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浄瑠璃山 国分寺(高野山真言宗 別格本山)
壮麗な仁王門(楼門)を過ぎるといよいよ国分寺境内。境内には主要伽藍が幾つか建ちますが、
最も大きいのは中央に位置し南面して建つ金堂(本堂)。
『当初の金堂は応永24年(1417年)に焼失し、同28年に大内盛見が再建。
現在のものは安永8年(1779年)毛利重就の建立したものである。
荘重な二層入母屋造の仏殿で建坪116坪余、堂内の須弥壇は桃山時代のものと伝わる。

仁王門正面に建つ金堂(本堂)

境内の案内

境内の伽藍配置
内陣には多くの仏像が安置されており、須弥壇中央には丈六の御本尊薬師如来、
日光・月光両菩薩が両脇侍として控える。
その前面には十二神将が護持し、四方には四天王像が守護している。
薬師如来は室町期の寄木造り、両菩薩は平安時代の一木造り、
四天王像は藤原時代の一木造りで、いずれも重要文化財である。
加えてこの堂内の左右後方には阿弥陀如来はじめ計50余の仏像が所狭しと安置され、
宛ら古美術館の観がある。

正面から見た重要文化財・金堂

金銅説明板

金堂側面

庫裏より見た金堂北面

北側より見た金堂
また境内の聖天堂には商売繁盛の聖天像が秘仏として祀られ、
寺務所東にある持仏堂には半丈六の阿弥陀如来坐像、
聖武天皇像及び行基菩薩像が安置されている。』 とあります。
創建当時の御本尊は釈迦如来でしたが、奈良時代末期頃には薬師如来に変更。
これは各地の国分寺に共通なので、当寺もそれに倣った事になります。

金堂南側の向拝と入口
内陣拝観はこちらから。

入口の唐破風

向拝柱の突き抜けた部分の象と獅子の彫刻

金堂の屋根の反り

金堂側面の桟唐戸と花頭窓
当寺が旧格を維持し時代毎の霊宝を保存してきたのは、全国的にも稀有な事です。
創建当初は東大寺、その後は西大寺の傘下に入りますが、
戦国時代に入る頃には両寺の影響力も低下。
普通なら衰退の一途を辿っても不思議ではありませんが、
替わって世俗の領主が庇護者になった事が今まで存続できた理由でしょう。
金堂再建に関わった大内盛見は大内氏第11代当主、毛利重就は長州藩第7代藩主です。

北東から見た金堂

金堂北側の向拝

向拝の唐破風

周防国分寺説明書

周防国分寺御朱印 (平成6年拝受分)
パトロンに恵まれた当寺ですが、山口の瑠璃光寺五重塔を建てたとはいえ、
大内・毛利氏共に単なる信心から庇護を加えたものかどうか?
大内氏の経済基盤は当時独占的に行っていた日明貿易、
毛利氏も本州の西端という地理的条件を利用した海外との密貿易を行っていた形成が濃厚です。

金堂の北側に建つ聖天堂
聖天尊は諸仏諸神の母体である大日如来の化身とされ、あらゆる御利益を授けて下さるとか。

北側の庫裏に続く持仏堂(客殿)
宝永3年毛利吉広が建立。半丈六の阿弥陀如来坐像を初め、聖武天皇像及び行基菩薩像が安置される。
当時は僧侶、特に禅僧が通訳兼外交官として貿易に同行するのが常。
周防国分寺は学問所としても周囲に知られた存在でしたから、
そこで学んだ僧侶達が選ばれたと考えるのが妥当な事。
そうなると両大名が庇護者になったのも、宗教的ではなく経済的な理由。
特に他国にスカウトされて独占貿易が出来なくなることを怖れたからに違いありません。

蘇鉄と築地塀

水鑑の井戸
延喜元年(901年)菅原道真が太宰府に左遷される途中、当寺参詣の際にその姿を水に写し、自画像を描いた伝説がある。

水鑑の井戸の説明

国分寺隊の招魂碑

招魂碑の説明

仏足石
釈迦牟尼仏の象徴として拝まれてきた。
[参考書]
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浄瑠璃山 国分寺(高野山真言宗 別格本山)
阿弥陀寺を十分に巡った後は中心部へ。
旧山陽道の北側に東から毛利氏庭園、周防国分寺、防府天満宮が一直線上に並びます。
毛利氏庭園を過ぎると、かつての国衙ですが今は石碑が建つばかり。
その先に白壁と大楠が見えたら周防国分寺。
浄瑠璃山国分寺(じょうるりさんこくぶんじ)は、
『奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇の勅願に拠って各地に建立された国分寺の後継寺院。
当初は、金光明四天王護国之寺或いは金光明寺などの寺号があったが、
後に浄瑠璃山国分寺と称せられるようになった。

国衙跡
今は石碑が建つばかり。

周防国衙跡説明板
国分寺は宗教に拠って国家を統治する勅願所で、皇室との所縁が特別に深く、
住昔の規模が寺域61町歩余りにまたがり、七堂伽藍と25の塔頭と末寺を擁していた事でも覗える。
後世、寺領の減少や維新後の寺院制度の変革等に拠りその規模は縮小され、
現在では往時の遺構遺跡と建造物の一部を残すのみになったが、北に多々良山、
南に市街を通して三田尻湾を望む景勝の地に建つ大伽藍は、創建当初の地にあり、
当時の官寺の偉容を表している。
旧態を現存する事においては、全国の国分寺中極めて稀である。
本尊は創建当初は丈六の釈迦如来であったが、奈良時代末期から平安時代初期に薬師如来に替わっている。

