<コース>
【往路】紀伊勝浦駅(6:45) → (熊野バス) → 那智山(7:11)
那智山 → 徒歩5分 → 青岸渡寺 → 熊野那智大社 → 徒歩10分 → 飛瀧神社 → 那智山(9:02) → (熊野バス) → 那智駅(9:19) → 徒歩3分 → 補陀落山寺 → JR那智駅(10:00) → JR紀伊天満(10:02) → 徒歩15分 → 勝浦漁港 → 徒歩5分 → JR紀伊勝浦
【復路】JR紀伊勝浦(12:09) → JR串本(12:46) → 徒歩10分 → 無量寺 → JR串本駅(14:01) → JR周参見(14:45→14:53) → (くろしお26号) → JR天王寺(17:33)

那智山 青岸渡寺(天台宗 西国三十三ヵ所第一番札所)
前日は天気にも恵まれ熊野三山の内、二山を無事制覇。
残る一山に参拝すべく、宿泊したのは紀伊勝浦駅前。
距離的に言えば那智駅が最寄ですが、宿泊・商業施設となれば町の中心の紀伊勝浦駅周辺。
最初に来た40年前と駅舎はそのままでしたが、跨線橋に使われている柱が朱色に。
熊野三山の駅という事を強調したいためでしょうが、出来たのは間違いなく世界遺産登録後。
朱に交われば赤くなるを地で行く話です。

JR紀伊勝浦駅ホームへの階段降り口

跨線橋にて

改札口へ
紀伊勝浦駅は、
『行政区では那智勝浦であるが駅は紀伊勝浦を名乗る。大正元年12月4日に三輪崎まで建設された
新宮鉄道と言う私鉄の起点となった駅で、昭和9年に国有化され紀勢中線となった。
戦時中の昭和19年に建てられた木造駅舎は昭和52年に建て替えられ、
新しい鉄筋コンクリート二階建ての駅本屋が落成。観光地としての体裁が整えられた。
大阪方面からの特急「くろしお」が全車停車する他、名古屋方面からのディーゼル特急「南紀」の終点でもある。』
とあります。

改札口には那智の扇祭(火祭)の松明が待つ

火祭りの解説

火祭に行けない人のために写真を展示
行政区や駅名などが同一の場合は、後の物に旧国名を付けるのが慣わし。
それで行くと紀伊勝浦は当然ですが、行政区はなぜ那智勝浦なのか?不思議で【奇異】な事。
余談ですが、千葉県の勝浦は市制を採っていますが起源は当地からの移民の町。分家が本家を凌いだと言えます。

火祭の切り絵

JR紀伊勝浦駅スタンプ
(上) 1990年代 (下) 2006年 和歌山支社印
二日目は前日とは打って変って朝から生憎の雨。夜中に【転機】があったのでしょう。
バスは駅前から終点の那智山まで26分の乗車。
那智勝浦駅~新宮駅には及びませんが、朝6時台から18時台までほぼ45分間隔で17本運行。
利用者を考えるとかなり恵まれていると言えます。

バス通りにある参道入口
右手は那智山郵便局。

那智山郵便局 ; 那智の滝、青岸渡寺本堂

階段の先で那智大社と青岸渡寺の二手に分かれる
乗車したのは私を含めて二名のみ。平日の早朝、しかも雨天ならばそんなものでしょう。
バスはJR沿いに走り那智駅前で山側に左折、そこからは上り坂になります。
途中の停留所は乗降客もなさそうな場所ですが、大門坂には立派な停留所が。
周囲に見所もなさそうで、滝までは未だ距離があるのに何故?と思っていましたが、
ここから滝までの道が熊野古道の写真に登場する大門坂と後で知りました。
この日は誰も下車しませんでしたが、晴天ならば古道を歩く人も居たでしょう。
尤も私の場合は“晴天は事を仕損じる”なので歩く事はないでしょうが。

札所への階段を上る

上って来た階段を振り返る

反対側は熊野那智大社への参道
始発の6時45分に乗車したので朝7時11分に那智山へ到着。
これも青岸渡寺が朝の7時から拝観できるため。札所とはいえ巡礼者に対する気配りに感謝です。
バス停から少し下がった場所にある郵便局の脇の石段が寺社への山道。
2日前の積雪が未だ融けきれずに残っていました。

西国一番札所の御詠歌
・普陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智の御山に ひびく瀧津瀬

階段の先に建つ山門(仁王門)

階段、山門と信徒会館
那智の滝は遠く熊野灘から遠望できるそうで、それならここからも熊野灘が見える筈でしたが、
雨天のために視界不良。しかし階段周辺は昔ながらの門前町が残っていました。
昔の巡礼者もここからの眺望で気を引き締めて巡礼に臨んだ事でしょう。
7時台の参拝、積雪を踏み分けての巡礼は経験済みですが、まさか南紀で【難儀】するとは思いきや!でした。

山門右手の仁王(阿像)

こちらは左手の吽像

山門の先に建つ本堂

階段先から山門を見下ろす
[参考書]
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【往路】JR天王寺(6:43) → JR和歌山(7:47→8:07) → JR御坊(9:09→9:13) → JR紀伊田辺(9:54)
紀伊田辺駅(10:15) → (明光バス) → 本宮大社前(11:50) → 徒歩5分 → 大斎原 → 産田神社 → 熊野本宮 → 本宮大社前(13:25) → 神倉神社前(14:17) → 徒歩15分 → 神倉神社 → 徒歩20分 → 浮島の森 → 徒歩10分 → 熊野速玉大社 → 徒歩15分 → 阿須賀神社 → 徒歩5分 → 徐福公園 → 徒歩5分 → 新宮駅
【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

徐福公園(徐福の墓)
阿須賀神社に参拝して、新宮駅に向かうと駅前に中国風の門が。
駅からも見えるこの建物が徐福の墓とされる徐福公園。
『古代中国の戦国時代に終止符を打った秦の始皇帝は、天台烏薬(てんだいうやく)と呼ばれる
不老長寿の霊薬を求めて、仙術師・徐福を東方海上にあると言う蓬莱島へ遣わす。
その徐福が長い航海の末に到着したのが熊野浦。
現在の阿須賀神社付近とも、熊野市郊外の波田須の浦であったとも伝えられる。
実際、阿須賀神社の裏の蓬莱山には天台烏薬が自生しており腎臓病やリューマチに効果があるとされる。

中華街の入口を彷彿とさせる大門

「徐福公園」 と書かれた扁額
霊薬を得た徐福は秦へ帰る事無く、熊野の地で農耕・漁法・捕鯨・紙漉き等の技術を
住民に教えた後、天寿を全うしたと言う。
実在したとされる徐福の渡来地伝承は日本各地に残るが、墓があるのはここ新宮のみ。
紀ノ川周辺で産出する緑色片岩の自然石に「秦徐福之墓」と刻まれて居り、
紀州徳川家初代頼宣の命で建立が計画、儒臣・李梅渓が揮毫したとの言い伝えがある。

