<コース>
【往路】JR金沢(7:02) → JR西金沢(7:07) → 新西金沢(7:47) → (北陸鉄道石川線) → 鶴来(8:15)
鶴来駅 → 徒歩8分 → 一閑寺 → 徒歩5分 → 白山市観光連盟(鶴来支所内) → レンタサイクル10分 → 日御子〒 → レンタサイクル10分 → 鶴来〒 → レンタサイクル10分 → 道の駅 → レンタサイクル2分 → 旧加賀一の宮駅舎 → 白山比咩神社 → レンタサイクル10分 → 金劔神社 → レンタサイクル3分 → 鶴来別院 → レンタサイクル5分 → 鶴来駅

旧加賀一の宮駅舎
雨の残るこの日は、鶴来にある加賀一の宮・白山比咩神社に参拝の予定。
北陸鉄道石川線での移動ですが、海岸方面へ行く浅野川線がJR金沢駅に隣接しているのに対し、
山方面への石川線の起点野町は他の鉄道には連絡せず、JR西金沢駅に隣接する新西金沢駅からの乗車。
金沢駅から僅か1駅ですが、その1駅が曲者。

加賀一ノ宮が描かれている JR西金沢駅スタンプ
(上) 民営化後 1990年代印 (下) 2006年 金沢支社印
待ち時間を少なくするため、金沢駅7時2分の上りにしましたが、
到着が遅れた上に時間が来ても発車せず。説明もなく10分以上も停車した後に漸く発車。
西金沢に着いた時には石川線の電車は出た後。早朝出発にも拘らず、駅で40分待ち。
後にニュースで知った話では、北朝鮮がミサイル発射し北陸地方には警戒警報がでたようで、
そのあおりを食ったようです。
乗客を不安にさせない心配りでしょうが、隣国もとんでもない事をするものです。

新西金沢駅で石川線一日乗車券を購入

新西金沢駅ホーム

乗車した北陸鉄道の列車
終点の鶴来駅にて。
平成5年の訪問時は終点加賀一の宮駅で下車し神社まで歩きましたが、
今は手前の鶴来までしかなく、そこからはレンタサイクル。
鶴来は手取川扇状地に発達した鶴来町の中心地で風格の漂う木造駅舎、
鉄道関係資料の展示がなされ駅員も終日配置で駅スタンプもありました。
併設する車両基地にはラッセル車が。冬場には活躍するのでしょう。

鶴来駅舎内に展示の北陸鉄道関連品

木造洋風の鶴来駅舎入口

鶴来駅全景

車両基地に停車中のラッセル車

鶴来駅スタンプ
駅から徒歩5分の観光連盟で9時にレンタサイクル。途中寄り道しながら、
川を遡る事10分で神社の入口へ到着。そこにはかつて下車した駅舎が御鎮座。
加賀一の宮駅は、
『大正14年(1925年)に設立された金名鉄道の区間延伸に伴い昭和2年(1927年)に開業。
当初は神社前と称した。神社とは駅から徒歩3分の白山比咩神社を指す。
昭和4年(1929年)神社前から鶴来町の区間が金沢電気軌道に譲渡された事に伴い、
金名鉄道と金沢電気軌道石川線の接続駅となった。

今は道路になっているかつての線路跡から

一ノ宮駅改札口
今でも出入りできる。

ホームにある案内板
昭和12年(1937年)12月8日に加賀一の宮と改称、昭和15年(1940年)頃に現在の駅舎が完成した。
昭和18年には北陸鉄道に統合され、金名鉄道の路線は金名線に改称された。
金名線は昭和59年(1984年)12月に橋梁の岩盤崩落の危険性のため休止となり、
昭和62年(1987年)4月28日付で廃止された。
その後は石川線の終着駅として使用され、以前は当駅から白山下までタブレット閉塞式で
あったため永らく駅員配置がされたが、昭和62年11月28日に無人化された。
平成21年(2009年)11月1日に鶴来~加賀一の宮駅間の廃止に伴い、82年の歴史に幕を下ろした。

ホームからかつての線路跡を望む

正面から見た駅舎

駅舎入口は瓦葺・唐破風

旧加賀一の宮駅について
平成25年(2013年)北陸鉄道より駅舎の寄付を受けた白山市では、地域の大切な歴史遺産として
保存するため平成30年(2018年)改修工事に着手、翌令和元年(2019年)5月に完成した。
駅舎は二階建入母屋造、正面左寄りに唐破風の入口を設け、唐破風の妻壁に蟇股、
軒下には舟肘木を付け、柱の下に礎石礎盤を据えるなど社寺建築の細部意匠を取入れ、
白山比咩神社の門前駅であることを意識した表現となっている。
昭和初期の近代和風建築の好例として貴重と評価され、
令和3年(2021年)2月4日、国登録有形文化財とされた。』 とあります。

登録有形文化財の嵌め板

駅舎内部

木目の美しい天井板
説明書きに拠れば前回訪問時は既に無人駅化されていた訳ですが、その記憶は曖昧。
唯、神社風の駅舎のイメージは強烈で、さすが一の宮の門前駅と感心したことを覚えています。
廃止になった区間は鶴来~加賀一の宮の2.1㎞。区間も短く、加賀一ノ宮の最寄り
というよりも門前なので廃止の意味が分かりませんでした。
事前に訪問した日御子郵便局でその話に及ぶと、
局長 ; 廃止区間は殆ど乗る人が居ませんでしたからね。
私 ; 一の宮があってもですか?
局長 ; 地元の人は車で参拝しますから。電車が混むのは正月三が日くらいです。
と聞き疑問が氷解しました。

