<コース> 準特急は日中10分間隔で運行
阪急梅田 → (準特急) → 長岡天神 → 徒歩8分 → 長岡天満宮

長岡天満宮(旧府社)
阪急京都線踏切西側に建つ燈籠。
西国街道ひなまつりを3月5日に見たあとは、一駅戻って長岡天神で天満宮参拝でしたが、
流石に弥生上旬では未だつぼみ状態。案内では12日に梅花祭なので、一週間後に再訪となりました。
阪急長岡天神駅で下車して南西へ数百メートル行くと、道路に面して巨大な鳥居が聳えます。
鳥居前の階段を上って鳥居前に立つと目の前に大きな池が出現しますが、これが八条ヶ池。

道路に東面して建つ一の鳥居
右は梅花祭の案内板。

鳥居近影

鳥居に掲げられた「天満宮」の扁額
額の周囲には梅鉢紋と梅の木が描かれている。

鳥居の台座に描かれた梅
八条ヶ池は、
『長岡天満宮の東側に南北に伸びるこの池は八条宮智仁親王に因んだもの。
慶長6年(1601年)、この付近一帯が八条宮(桂宮)家の所領となり、
八条宮智仁親王は長岡天満宮を篤く崇敬。
続く智忠親王は寛永12年(1635年)に御歌仙を御奉納、同15年(1638年)には社殿を改築整備。
同時に社地の東に池を開き、翌年境内周囲に堀を廻らしたという。
参道前の池を八条ヶ池と呼ぶのはそのためである。
また親王は父宮が下桂村に造営した別業を整備、これが後に桂離宮となり、
八条宮家は桂宮家と呼ばれるようになる。池は以来今日に至るまで農業用として利用されてきた。

鳥居下より見た八条ヶ池

八条ヶ池とキリシマツツジの解説

池の概略図
北側の池には檜の水上橋が架けられ、池に張出して六角舎が建つ。
これは長岡京市の友好都市である中国浙江省の寧波市とその省都である
杭州市の西湖に浮かぶ回廊をモデルに建設されたものである。

池に渡された水上橋

六角舎

六角舎の屋根裏

六角舎窓から見た八条ヶ池
池はほぼ中央の中堤を境に南北に分けられ、その両側の参道には市の花であるキリシマツツジが植えられている。
九州南部の霧島で知られるが、当社のものはほぼ野生種。高さも2mを越え樹齢100~150年と考えられている。
毎年4月下旬頃から鮮紅色の花を多数咲かせ、満開時には八条ヶ池に映える姿は壮観である。
南側の池に迫り出した建物は、創業140年を誇る老舗料亭「錦水亭」。
地元特産の朝掘り筍を用いた「たけのこ会席」が有名である。』 とあります。

六角舎から見た一の鳥居

中堤の参道(北側)

両側にキリシマツツジが植えられた中堤の参道(中央)
門前の池の名前は条里制ではなく宮家に由来。八条宮家は桂離宮で知られますが、
文化のパトロンとして建築や造園に力を入れたことは、その後の日本文化に大きな寄与となりました。
加えて凄いのは、その池を宮家が独占するだけでなく、近隣の農民が農業用水に使う事を許した事。
江戸時代の皇室は幕府の方針もあって経済的には厳しかった筈なので流石と言えましょう。
明治天皇も東京へ移る前には、御所の近所の子供と相撲を取ったと伝わっているので、
雲の上の人達も意外と民衆との距離は近かったようです。

太鼓橋を渡り境内へ

中堤中央の旧太鼓橋

池の向こうに見える錦水亭

紅梅越しに見る錦水亭

参道脇の紅梅

境内から見る太鼓橋と一の鳥居
手前の土は菖蒲(ショウブ)が植えられている場所。
池の南側にある錦水亭は、洛南を代表する料亭でいつも混雑しています。
池越しにキリシマツツジを望む光景はさぞかし見事でしょう。
思わず、♪花はキリシマ、竹の子は国府♪と言う一節が口をついて出てしまいます。
諭吉さん二人必要な料理は庶民にはちと敷居が高過ぎ、世の中には持つ人は持っていると言う事でしょう。
でもうまく出来たもので「竹の子最中」が販売中。外観が筍なのは言うまでもありませんが、
面白いのは甘露煮の筍を最中に閉じ込めている所。長岡京の筍スイーツと言う触れ込みで喜久春が販売。
本店は天満宮から北へ歩いた場所ですが、境内には出張店があり手軽に入手。
京都の和菓子で1個¥180は“りーずなぶる”。食事とはいきませんが、懐を温かくする懐石の役目は十分。
これがホントのたけのこ生活です。

錦水亭入口
食事だけでなく宿泊もできるとか。

池に張出した亭を境内側から見た所

「喜久春」の竹の子最中

長岡京花山郵便局 ; 長岡天満宮八条池、特産・筍
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法性山 石塔寺(本化日蓮宗)
向日神社参拝を終えて鳥居前まで来ると、日像上人の説法石と言うものが鎮座。
神社の前に仏教遺蹟とは!と思いつつ、西国街道を南下すると五辻で再び分岐。
この東側の島坂は延暦4年(785年)長岡京造営長官であった藤原種継が暗殺された場所。
遷都して僅か1年後の事でした。
側近の暗殺に始まる一連の政争は僅か10年で長岡京を放棄、平安京遷都への原因にもなりました。

向日神社の鳥居脇にある説法石

石の台座に嵌め込まれた遺蹟由来
そこを過ぎて暫く行くと東側に由縁のありそうな山門があり、開放した門の向こうには
整備された庭が見えたので入ってみることに。
法性山石塔寺(ほっしょうざんせきとうじ)は、
『鎌倉時代末の延慶3年(1310年)、開山日像(にちぞう)上人が向日神社前に
法華題目の石塔婆を建立し、その傍らにお堂を建てたのが始まり。
その後、文明年間(1469~1487年)に日成がこの傍らに堂宇を建立し寺号を定めたとされる。

正面より見た山門
庭園の奥に本堂が見える。

山門脇の由緒記

山門から見た境内
鎌倉時代以降は、寺の前を通る西国街道を行き交う人々で当寺周辺は賑わいを見せ、
豊臣秀吉、明智光秀など歴史上の人物も通っている。
元和年間(1615~1624年)に不受不施派の寺院として幕府に届けたが、
寛文6年(1666年)の不受不施禁制後は妙顕寺派に属した。
その後、寛文年間には独立本山に成長し、その末寺は近畿一円に三十三ヵ寺に及んだ。
周辺には「御塔屋敷」「御塔下」「御塔道」等の地名が今も残り、かつての伽藍の壮大さを今に伝えている。

山門を入って右手に建つ塔堂・妙見堂・七面堂

塔堂

塔堂前に立つ石碑

塔堂内部に祀られている石塔婆

塔堂に続く妙見堂・七面堂
明治9年(1877年)には鶏冠井村の興隆寺を吸収、翌年には本堂・庫裏・座敷・塔堂・妙見堂・七面堂・
鐘楼・門等を整備した。現在は本化日蓮宗の単立寺院で十界大曼荼羅を本尊とする。
毎年5月に行われる鶏冠井題目踊は、日像が炊いたご飯の湯気が「南無妙法蓮華経」の
文字となったのを見た村人が喜ぶ様子を表現したとされる。』 とあります。

