<コース>
【往路】阿部野橋(7:44) → (近鉄準急) → 富田林(8:14) → 富田林駅前(8:35) → (金剛バス) → 千早赤阪役場前(8:52)
千早赤坂村役場 → 徒歩10分 → 下赤坂城跡 → 徒歩20分 → 楠公誕生地・道の駅ちはやあかさか・村立郷土資料館 → 徒歩10分 → 建水分神社 → 徒歩5分 → 奉建塔 → 徒歩12分 → 千早赤坂村役場
【復路】千早赤阪役場前(11:47) → (金剛バス) → 富田林駅前(12:02) → 富田林(12:17) → (近鉄準急) → 阿部野橋(12:47)

楠公誕生地
下赤坂城跡に登った後は、役場まで戻って神社に参拝すべく東へ。
千早川に架かるのはその名も「出合橋」、対向車注意の看板がありましたが、
まさか出合がしらの意味ではないでしょう。
その途中、曲がりくねった道の先、少し曲がりくねった場所にあるのが楠公誕生地。

千早川に架かる出合橋上から

705号線にある案内板
遺跡は
『楠木正成が誕生したという伝承の残る地。現在の石碑は明治8年(1875年)2月8日に
大阪会議で来阪していた大久保利通が、楠公に関連する史跡を巡った際に、
同行していた堺県令・税所篤へ整備を命じて建てたものである。

駐車場前に建つ石碑
笹川良一謹書とある。禁書ではない!

自販機も楠公仕様
それ以前の文禄年間には豊臣秀吉が増田長盛に整備を命じて土壇を築き、
建武以後の楠木邸に育った百日紅を移植した話や、元禄年間に領主石川総茂が
保護を加えたという記録が残る。
くすのきホール建設に伴い、発掘調査を行った際には、二重の堀を周囲に巡らせる建物跡を検出。
出土遺物も楠木氏と推定することが可能である。加えて楠公産湯の井戸の伝承地の伝説も残る。』
とあります。

楠公誕生地遺跡全景
周囲の巨木は勿論、楠。

遺蹟説明駒札

奥に建つ生誕碑
楠公産湯の井戸もすぐ近くですが、修理が必要だそうで見学はできず。
楠公誕生の地というのも確たる証拠がある訳ではなく、あくまで伝承の地。
戦前の教科書では「他の人物は忘れても楠木正成の名前は忘れるな!」とまで言われた忠臣。
生誕地不明ではまずかったのでしょう。

石碑近影

竹田宮恒徳王御手植の楠
誕生地の脇には道の駅「ちはやあかさか」と郷土資料館が。
道の駅は「日本で一番かわいい」が売りで、これは府下唯一の村にあるからでしょう。
郷土資料館では御朱印ならぬ御誕生印を拝受。御朱印ブームに肖って御城印・鉄印ができましたが、
誕生印はそれに続くもの。いずれ御臨終印も出て来そうです。

こぢんまりとした道の駅へ

道の駅スタンプ

生誕地に隣接する郷土資料館

資料館入口の顔ハメ

書置きの御誕生印を拝受
少し進むと高台に塔が見えますが、これが楠公600年忌記念塔の奉建塔。
湊川合戦の600年後の昭和15年に全国の児童・生徒・教職員からの寄付を基に建設されたそう。
高さは43歳で戦死した楠公に因み43尺となっているとか。
戦時中の困難な状況下でもこれだけ寄付金が集まったのは、楠公の人気故とも言えますが、
国民の士気を高めるために軍部が仕向けた可能性が大。【封建】時代の亡霊でしょうか?

奉建塔への階段を上る

階段脇に咲く水仙

43尺の奉建塔
刻まれている文字は 「非理法権天」。

塔の解説

塔の傍の展望台からの眺望
白いPLの塔も左に見える。
[参考書]
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千早赤坂村役場 → 徒歩10分 → 下赤坂城跡 → 徒歩20分 → 楠公誕生地・道の駅ちはやあかさか・村立郷土資料館 → 徒歩10分 → 建水分神社 → 徒歩5分 → 奉建塔 → 徒歩12分 → 千早赤坂村役場
【復路】千早赤阪役場前(11:47) → (金剛バス) → 富田林駅前(12:02) → 富田林(12:17) → (近鉄準急) → 阿部野橋(12:47)

下赤坂城跡
小春日和となったこの日は、野暮用のために千早赤阪村へ。
小学四年の社会 「わたしたちの大阪府」では東能勢・千早赤坂と府下には二村がありましたが、
昭和・平成の大合併と50年を経て今に残る村は千早赤阪村のみ。
平成の大合併を潜り抜けた姿勢には物凄い矜持を感じます。
唯一の村なので「どんだけー!」不便な山奥かと思いましたが、近鉄富田林駅から金剛バスで17分。
しかも30分毎の運行でバスは結構な混雑。乗客の服装を見ると、殆んどが終点の千早口から
金剛山への登山組。【とんだ】勘違いで、【こんごう】は注意が必要です。

近鉄富田林駅前に建つ道標
バスは役場前で停車するので用事を済ませたのは9時過ぎ。このまま帰るのは余りにも無駄なので周辺散策。
千早赤阪村と言えば楠木正成所縁の場所なので、千早赤阪城跡へと思いましたが、
両者は全く別個の城で、千早城跡は金剛山登山口と遥か先。赤坂城跡も上赤坂城跡と下赤坂城跡に
分かれていて、近くにあるのは下赤坂城跡。全く己の【あかさか】さに反省です。

バス停の向かいにある村役場

入口にある村章は楠をデザイン?

千早赤阪村マンホールカード
この日の第一の用事完了。
役場の前の705号線を南下。千早赤坂中学校前を右に進むと城跡へ着く筈でしたが、まさかの通行止め。
道を引き返し、道沿いの棚田の畦道を通り抜けて漸く到着。やはり楠公の城への道程は【難航】でした。

役場内に展示中のカラーマンホール蓋

中学校へ向かうこの道は行き止まり

705号線脇の農地の畦道を登り城址へ
下赤坂城跡は、
『標高185.7m、比高61.4m、金剛山地の南方から北方に突き出した丘陵地帯の先端部分を利用した中世の平山城。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将楠木正成に拠って築城された。
元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山に逃れたのと同時期の9月に正成はこの地で挙兵。
しかし北条軍は10月17日から21日にかけて激しく攻撃、俄か造りの城であったことともあって落城、
風雨に紛れて正成らは金剛山へ逃れた。

学校の裏手にある下赤坂城址

城跡説明板
翌年4月、正成は赤坂城を逆襲して奪還、湯浅定仏らを降して部下に組み入れ、
再三攻防戦が繰り広げられた。その間に鎌倉幕府は滅亡する。
その後、南北朝合一まで楠木方はこの城をゲリラ戦の基地としたと伝わる。
現在、千早赤坂中学校の所在地一帯が下赤坂城跡で、
丘陵上に本丸・二の丸・三の丸跡が小字として残っている。
城としての遺構は明確にはなっていないが、中学校内に本丸跡が、
村役場上付近が主郭であったと言われている。』 とあります。