かつての時刻表も掲示

かつての電車の雄姿と鉄道関連資料

マニアには垂涎の的であろう展示品の数々
再訪した駅舎は綺麗に修復され駅舎内には、時刻表を始めとする鉄道関連資料が展示され
休憩所と記念館を兼ねた施設となっていました。伝統ある駅舎が残されるのは有難い事ですが、
路線が廃止されたのはやはり残念でなりません。
建造物はやはり本来の目的に使用されるのが、良好に保存される条件とか。
尤もたまに来る観光客のためだけに残していたのでは、鉄道会社には
お荷物を抱えるだけになってしまうので、経営判断としては当然の事ではありますが。

廃線時の記念乗車券案内

これは駅舎にある御手洗い
緊張するよりも使うのが勿体ない気が…。
[参考書]
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埴生護國八幡宮
木曽義仲の名を一躍有名にしたのが、世に言う倶利伽羅合戦。
最寄りの石川県の倶利伽羅駅は無人ですが、有人の津幡駅(石川)、
石動駅(富山県)には関係したモニュメントがあります。

倶利伽羅合戦が描かれたJR石動駅スタンプ
『寿永2年(1183年)5月、信濃国で挙兵した木曽義仲と、それを迎え撃つため北上した
平維盛が砺波山に於いて激突。世に言う倶利伽羅峠の戦いである。
この時、義仲は埴生八幡宮に戦勝祈願文を奉納。夜陰に乗じ、鬨の声をあげ
五百頭の牛の角に燃えさかる松明を付けて平家軍目掛けて突入。
不意を突かれた平家の軍勢は、慌てふためき十余丈の倶利伽羅谷へ雪崩のように落ち込んでいった。
これが世に名高い奇襲作戦「火牛の計」である。』 とあります。

護国八幡宮由緒

埴生八幡宮と木曽義仲

埴生八幡宮と木曽義仲
頂点を極めた平家を見事に打ち破った事もそうですが、より印象深いのはその戦法。
しかしそれには先達があって、中国戦国時代の斉の田単の火牛の計が基になっています。
唯、『史記』に描かれているその戦法は、牛の角には刀剣、焚火は尾に括り付けて放ったとあり、
少し違っています。義仲なりに戦法を変えたとも言えますが、獣は本能的に火を怖がるもの。
角に松明を括り付けたら暴れて制御できない可能性が高いとは、生物学者一般の説です。
『平家物語』と『史記』のコラボと言ったら良いでしょうが、もし討って出ない持久戦ならば
「蝸牛の計」となったでしょう。

日本一の大きさを誇る源(木曽)義仲騎馬像
昭和58年(1983年)源平倶利伽羅合戦八百年祭事業として建立。

騎馬像脇の八百年祭奉賛の石碑

拝殿内陣の甲冑姿の巴御前
倶利伽羅峠で平家を坂落としした義仲ですが、上洛以降の義仲は自身が坂を転げ落ちる事に。
最終的には従兄弟の源義経・範頼の軍に攻められ近江の粟津で戦死。
倶利伽羅合戦から僅か一年後、享年31歳でした。まるで花火の様な一生ですが、
家臣の四天王や愛妾の巴御前が付き従った事は、彼の人柄に拠るのでしょう。
四天王は討死しましたが、巴御前は義仲の切なる願いで落ち延び、
越中礪波の福光で戦死した義仲等の菩提を弔って91歳の長命を保ったと言われます。

一の鳥居の左にある倶利伽羅源平の郷 埴生口の庭

中央に聳える大欅

大欅の横の義仲の松
多分に伝説的ですがドラマチックな生涯です。地元では「大河ドラマに…」との声が挙がって居ますが、
「50回分をどうやって持たせるかが問題ですね。」と言うのが大きなネックのようです。
尚、最終的な勝者となった源頼朝は子供の代で断絶。
一方、31歳で夭折した義仲の裔は木曽の地で延々と続き18代目の木曾義昌は
信長・秀吉・家康に仕え、最終的には千葉の旭で大名となりました。
旭は朝日将軍からの命名とか。先祖の仇を子孫が討った事になるでしょうか?

義仲の松に隣接する巴の松

義仲と巴の松の由来

埴生口の館内にて
義仲と巴のパネルと火牛像。
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埴生護國八幡宮
煩悩が消えないまま石段を上って、上の広場に鎮座するのが八幡宮社殿。
埴生護國八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)は、宮縁起に拠れば、
『奈良時代の養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したのが嚆矢。
天平時代には越中の国守であった大伴家持が祈願したと伝えられる。
平安時代後期には、埴生の地は石清水八幡宮の荘園であった。

拝殿正面

由緒記

拝殿への入口

拝殿に掲げられた扁額
平安時代の末、寿永2年(1183年)5月、木曽義仲は埴生に陣をとり、
倶利伽羅山に二倍の軍勢を布く平維盛の大軍と決戦するに当たり、
当社に戦勝を祈願。その結果、大勝利を納めた。
この事は、平家物語、源平盛衰記、謡曲木曾など、多くの古典文学の中に語られている。