塔堂前から見た本堂と庫裏

本堂前の庭園

本堂前の石はかつての礎石?
これで向日神社の鳥居前に説法石が鎮座するのにも納得。
開祖日蓮上人が鎌倉で辻説法を説いたのは有名ですが、
鎌倉を起点に広まった日蓮宗の関西での起点はここだそう。
山門を潜ると庭の先には本堂建ちますが、直ぐ右手には古い小さな御堂が建ち、
その前には「日像菩薩石塔」の石碑が。
堂内を覗くと正面に南無妙法蓮華経と刻まれた石塔が祀られていました。
殆どの宗派では仏像を祀りますが、このような題目石塔を祀るのは
法華経を全てと考える日蓮宗ならではと言えます。

庭園の間を抜け本堂へと続く参道

松の向こうに建つ本堂

鉄筋の本堂全景
木々の入らないアングル。

本堂に掲げられた「法性山」の扁額

本堂前からの眺め
平安以後の宗派では、最澄と同時代の空海、明より来朝した隠元以外の宗祖は
全て比叡山に学びました。日蓮も例外ではありません。
しかし、他の宗祖が平安京で布教を始めた中で、日蓮のみは鎌倉を布教の手始めにしています。
関東の安房出身という事もあったでしょうが、身近な人達の日常に接してのスタートは、
それ以降の日蓮宗の方向性を決めたとも言えます。
他宗派への攻撃性が強調されることの多い日蓮ですが、
民衆から乖離してしまった仏教への抗議とも言えそうです。
歴代には「日」文字を名乗る僧侶が多いですが、これは日本や日輪ではなく
意外と日常を表していると考えるのは飛躍しすぎでしょうか?

本堂と庫裏の間にはこんな池泉回遊式庭園も

庭園に架かる石橋

境内の奥に続く庭園

庫裏正面
生憎、住職が不在のため御朱印拝受は叶わず。

境内の梅
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向日神社(式内社 旧府社) 舞楽殿と拝殿
御朱印拝受に続き本殿へお参り。
参道の両側は桜で有名ですが、社殿の周辺にも桜、奥は紅葉が見られます。
社殿はたくさん建っていますが、手前にあるのが舞楽殿、その奥が拝殿で
更に奥に行くと本殿に到達する模様。

拝殿前の桜 (3月24日撮影)

由緒記

拝殿近影
『重要文化財の本殿は応永29年(1422年)の建築で、三間社流造・檜皮葺。套堂(覆屋)内に納められ、
周囲を透塀で囲まれて、拝殿・幣殿と繋がって権現造に似た様式を持っている。
明治神宮のモデルになった社殿である。

拝殿の唐破風

唐破風下の鳳凰と龍の彫刻

向拝欄間の麒麟の彫刻

同じく亀の彫刻

唐破風の屋根瓦
本社の北側には元禄元年(1688年)建立の祖霊社が立ち、江戸時代末期の渡り廊下で
拝殿と繋がっている。その手前、東側には同じく江戸時代末期の五社神社が建つ。
また社宝の紙本墨書日本書紀(神代記下巻)は南北朝時代の写本で、
同じく国の重要文化財に指定されている。

拝殿前の枝垂れ桜 (3月24日撮影)

拝殿前の狛犬(吽像)

こちらは狛犬(阿像)とその奥にある渡廊下
境内奥には社叢が広がり、水が湧出する場所には不動尊が祀られている。
神社北側の公園内には元稲荷古墳があり、古墳時代前期の前方後円墳で全長94m、
三段築成で竪穴式石室を持つ。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の途上当社に参詣した時、その山名を訊かれた神主が
咄嗟の機知で「勝山」と答えたので、秀吉は喜び、以後勝山と称されるようになったと言う。』
とあります。

拝殿から右(北側)へと続く渡廊下

渡廊下は祖霊社へと続く

祖霊社前の五社神社
本社は渡り廊下で祖霊社と繋がるなど一見複雑な造りに見えますが、
時代を考えると増築なので、本来の姿は留めている筈。
明治神宮のモデルになった程の社殿ですが、説明に従うと本殿は覆われているので
直接拝見する事はできませんでした。
京都の神社が基になったのは、何ら不思議ではありませんが、
山城国一之宮である上賀茂・下鴨神社を【向こう】に回して選ばれたのは中々なもの。
こうして三間社流造が長岡京と東京の両都に並び立つことになります。

渡廊下を過ぎて本殿へ向かう

社殿後方からの眺め
但し、説明に従うとこの建物は套堂(覆屋)になる。

本殿奥には社叢が広がる

社叢の一画にある水掛不動尊
ここに湧水があったか?

境内奥の元稲荷古墳
当社が古の形式を保っているのが表向きの理由でしょうが、
平安京の二番煎じ、亜流と見做されるのを憚った可能性が【ありゅありゅ】。
このような場合、より古いものを持ってくるという加上説と言うのが歴史学にはあるので便利。
しかし、それならばもっと古い大和の神社を持って来れば良さそうなものですが、
色々複雑な事情があったのでしょうか?ともあれ【過剰】な想像は禁物です。

古墳のある勝山緑地

勝山の謂れ

向日町郵便局 ; 重文・向日神社本殿、長岡京大極殿遺跡碑、特産・筍

阪急西向日駅西口に建つ長岡京大極殿跡碑

石碑脇の満開の桜 (3月24日撮影)
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向日神社(式内社 旧府社)
ひな人形めぐりの途中、街道沿いに石鳥居があったので参拝することに。
鳥居の奥には真っ直ぐな参道が長く伸び、社殿は遥か先。
歩いて行くと右手に古風な社家が建ち、石畳の参道脇には桜の木が多数。
花見シーズンには賑わうと思いましたが、後で伺うと夏は青もみじ、
秋は紅葉と季節を通して楽しめる参道だとか。
(この後、3月24日に訪れると予想通り桜が満開。近所の人も写真撮影に興じていました。)

一際大きな社号標

桜に彩られた一の鳥居 (3月24日撮影)

一の鳥居に掲げられた扁額
石畳の参道は200m。直ぐ右手には神職の自宅が厳かに建ち、更に進むと
境内社の勝山稲荷神社を見て階段を上ると正面に見えるのが舞楽殿。
途中、桜の枝が参道に張り出し宛ら花道を行く心地。
訪れる人は皆、【賛同】してくれるものと信じます。

真直ぐに続く桜の参道

こちらが、神職の御自宅

参道に並んで神職の塀が続く
向日神社(むこうじんじゃ)は、
『延喜式にも登場する古社。社殿では養老2年(718年)創祀と伝えられる古社。
古くは向日神(むかひのかみ)を祀る上ノ社と火雷神(ほのいかづちのかみ)を祀る下ノ社があり、
前者は五穀豊穣、後者は祈雨・鎮火の信仰がある。
平安時代には山城国五社の一つに数えられている。
下ノ社の宮司は承久の乱では後鳥羽上皇側に付いたため敗北、
福知山の荘園・六人部荘(むとべのしょう)に身を隠した。
許されて戻った時には、下ノ社は荒廃。そこで建治2年(1276年)に下ノ社を上ノ社に合祀、
向日神社と改称し付近一帯の総鎮守となった。