国分寺の南東隅にて

西側から見た国分寺築地塀
塀脇に大楠が聳える。
境内を囲む築地塀は元禄14年に毛利吉広の修築したもので、仁王門から東方38間半、
西方53間の間に残る古雅重厚な白塗土塀である。
正面に建つ仁王門は重層入母屋造、建坪36坪の堂々とした楼門。
創建当初のものは応永24年に焼失したので、文亀3年大内義興が復興。
現在のものは、慶長元年毛利輝元が建立し、ついて明和4年に毛利重就が修築した。
門の左右には金剛力士像を、楼上には十六羅漢像を安置している。』 とあります。
遥か天平の昔、聖武天皇の勅命で国ごとに国分寺・国分尼寺が設置。
一の宮と並ぶ国を代表する宗教施設と言うより国家機関でしたが、
長い年月の間に多数の寺院が衰頽・廃絶の目に。
本家の東大寺は今も健在ですが、寺が消滅して国分寺跡の石碑だけが残っている所もあります。
特に明治の神仏分離令が痛かった気がします。

入口に建つ石碑

国分寺説明
そんな中で寺領は縮小したものの元の場所に建つ当寺は貴重な歴史の生き証人。
当時の規模を知る格好の例になります。
境内に入って気付くのは巨大な伽藍を誇る本堂ですが、
その他の堂宇や庭園は小規模で大部分は空地の状態。
当初はもっと広い場所を占めていた筈ですが、何故こんなに広い場所を必要としたのか?
国分寺は、疫病退散を願った聖武天皇の発願に拠りますが、
単なる祈りの場所だけでなく、病院も兼ねた役割を担っていたのでしょう。
国分寺の御本尊の大部分は薬師如来。
後世は極楽往生を願う観音信仰が盛んになりますが、古代に於いては先ずは命が一番。
民間医療など無きに等しい時代に、民が拠り所にした場所と言えます。
よく天皇の気紛れで各地に国分寺を建てたという説もあるようですが、
そのような一方的な見方は今後、改めるべき時に来ているのではないでしょうか?

壮麗な仁王門
ここを抜けて境内へ。

境内側から見た仁王門
白壁の美しさもそうですが、注目は築地塀に書かれた筋。
定規筋と呼ばれる水平線ですが、皇室に由来する格式を表しており、
三本・四本・五本とあって五本が最高とか。
五摂家に関わるとも言いますが、当寺は最高位の五本でした。

築地塀にある五本の定規筋
[参考書]
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東大寺別院 華宮山 阿弥陀寺(華厳宗・真言宗御室派兼務) 護摩堂
本堂参拝して御朱印拝受すれば当面の目的は達成ですが、そのまま辞去するのは勿体ない話。
広い境内には諸堂があるので、それらを堂々巡りする事に。
本堂脇の池を巡って高台に向かうと、そこに在るのが護摩堂。
『護摩堂は、以前は薬師堂と呼ばれ不動明王坐像を安置していた。
従来の堂は破損したので享保16年(1731年)領主毛利広政が再興している。

池の脇の坂を上り護摩堂へ

正面(南側)から見た護摩堂

護摩堂説明駒札

護摩堂内陣の五大明王像
中央に鎮座するのが不動明王。

護摩堂西側軒の駕籠
寺院には時折このような駕籠が見られるが、住職が乗るものか?

護摩堂前より池を見下ろす

護摩堂からの本堂の眺望

阿弥陀寺御朱印 (五大明王)
あみだ橋を通り本堂の対岸には多くの諸堂が建つ。
重源上人供養塔の先に建つのが毛利広政に拠り宝永6年(1709年)の再建された開山堂。
かつては重源上人坐像を安置していたが、今は収蔵庫に保管。
代わって薬師如来坐像と弘法大師坐像が安置されている。
更に石段を登った先に建つ経蔵は釈迦如来坐像を安置。昔からの本尊で享保4年(1719年)再建である。

あみだ橋を渡り東側にある諸堂へ
橋の向こうに見えるのが本堂。

紫陽花が彫られたあみだ橋

重源上人供養塔

開山堂正面

開山堂説明駒札

開山堂の扁額と内陣の薬師如来坐像と弘法大師坐像
念仏堂は浄土堂とも呼ばれ、創建当時は丈六の阿弥陀如来が安置。
十二人の念仏衆がいて日々念仏を唱えて心身浄化をはかる修行の場であった。
当時の建物は文明16年(1484年)に焼失し現在の建物は明治3年の再建、
堂内の阿弥陀如来坐像は元禄5年(1692年)の作である。

念仏堂近影
但し、参拝は外陣から。

念仏堂(浄土堂)説明駒札

念仏堂から更に高台に建つ経堂
見逃してはならないのは、重源に拠り鋳造された鉄宝塔。建久8年(1197年)の銘文があり、
総高3m、台座94㎝、高さ43㎝、塔身高73㎝の鉄製多宝塔。
塔身内部の龕の中には水晶製の14㎝の舎利塔が安置されており併せて国宝に指定されている。』
とあります。