城跡の高みへ

高みからの眺望
右が中学校、左手遥か奥に見えるのがPLの塔
難攻不落の山城を想像していましたが周囲は「下赤坂の棚田」と呼ばれる水田で、
小高い丘の上の見晴らしの良い場所。富田林市内のPLの塔が遠望できました。
戦略家の正成にしては何故こんな場所に?と思いましたが、籠城よりも敵を翻弄するのが主眼で、
直ぐ城を捨てて逃れるため堀や塀がなかったのもそのためでしょう。
合戦なら勝たなければ負けですが、ゲリラ戦ならば負けさえしなければ勝ち。
従来とは全く異なる戦術を取入れたのが楠木正成の日本史上の第一の功績と言えますが、
この戦術が後世日本史上の戦に影響を与える事はありませんでした。
新規を取入れるのに抵抗があったのか、戦争の美学が足枷になったのか、
その辺りは今後の研究課題でしょう。

城跡から眺めた下赤阪の棚田

棚田解説
地元の四條畷は小楠公(楠木正行)が戦死した場所なので繋がりが深く、
戦前は富田林中学と四條畷中学は姉妹校だったとか。
今は昔の話ですがMHCはどちらも楠がデザインされています。
こうして下赤坂城跡を後にしましたが、ふと思ったのはもし楠公の時代にマンホールがあったなら、
城壁の上から糞尿を落としたという戦術もなかったわけで、難攻不落の千早赤坂城の伝説も幻に。
なにか【ウン】めいたものを感じます。
楠木正成も戦術家としてよりも天皇の忠臣として後世に名を残しています。
あの世でこの事を知ったら【フンガイ】するかもしれませんが。
・千早古~っ 神慮も聞かず 湊川 兵くれないに 腹くくるとは

千早郵便局 ; 金剛山麓の千早城址、楠木正成の兜、ロープウェイ
[参考書]
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<コース> 準特急は日中10分間隔で運行
阪急梅田 → (準特急) → 長岡天神 → 徒歩8分 → 長岡天満宮 → 徒歩15分 → 乙訓寺

大慈山 乙訓寺(真言宗豊山派 洛西観音霊場第六番札所)
古刹である乙訓寺には本堂を初め諸堂が境内に建ちますが、普段から入堂禁止の本堂に加え、
毘沙門堂・地蔵堂も拝観入堂停止中。
「僧侶の居る寺で【にゅうどう】禁止とはどういう事やねん!」 と思っても所詮ごまめの歯ぎしり。
また開門は8時~17時ですが、御朱印等は10時~15時。10時過ぎまで止まりましたが、
一向に納経所が開く気配もなくパンフも貰う事叶わず。一体どうなっているのでしょう?
仕方なく、案内板を見ながら外陣から参拝する事に。
『寺宝には平安時代の重文・木造毘沙門天立像や鎌倉時代の木造十一面観音像等がある他、
境内には諸堂が建つ。
本堂脇の鐘楼は方一間・入母屋造。江戸時代中期で牧野成貞の寄進に拠る建立とされるが、
記録を欠くため建築年は不詳。
梵鐘は戦時中に供出され昭和42年の再鋳。以前の鐘銘を再刻して居り、元禄9年(1696年)10月精海らが
三条釜座の信州大掾藤原国次に造らせたと判明している。

本堂脇の鐘楼

参道を挟んで両側に建つ地蔵石塔と地蔵堂
山門から参道を真っすぐ進むと左手に建つのが地蔵堂。内陣には石仏である日限地蔵尊を祀り、
道を挟んだ向かいには石地蔵の塔がある。
本堂前の鎮守八幡社も同じく元禄8年の築。一間社流造で享保8年(1723年)の修理で檜皮葺から杮葺に、
明治以降は桟瓦葺に変えている。平成元年の修理に際し、軒の一部を杮葺にしその上に銅板を葺く仕様に変更した。

地蔵石塔近影

個性豊かな石地蔵
牡丹で知られえる当寺であるが、巨木も多く、山門を過ぎた右手には楠、参道の先の十三重石塔の
左には菩提樹がある他、境内東の庫裏手前にはクロガネモチが聳える。
推定樹齢400~500年で、京都府屈指の名木として天然記念物となっている。』 とあります。

地蔵堂正面

地蔵堂内陣の御本尊

奉納された大草鞋
そんな中で、参道正面の十三重石塔の左にひっそりと建つのが早良(さわら)親王供養塔。
早良親王は
『光仁天皇の皇子で桓武天皇の同母弟。父帝の意向もあって桓武天皇の皇太弟に立てられた。
長岡に都があった延暦4年(785年)、長岡京造営長官であった藤原種継暗殺事件に連座して、
皇太弟早良親王が淡路島へ流刑される前にこの寺に幽閉。親王は断食して無罪を主張し、
配流の途中、現在の守口市高瀬町といわれる高瀬橋付近で没した。

鎮守社の鳥居

鎮守八幡社

八幡社本殿
しかしその後、桓武天皇の母・高野新笠、藤原乙牟漏皇后や妃が相次いで死亡、
安殿(あて)親王(後の平城天皇)も精神に異常を来すなど皇室には不幸が続き、
また疫病・飢饉・洪水も頻発。親王の怨霊を恐れた桓武天皇は長岡京を10年で放棄し平安京に遷都した。
延暦19年(800年)には早良親王にも崇道(すどう)天皇の号が追贈された。
嵯峨天皇の弘仁2年(811年)には入唐より帰朝した空海が別当となり、京都の高雄山寺(神護寺)から移って
この寺に1年程住持した。最澄が空海を訪問し、密教関係の典籍や絵図を見せて貰ったのはこの間の事である。
一説には空海の入山は早良親王の怨霊を鎮める朝廷の意向であったとも言われる。』 とあります。

十三重石塔脇にひっそりと建つ早良親王供養塔

供養塔の奥にあるのは毘沙門堂か?

