<コース>
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:49) → JR播州赤穂(8:24→9:05) → JR伊部(9:44)
備前観光情報センター → レンタサイクル20分 → 福生寺・西法院 → 備前観光情報センター
【復路】JR伊部(13:05) → JR播州赤穂(13:40→14:07) → JR姫路(14:39→14:41) → (新快速) → JR大阪(15:43)

大滝山 福生寺(高野山真言宗 瀬戸内三十三観音霊場第十番札所)
西法院での紫陽花散策と御本尊参拝も恙なく終了。
後は駅に帰るだけですが、時間的に余裕があったので、親寺の福生寺にも立ち寄り。
3年前に引き続いての参拝ですが、西法院に続く【再訪】とはなりました。
大滝山福生寺(おおたきさんふくしょうじ)は、元禄14年(1701年)に書かれた縁起書に拠れば
『孝謙天皇の招きで来朝した唐僧鑑真和上が、天平勝宝6年(754年)に当地を通過する際に開山したとされる。
また国分寺を除けば国史に名をとどめる県内でも最古の寺院で、菅原道真編纂の「類聚国史」の
寺田の項に寺名が、法隆寺・橘寺・唐招提寺等の中央の大寺院と並んで記載されている。

分かれ道の正面を行くと本堂へ
この日の相棒は、手水鉢の左に。

階段を上った先に見える本堂
その後、孝謙天皇の勅命に拠り報恩大師が備前48ヵ寺を整備した際にその一つに加えられた。
彼は備前出身とされ、県内には報恩大師に拠る開創縁起を有する寺院が多い。
真言宗の一山地として堂宇伽藍は栄えたが、万寿元年(1024年)の大火で焼失するなど衰微した。
観応元年(1350年)に足利尊氏が軍を備前福岡にとどめた時、当山再興を発願。
尊氏の勧めで播磨から良圓師と良長師が来山し伽藍を復興、当山中興の祖となった。
以降、足利氏代々の庇護を受け、盛時には僧院33坊を数えたという。
尚、今に残る仁王門は応永4年(1398年)に足利義満に拠り、
三重塔は嘉吉元年(1441年)に足利義教に拠って建立。
これ以外の堂宇は康正元年(1455年)の赤松・山名氏の戦乱に拠り全て焼失した。

参道左の宝篋印塔と弘法大師記念石碑

高く聳える榧の木は御神木か?

本堂の向拝前にて

向拝下にて扁額を見上げる
本堂は岡山池田藩二代藩主・池田綱政に拠って天和2年(1682年)に再建。
以後、藩主池田家の厚い保護の下、伽藍及び十三の塔頭寺院も整備された。
本堂の右手奥に建つ大師堂は本堂と同じ天和2年の建立。
宗祖弘法大師を奉安し、毎月21日の御縁日には一山僧侶総出仕して御法楽祈願を行う。
また左奥の経蔵は寂應律師に拠って延享3年(1746年)の建立。内部には全国的にも珍しい
輪転式八角形の書庫を有し、市の文化財である鉄眼版一切経を納めている。

本堂外陣にて

欄間に彫られた龍の彫刻

柱の端は獅子?

内側から見た向拝
しかし明治初期の神仏分離で再び衰退、時代の変転止む無く現在の福生寺は無住となり
宗教法人を有せず、山内に残った実相院、西法院、福寿院の子院で法灯を今に伝えている。』
とあります。
平安末には衰退した鑑真に遡る古刹ですが、足利氏の庇護を受け一時は復興。
【良圓】に恵まれたという事でしょう。

後方(大師堂前)から見た本堂

二度目の正直、福生寺御朱印 (瀬戸内観音霊場)
唯、歴史を誇る古刹にあって本寺が衰微して、子院が残るという逆転現象は往々にして見られます。
経済の世界ではスピンオフと呼ぶ現象ですが、これは宗教の世界でも同様。大き過ぎたために
身動きが取れなくなった、勝者側であったために時代の流れを把握できなかったと言う事でしょうか?
最初に見た仁王門が境内の入口、そこから本堂、三重塔へは互いに距離があるので、
かつては広大な敷地があったと想像できます。
参拝者には不便な話ですが、戦国の動乱にも焼失することなかったのは、
互いに距離があったからでその面では感謝しなければなりません。

前から見た大師堂
宗祖弘法大師を祀る。備前市重要文化財。

道路より見た大師堂

経蔵

経蔵側面の華頭窓
境内を見渡すと、堂宇に混じって鐘楼脇に歌碑が一つ。
・菩提樹の 花の盛りや 鐘撞堂 赤松安子
とありました。作者は明治期に活躍した社会実業家・教育者。
単純に境内の菩提樹を詠んだ歌に見えますが作者は赤松氏。
戦国時代に全山が被害を受けた戦乱の当事者の一方と同じ苗字ですから、
もし御先祖の事績を知った上での詠みとすれば、複雑な心境であったと想像します。

一番手前にある塔頭・福壽院
拝観謝絶ではないが、観光に訪れる人の姿は見えず。

本堂前の鐘楼

鐘楼脇に建つ歌碑
[参考書]
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大滝山 福生寺 西法院 (山陽花の寺第十四番札所)
境内奥には山号の由来となった大瀧や諸堂が建ちますが、所々に備前焼の置物が散見。
さすが焼き物の里だけの事はありますが、狛犬、壺はともかく急須まであったのには吃驚。
出口付近なので、万事【急須】の洒落かと思いましたが、よく見ると土瓶。
その他、鎌倉時代の宝篋印塔、奈良時代の香登寺の礎石と時代は遡り、
極め付きは八千年前(暁新世)の模様入り安山岩。
【安山奇岩】で安産祈願なのでしょうが、凡人には何故あるのか理解不能でした。

備前焼の狛犬(阿像)

こちらは吽像だが、狛犬というよりもシーサーに見えるが

出口付近には備前焼の土瓶

鎌倉時代の宝篋印塔

その奥にある奈良時代の香登寺礎石

更に奥にある8千年前の安山岩
境内を巡った後は、本堂へ戻り御朱印を拝受。加えて福生寺の御朱印も頂くことができました。
前回は塔頭をさんざん回って「御朱印御願いします!」と【復唱】したのに空振りでしたが、
今回はその分までリベンジ。【さいほう】した甲斐がありました。

西法院説明書

西法院御朱印 (山陽花の寺)
その後は御本尊に参拝。以前の訪問時は閑散としてお堂も閉まっていましたが、
「あじさい祭」期間は本堂内陣まで参拝できます。
『西法院では三百数十年振りの平成29年11月に本堂新築建立落慶。御本尊は江戸時代作の愛染明王である。
その脇侍である阿弥陀如来立像は平安時代の作で県の文化財となっている。』 とあります。
御本尊より脇侍が古い、或いは有名というのはよく聞く話ですが、由緒までは分からず。
かつては塔頭が多くあったので、廃絶した寺院からここに移されたものかもしれません。
紫陽花に加えて普段目に出来ない御本尊も拝観でき、しかも【一切無量寿経】ならぬ一切無料と良心的でした。
本堂縁側に土産が並んでいたので、「あじさい焼き」と書かれた手焼き煎餅を購入。
備前焼と違ってこれは食べることが可能です。

