fc2ブログ

中世荘園の様相 (岩波文庫 青N402-1)

新品価格
¥1,353から
(2024/2/10 08:50時点)

タイトル画像

良寛堂 (新潟県三島郡出雲崎町石井町)

2023.12.31(16:57) 1688

良寛生誕の地(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14→11:49) → JR吉田(11:58→12:32) → JR出雲崎(13:06)

ホッと情報館陽だまり → (レンタサイクル20分) → 道の駅 越後出雲崎 天領の里 → 代官所跡 → 獄門跡 → 旅立ちの丘 → 北国街道妻入りの街並 → 光照寺 → 円明院 → 良寛堂 → 芭蕉園 → 良寛記念館と夕日の丘公園 → ホッと情報館陽だまり

【復路】JR出雲崎(17:25) → JR柏崎(18:01)

398-12-1.jpg
良寛生誕地 橘屋跡(新潟県史跡)

 JR出雲崎駅から国道352号で山を越え、北国街道に交わるすぐ東にあるのが良寛堂。

北国街道からでも全体が見渡せます。出雲崎観光では真っ先に取り上げられ、

写真にも載る名所ですが、厳密にはお寺ではなく生家の跡地というのが正式名。

近所の家族連れが遊ぶ姿も見え、史跡よりも公園・休憩所と言った方がしっくりきます。

398-12-2.jpg
北国街道から見た良寛堂

398-12-3.jpg
入口に建つ石碑

『この史跡は良寛の生家橘屋山本家の屋敷跡。良寛は宝暦8年(1758年)、

出雲崎町名主山本以南の長男としてここに生を受けた。橘屋は町内の石井神社の神職も務めていた。

元の屋敷は現在地の約二倍の広さで、ここは幕府の御触れを告げた高札場であったという。

最初の代官所は同じ町内の秋田屋敷(現在の石地屋)にあり、橘屋から最も近い代官所として

力を持っていた。また遊郭もあり当時は殷賑を極めたという。

398-12-4.jpg
敷地内に建つ解説板

398-12-5.jpg
境内に建つ句碑
解説等が一切ないため詳細不明。

 道路脇から真っすぐ石畳が伸びる先、広い敷地の中に人間一人がやっと籠れるような

小ぢんまりしたお堂が良寛堂。

良寛堂は地元の郷土史家佐藤吉太郎(号:耐雪)が計画、日本画家の安田靫彦の設計で

大正11年(1922年)9月に建立。後に出雲崎町に寄贈された。

398-12-6.jpg
正面(南側)から見た良寛堂

398-12-7.jpg
良寛堂側面
残念ながら内部拝観はできず。

 堂内には良寛が常に持ち歩いたという石地蔵をはめ込んだ多宝塔に

・いにしえに かわらぬものは ありそみと むかひにみゆる さどのしまなり

の良寛自筆の歌が刻まれている。

良寛の母の故郷佐渡ヶ島を背景に日本海に浮かんで見えるように設計された浮御堂で、

小堂の裏側には佐渡ヶ島を見つめる良寛の座像が彼の心境を物語り感慨深いものがある。』

とあります。

398-12-8.jpg
良寛堂の北側(海側)にある良寛像

398-12-9.jpg
良寛像近影

 説明板は入口脇にあるだけであとは一切なし。天領出雲崎にしては珍しいですが、

観光する人にはここに立って佐渡ヶ島を眺めながら各自で想像を巡らして欲しいという

心積もりなのでしょう。というよりも良寛の心の内に分け入るのは困難。

実写版「英雄たちの選択」を体験することになりました。

398-12-10.jpg
母の故郷の佐渡島を見つめる良寛さんの像

398-12-11.jpg
出雲崎港郵便局 ; 良寛和尚誕生之地碑、良寛堂、佐渡島
信越郵政局で発売された出雲崎の「ふるさとはがき」 に郵頼で押印したもの。左下は郵便貯金の局名ゴム印。

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/27 20:34時点)



新・にいがた歴史紀行6柏崎市 出雲崎町

新品価格
¥5,104から
(2023/12/27 20:37時点)