参道の奥に微かに社殿らしきものが見える

境内社 勝山稲荷神社
応永29年(1422年)には近郷の七村が協力して本殿を再建した。付近は西岡と呼ばれたが、
明応7年1438年の西岡の土一揆は西岡向大明神に集結して蜂起したもので、
長享元年(1487年)には向日宮で「国の寄合」があるなど、山城国一揆勢の拠点の一つとなった。
神主は平安時代から六人部(むとべ)氏が継承、幕末の六人部節香(ときか)と
甥の是香(よしか)は平田派国学者として著名である。
また六人部暉峰(きほう)は竹内栖鳳門下の女流画家として知られる。』 とあります。

階段の先に建つ舞楽殿

舞楽殿と桜

拝殿前から見た舞楽殿
近隣では長岡天神(天満宮)が有名ですが、由緒はこちらがずっと古い。
平安時代から六十部(むとべ)氏が神職を務めるとガイドにはありましたが、
御朱印拝受の際に社務所で確認。対応下さった神職夫人の話では、
夫人 ; 「平安よりも古くて、奈良時代まで遡ります。」
私 ; 「神社は古い家系が多いですね。阿蘇さんとか海部さんとか。」
夫人 ; 「籠神社さんも古いですが、あちらは養子さんもいるので。うちは95代全て男系です。」
私 ; 「国宝の系図とかはあるのでしょうか?」
夫人 ; 「国宝ではないですが、文化財として保管しているものがあります。」
私 ; 「そういえば、以前「旅してゴメン」の撮影でウド鈴木さんが来られましたか?」
夫人 ; 「ええ、いらっしゃいました。それからは「テレビで見ました!」と
北海道から沖縄まで参拝者が大勢来られて、もうキャイーン状態でしたわ。」
と中々面白い話でした。

舞楽殿の前を右手に進み社務所へ

参集殿も兼ねた社務所
奈良時代云々はさておき、承久の乱で六人部荘に難を逃れた時が
一つの転機だった事は間違いなさそうです。
テレビ撮影では幼い男の子を抱いて居られたので、96代目までは先ず大丈夫のようです。
家系も伝統も継承するのは苦労が多い筈、キャイーンの末裔にならないよう注意しなければいけません。

向日神社説明書

向日神社御朱印
コロナのため書置きを拝受。
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中小路家住宅(国の登録有形文化財) 喫茶室にて雛人形を前に
五辻の分岐点を左へ進み西国街道を南下し、阪急京都線の線路を越えると上植野町下川原。
街道沿いは河原町と呼ばれ、白壁の土蔵や塀、門が連なり、往時の景観を今に伝えています。
そんな中で唯一見学できる施設が中小路家住宅。
唯、見学と言っても喫茶室併設なので、食事をしながらの見学ではあります。

阪急京都線を抜け西国街道を更に南へ

街道に立つ竹を象った街灯

竹の形の道標
中小路(なかこうじ)家は、
『菅原道真の一族で、太宰府へ左遷される道真に従った後、京へ戻り、
道真を祀る天満宮を、現在の長岡京市開田に造立したとされる。
上植野にある向日神社の御旅所前から東西へ延びる一本道は“中筋道”と称され、
復元された長岡京では大路に当たる由緒を持つが、これを姓にしたと考えられる。

中小路家に到着

北に隣接する御屋敷

こちらは御向かいの御屋敷

南に隣接する御屋敷
室町時代から戦国時代には、乙訓・西岡の土豪として活躍、本拠として開田城を築いた。
付近一帯に多い中小路家は、その子孫と考えられる。当家に伝わる延宝8年(1680年)以来の
古文書などから400年近く前から現在地に住まい、幕末には聖護院門跡領の庄屋を務めていた。
代々の当主が忠兵衛であったことから屋号を「河忠」と言い、古くからの農家であった。

中小路家の長屋門

喫茶メニュー

門から見た主屋

主屋の前の庭

庭に咲く花
中小路家は西国街道に沿った住宅で、敷地中央北寄りに建つ主屋に、上質な造りの座敷を備えた大形民家。
敷地内には高く腰板を張った土蔵造りの内蔵と外蔵、落ち着いた佇まいの離れ及び内門が建つ。
また西国街道に面して、南から軒まで漆喰塗り込めとした穀蔵、出格子窓を付けた長屋門、
これらと統一的な外観を持つ木小屋と塀が連なり、旧家の屋敷構えを伝えている。
現在の主屋については、弘化5年(1848年)正月に居宅建て替えを願い出た文書の付図と比べ、
大きく異なる点はなく、この年に造立され維持されてきた建物である。』 とあります。

主屋玄関前にて

展示中の雛人形

左上段の内裏雛と三人官女

右側は内裏雛のみ
中の工事もなく、予約なしの昼食。入口横の座敷にも雛壇が置かれ、
庭からも眺めることができますが、屋内にはそれにも増して豪華な雛人形が陳列。

主屋に展示中の雛人形 (左側)

同じく右側

正面の雛人形は戦前の仕様か?

有職雛

御簾越しに見る内裏雛
併設の喫茶店も【なかこうじ】ならば甘酒か味噌がメインかと思いましたが、意外にもイタリアンでした。
雛人形を見ながらの優雅なランチで、オムライス&レモンスカッシュのセットで¥1000はお得。
食後は熱いカプチーノを注いだアフォガードアイス ¥650 で〆。
アフォガードとは溺れる意味でそうで、いい意味で食事に溺れました。
その後、南の一文橋まで歩いてひな人形巡礼終了。かつて橋が洪水でしばしば流されたため、
架け替えの費用として通行人から一文づつ徴収したのが名前の由来だそうですが、
りーずなぶるなランチのお陰で【一文無し】にならなかったのは幸いでした。

雛人形を見ながらのオムライス

オムライスに続いてレモンスカッシュ
リュトンの形のグラスがお洒落。

最後はアフォガードアイスで〆

こちらは売り物の雛人形
干支の関係かウサギが目に付く。
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西国街道ひな人形めぐり 「ひな人形手づくりコーナー」にて
東海道の関宿で町並みと雛祭りを見た翌日は、うんと近場の西国街道へ。
3月1日~5日までの短期間ですが「西国街道ひな人形めぐり」が開催中。
新たな職場の近くとあって様子見を兼ねての散策でした。

イベントのパンフレット

阪急東向日駅西側にある西国街道分岐点

分岐点に建つ道標

築榊講常夜灯

常夜灯図解

向日市マンホール蓋
デザイン・色調共に優秀だが、MHCは未だ出来ていない。
向日市内ではJR向日町駅西口から阪急東向日を過ぎ、一文橋までの2㎞。
阪急東向日駅から直ぐの分岐点には天保13年(1842年)築の市内最大の常夜燈が建つが、
これは向日市寺戸町の伊勢講として江戸時代から続く築榊(つきさか)講が建立したものである。

キッチンタロー にて

キッチンタローでの展示

67号線との合流点付近にある須田家別棟

別棟入口に掲げられた屋号

玄関脇の道標
但し、これは最近になって建てられたもの。
この付近はかつて梅ノ木と呼ばれ、坂を登り切った場所で向日町になる。
昭和3年(1928年)に新京阪線(現在の阪急京都線)が開通して以来、
ここ西国街道沿いは商店が軒を連ね、通勤通学や参詣者で賑わった。

