<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR備中高梁(10:13)
備中高梁駅前 → 徒歩5分 → 郷土資料館・安正寺 → 紺屋川筋 → 商家資料館 → 石火矢町ふるさと村・武家屋敷 → 頼久寺 → 寿覚院 → 薬師院 → 松連寺 → 備中高梁駅前
【復路】備中高梁(13:51) → JR岡山(14:56→15:11) → JR相生(16:16→16:18) → JR姫路(16:39→16:42) → JR大阪(17:43)

東向山 松連寺(真言宗御室派)
薬師院の後は、直ぐ南に隣接する松連寺へ。
備中高梁駅の東方、愛宕山の麓に建ち、未だ南には寺院がありますが、
頼久寺から南北にほぼ1㎞続いた寺町もここが終点。寺町通りから来ると左程感じませんが、
駅から寺を遠望すると城郭そっくりなその異様な偉容に圧倒されます。

寺号標の脇から石段を登る

石段の正面には本堂が見える筈だが…
東向山松連寺(とうこうざんしょうれんいん)は、
『真言宗御室派の中本寺で、大日如来を本尊とする。現在の寺は明暦3年(1657年)、
備中松山藩主・水谷伊勢守勝隆に拠り市内奥万田より移築されたものである。
武家諸法度で城の新築は禁止され修理も難しい時代に、松山城の砦として築いた事は
城郭造りそのままの石垣が良く物語っている。

石段途中からの眺め

石段を登った先に建つ山門

山門前から城下を眺める
中央にJR備中高梁駅が見える。
本堂右に建つのは観音堂。文禄元年(1592年)の秀吉の第一次朝鮮出兵(文禄の役)では、
岡山藩主・宇喜多秀家を総督として安宅船で渡海するに際し、
当寺の宥海法印を釜山浦へ従軍させ戦勝祈願を行った。
凱旋の後、宥海の功績を賞し33体の観音像を彫刻。観音堂を建立しそこに祀った。
建立に際し御座船の格天井と船戸数枚、寺領100石を寄進している。格天井と船戸は珍しい品で、
桃山時代の優秀作品として県指定重要文化財となっている。』 とあります。

宝篋印塔の向こうに見えるのが観音堂

観音堂近影
かなり傷みが激しく、拝観は無理な様子。

山門を過ぎた場所に建つ宝篋印塔
奥には寺務所が。
薬師院も立派ですが当寺は更に上手。頑丈な石組の高い石垣、
石垣上部の白壁ラインが強烈に眼前に迫って来ます。
寺院ではありますが出城の役割を持ち、有事の際には城下を護る砦に転じる様に
設計されていると聞き納得できました。
言ってみれば城下を守る最後の砦ですが、いざ訪れてみると本堂は覆いが掛けられ修復中。
観音堂も痛みが激しく参拝できない状態でした。

覆いが掛けられ修復中の本堂

本堂と塀の間にあるのは経蔵か?

駐車場から見た松連寺全景
境内を見回しても無住ではなさそうですが、事務所入り口手前には草が茂っており、
手入れもされていない様子。もしかすると他寺院との掛け持ちなのかもしれません。
歴史ある寺院としてはここが【松連】時と言えそうです。

山門正面にあるのが寺務所の筈

書院玄関?

寺務所前の草木も伸び放題

かつて拝受した判子の御朱印
こうして炎天下の巡礼も無事?終了。駅の周辺に散らばっているとはいえ、
みな徒歩圏内で3時間足らずで拝観することができました。
1時間毎の電車は50分後なので、駅ビルで冷やしフォーを食べた後は+¥100でヨーグルトを。
昼飯後にも拘らず【ひるぜん】牛乳での〆でした。

備中高梁駅1階の「高梁ほっとカフェ」 にて冷やしフォーの昼食
残念な事に8月18日で営業終了でした。

〆はヨーグルト
[参考書]
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瑠璃山 薬師院 泰立寺(真言宗 善通寺派)
寿覚院から更に南に行った場所に建つ薬師院は、「男はつらいよ 第32作 -口笛を吹く寅次郎-」
の舞台となった寺。門前に来ると確かに映画で見た記憶が蘇りました。
仁王門の手前には山号院号寺号標が立ち、別の面には
一天泰平 四海静謐 風雨順時 百穀豊饒
と難しそうな四字熟語と
兼密乗院 穆王代
と格式のありそうな文字が彫られていますが、その直ぐ右脇には「男はつらいよ ロケ地」の石標も。
ロケ地ならではのロケーションですが、このギャップが何とも愉快です。
続いて壮麗な仁王門を潜りますが、そこに置かれた仁王像はどこかドリフターズを髣髴とさせる作風。
これも【怒りや!】と言えばそうなのかもしれません。

階段登り口に建つ山号寺号標

その脇にはこんな石標も

赤い垂れ幕が印象的な仁王門

右側の阿像

左側の吽像
瑠璃山薬師院泰立寺(るりさんやくしいんたいりゅうじ)は、
『真言宗善通寺派に属し、寺伝に拠れば寛和年中の985年頃、花山法皇の開基と伝わる。
元は別の場所に建てられていたが、火災に拠ってこの地に移転。
正保年間(1644~1648年)に伽藍が整備されたと言われる。

仁王門の先には更に階段が続く

階段途中から仁王門を振り返る

階段を上った先からの城下の眺望
本尊は薬師瑠璃光王如来、50年毎に秘仏御開帳法要が行われる。
本尊を祀る薬師院本堂は棟札に拠ると元和10年2月(1624年)の建築で県指定の重要文化財。
三間×三間の単層で入母屋造、屋根は本瓦葺で、正面一間に向拝を持つ形式となっている。
軒は二重の繁垂木で蛇腹支輪を設け、柱は来迎柱を除いて全て面取りしてあり、
組物は禅宗様の一手先を詰組としている。
正面には五段の階段を置いて登高欄を付け、四面に擬宝珠高欄付きの縁を廻らしている。
正面中央の間には牡丹の彫刻を入れた蟇股を飾り、その下には上部を菱孔子の透かし、
下部には入子板の上に模様を彫刻した両開桟唐戸を設けている。