石に彫られた徐福船出のレリーフ (想像図)

徐福石像 (想像図)

徐福の顔ハメ
巨大な楠の下に大きな墓碑が立ち、傍らには殉死した7人の家臣の墓も並んでいる。
また天台烏薬とされる木も植えられている。徐福墓周囲も栄枯盛衰を重ね、
大正時代に新宮鉄道が開設され新宮駅が開業するとこの付近も新開地として発展していった。
佐藤春夫の父がこの界隈に家を建てた事から、春夫もここで過ごしたり執筆する機会が増えた。
・若草の 妻とこもるや 徐福町
は、その頃の様子を詠んだものである。』 とあります。

公園反対側の裏門

公園中央付近にある不老の池
七本の石柱は北斗七星を表す?

駅前にある新宮鉄道100周年の碑

鉄道の沿革
天台烏薬とは聞き慣れない名前ですが、一説ではフロフキの方言名を持つカンアオイの事で、
フロフキが不老不死に繋がったとの説があるよう。薬効はあるそうですが、流石に不老不死は大【フロシキ】でしょう。
徐福については伝説とされてきましたが、中国での考古学的発見があり、実在はほぼ確実視されるようになりました。
始皇帝の命で海外に向かった事実はあったでしょうが、といって徐福がここに来たというのはまた別の話。
紀元前200年の日本は未だ弥生時代で国家もなかったと考えられます。

これは墓石ではなく、徐福の碑
事績を記しているようだが、漢文なのと摩滅のため良く分からず。

碑の内容の意訳
これがあるので大助かり。
それでは徐福伝説の真相は?となりますが、新宮には徐福の他、神武天皇、天竺の裸形上人という
海から来た伝説が残ります。
地理上は西方から熊野灘を横切って新宮に達する事には疑問を持つ向きが多いですが、
伝説が三つもあるとなると何某かの史実を反映していると考えるのが無難。
想像するに、海から来た事実があってそれが後世に種々の伝説に分かれたのでしょう。
その場合、歴史でよく使われる加上説を使えば、最も新しい天竺の裸形上人が事実で、
徐福・神武天皇と遡ったとなります。尤も、これは神武天皇が天竺から来たとはなりませんが…。

樹木に囲まれた徐福の墓

墓の解説
こうして初日も無事終了、当初の予定より【森沢山】の巡礼でした。
新宮駅から本日宿泊の紀伊勝浦まで紀勢線で移動し、駅前商店街で「まぐろ料理」に舌鼓。
うまい具合に電車があったからですが、今や新宮~勝浦間は専らバス移動。
60分間隔と30分間隔では勝負は明らかです。かつては新宮鉄道が敷設された要衝なので、
福を除いてお先【まっくろ】にならず【勝浦】になって欲しいものです。

熊野めぐりのレトロバス

JR新宮駅スタンプ
(上) 1990年代 (下)2006年 和歌山支社印

夕食は紀伊勝浦駅前商店街の まぐろ料理 「ますだや」 にて
[参考書]
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紀伊田辺駅(10:15) → (明光バス) → 本宮大社前(11:50) → 徒歩5分 → 大斎原 → 産田神社 → 熊野本宮 → 本宮大社前(13:25) → 神倉神社前(14:17) → 徒歩15分 → 神倉神社 → 徒歩20分 → 浮島の森 → 徒歩10分 → 熊野速玉大社 → 徒歩15分 → 阿須賀神社 → 徒歩5分 → 徐福の墓 → 徒歩5分 → 新宮駅
【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

阿須賀神社(村社)
拝殿とその後ろに聳える蓬莱山
速玉大社参拝で熊野三山の内、二社参拝が無事終了。後は翌日の一社を残すのみで
駅まで戻って移動するだけですが、線路を越えてちょっと寄り道。
目指すは更に河口に建つ阿須賀神社で、ガイドにも名前が載る程度ですが、
途中の看板に世界遺産と書かれていたのが足を向ける事になった理由です。

参道入口に立つ
阿須賀神社(あすかじんじゃ)は、
『熊野川河口近くに位置し、「浅州処」を守護し、航海・延命・生産・発育の霊力を持つと言われる。
創建は第五代孝昭天皇53年3月と伝わり、長寛元年(1163年)に書かれた古文書には
熊野権現は初め神倉山に降り、次に阿須賀之北に勧請されたと記されており、
早くから熊野信仰との関りが見られた。
平安時代には阿須賀王子とされ、熊野速玉大社から熊野那智大社への道中に当り、
熊野詣の人々が多数参拝に訪れた。

参道途中に建つ一の鳥居

御由緒
新宮が初めて書物に文字として登場したのは熊野神邑であるが、これは当社の古名であり
神威発祥の地として広く人々に敬われた。
『中右記』『平家物語』にも参詣記録が見えるなど熊野詣の隆盛に伴い当社も発展してきた。
歴代有力者達からも深い信仰を集め、元享2年(1322年)には阿須賀権現が
現在の東京都北区飛鳥山へ勧請されるなど、全国各地に当社の末社が見られる。
江戸時代には新宮城主の浅野家や水野家から社領の寄進を受けるなど、
熊野信仰の重要な拠点の一つであり、境内には多くの文化財が残されている。

二の鳥居とその奥に建つ拝殿

拝殿正面
当社の主祭神は事解男命とし、この他熊野三山の神々を祀っている。
境内からは弥生~古墳時代の住居跡や祭祀跡が発見され、社殿背後の蓬莱山からは
熊野の神々を仏として表現した12~15世紀の御正体(みしょうたい)が多数出土しており、
神道と仏教が融合した熊野最古の原始信仰形態を実証し権現発祥源として確認された。
また蓬莱山には中国秦の時代に始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて旅立った
徐福伝説が残る。』 とあります。

拝殿近影

供えられえた御神酒の名も「熊野三山」
参拝前は小さな祠程度に思っていましたが来て見ると結構な規模。しかも社殿は朱色で綺麗に塗られていました。
と言うと新しそうですが、由緒を見ると熊野三山にも劣らない古社でした。
熊野三山の一角を担ったようですが、境内に徐福神社、裏に蓬莱山があるので、
徐福を神として祀った神社が後に熊野三山に取り込まれたと考えるのが良さそうです。

