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長門湯本 → 徒歩10分 → 大寧寺・長門豊川稲荷 → 大寧寺バス停(10:26) → (サンデンバス) → 向名橋(10:38) → 徒歩10分 → 能満寺 → 向名橋(11:40) → (サンデンバス) → 大寧寺(11:52) → JR長門湯本(12:46)

瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
境内の高台にある大内義隆公墓所。
600年の歴史を誇る大寧寺ですが、ここが一躍脚光を浴びたのが1551年の大寧寺の変。
名門大内氏が家臣の陶氏に討たれるという、下克上の典型にして戦国時代最大の悲劇の一つでもあります。
虎渓橋を渡った場所にあるのが義隆公「兜掛けの岩」と「姿見の池」。
かつての場所から移動されたものですが、公の悲劇を象徴しています。

朱い欄干の虎渓橋を渡った場所にある義隆公「兜掛けの岩」と「姿見の池」

「兜掛けの岩」と「姿見の池」の解説

「兜掛けの岩」近影

「姿見の池」近影
『守護大名から西国屈指の戦国大名となった大内氏の31代当主が大内義隆。
武門の大内家にありながら義隆自身は文化人として名高い戦国大名。厳島神社を保護し、
フランシスコ・ザビエルと接見。当時の都「京都」に匹敵する大内文化を山口に絢爛と花開かせた。
しかし天文20年(1551年)、重臣・陶隆房(のち晴賢)が突如謀反。山口を追われた義隆は
大内家に所縁の深い当寺に逃れ、十三世・異雪慶殊(いせつけいじゅ)和尚に示戒を請い、
9月1日に従った群臣と共に従容として自刃した。享年45歳。
・討つ人も 討たるる人も 諸共に 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん)
が辞世として伝わる。

本堂脇の冷泉坂から墓所へ向かう

冷泉坂の場所はかつての経蔵跡
義隆家臣冷泉隆豊の壮絶な最期が伝わる。
当所、山口を追われた義隆は綾木を経て青海島に入った。
土豪の助けを受け、九州に落ち延び再起を計ったが悪天候で叶わず、大寧寺に入った。
義隆は境内に入る前、乱れた髪を整えようと参道脇の岩に兜を掛け、傍の池に顔を写そうとした。
しかし水面には自分の姿は映らず、己の運命を悟った義隆は寺の本堂へ入り潔く自刃したと言う。
連綿として栄えた名門大内氏も31代にして断絶。主従の墓は裏山、遊仙窟に眠る。』 とあります。

墓所への坂道

坂の途中から見下ろした庭園の心字池
本堂から西へ進み、冷泉坂を5分程上ると大内義隆公墓所。寺の高台ですが、
周囲を木々に囲まれ光が遮られたその場所に建つと、盛者必衰の理が胸を過りました。
一般には武を蔑ろにし、文に流れた主君を武断派の家臣が討ったと言う事で、
大内義隆は軟弱な君主の如く描かれ、大河ドラマ「毛利元就」でもそのように描かれています。

冷泉坂を上った場所にある大内義隆公墓所

墓所の説明石板
しかし考えて見るとおかしな点が散見されます。
① 軟弱な君主即ち凡将ならば、毒殺・謀殺等ができたのに、陶隆房は挙兵した。
② 大内義隆没後、隆房は自ら君主にならず義隆の甥義長を豊後大友家より迎えている。
暗君であれば傀儡も容易で、殺す必要もなかった。
③ 討たれた義隆は遠く長門湯本まで逃れ自刃したが、主君に従って討死した家臣もいる。
墓所には義隆親子に従って、共に死した三十三名の宝篋印塔が建ちますが、
それだけの数の家臣が最後まで付き従ったと言う事実。
中でも重臣の冷泉隆豊は、最後まで踏み止まったが力及ばず。
割腹自殺した際に、己の腸を隆房方に投げ付けたという壮絶な最期を遂げています。

33名の墓石配置図

大内義隆主従の墓所

大内義隆(左)と息子の義尊(右)の墓所

義隆主従の墓所に隣接する重臣達の墓
暗君ならば有事の際には家臣は皆逃げ出してしまうもの。
このような家臣を持った点から見ると大内義隆は凡将暗君などではなく相応の実力を備えた武将で、
陶隆房との間の権力闘争だったというのが真に近い気がします。
梵鐘を打つとその音色は遠くまで響きますが、凡将を討っても名声が伝わる事は皆無と言えましょうか。
しかし権力を手中にした隆房も、厳島の戦いで毛利元就に敗死。
主君を討った事が元就の戦に大義名分を与えた事は想像に難くありません。
義隆の死について元就が裏で糸を引いていたとは思えませんが、結局漁夫の利を得たのは毛利元就でした。