階段先から見た境内全景

石畳の先には薬師院本堂が建つ

本堂正面

方丈前からの眺め

本堂の向拝と軒下の組物

四隅にある擬宝珠高欄付きの縁

本堂の扉

正面の両開桟唐戸と牡丹の蟇股

桟唐戸の彫刻 鷹(左)と鶴(右)
江戸時代の建築であるものの、勾配のきつい大屋根とこれを支える組物、桟唐戸の彫刻他、
随所に雄大豪華な桃山風の特徴がよく表れている。
山門右にある大仙堂の石造延命地蔵は鎌倉期の作風を感じさせる市指定重要文化財である。
また裏山には三十三観音霊場があり、参拝者が絶えない。』 とあります。

本堂前からの城下の眺望

これは子安地蔵様

手水舎にも「男はつらいよ」の札が

階段横の鐘楼

御仏の手の形をした椅子
何となく岡本太郎好みにも見える。
「第8作-寅次郎恋歌-(昭和46年)」 では寿覚寺・岡村邸の門がロケ地になっていますが、
撮影に使われたのは屋外。一方、「第32作 -口笛を吹く寅次郎-(昭和58年)」では
体調の悪い住職に代わって寅さんが急遽お坊さんに化けますが、法事に来た家族にばれてしまう話。
この時はお寺そのものが舞台でした。
二作の間には12年の隔たりがありますが、それまでは境内を貸すだけであったのが、
寺自体も使えるように変化。それだけオープンになったといえます。

方丈を左に見て寺務所へ向かう

書院玄関とその奥にある寺務所玄関

書院玄関の唐破風

寺務所全景
当院で文化財は薬師院本堂ですが、さすがにそこは使わず。
新たに建てられた本堂(方丈)が撮影の舞台として使われました。当然といえば当然ですが、
新築した伽藍を有意義に使う事ができたのは当院にとってもプラスになった筈。
仏教の聖地は映画の聖地にもなったわけですが、これを機に薬師院が【役者院】になることはありませんし、
御本尊が浅丘ルリ子如来と呼ばれることもなさそうです。

寺務所玄関にて御朱印拝受待ち

ロケの写真などは自由に閲覧できる

薬師院御朱印

下の駐車場から見た境内遠景
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光明山 寿覚院(浄土宗 知恩院派)
道路から草生した石段を登るのは頼久寺と同じ。
頼久寺から線路に沿って南下すると寺院群が続きますが、紺屋川を過ぎて少し行った場所に立つ
寿覚院前に「寅さん」ロケ地の看板が。
「はて、ロケ寺院は薬師院では?」 と思いつつ境内へ。
光明山寿覚院(こうみょうざんじゅがくいん)は、
『浄土宗知恩院派の末寺で阿弥陀如来を本尊とする。
成羽藩主山崎家治は祖父堅家の母の法名を寺号とした寿覚院を成羽後に建立。
寛永15年(1638年)、家治は天草に移封となったが、彼に従わなかった一部家臣達が
寺と共にこの地に移ったものである。

石段の先にある山門
現在の本堂は宝暦6年(1756年)に再建されたもので、
火龍の欄間は江戸中期の典型的な華やかな極彩色立体彫刻である。
本堂裏には寛永17年(1640年)銘入りの五輪塔と室町末期と思われる板碑がある。
歴代藩主の尊崇篤く、水谷・安藤・石川・板倉と歴代家臣の墓が多くある。』 とあります。
入口には「男はつらいよ」のロケ地の案内が。
「第8作-寅次郎恋歌-」で岡村邸の門と同様にこの寺院がロケ地に出てきますが、
さくら(倍賞千恵子さん)の夫の博(前田吟さん)の実家がこの地という設定になっています。

山門からの眺望
境内を上って見ても、さてどんな場面であったとピンときませんが、ロケ地の説明を見て思い出しました。
博のお母さんが亡くなって、高梁に帰ってお葬式を済ませて、皆で御墓へ行きます。
さくら ; 「お兄ちゃん、みんなの写真撮ってあげてよ!」
寅さん ; 「そっか、ここじゃぁ、俺が一番遠いんだもんな。」
寅さん ; 「はい、みんな笑って~。」
さくら ; 「お兄ちゃん、何てこと言うの!」
寅さん ; 「すまん、すまん。じゃあ、泣いて~。」
博の兄 ; 「もういい。私が撮る。」
と、私の拙い記憶に拠ればこんな遣り取りでした。世間の常識からすればけしからん話ですが、
思わず笑ってしまいます。これが許されるもの寅さんだからでしょう。

山門正面に建つ本堂
その後、一人家に帰った博の父親を夜に寅さんが訪ねて行きますが、その中の会話で、
寅さん ; 「先生の子供たちは優秀だけど、皆冷てぇなぁ。」
と言うのが印象的でした。
「男はつらいよ」では毎回マドンナが登場しますが、それに加えて常にベテラン俳優が出演。
仄聞するところでは、シリーズで山田洋次監督が是非とも起用したかったのは笠智衆と志村喬の両名だったそう。
博の父親はインド哲学を専攻する学者という設定でしたが、突然の寅さんの訪問を嫌がってはいない様子。
監督の一番伝えたかったのは、何だったのか?このシーンを思い出して考えています。

本堂前面に架けられた扁額
残念ながら参拝は外陣のみ。
話は戻ってお寺ですが、留守のようで本堂は閉まっており参拝は外陣のみ。火龍の欄間も拝観できず、
本堂裏の五輪塔と板碑を見ることが出来ただけで良かったとすべきなのでしょうか?
思わず「泣いて~。」と言いそうになりましたが…。

本堂裏手の五輪塔と板碑
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天柱山 安国頼久禅寺(臨済宗永源寺派)
本堂参拝の後は、その奥にある庭園へ。歴史のある頼久寺ですが、
その名を全国的に有名にしたのは何といってもこの庭園。
『茶人・造園家として名高い小堀遠州が備中奉行在任中に作庭したもの。
1605年頃の作庭で遠州初期の作品である。
慶長5年(1600年)、小堀新助正次が、備中国に一万石余を領したが、慶長9年に逝去。
一子の作助政一が遺領を継いだ。彼が後の遠州である。