拝殿向拝下から内陣へ

入口からの眺め

拝殿内陣
左右には木曽義仲と巴御前の劇画が。
戦国時代には、武門、武将が篤い信仰を寄せ、武田信玄、佐々成政、遊佐慶親などの
祈願や社領の寄進が続いた。
江戸時代には、加賀藩より現在の社殿が寄進され、また時折々の祈願が寄せられている。
尚、「護國」の名は江戸時代初めに加賀藩より奉られたものとされる。
明治元年、神仏分離令に拠って、僧形八幡神像一体を埴生の医王院に遷座した。

拝殿に続く幣殿

埴生護国八幡宮説明書

八幡宮で販売されている関連冊子 各¥300

埴生八幡宮御朱印
書置きを購入 ¥300
社殿は奥から本殿・釣殿・幣殿・拝殿と続き桃山から江戸初期にかけての建造。
大正13年に社殿全部が国宝指定を受け、戦後は国指定重要文化財となる。
本殿は慶長5年(1600年)に前田利長が大聖寺へ出陣の際に祈願し、帰陣の後、寄進。
釣殿は慶長16年(1611年)、前田利長が高岡在城の折、病気平癒を祈願して寄進。
幣殿・拝殿は元和8年(1622年)に前田利常夫人天徳院の産後平癒祈願のため改造寄進を約し、
正保3年(1646年)に完成したものである。』 とあります。

社殿の並び
左から本殿・釣殿・幣殿・拝殿。

重文・社殿の解説

各社殿の説明

社殿概略図

幣殿と拝殿

本殿と釣殿
奈良時代に宇佐八幡宮から勧請された古社とはいえ、当社が一躍知られるようになったのは
平安末期の治承寿永の内乱。信濃から北陸道に出た木曽義仲がここで祈願した事に拠ります。
八幡宮のパンフの冒頭にも 「木曽義仲公祈願所」 とあります。
結果として義仲は倶利伽羅峠の戦いで勝利。平家を追って都に入る事ができました。
参道や境内にはその後、寄進された参道、灯籠、狛犬等が多くありますが、
これも義仲の武運に肖ろうとした武士が奉納したもの。
中には医者も見られますが、これも病魔に勝つと言う意向でしょう。

社殿右に立つ寄進された石灯籠

石灯籠の基部に彫られた寄進者名

木曽義仲願書石碑

本殿左手に建つ芭蕉の門人・各務支考の句碑
・白鳩の 木末に涼し 神の御意

拝殿西側にある宝物館
残念ながら閉館中。

宝物説明板
京の都では、その振舞いで評判を下げた義仲ですが、戦上手と言う点、
己に忠実に生きた点で、人気があるようです。松尾芭蕉の義仲贔屓は良く知られていますね。
その意味では、当社興隆の基礎を築いたと言えましょうか。

旧社務所
宝物殿から西脇参道を下った場所に建つ。

旧社務所から更に階段を降りた場所にある宮司宅
義仲石像の奥にある。
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埴生護國八幡宮
バス時刻に恵まれたため、高岡駅に戻ったのは14時過ぎ。
ここで巡礼を終わったのでは、越中まで来た甲斐がないというもの。
そこであいの風とやま鉄道で金沢方面へ移動。
下車したのは県境の石動(いするぎ)ですが、時刻は昼過ぎでした。
石動の社寺は駅の北と南に分かれますが、この日は南に在る一社へ。
2022年の大河ドラマにも関りがある事に拠る参拝。
徒歩圏内ですが、陽が落ちる時刻を考慮して駅観光案内所でレンタサイクル。
ものの10分で鳥居前へ到着。

一の鳥居の扁額
八幡宮の八の文字は鳩で記載されている。

二の鳥居前に到着
埴生護國八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)は、
『手水鉢に注ぐ水は鳩清水と呼ばれ水源を倶利伽羅山中の幽邃境「鳩清水」の滝に発し、
3㎞の山側を経てここに至る。今から800年の昔、木曽義仲が当社に祈願した折、
白鳩の飛来があり、その案内で源氏勢が清水を得たとする霊水である。
昭和6年(1931年)、文化財社殿の防火用水として水道管で引水され飲料も可能。
「全国の名水百選」「とやまの名水五十五選」の一つに選ばれている。

二の鳥居脇の無人拝受所

拝受所手前の鳩清水

鳩清水説明

清水は龍の口から
清水に続くのは無人札所と一対の石灯篭で、石灯篭は埴生出身、金沢在住であった
江戸末期の眼科医・科学者であった松田東英の寄進に拠るものである。
二の鳥居を潜ると正面に境内への石段がある。
これも戦国時代の蓮沼城主(越中守護代)遊佐慶親の寄進で、県下の福光の桑山石を使用。
かつては煩悩を消して神に近付く意味から百八段であったが、改修を経て今は百三段になっている。

二の鳥居に続く階段

護国八幡宮由緒

年期の入った石の狛犬

同上

石段の先に見える社殿
石段を上ると上り口に一対、途中に一対の狛犬があるが、上り口の方は相当に古色を帯びており、
昭和58年寄進の途中のものと対照的である。
また石段の左右には御神木の杉があり、半ば左側のものは推定樹齢400年。
境内では最も大きい杉である。
石段を上った先には左右に広葉杉(こうようざん)があり、杉とは書くが葉は杉とは異なる独特の形。
中国原産で江戸末期以降、社寺に植えられた。』 とあります。