最初はこれが国宝の鉄塔と思ったが全く別物

宝物館に収納された左側のものが国宝・鉄塔 (これは掲示板の写真)
本堂と護摩堂の間には放生池があり、開山堂脇には水かけ五大尊があって奥には滝が流れています。
市内に比べてかなり高台に建つ当寺ですが、木材に加え湧き水も【ほうふ】な場所だった事が、
ここに寺院が建立された真の理由の気がします。

開山堂脇の水かけ五大尊

水かけ五大尊説明板

五大尊の奥にある瑠璃の滝
先に訪れた本堂も含め、境内の諸堂は1700年代に領主毛利広政公に拠る再建。
とりわけ信心深い方だったのか、仏教に縋る特別な理由があったのかは分かりません。
唯、江戸時代も100年を過ぎ藩政も安定してきたことは事実。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった毛利氏は、中国九ヶ国120万石の大大名から
防長二ヵ国30万石に減封。改易されなかったとはいえ、家臣にも相当な苦労を掛けた筈。
そんな逆境を国内の新田開発で乗り切り、この時期には表石高は30万石ですが、
実質は100万石を越えていました。
家康から100万石のお墨付きを与えられた伊達政宗は関ヶ原後、約束を反故にされましたが、
その後の新田開発で100万石を越えています。
マイナス要因をうまくプラスに持って来た好例と言えるでしょうか。

鐘楼

鐘の説明
江戸時代の再建が多い当寺ですが、鎌倉時代に重源が鋳造したという鉄宝塔が現存。
これは是非見なければと思いましたが、庫裏で伺うと宝物館に安置され、
予約拝観との事で対面は叶わず。
レンタサイクル、御朱印と上手くいきましたが、最後の段階で×。
やはり【鉄塔】徹尾上手くいくとはなりませんでした。

これも国宝・鉄塔ではなかった!
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東大寺別院 華宮山 阿弥陀寺(華厳宗・真言宗御室派兼務)
山門を潜るといよいよ境内ですが、
『山門(中門)はかつて東大寺所管の惣門で、明治4年(1871年)に移設されたもの。
その正面に建つ本堂は、御本尊阿弥陀如来立像、十一面観音立像等諸仏を安置。
享保16年(1731年)領主毛利広政が再興した。

明治4年に移築された山門(中門)

境内より見た山門
阿弥陀寺は重源が後白河法皇の現世安穏を祈願し、文治3年(1187年)にこの土地を選定し建立。
同時に阿弥陀寺経営のために寺領として25.9ヘクタールの田畠を寄付している。
創建当時の境内は、東は木部山、南は木部野を横切り半上峠に向かう旧街道、
西は多々良山、北は太平山に至る広大な地域を占め、この中に浄土堂を初め、
経蔵・鐘楼・食堂・温室及び実相坊、成就坊等多くの支院僧坊があったという。
以後、300年に亘り住職はいずれも勅命を持って拝任、周防国務管理も兼ねたという
県下きっての由緒ある名刹である。
重源建立の堂宇は文明16年(1484年)に焼失するが、翌17年に守護大内政弘に拠って再建された。
これらの僧坊も火災や倒壊を受けて多くは廃寺となり本寺のみが今に残る。』 とあります。

山門正面に建つ本堂

本堂入口の千鳥破風

本堂正面は唐破風

本堂唐破風の下にて
本堂再建は1700年代と新しいですが、内陣の襖絵や裏の庭園も綺麗に整備されているのはそのためでしょう。
防府には市内に立派な国分寺がありましが、ここ阿弥陀寺も勅命を受けた寺院。
東大寺再建にかける意気込みが伝わってきます。
同じ周防国にそのような寺院が二つもあるのは寺に御本尊が二体あるようなものですが、
どちらが主導権を採るかで揉めることはなかったのか気になります。

御本尊と「華宮山」の山号が書かれた扁額

本堂内陣
内陣と言うよりも本堂に続く書院と言った方が適切か?

御本尊を囲む襖に描かれた鳳凰図

奥の書院に描かれた襖絵

本堂裏の庭園

庭園から本堂後方を見る

庭から見た本堂に続く書院
御朱印を拝受すべく庫裏に向かいます。
「御用の方は板を叩いて下さい」 とあったので、三度打ち鳴らしましたが返事はなし。
続いて参拝された御夫婦も同じことをされましたが同じ結果。
「御朱印貰いたかったのに…。」 と残念そうに帰って行かれました。
境内を見渡しても庭師と思しき人が作業をされているだけ。
「これは折角来たのに空振りかな?」 と思いつつ、
庫裏の玄関で再度、「すいません!」 と叫んでいると、
後ろから「何か御用ですか?」 の声。振り返ると、庭師姿の男性が…。
男性;「何か御用でしょうか?」
和辻;「御朱印を御願いしたいのですが。」
男性;「少し、お待ちください。」
と奥に入られ、暫くすると年配の御婦人が出て来られ無事拝受。
和辻;「あの男性は庭師の方ではないのですか?」
女性;「いえ、うちの息子です。」
外見と作業だけで庭師と判断したのが間違いのもとでした。
板を叩いただけで辞去せず、声掛けをしたのが正解。
今回の場合は執念深い性格が結果的には吉と出たようです。