あじさい祭中は、本堂も開放中
右側の縁側ではお煎餅、左の縁側下では紫陽花の苗木を販売中。

お土産に購入した 「あじさい煎餅」 ¥500
見ると部屋の奥の欄間の透かし彫りと梵字と四天王の名が書かれた襖が。
売り場の方に尋ねると、遣り取りが聞こえたようで、若い住職が応対下さいました。
私 ; 「欄間の丸に十の字は寺紋ですか?」
住職 ; 「そうです。当院の寺紋です。」
私 ; 「薩摩の島津氏と同じですが何か関係が?」
住職 ; 「史料が何も残っていないので、詳細は不明ですね。」
私 ; 「襖には四天王が書かれているようですが…。」
住職 ; 「四天王は右から東南西北となります。」
私 ; 「麻雀の東南西北(とんなんしゃーぺい)は四天王由来という事ですか?」
住職 ; 「そう考えて下さって良いでしょうね。」
私 ; 「梵字は四天王を表しているのですね。」
住職 ; 「はい。あの独特の文字は竹を用いて太細の線を出します。」
との事。中々、【凡人】には真似できない技です。

欄間の透かし彫りと襖に書かれた四天王

本堂からの帰り路
私 ; 「あの書は御住職が?」
住職 ; 「いえ、高野山の学識に書いて頂きました。」
何でも、最初は高野山の松長有慶管長に御願いしましたが御高齢で辞退されたのだそう。
それで今の【字体】になったようです。
私 ; 「真言宗の方は、皆さん高野山大学の御出身ですか?」
住職 ; 「高野山大学密教学部で学んで、更に上を目指す人は東北大学大学院印度哲学科に進むのが慣例です。」
私 ; 「御住職もそうですか?」
住職 ; 「いいえ。私は大学で全て学問を修めたので、高野山で修了です。」
と笑って答えて下さいました。成程、【凡人】には出来ない技だと思った次第です。

帰路、右手には西法院の石垣が聳える

続いて福生寺本堂と三重塔を目指す
[参考書]
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大滝山 福生寺 西法院(高野山真言宗 山陽花の寺第十四番札所)
花の寺だけに紫陽花ばかりに目が行き勝ちですが、境内には山号の由来になった大滝と諸堂が点在。
これは是非とも見逃がす訳にはいきません。何事も【初動】が肝心です。
紫陽花の細道を上った先が本堂玄関。古刹と言うよりも【新刹】という方が似合う平成29年の新築です。
玄関脇には蓮の花を持った「なごみ地蔵」がお出迎えしていますが、
建築時には既に「山陽花の寺」であったので、花を前面に打ち出しているのでしょう。

参道を上り、ぽつんと一軒家の趣がある玄関へ

非常に今風の玄関

玄関脇の「なごみ地蔵」さま
『本堂奥の橋を渡り、渓流を遡った先には山号の由来となる小瀧をなす渓流が流れ、
独特の風趣を存している。大瀧山熊山一帯は県指定自然保護区、
大瀧山は備前市名勝に指定され洗心の客が絶えない。

本堂前を抜け境内奥へ

橋の上から上流を見る

橋を渡り大滝へ
手前にはカシワバアジサイの葉が見える。

大滝と弁天堂

目の前を流れる大滝と弁天堂

大瀧と名付けられた小瀧
偶々、水量が少ないためか?
滝の周辺には楓も多く秋は紅葉で彩られる。滝の直ぐ脇の渓流沿いには
天女閣とも呼ばれる弁天堂が建ち、弁財天・薬師如来他、諸尊を祀っている。
渓流沿いに建つ弁天堂は夏でも滝の水しぶきで冷涼であり、
かつては大学生が夏休みの勉強合宿で泊まりこんだと言う。

紫陽花越しに見る弁天堂

高みから見た大滝と弁天堂

厄除くぐり大師と弁天堂

弁天堂の直ぐ横まで岩が迫る
弁天堂を過ぎた場所には弘法大師像が建ち、下を潜ると御利益がある所から
「くぐり大師」と呼ばれている。
その後、水子地蔵・不動明王と続き、高台には不動明王他、諸尊を祀る護摩堂、
その脇には歓喜天が祀られている。これらはいずれも新しく、平成16年の新建立である。

お不動様と水子地蔵さま

橋の上から見た護摩堂

護摩堂正面

護摩堂内陣の様子

聖天宮歓喜天
参拝者は紫陽花だけでなく、境内諸堂を巡っています。
諸堂の周りも紫陽花で彩られているからですが、花以外の見所があるのも事実。
一番人気が寺号の由来となっている大滝。普通、滝というのは遠くから眺めるものですが、
当院は間近まで行って眺めることが出来るのが魅力。
滝の脇には赤い弁天堂が建ち「映えスポット」になっており撮影する人が後を絶ちません。
唯、大滝と号する割には小滝という水量。
パンフ写真には雄大な水量が写っているので、これも温暖化の影響かと【推量】しますが、
間近に見る事で、小滝でも大滝に【遭うた気】になるのでしょう。

渓流の向こうに見える護摩堂

護摩堂から見える本堂屋根

護摩堂から降りる途中には宝篋印塔が建つ

大瀧から見た本堂
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大滝山 福生寺 西法院(高野山真言宗 山陽花の寺第十四番札所)
仁王門を過ぎて暫く行くと道が二股に分かれます。
正面には福生寺の本堂が建ち、大師堂・鐘楼・経蔵が並びますが、今は無住。
今は僅かに残った三塔頭が法灯を伝えています。
本堂右の道を上ると実相院、左へ進むと福寿院があり、そこを更に登った場所に建つのが西法院。
渓流を遡った石垣の上の高台に建つ姿は一間要塞にも見紛います。ここが目指す花の寺。

渓流沿いに建つ道標と案内板

西法院入口

この石垣の上に堂宇が並ぶ

石垣の下を彩る紫陽花
大滝山福生寺西法院(おおたきさんふくしょうじさいほういん)は、
『福生寺の子院の一つで創建年代は不詳。大瀧山は幽邃閑寂な自然環境が保存され、
境内には小瀧をなす渓流が流れ、独特の風趣を存している。
大瀧山熊山一帯は県指定自然保護区、大瀧山は備前市名勝に指定され洗心の客が絶えない。

細い参道の両側にも紫陽花が

参道から入口の寺標を見返る

参道の紫陽花とその奥に建つ幟(のぼり)