境内の末社
疫病・飢饉・洪水も頻発。親王の怨霊を恐れた桓武天皇は長岡京を10年で放棄し平安京に遷都。
延暦19年(800年)には早良親王にも崇道(すどう)天皇の号が追贈されたと言いますから
【早良の神に祟りあり】だった訳です。
現代の物差しで見るのは問題ですが、心に疚しさがなければ怨霊を恐れる必要は無い訳で、
桓武天皇には弟を無実の罪で廃太子にした負い目があったのでしょう。
それにしても早良親王が守口で亡くなったとは初耳。車やバイクの【音量】の話は聞きますが、
親王の怨霊の話は地元でも【ついぞ】聞いたことがありません。
崇道天皇となった事で、怨霊も【すどお】りしたのでしょう。

庫裏前の庭

庫裏の手前に聳えるクロガネモチ

クロガネモチの枝越しに見える庫裏と書院
そういえば、寺の建つ乙訓郡(おとくにぐん)は大宝律令施行(701年)の際に、
葛野郡(かどのぐん)から分立したので、前者を兄国、後者を弟国と呼んだのが由来とか。
後世に乙訓郡と変わりますが、そのままにしておいても良いものを敢て改名したのは、
弟の怨霊を恐れた桓武天皇に対して、官僚が【かどの】忖度をしたためでしょう。
それまで【おかんむ】りだった帝が【かんむ】りょうと感激したかは疑問ですが…。

菩提樹

庫裏前の藤棚

土産は駅への途中にある喜久春にて「たけのこ最中」を
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大慈山 乙訓寺(真言宗豊山派 洛西観音霊場第六番札所)
9時前に参拝した長岡天満宮のキリシマツツジは先週がピークで早くも萎み始めでしたが、
こんなことは【きりしま】せんと次なる寺院へ。
天満宮八条ヵ池前の道路を北上。途中から細い道に入りますが、
ほぼ真北で案内板もあるので迷い道には成らず。
今里という住宅地の中にありますが、西門に至ると年中閉鎖の貼り紙が。
「そんなの平気の平左(へいさ)!」と気を取り直して南門に向かうと巨大楠の手前に色も鮮やかな赤門が。
思わず天満宮の続きかと勘違いしそうです。

朱色も鮮やかな山門(表門)は江戸時代の建立
乙訓寺は聖徳太子が創建の古刹で、空海も1年間ここに住んでいます。
山門前の石碑にもその旨が刻んでありました。境内の牡丹が有名で訪れましたが、
山門前で掃除されていた地元の方が、「先週が見頃でした。」 と残念な答え。
この日もネットで開花状況を確認した積りがどこかで【ボタン】の掛け違えがあったのでしょう。
唯、拝観料を訊ねると「ピーク時のみなので、今は無料です。」と嬉しい答え。
境内を見ると未だ咲き残っていたので、拝観料(¥500)なしと言う【お得に】見る事ができラッキーでした。

奥の山門から続く参道は、左手に楓、右手に牡丹がお出迎え

参道脇の白牡丹

薄紅色の牡丹

こちらは一般的なピンク色の牡丹
大慈山乙訓寺(だいじさんおとくにでら)は、
『推古天皇の勅願で聖徳太子が創建したという古刹。
長岡に都があった延暦4年(785年)、長岡京造営長官であった藤原種継暗殺事件に連座して、
皇太弟早良(さわら)親王が淡路島へ流刑される前にこの寺に幽閉。
親王は断食して無罪を主張し、配流の途中、現在の守口市高瀬町といわれる高瀬橋付近で没した。
しかし、その後、桓武天皇の近臣に不幸が続くなど、親王の怨霊が皇族や貴族を悩ましたので
長岡京は10年で放棄され平安京に遷都。早良親王にも崇道(すどう)天皇の号が追贈された。

深紅の牡丹

各色揃い咲き

参道の突き当りは十三重石塔が建つ
嵯峨天皇の弘仁2年(811年)には入唐より帰朝した空海が別当となり、
京都の高雄山寺(神護寺)から移ってこの寺に1年程住持した。
最澄が空海を訪問し、密教関係の典籍や絵図を見せて貰ったのはこの間の事である。
一説には空海の入山は早良親王の怨霊を鎭める朝廷の意向であったとも言われる。
境内を中心とする一帯からは白鳳期~平安時代の瓦が出土、講堂や僧坊と推定される建物跡、
それら瓦を焼いた瓦窯跡などが確認され、かつての寺域は東西三町(360m)・南北二町(120m)以上
あった大寺院であった。宇多法皇が行宮を置いた事から、法皇寺とも称されている。

左折すると修行大師像が建ち、奥に本堂が見える

牡丹の奥に見える本堂

正面より見た本堂

本堂近影

一重宝形造りの本堂
室町時代には内紛に拠って足利義満が当寺を南禅寺の白英徳俊(はくえいとくしゅん)に与え
禅宗寺院として再出発している。
江戸時代の元禄年間になり護持院隆光が5代将軍綱吉の母・桂昌院から寺領100石の援助を受け再興を計画。
当時は南禅寺塔頭の金地院の兼帯地であったため、東山豊国神社にあった文殊院屋敷を拝領して交換するという
手段を取っている。元禄7年(1694年)12月に工事に着手、翌年5月に竣工、6月に落慶した。

平成4年に寄進された不動明王

本堂向拝下にて

本堂前面の扉と蔀戸
但し、内陣へは入れず参拝は外陣からのみ。

本堂前面から見た内陣の様子
御本尊は秘仏で厨子内、前には鏡が置かれてある。
本堂は宮殿(くうでん)附きで正面三間・側面五間の一重宝形造で瓦葺。
当初は大師堂と呼ばれ、宮殿には本尊の合体大師像が祀られている。
これは八幡神と弘法大師を合体させたもので秘仏である。
宝永2年(1705年)には大和長谷寺の芳運房元貞(ほううんぼうがんてい)が入山して第一世となり、
翌年には護摩堂が建立された。
再興されて暫くの間は侘しい佇まいの寺であったが、その後、本山の長谷寺より二千株に及ぶ牡丹が移植され、
現在では「ぼたん寺」としても名高い洛西屈指の古刹である。』 とあります。

かつては大師堂と呼ばれた本堂

側面より見た本堂

乙訓寺御朱印 (平成6年拝受)
この日の寺務所は何故か閉鎖中。

本堂の屋根
聖徳太子はさておき、早良親王・空海・最澄と歴史教科書に登場する人物がここに足跡を残したのはほぼ確実。
室町期に南禅寺の傘下になったのは思わず【なんぜん?】と言う所ですが、
寺社まで支配下に置こうとした義満なりの考えがあった筈です。
それ程の古刹ながら京都での知名度はいま一つ。やはり平安京から外れた事が大きいのでしょうが、
今は歴史よりも牡丹で知られています。
当寺の牡丹は本山の長谷寺の影響。芍薬は字に薬の文字が使われていますが、
似た牡丹も古来より根が薬用に使われたようで、僧侶は今の薬剤師の役目も果たしたとか。
寺に牡丹が植えられているのはその影響と考えるのが自然です。
牡丹は中国では好まれた花で、特に唐代が有名。かの楊貴妃も牡丹に譬えられたとか。
そう言えば、日本でも美人を「立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花」に譬えています。
尤も本家の中国では牡丹を 「遠くから見ると美しいが、近くで見るといまいち」 と言う風に使うので
女性に対して使うときには注意が必要です。こちらも遣唐使で伝わる際に【ボタン】の掛け違えがあったのでしょう。