階段左手の御神木

右手の御神木
入口である一の鳥居から二の鳥居までは平坦な参道で、そこから境内までが急な石段。
その手前に授与品場と呼ぶ無人札所があってお守り等を販売。
石段を上って参拝できない人のための設備でしょうか?
清水はその石段の手前に湧出していますが、地形的に見て扇状地の端から水が出ているようなものでしょう。
木曽義仲が祈願した折に白鳩が飛来したという伝ですが、鳩は八幡宮の使者。
源氏の白と八幡宮の鳩で勝利のゲン担ぎをしたに違いありません。
私も鳩清水で休憩、乾いた喉には一服の清涼剤でした。
その後は、神木に囲まれた石段を上りながら精神を清涼にして参拝する事になります。

階段途中から二の鳥居を振り返る

これが「広葉杉」か?

広葉杉の葉
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氣多大社(越中国一宮 式内社 旧県社) 大伴神社全景
重要文化財の本殿の周辺には参集殿・御輿殿・拝受所が続きますが、
一番高台に鎮座するのが大伴家持を祀った大伴神社。
また神社から見下ろす場所には彼の顕彰碑も建っています。

社殿右手前に建つ参集殿

社殿左手の御輿殿

大伴神社に続く参道脇の拝受所
人気はなく使用されている様子はなし。
『家持は越中に赴任した翌年の夏、立夏にホトトギスが鳴かないのをきっかけに
都と全く異なる越中の風土を本格的に体験する事になった。
「この思いを都の人に伝えたい。」と思った家持は、越中を代表する「二上山」
「布勢の水海」「立山」と言う三つの景観を「越中三賦」と呼ばれる大作に纏め上げた。
この家持の思いを偲び、顕彰碑の脇には「越中三賦」を象った石が配されている。

鳥居の奥に鎮座する大伴神社

大伴神社本殿

大伴神社由緒
摩滅の上、解説もないので、内容は分からず。
「立山の賦」には立山連峰を源とする黒部川上流の石を、
「二上山の賦」には麓を流れると詠まれた射水川(現小矢部川)上流の石を、
「布勢の水海の賦」には詠まれている渋谿の崎から掘り出した石を、
と言う様に、家持の詠んだ越中の素晴らしい景観を表すのに
相応しい石で彼の歌の世界を象っている。』 とあります。

上から見た大伴家持顕彰碑

大伴宿祢家持卿顕彰碑

顕彰碑脇の「越中三賦」を象った石

越中三賦象形石の説明

境内下遠望
本殿の脇に小さく鎮座するのが大伴神社ですが、
果たして一ノ宮に付随した末社と考えて良いのでしょうか?
ここで時間的なスケールを追うと、大伴家持が越中国守に赴任したのは
天平18年(746年)6月から天平勝宝3年(751年)の6年間。
一方、氣多大社が能登国の同名社から勧請されたのは、それよりも後の天平宝字元年(757年)以降。
その時は既に家持は越中には居ませんでした。

参道右手にある総社跡

総社跡解説

結界を示す縄の奥にある総社跡伝承地

伝承地の標
古代の名族出身の中央政界の官僚で、歌人として名声を得ていたとはいえ、
一ノ宮の境内に一個人の社を建てるものなのか?
思うに家持赴任中に彼が氏神を祀る神社を建立した場所に、
後から一ノ宮を勧請したと考える方が無理のない気がします。
随分せこい気もしますが、【勘定】高いともいえます。
それなら大伴神社は取り壊せば良さそうなものですが、
歌人に敬意を表したか、後の祟りを怖れたか、そこが萬葉人の大らかさでしょう。

総社跡伝承地から社殿を見る

境内から見た市街地と富山湾

入口左手にある今の社務所
御朱印はここで拝受。
こうして越中一ノ宮参拝の後は、伏木駅方面へ。
徒歩でも15分程度ですが、鉄道だけでなく、バス路線もある交通の要衝。
いざ到着するとほんの数分待ちで高岡駅行きバスが。
鉄道やレンタサイクルを使わず、只管バスと徒歩の巡礼は久し振り。
バスに恵まれた半日でした。【時刻に仏】とはこの事でしょう。

神社説明書

氣多神社御朱印

JR伏木駅スタンプ
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氣多大社(越中国一宮 式内社 旧県社)
国分寺跡から更に進み、坂を上った所が氣多大社への入口。
その左手には富山の名水「気多大社の清泉」が湧出。
清冽な清水の多い富山県ですが、歩いて来た身には何よりの御褒美です。
このような清水の湧く所が、社が鎮座する理由でしょう。
また境内から国府が一望できるのもあったかもしれません。

入口付近から市街地を見る
右奥の大屋根は勝興寺本堂。

入口に湧出する「気多大社の清泉」

龍口から水盤に落ちる水

清泉の案内
龍の口からではなく、この洞から湧出するのが清泉か?
氣多大社と彫られた社標の脇にある75段の石段を上った先に建つのが神明鳥居。
ここを潜ると境内が静かな樹叢に包まれて広がっており、下は絨毯を敷き詰めた様に苔に覆われています。
そんな古色蒼然とした中を参道右に木造の小さな鳥居を見て、
更に第二の階段を上ると御神木の聳え立つ拝殿前に到着。