こちらも義隆に殉じた家臣達の墓所

冷泉坂の手前に建つ毛利家重臣墓群

坂の脇にある開山塔

境内に建つ大内義隆公追善和讃
[参考書]
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瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
本堂裏手の心字池と庭園。
西海屈指の禅窟、大寧寺はまた風光明媚な寺院でもあります。
『瑞雲山大寧寺は、その境内山紫水明の間にあり、
金剛嶺を後ろに大寧寺川を前にして奇巌屹立、清渓淙々たり。
その昔、中国の禅僧この地に来遊して風光の絶佳なるに驚き、称して東方の廬山と為す。
爾来文人墨客の詩文を賦する者枚挙に暇なく、就中、大江広保の「東廬山賦」、
山田原鉄の「廬山十景詩」は夙に有名である。
東廬山(とうろさん)十景とは、金剛嶺・獅子峰・遊仙窟・呼猿洞・虎渓橋・盤石橋・
深谷樵径・瀑布泉・白蓮池・三笑巌の勝区を指す。』 とあります。

本堂から渡り廊下を経て書院へ

紫雲閣と命名された書院(庫裏)

書院縁側

本堂から紫雲閣へと続く渡り廊下

渡り廊下から見た紫雲閣と前栽

石州瓦の赤が山の緑に映える
何やらややこしい熟語が並びますが、廬山は水墨画にも描かれる中国の名勝。
東廬山とは中国の東方にある廬山に匹敵する場所の謂い。
要はここを訪れた中国の僧侶が自国の風景に似たこの地を懐かしんだと言う事でしょう。

本堂の左手から奥の庭へ

本堂裏手にある心字池と庭園
正面には紫雲閣が建つ。

庭園は背後の山を借景にしている

心字池近影
本来なら境内を全て歩いて見るべきでしょうが、流石に3時間では無理。本堂周辺の散策に留まりました。
それでも紫雲閣と呼ばれる庫裏の前栽、渡り廊下を隔てた本堂との内庭は簡素な禅風の造りでした。
案内図に拠れば庫裏の奥に庭園があるようですが、本堂や廊下からは見えず。
これは無理かと諦めていたら本堂西側に入口があって、間近まで行って拝観。
山を借景にし、手前に心字池と石組みを配した景観を見て思わず、
「マジか!」と叫んだという落ちが付きました。

本堂左奥の智日堂

鬼瓦に施された大内菱

堂前に植えられた大内桜

智日堂とその奥に建つ開山堂

宝物を納める祠堂
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瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
山門跡を過ぎると放生池の正面に壮麗な本堂が建ちますが、階段の両側には楓や百日紅などの
木々が繁っているため、左程大きさを感じません。禅の教えに通じる話です。
瑞雲萬歳山大寧護国禅寺(ずいうんばんぜいさんたいねいごこくぜんじ)は、
『応永17年(1410年)、守護大内氏の一族で長門国深川城主であった鷲頭(わしのうず)弘忠が
能登国總持寺の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を開山として迎え、城内に開創した康福寺がその前身。
禅師は18歳で中国に渡り20年修行、活達磨と称賛され、帰国後は南北朝に分かれていた皇室を、
後小松天皇の勅命に拠り元中9年(1392年)に合一。皇室より絶大な信頼を得た高僧である。

本堂全景
衆寮を元に造られた本堂は珍しく山口県の重要文化財。仏教寺院の本堂としては県下最大級である。

本堂前面の向拝

本堂入口に掲げられた「瑞雲山」の扁額
康福寺は人里に近かったため、石屋禅師の高弟・智翁永宗が来往した際に協力を仰ぎ、現在地に移転。
大寧寺と改称した。以後、大寧寺は總持寺の直末寺としての寺格を有する事になる。
三世・定庵殊禅(じょうあんしゅぜん)和尚の応永34年(1427年)、
長門一の宮の住吉大明神が和尚の徳を慕い大寧寺で参禅。
その際に温泉が湧出したのが、現在の長門湯本温泉である。

本堂由緒記

山号と寺号の扁額

本堂内陣
文安5年(1448年)に大内教弘に拠って鷲頭氏は滅亡するが、当寺は大内氏の香華印として庇護を受けた。
足利学校・鎌倉文庫の再興で知られる関東管領上杉憲実は幕府内の政争に疲れ出家。
諸国行脚の末、享徳元年(1452年57年)当寺四世・竹居正猷(ちっきょしょうゆう)和尚の弟子になり、
寺域に小庵を構え安居参禅の晩年を送り、文正元年(1466年)入寂している。
天文20年(1551年)、大内家当主義隆は家臣・陶隆房の謀反に拠って山口を追われ、
ここ大寧寺にて戒名を授かり重臣と共に自刃。大内氏は滅亡、伽藍も焼失した。

賽銭箱に彫られた大内菱

内陣の緞帳にも大内菱が

向拝下からの眺望

本堂から山門跡を望む
その後、中国地方の覇者となった毛利氏の庇護を受け再建されるが、
寛永17年(1640年)火災に拠り山門・本堂が焼失。
延宝5年(1677年)に山門が、文政12年(1829年)に本堂が再建された。
6世紀になんなんとする寺史を有し、かつては全国に六百数十ヵ寺に及ぶ末寺を持つ
僧録寺として栄え、その壮麗美観は「西の高野」と讃えられた。
毛利家の香華院、又萩藩毛利家の上級家臣も挙って境内に墓地を建立した。』 とあります。

本堂軒下の吊るされた長門市指定文化財の梵鐘

梵鐘の由緒記
大寧寺は長門市を代表する曹洞宗の名刹。湯元温泉は当寺の門前町として発展しました。
といって長野市の善光寺のような賑やかな門前町ではなく、寺の周囲は静寂な林に包まれ凛とした雰囲気。
これも修行を主とする禅寺故でしょうか?