参道の灯籠脇には蕚紫陽花(ガクアジサイ)が

こちらはよく目にする紫陽花
昭和50年(1975年)頃より前住職がアジサイを植え始め、
現在は15品種、3万株のアジサイが咲く「あじさい寺」として知られる。
毎年、6月中旬から下旬にかけての紫陽花の咲き誇る10日間は
「あじさい祭」が開催され、多くの参拝者で賑わう。

本堂へ続く階段

本堂玄関前では小さな紫陽花がお出迎え
紫陽花は石灯籠の並ぶ参道から境内一帯、帰路に至るまで続き、訪れる人々の心を癒す。
加えて参道沿いには皐も多く、沈丁花・海棠・水仙・南天や鉢植えの花が並び、
季節の花が少しでも楽しめる様に心配りがなされている。』 とあります。

本堂前に咲く 「オタフク」

こちらは「ダンスパーティ」

お寺の方の話では、この色は珍しいそう
3年前の訪問は3月3日という冬枯れの真っただ中であったこともあり、
人の姿はありませんでしたが、この日は10時前で既に駐車場は結構な混雑。
「山陽花の寺」という公式名に加えて、ネット上での評判が人を呼び込むのでしょう。
今に残る福生寺の塔頭三院の中では西法院のみが独り勝ち状態ですが、境内には渓流が流れ、
山号の由来の大瀧が落ち、周囲には山が迫るという置かれた状況を考えれば当然な事。
直射日光を避けて日陰を好む紫陽花には、周囲に山が迫り渓谷に滝が流れる場所は
生育に向いた理想的な環境と言えます。

本堂の奥にも紫陽花は多数咲く
これは高台にある護摩堂を見たところ。

護摩堂遠望

護摩堂手前の紫陽花は鮮やかなブルー

途中の水盤の花紫陽花
最近は各地の寺で見られるが、嚆矢は京都の楊谷寺とか。
それに比べると他の二院は環境的に恵まれたとは言えませんが、それよりも
恵まれた環境を最大限に活かしたという点を称賛すべきと言えそうです。
入口から本堂を経て、裏手に流れる大滝を巡って帰路に付くまで
周りには常に紫陽花があるまさに紫陽花尽くしの寺。
【仁王】が如く今盛りなり、とはこの時期の特権です。
紫陽花にもいろいろな品種があって当院もその例に漏れず。
植物園ではないので名札等はありませんが、本堂前で苗を販売しており、写真説明がありました。
ウズアジサイ(渦紫陽花)と思った花は「オタフク」で、丸くふっくらした感じが命名の由来。
福生寺なので「おた福」ではないようです。
スミダノハナビ(墨田の花火)に見えたのは「ダンスパーティ」、尋ねても理由は?でした。
榎本美佐江と林伊佐緒ほどの差はないように思えますが、牧野富太郎ではないので
同定は難しいというのが実感。尤も当たらずとも【どおってい】事はありませんが…。

護摩堂脇に咲く紫陽花

聖天宮歓喜天の祠の後方

護摩堂周辺

紫陽花近影

歓喜天周辺
紫陽花と書いて「アジサイ」と読みますが、この語を造ったのは中唐の詩人白楽天(白居易)。
あるお寺に咲いていた名前の分からない花を見て『色紫にして気香(かんば)し』 と思って
「紫陽花」と名付けたと、『紫陽花』 と言う詩の序文に記しています。
日本で「紫陽花」 に 「アジサイ」 の訳を付けたのは源順(みなもとのしたごう)。
『倭名類聚抄』にありますが、紫陽花は余り香が強くないので、
白楽天の「紫陽花」はアジサイではないと考えられています。

護摩堂からの眺め
正面奥に大滝が流れる。

護摩堂下に建つ宝篋印塔とカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)

カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)近影

小振りで可憐な紫陽花
では何故「紫陽」の語を用いたかと言うと、この語の持つ仙界のイメージのようで
楽天自身『頗る仙物に類す』と書いています。平安貴族の必読書であった白氏文集を読んでいた
源順もこの仙界のイメージを元に「アジサイ」 を選んだのだと思われます。
紫陽花の謂われとしてはよくわかる説明ですが楽天が詠んだ 『気香し』 は何だったのか?
ライラックとも言われますが結局は【白氏】に戻った状態。仙界のイメージは
雨中に浮かんだ光景よりも、土壌の性質で色が変化する事に拠るのでしょうか?

帰路の花道

帰路の左手

蕚の周りだけ色が抜けている

こちらは水無月に相応しい水色

行く手には福生寺本堂と三重塔が遠望できる
江戸末期に長崎に来日したシーボルトが紫陽花をヨーロッパに紹介した際に、
妻「お滝」の名を採って、H.Otaksa と学名を付たのは有名ですが、
後に以前に登録の植物と同種と分かり使われなくなりました。
成程、境内の滝が紫陽花を引き立てる訳はそんなところにあったのですね。
紫陽花には色々な逸話がありますが、なにか疑問点が残るのが特徴。
それで良しとなるのも【楽天】的ではありますが…。

山号の由来となった大滝と紫陽花

大滝周辺の岩場

言わば、岩場の紫陽花
[参考書]
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大瀧山 福生寺 西法院(高野山真言宗 山陽花の寺第十四番札所)
入口に建つ福生寺仁王門
関西花の寺・久安寺で同窓の花と旧交を温めた先週に続き、今週は西方にある山陽花の寺へ参拝。
場所は赤穂線から北へ2.1㎞上った山中で最寄りは香登駅。
2020年3月3日に参拝の際はこの駅で下車して只管歩いた結果、【かかと】に来たので、
今回は反省を込めてレンタサイクルがある伊部駅で下車。
[以前の投稿]
福生寺(岡山県備前市) 山中に建つ奈良時代創建の寺伝を持つ古刹
無人駅となって久しく、かつての駅舎には観光案内所と喫茶店が入っています。
兵庫県の相生駅と東岡山駅を結ぶ赤穂線ですが、今や岡山県内は全て無人化。
2006年には日生・伊部・長船・邑久・西大寺と【最大時】には
五駅でスタンプ設置があったのは遠い昔の話となりました。

登り窯を象った?伊部駅舎

有人時代の伊部駅スタンプ
(上) 国鉄時代の 「わたしの旅」印 (下) 2006年設置の岡山支社印

伊部郵便局 ; 備前焼、国宝・閑谷学校

駅舎の壁を彩る備前焼の獅子像
駅で下りたのは私を含め3名。観光案内所でレンタサイクルを借りる人の姿もなく、
途中すれ違う人も居ませんでした。六古窯の一つ備前焼の里で周辺には窯元が点在しており、
山陽新幹線に沿って西へ行く間には煉瓦の煙突のある家屋が目に入ります。
大内という交差点で右折して北上しますが、ここからは上り坂で周囲には人家もなし。
赤穂線の北側には山陽本線が走りますが、その間には山が塞いでいる状態。
片上鉄道が廃線になって以降は両者を行き来することは殆どないのでしょう。
北上する事2.1㎞で仁王門へ到着。

