<コース> 特急サザンは日中30分間隔で運転
【往路】難波(7:45) → (特急サザン3号) → 尾崎(8:22)
尾崎 → 徒歩8分 → 浪速酒造 → 徒歩5分 → 尾崎神社 → 本願寺尾崎別院 → 徒歩10分 → 市役所分室
【復路】尾崎(9:51) → (特急サザン16号) → 難波(10:28)

本願寺 尾崎別院 (浄土真宗本願寺派)
尾崎神社参拝に続き隣接する寺院へ。
地名を冠した点は同じですが、神社がこぢんまりとした一般家屋並みの広さなのに対し、
寺院は大伽藍というに相応しい寺域を持っています。
阪南市のガイドブック等には「浜街道沿いに佇む古寺」の名で紹介。
正門は街道に向いてはいませんが、街道に沿って長い白壁が続くまさに巨刹という表現がぴったりきます。

神社に続く長い壁
この奥に正門が控えるが、ここは浜街道沿いではない。

別院の正門
浜街道から直角の道に面し、北東向き。

こちらが浜街道に面した入口
車はこちらから境内へ入る。

文政13年(1830年)再建の正門
格式高い四脚門で、彫刻欄間が施されている。

正門の扉・欄間彫刻

正門の屋根の下の彫刻
本願寺尾崎別院(ほんがんじおざきべついん)は、
『当院の嚆矢は、善徳寺という小さな草堂に遡る。
ある時、一人の老父が来て善徳寺で一夜を明かした。その時、背負ってきた笈を残し、
中には蓮如上人御染筆の六字の名号、善導大師釈文の一軸があったと伝わる。

由緒記

境内の様子
本堂(左)と庫裏・台所(奥)

正面から見た本堂
もうすぐ法要が始まる直前。
善徳寺はその後焼失するが、そういった経緯もあってか、慶長3年(1598年)領主桑山伊賀守が再建を計画。
浄土真宗に信仰の篤かった家臣・石川次郎左衛門に命じて新たに十一間四面の堂宇を建立して、
本願寺第12代宗主准如上人に寄進し尾崎御坊となった。

いよいよ法要の始まり

本堂前の蔀戸とそれを引っ掛ける金具

本堂の向拝の下にて

向拝の柱の獅子
しかし、元禄13年(1700年)11月晦日に火災に拠り再度焼失。人々は茫然自失したが、
その4年後の嵐の翌朝、尾崎の浜に巨木を積んだ大船が漂着しているのが発見される。
村人は、この材木を天からの贈り物だと大いに喜び、再建の材と成すことを決定。
宝永2年(1705年)9月18日に上棟式を行い、御坊再建を成し終えた。
それ以降、誰言うとなく「不思議の御坊」と呼ばれるようになった。

向拝下から正門を見る

本堂内陣

玄関及び庫裏・台所(左から)

玄関の唐破風

唐破風屋根瓦にある下り藤の寺紋と牡丹の鬼瓦

寺務所(旧お茶所)

寺務所前に残る江戸時代の茶釜
その後、本堂の傷みも激しくなり、平成5年に屋根や内陣等の大修復が行われ、
再建当時の姿を取り戻し今に至る。』 とあります。
由緒記では伽藍焼失後、偶々浜に流れ着いた材木を再建に用いる事が出来たので
「不思議の御坊」と呼ばれるとありますが、私的には、焼失してもその都度各所から
寄進があり再建を果たしている方が驚き。宛ら「不死の御坊」と言った所でしょうか?

鐘楼

寺務所前の大銀杏

境内の樹木群
クスノキ(左)とカイヅカイブキ(右)

尾崎別院 説明書
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<コース> 特急サザンは日中30分間隔で運転
【往路】難波(7:45) → (特急サザン3号) → 尾崎(8:22)
尾崎 → 徒歩8分 → 浪速酒造 → 徒歩5分 → 尾崎神社 → 本願寺尾崎別院 → 徒歩10分 → 市役所分室
【復路】尾崎(9:51) → (特急サザン16号) → 難波(10:28)

尾崎神社
酒蔵のある古き町並みを見た後は、尾崎の地名を冠した神社に参拝。尾崎神社は、
『1700年頃、疫病の流行を憂い病気の平癒を願って、京都の八坂神社より
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の分霊を受けてこの地に祀ったのが嚆矢。
その後、西宮大神宮の末社として戎神社を祀っていたが、
明治42年(1909年)に神社名を尾崎神社に改称した。』 とあります。

南に向いた鳥居

境内に建つ鳥居とその正面に建つ社殿
参拝前は土地の神々を祀った古社と思っていましたが、意外にも江戸時代の創建。
名前も明治以降の改称でした。
御祭神は本社本殿が素戔嗚尊、若宮本殿は八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)を祀る戎社で、
本殿より少し遅れての建立だそう。
思うに海に近い場所なので、戎社を付加したというのが真相ではないでしょうか?
境内には社務所らしき建物は見当たらず、説明書きの宮司名は尾崎神社と波多神社に
なっていたので、波多神社の宮司さんが兼務していると【はた】と気付いた次第です。