本堂西側にある池とその向こうに見える庫裏

庫裏正面
ここで何度も呼びかける羽目に…。

周防阿弥陀寺説明書
現地でも貰えるが、これは防府駅観光案内所で入手したもの。

周防阿弥陀寺御朱印 (御本尊)
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東大寺別院 華宮山 阿弥陀寺(華厳宗・真言宗御室派兼務)
入口に建つ地蔵堂に続くのが茅葺の仁王門。
更に仁王門から山門までは結構な数の石段を上りますが、
その初めと終わりには石に所縁のものが残っています。
『かつての仁王門は永禄8年に破壊されてから120年間再興が無く、
貞享2年(1685年)毛利就信に拠り原型に倣って再興された。
安置されているのが重文の金剛力士像。檜の寄木造で玉眼を嵌入、
力量感溢れる表現は鎌倉時代初期の快慶一派の作と考えられる。

仁王門に掲げられた「華宮山」の扁額

仁王門説明板

重用文化財・木造金剛力士像
こちらは右側の阿形像。

金剛力士像説明板

阿形像の顔面近影

左側の吽形像

境内側から見た仁王門

仁王門周辺に咲く射干(シャガ)
仁王門を過ぎた直ぐ右手には東大寺再建のため木材の切り出しに従事する人夫のため、
重源が湯屋を建設したものが文化財として今に残っている。
湯釜と湯船を別々に設けた鎌倉時代の古い様式を伝えたものである。
加えて後代にもう一つ石風呂が造られ、こちらは現代のサウナに相当するものである。
今でも毎月第一日曜日に焚かれ、一般入山者も利用することができる。

手前に建つ湯屋

湯屋説明1

湯屋説明2

湯屋の内部

こちらは奥にある石風呂
右の木の扉から入る。

石風呂説明

石風呂入口付近

入口扉上に置かれた文様瓦
石段を登り観音橋を過ぎると行く手に山門が見えるが、その手前に重源上人が
腰掛けたとされる霊石と、阿弥陀如来の御姿が御立ちになった影向石があり、
その霊示に拠ってこの場所に阿弥陀寺を建立した。』 とあります。
いかにも山奥の古刹に辿り着いた感がありますが、続く茅葺の仁王門を見ると益々その感が強調されます。
仁王門自体は江戸時代の再建ですが、原型に倣った形にしたのが吉と出ました。毛利の殿様の粋な計らいです。
山門前の影向石は寺の謂れともいうべき霊的なもので、他の寺院でも見られますが、
仁王門を過ぎた場所の石風呂は開山の人間性を感じさせる建造物。
木材の切り出しに従事した人達には対価が支払われた筈ですが、
それに加えて石風呂を造ることで杣人の仕事の能率アップを図ったと見て良いでしょう。
リフレッシュに加えて医療効果もあったようで、石が【医師】の代わりを務めました。

仁王門を過ぎ石畳を上る

観音橋にて

石畳の奥に見える山門

山門近影

重源が腰掛けたとされる霊石

これが影向石か?

霊石と影向石の説明
東大寺再建を命ぜられた重源の任務は再建のための勧進を行う事。
【債権】取り立てのような強引なやり方ではなく、あくまでも人の善意からと言うのが【かんじん】です。
重源は宗教の域に留まらず企画力・行動力があり、現代でも社長になれた人物。
重源を起用した後白河法皇は、遊び好きと言われていますが、人を見る眼は確かだったようです。

山門手前左側にはあじさい園が

時期は早いがあじさい花園の様子
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東大寺別院 華宮山 阿弥陀寺(華厳宗・真言宗御室派兼務)
これは国道2号線、農業大学入口から寺へ向かって北東に間直ぐに伸びる道。
この日は、防府、長府、広島と山陽の古今の中心を三日で巡礼する初日。
かつての国府や今の県庁と町はそれぞれ三者【さんよう】。
先ずはJR防府で下車して三ヵ所の寺社巡り。
2ヵ所は駅から1㎞程の旧山陽道の北側に並んでいるので徒歩でも十分ですが、
阿弥陀寺だけは、駅から5㎞離れた山陽自動車道、新幹線も越えた先。
そこで9時の開店と同時に駅観光案内所で電動レンタサイクルを拝借。案内所の方に尋ねると、
和辻;「阿弥陀寺ですが自転車で行けますか?」
案内;「上りは最後だけなので大丈夫です。30分位でしょうか。」
との事。
山陽道を東へ進み途中から「北北東へ進路を採れ!」。
意外と知られた名刹のようで、行く手を示した看板があったので道に迷う事はなし。
唯、3㎞位進むと人の姿もなく、「真っ直ぐな道寂しい」と詠んだ山頭火の気持ちが分かりました。
案内所の方の言葉通り丁度30分で到着。

入口に到着
路線バスもここまで。
華宮山阿弥陀寺(かぐうさんあみだじ)は、
『東大寺の俊乗房重源上人が東大寺再建のため、周防国務管理在任中に創建した寺院。
治承4年(1180年)、東大寺は平重衡の兵火に拠って焼失したが、これを非常に残念に思った
後白河法皇は大仏殿再建のために重源を東大寺再建の大勧進に任じた。
文治元年(1185年)、重源は先ず手始めに大仏改鋳を実施。その後、大仏殿の再建に着手した。
翌2年に朝廷は周防一国の租税を東大寺に寄付し、重源を周防国務管理に任命する。
重源は宋人の陳和卿、日本人大工の物部為里を率い防府へ下向、佐波川上流の徳地の杣山で杣始めを行った。
そこは河口から28㎞も遡った場所にあったが、5年後の建久元年(1190年)10月に東大寺上棟、
同6年に竣工の大供養が営まれた。
阿弥陀寺は重源が後白河法皇の現世安穏を祈願し、文治3年(1187年)にこの土地を選定し建立。
同時に阿弥陀寺経営のために寺領として25.9ヘクタールの田畠を寄付している。