拝殿の奥に建つ本殿

塀越に見た本殿
駅からの距離は速玉大社とほぼ同じですが、参拝者は各段に少ない様子。
線路を挟んで反対側というのがネックでしょうか?社務所もありましたが生憎閉鎖中。
事前連絡が必要なようで独特の字体の御朱印も頂けず仕舞いでした。
と阿須賀神社に関してはこれで終了の筈ですが、意外な所に縁が。
東京の王子には当社が勧請されており、地名の王子も、
また字体は変わりますが飛鳥山という名も当社に由来しているそう。
熊野三山のどこかの王子だとは想像していましたが、新宮の当社とは知りませんでした。

拝殿の向かって右奥にある徐福之宮

宮の前には中国由来の樹木も
今の飛鳥山は花見の名所として有名ですが、ここに桜を植樹したのは徳川吉宗。
享保の改革で倹約を強いられた庶民への娯楽対策であったとされます。
言うまでもなく吉宗は紀州藩の出身。数ある江戸の場所の中で王子を選んだのは
故郷への愛着があったと考えるのが普通でしょう。
新宮にある阿須賀神社は江戸に移って飛鳥山になり、飛ぶ鳥を落とす勢いの
花見の聖地になった事を思うにつけ、熊野三山の奇縁を思わずにはいられません。
経済の世界ではスピンオフと呼ぶそうですが「すっぴんオフ」と言ったら怒られるでしょうか?

境内奥の社叢

蓬莱山と社叢の解説

社務所は残念ながら不在
[参考書]
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【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

新宮市立佐藤春夫記念館
速玉大社の境内の一角にモダンな家屋がありますが、これは新宮の生んだ文豪・佐藤春夫の旧邸。
人国記にもあるように地域によって人物の特色が見られますが、私見では和歌山は文学の県。
思い付くだけでも佐藤春夫を始め、東くめ・有吉佐和子・中上健次・津本陽と全国区の作家が名を連ねます。
そんな中にあって文化勲章を受章したのは佐藤春夫のみ。

旧邸全景

移築の説明
『佐藤春夫は明治25年4月9日、新宮市船町の医者の家に生まれる。
慶応大学を中退後、与謝野鉄幹、永井荷風に師事。
抒情詩人として名を挙げたが、後に小説に転じ『晶子曼陀羅』等の作品を残す。
親友・谷崎潤一郎と不破になった彼の妻に同情、結婚した“事件”は文壇史上では
よく知られたエピソードである。「秋刀魚の歌」はその頃の作品で紀伊勝浦駅前に碑が建つ。
本記念館は東京文京区関口町にあった旧邸を、生誕地近くの熊野速玉大社境内に移築したもの。
庭には末弟秋雄のドイツ遊学の記念としてマロニエの樹が植えられて居り、
春夫はこの樹に夭逝した弟を偲んだという。

速玉大社境内に建つ春夫句碑
・秋晴れよ 丹鶴城址 児に見せむ と彫ってあるそう。

句碑解説
建物は昭和2年完成、文化学院創設者で新宮にも所縁の深い西村伊作の弟大石七分の設計になる。
木造一部鉄筋の二階建てで六角形の塔を付け、アーチ型の入口や窓を設けたモダンな造りである。
本記念館では生原稿5000点、書籍2000点を始め愛用した机やペン、筆などの文具類は
趣味の品8070点を収蔵。再現した客間に、いくつかのコーナーを設けて随時展示。
“近代的憂鬱”と言われた文豪を偲ぶ縁(よすが)としている。』 とあります。

境内の塀?にも春夫の作品が

『望郷五月歌』 と題された作品

速玉大社へ向かう道筋にあるうなぎ老舗 「鹿六」
佐藤春夫も通った名店だが、生憎「準備中」の札が…。
慶応大学進学後は、専ら関東を拠点に活躍したようですが、故郷への思いは続いていたようで、
しばしば帰郷していたようです。駅前にも碑が立ちますが、故郷の新宮ではなく紀伊勝浦駅前。
新宮は郷土の先達の東くめ女史に譲ったようなものでしょうか。
作品もさることながら、三千人とも呼ばれる門弟を育てたのは、他の作家にはない功績と思います。
谷崎の妻との事件は、世間の常識から見るとかなり疑問ですが、それによって作品の評価が
変わる訳ではありません。尚、妻を譲った谷崎も文化勲章受章者。
勲章は功績に対して与えられるものであって、人間性に対して授与されるものではないのは明らかです。

新宮駅前に建つ東くめの「鳩ぽっぽ」歌碑

東くめ 略歴
東京音楽学校で滝廉太郎と同窓だった記憶が。夭逝した廉太郎の分まで活躍したと言えそう。

紀伊勝浦駅前に建つ佐藤春夫の「秋刀魚の歌」 歌碑

歌碑近影
[参考書]
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熊野本宮大社(全国熊野神社総本宮 式内社 旧官幣大社 別表神社) 境内に建つ世界遺産の石碑
世界遺産に登録された速玉大社ですが社殿自体は新しい再建。
しかし熊野信仰の歴史的資料を多く伝え境内の神宝館に保管・公開されています。
『毎年10月16日に行われる御船祭は熊野速玉大社例大祭で、
神霊を遷した神輿を乗せた美しい神幸船と勇ましい9隻の早船競漕に拠るもので、
国指定重要無形民俗文化財。世界遺産の熊野川で行われる。

神門前の参道右手にある熊野神宝館
入口では地元の英雄・武蔵坊弁慶の木像がお出迎え。

新宮市のパンフレットからの抜粋した御船祭の様子
広い境内には巨木が聳える事でも知られる。
参道にある梛(なぎ)は平重盛の御手植えと伝え、高さ18m、幹廻り5m、
樹齢千年を数える御神木で国の天然記念物。
葉脈が強く切れ難いことから、縁結び、道中安全の印として熊野詣を果たした参詣者が持ち帰った。
またこの木の実から作るナギ人形は、縁結び、家内安全の御守りとして珍重される。
梛は凪(なぎ)にも通じ、平和・和合の証でもあり、沖縄の本土復帰の年に、
当社から御神木の苗が沖縄に運ばれ、県下の学校に平和の記念樹として植樹された。

御神木「梛の木」
神宝館の向かいに聳える。

注連縄が巻かれた御神木の幹

御神木の石碑

御神木の解説
社殿前にあるオガタマノキは南方系の常緑高木で、古くから神の霊を招く神木として知られた。
オガタマの名は招霊に由来する。
またこの葉を食草として育つ南方系の蝶も飛来し、ミカドアゲハの名で知られる。』 とあります。