途中にはこのような窯元が

備前市マンホール蓋
秀逸なデザインだが、カードは未だ発行されず。

焼き物の里を流れる川

最初は平坦地を山陽新幹線に沿って西へ
手前にある大ヵ池には睡蓮や菱が浮かぶ。

大内の交差点で右折
ここから登りになる。

このような道を2㎞上る

行く手にようやく仁王門が
『応永4年(1398年)に、三代将軍足利義満に拠り建立。京都からは離れているが
足利家の信仰が篤かった事が建立に繋がったとされる。
元和9年(1623年)に大修理・改修を経て現在に至り、県指定の重要文化財となっている。
また掲げられた「大瀧山」の額は佐々木文山の書として有名である。』 とあります。

正面より見た仁王門
石標には「大滝山福生寺仁王門」と記されている。

「大瀧山」の扁額は佐々木文山の手になる

扁額の下から来し坂を見返る
仁王門を過ぎると境内の筈ですが、本堂、塔頭や三重塔はまだ見えないので、
かつては広大な寺域を有した寺院なのがこの事からも分かります。
仁王門には阿吽の金剛力士像が置かれていますが、一見して非常にダイナミックな造り。
唯、折角の仁王像も道路脇に建つため【今後】もこの門を抜けて参拝する人は殆どいないでしょう。
仁王門を過ぎて境内の駐車場には10時前で既に多くの車が停車中。
やはり「山陽花の寺」の威力ですが、今時徒歩やレンチャリ巡礼は少数派です。

門を護る金剛力士像(右の阿像)

こちらは左の吽像

境内側から見た仁王門全景
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<コース> 阪急・市バス共に頻発
大阪梅田 → (阪急電鉄) → 京都河原町 → (市バス301系統) → 岡崎神社前 → 岡﨑神社 → 徒歩5分 → 平安神宮・神苑

東神苑(国指定名勝)
南神苑から本殿後方の道を抜けた場所にあるのが中神苑。
細い道の脇には水が流れ、「生き物、貝を採らないで」の掲示が。「カワニナでも居るんかいな!」と
覗いてみると、なんと大きなカラスガイが砂から顔を覗かせています。
貝は水の浄化に効果があるとか。そこをを進むと明るい視界が開けます。

小径を抜けて中神苑に出る

中神苑の蒼龍池の睡蓮
『中神苑も西神苑と同じく平安神宮創建時に作庭されたもので、七代目小川治平兵衛が手掛けた。
庭の中央には蒼龍池があり、池の東側の大島(珊瑚島)から北岸にかけては、
古石柱や梁を用いた沢飛び「臥龍橋」がある。これは龍が臥す姿を象って名付けられたもので、
使用された石材(向川石)は天正17年に豊臣秀吉が造営した三条・五条両大橋の橋脚である。

池に造られた臥龍橋
別段、上が臥龍の松という訳ではない。

珊瑚島へ点々と続く臥龍橋

南側から見た蒼龍池と臥龍橋
また光格天皇御遺愛の「折鶴」と言う珍種も含め、池を囲んで杜若が群生し、
水面には睡蓮や河骨が咲き、初夏には風趣に富んだ景色となる。

池はこのような浅瀬を経て南の池へと続く

北側から東神苑を望む

池の中央付近に架かる泰平閣(橋殿)

池の畔には尚美館(貴賓館)が建つ
その南に続く東神苑は、明治末期から大正初期の造営。
京都御所から移築された泰平閣(橋殿)並びに尚美館(貴賓館)があり、広大な栖鳳池には
鶴島・亀島の二島を配し、その周囲には八重紅枝垂桜を始め皐・椿など多様な花木が植栽され、
水面に映る花々は格別の風情を醸している。
東山を借景とした神苑は明治時代を代表する庭園である。』 とあります。

鶴島・亀島の向こうに見える泰平閣

池の向かいから尚美館を望む

いよいよ泰平閣を渡る

泰平閣の屋根裏構造
入口の池に置かれた飛石は何と近代の代表的作庭家・小川治兵衛(植治)の作。
このような作品をさらっと置いてしまう所も神苑の懐の深さと言えます。
尤も説明を見なければ素通りしてしまう人も多いでしょうから、
説明板が無ければ【臥龍点石を欠く】感は否めませんが…。

橋上から見た二島と尚美館

尚美館遠望

橋上から南側を見る
正面の建物は平安神宮会館(披露宴会場)。

尚美館の玄関
西から東へ移動しただけで様子は一転。
広い池の周囲には楼閣が建ち散策するも良し、立ち止まって眺めるのも良し。
植物園主体の西に対して東は庭園が主体。
平安京は右京と左京で趣が異なりますが、神苑もそれを意識しているのでしょう。
生物学の西に対し、東は日本文化史とも言えます。なるほど深淵な池がある深遠な庭でした。

西側から見た泰平閣

泰平閣中央の鳳凰閣?

13時からの公開講座前に生協で軽め?の昼食
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西神苑(国指定名勝)
岡﨑神社参拝の後は、西へ歩いて平安神宮へ。
今更、平安神宮参拝もないですが、この日のお目当ては神苑の花菖蒲。
平安神宮は桓武天皇に拠る平安京遷都から1100年に当たる明治28年(1895年)に、
桓武天皇の偉徳を称え京都の祖神として祀るために市民が中心となり建立。
平安京の正庁、朝堂院の様式を復元して同年3月15日に御鎮座。
皇紀2600年に当たる昭和15年10月19日には孝明天皇の御神霊の御鎮座も見ました。

應天門の内に広がる境内
ですから由緒は120年余り、古社の多い京都市内にあっては新参者もいいところですが、
平安京創始の桓武天皇と最後の孝明天皇という二柱を祀るが故に、京都市民は元より
広く国民に崇敬されるようになりました。余談ですが、遷都に関しては天皇より詔勅が出ますが、
江戸遷都の詔勅は今に至る迄出されていません。京都人が度々口にする言葉です。
大極殿左にある朱色の白虎楼が神苑への入口。この楼閣は東の蒼龍楼と共に平安京朝堂院の様式を模したもの。
屋根は四方流、二重五棟の入母屋造・本瓦葺が施されていますが年代はいずれも明治初期。
それでも国の重要文化財に指定されているのは流石と言えます。

正面から見た白虎楼
平安神宮は南の應天門から大極殿までは塀で囲まれていますが、その内側は白砂が敷かれ植物は疎ら。
それが塀を潜ると、いきなり樹木が茂り回遊式池がある日本庭園が出現。全くの別世界になります。
尚、境内参拝は無料ですが、神苑は入場料¥600が必要です。