入口に建つ竜灯石

寺標石と参道の奥に見える仁王門
入口の直ぐ手前に聳え立つ竜灯石に続くのが開山時から当初に安置してある地蔵堂。
永和2年(1376年)12月17日の銘があり、製作年代が明白なものとしては県下最古である。
いつの頃からか婦人病に効果があるとされ蒟蒻を供える風習がある。』 とあります。

由緒記
本数は少ないながらも入口の直ぐ手前までバスが来ています。
それでもバス停までは道に日差しが燦燦と降り注ぎますが、
お寺に入った途端に鬱蒼とした木々に遮られると言う【うっそう】のような話。
市内の他の観光施設と比べて僻地にあるのが謎でしたが、杣山と言う事で納得。
それよりも東大寺再建という一大プロジェクトが周防国の税で成り立っていた事に驚愕。
理由は色々あるでしょうが木材が【ほうふ】だったのが最大の理由。
バスの本数と木材の本数が反比例するかどうかは分かりませんが、
山口の名前は伊達ではなかったようです。

入口左手に建つ地蔵堂

頭光の上半分が欠けた三日月地蔵

三日月地蔵の説明板
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
鶴橋 → (近鉄急行) → 生駒 → 徒歩10分 → 生駒台〒 → 徒歩10分 → 稲蔵神社

稲蔵神社
玉垣に囲まれた御神体の烏帽子岩。左が拝殿、奥が本殿。
稲蔵神社は、
『矢田丘陵の麓、いかるが三十六峰の一つとされる稲蔵の森に鎮座。
地元に伝わる話では古代より存在した社と言う。
境内にある烏帽子石が神の鎮座する磐座とされる。
天照大神の御孫、饒速日尊(にぎはやひのみこと)が大神より賜った十種の神宝を奉じて
天の磐船に乗り、河内の哮ヵ峰(たけるみね)に天降になった際、共に天降った生魂(いくむすび)、
大宮能御膳神(おおみやのみめけつのかみ)の二柱がこの烏帽子石に宿ったとされる。

種々の巨石に囲まれた稲蔵神社拝殿

拝殿前の通称‘お化け灯篭’
稲蔵神社から日露戦争に出征した13名の内、生還した12名が感謝を込めて建造したもの。

灯篭上部の近影
生魂は生命の神、大宮能御膳神は五穀豊穣の神で、この二柱はその霊験が極めてあらたかで、
古来より稲蔵大神、稲蔵(大)明神と称せられて多くの人々に信仰されてきた。
稲蔵明神は小明(こうみょう)村の鎮守として、稲蔵寺の鎮守として奥之院とも呼ばれている。
老樹が生い茂る長さ30m、横24mの稲蔵の森の境内には、高さ6m、周囲12mの烏帽子石をはじめ、
行場の滝、本殿、拝殿、社務所の他、行者、白川大明神、七森姫、伏見稲荷等の神々が
溝社を中心に奉祀されて、多くの社がある。』 とあります。

南側から見た拝殿と烏帽子岩

烏帽子岩近影
本殿の横には玉垣に囲まれた烏帽子岩、手前には巨石を組み合わせた石灯籠(通称お化け灯籠)、
奥には165基の石でできたお塚と、さながら巨石の展示場の様相。
灯籠とお塚は人工のものですが、烏帽子岩は自然石。古代人の磐座信仰の証でしょう。
社名は稲蔵ですが、元は磐座(いわくら)だったものが、後世稲荷信仰が入り込む事で
稲蔵(いなくら)に変化したと思いますが、どのような【いわく】があったのでしょうか?

烏帽子岩横に建つ本殿

柵越しに見た本殿
信仰の対象となった巨石群に加え、小明町は竜田川と天の川の分水点でもあります。
また、ここからは生駒山に沈む夕日を見ることが出来、
時には鳥居の上空に太陽を包む虹(ハロ)が出現することもあるとか。
続日本紀には721年に平城京の皇居上空にも出現した記録が残ります。
そんな場所に古代人が霊験あらたかなパワースポットを感じても不思議ではありません。

登山道から見た本殿と拝殿

本殿背後の白河大明神のお塚群

大阪倉満講社の寄進に拠る

お塚全景
やはり伏見稲荷関係が多い。
もう一つの特徴は饒速日(ニギハヤヒ)尊で、皇室の祖先神である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とは別の天孫降臨神。
ニギハヤヒと言えば、天の磐船に乗って降臨したのが大阪府交野市の磐船神社と言うのが知られていますが、
生駒の北部にも降臨したとの神話があります。
磐船神社から生駒を越えて東にあるのが稲蔵神社で、どちらも巨石が特徴。
その関わりから共通の神を頂くようになったのでは、と想像が膨らみます。
ニギハヤヒの子孫とされるのが古代豪族の物部氏ですが、
河内を本拠地とした物部氏の勢力は生駒まで伸びていたのかもしれません。

