢れる空間。
牡丹の絵画もありましたが、どれが大雅か若冲かは分からず仕舞いでした。
後方の中庭からは遠く葛城山・金剛山を望むことができます。
だから金剛寺と名付けた訳ではありませんが、一般的な隠居所というイメージからは程遠く、
修行生活を営む場所と言えるでしょう。
現に唐招提寺長老の当寺への貢献は多大なるものがあり、
唐招提寺の力がなければ当の昔に廃寺となっていたに違いありません。
仏法を広めるために命懸けで渡航した鑑真和上の精神が活きているのでしょう。

玄関付近から庫裏を見渡す
奥に見えるのは中庭。

庫裏全景

庫裏の展示物

牡丹の襖絵
落款はあるが作者は分からず仕舞い。

牡丹と庫裏を描いた図
これと同じ図柄の手拭いを販売していたような気図柄の

庫裏縁側より見た中庭

中庭の向こうに見える金剛山
唯、不思議なのは宗派が違う事。御朱印拝受の際に住職に伺った所、
住職;「今は律宗、真言宗とはっきり分かれていますが、昔は区分があやふやな所もあったので。」
和辻;「森本孝順(きょうじゅん)師はここへ入られましたか?」
住職;「81世の森本師は入られませんが、彼の師匠の79世が最後に隠居された方ですね。」
との事でした。
以前は神仏【こんごう】だったので驚くことはないですが、
分離後も宗派で【がんじん】搦めにすることはなかったようです。

庫裏から見た枯山水の庭

金剛寺説明書

金剛寺御朱印 (西国薬師霊場印)
平成5年1月2日拝受だが、この日は正月三が日のため入山料は無料であった。
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小松山 福寿院 金剛寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五霊場第二十三番札所 西国薬師四十九霊場第九番札所)
天気も今一つなGW前半ですが、残り牡丹を求めて近郊へ、の積りでしたが
明石の薬師院は×、長岡京の乙訓寺も×と軒並み中止。五條まで足を運ぶ事に。
と言っても京都の鴨川沿いではなく奈良と和歌山の県境。
鉄道もJRだけになり、本数も日中は1時間毎。
駅前の観光案内所で自転車が利用できるようなので、案内所の開く9時着の電車で五條入り。
駅から南西に向かい吉野川を渡って少し上流に行った場所。
自転車では10分足らずですが、徒歩でも25分位でしょうか?

観光案内所前から見たJR五条駅

吉野川に架かる大川橋を渡る

大川橋を渡った場所にある案内板
それよりもその下の「豚珍館」が気になる。
道路脇に白壁が見えたら金剛寺。塀の向こうには堂宇の屋根が見えますが、
この時期は古木のヒラドツツジとのコントラストが見事でした。
山門下の受付で¥350を払い入山。山門上には「山門に鐘楼あり牡丹寺」と詠まれた釣鐘が。
これは宝暦12年(1762年)、近畿一円の10万人の寄進で完成したもの。
【釣りがねえ!】の意味合いかと思いましたが、お釣りはきちんと頂きました。

金剛寺門前へ到着
周囲は住宅地で至って静か。

山門と山門上に吊るされた釣鐘

山門脇から境内を見る

白壁越しに境内を見る
小松山福寿院金剛寺(こまつざんふくじゅいんこんごうじ)は、
『承安3年(1173年)、小松殿・小松内大臣と呼ばれた平重盛に拠って創建された古刹。
山号は彼の呼び名に由来している。
本尊の薬師如来は白檀の一木造りで平安時代の作。
本尊を祀る本堂は元禄時代の再建で昭和の大修理を経たもの。
脇侍に日光・月光の両菩薩、前に十二神将を随えている。
江戸時代初期からは野原城主の畠山義春の菩提寺として復興。
奈良時代の末期、宇智の大野に配流された光仁天皇の皇后、井上(いがみ)内親王とその子の
他戸(おさべ)親王の怨霊を祀る宮寺として、更には京都御室仁和寺直末の中本寺として繁栄した。
現在は高野山派に属する真言宗寺院である。