入口を過ぎて現れる紫陽花

順路に従うと北側に池が出現
神苑は、
『平安神宮の神域を囲む東・中・西・南の四区分され、広さは30,000㎡、明治の代表的庭園として
国の名勝にも指定されている。
本殿に向かって左手にある南神苑は明治28年の創始以来、八重紅枝垂桜の名所として親しまれて来た。
昭和44年(1969年)には孝明天皇百年祭の記念事業として、平安時代の特色である野筋(道筋)と遣水が設けられた。

白花菖蒲と睡蓮

花菖蒲は水辺と土の中間付近が多い

花菖蒲の咲き具合も様々
また昭和56年(1981年)には代表的文学書である竹取物語・伊勢物語・古今和歌集・
枕草子・源氏物語に登場する草木、約180種を植栽して、
王朝文化を偲ばせる「平安の苑」と名付けた。』 とあります。

睡蓮も見頃を迎えている

ピークを過ぎた花菖蒲

睡蓮のピンクの花
日光が燦燦と降り注いで暑い位の境内から一転して、涼しく感じる庭へ。
遠くから来た参拝者に癒しを与えてくれるポイントです。
古い京都では創建から130年しか経っていませんが、短期間によくぞここまで整えられたものと感心します。
特に多様な植物は現在のダイバーシティを先取りしたもの。

こちらは赤色の睡蓮

これはオモダカ(沢潟)か?

オモダカの花はこんな色?
岡崎動物園はありますが、植物園はなし。この神苑を岡崎植物園にする意図があったかどうかは
分かりませんが、結果的にはそのような形になっています。
動物は動き回るので、見ているだけで癒されますが、動く事のない植物は見て想像を廻らす必要が。
種類毎に和歌など古典の引用があるのはその王朝文化に想いを馳せる一助と言えます。
奈良には万葉植物園がありますが、京都では神苑がその役目を果たしている気もします。
勿論、府立植物園もありますが…。
お目当ての花菖蒲ですが、先週くらいがピークだったそう。【深遠】な神苑で花菖蒲を堪能する積りが
花の盛りは短くて…。【勝負】処を間違えたようです。

花菖蒲近影(その一)

花菖蒲近影(その二)

花菖蒲近影(その三)
その庭の片隅にひっそりとあるのがかつての路面電車。明治44年製造の現存する
国内最古の車両で重用文化財。文化財の駅舎は知っていましたが、電車にも及ぶとは初耳です。
応仁の乱ではなく先の大戦での供出を免れて残っただけでも国宝級ですが、
それが無造作に置かれているのは如何にも京都。【露面】だけに雨曝しも気にしないのでしょうが、
梅小路博物館に展示されないのが旧国鉄の縄張り意識とすれば、再考する必要がありますね。

展示中?の路面電車は重用文化財でもある

電車の解説
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岡﨑神社(旧郷社)
拝殿の前に鎮座する狛兎(平成23年建立)
平安京の王城鎮護として創建された岡﨑神社ですが、当社を一躍有名にしたのは境内に置かれた多数の兎。
岡﨑神社は
『桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京遷都の際に王城守護のため平安京の四方に
建立された社の一つで、都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称した。
御祭神として素戔嗚尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめ)及びその御子三女五男八柱神を祀る。

鳥居脇の兎提灯

神職宅玄関の兎電燈
また往時背後の紫雲山を始め境内一帯がウサギの生息地であった事から、兎は氏神様の使いと伝えられ、
ウサギが多産であることから子授けの神として祈願信仰されている。
境内には本殿や境内の灯篭・狛兎・斎館等にウサギの彫刻像が数多く見られ、
特に手水屋形にある子授けうさぎ像は参拝者の人気を集め、御祭神が八柱もの御子神をもうけられ、
ウサギが多産である事から子授けの神として祈願信仰されている。』 とあります。

拝殿手前にある手水屋形と御旅所

屋形内にある厄除子授兎(やくよけこさずけうさぎ)
昭和55年復元と札に記載。

子授兎近影
妊娠中の女性は、兎のお腹をさすると安産の御利益があるので何人かが撫でていた。
国内で兎と言えば因幡の白兎神社、洛南の宇治神社が双璧ですが、最近急速に人気が出て来たのが当社。
神話伝説を持つ前二社に比べ当社にはそのような伝説はなし。しかしその分、真実を伝えている気がしてなりません。

奥に建つ神職宅?

玄関の兎紋
由緒記には境内一帯がウサギの生息地だったからとありますが、鎮座したのが都の東、即ち卯の方角だった
というのが本来の理由の筈。境内に兎が居たと言うのは嘘ではないにせよ後付けの気がします。
すぐ東には白川通りが走り東山も近く、私も学生時代に野兎を何度か見ました。
いまも神社はこぢんまりとした森に囲まれているので、兎を目にする事もあるでしょう。

拝殿前の舞台には奉納?の兎おみくじが並ぶ

欄干にも兎が並ぶ

兎おみくじ ¥500 は社務所にて
ふと見ると能舞台の横に石碑が建ち、三善清行(みよしきよゆき)卿邸趾の文字が。
清行朝臣は菅原道真とほぼ同時代に活躍した文人貴族。漢詩・儒学の他、歴史・天文学にも精通し、
辛酉革命説に拠って901年「延喜」の改元を実現させました。道真程出世はしなかったにせよ、
最終的には参議に至り平安京で71歳の天寿を全うしたのは道真にはない幸運でした。
そんな彼が棲んだ位ですから、学問に集中できる環境だったのでしょう。或いはパワースポットを感じたのでしょうか?

参道より見た能舞台?

能舞台内陣

舞台脇に建つ三善清行卿邸趾碑
ところで当社の御祭神は素戔嗚尊。大国主命と兎なら分かりますが、素戔嗚尊なら相手は八岐大蛇。
因幡の白兎はありますが、出雲の白兎と言うのはありません。
そのせいか御祭神と兎は一緒にはならず、境内は専ら兎が占領して、御祭神は絵馬だけ。
兎の像もリアルではなく可愛らしくデフォルメされていましたが、
平成23年と令和元年の建立ならば分かる気もします。
特に拝殿前には「招き兎」の像がお出迎え。招き猫の兎バージョンですが、
境内に並んだ兎の像を見ると、世田谷豪徳寺の招き猫を彷彿とさせます。
招き猫からは「ひこにゃん」が生まれましたが、当社からは「おかぴょん」でも生まれるでしょうか?

神職宅前に置かれた母子兎 は平成22年の奉納

舞台前の狛兎
境内で尤も漫画チックな像。恐らく最新バージョン?