中門の奥に建つ本殿(左)と若宮(右)

御祭神の由緒
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【往路】難波(7:45) → (特急サザン3号) → 尾崎(8:22)
尾崎 → 徒歩8分 → 浪速酒造 → 徒歩5分 → 尾崎神社 → 本願寺尾崎別院 → 徒歩10分 → 市役所分室
【復路】尾崎(9:51) → (特急サザン16号) → 難波(10:28)

浪速酒造
この日は、前日に配布開始となった第17弾MHCを得るために泉州の阪南市へ。
山側の熊野街道沿いに走るのが阪和線ならば、浜街道沿いを走るのが南海本線。
阪和線は山中渓駅周辺にかつての町並みが残りますが、
南海本線でそれに相当するのが尾崎駅周辺。中でも一際目を引くのが浪花酒造。

南海本線から浜街道へと向かう道筋

浪花酒造外観
銘酒「浪花正宗」直売所も兼ねる。
成子(なるこ)家住宅は、
『浪花酒造の酒蔵兼住宅。主屋は大正5年(1916年)築の木造総二階建て、
入母屋本瓦葺で、間口11間にも及ぶ大型町屋。国の重要文化財となっている。
三列六間取りの平面で書院化された座敷や、二階の居室化等に近代の町屋の特色が見える一方、
二階の天井を低くし、窓を全て虫籠窓にする等、伝統的な外観も保持している。
離れは玄関、座敷、茶室、洋館を配し接客空間として充実した施設を持つ。
その他、大規模な二階建ての酒蔵二棟もあり、「造り酒屋」の趣を残しながら町並みを構成している。』
とあります。

勝手口?前に吊るされた杉玉

こちらが玄関の様だが見学等はしていない様子

酒造に続く離れ(住居)
大阪府は旧国名では北から摂津・河内・和泉となりますが、キタ・ミナミに買い物に行く事はあっても
互いの行き来は稀。却って京都・神戸・奈良の方が身近に感じます。
この日の訪問先は阪南市ですが、和泉には泉南市もあります。
情けない話ですが、河内の人間にとっては、どちらが南にあるのか直ぐには分からない状態でした。
しかし古代より栄えた場所なので見所も豊富。MHCはそれに気付く良い機会を与えてくれたとも言えるでしょう。
余談ですが、成子家では阪南でも泉南でもなく浪花酒造。
【はんなん】に迷わないように何とか【せんなん】とイカンとの意図でしょうか?

離れより浜街道方面を見る

二階建ての酒蔵

この日のメイン、阪南市のMHC
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:21) → JR京都(6:54→7:00) → (湖西線) → JR近江今津(8:06→8:14) → (湖西・北陸線) → JR敦賀(8:46)
敦賀駅交流施設オルパーク シェアサイクル → 10分 → 敦賀港 → 金前寺 → 金崎宮
【復路】JR敦賀(10:23) → (北陸線) → JR近江塩津(10:39→11:07) → (北陸線) → JR米原(11:42)

金崎宮(旧官幣中社)
金前寺に続いて石段を上り見晴らしの良い高台の社へ。
旧官幣中社金崎宮(かねがさきぐう)は、
『明治23年(1890年)、金崎城跡内に建立。御祭神は後醍醐天皇の皇太子恒良(つねよし)親王と
尊良(たかよし)親王で、建武の中興十五社の一つに数えられる。
神明造の本殿と中門は、藤原時代の建築様式を模し明治建築の粋を尽くしたもので優美である。
祭神を慰める花換祭が4月10日から7日間、例祭は5月6日、3月28日には鎮火祭。
10月20日の御船遊管弦祭は延元の役で、城の北の福浦湾に舟を浮かべて
両親王の無聊を慰めたのが始まりとされる。

金前寺脇の上り口にある城跡履歴

ここに所縁の在る武将と家紋
金崎城址・天筒城跡は市街地北東部の天筒山系に連なる南北朝(延元)・
戦国(元亀)時代共通の城跡であり古戦場跡。
標高90mの金崎山は、気比のお山と言う171.3mの天筒主峰西支脈で敦賀湾内に突出、
三方を海に囲まれた断崖絶壁上の金崎城は難攻不落の要害であった。
南朝方が兵庫湊川の戦いで敗れると、後醍醐天皇は南朝の勢力回復を図るため、
朝廷と縁の深い気比宮の莫大な交通税を軍資金にあて、敦賀津を拠点に
日本海の制海権を握って北陸山陰道から足利方への糧道を塞ぐ作戦に出る。