京料理 矢尾卯 の店先にて

矢尾卯の筋向いにある町屋
商店には見えないが、それっぽい造りに見える。

向日神社の向かいの musubi 助産院 にて

ちゃばな Cafe にて
西国街道は築榊常夜燈で206号線と分かれ、市役所付近で67号線と合流して南下し、
再び五辻で楊谷観音道と分岐と、分岐合流を繰り返して一文橋に至っている。
街道沿いには最初の合流点付近に須田家別棟が、一文橋手前には
中小路池住宅がかつての町並みを残している。』 とあります。

ひな人形手づくりコーナー にて
今回の展示では最も【雛数】が多い。

親王雛
これは東京 久月の製品。

有職雛
これは島津の製品。

ここから先はコーナーの方々の製作に拠る







古民家を利用しての雛人形展示と思っていましたが、展示しているのは街道沿いの店舗が中心。
ショッピングの傍らに楽しんで貰うというスタンスのようですが、休みの店舗も散見。
展示を見るのは無料ですし、お店が休みでもショーウインドウ越しにみえるので、
不都合はありませんが、町の活性化にはどうでしょう。これからも続く事を願いたいものです。

クリーニング つき山にて (五辻の北側)

つき山 の展示

㈱ 野村龍酒店

銘酒と雛人形

五辻の常夜灯

五辻で西国街道は再び分岐
町屋の奥に見えるのが石塔寺。

(有) 吉川工務店
阪急京都線の直ぐ北側。

雛人形 源氏枠飾り
これは他所より譲られたとか。
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:03) → JR大垣(8:37→8:40) → JR名古屋(9:14) → 近鉄名古屋(9:21) → (近鉄名古屋線) → 近鉄弥富(9:34) → 徒歩5分 → 歴史民俗資料館 → 徒歩8分 → JR弥富(10:08) → JR四日市(10:33→10:40) → JR亀山(11:07→11:14) → JR関(11:21)
関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
【復路】JR関(13:21) → JR月ケ瀬口(14:12) → 徒歩5分 → 道の駅 → JR月ケ瀬口(15:13) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

九関山 宝蔵寺 地蔵院(真言宗御室派)
鈴鹿山脈を控えた東海道の宿場として発展した関ですが、
元々は「関の地蔵さん」の門前町として発展したのが始まり。
・関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ
と言う俗謡もある程で、御本尊では日本最古の地蔵菩薩とか。
宿場のお雛様を見た後は順番待ちの昼食ですが、関の地蔵さんを素通りする訳にはいかず大急ぎで参拝。
実は平成5年5月1日に初めて関に来た際に「関の地蔵さん」は訪問済。
その時は拝観料を払って内陣も見ましたが、今回は外陣だけ。

国道1号線から東海道へと向かう道筋にて
白壁の向日が地蔵院。

塀の切れ目の向こうに本堂が
関の地蔵さんは、
『九関山宝蔵寺地蔵院(きゅうかんざんほうぞうじじぞういん)が正式名だが、
通常は地蔵院、関の地蔵さまと呼ばれる。
寺伝では天平13年(741年)、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
僧行基がこの関の地にお地蔵様を刻んで安置したのが始まりである。
享徳元年(1452年)、愛染本堂の大修理に際し改めて開眼供養をしたのが一休禅師で、
禅師は自ら身に着けていた衣襟をお地蔵様の首に巻いて供養を行った。
これが後に、禅師の人柄と重なって次のような伝説を生む事に。

東海道西側から見た地蔵院築地塀と板塀
時は室町時代、この関に貧しい身なりの坊さんが通りかかる。
開眼供養をしようと思っていた村人は彼に依頼。すると坊さんは、
・釈迦はすぎ 弥勒は未だ 出でぬ間の かかるうき世に 目あかしの地蔵
と歌を詠んだかと思うと、いきなり地蔵菩薩の顔面に放尿して立ち去った。
怒った村人は、地蔵の身を拭い、改めて身なりの良い僧侶に読経を依頼、
僧侶は有難い説教も行い村人は涙を流して感激したと言う。
万事うまくいった、と喜んだのも束の間。村人の夢枕に地蔵が現れ
「折角、良い供養をして貰ったのに、何という事をしてくれた。」 と村人の口を借りて告げたという。
驚いた村人は、初めの坊さんを追い掛けてこの事情を話した。
すると坊さんは 「これを地蔵様の首に巻いて、儂の歌を三度唱えよ。」 と言って渡したのが自らの褌。
その坊さんこそ一休禅師で世間では褌を首に巻いて供養したと伝わる由縁である。
真偽の程は不明であるが、現在、地蔵様の首に涎掛けを掛けているのはこの開眼供養が始まりと言われる。

重文・地蔵院本堂

正面より見た本堂

手前に大きく張り出した向拝
ここを東海道の宿場に定めた家康も所縁があり、本能寺の変の直後、
伊賀越えで岡崎に戻る途中、関の瑞光寺に立ち寄っている。
今川時代の学友が住職を務めていたからだが、その時、
家康が食べた柿の種が生長した老木が今も境内に残ると言う。
江戸時代になるともう一つ有名な逸話が加わる。
或る日、ここに臨月の武家の奥方がやって来た。彼女は夫の仇討の旅の途中であったが、
俄かに産気づき旅籠会津屋で女の子を生むと間もなく他界。会津屋で育てられた女の子は
小万(こまん)と呼ばれ、後に見事父親の仇討を成就。その後は会津屋に戻って暮らしたと言う。
後世「関の小万の仇討」として知られるエピソードである。
会津屋は山田屋と変わったが、関の町並み保存地区の修景は旧山田屋(現・小万茶屋)から始まった。

地蔵院北側にある「会津屋」

会津屋東に隣接する小万茶屋
現在の本堂は四度目の御堂。徳川綱吉に拠って元禄13年(1700年)に落成した。
母親の桂昌院がこの地蔵菩薩を信仰された結果、綱吉の誕生を見たからと言われる。
本堂の天井画は元禄時代の絵師狩野永敬が十年の歳月をかけて描いたもので、
仏典に則って描いた174枚から成る。
本堂左手の愛染堂は文永4年(1267年)の建立で三重県内では最も古い建造物。
厨子は豊臣秀吉の寄進で、銀箔を押しその上から透かし彫りの模様を嵌め込んだ珍しい物である。
本尊の愛染明王は良縁と商売の神様で、古来より女性と商人の信仰を集めた。
毎年、8月26日の愛染祭りで御開帳される。

本堂に隣接(南側)にある重文・愛染堂

愛染堂近影
境内左手には鐘楼堂があり、建立は寛永11年(1671年)。
本堂・愛染堂とこの鐘楼堂が国の重要文化財に指定されている。
境内の奥に在るのが書院で、その中に一段高くなった部屋が行在所。
江戸時代には大名や公卿が参詣の折に休憩した場所である。
明治以降も明治11年、13年の二度に亘り天皇の行幸があり、
それ以後も皇族方が、休憩・宿泊されている。』とあります。