本堂前の牡丹と躑躅

本堂脇の牡丹園

牡丹園の白牡丹

これは珍しい黄色

深紅の牡丹
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長岡天満宮(旧府社)
この時期だけ開かれる中堤の中央参道を往く。
快晴の今日は、キリシマツツジを求めて洛西へ。通勤途中なので交通費は無料ですが、
しょっちゅう乗っているだけに休日のように思えないのは気のせいでしょうか?
3月に観梅で参拝したばかりの長岡天満宮ですが、翌月には早くも次の観光祭りが開催。
4月下旬から始まる「キリシマツツジまつり」がそれで、鳥居から境内に至る参道と
八条ヶ池の周辺に植えられている木々が深紅の花を咲かせます。
八条ヶ池を南北に分ける中堤には参道が三本あり中央は普段は閉鎖中ですが、
この時期のみ開放。これだけでも一見の価値ありです。

旧太鼓橋から南八条ヶ池を見る

キリシマツツジ近影
多くは満開を過ぎていたが、一部はこのような状態。

キリシマツツジと池の奥に見える錦水亭

南側の池の縁を彩るキリシマツツジ
『池はほぼ中央の中堤を境に南北に分けられ、その両側の参道には市の花であるキリシマツツジが植えられている。
九州南部の霧島で知られるが、当社のものはほぼ野生種。高さも2mを越え樹齢100~150年と考えられている。
毎年4月下旬頃から鮮紅色の花を多数咲かせ、満開時には八条ヶ池に映える姿は壮観である。』
とあります。

北側の池の堤防から中堤を望む

堤防上から水上橋と六角舎の眺望

この時期限定の御朱印
但し、社務所は10時からもあって今回は拝受できず。
花自体は小さいですが、最盛期には葉が隠れて一面に赤い絵の具を撒き散らした様。
観光案内にも載っているのもこの写真です。キリシマツツジは丁度池を縁取る形。
神社では鳥居や太鼓橋が朱色である事は多いので、それを意識しての事でしょうか?
尤も寺社がどのような花を植えるかは自由ですが…。
と4月下旬に入って最初の週末に参拝しましたが、既に萎れ初めた段階。
先週くらいが最盛期だったようですが、まつり開始時に終盤とは、まさに後の祭り。
地球温暖化にはとどまるところを知らないようですが、こんなことは
【きりしま】せんと次なる寺院へ行くことにしました。

境内は躑躅も花盛り

ピンクの躑躅

白躑躅

天神さまの直ぐ北側に停車中のファイアーエンジン
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR福知山(8:19→8:54) → JR八鹿(9:47)
八鹿駅前(10:40) → (全但バス) → 高柳(10:55) → 徒歩5分 → 高照寺 → 徒歩8分 → 道の駅但馬蔵 → 但馬農高(12:59) → (全但バス) → 八鹿駅前(13:13) → JR八鹿(12:38) → JR和田山(13:50→13:56) → JR竹田(14:03) → 徒歩30分 → 竹田城址 → 表米神社 → 徒歩5分 → 法樹寺 → 徒歩8分 → 竹田駅
【復路】JR竹田(15:57) → JR寺前(16:42→16:46) → JR姫路(17:34→17:41) → (新快速) → JR大阪(18:43)

見星山 法樹寺(浄土宗知恩院派)
神社参拝の後、列車までまだ少し時間があったので、寺町を北上。
その北端に建つのが最後の竹田城主の供養塔のある法樹寺。
案内板が掛けられており、寺は竹田駅の真横になるので駅舎と列車を視界に見ることができます。

表米神社前から寺町通りを北上

通りに面した寺院
前を流れる水路と石橋が共通点。
見星山法樹寺(けんしょうざんほうじゅじ)は、
『天正6年(1578年)、円山川沿いの河原町(現在の東町)に創建された。
竹田城廃城後の慶長11年(1606年)、最後の城主であった赤松広秀の陣屋敷跡であったこの場所に
生野代官所の許可を受け移転。
元々あった薬師堂は竹田城の楼閣を用いて建立されたとされていたが、平成16年の台風被害で崩壊。
薬師如来像のみ本殿に安置され、同じく赤松広秀夫婦の御膳、位牌が残されている。
現在の本堂は六世住職の寛文7年(1667年)~貞享5年(1688年)に再建され、
門前の石橋は享保8年(1723年)に架橋されたと言われる。
境内裏手の高台には最後の城主となった赤松広秀公の供養塔があり、
途中の参道脇には竹田城登山道に建立されていた三十三観音も移設されている。
また竹田城を借景とした庭園も見事である。

山門前の案内板
向こうにはJR竹田駅と停車中の気動車。

門前に到着

山門の正面に建つ本堂
赤松広秀公は永禄5年(1562年)、播磨龍野城主赤松政秀の子として生まれ16歳で龍野城主になる。
天正5年(1577年)秀吉の軍門に降るが、後に秀吉の家臣となり四国征伐の功を認められ竹田城主に。
城主としては九州島津征伐、小田原北条攻めに参戦した他、文禄の役には但馬衆と共に渡海している。

山門下から見る播但線

境内から見た山門
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では西軍に属したため家康の怒りに触れ、
同年10月28日、鳥取の真教寺で自刃。享年38歳であった。
彼の死を以て、赤松則村(円心)に始まる南北朝以来の赤松家も大名としては滅亡、
同時に竹田城も廃城となった。』 とあります。

山門の向かいにある六地蔵

寺の周囲を巡る石垣と白壁
寺町付近は元武家屋敷だった場所。ここに寺を集めたのは他藩の例でも分かるように防衛上の理由だったと思います。
由緒が古い割に新しく見えるのは、移転してきた事と平成の台風被害の影響でしょうか。
法樹寺があるのは登山口の横。かつての陣屋跡ですが、竹田城に登城することを思えば
一番近い場所にあるのは当然。というよりも戦闘場所である城郭と住居である陣屋が完全に分離しています。
中世では両者は一致していた筈ですから、何時頃からそうなったのか興味あるところです。

本堂正面
平成の台風被害後の再建。

本堂向拝欄間の龍彫刻と「法樹寺」扁額
最後の城主赤松広秀は地元では名君と呼ばれているようで、地元贔屓を割引いてもそれなりの人物だったのでしょう。
司馬遼太郎が「街道をゆく 播磨の道」で述べているように、赤松氏は播磨作用の土豪からのし上がった一族。
戦国大名はどこも似たり寄ったりですが、非常に土の香りのするような素朴な面を感じます。