宮への階段
信長の「金ヶ崎の退き口」の看板が建つ。

金ヶ崎城跡説明

概略図
延元元年(1336年)、皇太子恒良(つねなが)親王(新天皇)、皇子尊良(たかなが)親王を奉じて
北陸に勢力を持つ新田義貞ら一族武将約1000騎を敦賀に下向。
気比大宮司・気比弥三郎大夫氏治軍と併せて1700騎が金崎山に点在した金前寺11坊に拠り、
御座所は観音堂をあてて金崎城とした。
新天皇の綸旨にも全国から兵は集まらず、延元2年(1337年)3月6日、足利方の
高師泰・斯波高経の総攻撃を受け、籠城6ヵ月、軍馬や人肉までも食するという極限状態で落城した。

階段を上り境内へ

一の鳥居

金崎宮縁起

一の鳥居から敦賀港を眼下に見る

引き込み線とコンテナ

金ヶ崎案内図

いよいよ境内へ
尊良新王・公卿・新田義顕(よしあき)・気比弥三郎大夫氏治等三百余名が自刃。
14歳の恒良新王は気比斉晴(なりはる)の計らいで小舟で逃れたが、
足利方に捕らわれ京都で毒殺されたと 『太平記』 は伝える。

桜に囲まれた金崎宮境内

手水舎

二の鳥居を抜け社殿へ向かう

二の鳥居近影

二の鳥居に続く拝殿(舞殿)

横から見た拝殿

中門前から見た拝殿
戦国時代の元亀の役でも、気比社家は朝倉方に味方して、延元の役に続く敗戦となった。
この戦では越前の朝倉義景を攻めるべく織田信長が出陣したが、
同盟者であった北近江の浅井長政が朝倉方に寝返ったため、急遽都へ退却する羽目に。
その時に見事な殿を務めたのが羽柴秀吉で、徳川家康がこれを助けたとあり、
それが後の天下取りに繋がった。
それに先立ち、長政の妻であったお市の方が兄信長の陣中見舞いに袋を紐で縛った小豆を贈り、
それを見た信長が長政の裏切りを知ったと伝わる。

これは祈祷所か旧社務所か?

神明造りの中門

中門の先に建つ本殿
こちらも神明造りである。

塀越しに見た本殿屋根

中門下に置かれた「恋の割符守」と「祈願絵馬」
摂社絹掛神社は、延元の役に殉じた新田義顕・気比弥三郎大夫氏治・気比斉晴・瓜生保ら将兵・公卿を祀り、
朝倉神社は昭和57年(1982年)金崎宮本殿修復時の仮本殿だが、
金崎城に関係ある敦賀城主朝倉教景(のりかげ)(宗滴)等、朝倉歴代の敦賀城主(郡代)を祀る。』
とあります。

本殿に隣接する摂社絹掛神社

絹掛神社の由来

正面から見た絹掛神社

絹掛神社本殿

二の鳥居の右手に建つ朝倉神社
本殿修復時の仮本殿。
軍事上の要衝だけに数多の戦乱を経ていますが、大きな戦は南北朝と戦国時代。
いずれも大きな戦禍を被りますが、気比神宮の宮司がいずれも敗者側に付いた事。
情報が不足していたのか、敗者側に付かねばならない柵があったのか、
恐らく後者の可能性が大だったのでしょう。
唯、不思議にも敗者となっても宮は消滅せず、今に伝わっています。
祟りを怖れた可能性は、比叡山を焼き討ちした信長にはありえない話。
残しておいた方が得になる何某かの理由があったのでしょう。
祟りよりも多利を失う事を怖れた結果と言えそうです。

御鎮座20年記念の時計台

社務所前にて
御祭神の恒良・尊良親王は、私の学生の頃は「つねなが・たかなが」と読んでいましたが、
南北朝の研究が進んだ今では「つねよし・たかよし」と読むのが一般的。
時代の流れとも言えますが、そういえば最近「建武の新政」は聞いても「建武の中興」とは聞きませんね。
このように悲劇の舞台となった金崎宮ですが、御祭神の尊良親王とその妻である西園寺公顕女・
御匣殿(みくしげどの)との恋愛伝説や、花換祭の風習のため「恋の宮」としても有名とか。
中門には恋の割符守がありました。その直ぐ横にある祈願守は、どことなく飴玉を包んだような形でしたが、
お市の方の小豆袋と漸く気が付きました。【あずき】桃山時代を象徴するエピソードです。

現在、4種の御朱印がある

金崎宮御朱印
平成5年拝受分。この時はこの1種のみ。

本殿の先に続く花換の道
桜並木を通り抜けると金ヶ崎城址に着く。
こうして敦賀港巡礼を無事終えて10:23分の電車で米原まで。
名古屋方面の列車には時間があったので、久し振りに近江牛の駅弁購入。
米原駅にて江州マイでマイ腹を満たす事ができました。