庫裏と書院の間から見える庭園

庫裏の縁側から見た書院

庫裏縁側から見た書院東とサツキの刈込

正面奥にあるサツキの青海波
小堀遠州は天正7年(1579年)近江国小堀村に生まれる。幼名を作助と言い、長じて政一と称した。
父正次の逝去後、松山城を預かり備中の国政を司った。
備中松山城を再建し、他に名古屋情天守、後陽成院御所造営等の作事奉行を務める。
茶道・建築・造園の巨匠として名を馳せ、駿府城普請奉行を務め従五位下遠江守に叙任された。
以後、遠江守に因んで遠州と通称される事となる。幼少から茶道に励み、宗甫、孤蓬庵と号し、
「きれいさび」を確立した。正保4年(1647年)に69歳で逝去、後世に多大な影響を与えた。

青海波の右に続く鶴島

庫裏の東の縁側より見た青海波全景

鶴島と背の高い石の奥にある亀島

鶴島近影
その頃の松山城は備中兵乱で非常に荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の館とし、
加えて当寺を外護し、元和5年(1619年)までこの地に留まった。
本庭園はその頃の遠州の作庭になるもので、蓬莱式枯山水庭園で、愛宕山を借景とし、
白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、
書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込で青海波を表現した庭園である。

亀島近影

横から見た鶴島(左)と亀島(右)

庫裏の東縁側から見た書院

庫裏に続いて書院へ向かう
鶴島は三尊の石組を中心に周囲をサツキの刈込で中島景観を表現し、
亀島は亀の姿を具象的に表現している。
また、山畔のサツキ一植の大海波を表現する大刈込は、園内で最も優れた美的景観を示している。
また二島の間には簡素な地割の池があり正面遠景の愛宕山を借景にした平庭である。
この石組及び地割の主要部には江戸時代初期の手法が見られる。

書院入口付近から見た庭園
砂の模様が鮮やかである。

悟りの窓?からの眺め
正面が青海波で左側が書院。

庫裏と書院の間の庭園

砂の波紋と青海波
このような築庭様式は桃山から江戸初期に好まれたもので、現在まで旧態のまま保存されていることは、
歴代城主の帰依の念篤い事と、歴代住職の愛山の念深き事に拠るもので、
遠州作庭中の傑作庭園と称さられて、昭和49年(1974年)国の名勝庭園に指定された。
平成21年(2009年)には本堂や書院が追加指定されている。

書院縁側から見た庭園全景

遠く愛宕山を借景にした遠州庭園

波紋の奥に鶴島と亀島

書院縁側からの鶴島・亀島遠望

砂上を庫裏まで続く置石

青海波近影
他に自筆の禁札他遺愛品数点が保存されており、庭にある高さ148㎝の石灯籠は市指定文化財。
竿の部分には暦応2年(1339年)12月沙弥西念の勧請に拠る事が刻まれているが、
異なる部品を集めた寄せ灯籠であり、火袋・中台・竿は南北朝時代、
傘と基部は江戸時代中期以降のものと考えられる。』 とあります。

書院から見た庭園と奥にある庫裏

庭園の奥にひっそりと立つ石灯籠

書院へ至る廊下から見た石灯籠

書院側からの石灯籠近影
竿の部分に刻まれた文字が見えるような…。

庫裏側から見た石灯籠近影
独断ではありますが、日本の寺院の作庭で各地に名を残している名人は?
と訊かれて名前を挙げるとすれば、夢窓疎石・小堀遠州・小川治兵衛の三名。
活躍したのは室町・江戸・明治と時代を代表すると共に、僧侶・武士・職人と
各階級を代表する造園家でもあります。
敢えて失礼を承知で言えば、そんな日本を代表する作庭家の秀作が都から遠く離れた
備中の小都市に存在するのも意外ですが、加えて作庭したのが20代半ばという年齢。
普通に考えれば、或る程度年齢を重ねて円熟味を増すものですが、頼久寺はそれにも該当しません。
それは何故か?

庭園側から書院を見る

庫裏より見た書院内部

書院の床の間

違い棚に置かれた品
私見では、若き遠州は、
「これからは平和な時代になり作庭が重要視される筈。」 と考えて、己の進む道を決めたのでしょう。
そんな彼にとって、江戸や京から離れた場所に居たのは、それらの場所から影響を受けずに
存分に自分の力量を試す事が出来たに違いありません。

こちらは書院の茶室

獅子と花(牡丹?)の欄間彫刻

茶室の欄間は鳳凰の彫刻
西洋のギルド制では親方に成るには作品を提出して認められる必要があり、
そのため後世に残る傑作が多く生まれたとか。これは今も傑作を現す
masterpiece と言う単語に残っています。
遠州も頼久寺の庭園を、作庭家小堀遠州が世に出る登竜門としたのでしょう。
ここを【演習台】として遠州は完成されたと言える感性の庭です。

茶室から見た書院北側の池
左側の建物は本堂。

本堂側から見た池と茶室

池に架かる橋にはこのようなお地蔵様が

やけに前衛的な水琴窟
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天柱山 安国頼久禅寺(臨済宗永源寺派 備中西国第五番 瀬戸内観音霊場第十三番)
武家屋敷前の通りを南下した場所に寺院が構える。
武家屋敷から南下し、線路沿いの桝形を過ぎると左手に城を思わせる白壁と高い石垣が聳えますが、
そこが頼久寺。高梁を代表する有名寺院で、拝観料を取って公開する唯一の寺院でもあります。
寺の正面は、一見すると城の入口に見える佇まいですが、これは高梁の各寺院は出城に使用されたため。
高い石垣を築き、その上に白壁がめぐらせてあるのは白は城に良く映えるからでしょうか?