探訪ガイド 良寛との旅

新品価格
¥1,650から
(2023/12/27 20:37時点)



良寛記念館と出雲崎

新品価格
¥2,200から
(2023/12/27 20:37時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村
スポンサーサイト




和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

光照寺 (新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)

2023.12.30(22:08) 1687

良寛和尚出家の寺(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14→11:49) → JR吉田(11:58→12:32) → JR出雲崎(13:06)

ホッと情報館陽だまり → (レンタサイクル20分) → 道の駅 越後出雲崎 天領の里 → 代官所跡 → 獄門跡 → 旅立ちの丘 → 北国街道妻入りの街並 → 光照寺 → 円明院 → 良寛堂 → 芭蕉園 → 良寛記念館と夕日の丘公園 → ホッと情報館陽だまり

【復路】JR出雲崎(17:25) → JR柏崎(18:01)

398-11-1.jpg
海嶽山 光照寺(曹洞宗 越後三十三観音霊場第十九番札所)

 北国街道を西から東へ向かうと所々に南の山側に登る細道があって、

そこからは町と日本海の向こうに遠く佐渡を望むことができます。

 尼瀬から諏訪本町に入ると町家造りの休憩所の向かいにはやや広い坂が。

手前には東京藝術大学の学生が描いた街並みのスケッチが掲げられているのは

風光明媚な場所の筈。という事で自転車を降りて坂の上へ。

398-11-2.jpg
細道に掲げられた東京藝術大学生のスケッチ

398-11-3.jpg
坂の上から街並み、日本海、佐渡島を遠望

 期待に違わぬ眺望でしたが、同時に「出雲崎おけさ」「孝婦ゆり」の石碑があり、

訪れる銘々が越しの歴史自然ルートを楽しむ仕組みになっています。

その直ぐ上手からは、柵越しに山羊が二頭顔を覗かせて 「めぇーめぇー」 鳴いていました。

398-11-4.jpg
おけさ発祥の地の碑

398-11-5.jpg
碑の解説

398-11-6.jpg
孝婦ゆりの碑

398-11-7.jpg
ゆり小伝

398-11-8.jpg
柵の間から顔を出す二頭のヤギ

 石碑から東へ道を行くと幾つかの寺院が建ちますが、もっとも山側にあるのが光照寺。

寺へ至る光照寺坂の石段右手には石碑が建ち 「良寛禅師剃髪之寺」 文字が。

これは昭和5年(1930年)に良寛百回忌を記念した建碑で、

揮毫は糸魚川出身の詩人相馬御風の手になるもの。裏面には

良寛禅師をしぬびまつりて

・ももとせの 昔は昔今の世に 在さば如何にと 思ほゆるかも   御風

の歌も刻まれていました。達筆で解説なしでは読めませんでしたが…。

398-11-9.jpg
寺院への階段登り口

398-11-10.jpg
良寛禅師剃髪之寺の碑

398-11-11.jpg
碑の裏面の相馬御風の歌碑

398-11-12.jpg
階段脇の石仏

 坂を上った先には狭い境内に堂宇がお出迎え。海嶽山光照寺(かいがくさんこうしょうじ)は、

『白河天皇の承保年間、蛇崩沖に終夜光るものがあり人々は恐れた。

荒木甚助と名の強士が小舟に棹して近づき、拾い上げると三尊正観世音菩薩であり、

不思議な事として霊験が人々の知る所となり、当国霊場の19番札所となった。

 戦国時代に春日山太守であった上杉謙信公の母君、光照坊の信を得て本堂建立、

当寺の開基となった。天正年間に果翁良珊和尚が光照寺と改称し開山となった。

398-11-13.jpg
階段を上った先から境内を見る

398-11-14.jpg
本堂の向拝前にて