本堂前の鐘楼

三十三ヵ所石仏を抜け本堂裏手へ
一族の祖である則村(円心)は鎌倉幕府倒幕で功績を挙げますが、後醍醐天皇には気に入られず
さしたる昇進もなし。そのため自分を引き立ててくれた足利尊氏の側に着きます。
以後、尊氏が劣勢になっても裏切ったり寝返ったりすることはなかった気がします。
嘉吉の乱では当主赤松満祐は将軍義教を殺害して窮地に立たされますが、
義教が恐怖政治を布いて各地の大名を取り潰そうとしたためで、満祐側にも同情の余地があります。

境内の最も高い場所にある赤松広秀公墓所

赤松広秀公の解説
城主の子として生まれた広秀も秀吉に屈服しますが、取り立てられて以後は秀吉のために功績を挙げています。
こうして見ると、機を見て相手を乗り換える、裏で謀略を廻らすと言った権謀術数は採らない
素朴で正直な人物だったと想像できます。名君とされるのもそのためでしょうが、
結果として戦国大名としての赤松家は滅亡。山名宗全が赤松氏に対抗すべく築城した
竹田城の最後の城主が赤松の最後の大名だったというのも因縁でしょうか。

広秀公の墓所の奥には無縁仏が
木地師の墓石もあると聞いたが分からず。

墓所から本堂裏手の庭園を見下ろす
余談ですが、赤松家の支流有馬家は久留米二十万石の大名として、山名氏は但馬村岡に領地を持つ
旗本でしたが江戸末期には一万石に加増され大名として同じく明治維新を迎えます。
有馬家は伯爵、山名家は子爵になりました。我々が思った以上に、大名家も強かなようです。
平民がそんな事を言ったら叱られそうですが。

庭園の向こうに見える本堂と書院

庭園近影
ここだけでも一見の価値あり。
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【復路】JR竹田(15:57) → JR寺前(16:42→16:46) → JR姫路(17:34→17:41) → (新快速) → JR大阪(18:43)

表米神社(旧村社)
竹田城跡を巡った後は、行きで登った駅裏登山道ではなく、南側の表米神社登山道で下山。
観光案内所ではかなり急勾配との事でしたが、足場は駅裏よりも良かったので左程苦にならず。
ミツバツツジの花が満開なのは登りと同様。漸く下界まで降りると出たのは神社の境内。

下山始めの山道

下るにつれて町並みが視界に

登山道の出口になる神社境内
本来は線路に並行する寺町通りから参拝するのが作法の筈ですが、城から下山したので許して貰えるでしょう。
表米神社(ひょうまいじんじゃ)は、
『一の宮表米神社と称する。祭神の表米宿祢命(ひょうまいすくねのみこと)は、
初めて但馬国造に任ぜられた大多牟坂王(おおたむさかおう)の9代目。
丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐したと伝えられえる。

寺町通りに面して建つ一の鳥居

表米神社と竹田城跡の位置関係

階段の先に建つ二の鳥居

階段の先にある神門
左は舞台。

神門から上って来た参道を振り返る
表米宿祢命は赤淵神社(和田山町枚田)・俵米神社(和田山町久世田)の祭神であり、
宝永年間(1707~1711年)に久世田の俵米神社をこの地に勧請、
以来上竹田一円の産土神として崇められている。
本殿は三間社流造で千鳥破風を有しており、本殿の欄間と神門大扉の彫刻は
当時の京都の名工周斎(しゅうさい)に拠る作品。また干支を周囲に巡らせており、
その精巧さには目を見張るものがある。

境内から見た神門
その奥にもう一つの門が。

もう一つの門近影

神門の奥に見える社殿

神門に掲げられた扁額

神門扉の鳳凰の彫刻
表米宿祢命は格技を好んだとされ、境内には全国的にも珍しい半円形石積段型桟敷がある。
相撲座敷とも呼ばれ、土俵を囲み半円状に六段の石が積まれている。
山口県長門市の赤崎神社にも同様の桟敷があるが、全国的にも非常に珍しいものである。

一の鳥居脇の説明板

神門脇の説明板

神門から見た境内
1865~1870年の間で造られたとされる桟敷の座席割図も残されており、
かつては奉納相撲などで賑わった。現在でも10月の竹田秋祭りでは境内で子供相撲が行われる。
また土俵を越えた正面には舞台もあって、能や歌舞伎を見物するためにも使用されたと考えられる。』
とあります。

階段先に建つ社殿(拝殿)

拝殿近影

拝殿奥の本殿
説明板は一の鳥居脇と神門脇にそれぞれありましたが、御祭神に関しては、
但馬国造の9世の子孫、孝徳天皇の皇子と全く異なる由緒が記載されていました。
唯、孝徳天皇は大化の改新後に即位し有名な有間皇子しか皇子はいなかったとされるので、
但馬国造の子孫と言う方が無理がありません。何故、すぐに嘘と分かる事を書いたのか?
まさか「たじま」と「ありま」を間違えたなんて【ありま】せんね。

本殿向拝の彫刻群

小さいが本殿側面の干支の彫刻

これは中国に由来する題材か?

本殿後方の磐座
本殿の彫刻も素晴らしいですが、それよりも驚いたのは石段桟敷。
時代を考えるとこの桟敷を使ったのは、ここの町人達。年貢が四公六民の天領だった事もありますが、
士農工商と身分制が厳しかったとされる江戸時代も、案外融通性はあったという事になります。
尤も代官の立場からすれば一揆や直訴などされると己の首が危なかったと言うのも十分な理由でしょう。
土俵で相撲、舞台で舞を見るといった日常から【ひょうまい】神社と呼ばれた等と勝手な想像を巡らせてしまいそうです。

土俵と舞台

六段の相撲桟敷

相撲桟敷解説

手水舎と池

全く人気のない社務所
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竹田城跡(国史跡)
竹田駅下車は今日で4回目ですが、雨だったり、台風被害で登山道が閉鎖されていたりと
竹田城跡は未踏でした。戦国の城跡としては全国屈指の山城遺構として有名で別名「虎臥城」、
「兵庫県の歴史散歩(下)」にもカラー口絵で登場しています。
しかし以前は、交通が不便という事もあって訪れる人は稀。竹田駅も無人でした。

収受棟(受付)を抜け城跡への階段を上る

北千畳の石垣
かつて竹田郵便局に展示された城跡の写真を見た際に、局長が
「景色もいい場所なのですが、中々来てくれる人も少なくて…。」
と嘆いて居られたのも今は昔。ネットでの投稿が話題を呼んで今は大人気の城です。
出版関係の内容には左程変化がないので、これはひとえにネットの賜物。
「天空の城」「日本のマチュピチュ」を一目見たい人で土日の山頂は結構な混雑ぶり。
標高350mでは本家が気を悪くしそうですが、ひょうこう【兵庫】県なので良しとしましょう。
SNSの威力を目の当たりにした感じです。