社標脇の75段の石段

階段上の神明鳥居

鳥居に続く参道

参道脇の石灯籠

続く石段の先に見える社殿

階段両脇の御神木
氣多大社(けたたいしゃ)は、
『養老2年(718年)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝字元年(757年)に
越中から能登国が分離した後、越の大社と崇められていた能登の羽咋にある氣多大社を
越中国府に近い現在地に勧請したとも言われている。
盛時には越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺を始めとする
大伽藍が並立していたと伝えられるが、寿永年間(1182年)の木曽義仲、
天文年間(1532~1554年)の上杉軍と二度の兵火で悉く焼失したと言う。

階段上から見下ろした境内

御神木と狛犬

略史

正面に見える拝殿

社殿全景

正面より見た拝殿

拝殿前の千鳥破風と扁額
現在の本殿は永禄年間(1558~1569年)の再建。
構造は三間社流造り、杮板葺きで正面には一間の向拝を付けている。
本殿は全体に雄大な風格を備え県下でも優れた建築物である。
室町時代の特徴を持った作風が評価され昭和6年に国の重要文化財に指定された。』
とあります。

本殿解説

屋根瓦には加賀藩の梅鉢紋が

重文・本殿

拝殿(右)と本殿を繋ぐ幣殿
現在の社殿は戦国末期に焼失した後の再建なので、
古代とは直接の繋がりはありません。
唯、三筆空海や三蹟行成の書である扁額が残っているのは、
中世を通じて中央との太いパイプがあった証拠と言えます。

空海の真筆「一宮」

空海と藤原行成の扁額の解説
[参考書]
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高岡駅前4番(10:43) → (加越能バス) → 国泰寺前(11:03) → 徒歩10分 → 国泰寺 → 徒歩20分 → 雨晴駅前(12:33) → (加越能バス) → 伏木一の宮(12:42) → 徒歩3分 → 越中国分寺跡 → 氣多神社 → 徒歩15分 → 伏木駅前(13:50) → (加越能バス) → 高岡駅前(14:12)

越中国分寺跡
国泰寺参拝の後は、総門前の道路を山を迂回しながら富山湾方面へ徒歩移動。
氷見線雨晴駅までどれくらい掛かるかは未知数でしたが、1時間近くあるので、
乗り過ごす事はなかろうと安心して歩けました。415号線を横切ると富山湾が間近に。
線路沿いの細い道路を進むと、ここは路線バス道。駅近くのバス停まで来て時刻表を見ると
何と5分後にバスが、しかも次の目的地の最寄りのバス停にも停車するルート。
当初の予定より30分以上時間短縮できるという幸運でした。

バスの車窓から見た雨晴海岸と立山連峰
「伏木一の宮」で下車すると道路の向かいに「氣多神社」の大きな道標が。
そこを山方面に進むと神社ですが、少し進んだ左手に古代の国分寺跡が。

バス停の向かいに建つ社号標
越中国分寺は
『越中国に造営された国分寺であり、その造営時期ははっきりしないが、天平20年(748年)に
国師に付き従う僧であった清見(せいけん)の送別会を催した事が、大伴家持が詠んだ歌で確認できる事から、
この頃既に越中国分寺の造営が進んでいたと考えられる。
また『続日本紀』に拠れば天平勝宝8年(756年)までには全国の国分寺が完成していたとみられる。

国分寺跡に残る御堂

越中国分寺跡解説
当地は昭和初期の発掘調査に拠って、昭和40年(1965年)には富山県の史跡に指定されており、
周辺には一過寺、大門、国分堂等の字や国分道と称する参道の一部が遺存している。
また昭和41年(1966年)の調査からは礎石の根石と見られるものが六ヶ所確認され
金堂或いは講堂の基礎と推定される。
更に奈良時代から平安初期に属する均整唐草文を施した軒平瓦や八葉蓮華文の丸軒瓦が出土し、
越中国分寺がこの地に存在した事を示している。』 とあります。

御堂正面
傷みが激しく内陣には入れない様子。

御堂の向拝と軒垂木

境内に並んだ石は墓碑か?
国分寺と一の宮が近接している例。一の宮と異なり、国分寺は跡だけですが、
それでも敷地内には小さな堂宇が健在。
かつて国分寺そのものかどうかは分かりませんが、一時は後継寺院でもあったのでしょう。
今は無住で、大分傷んでいますが、残っているだけでも感謝に値します。

国分寺跡碑

朱い実はピラカンサス

境内の紅葉
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護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
青銅の灯篭越しに見た観音堂。
国泰寺で拝受した御朱印は二種類。一つは御本尊の釈迦牟尼仏ですが、もう一つは観音様。
坐禅道場の国泰寺は、北陸観音第二十四番・越中観音第三番札所の霊場でもあります。
巨大な三門の左手に木立の間に隠れるようにして観音堂は建っていました。
その大きさから言っても、御本尊より後に出来たと想像できます。