 仏殿の奥に建つのが善宝寺。庄内の善宝寺の分かれで、北辰妙見大菩薩を祀る。

「海上安全」「大漁」「商売繁盛」で現在に至るまで多くの信者を持ち、海岸町には相応しい守り堂である。

善宝寺の開基は江戸中期と伝わるのみで一切不明。内陣には明治の船絵を五面保存している。

398-11-15.jpg
向拝下にて

398-11-16.jpg
本堂前面に掲げられた扁額

 また当寺は良寛の出家した寺としても知られる。良寛は出雲崎で代々名主役を務めてきた

橘屋山本家の長男「山本栄蔵」として宝暦8年(1758年)に生まれた。

父は以南の号を持つ俳人、母秀子は良妻賢母型の婦人であったと伝わる。

彼の出家に関しては汗牛充棟の如く説があるが、絶え間ない家の揉め事と

跡目相続に嫌気が差したと一般には考えられている。

398-11-17.jpg
本堂内部の様子

398-11-18.jpg
本堂に掲げられた扁額

 安永4年(1775年)、発心して仏門に生きる道を求め、町内にある光照寺で

十二世玄乗破了和尚の元で剃髪。名を良寛と改め自らは大愚と称した。

当時の寺領は裏山を越えて中山にまで伸びており、若い良寛は寺内の行持は言うに及ばず、

中山の山林や茶畑で働くこともしばしばであったという。西照坊は丁度この頃に出来た尼堂で、

良寛はここに妙喜尼を何度か訪問している。尚、現在に残る西照坊は昭和54年の再建である。

398-11-19.jpg
仏殿奥に建つ善宝寺

398-11-20.jpg
越後出雲崎代官・石上彦五郎碑

 当寺で4年間修行後の安永8年、破了和尚の師である備中玉島の圓通寺十世の大忍国仙和尚が

当寺に来たが、22歳の良寛は和尚の帰山に従い玉島へ赴き、以後12年に亘り玉島で修業した。

出発に当たり父母に別れを告げ、心に誓った当時の心境を後日長歌に詠っている。

この長歌は150回忌を記念して昭和55年(1980年)に境内に大歌碑が建碑されている。

また出雲崎を旅立つ時、町外れの蛇崩れの丘で家族・友人に別れを告げたとされ、

今は旅立ちの丘として良寛の詩碑が建っている。

398-11-21.jpg
本堂前の 「おねがい地蔵」

398-11-22.jpg
良寛の大歌碑

 寛政3年(1791年)、死の床での国仙和尚の言葉に従い諸国を巡礼、寛政7年の暮に出雲崎に帰郷している。

その際には当寺に草鞋を脱いだと考えられ、良寛は争いの渦中におかれた生家が没落するのを

目の当たりにしながらしばしばここに仮住した。その様子にさぞや心を傷めたことと思われる。』 とあります。

398-11-23.jpg
本堂正面上にある 「月の兎」 の装飾(左側)

398-11-24.jpg
同じく、「月の兎」 の装飾(右側)

 創建は平安時代末まで遡り、越後三十三観音の札所にもなっている名刹ですが、

訪れる人の目的は良寛さんの剃髪した寺院だから。

これは東北の古刹を代表する立石寺に参拝する人の目的がその由緒云々よりも

芭蕉が名句を詠んだ場所だからというのにも繋がります。

398-11-25.jpg
寺務所前からの眺め

 出家するならば実家の菩提寺と考えるのが普通。

それを寺も違えば宗派も異なる当寺で敢えて行ったのは何故か?

その後の良寛の生き様を見ると、単に俗世に嫌気が差したという消極的理由というよりも、

禅の教えに一生を捧げようという積極的な理由の様な気が。禅に共感して良寛が生まれた訳ですが、

名主の跡取り息子が十八歳という年齢で仏門に入ったのは、【禅は急げ】の意識だったのか。

橘屋にとっては悲劇でしょうが、そのお蔭で出雲崎の観光名所が一つ増えたのは良しとすべきと言えそうです。

398-11-26.jpg
光照寺説明書

398-11-27.jpg
光照寺御朱印 (越後三十三観音霊場)

 旅立ちの丘は獄門跡の西にある町外れ。蛇崩れという名と周囲の様子からも

何処となく物悲しい印象でした。付近には良寛の詩碑が建っていましたが、

・西出良寛無故人 (西のかた、良寛出ずれば 故人なからん)