神門を潜った場所にあるオガタマノキ

オガタマノキ解説
また形のある宝物ではないものの、ここは熊野御幸の聖地。
平安末期には鳥羽法皇、後白河上皇、後鳥羽上皇等が幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。
熊野御幸(くまのぎょうこう)とは、
『延喜7年(907年)の宇多上皇から嘉元元年(1303年)の玄輝門院までの396年間に
上皇・女院・親王を合わせて御23方、140回に及ぶ皇室の参詣を熊野御幸と言い、
熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。
熊野御幸には陰陽師に日時を占定させて、斎館で心身の精進を数日行った後に出発。
天永元年9月の白河上皇の御幸には総人数814人、一日の食糧16石2斗8升、
傳馬185匹であったと『中右記』に記されている。

掲示板にある熊野参詣曼荼羅

熊野御幸を記した石屏風

後白河法皇御撰により梁塵秘抄に載った今様
御幸の道順は京都・住吉・和泉・紀伊半島を海岸沿いに南下して田辺へ。
その後、中辺路・本宮・熊野川を下って当大社へ参拝。那智山・雲取・本宮を経て
往路コースを逆行して帰京されるまで凡そ二十数日に及ぶ難行苦行の旅であった。
熊野御幸に拠って熊野信仰は公卿・武士・庶民の間に流布し、熊野水軍を持つ熊野三山の
忠誠心を助長、京都と熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠まれる等、
各方面に大きな影響を残している。』 とあります。

境内に置かれた「さざれ石」

神門左手の大禮殿

熊野速玉大社説明書 (無料)
境内には熊野御幸の記録が掘られた石板が鎮座しています。
それに拠れば後白河上皇(33度)、後鳥羽上皇(29度)、鳥羽上皇(23度)というのが御幸の上位三名。
いずれも歴史の教科書に登場する天皇で、武士が政治の表舞台に登場する時代というのが共通点。
本宮大社もそうですが、これだけ天皇がここに参詣されたのは、物見遊山や信仰心だけではなく、
熊野三山を拠点とする新宮一族を自分たちの側に繋ぎ止めておくという思惑があったに違いありません。
源平合戦として知られる治承寿永の内乱で熊野水軍が源氏の勝利に貢献しましたし、
その流れを汲む九鬼水軍が織田信長の天下統一に大きな役割を果たしたのも事実。
唯、日本史上の海戦と言えば、源平合戦を除くと厳島の戦い(毛利VS陶)・
木津川河口の戦い(織田VS毛利)があるくらいで、原則として戦は陸上で行うもの。
水軍はあくまで物資補給などの兵站で活躍したようです。
海戦ならぬ廻船ですが、水軍の歴史も【平坦】ではなかったという事でしょう。

熊野速玉大社御朱印 (平成6年拝受)

今回拝受の熊野速玉大社御朱印
世界遺産となって格が上がった?

新宮横町郵便局 ; 熊野速玉祭、熊野速玉大社御燈祭
新宮郵便局 ; 徐福、熊野速玉大社御燈祭
[参考書]
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【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

熊野速玉大社(全国熊野神社総本宮 式内社 旧官幣大社 別表神社)
浮島の後は、いよいよ町の名前の由来となった熊野三山へ。
先に訪れた岩倉神社の山頂からここへ遷座したというのが【いわ】れ。
熊野川の畔、紀宝バイパスの直ぐ西側に鎮座する社は熊野川河口に位置する
水上交通の要衝でもあります。

入口へ到着

入口に架かる朱色の太鼓橋(下馬橋)と一の鳥居

一の鳥居近影
扁額は「熊野権現」と記されている。
熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、
『熊野川河口に鎮座し、熊野本宮大社・熊野那智大社と併せて熊野三山として中世の頃から
篤い信仰を集めて来た。当初は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ=伊弉諾尊)と
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=伊邪那美大神)を主祭神としたが、
神仏習合が進んだ平安時代になると12柱の神々を奉祀。
「新宮十二社大権現」として崇拝を受け、やがて式内社に列せられた。

参道右手に建つ二摂社
鑰宮手力男神社(かぎのみやたぢからお)と八咫烏神社

摂社説明

ここでは手水舎ではなく手水社と書く

手水社の龍
熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩を御神体とする自然崇拝を源に、
岩に降臨した熊野の神々を景行天皇58年(128年)に現在の社地に迎えて以来、
神倉山の元宮に対して初めての御社として新宮と呼ばれるようになった。
これが現在の新宮の謂われである。

正面から見た神門

神門の扁額
以後、熊野三山を地元で統括した熊野別当の新宮一族の拠点として門前町を形成、
新宮発展の中心となった。
神職は奈良時代に穂積忍麻呂が禰宜に任じられ、それ以降は熊野三党の一つ穂積氏が世襲した。

御由緒

神門の先に建つ拝殿

拝殿の奥に見える結宮(第一殿)屋根
現在の社殿は明治16年の大火で焼失した後、戦後の昭和42年(1967年)に再建されたもの。
熊野川の畔、深い森を背にして朱塗り、熊野造の社殿が並び、神門の先に広がる壮麗で
美しい社殿は鎌倉時代に描かれた「熊野曼荼羅」の世界を再現している。
銅葺きの千木・鰹木を載せた屋根は、緑青の色が杮葺きや檜皮葺とはまた違った
美しさを見せている。』 とあります。

拝殿と奥にある結宮(第一殿)と速玉宮(第二殿)の屋根

塀の向こうの速玉宮
主祭神の熊野速玉大神は、水の動きを神格化したものとされます。
水は生命の源であると共に、古代においては主要な移動手段。船が必要ではありますが、
移動速度に加え一度に多くの物資や人数を動かす事ができる点で、陸上交通を凌ぐのもがあったでしょう。
熊野川中流の中洲に鎮座する本宮大社、河口に鎮座する当社を見るにつけ、
熊野三山はこの地域の水を支配した一族が要所に祀ったのが由来であったと思われます。

向かって右側の上三殿(左)と八社殿
手前には鈴門が五つ並ぶ。

上三殿(大三殿と第四殿)

中四社と下四社からなる八社殿
前回の参拝時に比べると境内も綺麗になり、建物の色も鮮やかになった気がします。
加えて平日ながら結構な賑わい。
皇族に【後続】する人々が多かったためでしょうが、世界遺産になった影響も大。
速玉大社はかなり綺麗に整備され【流行ったま】大社でした。

社殿側から神門と授与所を見る

速玉大社の八咫烏

世界遺産登録の石碑
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【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

浮島の森(国の天然記念物)
川の奥が浮島の森。
神倉神社に続いては遷座した新宮にお参りするのが筋ですが、近くにある天然の森にちょっと寄り道。
市街地のほぼ中央、住宅地の中にあるのが浮島の森。昭和2年(1927年)に
「新宮藺沢(しんぐういのそ)浮島植物群」として国の天然記念物に指定されました。
『浮島の森は面積5000㎡の小島であるが、沼の深さは32mに及ぶとされ、
かつては神倉聖の修行場とされていた。島が浮遊した時期は江戸中期の
18世紀前半と言う事が、ボーリングに拠る泥炭層の年代測定で明らかになった。