拝殿に置かれた招き兎
境内には兎の石像だけでなく兎をあしらったデザインが提灯、社務所の扉、狛犬の台座等
処々に見られます。加えて一羽の兎、二羽が向かい合ったものなどバージョンも多様。
御朱印を御願いすると兎を象った印が押してあったので、
私 ; 「これが、御社の神紋ですか?」
と伺うと、若い巫女さんは分からなかったようで、神職夫人と思われる方が
夫人 ; 「あちらの御旅所の扉の上にある二つがそうです。」
言われるままに行ってみると、三つ巴と丸木瓜と思しき紋が二つ。
兎とは全く関係ありませんでした。

御旅所前にて

絵馬に描かれた朱色の図柄は社紋ではなく上の金色が社紋になる
個人的には兎紋にした方が良い様にも思えるのですが、諸般の事情があるのでしょう。
素戔嗚尊、兎と神紋の三つ巴は暫く続く事になりそうで、中々三善とはなりそうもありません。

岡﨑神社御朱印
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岡﨑神社(旧郷社)
水無月も中の七日が、13時から京都市内で開催される公開講座のため朝から左京区岡崎へ。
バスを降りた場所は今出川通の北に面して鎮座する岡﨑神社。
この辺りは何度も訪れていますが、未訪どころか名前さえ知りませんでした。
卯年の今年、境内に兎が居る映えスポットとしてマスコミ等で取り上げられて初めて知った次第です。
年始は参拝者でごった返えするでしょうが、流石に水無月ともなれば沈静化するだろうと
思っていましたが、入口には9時というのに既に大勢の人が。
直ぐに観光バスが来て混雑は解消されましたが、観光コースに入っていたのは驚きでした。
同じ時刻の鴨川の河原が閑散としていたのと対照的です。

河原にアベックの並ぶ姿も殆どない朝8時台の鴨川

丸太町通りの北に鎮座

鳥居の正面に建つ拝殿
岡﨑神社は、
『桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京遷都の際に、王城守護のため平安京の四方に
建立された社の一つで、都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称した。
御祭神として素戔嗚尊・奇稲田姫命及びその御子三女五男八柱神を祀る。
清和天皇が貞観11年(869年)に造営し、播磨国広峯から祭神(牛頭天王)を迎え祀ったと言われ、
当時当地にあった東光寺の鎮守社の役目を果たした。

鳥居左手の手水舎とその奥に聳える巨木

由緒記の駒札
治承2年(1178年)には高倉天皇の中宮徳子の御産の奉幣を賜った事から、安産の神として祈願する信仰が生まれた。
御祭神の素戔嗚尊が出雲国の簸の川で、八岐大蛇から奇稲田姫命を救うため、十拳の剣を振るい見事退治。
その後、姫と固く結ばれ夫婦神となられたという有名な故事から縁結びの神としての信仰が篤い。
また創始時の王城守護方除けの勅願に拠り、現在も方除厄除神としての信仰が絶えない。

参道で最初に現れる社務所横の狛兎
本田宮司に拠り令和元年御大礼奉祝で建立。

こちらは左側の狛兎

兎に目を奪われがちだが狛犬もきちんと鎮座

拝殿前の狛兎
左右で阿吽の像となっている。

狛兎から鳥居方面を見る
この像は平成23年卯年一月に本田宮司が建立したもの。
元応元年(1319年)には後醍醐天皇に拠って社殿を再建、正一位の神階と神宝を賜る。
また室町中期には足利義政が修造、幕府との関係も深く、平家物語では官幣四十一社に加えている。
しかし応仁の乱の戦禍に遭い寺は焼失、神社のみが残り、慶長年間に現在の社名に改称された。
明治時代になり郷社に列せられたが、昭和9年(1934年)の第一室戸台風で拝殿は倒壊。
後に再建され今に至っている。』 とあります。

正面から見る拝殿

拝殿の唐破風

拝殿に掲げられた「扁額」
地名と同じ社名なので、てっきり近年にどこかから勧請されたお宮さんと思っていましたが、
ところがどっこい創建は平安京遷都まで遡り、しかも王城鎮護の役目を担ったという古社。
岡崎地区と言えば何はさておき壮麗な平安神宮ですが、平安神宮が創建130年に対し当社は1230年。
御祭神も平安神宮の桓武・孝明天皇に対し、当社は素戔嗚尊と神話時代。
「社広きが故に貴からず」ではないですが、平安京を本当に守ったのは当社と言っていいでしょう。
唯、知名度が低いのは社名が東天王社から岡﨑神社に代わったからとも思えるので
安易な改称は疑問です。それで問題が解消する訳ではありませんので…。

拝殿の脇を抜け後方の本殿へ

拝殿に続くこちらが本殿か?

本殿後方の杜
町中にこのような杜があるのは珍しい?
御祭神は八岐大蛇退治で有名な素戔嗚尊とその家族。御利益が武勇ではなく安産・多産・恋愛とは
ちと不思議ですが、夫婦仲睦まじく子宝に恵まれたのがその理由だそう。
唯、三女五男の計八人の子供は取り立てて多産と言う程ではありません。
末広がりの八なのか、八岐大蛇に由来するのでしょうか?

岡﨑神社御朱印

御朱印拝受時に頂いた由緒記

境内奥に建つ摂社

摂社前の石碑は「雨社」 と読めるが
といって境内を見渡しても、スサノオファミリーの痕跡は目にすることはできず、飛び込んでくるのは兎ばかり。
などと思いながら歩くと、漸く絵馬殿で素戔嗚尊と八岐大蛇退治の絵馬に遭遇。
軒を貸して母屋を取られると言うべきか、スッピンオフと呼ぶのかは分かりませんが、
神様の世界も栄枯盛衰はあるようです。

摂社・宮繁稲荷神社

絵馬殿

奉納された素戔嗚尊と八岐大蛇退治の絵馬
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【阪急】阪急梅田 → (準特急) → 高槻市 → 徒歩5分 → 高山右近記念聖堂 → 高槻城跡 → 野見神社

野見神社(式内社 旧郷社)
かつての遺物が殆ど残らず公園と化した高槻城ですが、その範囲は国道171号線沿いまで至り、
跡地には高校や芸術文化劇場が建っています。
特に後者は周囲に堀を巡らせ石垣と白壁を造るなど城郭を意識しています。
無くなったとはいえお城を無視するのは余りにも【情欠く】行為だからでしょうか?
その北側に隣接するのが野見神社。城下町周辺には人家が多く、
有名寺社は郊外にある事が多い高槻では例外的な場所にあります。