入口に建つ山号寺号標と名勝庭園石碑

通りから登城するような石段を登る
石段を上り境内に入ると本堂・庫裏・仏殿が建ちます。門を入って左奥の仏殿は、
明治頃に出雲の一畑薬師を勧請したことから、近所の人には薬師堂と呼ばれています。
内陣へ入って参拝しましたが、本尊のお薬師さんと宗祖の達磨大師の像が正面に祀られている他、
両側には経典が収納されていたのが印象的でした。経蔵も兼ねているのでしょうか?
その後は、庫裏で受付を済ませてから本堂とその奥にある庭園を拝観。

石段を登った先に建つ山門

境内から見た山門
天柱山安国頼久禅寺(てんちゅうさんあんこくらいきゅうぜんじ)は、
『臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、かつて天忠山と号す寺があり、古堂が僅かに
存在するだけであったと言う。暦応2年(1339年)足利尊氏が諸国に安国寺の建立を命ずると、
当時の備中守・高橋又四郎が天忠寺を廃して天忠山安国寺と号して再興。
当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。
その後を霊仲禅英禅師(勅諡・円智悟空)が継ぎ第二世となり宗風は盛んであったが、徐々に衰退する。
後に永正2年(1504年)、松山城主上野備前守頼久が大檀越となり寺観を一新、中興の祖となった。
大永元年(1521年)に頼久が逝去すると、その大功を追慕し寺号に頼久の二字を加えて安国頼久寺と改称。
後には略して頼久寺と呼ぶようになった。頼久の墓も当寺の境内にある。

庫裏入口から見た境内全景
正面が仏殿(薬師堂)、右が本堂。

仏殿(薬師堂)近影

仏殿前の花頭窓

仏殿入口の欄間彫刻と屋根裏の組物
その後、備中松山は城主が上野氏・庄氏・三村氏と移り変わるが、戦国時代に入ると、
織田信長の中国制覇と安芸毛利一族の中央進出の戦いである備中兵乱の舞台となった。
備中松山城主であった三村家親は毛利元就輝元に叛き織田信長方に付いたため
毛利の攻撃を受け、永禄9年(1566年)に宇喜多直家に拠って興禅寺で暗殺、
子の元親は備中兵乱で毛利・宇喜多連合軍に敗れ、天正3年(1575年)松連寺で自刃。
更に孫の勝法師丸は小早川隆景に拠って殺害といずれも悲運の死を遂げた。
境内には三村氏三代の墓が残る。
この兵乱で頼久寺の伽藍は焼失、書籍や什物の殆どが灰燼に帰し、開山自讃の頂相、
開山が二世に与えた禅板しか残らなかったという。
後にこれをいたく悔いた毛利輝元は家臣である天野元明・元信に命じ、堂宇を悉く旧観に復興させた。

仏殿の内陣へ入り参拝

仏殿奥に祀られた御本尊
薬師如来(中央)と宗祖達磨大師(左手前)は分かるが、両脇侍は誰でしょう?

仏殿脇に積まれた仏典一覧
流石に積ん読ではない筈。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後は、備中松山は毛利から徳川の支配となり、家康の命を受けた
小堀政次が奉行として着任。城がない状態であったので当寺を仮の館とした。
政次は開山から九代目の礼安衆文禅師を中興開祖とし、政次の後を継いだ政一(遠州)は家康に願い出て
頼久寺に朱印20石を賜っている。政一は元和3年(1617年)河内国奉行に移るまでの13年間、この地で政務をとった。
城主は、池田家、水谷家と変わるが、三代目の水谷勝美は元禄6年(1693年)に31歳で急逝、
更に継嗣も13歳で亡くなったため水谷家は断絶、所領没収となった。
城の受け取りは赤穂藩の浅野内匠頭長矩に命じられ、家老の大石内蔵助が当地に滞在して実務を担った。
その際に、大石が頼久寺に宛てた二通の書状の写しが今に伝わる。

仏殿前から城下を見下ろす
前方の線路は伯備線。

塀の傍に建つ鐘楼
その後の城主は、安藤家、石川家、板倉家と代わり明治維新を迎えるが頼久寺も栄枯盛衰を辿る事となった。
当初、山号は天忠山であったが、十三世越宗妙謙禅師が、その字義が明らかでないと言う理由で
現在の天柱山に変えている。伽藍は江戸後期の天保10年(1839年)の大火でも全焼し、
現在のものはその後の再建である。
尚、当山御本尊は聖観世音菩薩で備中西国第五番の札所であり、昭和60年3月に開創された
瀬戸内観音霊場第十三番の札所でもある。』 とあります。

山門正面に建つ本堂

本堂に続く書院玄関と庫裏
奥の庫裏入口で庭園拝観受付を行う。

書院玄関の唐破風
三村家は毛利から織田に鞍替えした先見の明はあったのですが、
相手が宇喜多直家と毛利という戦国を代表する謀略家だったのが不運でした。
三代続いて悲劇的な死を迎えた訳ですが、根は真面目な人だったのでしょう。
宇喜多直家などは、後に信長に寝返って所領を安堵されています。
もう少し狡賢さがあれば、また違った展開になっていたかと悔やまれます。
江戸時代に城の受け取りが赤穂藩の手で行われたのにもびっくり。それから10年経たない内に、
赤穂藩が同じ運命を辿るとは浅野・大石の両名は夢にも思わなかったに違いありません。

庫裏受付

頼久寺説明書

以前に拝受した御朱印 (聖観世音)

今回拝受した御朱印
若干、印に変化が見られる。
庭園で有名な優雅な寺の印象がありますが、その沿革を辿ると、まさに血みどろの戦国乱世を体現。
尤もこれは頼久寺のせいではなく、当地が中国地方を抑える拠点であったため。
城は有事の際には兵士の駐屯地となったので、避けられない定めではあります。
頼久・安国と良い名が付いているものの、内実は敵の来襲が絶えない【暗黒時】。
まさか山号の天忠を変えたことで【天誅】を受けたとは思えませんが…。

受付後、本堂内陣で御本尊に参拝

内陣に置かれた衝立
墨で描かれた〇は悟りの境地を表すか?
[参考書]
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR備中高梁(10:13)
備中高梁駅前 → 徒歩5分 → 郷土資料館・安正寺 → 紺屋川筋 → 商家資料館 → 石火矢町ふるさと村・武家屋敷 → 頼久寺 → 寿覚院 → 薬師院 → 松連寺 → 備中高梁駅前
【復路】備中高梁(13:51) → JR岡山(14:56→15:11) → JR相生(16:16→16:18) → JR姫路(16:39→16:42) → JR大阪(17:43)