大手虎口
ここから北千畳(右)と三の丸(左)へと向かう。

三の丸石垣
駅の観光案内所で伺うと、
「登り40分、山頂30分は見て置いて下さい。」との話。
次の列車までの時間は2時間足らずなので殆んど余裕はありませんが、
気を引き締めて線路を過ぎて寺町最北の法樹寺脇から駅裏登山道はスタート。
ここから収受棟(受付)までは900mの山道。尚、かつては受付もなく入山も無料でした。
登り40分は時間が掛かり過ぎと高を括っていましたが、足場が悪く急勾配もあって思った程進まず。
それでも20分で到達したのは出来過ぎでした。

北千畳にある桜の老木

北千畳から北側(和田山方面)を望む

同じく北千畳から東側(朝来山方面)を望む
眼下に見えるのは竹田の町並み。

朝来山中腹の立雲峡遠望
『竹田城は但馬守護の山名持豊(宗全)が、永享3年(1431年)に構築に着手。
13年の歳月をかけて嘉吉3年(1443年)に完成、家臣の太田垣光景を城主とした。
当時、山名氏と対立関係にあった赤松氏に対する最前線基地としての一つとしての築城であった。

三の丸、二の丸を抜けて本丸へ

二の丸付近からの南二の丸・南千畳石垣の眺望

二の丸石垣
その後、七代に亘り太田垣氏が城主を務めたが、天正5年(1577年)に羽柴秀吉が但馬を攻略。
翌年、弟の秀長を城代とした。その後、秀長家臣の桑山重晴の時代を経て、天正13年(1585年)に
赤松広秀が城主となったが、関ヶ原の戦いで西軍に属し敗北。広秀は自刃し城は廃城となった。

三の丸石垣

天守台へ
創建当時の姿は伝わっていないが、織豊期以降の竹田城は南北400m、東西100mの
規模の縄張りを持っていた。縄張りは最高峰の天守(353.7m)を中央に本丸、二の丸、三の丸、
南千畳、北千畳を築き、天守台の北西部には花屋敷と称する曲輪がある。
ここは主郭の中でも搦手の位置にあるため、南北には向かい合った石塁を築き防御性を高めている。
すべての曲輪は石垣で構成され「横矢」と呼ばれる石垣の折れを多用した複雑な平面構成となっている。

天守台本丸から南二の丸・南千畳を望む
遥か眼下を流れるのは円山川。

同じく本丸から見た三の丸・北千畳

本丸から見た西側を走る播但連絡道
竹田城跡の石垣は、自然石をあまり加工せずに積み上げた「野面積」で築かれており、
400年以上を経た現在でも当時の偉容を誇っている。これら石垣遺構周辺には
多くの石取場が確認され倭城の形態に類似している。』 とあります。

本丸(左)と平殿(右)を抜け南二の丸へ

南二の丸
今までは麓から見上げるだけだったので、山上は狭く石を投げれば端から端まで届く位に
思っていましたが、いざ到着してみると曲輪が五つ、広場が二つと結構な広さ。
野面積みの石垣も崩れずに残っており 「崩れしままの石垣に 哀れを誘う病葉」などありませんでした。
これなら兵糧米と飲料水を確保すれば、楼上での籠城にも耐え得るように思いました。

南千畳の虎口付近

南二の丸にて

南二の丸から天守台石垣を見る
境内の南北千畳には桜の老木が見られましたが、見所は駅を挟んで対面する
標高757mの朝来山中腹の立雲峡。
無数の奇石・巨岩が点在する中に樹齢300年以上と言われる老桜が群生し、
開花期間が長いのが特徴で、「但馬吉野」と呼ばれる程の北近畿の桜の名所となっています。

南二の丸と天守台石垣

南千畳から南二の丸・本丸を見る

南千畳からの竹田城跡遠望
城跡の桜はほぼ散っていましたが、天守台から遠望した立雲峡の上部には桜が白い雲のように開花。
吉野の名は伊達ではありません。出来れば竹田城跡から立雲峡を望み、続いて立雲峡から竹田城跡を
眺めるのが理想といえるでしょう。それには天候、時間と健脚が必要なのは言うまでもありません。
こうして城跡を一巡して下城へ。上って見ると思った程、観光客は居なかったのは意外でした。
コロナの影響か、ブームが一段落したのかは分かりませんが…。

南千畳端からの朝来山遠望

下りは南側の表米神社登山道で

登山道を彩るミツバツツジ
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播但線竹田駅
町並みにまっちした駅舎。後方の山の高峰に見えるのが竹田城址。
八鹿駅から13時台の電車で福知山方面へ戻りますが、この時間帯は福知山駅での乗り継ぎが悪く、
和田山で播但線乗換の方が大阪へ30分以上早く着きます。
するとまたどこかへ寄り道しようなどと言う魂胆が頭を擡げて、一駅だけ乗って竹田で下車。

駅舎の看板は頭山満書。

JR竹田駅スタンプ
2006年JR西日本福知山支社と同様のものを後に設置したものだが、回収されることなく今も現役。
竹田駅は
『明治39年(1906年)、播但鉄道の新井~和田山駅間の延伸と同時に旅客・貨物の取扱駅として開業。
竹田が但馬牛の市場として栄えた頃は、牛専用のヤードがあった。駅舎は当時の姿を残しており、
額は明治の思想家・頭山満の書。また彼は立雲峡の命名者でもある。』
駅ホームから線路の向こうを見ると寺院が並び、遥か山上に石垣が。
その寺院の横から続くのが駅裏登山道なので、距離にしては直ぐにも登れそうですが、
改札口はなく線路を越える踏切は南にあるので、少し遠回りする事に。

ホームから見た寺町とその北側(右)を通る登山口

駅舎の横から見ると虎臥山
暖簾の掛かっているのは御手洗い。

竹田城址遠望

竹田郵便局 ; 竹田城址、大将軍杉、立雲峡の桜
『駅を出て直ぐ前の通りを走るのが旧街道。竹田の町が整備されたのは竹田城が築かれた戦国時代。
旧街道周辺には町人、寺町通りには武家屋敷という町割りが出来上がっていった。
特に竹田には多くの木地師が住み着き、かつては漆器造りで隆盛を極めた。
今はその伝統を受け継いだ家具作りが盛んである。
慶長、宝永、明治と三度の大火に見舞われ歴史を語る建造物は少ないが、
線路に並行して所々趣のある家が並ぶ。