この日の昼食 ¥1,080 はリーズナブル。

駅弁の中身
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誓法山 金前寺(高野山真言宗 北陸観音霊場特番札所)
敦賀港で鉄道遺産を見た後は、高台にある金崎宮に参拝ですが、
その上り坂手前に一宇があったので、先ず参拝。
金前寺という名前から、金崎宮の手前にある神宮寺であろうとは、想像に難くありません。
誓法山金前寺(せいほうざんこんぜんじ)は、
『奈良時代の天平8年(736年)、聖武天皇の霊夢により勅を奉じた泰澄大師が十一面観音坐像を本尊として寺を建立。
天皇親筆による金光明経を賜り、その経を金櫃に封じて陵丘に埋めた。
それに拠りこの山を金ヶ崎と値付け、寺名を金前寺と号した。
寺伝に拠れば、金前とは金光を発する十一面観音に由来するとも言われる。

駐車場から見た全景

寺の前には金崎宮の社標が建つ

山門はないが、本堂へはこちらから参拝

金前寺々歴
弘仁2年(811年)には、弘法大師が留錫。当山は気比神宮の奥の院として伽藍十二坊を有し、
本尊・袴掛観音は縁結びの観音として霊験あらたかであった。その縁起は『今昔物語』に載る。
「昔、敦賀に両親と暮らす娘が居り、何度か結婚したが離縁となった。
両親は観音様に娘の幸せを祈ったが、両親が無くなると娘は困窮し、観音様に祈った。
すると夢に老僧が現れ、「明日、夫となる者が現れる。」 と告げた。

正面から見た本堂
平成元年の再建。

本堂内陣へ向かう

本堂向拝の下にて
翌日、美濃の豪族の息子が従者を引き連れて現われ宿を所望した。
息子は妻に先立たれ千個話も断り続けていたが、娘が亡くなった妻に生き写しである事に驚いた。
翌日、息子は若狭に所用で出かけ、娘は残った従者を満足にもてなすことができずに困っていた。
そこへかつて両親に仕えたという女が現われ、食べ物を運ぶなどの手伝いをした。
若狭から戻った息子は娘を美濃へ連れ帰る事にし、娘は世話になった女に紅の袴を与えることにした。
出発の際に観音様に参ると、女に与えた袴が観音様に掛かっていた。
娘は観音様が女に姿を変えて助けてくれたと気付き、感謝の涙を流したという。
後に、二人は美濃で幸せに暮らした。」 と言う。

本堂に掲げられた「誓法山」の扁額

本堂へ入ると「現在不在」の立て札が

本堂内観

五種類の御朱印が
全て¥300なのが良心的である。
この金前寺は南北朝の延元年間に入るや、北国の鎮護として下向された
後醍醐天皇の皇子恒良(つねなが)新王、及び尊良(たかなが)新王を迎える。
気比社の祠官気比氏治以下、幾多の忠勇義烈の士が足利軍を迎え一大決戦の本営となった。
延元元年(1336年)、新田義貞は金ヶ崎に城を築き、翌2年3月6日、足利尊氏軍に攻められて敗走。
後醍醐天皇の皇太子恒良新王は後に捉われ、皇子尊良新王及び、
新田義顕(義貞長男)は、金前寺の観音堂にて自害した。
敗走の際、義貞は陣鐘(じんしょう)を海に沈めた。その後、国守が海女に命じて探索したが、
鐘の竜頭が逆さに泥に埋まり引き上げることができなかったと伝わる。

金前寺説明書

北陸観音霊場特番御朱印

観音霊場お札

縁結び本尊 袴掛観音御朱印
江戸時代の元禄2年(1689年)8月14日、松尾芭蕉は等栽と敦賀に入り、唐人橋の出雲屋弥市郎方に宿泊。
夕食後、気比神宮に参拝、翌15日雨の中を天屋玄流らに案内されて、金前寺を訪れた。
そして延元の戦い、陣鐘の物語を聞き、詠んだのが、
・月いづこ 鐘は沈る うみのそこ はせを
である。
この句碑(鐘塚)は、宝暦11年(1761年)に敦賀の俳人、白崎琴路らが芭蕉の没後68年目に建立した。
芭蕉の真筆を刻んだと伝えられているが、その真筆は不明。鐘塚は県内に残る句碑の中で最も古い。

芭蕉翁鐘塚

芭蕉の句碑

鐘塚由緒
以後、寛文2年(1662年)に安孫子浄泉・打宅宗貞等が現在地に観音堂を再建。
鎮護国家・済世利人の祈願時として法灯を相続したが、昭和20年(1945年)7月12日の
米軍空襲に拠り、堂宇、寺宝の一切を焼失し灰燼に帰した。
位牌段に安置の十一面観音立像は当寺の末寺であった気比蔵寺の本尊で、
戦時中は美浜町の園林寺に疎開していたため、幸いにも空襲を免れた。
終戦直後の昭和21年4月より本堂再建に着手し、その年に本尊を迎えた。
その後は、昭和27年、37年に本堂の修復増築工事、平成元年には現在の本堂、庫裏を再建した。』
とあります。