由緒記

境内の伽藍配置
また江戸時代末から明治、大正時代にかけては唐招提寺の長老の隠居寺として知られ、
茅葺屋根の庫裏が風情を漂わせている。
ボタンは文政5年(1822年)に当寺の住職で唐招提寺長老の本常大和尚が薬用として植えたのが始まり。
以後、ボタン寺として知られるようになった。毎年4月下旬から5月上旬に掛けてボタン祭が開催される。
秋には菊の香りと花の色に境内が彩られる。菊は延寿の花、古代より不老長寿の効用と
信仰が薬師如来の請願と一致することから、11月1日から8日まで菊薬師と小菊まつりが開催される。
西国薬師霊場であると共に関西花の寺として四季を通して花の絶えることがない。』 とあります。

本尊薬師如来を祀る本堂とその手前にある納経所

本堂は元禄時代に再建され、昭和後期に大修理を経ている

本堂正面
本尊の脇侍に日光・月光両菩薩が控える。

本堂前より見た枯山水の庭

枯山水の庭は別名「元禄四年の庭」
正面に見えるのは榧の老木。

本堂前から観音堂、牡丹園入口を見る
平重盛は清盛の嫡男、温厚な性格で知られ、父親の行き過ぎた面を補佐して功があった人。
父親に先立ち早世しましたが、もし長生していたら平家があのようにあっけなく滅亡することはなかったとも言われます。
その後、江戸時代の復興に伴い、井上・他戸と言う悲劇の皇族を祀っています。
井上内親王は聖武天皇の皇女で、天智天皇の孫である白壁王に嫁ぎますが、
王と藤原氏の謀略で息子と共に悲運の死を遂げた人。
代わって皇太子になった山部親王が後の桓武天皇ですから、
結局、白壁王を天皇にするために利用されただけでした。
天武天皇の直系であった内親王の無念はいかばかりか。
亡くなった場所がこの付近だったので、【いがみ】を【おさべ】るために【こまつ】た人々が祀ったのでしょうが、
そんな怨念を鎮めるだけの効果が当寺にあったのか謎は尽きません。【こんごう】の調査に期待です。

本堂に続く(右から)護摩堂、位牌堂、観音堂

正面より見た観音堂
明治30年(1897年)、当時の唐招提寺長老、大森覚明大僧正に拠って再建。

観音堂屋根
唐招提寺の金堂を模した造りとなっており、鴟尾(しび)には「唐招提寺金堂之模造」と刻印。
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【往路】阪神梅田(7:27) → (直通特急) → 明石(8:32→8:33) → 魚住(8:47)
魚住 → 徒歩10分 → 薬師院 → 徒歩8分 → 住吉神社 → 徒歩5分 → 魚住(10:50) → 明石(11:04) → 駅リン君 → レンタサイクル5分 → 無量光寺 → 善楽寺 → レンタサイクル5分 → 魚の棚 → レンタサイクル5分 → 天文科学館 → 柿本神社 → 月照寺 → レンタサイクル5分 → 本松寺 → レンタサイクル5分 → 明石
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法榮山 本松寺(日蓮宗)
本松寺は別名「谷の妙見」「萩の寺」と呼ばれるだけあって、石段から山門、本堂へと続く配置に趣があります。
本堂前の山桃の古木もそうですが、何といっても一番の見どころは本堂裏手にある枯池式枯山水庭園。
当所、庭園は拝観なしと思っていましたが、本堂脇の細道を行くと板塀があって庭園入口の案内が。
樹齢300年のヒラドツツジの径を過ぎると庫裏の縁側に出て、その正面に庭園があるという
書院・離れ座敷を視点にした作庭になっています。

本堂前にある山桃の古木
丸く刈り込んだのを釈迦如来の頭に譬えて「聖僧樹」と呼ぶ。

庭園には本堂前の敷石に沿って進む

扉を開けて庭園に進む

樹齢300年のヒラドツツジ
『本堂と山門の間には樹齢数百年の山桃の大木があり、丸く刈り込んで釈迦仏の頭に擬えて聖僧樹と称している。
明石藩の最後の儒者橋本海関は「一樹千林を圧す」と詠んだ。海関は日本画家橋本関雪の父である。
また庫裏の庭園は明石城築城に当り、町割に携わった剣豪宮本武蔵の作庭と伝わる。
本堂を背に書院に面した枯池式枯山水庭園である。浅い枯れ池を穿ち軽い築山を二箇所に築いて、
二つの築山にはそれぞれ大小の枯滝を大滝小滝として組み、大滝には水分け石を据えている。
池泉は瓢箪型で枯れ池、手前の出島は亀出島である。