旧町屋を改装した喫茶店「寺子屋」
駅から東へ進んだ街道沿いに建つ。

旧街道の西側(左)に建つ町屋群

東側の家屋
交差点の右手に大きな白壁の家屋があるのが旧木村酒造。
木村家は武田信玄の家臣であった飯尾氏で武田家没落の後、播州加古川木村に移住。
姓を木村に改め屋号を加古屋とし、当主は代々木村新左衛門を襲名した。
寛永2年(1625年)頃に竹田に移り酒造業を開始。以後繁栄し銘酒「虎臥城」を世に送り出したが、
昭和54年(1979年)に休業、350年の歴史に幕を下ろした。
明治35~36年に建て直された主屋は宿場町の意匠が施された国登録有形文化財。
現在は宿泊施設、また一部を天空の城情報館として利用されている。

街道西側の白壁は旧木村酒造

こちらは線路沿いから見た旧木村酒造入口

木々に覆われた旧木村酒造説明板

旧街道西側に面した旧木村酒造玄関
今はホテルとして第二の人生?を歩んでいる。

線路沿いの顔ハメ
線路西側の寺町通りには水路に沿って一社四ヵ寺が並び、
特に寺院は立派な門構えと水路に架かる石橋を持つのが特徴である。
最も北に位置する法樹寺の北側から続くのが駅裏登山口。
寺院の脇より900m先に城址受付所がある。』 とあります。

線路西側の寺町通りを北上

寺院北側の登山口

登山口から少し上った広場から町を見下ろす
正面山左の中腹に白く見えるのが立雲峡の桜。

このような参道を900m
両脇の花はミツバツツジ。
竹田はCMでもお馴染みの家具が有名で、昔ながらの街並みも残りますが、
最近はホテルや旅館に転用されている場所も多いとか。
それはそれで良い事ですが 「果たしてそんなに宿泊者が居るんかいな?」 と言うのが素朴な疑問。
観光案内所の人の話では雲海を見る人が利用するとの事。
成程と納得しましたが、見れるかどうかは【運かい!】です。

漸く山上受付(料金収受棟)に到着

竹田城跡 観覧パンフ
これは駅の観光案内所では入手できずここだけ。

山上で押印した100名城スタンプ
各地で押印したが、このような台紙は初。
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栂尾山 高照寺(高野山真言宗 関西花の寺第五番霊場 但馬七花寺霊場) 本堂入口
御本尊参拝の後、花の寺境内を散策しましたが、本堂の内陣を飾っていたのは数々の仏画。
国宝、重文などの範疇ではありませんが、スルーするには惜しいものがあります。
本堂前面の上にあるのは十三仏絵画。本堂を囲むように掲げられ、
十三仏とありましたが十仏しか見つかりませんでした。額状に極彩色で描かれたもので、
全体的に平面的な日本画の特徴が見られますが、御本尊は陰影がある立体的な像でした。
奉納・椿野浩二と記されていたので檀越の方でしょうか?

薬師如来と虚空蔵菩薩

弥勒菩薩と勢至菩薩

阿閦如来と阿弥陀如来

本尊・大日如来

普賢菩薩と文殊菩薩

向拝下左の菩薩像の浮き彫り

同じく右の菩薩像の浮き彫り
本堂内陣へ入ると左奥には宗祖の生涯を表したと思しき畳1枚の大きさの絵画が3幅。
説明書きでは作者は小林礫川(れきせん)。江戸出身で幕末から明治に活躍した大和絵の画家。
勤王の志士とも交流があったため幕府に【拘留】され王政復古で釈放されたという【歴戦】の強者。
その後、当地高柳村の大庄屋の招きで当地に住み、明治37年(1904年)に没するまで但馬各地に絵を残しています。
全く初耳な人物ですが、幕藩体制時代には各地にこのような芸術家が居たのでしょうか。
今よりもグローバル化していたのかもしれません。

内陣左側の様子

三幅の掛軸に描かれた宗祖の生涯

作者解説

左側

中央

右側

拡大図
部屋の周囲を囲む襖には四天王、菩薩や明王像が。
名前の記載がなかったので、住職夫人に尋ねると
「これらは先々代住職の作品です。」と言う答え。
今の御住職は染織作家なので遺伝でしょうか?
それにしては素人の域を超えた【こうしょう】な趣味と言えます。

左側奥の襖に描かれた四天王像

欄間に彫られた飛翔する雁

同じく地上に降りた雁

本尊の向こうに見える内陣右側の様子
仏教が大陸から伝わった古代では僧侶は最先端の技術を持ったエリートで、今のキャリア官僚に相当。
中世以降も大陸からの文物を導入する橋渡しとなり、我が国の学問・芸術を牽引しました。
将軍や大名の教育に当たったのも主に禅宗の僧侶だったのは良く知られた話。
仏師の運慶・快慶、画家の了円・如拙・雪舟も全て僧籍にあった人物で、
僧侶が居なければ日本文化も随分と貧弱なものになっていたでしょう。

襖絵の仏たち

同上

これは菩薩様?

こちらは明王様?

鶴の欄間彫刻

兎の欄間彫刻
それが大きく変わったのは江戸時代の檀家制度。元来は切支丹禁教のためですが、
この制度のために寺院は、自らの努力を放棄した気がします。
明治になってキリスト教の禁が解かれ、神仏分離となった事で寺院は苦難の道を歩みますが、
その時も自ら積極的に何かを創造する具合にはなりませんでした。
徳川250年の泰平が生んだ鬼っ子と言えます。
一部の新興宗教を除き、宗教は人の心からますます離れつつあるのが大部分の宗教の姿。
こんな場合こそ、先人に学んで新たな創造に取り組むべき時なのかもしれません。

本堂花天井

本堂花天井は江戸時代の作
こうして拝観を終えて東へ少し歩いて道の駅ようか但馬蔵へ向かうと、40分後に始発のバスがある様子。
八鹿駅まで徒歩を覚悟しましたが、バス停一つ進むだけで運行本数も増えるようです。
待ち時間を利用しての昼食は、おばんざい定食「もくれん」。
高照寺に由来するのは間違いなさそうですが、味も但馬農高に隣接するだけに【濃厚】でした。
普通なら但馬牛重にする所ですが、それに眼【もくれん】かったのは、花の寺に目が【くら】んだ故でしょうか?