金崎宮への参道から見た本堂

歓喜天堂(右)と納骨堂

歓喜天堂
本堂横の説明板では多くの霊場を兼ねている模様。【けんむ】しているのは後醍醐天皇との所縁でしょうか?
その中で御本尊の袴掛観音の奇瑞は寺にとっても瑞祥、【婚前】寺と言っても良い位です。
唯、それ以外は全て戦に関わる話。そもそも金ヶ崎宮が戦略上の要衝にあるので、
当寺も否が応でも戦禍を避けることは出来なかったのでしょう。
縁結びの御本尊も戦禍を免れる術は持っていなかったようです。
南北朝時代に激戦があり、南朝軍は敗走し多くの死者を出すと言う悲劇を生みますが、
不思議なのは新田義貞が陣鐘を海に沈めた行為。敗走の最中に、なぜわざわざ面倒な事をしたのか?
天皇から下賜された鐘を敵に奪われる屈辱を怖れたからなのかは分かりませんが、
後世に芭蕉が句を詠んでいることから、不思議とは思わなかったのでしょう。
今の私には【じんじょう】には思えませんでしたが。

各種霊場を兼務している

本堂前の五重塔、水子地蔵菩薩、鐘楼等

鐘楼とその前に立つ、弘法大師・観音・不動明王像

梵鐘

五重塔
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【復路】JR敦賀(10:23) → (北陸線) → JR近江塩津(10:39→11:07) → (北陸線) → JR米原(11:42)

敦賀鉄道資料館
令和4年8月6日はマンホールカード第17弾が開始の日。
ばらばらに回っていたら収拾がつかないので、この日は収集に特化。
北陸から東海と計3ヵ所を目指します。
先ずは、早朝の電車を乗り継いで8時46分敦賀着。
そこでシェアサイクルを借りるのに手間取りましたが、
駅から敦賀港まで2㎞疾走して「人道の港 敦賀ムゼウム」へ。
ここは第二次大戦中、駐リトアニア大使だった杉原千畝氏がビザを発行したユダヤ難民、
ポーランド孤児の敦賀上陸の際のエピソードを紹介する施設。
命のビザが敦賀と関わっていたとは初耳でした。

人道の港 敦賀ムゼウム

敦賀市マンホールカード
(左) 鉄道資料館 (右)敦賀ムゼウム にて配布。
無事1枚目を入手出来た訳ですが、収集だけではつまらんので、
敦賀で残り1時間の間に観光を【敢行】する事に。
気比のみなと敦賀は、福井県のほぼ中央に位置。古代には北陸を抑える畿内の前進地。
奈良平安時代には渤海など対外関係の要津、中世から近世にかけては日本海側航路の要衝として発展。
要は港町ですが、意外と多いのが鉄道遺産。
ムゼウムの手前には再現された旧敦賀港駅舎が敦賀鉄道資料館として開館。
また現在は休止中ですが、敦賀駅からムゼウムまでは線路が伸びています。

敦賀鉄道資料館全景(旧敦賀港駅舎)

かつてはムゼウムまで伸びていた線路
『敦賀駅の開業は明治15年3月10日であるが、現在の場所ではなく気比神宮の近くにあり、
更に線路は進んで港に入り金ヶ崎という臨港駅を作っていた。
開通時には福井・金沢方面への延伸よりも敦賀港への連絡を重視した造りであった。
福井方面に延伸するとスイッチバックの必要が生じたので、明治43年(1910年)に駅は現在地に移転。
敦賀港への列車をスイッチバックさせた。その後、明治45年に新たな線路を東側に敷設して
米原方面から敦賀港に直通できるようにし、旧線は廃止された。』 とあります。

資料館横の金ヶ崎緑地に建つ巨大常夜燈
燈台の役目も果たしたか?

港に面した敦賀赤レンガ倉庫
1905年、外国人の設計に拠る、港町敦賀の象徴的建造物。

赤レンガ倉庫近影
内部にレストラン、喫茶店が入る。

倉庫の前では恐竜と一緒に記念撮影
恐竜王国福井ならでは。

かつて走っていた「急行わかさ」車両
敦賀~長浜間に鉄道が開通したのは明治15年。これは明治29年の福井、同31年の金沢はもとより
東海道線の米原の明治22年よりも早い時期になります。
この年代差から見て、敦賀駅は港に揚げられた物資を長浜まで運び、琵琶湖の水運を使って
京・大阪に送るという目的で作られたといっても過言ではないでしょう。
敦賀駅は度々移転を繰り返していますが、これは敦賀港の盛衰との関りに拠るもので、
明治期には今以上に日本海交通が重視された証拠といえます。