芸術文化劇場の周りにある石垣と堀

道路に面した一の鳥居は意外と小さい
野見神社(のみじんじゃ)は、
『旧高槻城内北大手にあり、御祭神は須佐之男命、野見宿彌(のみのすくね)命を祀る。
社伝に拠れば、宇多天皇の御代(887~897年)に、当地で悪疫が流行し多くの死者が出た時、
「社殿を作り牛頭天王を祀れば悪疫が治まる」 との御神託があり、早速お祀りしたところ悪疫は忽ちにして終息。
喜んだ国人達は社殿を建て牛頭天王社として祀ったのが嚆矢である。

入口を過ぎた場所にある手水鉢
アリウム、ギガンチューム(葱坊主)、撫子 が活けられている。

流れ出る水を受ける樽にも
レモンケーキをイメージしたとかしないとか。
その後、享禄、天文年間には入江駿河守、和田伊賀守などの歴代高槻城主や家臣の崇敬を集め、
社領の寄進などがあったが、キリシタン大名の高山右近が城主の時に神殿を破壊し社領は没収。
時の神職は御神体を石清水八幡宮へ避難させ難局を乗り切った。
元和5年、城主となった松平紀伊守家信が城内の安全を祈願して、牛頭天王社を新造すると共に社領を寄進。
慶安2年(1649年)永井日向守直清が入部すると更に社殿を修築し、社領を寄進して
10月14日を例祭日として臣下・国人と共に盛大な祭礼を行う様になった。

参道を本殿へ進む
左は能舞台、拝殿は右手奥に建つ。

正面から見た拝殿
丁度、お宮参り中。

拝殿に続く幣殿と本殿
永井氏200年の治世の後、明治維新後の神仏分離令に拠って牛頭天王は須佐之男命と名を変え、
更に野見宿彌命を合祀して野見神社と改称した。
850坪を有する境内には、本殿・幣殿・拝殿・能舞台・社務所があり、本殿は天和2年(1682年)の建築。
幣殿・拝殿は平成15年の改修事業に拠り新築された。

高槻戎神社(左)と能舞台

野見神社御朱印

御朱印拝受時に頂いた由緒記

社務所では「相撲みくじ」 が販売中
摂末社は五社あるが、最も大きく歴史があるのが永井神社。
9代藩主永井直進に拠って藩祖直清を祀る「御霊社」として寛政5年(1793年)に造営された。
嘉永元年(1848年)には11代藩主永井直輝が直清入部200年を記念し、
本殿と拝殿を石の間で繋いだ神社建築様式である権現造と唐破風の門を造立している。
当初は直清神社、幕末には直清権現と呼ばれていた。』 とあります。

社務所の向かいに建つ永井神社

永井神社の唐破風門

門の透かし彫りと欄間の龍の彫刻
旧城内守護の鎮守社であったので城内にあるのは当然。と言うよりも歴史的には神社の方が遥かに古く、
神社の位置が以前と変わらないとすれば、神社の場所に城を建てたと言う方が適切と言えそうです。
唯、御祭神は牛頭天王から須佐之男命と野見宿彌命に変更。
千年近く祀られた神を変更するに当たっては人々にも違和感があったように思いますが、
それだけ神仏分離が厳しかったのでしょう。

永井神社本殿へは脇の門から

内側の欄間彫刻は虎

永井神社本殿
しかし今でも、近隣を代表する神社として人々に親しまれているのは、移行がスムースに行われたから。
モーからスモーへ代わった訳ですが、尤も境内には藩祖を祀る永井神社もあるので、
そちらの影響の方が大きかったとも言えそうです。
城の鎮守だけに町中にあっても落ち着いた雰囲気を醸し出す場所ですが、これも【呑みの少ねぇ】影響でしょうか?

永井神社の社紋は永井家の家紋・鉄線

鉢植えの花があったが鉄線ではなさそう

野見神社由緒記 ¥50

由緒記裏面に描かれた境内全景
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高山右近記念聖堂
戦国以降は数多の城主が入れ替わった高槻城ですが、最も知名度が高いのは高山右近。
歴代城主の中で教科書に名前が載っているのは高山右近ただ一人。
また城跡公園の高台に建つのも右近の像で他の城主の像はありませんでした。
高台にあるのは高山だからでしょうか?

城跡公園に建つ高山右近像

台座に嵌め込まれた銘板
城跡から阪急へ戻る手前、171号線付近には高槻カトリック教会が建ちますが、
道路から見える前庭には祈りを捧げる高山右近の像が建っています。
傍らの説明碑に拠れば、彼の逝去350年に際して、ローマ教皇パウロ6世代理・マレラ枢機卿に拠って
祝別を受けて建立、同時に植樹もされているとか。像の横の楠がそうでしょうか?
正面に見える教会堂は高山右近記念聖堂と呼ばれており、これは高槻城主であった高山右近を記念し、
後に右近が追放され終焉の地となったマニラの聖母大聖堂を模して建てられたからだそう。

高槻カトリック教会
正面に見えるのが高山右近記念聖堂。

右近逝去350周年に植樹された楠とその奥にある右近像
戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であった高山右近は、
『天文21年(1552年)頃、摂津高山(現在豊能郡豊能町)で生まれたとされるが、高山は近江・大和にもあり
詳しい事は不明である。父・高山飛騨守は松永久秀に仕えて大和国沢城主となり、後には和田惟政の
重臣として高槻入りした。元亀4年(1573年)、惟政の子惟長と対立した右近は彼を追放して高槻城主となった。
天正2年(1574年)には高槻城の側に壮麗は教会堂を建立、キリスト教の布教に務めた。
領内には20以上の教会とセミナリオ(神学校)も設立され、宣教師の記録に拠れば2万5千人の領民の内、
1万8千人がキリスト教徒になったと伝えられる。

高槻城主ズスト高山右近像

右近像近影
キリスト教徒の装束である。
天正6年(1578年)、摂津国を束ねる荒木村重が織田信長から離反。
右近は村重に人質を出していたが、キリスト教を弾圧するという信長に屈して開城した。
本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕え、山崎の合戦などで戦功を挙げている。
高槻城主として12年間を過ごした後、右近は播磨船上城(明石市)へ移封。
秀吉がバテレン追放令を発した天正15年(1587年)には棄教の命令を拒否したため領地を没収された。

マニラの聖母大聖堂を模して造られた記念聖堂

記念聖堂内部
入堂は自由だが、騒がない様に注意!
その後、前田利家に仕え金沢に移住するが、禁教令を出した徳川幕府に拠って慶長19年(1614年)10月に
国外追放処分となった。右近はマニラへ赴くが、到着後40日で熱病のため慶長20年(1615年)2月3日に客死。
その波乱に満ちた生涯を終えている。
文化人でもあった右近は千利休の高弟「利休七哲」の一人、「利休極上一の弟子也」とも謳われた。』 とあります。