重文・鐘楼堂

鐘楼堂と内部の梵鐘

境内奥にある書院
前に「明治天皇行在所」の石碑が建つ。

書院の更に奥にあるここが行在所か?
開眼供養の逸話は、破天荒な僧侶であった一休和尚らしいエピソードですが、真偽の程は不明。
汚い袈裟を着て臨んだ法要で追い返されたので、煌びやかな袈裟で再訪。
出迎えた人々の前で、袈裟だけ置いて帰ったという逸話があるので、それが形を変えたとも言えます。
一方、家康が【随行】者と瑞光寺に立ち寄った話、小万の仇討は恐らく真実を伝えていると思えます。
このように三つもエピソードが残るのは珍しく、また古代の鈴鹿の関に由来する名前ではあるものの、
関と書けば岐阜県の関市と間違われ、関宿(せきじゅく)と書けば
千葉県の城下町の関宿(せきやど)と間違われる等、知名度は以前に比べるとやや低下。
関市は関孫六で知られる刃物の町、関宿は『潮来笠』の一節に登場するので無理もない気もしますが…。
30年前に伺った際には、拝観料¥800を払って内陣・庭園まで見学。
京都・奈良とは異なり¥800は高額と思いましたが、抹茶&御菓子付きを思うとりーずなぶる。
御朱印に対応下さったのは庵主様でした。
庵主 ; 「以前は京都に居て、こんな僻地は嫌なので御本尊を日夜拝みました。」
私 ; 「戻るように祈られてのですね。」
庵主 ; 「でも気が付いたら、ここにずっと居させて欲しいと祈っていました。」
私 ; 「それにしても、東海道でよくこれだけの町並みが残りましたね。」
庵主 ; 「お茶が枯れると猛反対があったみたいで。今思えば先見の明がなかったのかなぁ」
などと説法ならぬ世間話で盛り上がりました。
今ほど観光客もなく、丁度地元の檀家の方も同席されていたのも幸運でした。
抹茶&菓子付き拝観も、堂宇の内装を今風に改装したのも全て彼女の発案。
気さくで話し易い庵主様で、寺の営業に女性の目線を取入れるとお見受けしました。
また話を伺えるかと思っていましたが、以前に石薬師寺で聞いた話では、他所に移られたそう。
残念な話ですが、また何処かで思いがけなくお目にかかる気もします。

前回訪問で頂いた冊子型地蔵院パンフと拝観券

地蔵院御朱印 (平成5年拝受分)

関郵便局 ; 羽黒山、重文・地蔵院本堂
駆け足で地蔵院を見た後は昼食へ向かいますが、途中の長徳寺門前で何やら発見。
近付いて見ると御朱印自動販売機。墨書だけでなく書置きや判子タイプもあるので、
別段驚くに当たりませんが、遂にここまで来たかと言うのが正直な感想でした。

長徳寺山門前の御朱印販売機

販売中の御朱印一覧

御朱印の案内
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:03) → JR大垣(8:37→8:40) → JR名古屋(9:14) → 近鉄名古屋(9:21) → (近鉄名古屋線) → 近鉄弥富(9:34) → 徒歩5分 → 歴史民俗資料館 → 徒歩8分 → JR弥富(10:08) → JR四日市(10:33→10:40) → JR亀山(11:07→11:14) → JR関(11:21)
関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
【復路】JR関(13:21) → JR月ケ瀬口(14:12) → 徒歩5分 → 道の駅 → JR月ケ瀬口(15:13) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

関宿(東海道五十三次第四十七宿)
昔の町並みを活かした東海道のおひなさまは2月11日~3月5日まで開催中で、ギリギリセーフ。
東海道がほぼ東西に走り家は街道に面して建てられているので、街道を歩きながら素早く鑑賞。
鄙には稀な体験でした。
『地蔵院門前には関宿を代表する町屋が並ぶ。「会津屋」は関宿を代表する旅籠で、かつての名は「山田屋」。
仇討で有名な小万が育った家としても知られ、今は蕎麦屋となっている。
東に隣接するのは二階に洋風意匠の窓がある洋館屋、今は小万茶屋として営業し雛人形を展示。

旅館「あいづや」 は蕎麦屋として営業中

小万茶屋外観

小万茶屋内の展示

小万茶屋内の展示
同じ北側通りを東へ行くと、大きく間口の開いた落合家へ。
ここは街道からも見ることができますが、誘われるまま中に入ると、豪華な雛壇がお出迎え。
人形もここで【落ち合う】のでしょうか?

街道北側に建つ旧落合家住宅

旧落合家にて

内裏雛(落合家にて)

吊るし雛(落合家にて)
関宿を代表する銘菓「関の戸」を扱う深川家では内裏雛と宮中に運んだ菓子箱等を展示。
陸奥大掾と言うのは禁裏へ上がるに際し朝廷より下されたもの。
雛人形と御所への通い箱が並ぶのはどちらも内裏の所縁か?

銘菓「関の戸」を商う深川屋

内裏雛と内裏への通い箱

深川屋店内にて
二階の虫籠窓が白壁に映える玉屋は関宿を代表する大旅館の一つ。
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた。
今は江戸時代の貴重な建築に、当時使われていた道具類や、
庶民の旅に関係する歴史資料等を展示する資料館となっている。
ここと隣接する旅館石垣屋でも雛人形を展示。

白漆喰が一際目を惹く「玉屋」

いかにも旅籠らしい玉屋の店先

旅館「石垣屋」の展示

石垣屋の店先に立つ雛人形
橋爪家は代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商として江戸にも出店を持ち、
大坂の鴻池と並び称された豪商。江戸末期は芸妓の置屋として栄えた。
街道に面して手摺付き二階妻入建であるが、これは明治期の改造で元は平入屋根であった。
街道に面して三角形の屋根を見せるこの建物は関宿では珍しい。
ここでは江戸・明治・昭和に加え、昭和30年頃まで行われた掛け軸雛が展示されている。』
とあります。

橋爪家外観

橋爪家由緒

江戸時代の雛人形(橋爪家にて)

こちらは大正時代(橋爪家にて)

掛け軸雛(橋爪家にて)
途中、山車倉がありましたが、これはこの歴史ある町並みを舞台として7月末の二日間、
山車が巡行する祭礼に使用されるものでした。
かつて豪華な山車を見た村人が祇園祭を見てその豪華さに落胆したとか。
そこから「関の山」の諺ができたそうです。尤も日本三大祭りと比較するのも気の毒ではありますが…。

ショーウインドウ越しに見る雛飾り

格子越しに見る雛人形

はらや化粧品店にて

三番町山車倉
土産には「関の戸」と並ぶ銘菓「志ら玉」を8個購入。
「関の戸」に比べ賞味期限は短いものの1個¥100はお得でした。
ここの店内にもお雛様が飾ってあり「宝永雛」の表示が。
江戸の宝永年間の作かと驚きましたが、お店の方の話では娘さんに誂えたものとの事。
宝永とはきっと様式の事なのでしょう。放映されるかどうかは分かりませんが…。

「志ら玉」を商う前田屋製菓

店先に置かれた「志ら玉」
6個は土産、2個は帰りの列車内のおやつに。

展示の宝永雛

最上段の御内裏様
一通り街道を見て歩くと丁度1時間。それからお店に向かうとほぼ待ち時間なしの昼食でした。
高三の同級生に教えて貰った「初音」は初値ではないものの、大阪よりも¥1000程安い¥3180。
亀山市なので【みえ】を張った訳ですが雛祭なので自ら納得。
まあ、庶民の贅沢としてはこれくらいが【関の山】でしょうが…。