森の西側の入口に建てられた石柱

入口の句碑
・浮島や やまもも熟れて 落つるまゝ と読める。

浮島の森 説明板
一般的な浮島が草本植物が主であるのに対し、この森は天然杉が優先種。
10mを越える樹木が生えている浮島は我が国では唯一であるが、
かつては300本あった杉も現在では70本程度に減少している。
浮島は泥炭化した植物や倒れた木が筏状に積み重なって島全体を浮かせており、
世界的にもこのような浮島は珍しく貴重である。
森の主な植物は寒帯のヤマドリゼンマイやオオミズゴケ、亜熱帯植物のテツホシダのほか、
この辺りで一般的に見られる温帯植物が混生している。

西日を受ける浮島の森

森の東西断面図

上から見た浮島と植生分布
浮島の森には「おいの伝説」がある。
修験者の神聖な場とされる浮島には、普段は人が入る事はなかった。
その頃、近くに「おいの」と言う美しい娘がいた。
或る日、父に連れられて薪を採りにこの島に来たおいのは昼になり弁当を食べようとしたところ
箸を忘れた事に気が付いた。そこでアカメガシワの枝を探すため、島の奥深くに入っていった。
暫く経っても戻らないので心配した父親が探しに入った所、今まさに大蛇に引き込まれて
「蛇の穴(がま)」に沈んでいくところで、その姿は二度と見る事はなかった。
この伝説は後世「おいのみたけりゃいのどへござれ、おいのいのどの蛇のがまへ」という俗謡になって
今に伝わり、これを元に上田秋成は『雨月物語』に「蛇性の淫」という小説を書いたと言う。』 とあります。

「おい」の石像

おいの伝説
今回は入場せず外観だけでスルーしましたが、前回の訪問時は入場。
その時、島の中を通る道を歩く時に力を入れると島が動くのを身体で感じました。
浮島と言うのは正しい表現でした。「おいの伝説」は【老い】のためか記憶にありませんが、
実際にあった行方不明事故が伝説になったのでしょう。
若しくは神聖な場所に立ち入らないための教訓だったようにも思います。
池に【はめる】事からは和製「ハメルンの笛吹き男」は生れませんでしたが、
これを【修正】して「雨月物語」を書いた筆力は流石と言えます。

新宮中央通郵便局 ; 天然記念物・浮島の森、おいの像
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神倉神社(熊野速玉大社飛び地境内摂社)
神経を集中して石段を上るとやがて視界が開けます。その先にあるのがゴトビキ岩。
本当は前日の25日に参拝してゴトビにゴトビキ岩といきたかったのですが、
雪のためにそうはゆきませんでした。
でも気を取り直して先へ進む事に。御神体に行くのに進退窮まることはありません。

御神体への最後の上り
『中ノ地蔵堂と大神社の建つ場所を過ぎて暫く往くと上の鳥居。そこから少し上った場所には
満山社があり、鳥居をくぐった右手には手水鉢が。この手水鉢は新宮二代藩主水野重良が
自らの姉妹にあたる下野那須城主大関高増の母親の延命と繁栄を祈願して寄進したもの。
黒雲母花崗斑岩の巨大な石を加工して作られており、正面には「寛永八年(1631年)二月」
と刻まれている。同様のものは阿須賀神社にも奉納されている。

参道の先には上の鳥居が建つ
真っ直ぐ進むと岩、右へ上ると満山社。

右の石段を上った場所にある満山社
本宮大社にも同じ社が鎮座している。

愈々、頂上の社殿へ
右には手水鉢。

巨大な花崗斑岩を加工して造られた手水鉢
その先にあるのがゴトビキ岩。
熊野の神々が最初に降臨したとされる熊野信仰の原点。山頂付近にある巨大な岩が
神々の降臨したとされるゴトビキ岩で、ゴトビキとは熊野地方ではヒキガエルの事。
その形が似ている事から名付けられたとされる。
そこに掛けられた注連縄は毎年、御燈祭の1週間ほど前に張り替えられる。

石段の先に社殿と御神体が鎮座

下から見上げた社殿とゴトビキ岩(御神体)
ここに降り立った神々を熊野速玉大社の地に祀り、新たに社を建てたことから「新宮」の名の由来とされる。
『日本書紀』に神武東征の際「熊野神邑に至り、天磐盾に登る」と記されているのが神倉山である。
実際、ゴトビキ岩の周辺からは弥生時代の銅鐸も見つかって居り、古くから信仰の場であった事が覗える。
社殿の建つ場所からは太平洋、熊野川河口、新宮市街地が一望でき、最近はパワースポットとしても
多くの人々が訪れる。』 とあります。

社殿への石段からの眺め
山頂付近が大きな一枚岩の様にも見える。

石段の先にある社殿

社殿前面
参拝は外陣から、と言うよりも御神体は社殿を圧し潰す様に真横に鎮座。
市街地から岩が見えるという事は、岩に立てば市街地が一望できる訳で、
神武天皇や源頼朝などの為政者が重視したのはそれ故と言えましょう。
先般、参拝した救馬渓観音もそうですが、ここも山頂の大きな岩が御神体。
そもそも紀伊半島自体が花崗岩の上に土砂が薄い層を成しているそうなので、巨石が彼方此方に散在。
特にここは市内から一望できるので信仰の対象になったに違いありません。
また岩の形がヒキガエルに似ていたのも「帰る」に通じることで、信仰に追い風になった筈です。
そう言えば、紀勢線の印南・切目付近にはカエルがデザインされたカエル橋というのが架かっています。
紀州の人はカエルが好きなのか、今も昔も人の思考・嗜好?は変わらんようです。

御神体ゴトビキ岩近影

海側から見た社殿とゴトビキ岩

社殿前から見た熊野川河口と熊野川

新宮市街地を一望できる
前回の新宮訪問時には神倉神社は未訪、加えてガイドやパンフの記事も全く記憶に残っていません。
神社自体は前からあったので、世界遺産に登録された事、パワースポットとして取り上げられた事が
大きかったのでしょう。唯、ゴトビキ岩までの石段のために参拝者は他に比べると遥かに少なめ。
駐車場に眺望スポットがあるのも、ここまで登らないで遥拝する参拝者向けなのかもしれません。
令和になっても仁和寺の法師は健在のようです。
神倉神社は無住なので、この後参拝した速玉大社で御朱印を拝受。書置きでしたが一目見るなり
その派手さにドン引き。紙にクラっと来たので、神社がそう呼ばれる訳ではなさそうですが…。