北側から見た武家屋敷
左手に建つのが旧折井家。
商家群のある新町から東へ向かい伯備線を横断。
踏切手前からは備中松山城の建つ臥牛山を北東に望む事ができる城下町の【白眉】とも言える場所。
踏切を渡った高台は石火矢町、かつての武家屋敷の場所ですが、今は石火矢ふるさと村として
昔のままの武家屋敷を見ることが出来る場所です。有料で公開されているのは二ヵ所。
『漆喰壁の格式漂う旧折井家は江戸初期に160石どりの馬廻り役を務めた武士の屋敷。
天保年間(1830~1844年)に建てられた母屋に漆喰塗りの長屋門が美しい。
母屋は資料館になっており、庭も昔のままに残されている。

伯備線を越えて武家屋敷の残る石火矢ふるさと村へ

風格のある旧折井家長屋門

門から屋敷を垣間見る

御厚意で撮影させて貰った母屋

旧折井家の向こうに見える高梁高校と臥牛山
その南側に続く、埴原家は江戸時代中期の建築。寺院や数寄屋風の要素を取り入れた
珍しい造りとなっており、市の重要文化財に指定されている。
この辺りから南の頼久寺にかけては昔の武家屋敷が残る「武家屋敷通り」となっている。
町の喧騒から逃れてのんびりと散策を楽しむ事の出来る場所である。』 とあります。
同じ南北に伸びる筋にあっても高梁川に近い低地は商家、城に近い高台には武家と
きちんと棲み分けは出来ていた様子。別段、どちらが良い悪いという事はありませんが…。

石火矢町の看板の先にも武家屋敷が続く

旧折井家の南に建つ旧埴原家

門の向こうに見える埴原家の寺院風玄関
公開している武家屋敷の南の岡村邸には重厚な門が建ちますが、
ここは「男はつらいよ 第八作・寅次郎恋歌」のロケ地。
岡村邸は現在も居住されており、公開している訳ではないので、門から見るにとどまりました。
特に「撮らさん!」と言う訳ではないのですが…。
撮影が行われたのは昭和46年10月で、さくらの夫・博の実家として登場。たしか博の母親が亡くなり
夫婦で葬儀に帰省して、やって来た寅さんが志村喬演じる父親と種々の遣り取りをした記憶があります。
後の32作・口笛を吹く寅次郎にも登場したとありましたが、より最近の筈なのにその記憶はありません。
これはもう完全な老化現象でしょう。

「寅さん」 ロケ地の岡村邸

岡村邸の門

門の前の石段に置かれた映画ロケ写真

門から見た岡村邸
道から北を望むと正面に臥牛山が遠望できます。当時の武士は毎日、城を遠目に見て
登城したのでしょう。今も歩くと髷を結った武士が登場しても不思議ではありませんが、
備中松山藩は最後まで幕府側に付き従った結果、明治政府に睨まれる羽目に。
そのため多くの藩士は屋敷を出て他所へ移り、今の屋敷には明治以降に入居した人が大半だとか。
地元で聞いた話ですが、想像とは大分違っていました。
唯、武士階級でもない人達が今に至る迄、屋敷を護った事は評価して良いでしょう。

岡村邸の向こうに見える臥牛山

石火矢町の武家屋敷通りから見る臥牛山

武家屋敷を南下すると桝形や階段が現れる
ここを右に進むと頼久寺。

高梁鍛治町郵便局 ; 石火矢町ふるさと村の武家屋敷、村花・サツキ
かつては寅さんのロケ地で観光客が来ましたが、最近は備中松山城が日本最高地点に建つ
天空の城として人気急上昇中とか。
加えて、平成30年の豪雨の後に三の丸で保護された猫が「さんじゅーろー」と名付けられ猫城主に。
【にゃん】だか「ひこにゃん」「たま駅長」の二番煎じのようですが、MHCにも描かれる人気者。
下を見て歩いていると折井家の前にはカラーマンホール蓋が設置されていましたが、
備中松山城と並んで猫の絵が描かれています。
臥牛山→寅さんと来れば、卯となりそうなものですが、予想に反して猫。
キャラクターも寅から猫へと小型化しているのでしょうか?

旧折井家門前に設置されている高梁市マンホール蓋

旧折井家にて配布中の高梁市マンホールカード
[参考書]
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元池上醤油醸造元
高梁川に沿って走る180号線から一筋東へ入った通りが本町。
その中でも一際大きな醤油醸造元池上邸が商家資料館として無料で公開。
家屋の他、醤油蔵・製造場などが見学できる休憩所となっています。

北から見た本町の通り
左が商家資料館、右が今年1月に開業した町屋旅館・天籟。
『本町は慶長10年代(1605~1614年)に小堀正次・政一(後の遠州)親子が備中国奉行(備中代官)として
着任してから備中松山城の修復と備中国特産物の生産・集荷及び家臣団の需要に対して、
武家屋敷の西の松山川(高梁川)に沿って町屋作りに着手したのが始まりである。

商家資料館の入口にはかつての看板が掛かる

玄関を入ると直ぐに帳場が

帳場の横は商談の間か?
その後の水谷時代(1642~1693年)に資源開発・物流の大動脈として松山川の航路整備と高瀬舟の
発着場を本町と下町に作った事で、物流の忠臣としての本町にあらゆる業種の有力商人が集まり、
経済活動の中核地域として賑わいを見せた。』 とあります。

かつての醸造場も今は休憩所

醸造を育んだ井戸

最奥に建つ頑丈な建物は醤油蔵
場所的に見ると東の高台には武家屋敷が、西の川沿いには商家群ときちんと棲み分けがされています。
武士は高台で自尊心を満足させ、商人は川沿いで物流に利便性が高いという双方に有利となっています。

母屋と作業場の間にある庭

庭園は母屋から蔵まで細長い造園である

蔵前から見るとこんな感じ
江戸時代は士農工商の階級制が厳しかったと言われますが、階級間の格差よりも同じ階級の中での
格差が大きかったのが事実。
ここ商家資料館でも人形の調度品や庭園を見るにつけ武士の館との遜色は感じられませんでした。
近世は今と比べても決して住み心地の悪い時代ではなかったようです。