という句はなかったようです。

398-11-28.jpg
宿場の西外れにある旅立ちの丘

398-11-30.jpg
官軍総代の墓と歌碑

398-11-29.jpg
孝婦の碑を詠む

398-11-31.jpg
碑の解説

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/27 20:34時点)



新・にいがた歴史紀行6柏崎市 出雲崎町

新品価格
¥5,104から
(2023/12/27 20:37時点)



探訪ガイド 良寛との旅

新品価格
¥1,650から
(2023/12/27 20:37時点)



良寛記念館と出雲崎

新品価格
¥2,200から
(2023/12/27 20:37時点)



遍路の旅 越後八十八カ所霊場

新品価格
¥1,712から
(2023/12/30 22:10時点)



巡礼の旅 改訂版 越後三十三観音札所

中古価格
¥768から
(2023/12/30 22:11時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

北国街道出雲崎宿 (新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)

2023.12.29(23:18) 1686

妻入りの街並み(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14→11:49) → JR吉田(11:58→12:32) → JR出雲崎(13:06)

ホッと情報館陽だまり → (レンタサイクル20分) → 道の駅 越後出雲崎 天領の里 → 代官所跡 → 獄門跡 → 旅立ちの丘 → 北国街道妻入りの街並 → 光照寺 → 円明院 → 良寛堂 → 芭蕉園 → 良寛記念館と夕日の丘公園 → ホッと情報館陽だまり

【復路】JR出雲崎(17:25) → JR柏崎(18:01)