大寧寺説明書

大寧寺御朱印 (平成11年のお盆に拝受)
[参考書]
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瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
欄干のない盤石橋を渡り真っすぐ北に向かうと本堂ですが、
樹木が鬱蒼と茂る広い境内はそのまま通り過ぎるのは惜しい場所。
橋を渡って直ぐ左手には釈迦三尊像及び十六羅漢像が、
真っすぐ進み白蓮池を渡ると礎石が現れますが、これはかつての山門跡だとか。

虎渓橋を渡り木々が繁る境内へ
『石彫の釈迦三尊及び十六羅漢像は、大正初期まで前方の大寧寺川対岸にあった
大寧寺十景の一つ「三笑岩」に安置されていたが、県道取付工事のため山中に移動。
しかし風化が進み崩落の危険があったため平成17年5月にこの場所へ安置された。
造立年は刻まれていないが、後述の山門再建と同時期と考えられる。

橋を渡って大寧寺川沿いに建つ羅漢像

釈迦三尊像及び十六羅漢像 由緒

左側の十六羅漢

色々な表情の羅漢像
像の背面には近辺の村人たちの施主名が、灯籠には「益田」の刻字が判読され、
益田氏の関与が多大であったと想像できる。
釈迦三尊は中央に釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難の二大弟子が控え、
その周囲は永くこの世に留まり正法護持の任に当たる十六阿羅漢像が並ぶ。

釈迦三尊像
阿難尊者(左)、釈迦牟尼仏(中央)、迦葉尊者(右)

右側の羅漢像

右側より全体を見る
当寺山門は天正年間(1570年代)に、毛利永代家老益田藤兼(全鼎)が
当寺十五世・関翁殊門禅師に帰依し寄進したもの。
後に寛永17年野火に拠って焼失した山門は、延宝5年(1677年)益田元堯に拠って再建された。
桁行五間、梁行二間五尺、檜皮葺入母屋重層の荘厳な山門であったが、
明治以降は藩の庇護も疎くなり維持困難を極め、明治末年に倒壊し、
今日に至っている。』 とあります。

山門跡へと続く境内

山門跡前にある白蓮池

山門の礎石

山門跡解説

本堂方面から見下ろした山門跡
戦乱や野火(失火)で焼失したなら諦めもつくでしょうが、
経済的に困窮して自然に崩壊したというのは何とも頂けない話。
明治以前は長州藩の益田氏が大檀越となっていましたが、明治以降はそれもなし。
余りにも一つの檀家に頼りすぎたのが原因と思えますが、
明治期により早く、方針転換をしていればと悔やまれます。

大寧寺 略案内

全体図
唯、遅まきながら、山門再建に向けて6億円の寄付を募っているので、
かつての山門を再び目にする日も来ることを祈りたいものです。
それにしても同じ益田氏が関わったにも拘らず、一つは今に残り、
もう一つは痕跡をとどめるだけというのも単に木と石の違いだけではない気がしますが…。

参道右手の準提観音堂

本堂前の放生池

放生池の向こうに見える本堂
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瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
8月最後の土曜日、新幹線&18きっぷを使って長門の国へ。
先般訪れた長良川鉄道と同じ復刻スタンプラリーが美祢線・小野田線で実施中。
合計9印ですが、過去に押印したものもあるので、今回の目標は
長門湯本・厚保(あつ)・於福(おふく)・雀田(すずめだ)の4駅。
どちらも列車の本数が少なく時刻表を駆使しての巡礼とはなりました。
美祢線で最初に下車したのが長門湯本駅。ここでは次の上りまで3時間以上待ち。
折角長門まで来て押印だけでは芸がないので、待ち時間の間に巡礼する事に。

JR美祢線 長門湯本駅舎
温泉街の玄関とはいえ、無人化して久しい。
駅は温泉街からは離れており、線路に沿って300m程南下して温泉街入口。
過去にプーチン大統領が宿泊したホテルもあります。更に南下すると温泉街ですが、
ここから右へ曲がり大寧寺(たいねいじ)川に沿って走る34号線で西へ。
川は清流で、木屋川・音信(おとずれ)川としてゲンジボタル発生地として国の天然記念物になっています。
また駅スタンプにあるように河鹿が鳴く川としても有名。
川テラスと呼ばれる川床が設置されているのも湯本温泉の特徴で、蛍だから【照らす】。
生憎、この日は蛍も河鹿も【おとずれ】ませんでしたが…。