庭園への道

庭園入口の刈込

本堂を背にした庭園

庭園左側
手前の大きな石は礼拝石。
池は浅く一段の護岸石組で自然石の石橋が架かっているが、元は櫟の橋であった。
石組は小振りであるが平面構成を重視し、視点に拠る変化を持たせている。
旧明石藩下の圓珠院・福聚院の庭園とも共通する所が多い。』 とあります。
瓢箪型の池泉は降雨の時のみ水が溜まる様になって居り、説明書を読むと成程、圓珠院の庭に類似していました。
この日見た庭園は【二点一流】。宮本武蔵の【ほんしょう】は剣豪なのか作庭家なのか意見が分かれる所でしょう。

庫裏書院前からの眺望

枯池に架かる自然石橋
元はクヌギの橋であった。

枯池の向こうにある(上から)遠山石、蓬莱石、大滝

本松寺庭園の詳細
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法榮山 本松寺(日蓮宗)
人麻呂所縁の社寺を参拝したあとは、そのまま西へ下り寺の並ぶ一角へ向かいますが、
自転車は線路まで南下して再度北上することに。時の道と呼ばれる一角に建つのが本松寺。
法榮山本松寺(ほうえんざんほんしょうじ)は、
『慶長元年(1596年)、審理院日甫上人が舟上城下に建立した日蓮宗本正寺が嚆矢。
日甫上人は俗姓を藤井新右衛門勝介と言い、信長の近習を務め山崎の合戦で討死した藤井主計頭親秀の遺児。
父親の死後、母に拠って摂津住吉付近に隠れ住んでいたが、秀吉の知る所となり召し出され出仕。
明石舟上村に知行地を与えられ代官となっていた。
上人は秀吉に当寺への寄付を願い出た所、認められ8石が断絶することなく寄せられたと言う。

境内の躑躅と山桃の大木

正面から見た本堂
大坂夏の陣の後の元和3年(1617年)、信州松本から小笠原忠政(後に忠真)が十万石で明石に国入りし
舟上城に入るが、翌年将軍の命に拠り明石城を築城する事となり舟上城は廃城となった。
ここに近世明石藩は成立、忠政の客分となった宮本武蔵が城下の町割りを行い、
明石の中心は明石川を越えて東へ移った。
これに従い、当寺は檀頭であった明石藩家老の齋藤甚左衛門利政、美濃部九郎三郎の尽力で
元禄4年(1691年)現在の地へ移転。この地は旧東長寺跡で当時は空寺となっていたものである。
当山第七世浩岸院日芳上人の時代で、日芳上人は中興の祖とされる。

本堂前面と向拝部分
その後、宝暦9年(1759年)第十一世守本院日顕上人が入山し、明和4年(1767年)頽廃した本堂を再建。
宝暦11年(1761年)には戦国武将島左近が崇拝していた妙見大菩薩尊像を末裔より寄進されたのを受け、
鎮守妙見宮を建立した。
その後、幾度かの修復を経たが昭和16年(1641年)の火災で堂宇の殆どを焼失。
戦後の昭和23年になって本堂・庫裏等を修復再建。
更に阪神淡路大震災に拠る被害から堂宇を修復し今に至っている。』 とあります。

本堂前からの眺望
この縁起を見ると開山は信長の近習の遺児で、身分を隠して隠棲していたが秀吉の命で出仕。
しかし出家した人物となります。その理由が気になりますが由緒には記載なし。
想像するに、軍令違反等を犯したため一時的に身を隠したが、年月を経て秀吉の怒りも納まったので仕える事にした、
というのがありそうな話です。
では出家の経緯は何かというと、丁度朝鮮出兵の時期に重なるので、
秀吉の野望から距離を取ろうとしたのではないかと思います。

本松寺縁起

本松寺御朱印
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人麿山 月照寺(曹洞宗)
神社に続いて西隣の寺院へ参拝。神門前の道を西へ進み白塀に囲まれた場所が目的の寺院。
山門は西に開いていますが、これは表参道が西側にあるため。
神社から向かう道は裏参道となりますが、観光案内所で貰った地図には「明石の風情漂道」とあり、
徒歩でしか行けない細い階段ながら成程と思いました。