大正7年完成の敦賀港駅ランプ小屋
金前寺の手前に建つ煉瓦造りの貴重な鉄道遺産。

金崎宮への参道の途中から
そんな事を思いながら駅に戻ると建設中の北陸新幹線の敦賀駅舎が正面に出現。
2024年の開業を目指すようですが、開業後、敦賀以北は全て3セクに移行するとの事。
明治に開業し、かつては米原~直江津間353.9㎞あった路線も、新幹線の金沢延伸で
176.6㎞と約半分になり、今度は敦賀延伸で45.9㎞とかつての八分の一に縮小。
京大阪の人間にとっては福井金沢まで乗り換えなしに行くことができず不便になりますが、
ここまで路線を縮小してまで3セクにする必要があるのか、新幹線を延長する必要があるのか、
次々に疑問が浮かんできました。

建設中の北陸新幹線・敦賀駅舎
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<コース> 夏の青春18きっぷ + 長良川鉄道1日フリーキップ(¥1,300)
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56)
美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
【復路】美濃太田(15:56) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

美濃白鳥駅ホームに停車中の観光列車「ながら2号」
白鳥神社参拝の後は駅まで戻り、観光列車「ながら2号」で美濃太田駅まで。
行きの1号が北濃で折り返したもののようです。
長良川では鮎釣りの太公望が犇めていましたが、郡上大和付近でいきなり対岸に巨大な恐竜が出現。
なんだろうと思っていると、CAさんの説明で恐竜模型を製造している会社だと分かりました。
郡上八幡には食品サンプルを最初に始めた会社がありますが、
長良川鉄道沿線は模型造りに適しているのでしょうか?

「ながら2号」車内
折り返しなので「ながら1号」車内と変わらないのは【しゃーない】か!

昼を過ぎても長良川には太公望の姿が

いきなり恐竜が対岸に出現!
帰りの列車では行き程、イベントがありませんでしたが、
美濃市駅のホーム停車中の車体には個性的なキャラが。
車内説明で、さくらももこさん作の「GJ8マン(ジー・ジェイ・エイトマン)」とか。
初めは不思議な名前と首を傾げましたが、【ぐじょうはちまん】をアルファベットと数字で表したものと分かり納得。
文字通りGood Jobです。説明では、作者が頼まれもしないのに勝手に考えてみたそう。
漫画家として多忙を極めた方だったと思いますので、勿論【さくら】などではなく、
余程この町が気に入られたのでしょう。故人となられたので確かめる術はありませんが、
それにしてもこれだけ思いが強いのは、さくらさんが【清水】出身だからと勝手に納得した次第。

「GJ8マン」のラッピング列車
そうこうしているうちに列車は関駅に入線して17分待ちの間に最後の押印が完了しました。
結局、観光は美濃白鳥駅で下車した白鳥神社だけで、他は車窓からの眺めだけでしたが、
様々な列車にも遭遇し全八駅こんぷりーと。
ラリー開催から2週間であったため、スタンプの摩滅・汚れ、インク切れもなく、
理想状態で押印でき15時50分に始発の美濃太田駅着。郡上でグッジョブでした。
沿線にある刃物の産地・関では「鉄は熱いうちに打て」ですが、今回は「テツは新しいうちに押せ」を実践。
唯一の名産・関のうなぎを食べ損なった事が心残り。
押印にかまけていたためで、思わず「私バカよね~♪」と呟いた次第です。

関駅のスタンプ台

関駅で関駅・富加駅の二印を押印
黒・四角は史蹟、文化財を表す。

関駅で押印したコンプリート(完全制覇)印 と記念の缶バッチ
赤・六角はレジャー、スポーツを表す。

記念品には¥500以上のグッズ購入が必要なので、カレー¥600 × 2個購入
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白鳥神社(旧郷社)
白鳥神社を特徴付けるもう一つのものは、天然記念物になっている社叢。
入口の石碑にもその記載があります。その中でも、群を抜いているのが大欅(おおけやき)。
『御神木の大欅は白鳥神社の杜の中に実生し、千五百年の歳月を生き続けていた。
その旺盛な時代には樹高35m余、胸高直径2m余の堂々たる巨樹であり、
注連縄の張られた姿は誠に神々しく、近郷近在何処へ行っても見る事のできない
立派な御神木であり白鳥神社の誇りでもあった。

本殿横にある大欅の後継の巨木

御神木紀文碑

大欅の由緒記
平成の初め頃から樹勢が急速に衰え初め、樹木医や総代・氏子の必死の努力も空しく、
平成10年5月に樹木医より枯死の判断が下された。
永年に亘り白鳥の里を見守った御神木であったが、平成12年11月に根元から若干の樹幹を残し伐採。
この時、切り倒す作業を始めると晴天が俄かに曇り激しい降雨となったが、
伐採が終了すると雨は上がり青空になった。人々はこの時、残された切り株に神が宿ったものと信じ、
その幹に鞘を掛け永久に敬いこの切り株で往時の英姿を偲ぶ事とした。
現在、本殿横には後継の欅の巨木があり、同じく神宿る木として崇拝されている。』 とあります。