長門湯本温泉街

大寧寺川岸に置かれたテラス

大寧寺川を遡り寺へ
左は源泉を管理する施設か?
初めはホテルが建ち並びますが、すぐに周囲は森に。と言うと単に僻地に思われがちですが、
34号線は俵山温泉を経て下関まで繋がっている主要道。
バスも1時間毎の運行なので、列車の本数を考えると多いと言えましょう。
長門湯本は大寧寺の門前町として発展したので、こちらの方が主となります。
道路沿いに広い駐車場が見えたら大寧寺入口。
多くの人はここから境内に向かいますが、旧参道は道路沿い。
徒歩巡礼者の私は旧参道を往く事に。朱塗りの欄干のある虎渓橋が見えたら境内入口。
ここから入るのも良いですが、更に先にある盤石橋が本堂正面になるので、今回はそこから入山。

大寧寺の向こうの木々の茂る場所が目指す寺院

道路沿いにある旧参道

清流で知られる大寧寺川

川沿いに建つ「ゲンジボタル発生地」の案内板
盤石橋(ばんじゃくばし)は、
『大寧寺川の清流に架かり、本堂正面に通じる参詣道の入口第一橋。寛文8年(1668年)に建築され、
後に宝暦14年(1764年)に再建架された事が橋石に刻銘された偈文に拠り判明している。
大小の石を巧みに組み合わせて橋梁及び橋脚を造り、長さ約14.2m、
高さ3mの小橋であるがその造形は素晴らしい。ドイツで開発されたゲルバー橋(1868年)
よりも以前に、この突桁式工法の架橋技術が日本にあった事が推測され、
盤石石は橋梁建築史上も価値が高い。防長三奇橋の一つに数えられる。』 とあります。

赤い欄干の「虎渓橋」
通常は、ここで川を渡る。

境内側から見た虎渓橋

虎渓橋の少し上流に架かる盤石橋

バス通りからの眺め

いざ、欄干の無い盤石橋を渡る
奥に見えるのが山門跡。
虎渓橋も盤石橋も寺の規模からすると狭くて短い橋ですが、これは禅宗の奥義にも通じる気がします。
虎渓も盤石も良い字を当てたと思いますが、そんな当寺が名門大内氏の終焉の地になったのは何とも皮肉な話です。
それにしても山口県は錦帯橋初め、橋に縁があります。これも本州の端、故でしょうか?

境内側から見た盤石橋

下流からの眺め

盤石橋解説
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金沢駅 → レンタサイクル10分 → 宝船路〒・法船寺 → レンタサイクル20分 → 金沢泉丘〒 → レンタサイクル5分 → 大乗寺

東香山 大乗寺(曹洞宗)
仏殿の正面奥に建つ法堂。
仏殿の御本尊参拝に続いて、奥にある法堂へ。位置的には正面ですが、
そこからは入れず、鐘鼓楼、庫裏を通る回廊を抜けての参拝となりました。
東香山大乗寺(とうこうさんだいじょうじ)は、
『寛文11年(1671年)には月舟宗胡が第二十六世住持となり寺を中興、
続く第二十七世卍山道白が延宝8年(1680年)に住持となると、道元禅師の古風を尊重し、
清規を整え、「規矩大乗(きくだいじょう)」の名を天下に知らしめた。

仏殿から延びる廻廊

廻廊から見た境内
仏殿(左)と庫裏(右奥)。

廻廊の曲り角に建つ鐘鼓楼
以後、禅の厳しい修行道場として名を高め、専門僧堂として現在も20余名の僧が修行している。
伽藍は我が国曹洞宗寺院建築の典型的な七堂伽藍の配置を示しており、
仏殿は国の重要文化財、その他は県・市指定の有形文化財となっている。』 とあります。

庫裏玄関

庫裏から法堂へと続く廻廊

法堂入口

法堂内陣

法堂の天井の造り
通り抜けた回廊は典型的な禅宗様式。その先の法堂と言うのは、
仏像を祀る場所ではなく、住職が弟子に法話をする場所と聞いていましたが、
なぜか金色の観音様らしき像が祀られていました。

内陣中央

「大乗護国禅寺」の扁額
月舟書とある。

法堂に祀られた御本尊?の観音様
帰路、庫裏で御朱印を拝受。前回にも一応拝受してはいますが、
お寺では正式な御朱印対応されていないようだったので、満を持しての再訪。
お盆で多くの僧侶は不在でしたが、留守を預かる方から書置きを拝受。
見ると楊柳観世音菩薩の絵が。
私 ; 「御本尊は釈迦牟尼仏と違いますか?」
住職 ; 「これは法堂に祀られている江戸時代に描かれた観音様を図案化したものです。」
との返事。そういえば、回廊の途中に大きな観音様の絵が掛けられていました。
御本尊より有名な仏様があるのは、別段目珍しい事ではありませんが、
御朱印に使用されたのは、今時のインスタ映えを狙ったようにも思えます。

法堂前から見た仏殿

境内の中庭

今回拝受した御朱印(書置き)

