<コース>
JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04) → JR越後川口(11:24) → 道の駅・越後川口〒 → JR越後川口(13:08) → JR小千谷(13:14) → 徒歩15分 → 錦鯉の里 → JR小千谷(14:16) → JR長岡(14:32→15:33) → JR見附(15:46→16:29) → JR三条(16:41) → 三条別院・三条寺町 → JR北三条(18:15) → JR燕三条(18:19)

東本願寺三条別院(浄土真宗大谷派)
この日、最後のMHCでこの日の入手は7枚、加えて郵便局も2局訪問。
電車の運行本数の少ない状況下では健闘した1日と言えます。
半面、寺社巡りは浦佐の毘沙門さまだけとはちと寂しいなと思っていると、
「越後三条良寛の道」 と書かれた道標の向こうに壮大な伽藍を有するのが
市民から 「御坊さま」 と呼ばれる東本願寺三条別院。

道路脇に建つ木製の道標

「良寛の道」 の奥に壮大な伽藍が見える

夕暮れの門前へ
石標には 「本寺小路」 とある。
JR北三条駅から東へ300m程進んでも大きな甍の屋根が目に入るのでそれと分かります。
東本願寺三条別院(ひがしほんがんじさんじょうべついん)は、
『元禄3年(1690年)、東本願寺第16代法主である一如(いちにょ)に拠り開山。
東本願寺の出張所として開創され、米山以北の越後国の所属寺院の管理に携わった。

門の正面に建つ壮麗な本堂
普通、真宗寺院は本堂に加え御影堂が建つが、ここは兼務?

正面から見た本堂

本堂の向拝
大きく前に張り出した向拝と屋根を支える太い柱は真宗伽藍共通。
毎年11月5~8日に宗祖親鸞の法要として執り行われる報恩講は 「お取越(とりこし)」 と呼ばれ
近郷の信者の参詣で賑わい、周辺では植木の露天市が開かれる。
寺務所前には、良寛が当地で詠んだ歌碑が立ち、
門前には明治天皇が行在所として滞在した石碑がある。』 とあります。

本堂左手は書院?

寺務所前に建つ良寛の歌碑

入口脇には明治天皇行在所址の石碑も
三条市には国道8号線の南側に本成寺(ほんじょうじ)という壮大な法華宗総本山があって、
30年程前に参拝済。かつて押印した北三条駅のスタンプに 「越後の仏都の玄関口」 とあったのは、
同じ市内という事もあり同じ寺院とばかり思っていましたが全くの別院。
図柄を見ても三条別院の本堂を写したのは明らかでした。

JR北三条駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
弥彦線・越後線は紫色で統一。デザインは三条別院の伽藍。

JR三条駅のデザインは別院伽藍とは明らかに別
壮大な伽藍を有し、幼稚園も経営している様子は真宗寺院に共通。
だとすると本堂内陣は自由に拝観できる筈ですが、流石に17時過ぎは時間切れ。
【別に参上】と持ち越しになりました。

本堂向拝下にて

本堂前面の扉

本堂屋根の妻部分
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JR見附駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
この日の移動もほぼ終盤、長岡駅を出発して見附駅で下車。
ニットの町として知られ駅員さんも配置されていますが、駅は住宅の中にあるだけ。
新潟県の旧国鉄駅が町の中心を避けたのがここでも同じ。
MHCの配布先ネープル見附へは曲がった道を1㎞程先。【見付け】るのは容易でしたが、
45分では更に先の郵便局訪問はお預け。【にっと】笑うことは叶いませんでした。

見附市マンホール蓋
MHCを入手し1㎞を往復して、今宵の宿のある三条へ【参上】。三条市でもMHC配布中でしたが閉館は17時。
JRの駅では信越線に三条・東三条、弥彦線に北三条・燕三条の四駅ありますが、配布先は北三条の駅前。
途中、乗り換えては完全にタイムオーバーなので最も手前の三条駅で16時41分に下車して歩くことに。
一か八かの賭けでしたが、何と駅前には小型タクシーが1台停車中。目的地までは1㎞余りだったので迷わず乗車。
閉館10分前に到着してこの日最後のMHCも無事入手。金物の町でしたが、料金は¥990と苦にならない額でした。

三条市マンホール蓋

この日のMHCの 〆 はこの二枚
三条市は市内を流れる五十嵐川が信濃川に合流する場所で、隣接する燕市も似た状況下でした。
そのためかつては氾濫が絶えず、農耕にも不向きで住民は貧しい暮らしを強いられる事に。
それを見かねた代官が、和釘作りを奨励したのが、金物の町に飛躍するきっかけになり、
やがて農具・大工道具・金物食器へと発展し、国内有数の金物都市が出来上がりました。

三条市にある駅スタンプでは金物の町をアピール

隣接する燕市は洋食器を全面に
金のない状態から金物へと移り変わった訳ですが、その元となったのが代官の助言だったというのがミソ。
一般に言われる悪代官などと言うものは小説やフィクションの世界の事だと分かります。
為政者は、庶民の【かじ】取りにも気を配らねばなりませんでした。