正面から見た観音堂

観音堂近影
垂れ幕の五色は東西南北(緑白朱紫)と中央の大日如来(黄)を表現。
『三門の前庭、木立に囲まれた白い六角堂は昭和43年の落慶。
正面に「圓通閣」の扁額を掲げ、伝行基作とされる聖観音菩薩を中心に、
三十三体の観音像を安置している。』 とあります。
中世以降、観音信仰が盛んになるのにつれて各地に観音霊場が出来ますが、
庶民の間にも漸く旅が広がり始めたと言うことでしょう。
唯、当時は只管徒歩で、豪雪で知られた北陸地方は【感温冷場】であったに違いありませんが…。

窓から見た内陣の御本尊

堂前からの眺望

国泰寺御朱印 (観音堂)

JR氷見線 雨晴駅スランプ
数多の観光地に混じって国泰寺がある。
[参考書]
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護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
大方丈の南側、法堂との間にあるのが月泉庭。
『月泉庭と龍淵池を中心とする庭園は景観地理学者で
庭園研究家としても知られる小川寿一氏の名作である。
先ず、庭の北東隅に弧が描かれているが、これが月を表す。
その横には蹲があって水が湧いているがそれが泉を表している。
これは開山慈雲国師の末期の句「天に月あり、地に泉あり」に由来している。

方丈入口付近にて

月を表すのはこの岩か?
庭の中央に置かれた石は約42トン、庭園の石としては恐らく日本一であろうと言われ、
雨晴海岸の義経岩を彷彿とさせる。
南西に立山連峰、南東に達磨群像、北西に滝や大亀、船に見えるものもある。
これらの石は開山縁の二上山から出たもので、化石を含んだ左岸である。
蹲傍らの藍色の小石は滋賀の永源寺石、敷き詰められた白砂は京都の白川砂である。

方丈縁側左端にて
左に見えるのが庭中央の大岩。

大岩近影

方丈縁側右端にて
左奥は庫裏、中央が法堂。
庭の西側にある建物は坐禅専修道場である禅堂。
正面には山岡鉄舟筆の「栴檀林」の扁額を掲げ、中は一面の敷瓦。
正面の厨子には文殊菩薩が祀られている。
明治25年(1892年)には虚無僧尺八の妙音会が設立され、
法要の時には読経と尺八の合奏と言う独特の習慣がある。
特に開山忌の6月2・3日には二十名程の虚無僧が集まり、
古刹に響き渡る妙音は風物詩として有名である。』 とあります。

方丈への廊下からの眺望
左が法堂、正面が禅堂。

方丈縁側から見た禅堂

禅堂正面
鉄舟揮毫の扁額や内陣も見えるが、近寄れないので遠目での拝観。
法堂手前の龍淵池は水と緑の豊富な場所でしたが、法堂を隔てただけで景観は一変。
水と苔は極僅かで石と砂が続く枯山水。とても同じ作庭家の手になるとは想像できませんでした。
作庭当時はアポロの月面着陸は未だだったと思うので、想像か望遠鏡での観察に拠るのでしょう、
月の庭とは言い得て妙です。
京都の竜安寺の石庭を彷彿とさせますが、置かれた石は遥かに大きなサイズ。
以前に参拝した日石寺もそうですが、巨岩が越中を特徴付けているようでした。
銘菓と並ぶもう一つの「月世界」と言えましょうか。

縁側隅から見た廊下と法堂

大岩と禅堂遠望

廊下入口からの眺望
などと思いながら庭を眺めていると、庭園の隅に座って居られた年配の男性が、
徐に尺八を取り出して演奏。暫く聞きほれてしまいました。
演奏が終わった時に、思い切って声を掛けました。
私 ; ひょっとしてプロの演奏家の方ですか?
男性 ; いいえ私は地元の人間で、全くの趣味です。
私 ; 何年くらいされていますか?
男性 ; およそ8年ですね。
私 ; 開山忌には、虚無僧姿の人が集まるそうですが…。
男性 ; ええ、私もその時は参加させて貰っています。
尺八は‘首振り三年ころ八年’と言う位に奥が深い楽器。演奏の方は‘ころ’の途中の頃でした。
今時、虚無僧も尺八演奏も滅多に見ることはできないので、さぞ人も多いと想像していましたが、
演奏した男性の話では、それ程【混むそう】ではないようです。

法堂裏手から見た庭園と方丈

庭園と廊下に続く方丈

開山忌風景 (説明書から)
[参考書]
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護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
庫裏入口と雪吊り
法堂に参拝した後は、東側にある庫裏で御朱印拝受。
境内の庭の木々には雪吊りがしてあるのは、冬場は1m程の積雪があるからだとか。
御朱印拝受の後は辞去する積りでしたが、法堂北側にある庭園と方丈内陣も
無料で拝観できると聞き思わぬ収獲。庫裏西側の大玄関の横にある廊下を経て方丈へ向かいました。

庫裏玄関

庫裏玄関前の庭と雪吊り

雪吊りの奥に建つ庫裏
大方丈は
『前庭に月泉庭を配し、「降魔道場」の大額を掲げる大伽藍で圓通閣の別名で呼ばれる。
南北朝以降の国泰寺は守護代神保氏の崇信を受けるが、応仁以後の戦乱に拠り荒廃。
二十七世雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受けて再興を果たすが、天正13年(1585年)
前田利家に方丈を守山に取られ、現在地に移って来たと考えられる。
江戸時代の貞享3年(1686年)には現在の大方丈が建立。将軍綱吉は当寺を以て法燈派本山とし、
享保年間には萬壑和尚等に拠って伽藍の大整備が行われほぼ現在の形になった。