おばんざい定食「もくれん」 \1,420
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栂尾山 高照寺(高野山真言宗 関西花の寺第五番霊場 但馬七花寺霊場)
本堂で御本尊と「なで弘法」に参拝しましたが、この日のメインは木蓮の花。あらためて境内を花巡り。
『高照寺は関西花の寺第五番霊場に加えて但馬七花寺霊場。
境内へ向かう坂になった参道から境内まで植えられているのが木蓮。
四月上旬にはハクモクレン(白木蓮)が真っ先に花となって、
枝一杯に小さなハンカチを結びつけた様に咲く。中頃には薄紅色、赤色、錦と咲き継ぎ、
五月上旬には珍しい黄色の木蓮がひと月にも及ぶ花逍遥を締め括る。その数300本。

参道の木蓮(左)と石楠花(右)

石楠花の向こうに見える鐘楼

反対側は本堂

桃色の石楠花

薄紅色の石楠花

赤い石楠花
木蓮の春が過ぎ、日盛りの夏には桔梗が紫の花を涼しげに咲かせる。
秋風が立つ頃には萩の花がぽつぽつと咲き始め、やがて境内には11種類もの萩が加わり
花群が秋天に映える。そして白萩祭でクライマックスを迎える。』 とあります。

石楠花近影

同上

石楠花各色揃い咲き
木蓮は字でも分かるように釈迦が座って居られる蓮の花弁を連想させます。
仏教に相応しい花と思いますが、意外と木蓮の寺と言われる寺院は少なく貴重な存在です。
当寺は4月の木蓮に加え9月の白萩が有名ですが、他にも多くの花が境内を彩ることで知られます。
この日は木蓮の目当ての参拝でしたが、参道には木蓮と並んで石楠花も花盛り。
解説書には記載がない花でも見応えあるのが花の寺の真骨頂とも言えそうです。

馬酔木の奥の本堂

木蓮越に見る本堂屋根

大きな木蓮の木の下で

白壁に映える木蓮の花
木蓮と似た白・薄紅・赤の花でしたが、それで【癪な気】にならないのが花の良い所。
まず以て木蓮と花の高さが違うので競合する事はありません。
全て受け入れる御仏の心の広さといえます。

木蓮近影

境内裏の木蓮

これが黄色花木蓮か?
昨日は天候不安定で「八日に八鹿で花まつり」は流れましたが、
160㎞の道を来た甲斐はありました。文字通り「花をたずねて四十里」の花巡礼。
『母を訪ねて三千里』はマルコ少年ですが、『花を訪ねて四十里』は〇・高照・蓮でした。

木蓮、石楠花以外にも

満開の桜

書置きの 「花の寺」 御朱印
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR福知山(8:19→8:54) → JR八鹿(9:47)
八鹿駅前(10:40) → (全但バス) → 高柳(10:55) → 徒歩5分 → 高照寺 → 徒歩8分 → 道の駅但馬蔵 → 但馬農高(12:59) → (全但バス) → 八鹿駅前(13:13) → JR八鹿(12:38) → JR和田山(13:50→13:56) → JR竹田(14:03) → 徒歩30分 → 竹田城址 → 表米神社 → 徒歩5分 → 法樹寺 → 徒歩8分 → 竹田駅
【復路】JR竹田(15:57) → JR寺前(16:42→16:46) → JR姫路(17:34→17:41) → (新快速) → JR大阪(18:43)

栂尾山 高照寺(高野山真言宗 関西花の寺第五番霊場 但馬七花寺霊場) 本堂前にて
入山を済ませて参道の上った先に建つのが本堂。
と言っても寺務所・納経所・書院・本堂はすべて一棟の建屋に連なっています。
先ずは納経所でベルを鳴らして御朱印拝受。
待っている間に住職夫人がお茶と御菓子を持って来て頂いたのには恐縮しました。
記念品付きでお茶まで頂いては入山料を払っても実際は無料のようなものです。
書院玄関の朱い毛氈に座り花を見ながら一服した後は、御本尊始め境内に祀られている仏様を順に参拝。

先ずこちらに伺う

納経所近影

最近できた御朱印らしい

高照寺説明書 (参拝記念品に含まれる)

「花の寺」に相応しい説明書裏面

墨書して頂いた御朱印 (御本尊)
栂尾山高照寺(とがのおさんこうしょうじ)は、
『元正天皇の養老4年(720年)、行基菩薩53歳の時の開基と伝わる。
承和年間、唐より密教を日本に持ち帰った空海が、住持する京都高雄神護寺で伝法灌頂を開き、
比叡山の最澄も弟子と共に灌頂を受けた。最澄の弟子で後継者と目されていた泰範(たいはん)が、
灌頂を受けたまま比叡山には帰らず、空海の弟子になるという事件があったのもこの時の事であった。

お茶と御菓子の接待

書院玄関前で庭の花を見ながらの一服
その泰範上人がこの寺の住職になり、都と但馬を往復する内に但馬の寺の名を
栂尾山神護寺と呼ぶ事を許されたと伝わっている。その後、栂山の北西の庵坂に移り、
栂尾山蓮華寺と改称、一時期禅宗寺院となった。

高照寺寺史

本堂正面は右近の木蓮、左近の馬酔木

石楠花の向こうに見える本堂

本堂の向拝
内陣へここから上がる。
江戸の明暦元年(1655年)、寺を観音堂屋敷に移し栂尾山高照寺と改称。
時の住職宥尊法印を以て再々中興第一世とした。観音堂屋敷にあること164年、
住職は21世に及んだが、この地は豊臣秀吉の八木城攻略の古戦場であり、
地相が悪しき故を以て第21世雄空法印は檀徒と相談の上、
文政2年(1819年)三十数年をかけて現在地に解体移築、今に至っている。

向拝下にて

本堂前面に掲げられた「栂尾山」の扁額

向拝下から庭を見る
正面には木蓮が花盛り。
本尊は胎蔵界大日如来であるが、「なで弘法」と呼ばれる弘法大師像を本堂内陣前に安置。
治したい所を撫でながら拝むと霊験があると言われる。』 とあります。
御本尊に加えて「なで弘法」にもお詣り。先般、善光寺で「なで仏・賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」像が
盗まれる事件があったばかりなので、気にはなりました。
TV等で放映されると、それに【便乗する不遜者】が出ても不思議はないので。

本堂内陣の様子

御本尊

内陣に置かれた「なで弘法」
歴史があるにも拘らず、本堂を初め境内の堂宇が真新しいのも特徴的。
本堂の左手に建つ観音堂は御堂の形をしていますが、右手にある白壁の建物は休憩所風。
気になって内陣へ入ると石に彫られたお不動様が鎮座。宝物庫と思ったのは不動堂でした。

本堂左手に建つ観音堂
丁度、法要が執り行われていた。

本堂と観音堂の間の庭園

参道右手にある建物
左は蔵、右は住居に見える。

蔵様の不動堂全景

不動堂内陣
千年以上の由緒を誇るだけあって何度も改名・改宗をしたようです。
中でも最澄の弟子の泰範が空海の元に走ったのは驚きを以て見られたようですが、
改宗は彼一人で【大半】の弟子は留まった事で最悪の事態は避けられたのだと思います。
そんな中に在って山号の「栂尾山」だけは不変。
枝葉は変えても、幹は変えないという意識の表れと言えましょう。
まさか改宗を【とが】めた訳ではないと思いますが…。

七福神の布袋尊を祀る堂

布袋尊というよりも七福神が浮き彫りにされている。

境内中程に建つ弘法大師供養塔

不動堂からの眺望
[参考書]
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