館内に飾られている三次人形

これは油屋主人が三次人形に似せて作った天神人形

醤油樽の上に飾られている人形
藤娘(中)と連獅子(右)は分かるが左は何?
[参考書]
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紺屋川付近の美観地区にある造り酒屋
安正寺から再び北へ向かうと西に流れる細い川が眼前に。これが紺屋(こんや)川で、高梁を代表する美観地区。
『城下町を西へ流れ高梁川に注ぐ紺屋川は、かつて備中松山城の外堀の役割を果たしていた。
河畔には美しい桜と柳の並木が続き、その周囲にある白壁・格子窓・蔵などと相俟って情緒ある町並みを形成。
紺屋川美観地区として 「日本の道百選」 にも選ばれている。

紺屋川に架かる住之江橋にて
奥に見えるのが有終館跡。

西から見た紺屋川
橋の上には祠が建つ。

祠の正面に回る
そんな中で一際目立つのが高梁キリスト教会堂。高梁でのキリスト教布教は
明治12年(1879年)10月に始まるが、翌13年に新島襄が来高して活動が急速に発展。
明治15年に高梁キリスト教会設立、同22年には信者の浄財で教会堂が建設された。
これは現存する県内最古の教会堂で、プロテスタントとしては同志社のチャペルに次いで古い。

東より見た紺屋川沿いに建つ高梁キリスト教会堂

正面から見た教会堂
門は閉まっていたが、ミサ中でなければ見学できたらしい。
また市内で最初に建てられた擬洋風建築で、設計は今治市の吉田伊平に拠る。
構造は木造平屋建・切妻造で、正面の車寄二階は菱組天井・漆喰塗の軒蛇腹であり、
トスカナ様式の二本柱が寄棟の屋根を支えている。鐘楼は昭和28年に付け加えられたものである。
当教会からは岡山県初の女学校創設者・福西志計子や木村静を始め、
日本福祉事業の先駆者である留岡幸助など数多の人材が輩出した。』 とあります。

正面に張り出した車寄せ

横から見た教会堂全景
この形は中世西洋の教会に似ているかも…。

教会堂の東には岡山県初の女子高跡地が
川と名が付く割には水量が余りにも少なく、果たして水運に利用できたのか疑問でしたが、
城の外堀の役目を担っていたと知り納得。商家は紺屋川が高梁川に合流する付近に集中していますが、
これは荷物を積み込みやすくするために他なりません。

紺屋川の北側にある消防倉庫兼公衆便所

こちらは川の南側に建つ商家
なまこ壁の建物の向こうは高梁川が流れる。

こちらは 「備中たかはし 町屋賞」 に選ばれた家屋

高梁川と紺屋川の合流点付近のなまこ壁町屋

高梁川と180号線を分ける塀も町屋風
そんな場所に日本家屋と教会堂が並んでいるとは不思議ですが、それほど違和感はありません。
何でもこの教会堂は元宮大工の手になるそうで、建築当初はフローリングではなく畳敷きになっていたとか。
そう思うとどことなく寺院の造りにも似ていて周囲と微妙なバランスを取って存在しています。
云わば和様備中もとい折衷ですが、外から物を受け入れる際に
既存の物に関連付けるのを得意とする日本人らしさが出たと言えるでしょうか。

180号線沿いに建つ旅館・油屋
昭和46・58年の二度、寅さんのロケに使われたとある。

高梁川に架かる方谷橋のたもとにあるここから本町へ向かう

本町から方谷橋を遠望

本町にある醤油店
[参考書]
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備中高梁におけるキリスト教会の成立: 新島襄の伝道と新しい思想の受容 新品価格 | ![]() |

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慧日山 安正禅寺(曹洞宗 永平寺直轄別録所)
山田方谷記念館と彼の銅像の建つ郷土資料館の直ぐ東側、伯備線沿いにあるのが安正寺。
城主の菩提寺との事で、門前には寺標の脇に遥かに高い下馬の高札が建ちます。
慧日山安正禅寺(えにちざんあんしょうぜんじ)は、
『備中松山城主・板倉氏の菩提寺で曹洞宗に属する。板倉家歴代の香華院御霊位祭祀の道場で、
大本山永平寺直轄別録所格式を誇る。延享元年(1744年)備中松山城主となった第七代勝澄は
現在地に御霊堂を建立、板倉家歴代の位牌を祀り御仏殿とした。

塀の向こうに見える本堂屋根

安正寺の席標と下馬の高札

門前には旧制高梁中学発祥の碑も建つ

境内側から見た山門
京都所司代に任じられた初代勝重・二代重宗から幕末の老中首座を務めた勝静までの霊を祀る。
朝敵となった当藩家臣団と朝廷側の岡山藩との交渉が行われたのも当寺である。』 とあります。
境内は別段観光に重点を置いている様子はなく、堂内での内陣参拝も自由。
内陣奥には立入禁止の幕が下がった廊下がありましたが、後で境内から見ると
廊下の先にある建屋が位牌を祀る御仏殿の様でした。

山門の正面に建つ本堂

本堂前面に掲げられた「安正寺」の扁額と向拝欄間の龍の彫刻

内陣に掲げられているのは「慧日山」の扁額
この後、足を運ぶ寺院群は線路を越えた高台に南北に連なりますが、当寺はそこからは少し離れた場所。
藩主菩提寺として足を運びやすい平地のこの場所に置かれたのか、或いは東の寺院群では
どこを菩提寺にするのか甲乙つけ難く、揉めることのないようにこの場所にしたのかは分かりません。
唯、当寺はそれら寺院群とは一線を画しているのは感じられました。
幕末には交渉の舞台となったのは菩提寺としての格式も与ったのは確か。
結果的には無血開城となったのですから、役目は十分果たしたと言えそうです。
【あんしょう】に乗り上げなかったのは何よりでした。

本堂奥から渡り廊下で繋がるのは位牌を祀る御仏殿

本堂に続く書院玄関

本堂前から山門を見る
向こうに見える水色の建物は郷土資料館。
[参考書]
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JR備中高梁駅前に建つ山田方谷銅像と「至誠惻怛(しせいそくだつ)」碑
市内を歩くとやたら目にするのが山田方谷と言う名前。駅前には銅像が建ち、
彼方此方には「山田方谷を大河ドラマに」と書かれた幟もあります。
備中高梁駅から米子方面に三駅先の駅名は「方谷」で彼の出身地。
昭和3年の駅開業時には地名の「中井」となる筈でしたが、
地元住民の運動で「方谷」になったという経緯があります。
今でこそ、宮本武蔵(智頭急行)・吉備真備(井原鉄道)と人名を冠した駅は散見されますが、
国鉄時代には人名の駅は方谷のみ。私は未訪ですが、方谷駅の待合室には
「日本で唯一の人名駅」と壁面に書かれているそうです。
これも地元住民に慕われているからに相違ありませが、ここまでされる山田方谷とは一体どんな人物なのか?