市内で見かけたもう一つのマンホール蓋
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花火の街で火花を散らす
小千谷から北へ向かい長岡で下車。この日初めて駅前に繁華街のある駅です。
上越線は宮内で信越線に合流しますが、そこが終点ではなく全ての列車は更に一駅先の長岡まで。
かつては旧街道の分岐点という交通の要衝は今も健在。
次の列車までの1時間でMHCと風景印を各々2種類ゲット。
その関係ではありませんが長岡は県下で二番目の都市。
というよりも江戸時代は長岡藩の城下町で新潟はその外港という位置付けでした。

JR長岡駅スタンプ (JR西日本新潟支社印)
信越線は朱色で統一。火焔土器は県下初の国宝に認定された。
両者が逆転するきっかけは幕末。外国に対して開港した新潟と、
戊辰戦争で戦場になった長岡というのが明暗を分けたと言えます。
幕末の長岡藩家老・河合継之助は有能な人物で、北上する新政府軍に対して果敢に戦いを挑みますが、
結局城は奪われ城下は火の海に。自身も負傷して会津へ抜ける只見線添いの八十里で亡くなります。
その辺りの様子は司馬遼太郎の歴史小説 『峠』 で述べられています。

長岡市マンホール蓋 (その一)
最初に登場したもので、長岡を代表する事物がデザイン。
焦土と化した長岡藩の窮状を見て、近隣の三根山藩は米百俵を送ってきましたが、
長岡藩大参事であった小林虎三郎は、この米を換金して子弟の学校設立資金に回しました。
「食うに困っているのに何が教育か!」 と藩内からは非難を浴びましたが、
「食べられない状況下にあるからこそ教育が大切だ。今日の米百俵は将来一万俵にもなる。」
と藩士を納得させたとか。この後、旧長岡藩は有能な人材を輩出することになります。
この史実をもとに山本有三は『米百俵』を戯曲化、
小泉純一郎首相が度々引用したことで、再び脚光を浴びました。

長岡市マンホール蓋 (その二)
小林虎三郎は幕末の佐久間象山に学んだ俊英、吉田松陰と同門になります。
というよりも松陰は虎三郎の紹介で象山に入門した経緯があり、
この優秀な先達を常々立てていたそうです。
松陰といえば言うまでもなく幕末長州藩の精神的支柱になった人物。
同じ師に学びながら、敵味方となって争わなければならなかったのも悲劇ですが、
単に思想だけでは片付かない政治の複雑さを感じる話です。

駅周辺で入手したマンホールカード
佐久間象山は
「我が門下で、国家の行く末とその経綸を語らせたら吉田松陰の右に出る者はいない。
私が死して後、幼少の子の教育を託すには小林虎三郎に勝る者はいない。」
と周囲に語っていたとか。象山の炯眼は後の歴史の流れを見抜いていたと言えます。

長岡日赤町郵便局 ; 三尺玉の輪郭に配水塔、花火と花火の妖精なっちゃん
長岡呉服町郵便局 ; 呉服の外枠に長岡花火、長生橋
[参考書]
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小千谷市錦鯉の里
当初の予定より遅れて小千谷駅で下車しましたが、ここからは信濃川が北流。
駅の開業は大正9年(1920年)と100年前ですが、駅は右岸で町の中心は左岸。
どうせなら町の中心に乗り入れてくれると有難かったのですが、
目的の場所は右岸にあるので橋を渡って対岸へ。

JR小千谷駅舎

JR小千谷駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
新潟県内を走る上越線は、新幹線の停車する越後湯沢・浦佐には支線がなく、
新幹線の停車しない六日町・小出・越後川口に支線があるのが特徴。
小出 ; 破間川が魚野川に合流し、会津へ只見線が分岐
越後川口 ; 魚野川が信濃川に合流し、信州へ飯山線が分岐
となるので、素人目にはどちらかに新幹線の駅を作るのが普通と思うのですが、
一体どんな事情があったのでしょう。

駅前の地下道入口
こっちへ来い!と言っているのか?

信濃川を渡り市街地へ
左岸の本町付近の施設でMHCを2種ゲットしましたが、その一つは「錦鯉の里」で配布。
小千谷といえば縮と闘牛ですが、それに加えて錦鯉。
『小千谷の錦鯉は江戸時代に始まった小千谷の主要な地場産業。
食用鯉の突然変異を起源として鑑賞用に交配を繰り返し現在の錦鯉の品種が生まれた。
錦鯉が生まれた背景にはこの土地の水の成分が鯉の色素源になる
水藻の繁殖に適しているからとされる。』 とあります。

小千谷市マンホール蓋
これは通常バージョン。

カラー版も設置

小千谷市マンホールカード
配布場所は 「こちら」。
有料の観賞棟からは悠々と泳ぐ錦鯉の群れを間近に見ることができますが、
無料でも遠目で群れを堪能できました。
隣接する信州も佐久鯉が有名ですが、こちらは食べる鯉で、
隣県ながら味覚と視覚で大きく異なるとは【みかく】認でした。

「錦鯉の里」 前に置かれた顔ハメ

門を潜るとモニュメントがお出迎え
亀仙人なら知っているが鯉仙人は初耳。

玄関前の碑
その昔、新潟出身の田中角栄元首相が目白の御殿で一匹数百万から数千万円の錦鯉を
飼っていた様子がテレビで放映されました。一部では「贅沢だ!」という意見もあったようですが、
今にして思えば越後の地場産業の宣伝・振興があったようで、単なる贅沢ではなかった筈。
むしろそんなことはおくびにも出さなかった姿勢の方が立派と言えます。