398-10-1.jpg
北国街道出雲崎宿 妻入りの街並

 今回の訪問の目的の一つは妻入りの街並み。山越えの高台や坂付近でも

それらしい町並みを遠望できますが、何と言っても一押しは街道沿いの眺望。

『国道352号線の山手側に平行して延びるのが旧北国街道である。

平成8年(1996年)に建設省「歴史国道」、同年新潟県「景観形成推進地区」に選定され、

住民も参加しながら街並みの整備活動が行われてきた。

全長約3.6㎞、700戸余りの妻入りの家々が立ち並び、北前船の寄港地と

旧北国街道要衝の宿場町として栄えた様子を伺うことが出来る。

398-10-2.jpg
駅前観光案内所 「ホッと陽だまり」 で入手した街並のパンフ

398-10-3.jpg
宿場へ入る高台からの街並

398-10-4.jpg
高台から坂を下る

 妻とは端を意味し建物では大棟と直角な壁面、即ち長手方面の端を「妻」と呼び、

一方の大棟に平行な壁面を「平」と呼んで区別した。従って建物の平側に玄関を設けた造りは「平入り」、

妻側に設けたものは「妻入り」と呼ぶ慣わしである。街並みの所々に案内・説明版が設置されており、

散策パンフレットが道の駅の観光案内所や商店に置かれ散策には便利である。

尚、国道352号線は出雲崎で日本海沿岸から内陸部へと向かい長岡方面へ、

寺泊方面へは国道402号線が旧北国街道沿いに延びて行く。

398-10-5.jpg
いよいよ街並みへ入る

398-10-6.jpg
宿場西端の尼瀬付近

398-10-7.jpg
宿場入口に建つ妻入りの説明板

398-10-8.jpg
看板設置場所

北国街道は出雲崎から江戸へ佐渡の金を運ぶ道として利用され、

信州追分宿から中山道を経て江戸に通じていた。

この間百里で間の宿場は15宿、16~20日かけて歩いた。北国街道は会津街道・三国街道と合わせて

「佐州三路」と言われる内の一つの街道で、多くの人や物資の往来があった。

 幕府は佐渡の金銀を重視し金山の開発に当たらせたため、北国街道は佐渡で産出された金の輸送や、

佐渡奉行や巡見使の通行等、江戸と佐渡を結ぶ主要幹線として再編成され、

東海道等の五街道に次ぎ重要視された。

398-10-9.jpg
宿場の街並みと佐渡からの金の輸送

398-10-10.jpg
尼瀬付近

398-10-11.jpg
休憩所の公園横には漁村風の板塀の家屋が建つ

 江戸時代の出雲崎は北国街道の宿場町として越後一の人口密度を誇った。

当時は家の間口に拠り税金が掛けられていたことから、家の「妻」の部分が通りに面した

「妻入り」という建築様式を持った二間から二間半の長屋が数多く立ち並んでおり、

この「妻入りの街並」が約3.6㎞にも及び、今なおその面影を残す全国的にも珍しい地域である。』

とあります。

398-10-12.jpg
尼瀬から諏訪本町へ

398-10-13.jpg
街並みにフィットした休憩所

398-10-14.jpg
菓子司 「大黒屋」
良寛が求めた和菓子 「白雪羔(はくせっこう)」 を再現している。

398-10-15.jpg
諏訪本町へ

尼瀬 ; 間口三間前後の商家やかつて桶屋・大工を生業としていた町家が纏まって残る
諏訪本町 ; 連続した街並みが最もよく残っている商家を中心とした町建
伊勢町 ; 本町の名主橘屋に対抗する尼瀬の名主京屋屋敷がある
稲荷町 ; 廻船問屋だった熊木屋の広い敷地が残る
岩船町 ; 出雲崎でも有力な廻船問屋「泊屋」があり、海側には荷上場が現存
住吉町 ; 橘屋の後に名主となった町年寄敦賀屋があり今は芭蕉園。尼瀬町の境の大木戸が設置された
石井町 ; 名主である良寛生家の橘屋の地でその跡は現在の良寛堂。最初の代官所が置かれ遊郭もあり賑わった。
羽黒町 ; 享保9年(1724年)稲荷町の陣屋が山崩れでこの地に移転。宝暦13年(1763年)までこの地にあった。
鳴滝町 ; 村々の年貢を納める郷蔵が4棟あった場所
木折町 ; 漁師の家が多く、寛永15年(1638年)に新田として屋敷割が始まる
井鼻 ; 農村と町場の中間的な地区で、様々な種類の家が見られた

398-10-16.jpg
伊勢町にある堀部安兵衛住居跡

398-10-22.jpg
羽黒町付近

398-10-23.jpg
鳴滝町

 妻入りの街並みは現役なので部外者は外から眺めるだけですが、街道沿いに内部を見られる施設があるとの話。

稲荷町のほぼ中央に「出雲崎寄港地の町家」の看板を掲げた妻入り町家があり、

北前船に関する模型・資料を展示とありましたが、何故か扉は閉まったまま。

「来たまえ!船と言いながら何やねん!」と思いましたが、隣接する妻入り会館は会館中。

398-10-17.jpg
稲荷町にある 「出雲崎寄港地の町家」 は閉館中

398-10-18.jpg
隣接する 「北国街道妻入り会館」 は開館中

『妻入り会館は、江戸時代からの伝統的な妻入り家屋の間取りを再現した建造物。館内では

妻入り建築様式及び簡易的な観光名所の説明を聞くことが出来る休憩所や交流の場となっている。』

とあります。町家にしては柱などが新しく感じたのは復元のためですが、

外観しか見れないと思っていたので嬉しい誤算と言えます。

他にも「歴史や五郎兵衛」という町家が拝観可能でしたが、時間切れでこちらも閉館中。

午前中に彌彦神社に参拝したのが後々まで尾を引いたようで、

やはりこの地は【いつも先】に来るべき場所と実感した次第。

398-10-19.jpg
妻入り開館内部
天井からは地場産の紙風船が吊るしてある。

398-10-20.jpg
最も奥の部屋

398-10-21.jpg
床の間

さて北国街道に沿って西から東へ移動しましたが、観光写真に撮られている街並みが見える場所は

なかなか分からず。「絶対に何処かに看板が出ている筈」と自転車を走らすと

漸く「妻入りの街並み展望広場」と書かれた場所が。いつの間にか東端付近の鳴滝町まで来ていました。

398-10-24.jpg
展望広場へ向かう途中

398-10-25.jpg
更に高みへ

398-10-26.jpg
展望台への途中から街並みを見る

 展望広場というものの、舗装された細道を上った先に少し平坦な場所があるだけで、

他に人も居らず観光地と言える雰囲気ではありませんでした。

しかしその場所からは写真に違わぬ眺望が見えるビュースポット。

時刻も日没間近だったので滑り込みセーフでしたが、【なるたき】余裕を持って来たいものです。

398-10-27.jpg
展望台からの眺望

398-10-28.jpg
展望台からの絶景

398-10-29.jpg

398-10-30.jpg

398-10-31.jpg

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/27 20:34時点)