行列のできる「初音」に向かう

番号待ちの電光掲示板

上うな重

蓋には廣重の東海道五十三次の関がデザイン
[参考書]
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東海道から地蔵院、西の追分方面を見る
普通、JR関駅で下車して宿場へ向かうと付近へ出ますが、今回は店で予約した後なので、
出たのは地蔵院付近。全体ではかなり西寄りになります。そこで西から東の追分を目指して散策開始。
『古代に鈴鹿関があった関は中世には関氏が城を構えたが、整備されたのは江戸時代。
徳川家康が五街道を整備し、関は東海道五十三次の江戸から47番目の宿場として
参勤交代やお伊勢参りの人々などで賑わった。
関宿の範囲は東西追分の間約1.8㎞、25ヘクタールに及び、
東の追分は伊勢街道、西の追分は大和街道との分岐点となっている。

遠くに鈴鹿山系を望む

西へ向かうと山が近づく
この1.8㎞の区間に江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町屋が200軒余残る。
現在、旧東海道の宿場町の殆どが旧態を留めない中にあって、名古屋の鳴海(有松)と共に
歴史的な町並みが残る事から昭和59年、国の伝統的建造物群保存地区に選定された。
関宿の町屋は、平入の二階建てが一般的であるが、二階前面を土壁で覆った塗籠もあり目を惹く。
庇の下に取り付けられた幕板は風雨から店先を守る霧除けである。
店の前にはばったり(揚げ店・店棚)と呼ばれる上げ下げできる棚が付けられており、
商品を並べたり街道を通る人が座ったりする機能がある。
座敷の出格子窓は明治以降に付けられたものである。

街道南側に建つ町屋
座敷の前に取り付けられた出格子。昔風に建築したものか。

これも南側の町屋
出格子と袖卯建(そでうだつ)が見える。

庇の下に取り付けられた幕板

内側から見た幕板
板穴は開閉できるようになっている。

街道北側の町屋
町屋の特徴がほぼ全て揃っている。
また商家には庵看板と呼ばれる瓦屋根の付いた立派な看板が挙げたれているが、
その文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなと、旅人が方向を間違えない様に工夫されている。
また町屋には漆喰細工や瓦細工など細部の意匠に工夫が凝らされたものが多くあるが、
これは職人が子孫繁栄・家運長久などを願って技を競ったものである。

街道から見える場所に飾られた雛人形

地蔵院付近北側の町屋
「ANTIQUE 江戸屋」 とあるが何を商っているのかしらん?

同じ並びに建つ「ナガオ薬局」
右書きの看板も大概だが、株式会社塩野義商店特約というのが時代を感じる。
宿場の中央付近にはかつての高札場跡。
復元された高札が掲げられたこの場所は関宿のほぼ中央、今は郵便局になっており、
町並みに外観を合わせた建物と、黒色の集配ポストが目を惹く。

かつての高札場跡に復元された高札

高札場跡にある関郵便局

郵便局前の黒ポスト
単なる飾りではなく、今も現役で活躍中。
伊藤本陣(松井家)は川北本陣と共に関宿に二軒あった本陣の一つ。
大名・公卿・高僧など身分の高い人が宿泊した。
伊藤本陣は間口十一間、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺。
現在残っている街道に面した部分は、家族の住居と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。

伊藤本陣址

本陣解説
もう一つの川北本陣跡の東に隣接して建つのは、鶴屋脇本陣(波多野家)。
玉屋・会津屋と並んで関を代表する旅籠の一つで、江戸時代後期には脇本陣も務めた。
鶴屋は代々西尾吉兵衛を名乗ったので西尾脇本陣とも呼ばれ、身分の高い人達の宿泊の用を務めたが、
平素は一般庶民も泊まる事が出来たと言う。二階避面に千鳥破風がその格式を示している。

鶴屋脇本陣

脇本陣解説
両本陣の傍に建つのが百六里亭(眺関亭)。
関宿の町並みの中にできた小公園で江戸から百六里あることからの命名である。
通りに面した眺関亭からは関宿の町並みが一望できる。』 とあります。
今までの関訪問は宿場中央から東追分が主。
雛祭の展示も西側は少ないとあって町屋をゆっくり見ることができました。

脇本陣前から東追分方面を見る

白漆喰が【しっくい】くる町屋
左の白漆喰の建物が眺関亭(ちょうかんてい)。

眺関亭2階からの眺め
大きな屋根が地蔵院。

関のマンホールカードと町カード
旧田中家付近で、パンフを見ながら写真を撮っていると
年配の御当主が家の外に出られていたので、説明を聞く事が出来ました。
当主 ; 「昔の家は、必ず玄関が江戸側、座敷が京側に造られてます。」
私 ; 「それはまたどうして?」
当主 ; 「昔の壁は薄かったので、座敷の話が隣にまる聞こえになるのを防ぐためですな。」
当主 ; 「二階の壁に付いている輪っかの用途はわっかりますか?」
私 ; 「1階部分は馬繋ぎの環金具ですけど、キリンでも繋ぐのですか?」
当主 ; 「あそこは祭りや行事の時に幕を掛ける金具ですわ。」
私 ; 「こちらは中庭がありますね。」
当主 ; 「東海道が東西に走っているので、入口が北向きか南向き。日光が入るためです。」
とガイドには載っていない話を伺うことができました。

旧田中家
旧と付くが現在の田中氏が居住されている。中庭と東側玄関が見える。

二階の壁に付けられた金属の輪

旧田中家付近の町屋
中庭と東側玄関は共通点。
[参考書]
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関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
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JR関駅前にて
奥を走るのは国道一号線。
雛祭の翌日、春の18きっぷで鄙へとお出掛け。最寄りは関西本線の弥富駅ですが、
始発列車や運行本数の関係上、東海道本線で名古屋まで行き近鉄名古屋線で弥富へ。
地図上は遠回りですが時間的には30分以上早く到着し、野暮用を済ませたのは10時過ぎ。
そのまま来たルートを帰るのも芸がないので、ひたすら関西本線で大阪を目指す事に。

この日の目的、弥富市マンホールカード
配布場所は弥富市立歴史資料館にて。
関西本線は名古屋から難波までを結ぶ170㎞の路線。
国鉄時代は東海道本線と並んで名古屋~大阪のメインルートで集客のために
豪華列車を走らせる、土産を持たせるといった熾烈な争いがあったのは有名ですが、それも今は昔。
全線複線電化の東海道本線に対し、単線電化の名古屋~亀山区間、
単線非電化の亀山~加茂間を持つ関西本線は大きく水を開けられました。
それでも昔は急行「かすが」が名古屋~奈良間を運行していましたが…。

関駅跨線橋上から名古屋方面を見る

同じく跨線橋上から見た駅舎と鈴鹿山脈
降りたのは非電化区間の関駅。翌5日まで開催されているひなまつりと
昼食を摂るための下車でしたが、降りたのは私を含めて数名。
駅の待合室兼喫茶スペースでは祭に合わせて雛人形が展示中。

駅構内で展示中の親王雛

これは内裏雛
雛人形も色々な【ケース】がある模様。

吊るし雛の奥に走る関西本線
『関は古代からの交通の要衝、古代三関のひとつ「鈴鹿関」が置かれ、
関の名もこの鈴鹿関に由来している。
鈴鹿関が初めて歴史に登場するのは古代最大の内乱である壬申の乱。
大海人皇子が鈴鹿・不破関を固めたという記録が残る。
延暦8年(789年)、桓武天皇に拠って三関は廃止されるが、
その後は天皇の崩御や政変等が起こる度に儀式としての固関が行われた。
鈴鹿関跡の詳細な位置や規模などは分からなかったが、近年の発掘調査で
聖武天皇に拠って整備されたと見られる西限の城壁が確認されている。』 とあります。