錦鯉の里の池

悠々と泳ぐ錦鯉

小千谷郵便局 ; 船岡公園、スキーヤー、小千谷縮、錦鯉
新潟城川郵便局 ; 錦鯉、錦鯉の里会館
[参考書]
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浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04) → JR越後川口(11:24) → 道の駅・越後川口〒 → JR越後川口(13:08)

JR越後川口駅構内
上越線ホームから飯山線ホームを見る。
浦佐の毘沙門様を駆け足で拝観した後は、この日の宿泊先の燕三条駅前まで移動。
新幹線では僅か二駅分ですが、平日であることもありMHCと郵便局に寄り道しての移動。
電車はほぼ1時間毎の運行ですが、駅から目的の施設までの距離を考えると程良い時間でした。
先ずは越後川口駅で下車。改札を出てまっすぐ進むと川にぶつかりますが、これは信濃川ではなく魚野川。
魚野川は越後川口と小千谷の間で信濃川に合流するので、川口はその地形からの命名でしょう。
この駅からは飯山線が分岐、魚野川を渡って信州へと続くので合流点は交通の要衝でもあります。
飯山線は駅本屋寄りのホームですが、上越線に比べて格段に本数が少ないので、
上越線との間には雑草が生えていたのが印象的でした。

JR越後川口駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
上越線は緑色で統一、これは1990年代の押印。
改札を出て川沿いを少し遡ると郵便局。
実は平成17年に訪局して押印済ですが、最近デザイン変更されたのが再訪の理由。
より写実的になっていましたが、内容はどちらも鮎簗とキャラクター、
日付は8月15日と1日違い。何かの奇縁を感じました。

川口郵便局 ; 魚野川の簗場、町のマスコット (平成17年押印)
川口郵便局 ; 川口簗場、鮎と越後川口PRキャラクターかわぐっち (令和5年押印)
続いて1㎞弱歩いて道の駅へ。
面積は左程ではないものの、あぐりの里と言うだけあって農産物が豊富で、
それを目当ての来客が多く見られました。ここでもう一つの目的のMHCも無事ゲット。
デザインには花火が描かれているのは、ここが長岡市だからですが、
途中に小千谷市を挟む典型的な飛び地でした。

道の駅 越後川口 あぐりの里

越後川口 (長岡市) マンホールカード
配布場所はこちら
電車に遅れまいと駆け足で駅に向かいますがホームには誰もなし。時刻になっても電車が来る気配がないので
ホームの時刻表をもう一度よく見ると、何と土日祝日のみの運転。次の電車は1時間後。
次の下車駅は隣駅の小千谷ですが、6.6㎞の距離は炎天下で歩くには過酷でした。

道の駅 スタンプ

スタンプの脇には今では珍しいダイヤル式の公衆電話
どうしようかと悩んでいると、さっき通った場所に「まるじゅう」と言う蕎麦処があったのを思い出し入店。
お昼時でしたが一人なのですぐ昼食にありつけました。味は勿論、値段も手頃とまさに【にじゅうまる】。
涼しい場所でお腹を満たせレジに向かうと「こころ旅」の暖簾が。
お店の方に伺うと火野正平さんとスタッフがこの店で食事をされたそうで、
日頃テレビで見ている場所に自分も行くとは思いも寄りませんでした。
食事処があったから良かったものの、JRの駅周辺にもう少し施設があってもよさそうなもの。
道の駅に寄ったので余計にそう思うのでしょう。道の駅に人が多いのは物産を販売しているからで、
JR駅も国鉄時代の柵(しがらみ)から自らを解き放つ時期に来ている気がします。
先立って施設を【しょうへい】しなければなりませんが…。

道路に面した 「まるじゅう」 入口

冷やしとろろ蕎麦 ¥780

レジに架けられた 「こころ旅」 の暖簾
こうして1時間遅れで無事乗車とまりましたが、駅に着くと何と1番ホームに
13時11分発戸狩野沢温泉行きの列車が入線。とうちゃこに続き列車がとうちゃくです。
1時間遅れのお蔭で滅多にお目に掛かれない飯山線と遭遇できた訳ですが、
そうでも思わないと1時間遅れは取り戻せなかったもの事実です。

1番線に入線中の飯山線列車
[参考書]
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吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派)
毘沙門堂前から本堂と庫裏を望む。
毘沙門堂から境内の建物はいずれも回廊で繋がっています。
本堂外陣の縁側から右に連なった回廊を進むと、白壁・赤いトタン屋根の建物と続きます。
『本堂に続く白壁の建造物は別行殿(宝物殿)。中央には運慶作と伝わる真言教主大日如来を安置し、
その四隅には東西南北の方角を護持する四天王像を配置。作者・製作年代不詳の四天王は
仏教の守護神である持国天・増長天・広目天・多聞天から成り、立体曼荼羅を形成する。
いずれも甲冑を身に着け武器を持つ。頭部にある兜飾りは希少である。
単独で祀られる時には多聞天は毘沙門天の名で呼ばれる。