新・にいがた歴史紀行6柏崎市 出雲崎町

新品価格
¥5,104から
(2023/12/27 20:37時点)



探訪ガイド 良寛との旅

新品価格
¥1,650から
(2023/12/27 20:37時点)



良寛記念館と出雲崎

新品価格
¥2,200から
(2023/12/27 20:37時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

出雲崎代官所跡と獄門跡 (新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)

2023.12.28(22:35) 1685

天領の光と影(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14→11:49) → JR吉田(11:58→12:32) → JR出雲崎(13:06)

ホッと情報館陽だまり → (レンタサイクル20分) → 道の駅 越後出雲崎 天領の里 → 代官所跡獄門跡 → 旅立ちの丘 → 北国街道妻入りの街並 → 光照寺 → 円明院 → 良寛堂 → 芭蕉園 → 良寛記念館と夕日の丘公園 → ホッと情報館陽だまり

【復路】JR出雲崎(17:25) → JR柏崎(18:01)

398-9-14.jpg
道の駅の向かいに建つ歴史国道常夜灯

 道の駅で野暮用と昼食を摂った後は、352号線を渡って旧北国街道へ。

道の駅の向かいには巨大な歴史国道常夜灯がありそこから【奥の細道】で旧街道へ抜けます。

『出雲崎は、室町時代の文明年間に上杉家に拠って佐渡征伐の拠点と海岸鎮護のために

陣屋が置かれたのが嚆矢。

それを受け徳川幕府は元和2年(1616年)には七万石の江戸幕府直轄地となり出雲崎代官所が置かれた。

広く越後の300ヵ村を治めたうえ、越後の大名家の監視も兼ねていたという。

398-9-15.jpg
天領佐渡からの御用金の輸送路

以後の出雲崎は唯一佐渡からの金銀輸送の要地として繁栄した。代官所は町内の石井町、

羽黒町、稲荷町と移転し、文化5年(1808年)最終的に出雲崎代官所跡石碑が立つ尼瀬に移転。

以後、明治に至るまで存続した。

歴代の代官の中には教育や港湾の築造に力を振るった名代官も居たという。

このような代官所も幕末の慶應4年(1868年)5月に戊辰戦争で惜しくも焼失。

今でも松の大木や屋敷神社稲荷社が往時を物語っている。』 とあります。

 左程大きいとは言えない出雲崎が何故天領になったのか最初は不思議でしたが、

佐渡の金銀の港と知って納得。貨幣の鋳造は幕府の専売でしたから、

これは是が非でも幕府が抑えなければなりません。

398-9-16.jpg
出雲崎代官所跡

 代官所跡から北国街道を西へ向かうと、左手に石油井戸跡が。

これは世界最古と言われる綱掘式石油井戸C-2号で、明治30年から昭和60年まで

使用されていたという優れもの。坑内の深さは649.45mあったとか。

唯、今は施設保存のため地下部を密閉、井戸芯を9m残した状態で櫓とポンプを復元していました。

新潟県の石油の歴史は古く、『日本書紀』 の天智7年668年に燃ゆる土と水が天皇に献上された

との記録があり 「くそうず」 と呼ばれました。

私はてっきり臭水と書くと思っていましたが、正しい表記は草生水。

昔の人は石油が何から生じるか知っていたのでしょうか?