御朱印の由来の観音様の絵

総門から左に下るとこのような立派な入口が
[参考書]
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東香山 大乗寺(曹洞宗)
参道の先に建つ総門(黒門)。
法船寺参拝後は、犀川を渡り数局で押印。
そのなかで金沢泉丘郵便局のデザインには局舎と並んで大乗寺が描かれています。
付近の観光名所ということですが、前回は殆ど下調べせずに訪問したので、
是非とも再訪と思っていると、急に嵐の様な突風とともに凄まじい雨が。
局内で外を眺めていると、局長さんが「また線状降水帯に入ったか。」とポツリ。
天気予報ではよく目にしますが体験したのは初。30分程で、一旦雨は上がりました。
このまま金沢駅に戻る選択肢もありましたが、折角ここまで来たので一か八か大乗寺に行く事に。
その旨を伝えると、
「直ぐは降らないと思いますが、そのうちまた来るので十分気を付けて下さい。」
と親切に言われました。

金沢泉丘郵便局 ; 局舎、禅宗の専門僧堂・大乗寺
局からは東に向かい坂を上る事10分。
標高175mの野田山の西麓に樹木に囲まれた広大な敷地を有するのが大乗寺。
金沢は寺院が多く、有名なのは卯辰山山麓・小立野・寺町の三寺院群。
古都を代表する景観を作っていますが、寺院群全体で纏まっており飛び抜けた寺院はなさそう。
それに対し、寺院群には属さない大乗寺は金沢を代表する古刹。
高峰が連なるアルプス山脈ではなく、一峰屹立する富士山のような存在でしょうか?
そんな寺院は坂を上った先。周囲は丘陵公園・保存樹林となっており、
木立の中を進むと総門である黒門、山門である赤門と続き、
その先に仏殿・法堂が並び禅宗らしい風格を表しています。

大乗寺由緒記

最初にくぐる総門(黒門)
寛文5年(1665年)建立の金沢市指定有形文化財。

総門から先は参道を二度直角に曲がる
東香山大乗寺(とうこうさんだいじょうじ)は、
『弘長3年(1263年)、加賀国守護職冨樫家尚が真言宗僧侶澄海を招聘して野市に創建した寺院が嚆矢である。
その後、永平寺三世住職を退いた徹通義介(てっつうぎかい)禅師を招聘して曹洞宗寺院として開山した。
二代目住職となった瑩山紹瑾(けいざんきんしょう)は傳光録を講じ、明峰・峩山・大智等の多くの門弟を輩出。
その後、能登に永光寺、更に總持寺を開創し曹洞宗を飛躍的に発展させた。
そのため当寺は永平寺・總持寺の両大本山と格別に深い縁を持つ。
加えて「規矩大乗」とも呼ばれ厳しい修行道場として世間に知られてきた。

江戸時代初期建造の山門(赤門)

山門の仁王像

山門を振り返る

開祖の教え
暦応3年(1340年)には足利尊氏の祈願所となるが、戦国時代の戦乱で焼失。
その後、加賀藩二代藩主前田利長の家臣・加藤重廉が檀越となり市内の木新保へ移転。
更に加賀藩家老本多家の菩提寺となり本多町に移転。
現在の地に移ったのは元禄10年(1697年)の時である。』 とあります。

重要文化財・仏殿
元禄15年(1702年)の建立。

仏殿側面の壁
黒門・赤門と市場や東大を連想させる門を抜けて正面の仏殿へ。御本尊は曹洞宗なので釈迦牟尼仏。
境内は自由に出入りでき、堂内も拝観できますが、所謂観光寺院とは一線を画した形。
私以外に目にした人は背広姿の正装で、どう見てもお盆の墓参に来た人達。
来る者は「どうじょう!」と拒みはしないものの、やはり修行の専門道場の感を一層強くしました。

仏殿内陣の様子
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金沢駅 → レンタサイクル10分 → 宝船路〒・法船寺 → レンタサイクル20分 → 金沢泉丘〒 → レンタサイクル5分 → 大乗寺

仏海山 壽昌院 法船寺(浄土宗)
北陸三日目は金沢市内散策。とても一日では廻れない町ですが、この日はお盆ですが平日。
ここ最近風景印設置が増えている郵便局巡りをしがてら、寺院巡礼を計画。
駅近くの観光センターで9時開始と共にレンタサイクルを借りて犀川に向かって南下。
駅近くにも局は点在しますが、このような場合、先ず遠方に行ってから近くへ戻るのが鉄則。
兵法で言う遠交近攻の真逆の遠攻近交となります。
最初は押印のため犀川手前にある金沢宝船路郵便局へ立ち寄り。
以前の局巡りでは風景印は未設置でしたが2020年9月に新設。
それよりも前回訪れた際に、大量にあった「ふるさと葉書」を買い込んだ場所でもありました。

金沢宝船路郵便局 ; 法船寺本堂、山門、宝船
早速、押印しましたがデザインを見ると宝船の図柄と共に法船寺の記載が。
頂いたパンフに拠れば、この地区は法船寺を中心に形成された門前町で、
元は法船寺町と呼ばれていたものを明治4年(1871年)に宝船路町に町名変更したそう。
パンフを作成された局長さんに伺うと、道沿いに南下すると直ぐにお寺があるとの事で、
デザインの元になった寺院を一目見ようと急遽参拝。
自転車でものの1分も走らない内に、デザイン通りの山門前へ到着。