神社に続く白塀
奥に見えるのが神門。

塀の途中にある門から見える本堂

門の右手に刻まれた由来略記
人麿山月照寺(ひとまろさんげっしょうじ)は、
『弘仁2年(811年)に空海が明石の丘、赤松山に湖南山餘鵜楊柳寺を創建。
仁和3年(887年)楊柳寺の覚証(かくしょう)和尚は、大和国の柿本(しほん)山広安寺より
人麻呂念持仏であった海上波切船乗十一面観世音菩薩を勧請して奥の院に奉祀、寺名を月照寺と改めた。
この像は聖徳太子の御作、持統天皇の念持仏で人麻呂が天皇から賜ったもの。
波を切る船に乗った1.7mの立像で60年に一度開扉される秘仏である。

西向きの山門
かつて伏見城の薬医門が様々な流転を経てここに。

山門由緒の駒札

山門越しに見る境内
天正2年(1574年)には真言宗から曹洞宗に改宗。
元和7年(1621年) 藩主小笠原忠真が明石築城に拠って境内が城地となり、
翌8年に人丸社、月照寺の新殿が現在地に竣工。延享元年(1744年)には山号を人麿山と改め、
明治4年(1871年)の神仏分離令により人丸社は月照寺より分離して柿本神社となった。

山門下からの境内の眺望

庫裏と書院

庫裏前からの眺め
本堂は日本標準時子午線上にある。

正面から見た本堂

本堂入口の唐破風の龍と鳳凰の彫刻

本堂から山門方面を見る
枯山水庭園が禅宗らしい。

前栽から見た本堂

伽藍と前栽の間を行く

前栽の枯山水庭園
その間、江戸時代には太平が続き歌道が栄え、人麻呂信仰が高まった。
人麻呂の1000年忌に当たるとされた享保8年(1723年)には霊元上皇に拠って
石見国と播磨国の人丸社に正一位柿本大明神の神位神号の宣下が行われ、当寺は永代勅願寺となった。
霊元上皇から三十六歌仙色紙・桜町天皇宸翰短冊50葉・後桜町天皇宸翰短冊45葉・
仁孝天皇宸翰短冊49葉が奉納され今も保存されている。
その後も文人墨客の来訪が絶えず、書画の寄進も多く文化財の宝庫となっている。

本堂に東隣する観音堂
昭和54年再建で、人麻呂念持仏・海上波切船乗観世音菩薩を安置する。

御本尊の石碑と田中千艸女(ちぐさじょ)の句碑
・影清し 月は明石の うらなれや

観音堂前の鐘楼
従来の梵鐘は昭和18年に供出し、昭和53年に再建。日本標準時子午線上にあり830貫、県下随一の大梵鐘である。

前栽の壽祥(じゅしょう)松

壽祥松の説明

八ツ房の梅
赤穂四十七士の一人、間瀬久太夫正明が大石内蔵助と当寺に参詣した際に、持参の梅を手植えした。

八ツ房の梅説明
山門は伏見城の薬医門、明石城の切手門として二役を果たし、明治初年にここに移築された。
秀吉建立の歴史を刻んだ豪壮な風格の門である。
本堂・書院・庫裏は総建坪400余。この地に移転以来、桃山建築様式の遺構を伝えていたが、
平成7年の阪神淡路大震災で全壊。3年後の平成10年に再建を果たした。
また山上にも拘らず水に恵まれ、表参道右側にある亀の水は枯れる事のない霊泉で万病に効果があるとされる。
水盤は享保4年常陸国飯塚宣政の寄進、現在でも多くの利用者がある。』 とあります。

人丸観音と水琴窟

人丸観音、または洗心長寿の観世音
北村西望の作。

観音像説明

ふれ愛観世音
仏師・西村公朝の作。

西側、表参道の鳥居

鳥居に続く階段

参道右側にある「亀の水」

「亀の水」の説明

永井荷風が亀の水を記した石碑
柿本神社とは神宮寺との関係。人丸神社と人丸寺であればすぐ分かりますが、
明治の神仏分離で分かり難くなってしまいました。
平安時代の覚証和尚が果たして人麻呂の夢を見たのか【確証】はありませんが、
由緒を見る限り所縁はこちらの寺が強そうです。
もう一つの転機は江戸時代。太平の世とは言え藩主が中世以来の名門小笠原家だった事も
人麻呂崇拝には追い風になった気がします。
小笠原流と言えば礼儀作法・馬術・弓道ですが、歌道にもあるのかは分かりませんが…。