お塚と碑

伏見稲荷を祀る祠

山の高台から境内全体を望む
広くはないが、命の杜に育まれた社と言った雰囲気である。

本殿脇の連理の杉
参拝の後は、御朱印を拝受すべく神司(かんづかさ)さんの御自宅へ。
運よく庭木の手入れをされていたので、参道の向かいの社務所兼休憩所で拝受してお話を伺いました。
森田神司が言われるのには、
神司;「御朱印の印は、風景印を元にしています。」
和辻;「局長さんは、こちらにことわってデザインを採用されたと仰っていました。」
神司;「「昔はニギハヤヒの子孫であることを隠していたが、今は誇りに思えるようになりました。」
との事。
宮司さんの家系かと思いきや、㈱そごうに定年まで勤められたサラリーマン。
唯、生家が農家組合から委託され、稲蔵神社境内に社務所兼茶店を営んでおられた由。
50歳を前にして、伏見稲荷大社の神職資格を取得。
定年後は小明(こうみょう)地区で神事に奉祀されています。
郷土を愛する姿勢と、御自身も見事な第二の人生を歩んでおられる姿に頭が下がる思いでした。

稲蔵大明神記

稲蔵神社御朱印
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鶴橋 → (近鉄急行) → 生駒 → 徒歩10分 → 生駒台〒 → 徒歩10分 → 稲蔵神社

生駒台郵便局 ; 稲蔵神社と本殿横にある花崗岩製の巨岩「烏帽子石」
GWの谷間の5月2日。休日の所も多いようですが、午前中は野暮用出勤。
そのまま帰宅するのも無芸なので、この4月に設置された風景印を求めて生駒まで行こうま!
京都・奈良と言われる割には、風景印では奈良は京都に大きく水を開けられた形。
最近になって、じわじわと増えていますが、中には観光地からほど遠い山中の局だったりします。
今回の訪問先は生駒駅から北へ阪奈道を越えた場所。
距離的には1㎞弱ですが、アップダウンが多く実際の距離よりも長く感じました。
住宅地として人気の生駒ですが、足腰も強くなりそうです。

郵便局で貰った神社の説明書
生駒台郵便局で押印したのは稲蔵神社のデザイン。
局長;「風景印を作成する際に、神社に御願いしてデザイン使用の許可を貰いました。」
和辻;「結構シビアですね。ところでガイドにもなく、私も不勉強で聞いたことがないですが。」
と局長さんにその旨を話すと、
局長;「それならば、いい本がありますよ。」
と稲蔵神社の本(冊子)を紹介されたので、早速¥500で購入。中々商売上手です。
局長;「あそこは神主ではなく神司(かんづかさ)と呼びますが、もし居られたら色々と話が伺えると思いますよ。」
との事。風景印から出た話で、訪問することに。

郵便局で購入した冊子 ¥500

168号線に面して建つ一の鳥居

一の鳥居から東へ伸びる参道
局から東へ今度は坂を下って、168号線にぶつかった場所に大きな一の鳥居が。
ここが神社の入口で、付近の地名は小明町と書いて「こうみょうちょう」と読むそうな。
奈良でこうみょうとはこらまた巧妙と駄洒落を呟いて更に東へ進むと朱色の二の鳥居が。
ここから西を望むと正面には生駒山。夕方には生駒山に夕陽が沈む光景が見えます。

朱色の二の鳥居
左奥が神司さん宅。

二の鳥居と三の鳥居に掲げられた扁額

二の鳥居から西に向いて生駒山を望む
ここから先は周囲に人家もなく、両側には樹木が茂り、
神の杜に入る粛然とした気持ちで、細い階段を上って拝殿へ。
途中に朱の鳥居が並ぶ様は、さながら伏見稲荷といった感じですが、
それもその筈、伏見稲荷を模した稲荷信仰の証で、かつてはもっと多かったそうです。
拝殿で参拝しましたが、御神体は更にその奥に聳えることになります。

いよいよここから神社の杜へ

石の鳥居を潜ると次は右へ

石段を上り拝殿へ

神社の説明板

鳥居の正面に建つ拝殿
左は社務所らしいが、今は機能していない様子。

役行者を祀る神変大菩薩社
巨石の上に築かれており、足元にはかつて葛城修験の行場だった滝がある。

拝殿正面

拝殿の垂れ幕
稲の紋様は稲荷との関り?

柱の彫刻が神紋か?
[参考書]
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【往路】JR天王寺(7:45) → JR王寺(8:03→8:06) → JR五条(9:01)
駅前観光案内所 → レンタサイクル5分 → 金剛寺 → レンタサイクル25分 → 念仏寺 → レンタサイクル45分 → 大澤寺 → レンタサイクル25分 → 栄山寺 → レンタサイクル8分 → 新町通り
【復路】JR五条(15:30) → JR王寺(16:22→16:30) → (大和路快速) → JR大阪(17:09)

五條新町通り 400年の商家町
当初の予定の4ヵ寺参拝を終え、食事も済ませたので後は帰路に着くだけですが、
電車にはまだ時間がありそう。そこで朝方通った五條の町並みを覗く事に。
駅から国道168号線を吉野川に向かうと、新町通りの看板が。
『重要伝統的建造物群保存地区に選定されている五條新町地区は、
中世に成立した町場を起源とする五條と、江戸時代初めに整備された
二見城の城下町に由来する二つの地区から成る。

県指定文化財・中家住宅
168号線沿いの新町通り入口に建つ。宝永元年(1704年)の建築で、中家は五條村の庄屋や代官所の公金出納を代行した。

新町通り入口
五條新町地区は江戸時代を通じ、吉野川の水運と紀州(伊勢)街道沿いの商家町として栄えた。
この地区には江戸時代初期から昭和初期までの約4世紀に亘る町屋が軒を連ね、
時代の変遷を体感することができる。
記録が残る我が国最古の住宅である栗山家を初め、創業300年の造り酒屋、江戸後期の旅籠など、
防火の延焼から逃れるために、二階の軒裏まで塗り込めた重厚な造りである。