神倉神社パンフ
これは観光案内所で入手したもの。

神倉神社御朱印
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神倉神社(熊野速玉大社飛び地境内摂社)
熊野三山の巻頭を飾る本宮大社参拝の後は、次の目的地新宮を目指して13:25発のバスに乗車。
次のバスでは新宮市内散策が厳しいためですが、本宮での滞在時間は90分。
昼食も含め、もう少し滞在したかったというのが本音でした。乗車時に運転手さんに確認、
私 ; 「イワクラ神社近くに停まりますか?」
運転手 ; 「イワクラ神社ですか?」
私 ; 「山の上に大岩がある神社ですけど。」
運転手 ; 「カミクラ神社なら停留所がありますよ。」
名前もあやふやな旅行者にきちんと対応して頂き感謝です。

バス通りに立つフォトスポットの看板

フォトスポット(駐車場)からの遠望
バスは熊野川に沿って50分で神社前のバス停へ。昔の巡礼者も通った道でしょう。
この道筋を見る限り、絶対に川下りで参拝した人が多かったと確信します。
下車すると早速山の頂上付近に社殿が見え、傍の駐車場には撮影スポットの看板が。
写真でよく見る光景ですが、ここで拝んで済ます人も多いのでしょうか?

撮影の後、神社へ向かう

参道に続く朱塗りの太鼓橋
市街地の西に聳える権現山は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部に登録されています。
その権現山の南端100m程の断崖絶壁の上に、高倉下命(たかくらじのみこと)と天照大神を祀るのが岩倉神社。
岩倉神社(いわくらじんじゃ)は、
『熊野の神々が最初に降臨したとされる熊野信仰の原点。山頂付近にある巨大な岩が
神々の降臨したとされるゴトビキ岩で、ゴトビキとは熊野地方ではヒキガエルの事。
その形が似ている事から名付けられたとされる。

太鼓橋の右に建つ「下馬標」

境内から太鼓橋を見る
ここに降り立った神々を熊野速玉大社の地に祀り、新たに社を建てたことから「新宮」の名の由来とされる。
『日本書紀』に神武東征の際「熊野神邑に至り、天磐盾に登る」と記されているのが神倉山である。
実際、ゴトビキ岩の周辺からは弥生時代の銅鐸も見つかって居り、古くから信仰の場であった事が覗える。
神倉神社入口の太鼓橋の右手には、乗り物はここで降りるように示した「下馬」標石があり、
表面には寛文12年(1672年)奥州の大銀与兵衛盛道が、熊野三山に七度参詣した記念に寄進した
と記されている。

橋を渡って右手にある社務所
「無人なので対応は速玉大社にてお願いします」 の貼り紙が。

御由緒
下馬標石の右手数十メートルには戦国時代から江戸時代にかけて熊野曼荼羅を携えて全国を巡り
熊野信仰を布教した熊野比丘尼の妙心寺があったが今は廃寺である。
明治に入り廃仏毀釈、修験道廃止令などに拠りゴトビキ岩を覆う社殿は荒廃し、明治13年の台風で倒壊。
今は礎石だけが残る。現在の社殿は昭和初期に建てられたものである。
太鼓橋を過ぎた右手には社務所と思しき建家がみえるが無人。貼紙には「対応は速玉大社で」と記載されている。

石段への参道の右手に並ぶ石碑

天磐楯の碑

天磐楯由緒
太鼓橋から左手に進むと社殿への石段の参道へ至るが、その右手には、
・神武天皇紀「到熊野神邑且登天磐盾」
・見せてやりたい神倉山のお燈まつりの男意気
の野口雨情の歌碑が建ち、石段手前には
・みくまのの 神くらやまの いはだたみ のぼりはてても なほおいのるかな
入道前太政大臣 (続古今集) の歌碑が建つ。この歌には
「入道前太政大臣、熊野にまうで侍りける時、かむのくらにて太政大臣従一位きはめぬることをおもひつづけてよみ侍りける」
という詞書があり、
「高い神倉山に登りつめて祈った。しかし信仰とはいわだたみ以上に高く、まだまだ祈らなければいけない」
というのが大意である。

野口雨情の歌碑

解説はないが 「御燈祭り」 を読んだものか?
・火となりて 走る男や 御燈祭り と読めるが…

入道前太政大臣歌碑
朱い鳥居の先に続く参道は、源頼朝が寄進したと伝わる538段の鎌倉積みの石段で、
登り口から中ノ地蔵堂までは最高傾斜角45度の急峻が続く。』 とあります。
新宮という名前から熊野本宮を新たに遷座したと思い込んでいましたが、実は遷座したのは当社。
しかも新宮と言うからには江戸時代頃かと思っていたのに遷座は景行天皇の御代の西暦128年。
遥か神話時代の話で、今回初め知る内容でした。

朱の鳥居の先の石段へ

権現山の写真付き解説

登り口に置かれた善意の杖は必要なしと思ったが…。
早くに遷座されたとはいえ、今まで多くの参拝者があったことは境内に残る歌碑で理解出来ます。
中でも太政大臣の歌碑は秀逸。信仰はこの山よりも高くなければ、と詠んでいますが、
私にはまだまだ出世したいと祈っているように思えてなりません。
朱の鳥居から自然石の石段を行きますが、その手前には登山用の杖が。
「高々538段で杖など…。」と高を括っていましたが、上り始めると結構急な事に加え、
自然石特有の不安定さがあって、いつ足を踏み外してもおかしくない状況。
疲労よりも神経を集中する事に疲れた上りでした。
「538段は誤算や!」、やはり「転ばぬ先の杖」は大切です。

正面から石段を見る

意外とキツイ石段を行く

石段途中にある火神社(左)と中ノ地蔵堂
ここらでちょっと一休み。
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熊野本宮大社(熊野本宮大社末社) 本宮前の白河上皇御製碑
中世には庶民の間に流行した熊野詣ですが、忘れてはならないのが上皇を始めとする貴人の参拝、
所謂熊野御幸です。皇族や貴嬪を同行して行列を組み、途中で歌会をするとは言うものの、
平安京からは一ヶ月かけての長旅。

秩父宮勢津子妃殿下(会津松平家)の御筆に拠る解説
一生に一度お詣りすれば御の字の恥ですが、それを何度も実践した方が居られたには驚き。
『熊野御幸は古くは景行・応神・仁徳・天智・天武の諸帝の崇敬を受けたが、
平安時代に入ると皇室の崇敬が高まり国史に重きを成すに至った。
宇多法皇より亀山上皇までの歴代の上皇、女院の熊野行幸は百余度の多きに達し、
宇多・花山法皇の一度、白河上皇十度、鳥羽上皇二十一度、崇徳上皇一度、
後白河上皇三十四度、後鳥羽上皇二十八度、後嵯峨上皇三度、亀山上皇一度など、
明らかなものだけでも百度の多きに及び他社にその例を見ない。
熊野行幸の内でも本宮のみの参拝も度々であった。