道路から続く参道
仏海山壽昌院法船寺(ぶっかいさんじゅしょういんほうせんじ)は、
『初め尾張国犬山にあったが、開山の念誉一公上人は、陣中持仏僧として
加賀藩初代藩主前田利家に従い、越前府中(武生)、越中守山(高岡)、富山と各地を移転。
慶長4年(1599年)利家没後に二代藩主利長の金沢移城に伴い、
現在の犀川橋詰の旧地(元古寺町)に寺地を拝領。堂宇を建立し利家公の菩提を弔った。
当寺の第二世・近誉深公上人の母は利長の乳母に当たる人物であり、前田家とも深い繋がりがあった。

寺標石碑脇に建つ由緒記駒札

風景印デザインそのままの山門
寛永8年(1631年)金沢の町は大火に遭い、当寺もいったん地所を返上するが、
元禄14年(1701年)第九世・正誉覚弁上人が現在の地に堂宇を再建した。
本尊の光明仏は奥州藤原秀衡入道一生単信之尊像と呼ばれ、
豊臣秀吉が奥州征伐の際に戦利品として持ち帰り利家に与え、
開山念誉上人が拝領した一尺八寸の立像である。
また当寺には、寺に住み着いていた大ネズミを二匹の猫が命懸けで退治した
「怪鼠之伝話」が伝わって居り、本堂横の墓地には供養のための「義猫塚」が建っている。』
とあります。

山門の正面に建つ本堂

本堂前に並んだ石の地蔵群
寺号の法船寺を寺院に憚って宝船路町に変えたのは鎌倉の浄明寺・浄妙寺でも見られるようによくある話。
開山の念誉上人は尾張で前田利家に仕え、利家と共に移動してこの地へ落ち着いた様子。
後には徳川家に次ぐ百万石の大藩となる前田利家も当初は信長の小姓の一人に過ぎませんでした。
槍の又左衛門の異名をとるとは言うものの、信長配下には利家級の武将は数多いた筈。
そんな中で、主君を変えることなく利家に仕え続けたのは、
利家の抜きんでた器量を見抜いたからに他なりません。
上に立つ人に拠って人生が左右されるのは古今東西変わらぬ不変の法則。
当寺にとって前田家こそがまさに宝船だったと言えます。

千鳥破風の観音堂
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佉羅陀山 長慶寺 (曹洞宗)
本尊であった大仏は失われた長慶寺ですが、もう一つの五百羅漢像は健在。真に長慶の至りです。
『江戸時代後期、富山城下に米穀商の廻船問屋を営む黒牧善次郎という豪商が居た。
信仰心篤く、長慶寺にも度々詣でていたが、更に仏恩に報いるため、
佐渡の石工に535体の羅漢像を刻ませ寄進した。
松前港に米を運んだ帰路に佐渡へ立ち寄り、越中へ持ち帰り木町の浜で陸揚げしてここまで運搬。
寛政11年(1799年)から嘉永2年(1849年)まで50年を要したと伝わる。

五百羅漢へは本堂横の階段を上る

由緒記(その1)

階段上り口に鎮座される舎利弗尊者

由緒記(その2)
こちらの方が古い。

羅漢への道

五百羅漢配置図
羅漢像は樹林の中、山腹を背に富山の町を見守って東向きに雛壇状に坐して居り、
石灯籠をはさみながら整然と並んでいる。
昭和2年(1927年)の大修復を経て、昭和46年(1971年)に富山市指定文化財となった。』
とあります。

最前列の羅漢さま

最前列に対面してビンズル尊者が鎮座
撫で仏様として知られるが、ビンを抱えているのは【なで】

最前列の近影

境内の句碑
・御仏の ひざをまくらに 花み山 と読める。
羅漢像は本堂よりも更に高台、樹林に囲まれた中に鎮座されていました。
優れた出来栄えに見えますが、如何せん200年間風雨に晒されたので劣化は不可避。
見る人に拠ってはこの侘び寂びが良いでしょうが、元の状態で残っていればとも思います。
尤も石で作った時点でそのような事は諒承済みだったのでしょうが。

最前列より見上げた所

木立の中の羅漢像
所で、たすき掛けは何故でしょう?

階段を上り更に上段へ
これだけの羅漢像を寄進したのが、たった一人の豪商だった黒牧善次郎。
商売で独り勝ち状態だったのか、異常に信心深かったのかは分かりませんが
極めて特異的と言えます。

上段部の羅漢様

表情豊かな顔が並ぶ

上から羅漢様を見下ろす

横に並ぶ羅漢様
ここでふと気になったのは、羅漢像は佐渡で石工が刻んで持ち帰ったという言い伝え。
当時の廻船は船を安定させるために船底に石などの重量のあるものを積み込んだと記録にあります。
中には石では金にならないので、やがて瀬戸物などを積む商人もあったとか。
そうすると豪商・黒牧善次郎が廻船に羅漢石像を積み込んだ目的は、航海の安全のためで、
その後、古くなった或いは用済みの羅漢像を寄進したと見るのは余りにも金儲け主義に偏った考えでしょうか?
こうして午前に立山の磨崖仏、午後は富山の五百羅漢と石仏の巡礼も無事終了。
富山駅ビルの「きときと寿司」にて早めの夕食。富山市内の五百羅漢の後は富山湾の五貫で〆とはなりました。