通り入口に建つ栗山家住宅
元禄9年(1696年)の棟札を持つ大型町屋。二階建てだが、外観を平屋に見せる構造となっている。

栗山家より通りを奥に進む

宝永7年(1710年)創業と伝える造り酒屋・山本本家
主屋・土蔵・離れ座敷・酒造施設が配置されている。

山本本家玄関
看板商品は金剛山の伏流水の井戸水を使った清酒「松の友」。徳利型の看板も趣がある。

鉄屋橋の向こうに見える山本本家醸造蔵
この新町通りを築いたのが松倉重政。慶長13年(1608年)、松倉豊後守重政は
関ヶ原合戦の功績に拠り、一万石余りの大名として二見城に入部。
二見村と既に町屋として栄えていた五條村を結ぶため、吉野川と並行する道路に沿った
町割を施行して新町を造り、諸役を免除して多くの商人を全国から集めた。
重政は8年後に肥前日野江城へ国替えとなったが、五條が南大和地域の中心として発展する
礎を築いた君主として、地域の人々は国替え後も「豊後様」として重政を崇めて
祭を行っていたと記録が残る。』 とあります。

重厚な海鼠壁

繊細な格子

新町通りから北へ入る細道

二階に袖卯建(そでうだつ)が見られる町屋

五條 源兵衛
18世紀築の大型町屋を和食レストランに改修。朝摘み野菜や地元の食材を使った料理が人気。
天領として知られた五條ですが、その町の基礎を築いたのが殿様だったとは初耳。
しかも松倉重政といえば、島原城主として重税・切支丹弾圧で知られる人物。
島原の乱は彼の死後7年目、息子の勝家の時代ですが、乱に至る道筋は
重政が付けたと言われても仕方がありません。
人物の毀誉褒貶は必ずついて回る事ですが、これが同一人物かと言う位180度評価が
変わる事も稀ではなし。明治の政治家三島通庸にも同様の記載があったと記憶しています。
果たしてどちらが正しいのか、おそらくどちらも真実でしょうが、
権力が人を変える典型にも思えます。その真実に近付くのが歴史に学ぶ人間の心掛けでしょうが…。

まちなみ伝承館
明治・大正期に建てられた医院の居宅を改修して使用。五條の歴史を紹介している。

伝承館横を流れる東浄川に架かる新町橋上にて

新町橋から通りを西に見る

まちなみ伝承館から通りを東に見る

案内図
[参考書]
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歩きたい歴史の町並 重要伝統的建造物群保存地区 全86カ所 (楽学ブックス―文学歴史 13) 新品価格 | ![]() |

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日本の歴史的建造物-社寺・城郭・近代建築の保存と活用 (中公新書 2633) 新品価格 | ![]() |

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吉野川(音無川)と栄山寺橋
巡礼にかまけて昼食を抜かしていたので、栄山寺拝観を終えると14時前。
お寺の前に茶房栄山寺とあったので受付の方に食事ができるか訊いた所、
15年前に閉めたとの返事。あーあ、十年ひと昔とは!
受付嬢;「少し下った場所に「よしの川」さんがありますよ。」
和辻;「でも工事中みたいでしたが…。」
受付嬢;「あれは駐車場なので店は大丈夫です。」
和辻;「メニューは色々ありますか?」
受付嬢;「一通りの食事はできるみたいです。」
と言う事で、吉野川岸に建つ「よしの川」へ。

レストラン「よしの川」

レストラン内からの眺望
お店の名前はそのままですが、この付近の呼び名は「音無川」。
なんでも弘法大師が修業中に、水音が煩く、修行に集中できなかったので、
川に石を投げ込んで「願わくば、音を消し給へ」と呪法を唱えた所、水音がピタリと止んだとか。
石で意志を通した訳ですが、石の落ちる音の方が煩くはなかったのでしょうか?
吉野川と言えば鮎ですが、この日はマグロとろろ定食。お店の方の話では、
店員;「津風呂湖の鵜が鮎を放流しても皆食べてしまうので、漁協も放流を止めました。」
和辻;「それなら鮎は殆ど居ませんね。」
店員;「川を遡上する天然鮎はいますね。」
参考までに、鮎定食は¥2800でした。

昼食は「マグロとろろ定食」 ¥1100

入口にある「音無川」の由緒

レストランの庭にて
お店の方の好意で入れて頂いた。
「俎上に載るのが遡上した鮎だけだと、益々庶民の口からは遠ざかってしまいそう」
などと思いならが自転車で駅に向かうと、堤防には鯉幟の群れが。
端午の節句に向けてでしょうが、鮎に代わって鯉の泳ぐ吉野川を見ることになりました。

大川橋付近にて
川の看板は名産の柿。

吉野川右岸(北側)に棚引く鯉幟

鯉幟の向こうを流れる吉野川

野原郵便局 ; 富有柿、吉野川(音無川)と八角円堂遠望

JR五条駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅印」 (下) 2008年JR西日本印 だが、どちらも同じ内容。
[参考書]
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学晶山 栄山寺(高野山真言宗)
文化財の宝庫とされる栄山寺ですが、最も有名なのは八角円堂。
国内に30程しかない奈良時代の木造建造物の一つです。
前回に訪れた時は外から見るだけでしたが、今回(4月25日~5月29日)は内陣特別拝観を実施中。
これを逃すと、次は何時になるか分からんので、別途¥400で見る事に。