町屋をイメージした駅舎

国鉄時代の駅スタンプ
中々立派な出来栄えだが、サイズも一辺102㎜と豪華。

現在の駅スタンプ 「わたしの旅」類似印

駅前に立つ関宿案内図
かつての鈴鹿の関があったことからの命名ですが、今でも旧東海道、国道1号線、
関西本線が北から100m程の距離に並ぶことからも分かります。
関所が置かれるのは山が両側に迫り通過するのが狭い所に限られますから、
当然ではありますが…。

国道1号線から東海道へと向かう道

宿場への案内板

案内板横にある歌碑
国道1号線沿いにあるお目当ての店に行くと昼時でもあり満席。
36番の順番カードを貰いましたが、お店の方の話では約1時間待ち。
その待ち時間で東海道と雛祭という二つの関の【町時間】を過ごすことになりました。

1号線沿いの行列のできる店に名前を書く

1号線を挟んで店の向かいに建つ石の地蔵様

家の間を抜けいよいよ東海道へ
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<コース> JR・阪急共に10分間隔で運転
【JRルート】JR大阪 → JR伊丹 → 徒歩8分 → 旧岡田家住宅
【阪急ルート】梅田 → 塚口 → 阪急伊丹 → 徒歩8分 → 旧岡田家住宅

旧岡田家住宅(国の重要文化財)
如月も末の六日、曙の空朧々として、ちと野暮用のために伊丹を訪問。
行先は旧岡田家住宅で、JRからも阪急からもほぼ等距離と駅近く。
10時の開館と同時に用事は無事終了。普通ならそのまま帰宅するところですが、
この時期 令和5年2月4日(土)~3月4日(土)
の期間で「ひなかざり」が無料で開催中。
これは見逃す手はないと、そのまま邸内を見学する事に。
JR西口から阪急へ向かう伊丹酒蔵通りから一本北にある東西の通り、
近代的なビルや住宅街の中にあってタイムスリップしたかのように
旧岡田家・旧石橋家と江戸時代の町屋が並びます。

通りから見た岡田家全景

重文・旧岡田家住宅

伊丹市マンホールカード 同市内では4種目
この日の野暮用はこの入手。

道路沿いに設置された同じ図柄のマンホール蓋
旧岡田家住宅は、
『上方から江戸へと酒を運ぶ江戸積酒造業を基幹事業として繁栄した伊丹の実業家。
その邸宅は延宝2年(1674年)の建築。現存するものの中では町屋は県内最古、
酒蔵が国内最古で、国の重要文化財となっている。

杉玉と看板の下がった入口から屋内へ
暖簾の三つ鱗は家紋?

店舗に置かれた雛飾り
明治時代の雛飾りは明治40年(1907年)頃のもので、平成7年に市民より
旧伊丹市立博物館に寄贈されたもの。現在は市立伊丹ミューゼアムが所有。
最上段には内裏雛が黒塗りの御殿に鎮座し、前には三人官女が並ぶ。
下段には嫁入り道具や台所道具のミニチュアが並ぶが、これは当時の風習と考えられる。

明治時代の雛飾り

手前に置かれた生活道具のミニチュア

最上段に置かれた内裏雛と三人官女
大正時代の雛飾りは当館の柿衛文庫の所蔵。
最上段に内裏雛・三人官女が並ぶのは明治期と同じだが、
建家は白木の神社拝殿を模した造りと変わっている。加えて下段には、
結婚式に使用する打掛、御付きの女性と思しき立ち姿の人形が置かれている。

大正時代の雛飾り

手前に置かれた立ち姿の人形

最上段の内裏雛と三人官女
旧岡田家住宅は、正面に店舗、奥に酒蔵、その間に釜屋・洗い場が並んでいる。
建設時期は店舗が江戸前期の延宝2年、酒造は少し遅れて正徳5年(1715年)頃と考えられている。
釜場・洗い場は江戸後期に建てられ、その後大きく改造されて今に至っている。
建立から酒造廃業までの310年間に五次に亘る変遷があり、酒蔵の増築や窯場の増改築等、
様々な改革が行われた。これは醸造技術の改良や酒造規模の拡大が原因と考えられ、
詳細は阪神淡路大震災後の解体修理に伴う建物調査と内部の発掘調査に拠り明らかになってきている。

これは酒米の洗い場

洗い場横の井戸
ここからの水で酒造りをするとか。

洗い場・井戸の解説

かつての竃
学芸員の方の話では、酒米は炊くと柔らかくなりすぎるので蒸すくらいが丁度良いにだそう。

釜場・竃の解説
建立者は江戸前期の酒造家・松屋与兵衛であった事が古文書等から推定される。
蔵の所有は享保14年(1729年)に鹿島屋清右衛門に渡り、明治に入り安藤由松を経て
岡田正造へと渡り、昭和59年(1984年)まで㈱大手柄酒造の北蔵として酒造りが行われて来た。
ここで醸造されていた酒は、江戸時代には松緑(まつみどり)、岡田家の所有となって以後は、
富貴長(ふきちょう)・大手柄(おおてがら)が主要銘柄であった。
この良質な酒造りの伝統と文化は2020年に『「伊丹諸白」と「灘の生一本」下り酒が生んだ銘醸地、
伊丹と灘五郷』として「日本遺産」に認定されている。』 とあります。

醪(もろみ)の絞り機

天上の造り
昭和の雛人形は自宅も含め何度も目にしていますが、明治・大正期はこのような展示で見るくらい。
雛壇を飾る経済的余裕がなかった家庭が多かったためでしょうが、
その分職人の技術を集めた秀作が多い様にも見えました。
伊丹の酒造は、戦国武将山中鹿介幸盛の子である新六幸元が大叔父を頼って伊丹の鴻池に逃れ、
この地で清酒醸造を始めた1600年頃まで遡ります。清酒は江戸に運ばれ莫大な利益を得ました。
当時江戸の醸造業はまだ開発途上で、伊丹の酒は上方からの下りものとして絶大な人気を誇ったようです。
反対に下って来ないものは人気がなかった訳でこれが後世 「下らない」 の語を生みます。

かつて醸造された銘柄を展示
勿論中身は空だろうが…。
新六幸元の八男善右衛門は大坂に出て酒造りで得た資金を元に両替商に進出、
江戸時代には鴻池家として西日本屈指の大商人に成長します。
鴻池の発展の基礎が酒造りなのは聞いた記憶がありますが、
祖先が尼子十勇士の山中鹿介と言う真偽は如何に?単に伝説と思っていましたが、
学芸員の方の話では信憑性は高いそうです。
中国地方の覇権は毛利氏に奪われましたが、その家臣が西日本の経済圏を牛耳った事で、
尼子氏も以て瞑すべしでしょうか?