庫裏(右)に続く大方丈玄関
但し、ここからは入らない。

玄関近影

方丈へは法堂右の通路を往く

通路内部
明治維新になり当寺も廃仏毀釈の余波を受けたが、越叟・雪門和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、
天皇殿の再建を始め諸堂宇の修造に務めた。
また若き日の西田幾多郎や鈴木大拙が北条時敬の勧めに拠って雪門に参じている。
当山で現存する伽藍中では最古のもので堂内には山岡鉄舟筆の「圓通閣」、
その内陣に釈迦三尊像を安置し、有栖川宮熾仁親王御下賜の「北鎮禅林」の扁額を掲げる。
また幕末に新選組局長近藤勇が着用したとされる甲冑が山岡鉄舟に拠って当寺に奉納されている。』
とあります。

入口(東)より見た大方丈内陣

西側からの大方丈の眺望

方丈の唐獅子の襖絵

御本尊を祀る大方丈中央付近
幕末三舟と呼ばれる山岡鉄舟は禅に深く帰依した人物。
旗本であれば幼少時の教育は禅宗僧侶から学ぶ事が多かったと思うので、
関連する書が当寺に残っていても不思議はありません。
禅に加えて剣の達人でもあった鉄舟は幕府内でも一本筋の通った人でもあったのでしょう。
世間が新政府に靡く中で、幕府のために奔走。駿府で薩摩の西郷隆盛と会見し、
江戸無血開城と将軍慶喜の助命への先鞭を付けました。

山岡鉄舟筆の「圓通閣」の扁額

御本尊正面に向かう椅子

御本尊近影
扁額は「北鎮禅林」とある。
明治初期、廃仏毀釈の嵐は国泰寺にも及び寺は荒廃。その窮状を見兼ねた鉄舟は
自らの揮毫で広く浄財を求め、当寺は見事復興したとか。
剣・禅・書の達人であった鉄舟ですが、単なるお飾りの趣味ではなく、
その書で浄財を集めるなど、中々如才なさも持っていました。
新政府からは恨まれた新選組の遺品を奉納したのも相通ずるものを感じます。
この甲冑を見るにつけ思うのは【火中】の栗を拾った鉄舟の人柄。彼は【撤収】の名人でもありました。

方丈内に展示されている奉納された甲冑の写真

甲冑と鉄舟の解説

山岡鉄舟と近藤勇の全身写真
後に十年に亘り明治天皇の教育係として仕え、生涯を日本文化の発揚に尽くしたと言われます。
その死後、葬列が皇居付近を通った際には、明治天皇は窓越しに見送ったとか。
国泰寺を復活させた英傑は我が国の国体も形作った人でした。

国泰寺説明書

国泰寺御朱印 (御本尊)
[参考書]
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護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
龍淵池と法堂
匂うが如き仁王像のある三門を抜けると、正面に龍淵池が現れます。
『龍淵池は昭和49年に完成したもので、捕らえられた魚介類を放ち食を与える放生(ほうじょう)池。
我々の日常の殺生に対する供養を行い、生命尊重の心を新たにする役目を持つ。
これは「人命尊重」を祈願した先住心田和尚が、利生塔・月泉庭と共に整備したものである。

龍淵池に架かる石橋

石橋を挟んで反対側の池

寺務所前より龍淵池と三門を見る
この水をたたえた龍淵池を前庭に眺めて「毘廬堂」の扁額を掲げた建物が法堂(はっとう)。
享保6年(1721年)の建立で、説法を行う場所としての法堂本来の役目に加え、
本尊として釈迦三尊像を安置する仏殿の役割も持つ。』 とあります。
法堂内正面にある釈迦三尊像は八頭身ではありませんが、中央の釈迦如来の前には
「今上天皇聖壽無窮」の位牌型の物が。これも勅願寺故でしょうか?

法堂正面
龍淵池に架かる石橋上よりの眺望。

正面右側より見た法堂

法堂前面の扉

法堂屋根の垂木と組物

扉の透かし模様

法堂の「毘盧堂」の扁額

法堂の内陣

法堂中央に祀られた釈迦三尊像

中央の釈迦如来坐像
手前に「今上天皇」の文字が見える。
一見、法堂前にある池泉回遊式庭園かと思いましたが、意外にも放生池。
周囲の庭木が整備されているので、そのように感じるのでしょう。
龍淵と言うからには龍が棲むのでしょうが、それでは折角放生した魚も、龍に食べられてしまいそう。
それとも池に放した魚が滝を上って龍になる事からの命名でしょうか?