観光案内所で入手した無料冊子
『山田方谷は文化2年(1805年)、備中国阿賀郡西方村の生まれ、幼名は阿璘(ありん)、名は球(きゅう)、
通称は安五郎、方谷はその号である。時代が大きく変わろうとする幕末から明治にかけて活躍した。
5歳で新見藩の儒者丸川松隠に入門。神童の誉れ高く、その噂が藩主の耳に入り御前で
揮毫を披露したのは6歳の時であった。文政3年(1820年)には母、父を相次いで亡くしたため帰郷、
家業の傍ら備中松山藩主板倉勝職(かつつね)から、藩校「有終館」での修行を許された。
後に京都・江戸へ遊学。江戸では佐藤一齋の門下に入り陽明学を修得。後には塾頭に至った。
同門には佐久間象山が居る。
帰国後の天保7年(1836年)、32歳にして有終館の学頭を命ぜられ、またその傍ら私塾「牛麓舎」を開学、
二松學舍大学を創設した三島中洲や越後長岡藩家老河井継之助など優秀な人材を育成した。
有終館は天保10年に火災で焼失するが方谷の尽力で現在の場所に再建。
その時に方谷に拠って植えられた黒松が門脇に聳える。

郷土資料館前に建つ銅像
嘉永2年(1849年)に藩主となった板倉勝静(かつきよ)から元締役兼吟味役に任じられ、財政改革に着手。
産業の振興、情報の公開、流通機関の整備等、画期的な瀬策を実施し藩政改革の実を挙げた。
当時の備中松山藩には10万両に及ぶ借金があり、方谷は藩札の信用を高めるため、
嘉永5年(1852年)には藩札の半数以上を回収し、近似河原で焼却するという事を行った。
その甲斐あって財政も好転、安政4年(1857年)に元締役を退任する際には借財を整理した上、
余財10間万両を残す成果を挙げた。

臥牛山麓に建つ方谷学舎高等学校
財政に加えて政治的にも活躍、藩主勝静が寺社奉行・老中首座になると、幕政顧問として難事に奔走。
戊辰戦争では勝静が旧幕府軍に従って箱館まで転戦するという事態の中、留守を預かった方谷は、
鎮撫使である岡山藩に対し備中松山城を無血開城。城下と人々を戦禍から守った。
唯、その際に藩の優秀な人材であった熊田恰(あたか)が新政府軍の命で玉島で自刃という悲劇も生んだ。
明治維新後は、長瀬塾(高梁市)、小阪部塾(新見市)を開設して門弟の指導に専念、閑谷学校の再建にも尽力した。
明治10年6月26日小阪部にて死去、享年73歳。奇しくも孔子と同年であった。
枕元には板倉勝静から賜った短刀と王陽明全集が置かれたという。
方谷の理念は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」即ちまごころといつくしみであり、
今も地域の人々の心に深く刻まれている。』 とあります。

頼久寺脇にのこる山田方谷先生寓居址

寓居址と方谷の碑
陽明学とは明の王陽明が創始した学派。教科書的には思想家とされますが、東洋史をかじった者にとっては、
科挙に合格し赴任先の地方政治に尽力した官僚・王守仁と言う方がしっくりきます。
彼の時代は明朝の中間期、君主の武宗は宦官に政治を任せ、明朝が衰退に向かう分岐点となりました。
そんな状況下にあって王守仁は、腐敗した政治の立て直しに尽力。
それ故、彼の思想の根本にあるのは、単なる机上の学問ではなく政治に直結した実践倫理。
彼の思想は我が国へも伝わり形骸化した朱子学に新たな風を起こしました。
近江聖人と呼ばれた中江藤樹、弟子の熊沢蕃山に始まり、戦後、吉田茂を筆頭に歴代首相の
政治指南役であった安岡正篤まで続きます。大塩平八郎もそうですし、幕末の維新運動にも大きな影響を与えました。

紺屋川北側にある藩校・有終館跡
塀の向こうには方谷が植えた黒松が聳える。
山田方谷の生涯を見ると、子弟の教育に始まり、財政改革、無血開城とまさに八面六臂の活躍。
常に実践に結び付いた陽明学に沿ったものと言えます。そんな中にあって天寿を全うして
【有終】の美を飾ったのは奇跡と言って良いでしょう。
そんな偉人にも拘らず知名度が今ひとつなのは、歴史小説や伝記に取り上げられる事が少なかったから。
誤解を恐れずに言えば素人受けする偉人ではなかった事に尽きるでしょう。
そんな人物に光が当てるのが歴史家の務めですが、昨今は新たな人物の発掘よりも
既知の人物の焼き直しが目立つようです。
そうかと言って拙稿が役に立つ訳ではありませんが、投稿も【いや未だ】なので報告に及んだ次第。

正面より見た有終館跡
今は保育園となっている。
[参考書]
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伯備線の向こうに聳える臥牛山
夏の青春18きっぷの初めは、備中の小京都高梁へ。下車したのは伯備線備中高梁駅。
古代王国のあった吉備と出雲を結ぶ交通路は1500年に及ぶ歴史を持っていますが、
伯備線は高梁川・日野川と言った川沿いに吉備と出雲を結ぶ横断線として敷設。
昭和43~48年にかけて倉敷~備中高梁間は複線化、特急停車駅でもあり当駅発着の列車も多く
備中北部の主要駅となっています。路線としても幹線扱いで、歴史の【機微】に接した【白眉】と言えましょう。
そんな伝統のある駅も今は駅員不在の時間が多いのが実情、地方再生を謳いながら
その対応には首を傾げたくなるのは私だけでしょうか?