人麿山 月照寺 栞

月照寺御朱印
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柿本神社(旧県社)
天文館の横の道路を上ると、直ぐ階段と鳥居が現れる。
天文科学館で野暮用を済ませた後は近所にある社寺へ向かいますが、神社も寺院も天文科学館に隣接。
神社のある山は人麻呂山、地名も人麿町、神社の名前も人丸神社とまさに人丸づくしですが、
初めに神社の名前ができて、それが山名・町名になったというのが正式な流れです。

一の鳥居
柿本神社(かきのもとじんじゃ)は、
『柿本人麻呂は持統・文武の両朝に仕えた宮廷歌人。後に石見国に赴任して同地で没したとされる。
持統天皇は譲位に際し人麻呂に等身大の船乗十一面観世音尊像を賜り、
後に石見に赴任するに先立ち邸を柿本山広安寺と改め、本尊にこの観音像を安置した。
仁和3年(887年)、明石の丘にある楊柳寺の僧侶であった覚証(かくしょう)が、夢のお告げに拠って
大和国の柿本(しほん)寺より人麻呂の念持仏であった船乗十一面観音を勧請、寺名を月照寺と改めた。
この時、寺の裏にある古い塚が柿本人麻呂の墓と感得、歌聖柿本人麻呂を祀る祠を建て
寺の鎮守としたのが嚆矢である。

階段を上った先に建つ神門

神門に掲げられた「人丸山」の扁額
寺でもないのに山号とは神仏習合の名残りか?
明石と柿本人麻呂の関りについては、明石を詠んだ歌が萬葉集に複数ある事、
文明8年(1476年)の柿本寺の勧進帳に明石浦に人麻呂の墓所が在るとの記載があり
世間では知られた存在であったと思われる。
天正9年(1581年)には秀吉が別所攻めに当り住僧安室に戦勝祈願を依頼、
戦の後に明石で新たに開墾した田地30石を当社に寄進したと言う。
江戸時代になっても徳川家康は更に10石の加増を行っている。
元和6年(1619年)に藩主小笠原忠真が明石の丘に明石城を築城するに際し、
月照寺と共に当社も現在地へ移転、社領40石が寄進された。
以降、新たに鎮座した場所を人丸山と呼ぶようになり今に至る。

正面から見た拝殿

拝殿に掲げられた扁額

拝殿の更に内側にはこのような扁額も
人麻呂の1000年忌に当たるとされた享保8年(1723年)には霊元上皇に拠って
石見国と播磨国の人丸社に正一位柿本大明神の神位神号の宣下が行われ、
毎年3月18日の命日には例祭が挙行される事となった。
その後も、東山・後西・桜町・桃園・後桜町の歴代天皇上皇の勅願所となり、
霊元上皇の三十六歌仙色紙・桜町天皇宸翰短冊50葉・後桜町天皇宸翰短冊45葉・
仁孝天皇宸翰短冊49葉が奉納、加えて御供物・白銀等の奉納があった。

拝殿の屋根瓦に見える神紋

拝殿前に植えられえている盲杖桜(四代目)

盲杖桜の説明

神社由緒記

玉垣内にある御神木の筆柿(五代目)
一筆書きちゅうのはないのかしらん?

八房梅(二代目)
元禄年間に赤穂浪士間瀬久太夫主人の仇討を祈願して植えられた。

八房梅の説明
明治4年(1871年)の神仏分離令に当り、月照寺境内にあった人丸社は
柿本神社として分離され現在に至っている。歌聖としての和歌や文学は言うに及ばず、
ひとまろ → ひとうまろ で安産良縁の守護神
ひとまろ → 火止まろ で除火災祈願の守護神
として多くの信者の崇敬を集めている。
境内には人麻呂に因んだ多くの句碑・歌碑・碑文がある。
中でも亀の碑と俗称される播州明石浦柿本太夫祠堂碑は、
寛文4年(1664年)藩主松平信之が建立、文章は大学頭林春斎が作成した。
一息で読めば亀が動くと言う。
俳人松尾芭蕉も元禄元年(1688年)当社に参拝し、明石夜泊7句を作った。山門前には
・たこつぼや はかなき夢を 夏の月 の句碑が建つ。』 とあります。