高台から見た羅漢全体像

富山桜谷郵便局 ; 市文化財・足羽山斜面の五百羅漢

夕食は富山駅ビルの「きときと寿司」にて
富山湾の名産五貫(ブリ・ノドグロ・ズワイガニ・バイ貝・白海老) ¥1300。
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佉羅陀山 長慶寺 (曹洞宗)
民芸村の奥にある入口。
上市町で二ヵ寺参拝して昼食を摂った後は、地鉄で富山駅まで戻る事に。
ここからは市内をレンタサイクルで廻りますが、以前から気になる場所が。
富山の一駅西の呉羽駅のスタンプに描かれているのが五百羅漢。
羅漢像があるからには寺院があると予想されるので、一駅乗って呉羽駅から巡礼かと思いましたが、
調べると羅漢様があるのは呉羽山中腹ですが、東麓にあるので行くには富山駅の方が便利。
幸い「富山市 民族民芸村」という9館の有料施設に隣接した場所にありますが寺院拝観は無料。
しかもサイクルポートも入口にあるという一石二鳥でした。

JR呉羽駅スタンプ
(上) 民営化後の1990年代 (下)2006年JR西日本金沢支社印

寺の前にある茶室円山庵
佉羅陀山長慶寺(きゃらださんちょうけいじ)は、
『天明6年(1786年)、新川郡塩野にあった真言宗寺院を日輪当午禅師が当地に移し、
曹洞宗寺院とて開山したのが始まり。
当山一帯は桜谷と呼ばれ風致に富み、城下の人々にとっての行楽地。
花の頃には「山行き」と称する行楽の人々で賑わったという。

由緒記

入口からの富山市内の眺望
快晴時には遠く立山連峰まで一望できる。

参道左手に建つ三十三観音像

参道の先に建つ本堂
山号の佉羅陀山は地蔵菩薩の浄土の名で、かつては「桜谷の大仏」と言われた金銅の
地蔵大仏が建立され、その後に安置された五百羅漢石像と共に信仰を集めた。
大仏は明治の廃仏毀釈で失われ、現在は信者より寄進された大仏頭が本堂内に安置されている。
五百羅漢は昭和初期に修復され今に至る。
また冨山藩六代藩主前田利興の側室、自仙院が「桜谷八景」を詠んで奉納した
柿本人麻呂の祠の跡には筆塚と志留丸塚が建っている。』 とあります。

本堂近影

本堂自体は真新しい建築

本堂に架けられた山号の扁額

意外と簡素な本堂内陣
法要というよりも地元の会合で使用しそうな雰囲気である。

内陣に祀られた御本尊・釈迦如来
垂れ幕の笹竜胆は曹洞宗の紋で元は宗祖道元禅師の実家久我内大臣家の家紋である。

御本尊脇に祀られた大仏頭
今に残るのは再建された本堂ですが、かつては城下を見下ろす壮麗な寺院だったかと想像。
そこに大仏が加われば、皆が参拝した名所というのも当然。どちらも今に伝わらなかったのは不運でした。
当寺の建つ呉羽山は富山平野の中央を南北に走る丘陵地帯の一つ。
寺からは富山平野が一望でき立山連峰を望む事ができる絶好の場所。花見で賑わったのも頷けます。
加えて呉羽山は、ここから東は江戸文化、西は京文化と文化圏としての大きな境界となっていています。
北陸新幹線開通以前の話ですが、大阪を出発した特急サンダーバードはその殆どが富山止まり。
それより東へ行く列車は1日に2本しかなかった記憶があります。
隣県の新潟は兎も角、県内の滑川・黒部・魚津方面にも行かなかったと言うのも、
東西文化の境界であった事が影響している気がします。

御朱印を拝受すべくモダンな寺務所へ

長慶寺御朱印
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【往路】電鉄富山(8:03) → (富山電鉄本線) → 上市(8:31)
上市駅コグッチャ → レンタサイクル30分 → 立山寺 → レンタサイクル50分 → 日石寺 → レンタサイクル20分 → 上市
【復路】上市(12:43) → (富山電鉄本線) → 電鉄富山(13:11)

大岩山 日石寺(真言密宗大本山)
境内に諸堂が並ぶ日石寺ですが、忘れてはならないのが豊富な湧出水。
『本堂左手奥にある六本滝は、年間を通じて滝行の出来る場所。
参拝者も申し込めば修行体験が可能である。
以前の瀧行は境内の更に奥にある千巌渓にて行っていたが、修行者の安全確保のために
明治元年(1868年)に境内の現在地に建設。毎年1月の大寒には白衣を纏った信者が滝打ちの業を行い、
また7月1日には、健康と修行の安全、地域の商売繁盛を願って滝開きが行われる。
水の流れ落ちる六基の龍頭は人間国宝・須賀松園の作。六本とあるのは六大に拠り、
六欲を抑え、六根清浄に至るのが由来である。六本滝の先には十二支滝が続いている。