本殿横に建つ白鳥稲荷神社

白鳥稲荷神社由緒

稲荷神社の奥に広がる社叢
大欅に限らず境内には巨樹が散見されますが、社叢が保たれたのは豊富な水に恵まれたから。
郡上八幡と同様、この白鳥町も水の街のようで境内にも池が満々と水を湛えていました。
御神木として地域の人々を見守った大欅も残念ながら寿命には勝てなかったようですが、
その後継木があるので、今後はその木が地域を見守り続ける光景が見られることでしょう。
唯、このような社叢を長良川鉄道の車窓から眺めることが出来ないのは残念ですが…。

境内にある池

豊富な水が育んだ社叢

拝殿、本殿と奥に続く社叢

稲荷への参道の両側から迫る巨樹
[参考書]
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白鳥神社(旧郷社)
昔ながらの町並みを抜け、清冽な水路を横に見ながら10分程歩くと、大きな鳥居が。
白鳥神社は、
『社伝に拠れば、仲哀天皇の時代この地に1羽の大きな白鳥が飛来。
数日に亘り上空を舞い飛んだ後、森の梢に1枚の羽を残して飛び去った。
村人たちはこの白鳥を日本武尊であったと考え、羽を祀ったのが嚆矢とされる。

入口に建つ木の鳥居と社叢

鳥居脇にある白鳥おどりと社叢の石碑

力石

帽子を被った貴婦人の様な常夜燈
また別の由緒には養老6年(722年)、都から美濃へ入った泰澄が白山に帰る途中、
この付近で空を舞っていた白鳥が舞い降りて天女の姿になり、
「これより北五十町に霊地あり、必ず伽藍を建てるべし。」 と告げて再び飛び去った。
此の地を霊地と感じた泰澄は白鳥寺を建立、その境内に白山頂上に祀る伊弉冉尊を勧請して
白鳥社を創祀したのに始まるとされ、日本武尊と伊弉冉尊を合祀したと言う。

鳥居の奥に見える拝殿

拝殿遠望

拝殿近影

拝殿前面の組物と彫刻

横から見た拝殿
その後、室町時代の足利義政の頃、当社永久保存のため地頭遠江佐倉は田7段を奉納。
慶長年間に白鳥寺は廃寺となったが神社は存続し、嘉永5年(1852年)に
越前志比の名匠大久保吉郎右衛門に拠り今の本殿が建立。
彫刻は尾張の名人瀬川治助重光の手になり、本殿裏手の欅の巨木1本から造ったとされる。
明治4年(1871年)に郷社に列し、同40年(1907年)には境内社として稲荷神社が創建されている。
同年の白鳥大火では拝殿焼失の被害を受けたが、
本殿は氏子と町内の人々の必死の努力で類焼を免れている。
焼失した拝殿は明治末年に越前志比の大工大久保作左右衛門が再建している。』
とあります。

後方から見た拝殿

拝殿の奥に建つ本殿

本殿と大欅

正面から見た本殿
但し、見えているのは本殿の覆い堂である。

本殿中門の欄間彫刻
由緒は仲哀天皇と泰澄と時代も人間も【たいちょう】的ですが、共通項は「白」。
歴史学で引用される加上説に従えば、より遅い泰澄の由緒が事実に近いとなります。
後に、中央との関りを持ちたいと願った人達が、白山を白鳥に変え、
御祭神を日本武尊にしたのではと想像を【かくちょう】してしまいます。

中門の屋根

本殿

本殿の彫刻

本殿

由緒記
[参考書]
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美濃白鳥駅舎
郡上八幡を出発して、美濃白鳥駅で下車。
駅スタンプは最北の北濃までありますが、無人駅のため、ここ美濃白鳥駅で管理。
この日の長良川鉄道での最北駅となりました。
ここで次の上り列車まで39分。観光らしき事を何もしていなかったので、白鳥神社へ参拝することに。
この日、唯一の観光を敢行しました。

待合室の天井

改札外に設置されたスタンプ台

押印した美濃白鳥駅スタンプ
黒・四角は史蹟、文化財を表す。

同時に押印した北濃駅スタンプ
黒・丸は自然景観を表す。
神社までは8分程度ですが、町を歩くと街道沿いに醸造元などの
昔【ながら】の町並みが残り、道路脇に水路が流れています。
これは単に郡上八幡の二番煎じではなく、この辺りの地形を有効活用した結果、
似た景観になったのでしょう。同じような事は飛騨高山と飛騨古川にも見られます。

美濃白鳥駅舎全景
駅前からは、JR九頭竜湖駅、郡上八幡、石徹白(いとしろ)方面へのバスが発着。

街道沿いの家屋

和風と洋風の建築

街道沿いの醸造元

醸造元玄関に掲げられた看板
時代を反映して右書き。

蔵元の脇にある門
ここからできた酒を運んだか?