一際、存在感のある亀の碑

碑は漢文で千数百字が刻まれている

境内参道西の御歌碑
(左) あまざかる ひなのながちゆ 恋ひくれば 明石の門より やまとしまみゆ 尾上柴舟筆
(右)大君は 神にしませば あまくもの 雷の上に いほりせるかも 金子薫園筆

山門前の芭蕉の句碑

蛸壺塚
人麻呂は九州・四国への旅の途中、明石海峡を往復して、瀬戸内海の美しさに惹かれ、
羇旅の歌8首を残しています。
唯、歌を詠んだからと言ってそこに墓があるとは限りませんが、
地元の伝説とうまく結びつけて社寺を建立したというのが真相ではないでしょうか?
明石の人の人麻呂に対する思い入れは強いようで、山陽電鉄には人麿前駅がありますし、JR朝霧駅は
・ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ
という三十六歌仙絵巻にある有名な歌に由来しています。萬葉のますらおぶりとは少し異なる詠と思っていましたが、
宮司さんの話では人麻呂の詠ではなさそう。
噓から出た実とも言えますが、それで人麻呂の価値が下がるものではありませんが。

山門前からの見た明石海峡大橋

人丸山柿本神社御由緒記

柿本神社御朱印 (平成5年拝受)

山陽電鉄・人丸前駅スタンプ
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明石市立 天文科学館
寺町で光源氏の須磨での生活を偲んだ後は、お昼時なので駅前の「魚の棚」へ。
観光地として有名になりましたが、元々は地元の人達が海産物を買い物する市場。
造りも庶民的ならば値段も庶民的。観光地化すると味が下がり値段が上がると言うのが常ですが、
ここはそのような事とは無縁でした。魚介類が豊富ですが、皆食事しているのは明石焼き。
明石名産の蛸が入ったたこ焼様のものですが、タコ飯付きセットで¥935円はリーズナブル。
やはり瀬戸内はセットに限ります。

駅から南に百m程行った場所にある「魚の棚」入口
‘うおのたな’ではなく、‘うおんたな’と謂うのが正しいそうな。

いつも人通りが絶えない魚の棚

商店街にはこんな顔ハメも
多幸を狙ったようで、他意はない様子。

お昼はここ「よし川」さんにて

明石焼き+タコ飯 セット
台が傾いているのがミソ。
グルメにはこの明石焼き以外にも明石鯛・明石だこ、文学では源氏物語、建造物では明石海峡大橋と、
明石の名を冠したものは多々ありますが、何と言っても明石と言えば子午線の通る町。
日本の標準時として教科書にも載ります。
駅のスタンプの図案、風景印も子午線を題材にしています。郵便局に至っては局名も明石子午線郵便局。
いくらなんでもやり過ぎの感がありますが、地図を見ると局の位置はものの見事に135度の子午線上にありました。

JR明石駅スタンプ
(上)国鉄時代の「わたしの旅」印の踏襲型 (下)2006年設置のJR西日本神戸支社印

明石子午線郵便局風景印

明石市マンホール蓋
風景印と瓜二つ、というよりも全く同じやないですか!

明石市マンホールカード 配布場所は天文科学館
『1884年の国際子午線会議で、イギリスのグリニッジ天文台を世界基準の0度とした。
そこから東側を東経、西側を西経とし経度15度毎に1時間の時差が生じる。
日本もそれに従い、明治21年(1888年)に統計135度の明石を我が国の標準時とした。
グリニッジよりも9時間早い。』 とあります。
小学校の社会科で習った時は、首都でも政令指定都市でもない場所を標準時の町にした
理由が分かりませんでしたが、世界標準から見て丁度9時間の差があるというのが採用された【経緯】。
明治の文明開化から時が経っていないとはいえ、【自国】の都合よりも世界標準の時刻に
合わせる事を優先した先見の明に敬意を表します。

明石市立 天文科学館

北側にある子午線表示柱

科学館入口にある漏刻?

子午線の説明

水平日時計
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