毘沙門堂から右手へ続く回廊

白壁が映える別行殿(宝物殿)
別行殿に続く赤いトタン屋根の建物は普光寺本堂。承久3年(1221年)鎌倉幕府将軍・源実朝が
地頭・平繁基をして毘沙門堂に堂領を献ずると共に、僧道乗坊辨覚を天王堂 (毘沙門堂) 別当に任じ、
浦佐川西地区に境を定め「永代伐木殺生禁断」の令を下した。
辨覚はこの令を広まるため、また寺務執行のため、この地に大伽藍を建立。これが普光寺の創始と言われる。
慶長年間に火災に拠り普光寺が焼失、二十世賢弘和尚が延宝8年(1680年)4月、
檀信徒の協力を得て再建したのが現在の普光寺である。』 とあります。

本堂全景

本堂前から見た毘沙門堂側面

お堂の前は盆踊りの準備中
浦佐の毘沙門様で知られる当寺ですが、寺の本堂はこちらで大日御如来が御本尊。
しかし由緒記に拠れば、平安初期に建立された毘沙門堂の別当寺として
鎌倉初期に出来たのが普光寺なので、時代的には400年も後。
加えて「裸押し合い祭」が開催されることで、対外的には毘沙門堂が前面に出るのでしょうが、
本堂も江戸時代17世紀末の建立。毘沙門堂が火災によって昭和の再建となった現在では、
歴史的建造物の資格は十分に思えます。
唯、本堂は観光客の拝観はしていない様子。本堂前の境内には盆踊りのライトが準備されていましたが、
あくまで地元の方々の寺院を全面に出しているのでしょう。

回廊脇の鐘楼

御朱印 (普光寺御本尊)

同時に頂いた越後新四国八十八ヵ所霊場の御札
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吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派) 毘沙門堂
山門を拝観したあとは、いよいよ目的の毘沙門堂へ。
山門からは参道ならぬ屋根付きの回廊が続いていますが、豪雪に対する配慮でしょうか?
お堂へは回廊途中で右折しなければなりませんが、そのまま直進すると正面には不動明王が鎮座。
毘沙門様に先立ってこちらへお参り。
『当山の不動明王は石像仏としては日本最大と言われており、明治初年に六日町の石工富八郎に拠り作製。
うがい鉢は当地大崎の坊谷山産出の大石を刳り貫いて作られた。

山門から毘沙門堂まで続く回廊

回廊の途中から山門を見る

回廊を直進した場所に鎮座する不動明王石像
右折する左側に建つのは古山門、江戸初期の高田城主松平越後守が修造したと伝わる。
元来、現在の山門(仁王門)の位置にあったが仁王門が新たに建立されるに当たり、
文政9年(1826年)にこの場所に移築。中央に聖徳太子、左右に白山権現・蚕天尊、
お堂に向かい左右には大黒天・愛染明王が祀られている事から太子堂と呼び習わされている。
長年の傷みに拠り屋根にトタン工事が施された他は、ほぼ当時の原形を留めて居り、
毘沙門堂境内に残る最古のお堂である。』 とあります。
境内最古の建造物がこのような形で残されているとは普通なら見落とす所でした。
その脇には欅の巨木が二本聳えますが、御神木でしょうか?

回廊の曲がり角に立つ古山門(太子堂)

太子堂前にて

太子堂を囲む様に聳える欅の巨木
古山門の正面に建つのが毘沙門堂。
『毘沙門堂は、大同2年(807年)平城天皇の御代、征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷征伐の折、
国家鎮護の為に建立。インドの仏工・毘首羯麿作とされる本尊毘沙門天を奉祀したのが草創と言われる。
承久3年(1221年)鎌倉幕府は地頭・平繁基をして堂領を献じ、道乗坊弁覚を毘沙門堂別当に任じた。
これに拠って付近一帯は「永代伐木殺生禁断地」と定められ、毘沙門堂の威徳は高まる。
永徳2年(1382年)には八名の武将が毘沙門堂造営のために田を寄進したという古文書が残っており、
室町前期には各地の武将・豪族が競って田地を寄進。
その結果、桁行五間・梁間五間・入母屋造・茅葺の壮大な伽藍が建立されたと言われる。

回廊を右折し毘沙門堂へ向かう

毘沙門堂向拝前にて (内陣は撮影禁止)
戦国時代に入ると上杉謙信や景勝が当寺を訪れ、彼らの文書が残されている。
江戸時代には坂戸城主堀丹後守直寄が30石を寄進、従前と合わせ50石を領した。
慶安年間には三代将軍家光から御朱印50石・10万石の格式で遇され、緒役免除の特典も得た。
八代将軍吉宗以後は堂宇の修復は魚沼全郡に公課できることとなり明治維新まで続いた。
江戸時代には古義真言宗(醍醐派)に属していたが、明治に入ると新義真言宗(豊山派)に改宗している。
大正6年(1917年)に国の特別保護建造物に指定された毘沙門堂は、昭和6年(1931年)に火災のため焼失。
その後、5年の歳月を費やして再建されたのが現在に残る毘沙門堂である。
設計は当時の日本建築界の重鎮伊東忠太が担当した。