国宝・八角円堂

円堂説明板
『八角円堂は、藤原武智麻呂没後、子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立。
大日如来坐像を本尊とする。
当初、武智麻呂の墓は佐保山にあったが、天平宝字4年(760年)に当山の北側に改葬。
建立時期はこの年から仲麻呂の討たれた天平宝字8年(764年)の間とされる。
外観は本瓦葺きの平面八角形であるが、内部の身舎(もや)は四角形。
内陣周囲に立つ4本の八角柱が構造上の要となる。
四方板扉、蓮子窓で屋根上の宝珠は復元品である。

正面より見た八角円堂

円堂の軒部分

軒下部分

円堂の窓部分
湿度を調整する構造か?

円堂の扉部分
ここから内陣を拝観する。
内部の4本の柱と上部の飛貫(ひぬき)、天井には彩色絵画が描かれ、剥落が著しいものの、
奈良時代絵画の遺品として建物とは別に絵画の重要文化財となっている。』 とあります。
奈良時代建造の八角円堂は以前より知っていましたが、内陣の柱に天平の菩薩が描かれ、
しかも重文になっていると【はしら】なかった。
唯、パンフにあるような鮮明な絵は私には分かりませんでした。
見る眼のある人には分かるのでしょうが、どのような経緯で【はっかく】したのかが気になります。
尤も1300年の歳月を経て今に残っているだけでも凄い事ではありますが…。

八角円堂の音声菩薩 (パンフより)

八角円堂御朱印
(左)壁画の音声菩薩 (右)八角円堂の切り絵

受付に置かれたスタンプ
このタイプが市内の観光名所数ヵ所に設置されている。

五條郵便局 ; 国宝・栄山寺八角円堂、吉野川(音無川)、吉野桜、桜鮎
[参考書]
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学晶山 栄山寺(真言宗豊山派)
大澤寺参拝の後は、山を一気に下ってJR五条まで。そこから吉野川を遡って川の畔の寺院を目指します。
五条では金剛寺と並ぶ有名な観光寺院で、しかも吉野川沿いの絶景ポイントとあって、
途中は食事処等が点在。この日に訪問した他の寺院とは随分違った道のりとなりました。
吉野川に架かるその名も栄山寺橋を過ぎると目的地。
奈良時代築の国宝を初め文化財の宝庫ですが、外観からは古刹という雰囲気はなく、
川沿いの平地に堂宇が点在している様子。川沿いに門があり、ここが山門の様ですが、閉鎖中。
改めて戻って入口を探しているといつの間にか境内に。
慌てて左側の受付で入山手続きをする羽目に。そんな長閑な寺院です。

吉野川の絶景とそこに架かる栄山寺橋

川沿いに建つ山門
正面奥には本堂が建つが閉鎖中。入口は北側との矢印が…。

こちらが現在の山門に相当
学晶山栄山寺(がくしょうざんえいざんじ)は、
『養老3年(719年)、藤原不比等の長男である武智麻呂が創建したと言われ、
当初は前山寺(さきやまでら)と呼ばれた。
その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代まで繁栄。
南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれた。
当寺は役小角の修行地とされ、修験道にも関係が深かったが、
戦国時代には八角堂を除く堂宇を焼失。後に本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建された。

山門を過ぎて直ぐ左手にある鐘楼

鐘楼に吊るされた国宝・梵鐘
山内では八角堂と並ぶ国宝である。

梵鐘の説明駒札

参道右手に建つ重文・七重石塔婆
重文とは思えぬ程、自然に建っている。

石塔婆解説

石塔婆に続く塔之堂(大日堂)

塔之堂からの眺望
栄山寺橋が遠望できる。

境内に建つ句碑
説明がないので作者・内容は不詳。
元来は興福寺の末寺であったが、江戸初期に一時無住となり、
その後、泉涌寺別院の末寺、東京護国寺の末寺を経て現在は大和長谷寺の末寺である。
奈良時代より現在まで法灯を伝える南大和の名刹であり、八角円堂・梵鐘の両国宝を初め、
本尊・十二神将、石灯籠・石塔婆を始めとする重要文化財を有する文化財の宝庫である。』 とあります。

由緒記

重用文化財・本堂(薬師堂)
御本尊は室町期作とされる木造薬師如来坐像である。

本堂前に建つ重文・石燈篭

石燈篭説明

本堂に掲げられた「學晶山」の扁額

本堂前面
撮影禁止だが、内陣へ入って参拝可能。仏像に加え、資料やパネル展示もある。

本堂前よりかつての山門を見る
大和の西端にあるとはいえ、藤原南家の菩提寺であったとは初耳。
南家は不比等長男の系列で仲麻呂の時に頂点を極めますが、孝謙上皇と道鏡に反旗を翻し敗死。
以後、衰退の一途を辿ったと思っていましたが、意外にも後世まで影響力を持った様子。
己の【無知麻呂】を反省です。
また南朝の行在所としては市内の賀名生が有名ですが、
ここにも置かれていたのは同じ南繋がりだったのかと勝手な妄想が膨らみます。

栄山寺説明書

栄山寺御朱印 (平成6年正月拝受分)

今回拝受の御朱印
同じ御本尊の筈だが、平成6年とは差異が見られる。
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