三門から見て池の右手に聳える巨木(木斛?)と寺務所

池周辺の木々と岩
[参考書]
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護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
文化の日で始まる休日は北陸路へ。
お盆の計画が、度重なる大雨や北陸線運休のため、今回のリベンジ。
秋晴れに恵まれた初日は氷見線沿線を巡礼する事に。
越中一の宮や国分寺跡があるのは以前から知っていましたが、穴場なのが国泰寺。
以前に氷見駅でMHCを貰った際に、観光案内所に置いてあったパンフで初めて知りました。
寺社共に氷見線の伏木・雨晴駅から徒歩で行ける距離ですが、
肝心の氷見線の本数が1~2時間毎の運転と不便を免れません。
もう一つは15分間隔で運行の万葉線に乗って伏木駅まで歩き、駅でレンタサイクルという案ですが、
雨晴まではトンネルを越えるのがネック。

国泰寺バス停付近に建つ大伴家持歌碑
どちらにしようかと悩んでいると、俄かに路線バス案が浮上。
運行本数は2時間毎程度ですが、高岡駅到着後30分で、国泰寺までのバスがある事が判明。
氷見線・万葉線どちらを採用した場合よりも1時間近く早く着きます。
その後の連絡はどうなるか分かりませんが、取り敢えずバスでの現地入りとなりました。狡兎三窟ですね。
氷見方面行の160号線から東へ1本入った細い道路を進み国泰寺前で下車。
停留所には大伴家持卿歌碑が。国司として赴任した越中で歌壇を形成した家持ですが、
ここでも歌を詠んだのでしょうか?

歌碑の向かいにある国泰寺への道標
左の296号線を進む。
道路を挟んで歌碑の向かいに案合の寺標が建っており、それに従い東行。
小高い丘を過ぎて10分程度歩くと視界が開け正面が寺院。
門前には旅館と思しき建家が何軒かありますが、何処も「竹の子料理」の看板を挙げています。
山も間近に迫っていることを改めて感じました。
唯、筍のシーズンは春なので、それだけに頼っていると文字通り竹の子生活に。
氷見線と言えば日本海の幸と加えて氷見うどんが有名なので、そちらに鞍替えするのでしょうか?
そうならこちらも別の意味で狡兎三窟と言えます。

寺院までの296号線はこのような小山を越える

入口に建つ寺号標
後醍醐天皇勅願とある。

門前左側にある竹の子料理旅館

寺号標の奥にも竹の子料理旅館が
摩頂山国泰禅寺(まちょうざんこくたいぜんじ)は、
『北陸路には数少ない臨済宗の道場で、臨済宗国泰寺派の大本山。
開山の慈雲妙意(じうんみょうい)禅師は行脚の時、
ここ二上(ふたがみ)山の幽邃の境に惹かれ山中の草庵で独り坐禅に励んでいた。
偶々、通りがかった弧峰覚明(三光国師)に誘われ、紀伊由良の西方寺(現興国寺)の
無本覚心(法燈国師)に参じて大悟するが、間もなく師の遷化に遭い、
二上山の旧居に戻り修行に励んだ。やがてその禅風を慕って雲水が集まり、
嘉元2年(1304年)に摩頂山東松寺(まちょうざんとうしょうじ)を開創した。

寺号標に続く苔と巨木の参道

総門前の石碑
入口には「後醍醐天皇勅願所」の石碑が一際固く聳える。
これは開山が嘉暦2年(1327年)参内して後醍醐天皇に法要を説いた事で「清泉禅師」の号を賜り、
翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され勅願寺になった事に拠る。
興国3年(1342年)には南朝の後村上天皇より後醍醐天皇の御影が送られ、
「臨幸に代える」との御宸翰あり。天皇殿のある由縁である。更に北朝の光明天皇の帰依も受けた。
康永4年(1345年)6月3日、「天に月あり、地に泉あり」の句を末期として72歳を以て示寂。
光明天皇より「慧日聖光国師」の諡号を受けた。塔を「正脈」と号し、室を「大円」と言う。

改修中の総門をくぐる

総門に掲げられた「国泰禅寺」の扁額

総門下より上って来た参道を見る

境内側より見た総門
勅願碑の脇の坂を上った先にあるのが当山外構えの正門に当たる総門。
現在のものは天保2年(1831年)の造営で、扁額は黄檗山萬福寺五世の高泉性激の書。
総門を過ぎた先に建つ勅使門も同じ天保2年の造営で、
その先にある安永8年(1779年)建立の三門を経て法堂に続く。』 とあります。
総門は生憎、改修中でしたが「国泰禅寺」の扁額と「本派専門道場」の看板はしっかり見ることができました。
最初はこの扁額が下賜されたものと思いましたが、遥か後世の書。

総門から見た境内

総門脇にひっそりと佇む勅使門

鐘楼堂
総門を潜ると脇にひっそり建つのが勅使門。規模に加え目立たない点でも総門に及びませんが、
勅使門からは、三門・法堂・大方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様式。
現実を【直視】した構造りにしているようでした。

勅使門の正面に建つ三門

三門近影

三門の金剛力士阿像(右)

同じく金剛力士吽像(左)
ここで気になったのは総門前の石碑に刻まれていた「臨済宗法燈派大本山」の文字。
パンフには臨済宗国泰寺派とあったので間違いではないかと思いましたが、後に庫裏で伺った所、
住職 ; 「開山の師である法燈国師に由来する呼び名です。」
私 ; 「では法燈(ほうとう)派でも良いのですね。」
住職 ; 「そうです。因みに「ほうとう」ではなく「はっとう」と読みます。」
との事。己の無知に気付かされ【はっとう】しましたが、
何故、ここだけ【はっとう】なのか?【ほうとうほうとう】【伏木】でした。

三門から勅使門を見る

三門屋根の垂木・木鼻等の組物

三門に造られたスズメバチの巣の残骸
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