正面の祭壇とキリスト磔刑像

祭壇前より入口扉方向を見る
江戸時代の高槻藩は譜代の永井家が13代220年に亘って治めますが、藩祖直清は新田開発や文化振興を推進、
幕末の藩主は薩長に対して中立を守る事で城下を戦禍から守るなど功績は大きいものの右近には及びません。
例を挙げれば熊本藩の加藤清正が似た感じでしょうか?華々しい戦績がないからとも言えますが、
それを言うと高山右近も戦国大名としては左程戦での目立った功績は無いように思います。

右手の奥にはマリア像が

右手正面に掲げられた高山右近画像
洗礼名でジュスト・ウコン殿とある。
思うに当時の流行だったキリスト教に改宗し多くの信者を入信させた事、最後は信仰のために地位も財産も失い
異国の地で生涯を終えたという悲劇性が、判官贔屓で共感を呼ぶのでしょう。
カトリック教会に右近の像が建つもの、そのことに無縁とは思えません。
確かに当時は国内でキリスト教が熱狂的に受け入れられ、右近の他にも
大友宗麟・大村純忠・細川ガラシャなど入信者で名の知られた人が多くいます。

左奥には日本殉教26聖人の碑が嵌め込まれている

高槻駅前郵便局 ; 高槻城主・高山右近像、八丁松原の松並木
唯、キリスト教受容の背景にはその教義に共感したというよりも、当時の余りにもひどい戦乱のため
旧来の宗教に嫌気がさした人々が、少しでもましな宗教と願って入信したというのが真実に近い気がします。
改宗を迫られても屈しなかったのはそれだけ切羽詰まった状態だったからで、
明治になってキリスト教が解禁になっても信者はそれ程増えなかったとか。
日本では宗教家は別として政治家・経済人・文化人で宗教に傾倒する人は
あまり評価されて来なかったので、高山右近の人気は宗教以外に求めるべきと思います。
地元では右近を大河ドラマにと言う動きもあるそうですが、
ドラマ化した際にその魅力をどこに求めるかが見所の一つかもしれません。

外壁脇に建つ高山右近顕彰碑

石碑表面の文は田口大阪司教の撰

石碑の台座の「丸に十文字」は島津ではなく切支丹の印か?
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>JRは15分間隔、阪急は10分間隔で運転
【JR】JR大阪 → (新快速) → JR高槻 → 徒歩10分 → 高山右近記念聖堂 → 高槻城跡 → 野見神社
【阪急】阪急梅田 → (準特急) → 高槻市 → 徒歩5分 → 高山右近記念聖堂 → 高槻城跡 → 野見神社

高槻城公園
高槻は京と大阪のほぼ中間地点で古代より政治・交通の要衝でした。JR東海道線の北側には
京都と西宮を結ぶ西国街道が線路に沿って通り、芥川宿が置かれました。明治に入ると
東海道線が敷設され明治9年7月26日に国鉄高槻駅が、昭和3年には今の阪急京都線高槻駅も開業。
鉄道では東海道新幹線、国道171号線、名神高速道路が東西を貫いています。
新幹線こそ停車しないものの、特急・新快速が停車する交通の要衝に変わりありません

かつての城跡にできた芸術文化劇場
城の石垣と堀を模した造りとなっている。

劇場の周囲に設置された高槻市カラーマンホール蓋

高槻市マンホールカード (配布は芸術文化劇場にて)
政治的には中世以降は地理的位置から動乱の舞台になった事で芥川山城・高槻城が築かれました。
芥川山城には戦国の梟雄と呼ばれた三好筑前守長慶が入り、一時的ではありますが
7年間に亘って近畿に君臨する芥川政権を打ち建てています。
三好家が没落した後は高槻城に重心が移り、織田信長ゆかりのキリシタン大名が入って活躍。
江戸時代に入ると度々城主が変わりますが、譜代大名・永井家が入り3万6千石の城下町として
幕末まで13代続きます。江戸時代には大坂・岸和田の両市と共に府下の三大城下町として栄えました。
かつての城は阪急京都線の南側に城内・野見・大手・出丸各町に広がっていたとか。

劇場の東側には二の丸御殿と桝形門があった

公園入口に建つ石碑
高槻城は、
『南北朝期に、入江氏が居館を築いたのが始まり。永禄12年(1569年)には和田惟政が城の基礎を作り、
天正元年1573年には高山氏が町屋をも堀で囲い込んだ堅固な城を築城。
特に高山右近はキリシタン大名として知られた武将で、城内に教会堂やセミナリオを建てて
宣教師を保護したため、高槻は一時キリスト教布教の重要拠点にもなった。

公園の一際高所に建つ高山右近像

正面から見た高山右近像
切支丹大名らしく刀も十字架の形である。

高槻郵便局 ; 高槻城主・高山右近像、市花・ウノハナ、シンボルロードけやき通り
元和3年(1617年)、幕府は西国監視の重要拠点として高槻城の直営修築に着手。
その結果、三層の天守閣と高石垣・土居を備えた近世城郭としての高槻城が出現。
慶安2年(1649年)には永井直清が高槻城に入部し、以後13代、幕末まで高槻を治めた。
江戸時代には八丁松原の景観と調和して名城と讃えられ、京大坂に近い城下町は
漢詩人藤井竹外など多くの文人学者を育んだ。

像の前には石垣と堀?が広がる

公園の南側に移築された旧笹井家住宅
今は高槻市立歴史民俗資料館として開館。

住宅玄関と屋根
入口を棟方向に設けた妻入りで本瓦葺。市内に残る瓦葺屋根の中で最も古い形式を留める。
明治7年(1874年)、石垣を鉄道工事に使用するため高槻城は破却。城跡は昭和25年(1950年)に府の史跡に指定。
城跡公園として市民の憩いの場となっている。南側には江戸時代中期の商家「笹井家住宅」を移築復元。
妻入り・本瓦葺きなど当時の形式を今に伝える建造物として市の有形文化財に指定された。
館内は歴史民俗資料館として生活用具等の展示を行っている。』 とあります。

旧笹井家住宅間取図

あがりぐちから中の間、離れ座敷を見る

土間に置かれた農機具など

屋根の構造
大坂・岸和田が復元とはいえ城郭が今に残っているのに対し高槻城は一切なし。
高槻城跡公園に立つと 「兵どもの夢の跡」 という一説が頭を過りました。
当初は城郭に対する市制の姿勢かと思いましたが、鉄道工事のためというのは意外。
文明開化となって今何が必要か?という事を考えての事でしょう。
当時は永井の殿様も子爵として居られた筈ですが、反対された様子は伺えません。
町の発展にはそれで良かったでしょうが、後世から見ると何とも残念な話です。
と思っていると永井神社の神紋が目に入りました。これは永井家の家紋で茶花として知られる鉄線紋。
鉄線ならば石垣を鉄道線路に転用するのにも抵抗がなかったからと納得した次第です。

公園内の池

南側からの眺め

永井家と永井神社の社紋・鉄線
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