白鳥神社への道
道路脇を水路が流れる。
加えて駅舎を出ると「白鳥踊り」の垂れ幕が。郡上踊りは有名ですが、白鳥踊りとは初耳。
郡上踊りが有名なので真似をしているように思い勝ちですが、昔から行われている盆踊り。
辺りが盆地なので盆踊りという訳ではないですが、郡上八幡同様、地元に根差した文化です。
「白鳥の湖」を連想する人もいるかもですが、これは盆地ではなく谷間(バレー)でしょうね!

駅前商店街の幕

駅前に建つ「白鳥おどり」の像
郡上おどりと同じ、徹夜踊りだそう。
[参考書]
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郡上八幡駅舎
大矢駅で停車後は、ながら1号は郡上八幡駅までノンストップ。
ここで後ろの鮎号を切り離し、森号のみで更に北上。切り離しの時間が6分あったので、
すかさず押印して車両に戻りますが、ホームは一見の価値あり。

ホームでの切り離し作業
鮎号(左)と森号(右)。

改札外に設置されたスタンプ台
12時過ぎのため、郡上八幡駅&大矢駅 の2印が置かれていた。

押印した郡上八幡駅スタンプ
赤・五角は、風俗、祭、行事を表す。
長良川鉄道は本州最長の三セク鉄道で国鉄時代の古い駅舎が、
今も保存されている駅舎マニアには聖地のような場所。
特にここ郡上八幡は単に古びた駅舎ではなく、芸術性を持たせた入口や待合室、
駅長室にもそこはかとない郷愁を感じます。
唯、文化財になっているため改築はできないので、不便さは致し方ないのだそう。

跨線橋

1番ホームに停車中の列車

昔ながらの駅長室

駅長室前から美濃太田方面を見る
長良川鉄道をはじめ天竜浜名湖鉄道、若桜鉄道等古い駅舎が残っている路線は多いですが、
これは意図的に残そうとしたのではなく、失礼な言い方ですが駅舎を建て替える余裕がなかったからでしょう。
こんなお荷物とも言うべきものが、脚光を浴びるとは想像すらしていなかった筈。
JRではなく、3セクになったが故に改築できなかったのが幸いしたようです。

改札口

待合室

1両になった「ながら森号」で北濃に向けて出発
[参考書]
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観光列車「ながら1号」の車窓から
深戸~相生間、左に見えるのは東海北陸道。
ながら1号で移動し【ながら】押印する旅ですが、列車は清流長良川に沿って北上。
郡上八幡駅まで、美しい車窓を眺めながら合計6本の橋梁を渡ります。
ながら1号にはCA(カルシウムではない!)の方が乗車されて、沿線の見所を説明。
景色の良い場所では停車して写真撮影もできました。観光列車の特典と言えます。
川は北上するといっても蛇行している訳で、大きくU字型に曲がった岸には
前年の大雨で流された大木が未だに岩に引っ掛かっていました。
河口の岐阜市内と異なり、鉄道から見える長良川は川底まで見える透明度。
四万十川と並ぶ清流と呼ばれるもの納得です。

湯の洞温泉口を過ぎた最初の橋梁から

八坂駅を過ぎた第二橋梁上から
正面に見える赤い橋は勝原橋。

長良川が大きく湾曲する美並町白山付近
福野~美並苅安間。

U字に流れる長良川

岸に引っ掛かった大木

川は湾曲を過ぎ北上
長良川と言えば千年の歴史を誇る鵜飼の鮎が有名ですが、あれは下流での話。
太公望にとっては、やはり上中流での友釣りが醍醐味でしょう。鮎は1年で生涯を終える魚。
幼魚の時期は昆虫を主食としますが、成魚になると川底の岩に生えた藻類のみを食べます。
養殖した鮎と異なり天然鮎は釣った場所によって香りに違いがあるとか。
これも食用とする藻類の影響でしょうが、透明度が高い長良川では
藻類も盛んに光合成を行って成長する事が預かっているようです。

赤池付近

この辺りになると岸辺に岩場が目立つようになる

赤池駅を過ぎ橋梁を渡る

深戸駅を過ぎて
東海北陸道は川を通り山田トンネルへ。

深戸トンネルを抜けた東海北陸道

長良川に架かる東海北陸道橋脚

遠ざかる橋脚を見ながら列車は八幡町へ
丁度、解禁の時期なので川は鮎を狙う人達でいっぱいでした。
鮎は己の縄張りを持って行動しますが、釣り人も自分のエリアを守って竿を垂らしています。
縄張り式は魚も人も変わらんようで面白みを感じます。
こうして長良川に沿って景色を北濃ならぬ堪能しつつ郡上八幡駅へ。
現在ならばトンネルや高架を使ってもっと短い路線にするでしょうが、
国鉄時代に敷設された故に、古の街道に沿った形。
やはり長良川は【うかい】して見る価値がある川でした。

八幡に近付くと太公望もチラホラと

川が曲がる場所にも太公望の姿が

こちらは「ながら1号」を撮影するマニアの人達

郡上八幡駅の手前にて

郡上八幡駅の手前のこの場所からは白山が遠望できるそう
[参考書]
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