本堂横の清浄門を潜り六本滝へと向かう

正面から見た六本滝

滝前で祈願をする人
六欲(貪・瞋・痴・慢・疑・邪見)を抑え、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にするのが六本の由来。

六本滝に続く十二支滝
観音堂の裏手にある。
六本滝の脇に湧出しているのが藤水。不動明王の霊水としてとやまの名水に選ばれている。
藤水というのは、
「元禄15年7月27日、越後ねち谷の盲目の百姓が大岩山に参籠。その霊夢に
「此の山の脇に藤の木あり。その根元より水出づべし。」 とのお告げを受け、
参詣者に助けられ「藤の水」を求めて眼を洗った所、忽ち眼が開き杖の助けなく山を下った。」
という霊験に由来している。

六本滝からの眺め
中央奥に藤水が見える。

とやまの名水 大岩日石寺の藤水

藤水の由来

藤水近影
汲みに来る人の合間を縫って撮影。
この水の恩恵を受けたのが、門前街で提供されるそうめん。
境内の「大岩の藤水」と水源を同じくする地下水の水質と水温、そして2~3年寝かせた熟成麺に拠り、
シンプルながら深い味わいと舌触りを作り上げている。
全国的にも珍しい「そうめん街」で夏場には多くの参拝者がこれを求めて足を運ぶ。』 とあります。
ここの修行の目玉は心身を浄める滝行。
唯、滝といっても青銅製の龍の口から水がおちるので、人工的な感は拭えません。
説明書にあるように本来の滝は山中の危険な場所にあるので、安全面からここへ移したそうですが、
結果的にはそれが気軽に参加する人を増やした原因と思います。
修行を終えた人が向かうのが門前で供される素麺。
素麺街道と呼ぶそうですが、「さて町に素麺工場があったかな?」と思いましたが、
越中大門付近は素麺の産地と聞いていたので、そこの素麺の可能性が大。

昼食は百段坂の右手にある大岩屋館にて
左は甘味処の「だんごや」

素麺大盛り ¥650

葛切りも追加注文
今回、私は滝打ち修行は全くしていませんが、昼時の空腹に耐えかねて門前の大岩館に入店。
メニューは色々あったものの、迷わず素麺大盛り¥650を注文。
【多いわ】と言う事もなく葛切りを追加する始末で、どちらも残さず完食。
案内板には「心もお腹も癒される」とありましたが、加えて財布も癒されました。

食事を終えて店を出る頃には行列が

当寺の宣伝も兼ねた看板
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大岩山 日石寺(真言密宗大本山)
日石寺の御本尊は、その名の通り本堂内の岩盤に彫られた大岩不動で、
訪れる人は先ずここに参拝します。それに加えて広い境内には諸堂が点在。
一巡すれば種々の御利益が得られるようになっています。
『本堂を出て向かって左手に建つのが観音堂。平成8年の建築で、
外観は中尊寺金色堂と同形式の和様三間堂、屋根は方形造となっている。
堂からは十二支滝を間近に望むことができる。

寺務所脇の鐘楼堂

本堂から階段を下ると観音堂

観音堂説明

観音堂全景と観音像

観音堂の庇と垂木

参道に建つ並び御仏像群
更に滝の横を奥に進むと、子宝成就の愛染堂、歴代住職の墓地へと続き、高台に見えるのが三重塔。
江戸時代後期の作とされ、県下では最も古い木造の三重塔となっているが、
古い工作技法の中にも近世の技法が見られる。
周囲に壁が無く中が丸見えになっているのは建築時の財政難のためと言われるが、
現在ではこれが近世社寺建築を知る上での貴重な資料を提供している。

愛染堂への道

愛染堂近影
堂内のカップルの御願いは?

参道脇の五輪塔
歴代住職のものか?

三重塔

三重塔説明

外に壁が無く心柱が丸見え

三重塔組物

屋根に吊るされた風鐸

三重塔からの眺望
塔から下った場所には、昭和50年築の大日堂。法隆寺夢殿を模した八角円堂で大日如来を祀る。
それに続く地蔵堂に参拝すると本堂左手に至る。イケメンと参拝者に人気のある地蔵菩薩である。
本堂から更に下った場所にある阿覚窟は災いを払う場所である。』 とあります。

大日堂

大日堂説明

大日堂庇部分

鎮座する大日如来

三重塔遠望

宝印塔と印章塚

塔と塚の説明

地蔵堂

イケメンと評判のお地蔵様
本来は磨崖仏だけを拝むだけだった筈ですが、多くの参拝者が訪れる事、
境内が広く余裕があった事が、諸堂の建立に繋がったのでしょう。
営利目的と言ってしまっては身も蓋もありませんが。

境内を時計回りで本堂前へ

阿覚窟
災いを払う場所だが、覚 → 片 としてしまうとトンデモな災いになる。
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