回廊入口から毘沙門堂を遠望

毘沙門堂全景
回廊があるためお堂の全景が撮れる場所は少ない。
毘沙門堂が多くの人で賑わうのが毎年三月の第一土曜に開催される「裸押合い大祭」。
日本三大奇祭の一つに数えられる。春を待ちわびた雪国の人々の熱気が伝わるこの祭りの由緒は古い。
江戸時代の記録では、正月三日、近くの村々から老若男女が立願のため、男は裸、
女は単(ひとえ)或いは袷(あわせ)を着て集まり、稲刈りの姿をして踊っては左右に分かれて押し合う。
これを「一踊り一押し」と言い7回繰り返す。
5回目の時、酒を堂上に注ぎ、7回目が終わると肩車に乗りささらをすりながら歌う。
この時、童子は堂にぎっしり立つ人々の頭の上を踏んで縦横に歩き回ったという。

堂前に掲げられた 「多聞天王」 の扁額

向拝下にて
正面に建つのが不動明王を祀る祠。
現在は近郷から奉納された30~50㎏の巨大蝋燭が照らす中を、不動尊前のうがい鉢の湧水で
身を清めた褌一つの男衆が堂内に入り、「サンヨ、サンヨ」の掛け声で激しく押合う。
この間に年男が人馬に乗って現れ、櫓に登って群衆に福盃を撒く。
これを拾えば幸運を得られるという五穀豊穣を願う奇祭。「堂押し」とも呼ばれ、
押し合う信者の熱気溢れる祭りは古式そのままの祭事として、
国の重要無形民俗文化財に指定されている。』 とあります。

「裸押し合い大祭」 の写真 (説明書より)
境内では先述した山門と並ぶ壮麗な建造物で間違いなく江戸時代以前の建築と信じていましたが、
それが昭和一桁の建築で未だ百年に至っていないとは驚きでした。
そんな新築を感じさせないのはさすが近代建築の巨匠と言えます。
尤も、積雪のために劣化が早いことは考えられますが…。
火災の原因について説明はありませんでしたが、奇祭のロウソクの火の不始末だけはあって欲しくありません。
銀杏を筆頭に樹木は延焼を防ぐ効果がありますが、境内には古山門脇にある欅の巨木が目立つくらい。
その意味でも今以上に樹木を増やしてほしいもの。越後の樹木は【植え過ぎ】くらいが丁度良いでしょう。

浦佐 毘沙門堂 説明書

御朱印 (毘沙門堂)
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04)

吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派)
道路添いの入口を抜け石橋を渡ると正面に壮麗な山門(仁王門)が。
そのまま山門を進むと毘沙門堂、右の坂を上ると普光寺に至りますから、
山門は毘沙門堂楼門も兼ねています。
石橋は短いながらも下に水が流れておりいかにも古刹の雰囲気。
橋の石の欄干は裸祭りで使用されるロウソクを模っています。

石橋を直進すると山門へ
石橋は 「参禅橋」 とあるか?

右の坂を上ると普光寺へ
『吉祥山の参号を記した山門は文政3年(1820年)に起工し、天保2年(1831年)に完成。
12年の歳月と10万余の信者の奉仕によって建立された。総欅造りで日光東照宮陽明門を模したと言われ、
釘は1本も使われていないのが特徴である。

石橋上から渓流を見下ろす
左手にも寺院があったが、下調べ不足のため今回はスルーする。

裸祭りの蝋燭をデザインした石橋欄干
天井には江戸後期を代表する絵師・谷文晁作の双龍図が力強く描かれ、
「八方睨みの龍」として知られる。
山門二階には東方に向かい金箔の段々を背に毘沙門天二十八使者像と
賢空和尚・内藤棟梁の像が奉安されている。
作者は京屋政五郎・六右エ門満昭の共作で、天保2年より天保7年の間に作られた。

山門の欄間彫刻の象と龍

山門の組物も見所の一つ
また山門二階の壁面に8枚の板絵と、格天井には23枚の天女の絵図がある。
約170年前に描かれた「天女・十六羅漢・釈迦出山絵図」と呼ばれ御用絵師の作と伝わっていた。
平成21年に板谷家が東京国立博物館に一万点程の文書を寄贈したが、
その資料の中に浦佐普光寺山門の「天井画配置図下絵」と「天井画・板絵下絵」を発見。
山門の天井画は年代から、板谷家5代目・板谷桂舟弘延の描いた作と結論された。』
とあります。

八方睨みの龍と毘沙門天二十八使者像 (説明書より)

山門下では天井画の案内が
普光寺境内では最も古く荘厳な建造物であるのは外見からも判断できますが、
説明にあるような天井画・壁画があると知ったのは初めて。
しかも令和2年より修復していた天井画・壁画が今回山門に戻ったそうで、
8月14~16日のお盆の期間に限り¥300の見学料で拝観可能。
これ以降は¥500で電話での予約制とか。
電車の時刻の関係で見学は短時間でしたが、期間ぎりぎりで間に合いました。
この日は幸運にも終了ギリギリで滑り込みセーフが何ヵ所かありましたが、
これも上杉謙信公が【義理】の人だったからに他なりません。