伊丹清酒造りの沿革

鴻池家の始祖二人
清酒の製法は戦国末の大和の正暦寺が発祥ですが、その技術者を京の伏見・摂津の伊丹が
引き抜いて江戸時代に発展を遂げます。酒造りに欠かせない水に恵まれた事もありますが、
できた酒を販売する交通網を持った事が大きかったように思います。
その伊丹の発展も後には灘に移る事に。猪名川水系よりも兵庫の港の方が酒の大量輸送に
向いていたからでしょうが、それに伴い当時の杜氏も多くが移った事でしょう。
正暦寺と同じ運命ですが【伊丹】分けと言った所でしょう。

ミューゼアム2階からの眺望
左手奥が岡田家、手前が石橋家。
醸造家には文化芸術に造詣が深い人も多いですが、岡田家22代当主・岡田利兵衛は
その代表格。岡田利兵衛は
『国文学者として梅花・聖心で教鞭を採る傍ら、松尾芭蕉研究でも知られ、多くの俳諧資料を蒐集。
岡田家の庭には台柿という見事な柿の樹があったが、その柿を衛るという意味を込めて
柿衛(かきもり)を号とした。
そのコレクションは「柿衛文庫」として隣接する市立伊丹ミューゼアムが所蔵している。
後に伊丹市長、名誉市民にもなった。』 とあります。

ミューゼアム横の庭園
資料館の売店で、岡田利兵衛に関する冊子を¥500で購入。
そこには家族写真もありましたが、中には三男の節人(ときんど)氏の学生時代の写真も。
節人氏は発生生物学の泰斗、京大・岡崎基礎生物学研究所を経て文化勲章受章。
私も氏の岩波新書・ブルーバックスの著作や講義でその謦咳に接しました。
生物学者でしたが源氏物語や俳句など文学に関する発言も多かったのは、
この生い立ちを思うと納得です。
尚、節人氏も晩年伊丹名誉市民になったそうで、親子二代に亘る快挙になります。

購入した岡田利兵衛(柿衛)伝の冊子 ¥500

伊丹桜ケ丘郵便局 ; 重文・旧岡田家住宅、旧西国街道道標
伊丹船原郵便局 ; 重文・旧岡田家住宅、酒造り風景
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR天王寺(6:18) → JR加茂(7:26→7:33) → JR月ケ瀬口(7:57) → 月ヶ瀬駅前(8:45) → (臨時バス) → 尾山口(9:00)
徒歩5分 → 梅林入口 → 真福寺 → 一目八景 → 帆浦梅林 → 梅林公園 → 天神神社・天神梅林 → 代官坂 → 月ヶ瀬橋 → 一目万本 → 奥の谷梅林 → 龍王梅林 → 八幡橋 → 紅葉の小道 → 梅の資料館(月ヶ瀬橋畔) → 尾山口
【復路】尾山口(13:40) → (臨時バス) → JR月ヶ瀬駅(13:55→14:12) → (関西本線) → JR大河原(14:18) → 徒歩8分 → 恋志谷神社 → JR大河原(15:19) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

戀志谷神社(南山城村天満宮末社)
観梅帰りの列車では一駅先の大河原で下車。京都府下で唯一の村で、
駅周辺にはコンビニも見当たりません。
そんな場所で降りたのは以前に駅で押印したスタンプの図柄が気になったから。
その名も「恋志谷(こいしだに)神社」と言い無人の小さな社ですが、恋愛成就に御利益があり、
毎年4月2日と9月2日の大祭には御守りを求める長蛇の列ができるそう。

簡素なJR大河原駅舎
一応有人駅という事だが、この時間帯は閉鎖中。

以前に押印した大河原駅スタンプ
2006年JR西日本支社印の類似印。

駅前にある案内標識
向こうに橋が見える。
駅を降りると直ぐ目の前に木津川が流れ、目的の神社は向こう岸の集落に。
そこで100m程下流に架かる橋を渡ることになりますが、橋の名前は通称恋路橋。
正式には大河原沈下橋と言って洪水でも流出を防ぐ先人の知恵ですが、
沈下橋は四万十川ばかりと思っていました。
川面からの距離が短いから良かったものの、欄干がない橋はかなり慎重に渡る破目に。
私の後に自動車が平然と渡って行きましたが、習慣とは恐ろしいものです。
この木津川を下って行くと八幡市には流橋があり、木津川は差し詰め橋の博物館。

下流より見た恋路橋

欄干のない橋を往く
直ぐ後に、自動車も通って行った。
橋を渡って坂を上ると集落があり、その突き当りが目指す神社。
入口には石鳥居が建ち、右に天満宮社、左に少し小さい戀志谷神社の社号標が建ちます。
この社号標の大小はそのまま境内奥の社殿の大きさにも反映する事に。

入口に建つ石鳥居と両社号標

柳生宗冬が寄進した石鳥居

石鳥居の由緒記
戀志谷神社(こいしだにじんじゃ)は、
『鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、倒幕の計画を知られた後醍醐天皇は
京都を脱出し笠置山に籠って挙兵。
それを天皇に想いを寄せていた妃が聞きつけ、伊勢で病気療養中にも拘らず駆け付けたが、
既に遅く、天皇は幕府から逃れるため、笠置を去った後であった。

椿の花の活けられた手水舎

手水舎脇の狭い石段を上り社殿へ

石段を上った先から境内を眺める
勿論、右の大きい方が天満宮社。
妃は悲しみと長旅の疲れから病が再発。
「恋に焦がれ病に苦しむような事は、自分一人で十分。私は人々の守り神になりたい。」
と言い残して自ら命を絶った。
これを哀れに思った人々が祠を建て祀ったのが当社の始まりである。
妃は最期まで「天皇が恋しい、恋しい」と言い続けていた事から、
いつしか「恋志谷さん」と呼ばれるようになった。

左側に建つ戀志谷神社
駅スタンプはこの構図。

戀志谷神社口碑
但し、摩滅して判読し難い。

戀志谷神社口碑伝説
これがあると分かり易い。

石段の先に建つ戀志谷神社本殿

戀志谷神社本殿近影

右に建つ天満宮社にも参拝

天満宮社の下に並ぶ石灯篭群

石灯篭解説

解説にある天文14年造立の灯篭はこれ?
元は古森と呼ばれた地に祀られていたが、江戸末期の元治元年(1864年)、
この地にあった天満宮社に合祀された。
天満宮は、江戸時代初期に柳生藩第三代藩主柳生宗冬が勧請したと伝えられ、
入口の石鳥居は正保4年(1647年)に建立寄進されたもの。
ここは父宗矩や二人の兄(十兵衛・友矩)も好んだ一族所縁の地で、
藩主としてここを重要視したのが覗える。』 とあります。

天満宮本殿

両本殿の間に建つ伊勢神宮遥拝所

天満宮の右手には、橿原神宮遥拝所と大川神社

更に右手には山の神
奥さんが参拝するのかも。

並び立つ二つの本殿
なにやら月ヶ瀬で聞いたのと似た話ですが、妃は全くの別人。
いずれも後醍醐天皇がらみですが、立川流の熱心な信者で
側室だけで20人を超えた帝としては、そのような事もあったのでしょう。
歴史の教科書とはまた違った評価になります。
神社へは木津川に架かる大水時には沈む沈下橋を渡りますが、橋の別名は恋路橋。
ここを歩いて渡ると恋愛成就する言い伝えですが、沈下橋ならば恋に溺れる危険がありそう。
唯、失恋しても【木津】が癒してくれるでしょうが…。

本殿から見た御神木

本殿の裏山では木々が養生中
印象では榊に見えるが…。

境内にある舞殿
その奥にあるのは参集所か?

レトロな舞殿の屋根裏

境内左手の社務所
春と秋の大祭でも使用するのかしらん。

神社説明書
御朱印はないが、これは持ち帰り用に設置してある。
[参考書]
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