神門前の後鳥羽上皇御製

御製解説

平成4年5月27日 皇太子殿下(今上天皇陛下)参拝記念植樹
今はエコ或いはSDGsの影響か御製に代わって植樹となっている。
加えて女院鳥羽后待賢門院、同妃美福門院、御嵯峨后大宮院を始め、平清盛、平重盛、源実朝、
北条政子、藤原定家、徳大寺実能、藤原師通、和泉式部等の権門勢家の参詣も多く、
古より男子と生まれたものは、先ず熊野へ参詣して初めて一丈夫になると言われ、
出世、家門繁栄の守護神として尊崇されている。
平清盛も未だ若い頃に熊野へ詣でた結果、太政大臣に至ったと 『平家物語』 にある。

和歌山県らしく創建記念植樹は南高梅

和泉式部の祈願塔

月のさわりにも熊野権現は優しいと言うお話
その他庶民も全国から参詣絶えず、文覚上人、西行法師、一遍上人らの宗教人も参詣している。
特に一遍上人は文永11年夏、本宮の大前で神宣を受け開教の契機を得たと言われ、
この因縁で相模遊行寺の歴代上人は、継嗣の際には特に本宮に参詣するのが慣わしになっている。』
とあります。

築地塀前のオガタマの木

オガタマの木 解説
参拝の多い皇族を眺めて先ず気付くのは、いずれも歴史の教科書に登場するような有名人。
それだけ事績も多い方々なので、単なる旅行好きではなく、有り余ったエネルギーを発散する場でもあったのでしょう。
それでは何しに熊野へ向かったか?
熊野水軍を味方に付ける意図も勿論あったでしょうが、それ以上に祖先の功績を辿る意図が重要。
というのも天皇家の始祖の神武天皇が熊野から大和へ入って即位した事に由来します。

イワレヒコ(神武天皇)を大和に導いた八咫烏
その正体は水軍の水先案内人?

八咫烏の由来

シンボルマークの八咫烏は熊野三山で三様

境内の黒ポストも八咫烏
伝書鳩は聞くが、伝書烏は初耳。
ここで神武東征を考えると、『日本書紀』が完成したのは720年、天武天皇の系列の元正天皇の御代でした。
天武といえば、近江朝から出家して吉野へ逃れ、後に「壬申の乱」で都へ攻め上って天皇位に就いた人物。
壬申の乱を制したといっても別の言い方をすれば簒奪者。彼にとって自分を正統化し人心掌握するためには、
同じような事績を持つ神武天皇を強調する必要がありました。
極論を言えば、神武東征自体が、天武朝に拠る創造の産物だったとも言えるのではないでしょうか?

神門左手の黎明殿
神事はここで行うそう。

黎明殿前のタラヨウ(多羅葉)の木

タラヨウの木 説明

黎明殿の向かいに建つ社務所
こうして三山のトップを切って本宮参拝終了。昼食は山内にある「茶房 珍重庵」。
ここは和菓子の「もうで餅」が定番ですが、バスが【もうで】る時刻なので「もうで蕎麦」をかき込み。
これで無事終了と思いきや、真名井社の御朱印を貰い損ねた事が判明。
どうももう一度、ゆっくり参拝する必要がありそうです。
といっても、参拝回数で上皇方を上回る畏れ多い事はしませんが…。

帰りは参道脇の「祈りの道」へ

茶房の入る瑞宝殿前から見た参道の杉並木

茶房 珍重庵 にて「もうで蕎麦」
大根と梅干が入っている。

本宮郵便局 ; 世界遺産・熊野本宮大社社殿、大鳥居と八咫烏
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【往路】JR天王寺(6:43) → JR和歌山(7:47→8:07) → JR御坊(9:09→9:13) → JR紀伊田辺(9:54)
紀伊田辺駅(10:15) → (明光バス) → 本宮大社前(11:50) → 徒歩5分 → 大斎原 → 産田神社 → 熊野本宮 → 本宮大社前(13:25) → 神倉神社前(14:17) → 徒歩15分 → 神倉神社 → 徒歩20分 → 浮島の森 → 徒歩10分 → 熊野速玉大社 → 徒歩15分 → 阿須賀神社 → 徒歩5分 → 徐福の墓 → 徒歩5分 → 新宮駅
【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

熊野本宮大社(式内社 旧官幣大社 別表神社)
石段を上るといよいよ本宮。幟の立つ参道の石を踏みしめて進むと厳かな気分はいやが上にも高まります。
古の参拝者は分かりませんが、この日は融け残った雪を踏み分けての参拝。気が引き締まる思いでした。
熊野への道筋は、王子が点在する山中を行く中辺路、海岸沿いを進む大辺路、高野山から向かう小辺路、
伊勢神宮からの伊勢路と幾通りかありますが、最初の参拝は全てここ本宮から。
その後、熊野川を下り速玉大社、那智大社を巡るのが所謂区熊野三山。
本宮の樹木、新宮の巨岩、那智の大滝と言う人知を超えた自然を祈りの対象とし、
神仏習合が盛んになる平安以降は、本宮は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、
那智では千手観音を熊野権現として祀るようになりました。
総門前に建つ授与所で御朱印拝受。御朱印は何種類かあって通常と正月版を頂きました。
併せて参拝の栞も購入。入山料は不要だったので、これくらいの出費は楽勝。

本宮由緒記

授与所全景

御朱印に付帯の説明書

説明書裏面には案内図と御朱印の場所が

参拝の栞 (有料)

本宮御朱印 (通常版)

本宮御朱印 (正月版)
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は、
『御鎮座の年代は文献等では定かでないが、神武東征以前には既に御鎮座になったと言われている。
第16代崇神天皇65年に熊野川中洲の大斎原の地に社殿が創建されたと
「神社縁起」「帝王編年記」「皇年代略記」等に記載されるのが文献上の嚆矢である。
主祭神の家津御子大神(けつみみこのおおかみ)は熊野坐大神(くまぬにいますおおかみ)とも呼ばれ
素戔嗚尊にも例えられるがその詳細な素性は不明。一説には唐の天台山から飛来した神ともされる。
中洲に鎮座した故、水を司る神、紀の国であるから木の神と諸説あるが、
大神の神遣である八咫烏が太陽の化身である事から始元は日神であったというのが有力である。