釈迦出山絵図

天女図 (その一)

天女図 (その二)
[参考書]
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<コース>
JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04)

JR東京駅に入線する「とき309号」
8月16日は台風7号が近畿中国地方を直撃。陸海空の公共交通が軒並み運休したので、
お盆の帰省・旅行の計画変更を余儀なくされた方々も多かった事と思います。
かく言う私も乗車予定の15日の夜行サンライズ出雲が運休、折角1月前に並んで取った切符も使用できませんでした。
といって盆休みはそのままなのでイチかバチかの16日始発のぞみ200号で東京へ着いた後、上越新幹線へ乗車。
運休明けでしたが、のぞみ指定席、とき自由席も余裕で遅れることなく越後入り。
台風一過と安心していましたが、7時半頃から大雨のため東海道新幹線が運転見合わせと知ったのは後の話。
問題の時刻には静岡を過ぎた頃だった筈でギリギリセーフでした。

自由席ホームもこんな状態
新潟へ入って二駅目の浦佐で時刻通り下車。新幹線停車駅とはいえ、
新潟や長岡のような交通の要衝でもなく取り立てて観光地でもありませんが、
上杉謙信公所縁の普光寺があり浦佐の毘沙門さまとして知られています。

駅前では裸祭りの蝋燭のモニュメントがお出迎え
実は浦佐で下車するのは今回で三度目。最初の1994年には群馬県から移動して駅前へ宿泊。
当時新調された駅スタンプのデザインは毘沙門さまで行われる「裸押合い祭」。
非常に興味が湧いたものの当時はネットも普及せず、結局行かずじまい。
後で思えば駅員さんに尋ねるべきでした。
次に訪れた平成17年8月には場所は分かっていましたが、夕方だったためスルー。
結局、三度目の正直の訪問となりました。

最初の訪問時(1994年)に押印した浦佐駅スタンプはシャチハタ式
上越線内は緑色で統一されていた。

大和郵便局 ; 越後三山、スキー場、裸押合い祭
二度目の訪問時(平成17年)は風景印を押印するために下車。
浦佐駅スタンプはシャチハタ式からスタンプ台式へ、図柄も「裸押合い祭」から「山門」へと
変更されていましたが、毘沙門さまがメインは変わらず。
駅前には巨大なロウソクのモニュメントがありましたが、これは祭りを表したもの。
前回は気付きませんでしたが、最近できたのでしょうか?

今回押印したJR浦佐駅スタンプ
インク式だが、インクがやや薄め。

駅前のマンホール蓋
「やまと」とあるが奈良ではない!
新幹線からは伽藍屋根が望めましたが、駅西口を出て通りを真っすぐ進むと
毘沙門通りにぶつかり、右折するとすぐに門前。
新幹線も含め電車の本数は1時間に1本程度ですが駅近くであった事で【不幸時】は回避できました。

毘沙門通りに掲げられた案内板

この石標の奥に毘沙門堂が建つ
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36)
大垣駅(9:08) → (養老鉄道) → 養老(9:30) → (レンタサイクル10分) → 養老寺 → 徒歩15分 → 養老神社 → 徒歩15分 → 養老の滝 → 徒歩30分 → 養老寺 → (レンタサイクル5分) → 大菩提寺 → (レンタサイクル50分) → 道の駅 月見の里 → (レンタサイクル10分) → 徒歩10分 → 行基寺 → (レンタサイクル10分) → 駒野駅
【復路】駒野(15:16) → 大垣(15:53→16:04) → JR米原(16:39→16:47) → JR大阪(18:13)

臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所)
書院の間から見える苔庭と岩肌
濃尾平野を見渡せる対面の間から中庭を挟んで北側には藩主の間が。
どちらかと言えばこちらが文字通り対面の間ですが、そこへ行くには短いながらも
書院縁側から木製の反り橋を渡る必要がありました。
他からは隔離された感があり、中央には段差がついた畳が敷かれていますが、広さは僅かに六畳。

対面の間から北側を望む

これは廊下左にある書院の間
人気が無いのに茶器が置いてある。

廊下から木製の反り橋を渡り藩主の間へ
右の舟型の手水鉢で手を清める?

国会のような赤い毛氈を踏んで藩主の間へ

驚くほど質素な藩主の間

藩主の間
御殿様は高い場所に座る?

六双一曲の屏風
画題は中国の隠者?が琴や碁を打つ光景。
部屋からの眺望も先程の対面の間には及びません。
殿様の贅沢と言うよりも、日常の喧騒から逃れる場所だったのでしょう。
古代から現代に至るまで、日本の贅沢はこの程度のものです。
藩主の間も周囲に苔で覆われた庭に囲まれていますが、
極めつけは書院を越えた場所にある西の庭園。

藩主の間の東側の庭園

こちらは北側の庭園

藩主の間から揖斐川方面を眺めるとこんな感じ

藩所の間から南側の庭園・対面の間・書院を見る
『当山の庭園は、松平家菩提寺となった際に、緑山和尚に拠り作庭。対面の間に面した東側には
南北に広がる雄大な濃尾平野を借景にした眺望の庭園があり、百八個からなる飛石が周囲を囲んでいる。
各書院からは濃尾平野は元より、南は知多半島、北は日本アルプス連峰を眺めることが出来る。
一方、書院西側には自然の岩肌を活かした枯山水の庭園が、苔庭の奥には岩肌を伝って落ちる滝水がある。』
とあります。