JR備中高梁駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅」印 (下) 2006年JR西日本岡山支社印

WEST EXPRESS 銀河運行に合わせて別バージョンも設置
但し設置場所は駅ではなく、改札を出た高梁市観光案内所。

高梁郵便局 ; 重文・備中松山城
高梁市は13世紀、秋庭氏の臥牛山上の築城に始まる備中第一の城下町。
駅から北へ3㎞程行った場所に、江戸時代に築かれた日本一高い山城・備中松山城が聳えます。
近世備中松山藩の城下町として発展し武家屋敷、商家や寺社が残り、映画 『男はつらいよ』 で
二度もロケに使われた場所。
駅から北へ伸びる城見通りを少し行くと右手に見える洋風建築は明治37年に建築された高梁尋常小学校本館。
今は高梁郷土資料館として第二の人生?を歩んでいます。
全国には小京都と呼ばれる(小京都に加盟している)町が50以上ありますが、規模は平野・盆地と様々。
そんな中でここ備中高梁は盆地ですらなく、高梁川に沿った僅かな平地に人が密集したような状態。
こんな面積にも拘らず城下町を形成したのは、交通の要衝としての役割が大きかったためでしょう。
一概に広ければ良いものではありません。

昭和53年開館の高梁市郷土資料館はかつての尋常小学校

資料館入口は小学校の玄関か?

入口脇には二宮金次郎像が建つ
永らく備中松山と呼ばれていたものが、何故高梁になったのかについては、複雑な経緯が。
室町初期に此の地の城主となった高橋宗康は、己の姓を領民に呼ばれるのを好まず松山に改称。
その後、永く松山が続きますが、最後の藩主板倉勝静が幕府に従って箱館五稜郭まで転戦。
留守を預かった藩儒の山田方谷の方針で無血開城したので焼き討ちは免れましたが、
新政府の命令で、城下を流れる高梁川の名に改名したそう。漢字は変わっても
「たかはし」になったのですから、元に戻ったとも言えます。

日本の道百選に選ばれた「紺屋川」 沿い

紺屋川を通る伯備線

のぼりの特急「やくも」 が通過中
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR京都(6:37) → (山陰本線) → JR園部(7:21→7:25) → JR下山(7:53)
下山駅前 → 徒歩20分 → 大福光寺
【復路】JR下山(9:40) → JR園部(10:13→10:17) → JR京都(10:53) → 徒歩15分 → 西本願寺 → 京都駅前

龍谷山 本願寺(浄土真宗本願寺派本山) 国宝・阿弥陀堂
御影堂参拝に続き、もう一方のお堂の阿弥陀堂へ。移動は渡り廊下を用います。
廊下自体は平面でなく、上に向かって続きますが、これは開祖の目線と阿弥陀様の足元を
同じ高さにする工夫だそうです。

御影堂から渡り廊下を抜けて阿弥陀堂へ

傾斜のある渡り廊下を行く
渡り廊下の左手二階に小さな梵鐘が吊るされていますが、これは境内の打刻を告げる鐘。
その下の一階には木の丸太が吊るされ、若い僧侶が木槌で打撃中。何でも丸太で練習を積んだ
僧侶のみが鐘を撞くのを許される慣わし。たかが鐘と侮ってはいけませんね。

渡り廊下から見える梵鐘

梵鐘の下の階にて丸太を打つ若い僧侶

阿弥陀堂側から見た梵鐘と丸太
そして阿弥陀堂前の廊下に至りますが、長い廊下の途中で堂内に向かい一礼。
説明では御本尊阿弥陀如来の正面だそうで、上から吊るされた燈明が目印だとか。
成程、分かりやすい目印です。

阿弥陀堂前の廊下を進む

上から吊るされたこの燈明が御本尊の正面に当たる

阿弥陀堂内陣へは北側から入る
内陣へは正面ではなく北側から入りますが、ここで説明を受けて目を床に落として観察。
所々、板に木が組み込まれた箇所があって、これは老朽化部分の補修跡。
初めは単に埋めるだけでしたが、後には色々な模様を組み込むようになったようで、
寺院が指示した訳ではなく、宮大工職人の遊び心だそう。漆喰壁の鏝絵もそうですが、
ちょっとした場所に奔放な遊び心を入れるのが本邦の職人の矜持なのでしょう。
その中に、富士山、鷹、茄子があったのは家康贔屓の職人でしょうか?
案内の星野師は「私の一押しは鷹です。」との事で、図柄が好みかと思いましたが、
「ホークスファンなので」と意外な答え。中々、【なんかい】な答えでした。
このような作品が残ったのもこの場所の老化が激しいからでしょう。廊下だけに…。

老朽化の補修跡
これは傘と花模様か?

これは御神酒を入れる器?

これが「一富士」

こちらが一押しの「二鷹」

これが「三茄子」
続いて内陣へ入り御本尊を参拝。面積から見ると御影堂よりも一回り程小さい筈ですが、
そんな印象は全くなく非常に広大な感じ。金色の欄間や豪華な襖絵は他の真宗寺院と同様ですが、
やはり本山は一味違います。内陣の撮影自由という所も同じでした。

参拝者が入れるのは木の柵の手前まで

右側の鳳凰の襖絵

左側は孔雀の襖絵

正面に祀られた御本尊の阿弥陀如来

柱を護る装飾は獅子の模様
こうして時間通りにツアー終了。広い境内には未だ見所が残っていましたが、集合時間もあり以降に持ち越し。
一度体験したツアーですが解説が面白いこともあって、次回も参加しようと思います。
唯、残り23種のカードのどれが貰えるかは、あみだくじを引くようなものでしょうが…。

阿弥陀堂から見た阿弥陀堂門

北側に建つ経蔵

北東隅を護る太鼓楼

発表会に続く親睦会の〆のスイーツ
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