総門前に建つ旧社号標

社号標解説
熊野本宮を祀った神職の熊野国造(くまのこくぞう)家は、天照大神の孫の饒速日尊の子孫を名乗り
物部氏と同祖。孫の味饒田命(うましにぎたのみこと)が熊野連を名乗った。
その子孫の高倉下(たかくらじ)は熊野の地にあって、東征してきた磐余彦命(いわれひこのみこと)に
天剣布都御魂(ふつのみたま)を献じて迎え、時を同じくして高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は
天より八咫烏を遣わし大和橿原の地まで導いた。磐余彦命はそこで即位して神武天皇となった。

総門を潜り本殿へ

総門の注連縄と菊の御紋の入った垂れ幕

塀越しに見える社殿屋根
第10代崇神天皇は大和民族の主旨として神を祀る事を考え、神宮(伊勢)や本宮(熊野)が奉祀された。
第13代の成務天皇の御代には国々の境が決められ、紀伊半島の南半分に当たる熊野の国造には
高倉下の子孫の大阿斗足尼(おおあとのすくね)が就任。
以来この子孫の和田氏が代々神職として江戸末に及んだ。

本殿側から見た総門

熊野本宮本殿

本殿の参拝順序の説明板
奈良朝の頃から本地垂迹説が行われ、熊野本宮では御祭神を阿弥陀如来の化身として
熊野大権現として仏名を配する様になった。寛治4年の白河上皇の行幸では初めて僧鋼三人が供奉、
その一人法印僧都増誉上人は導師を務めた功に拠り熊野三山検校に補された。
その下に三山を管理する熊野別当職が置かれたが、多くの荘園を支配するその権限は大きく、
特に田辺別当である本宮別当湛増はその機略で熊野水軍を率い源平合戦に参加、
その勝敗を左右したのは有名である。

第一殿(左)と第二殿

熊野造の重文・第一殿 西御前
夫須美大神を祀り、本地仏は現世を司る千手観音。

重文・第二殿 中御前
速玉大神を祀り、本地仏は前世を司る薬師如来。

仲御前の神門近影
平安時代になり、清和天皇の御代に従二位を、醍醐天皇の延喜の制では熊野三山中では
唯一の名神大社に列した。その後、宇多上皇の本社行幸、朱雀天皇の天慶3年には
西国海賊平定(純友の乱)の御奉幣に拠り正一位の極官に至った。
中古以後は諸国に造営料地が寄進され、三公もしくは将軍が造営奉行として
国家規模の事業として造営が執り行われた。近世になり、
光格天皇の享和2年に本社・第一殿・第二殿が、文化7年には第四殿が造営されている。
明治維新に入り、明治4年5月には国幣中社に、大正4年11月には官幣大社列せられている。
終戦後の昭和21年には官制は廃止、一宗教法人となり現在に至っている。』 とあります。

第三殿と第四殿

重文・第三殿 証誠殿
家津御子大神を祀り、本地仏は来世を司る阿弥陀如来。

熊野造による証誠殿
総門を潜ると正面に五社殿が鎮座。樹木を祈りの対象とするだけあって木肌を前面に出した建造物でした。
社殿前には社殿の上に数字が記してあり、この順番に参拝するのかと思いましたが、
ややこしかったので左から右へ順次参拝。後で確認するとその順番で良かったようでホッと一安心しました。

重文・第四殿 若宮
天照大神を祀り、本地仏は十一面観音。

四本殿の右にひっそりと鎮座する満山社
人と人の縁を結ぶ玉石を祀る。

第四殿の屋根
当宮への道筋は何通りかあるようですが、ふと気になったのは熊野川を利用する方法。
大斎原の段にも記したように、飛鳥の都、紀州の和歌山から川を遡れば、
陸路を極力抑えて本宮まで辿り着くことが可能。参拝は己の力で苦労して行く事が重要視されますが、
何時の時代でも怠け者もとい要領の良い者は居る訳で、川を使ってのお詣りが出来た事が、
これほどまでに熊野詣が流行した背景にあったと想像しますが、どうでしょう?

本殿を囲む社叢
手前は御製の歌碑。

総門に続く築地塀

境内側から見た黎明殿
[参考書]
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熊野本宮大社(式内社 旧官幣大社 別表神社)
御幸道から168号線を渡った場所に鎮座ましますのが熊野本宮大社。
御幸道(参道)から見える小高い山が明治24年(1891年)に遷座した場所。
熊野川大洪水被害のためですが、近場に高台があったのは何より。
入口の看板には「甦りの地」とありますが、社も見事に蘇りました。
入口は全国の総本宮にしては狭い印象ですが、これは移転も影響している筈。
参拝者には開かれた広い門戸であります。

御幸道から見た新たな遷座の丘

道路を渡ると本宮入口

世界遺産の案内板
『本宮大社は熊野三山の中心で、全国に4700余社を数える熊野神社の総本宮。
主祭神は素戔嗚尊(家津御子大神)で、本地仏は阿弥陀如来とされている事から、
極楽浄土の聖地と見做されて来た。
かつては大斎原と呼ばれる中洲に鎮座していたが、明治22年(1889年)の水害を受け、
免れた上四社三棟を現在の地に移築・再建され遷座。

いよいよ鳥居をくぐり本宮社へ向かう

鳥居脇に建つ社標

鳥居の奥に続く参道

鳥居の扁額 「熊野大権現」 は北白川房子筆
中辺路・小辺路、そして大峯奥駈道と言ったいくつもの参詣道の交差点に鎮座する本宮大社は、
熊野詣の最初の目的地であり、ここから熊野川を下り、熊野速玉大社から熊野那智大社へと
参詣するのが一般的と言われている。
鳥居をくぐると杉木立の参道が真直ぐに延び、そこから158段の石段参道を上ると社務所前。
正面に総門が控える。』 とあります。

鳥居の直ぐ後ろは砂利道

砂利道に続く158段の石段

参道左手に建つ功霊社
本宮出身で日露戦争(四柱)、第二次世界大戦(五十八柱)で戦没された御柱を祀る。

功霊社に続く祓戸大神
参拝者はここに参拝してから本宮に進むのが慣わしとなっている。
大斎原の大鳥居を見た後では、小振りに見えてしまう鳥居ですが、扁額は北白川房子謹書。
明治天皇第七皇女で戦後、女性初の神宮祭主となった方。本宮の格式の高さをあらためて感じます。
それに続く道にも功霊社、祓戸大神、手水舎が鎮座。参道を行くのに三度立ち止まる訳ですが、
お詣りすることで、本宮への畏敬の念はより高まります。昔ながら、精神的効果を狙ったしくみと言えそうです。

参道右手の手水舎

手水舎から先は八咫烏が道案内?

参道左手には神職の住居が

参道の先に建つ宝物館は残念ながら休館中

石段を上り切ると社務所前
正面に総門が見える。
[参考書]
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