書院の廊下より西側の苔庭を眺める
正面に見えるのは本堂。

苔庭を北に見ると正面の砂岩の岩盤からは自然の滝が落ちる
東の庭園が部屋から遠景を望む場であるのに対し、西の庭園は部屋から間近な場所を見る場と言えます。
ここ揖斐川右岸は川の堆積の関係で砂岩・泥岩に覆われた場所。濃尾平野を一望できることも理由でしょうが、
その岩から滝が落ちているのが、この場所に寺院が開創された一番の理由。
その辺りの経緯は午前中に参拝した養老の滝にも共通するものがあります。

書院の間に座り庭と滝を眺める

少し本堂寄りからの眺望

本堂の高みから書院と苔庭を見下ろす
「ブラタモリ」では自然の石と滝をそのまま残した庭が絶賛されていましたが、人が手を加えずとも
美しいものは美しい訳で、それを実践した江戸期の縁山和尚の美意識が伺える話です。
滝のある一角は苔の庭となっていますが、これは水に恵まれた環境のお陰。
放映時は雨の季節で苔の緑も鮮やかでしたが、この日は梅雨明け以降の雨が降らない状況のため
苔が焼けているのが気に成りました。降雨を司る龍が山号ですので、きっと回復してくれるでしょう。
【臥龍晴天で枯る】などあってはいけません。

本堂縁側より岩盤を間近に見る

滝の近影
滝の落ちる場所は植物の生育が良い。

横から見た滝

この時期でも日陰の苔はこのように元気
当寺はこの辺りでは珍しく拝観料が必要(¥400)ですが、庭園維持も大変だからでしょう。
テレビでは関係者の姿が全く見えませんでしたが、受付では妙齢の上品な御婦人が対応下さいました。
恐らく住職夫人でしょうが、テレビに映るなど【ぎょうき】が悪いと思われたのか、気になる所です。

苔庭奥の砂岩の岩盤

岩盤は苔庭から本堂奥へと続く

本堂の間近まで岩盤が迫る

書院の掛け軸は平屋に相応しく?『平家(ひらや)物語』 の祇園精舎

書院欄間の透かし彫り
レンタサイクルは駒野駅で返却も可能でしたが、途中の養老駅で列車の行き違いで5分停車するので、
サイクルトレインを利用して返却しました。こうして養老沿線の二ヵ所での社寺の参拝も無事終了。
留守の所もありましたが、先ずは予定通りと言って良いでしょう。
欲を言えば市内の輪中にある“おちょぼさん”こと千代保稲荷にお参りして、
参道でナマズの蒲焼を食べたいところでした。
郵便局訪問の予定もあったので、次回に持ち越して問題なかったのですが、
帰宅後、養老の滝に参拝した人がナマズを食べたら罰が当たることを知った次第です。

駒野駅ホーム看板は名産のみかん

駒野駅記念入場券
キャラは駒野みかん

サイクルトレインでこの日の相方ともお別れ

駅前で見た海津市マンホール蓋
お稲荷さんとナマズは次回に持ち越す羽目に。
[参考書]
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臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所)
対面の間からの揖斐川、濃尾平野の眺望。
本堂参拝して西側に迫る岩肌に対面した後は、右側の廊下を進んで書院奥へ。
その東端にあるのが対面の間と呼ばれる部屋。
床の間には掛け軸や調度品が簡素な中にも上品に置かれています。
藩主の菩提寺なので【体面】を保つ必要があったのでしょうが、それにも増して素晴らしいのはここからの眺望。

廊下を東に進んだ先にある対面の間

床の間の観音様の掛け軸と香炉

対面の間へ渡る廊下を振り返る
『当山の庭園は、松平家菩提寺となった際に、緑山和尚に拠り作庭。書院西側には
自然の岩肌を活かした枯山水の庭園が、苔庭の奥には岩肌を伝って落ちる滝水がある。
一方、東側には南北に広がる雄大な濃尾平野を借景にした眺望の庭園があり、
百八個からなる飛石が周囲を囲んでいる。
各書院からは濃尾平野は元より、南は知多半島、北は日本アルプス連峰を眺めることが出来る。

揖斐川下流方面の眺め

正面に見える濃尾平野
その奥に建つビル群は名古屋市内。

揖斐川上流方面の眺め
高須藩は三万石の小藩ながら尾張徳川家の連枝、支藩で尾張藩に後継者が途絶えた場合に
相続人を出す役割を持った。尾張藩17代藩主の内、実に4代が高須藩の出身である。
御三家を除けば将軍家筆頭家門というべき家格を保ち、江戸城での格式は大大名と同格であった。
幕末から明治維新にかけて大きな役割を果たした尾張藩主徳川慶勝、茂徳、会津藩主松田容保、
桑名藩主松平定敬の四名は高須藩松平家の四兄弟である。』 とあります。

庭園に湧き出す水

揖斐川に架かる海津橋遠望
対面の間から東側を望むと遮るものがなく、「お月見の寺」と呼ばれるのはここからの眺望を言うのでしょう。
今でも旧暦8月15日には観月会が開催されているとか。今の暦では敬老の日前後でしょうか、是非見てみたいものです。

対面の間から北側に続く庭園を望む
その奥に見えるのが藩主の間。

北側の庭園
このように風雅な場所ですが、明治以前には一般人はこの部屋どころか境内も立入禁止。
と言うと殿様が庭で月見を独り占めしたというと優雅な感じですが、果たしてそうなのか?
一般の立ち入りを禁止したのは、この場でかなり政治的な会合等が行われた場所だった可能性が大。
蜜だんごではなく【秘密の談合】であったら、【きなこ臭い】気もします。思った以上に藩主は大変だったのでしょう。

庭園の向こうに建つ藩主の間

庭園を飾る巨石群

書院の廊下を渡って藩主の間へ向かう
それにしても幕末の藩主がここの四兄弟とは驚き。他藩に養子に行く位ですから暗愚ではなかったでしょうが、
皆、それなりの名を残しているのも高須藩の家訓が活きているように思えます。
御三家筆頭でありながら、唯一将軍を出せなかった尾張家ですが、江戸幕府の幕引きでの功績は流石、
【おわり】良ければ総て良しと言えます。尤も、そのために彼らが【談合四兄弟】と言われることはないようですが…。

廊下より庭園を見る

廊下から見る庭園と対面の間

藩主の間に向かう途中の濃尾平野の眺め
[参考書]
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臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所) 本堂
山門を潜り境内を軽く一周した後は伽藍に参拝。
山門直ぐ左手に建つ小振りなお堂は、扁額では真影堂とありますが観音堂。
当寺は西美濃三十三ヵ所札所なので、このお堂に札所の御本尊が祀られている筈で、
先ずはここに参拝。開放されていたので内陣まで入って拝むことが出来ました。

山門左手の観音堂

観音堂内陣で御本尊に参拝
続いて山門の正面に建つ本堂へ。境内の拝観は自由ですが、本堂の内陣・書院・庭園は
入山料¥400を納めての参拝。
臥龍山菩提院行基寺(がりょうざんぼだいいんぎょうきじ)は、
『天平時代に行基が聖武天皇の勅願を得て建立した古刹であるが、その後、徐々に衰退。
当初の伽藍は延元元年(1336年)に結城友定の兵乱で焼失し、正平年間に再建された。

山門の正面に本堂が建つ

本堂とその後方に見える石垣

本堂の向拝前にて

本堂に続く書院玄関
拝観受付はこの左手にある。

臥龍山行基寺説明書

行基寺御朱印 (西美濃観音霊場)
元禄15年(1702年)、尾張二代藩主徳川光友の次男松平義行が美濃高須藩に封ぜられると、
当寺を菩提寺として再建に着手、宝永6年(1709年)に改修工事が完了した。
山門は文政3年(1820年)、本堂は天保3年(1832年)の再建である。
尚、明治維新に至るまで、一般庶民の登山参拝は禁止であった。

本堂向拝下にて

本堂前面に掲げられた扁額
菩提院とは当寺の院号か?

向拝と蝦虹梁

先端部の兎の彫刻

木鼻の部分はお馴染みの象
当寺は濃尾平野を見下ろす高台にあり、高い石垣を持つ城郭風の伽藍であるが、
これは緊急時には高須藩の城としての機能を持たせるためであったと言う。』
とあります。

本堂扉の浮彫はカラー版六つ葉葵?

本堂内陣にはこんなポスターが
当寺は浄土宗なので本尊に祀られているのは阿弥陀如来。徳川幕府は天台宗と浄土宗を
自身の信仰の柱に据えたので、当寺を菩提寺としたのは自然な流れといえます。
本堂の前面には菩提院の扁額が架けられ、扉等には三つ葉葵の紋が描かれているのは
藩主の菩提寺としての格式を表しているのでしょう。
内陣に吊るされた駕篭は当寺の住職が使用したのでしょうか?

内陣に架けられた 「行基寺」 の扁額

扁額の奥に鎮座する御本尊阿弥陀如来

内陣柱の極彩色装飾と黄金の三つ葉葵の家紋

内陣の閻魔様の掛け軸

内陣に吊るされた駕篭
本堂の左側(西側)は山肌が露出していますが、ここはTVでも紹介された場所。
山の中腹なので平地を最大限に利用した結果、このように山肌が間近に迫る構造になったのでしょう。
TVの説明でもありましたが、太古の昔に海底に堆積した岩が隆起してできたのが25㎞続く養老山地で
この付近は丁度断層地帯。濃尾傾動運動と呼ばれるものでできた地形だそうです。
露出しているのは砂岩を主体に泥岩が間に入ったもので、その続きに石垣を積み上げています。
天然と人口の交差と言うよりも、自然を上手く取り込んだもので、これなら左官職人の手を煩わすこともなく、
かつては【盛ん】に造られたのでしょう。別段、設計した人が地質マニアであった訳ではないようです。

本堂の前を通り西側の石垣へ向かう

本堂の間近に迫る石垣

砂岩に石垣を組合わせた独特の構造

砂岩と石垣の接する部分

本堂前から山門を見る
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