398-9-17.jpg
世界最古と言われる綱掘式石油井戸C-2号

398-9-18.jpg
井戸の解説とポンプ

398-9-19.jpg
出雲崎尼瀬郵便局 ; 我が国の石油機械掘第一号井の図と記念碑

 中を見られずに「くそーず!」と思いつつ更に西へ向かうと周囲が物寂しくなって

街並みの外れへ至りますが、そこにあるのがこれまた寂しさを倍増させる獄門跡。

尼瀬獄門跡は、

『代官所が置かれた尼瀬町には付属機関として牢屋も作られたが、ここは罪人の処刑を執行する刑場であった。

恐らくは幾千もの斬首が行われ、人々は恐る恐る通行していたと想像できるが、

特に重罪人の首は浜辺の方に晒されたと伝えられている。

若き日の良寛は名主見習い時に、処刑の立会いが嫌で出家したとも言われている。

供養塔は天明年間の建立であり、数体の地蔵尊と老欅は当時を偲ばせるものがある。

地元では現在でも毎年9月1日に供養祭を行っている。』 とあります。

398-9-20.jpg
宿場の西端にある出雲崎宿の道標

398-9-21.jpg
街道の南にあるのは獄門跡

398-9-22.jpg
獄門跡入口

 代官所跡は未だ町の中ですが、獄門跡は明らかな村外れ。鎌倉の龍ノ口もそうですが、

処刑場とは現世と来世の境界地に設ける事が多くこのようになったのでしょう。

 時代劇等を観ると江戸時代には犯罪が多いように思えますが、

実際には当時の諸外国に比べると治安も良かったのが実情。

しかも天領の年貢は四公六民と諸藩に比べて低く抑えられていたので、

一揆や暴動などもなく代官所には僅かな人数しかいませんでした。

398-9-23.jpg
入口の供養塔は天明年間の建立

398-9-24.jpg
供養塔近影

 となると立札に多くの罪人が処刑されたというのはフィクションとなりますが、

ここは佐渡の金銀が集積される場所。

金銀の誘惑は武家庶民に差はないので、それに纏わる犯罪や汚職があったのではないか?

特に窃盗よりも金銀の横流しなど汚職に関わった犯罪が主な処罰対象だった様に思えます。

当時は十両盗めば首が飛ぶとされた時代。一両を現在の幾らに換算するかは意見の分かれる所ですが、

凡そ10万円程というのが相場。ならば百万円で死罪という事になります。

現在の我が国では金を盗んで死刑は考えられませんが、当時はそれが普通でした。

398-9-25.jpg
供養塔の脇の祠にある石仏群

398-9-26.jpg
処刑された人を供養する地蔵菩薩石像

 世界史的に見ると汚職に対する処罰は明らかに西高東低。

古代ローマではその何倍もの罰金刑を課され、中世ヴェネツィアでは死刑でした。

一方、東洋では緩く、旧中国では科挙に合格した高級官僚でも朝廷からの報酬は僅かで、

任地の民衆からの献上に頼っていたのが実情。献上と言う名を借りた収奪に他なりませんが、

民衆もある程度までは容認していたらしく、そのような官僚を清官、

余りにも収奪が酷く暴動や逃散を引き起こすのが濁官と区別していました。

今も中国を含め東洋で汚職が常態化しているのは、こんな背景があるようです。

398-9-27.jpg
更に奥に建つ祠

398-9-28.jpg
祠の石仏群

398-9-29.jpg
処刑を見つめてきた老榎

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/27 20:34時点)



新・にいがた歴史紀行6柏崎市 出雲崎町

新品価格
¥5,104から
(2023/12/27 20:37時点)



探訪ガイド 良寛との旅

新品価格
¥1,650から
(2023/12/27 20:37時点)



良寛記念館と出雲崎

新品価格
¥2,200から
(2023/12/27 20:37時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

出雲崎 天領の里 (新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)

2023.12.27(20:38) 1684

道の駅はいつも先(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14→11:49) → JR吉田(11:58→12:32) → JR出雲崎(13:06)

ホッと情報館陽だまり → (レンタサイクル20分) → 道の駅 越後出雲崎 天領の里 → 代官所跡 → 獄門跡 → 旅立ちの丘 → 北国街道妻入りの街並 → 光照寺 → 円明院 → 良寛堂 → 芭蕉園 → 良寛記念館と夕日の丘公園 → ホッと情報館陽だまり

【復路】JR出雲崎(17:25) → JR柏崎(18:01)

398-9-1.jpg
天領出雲崎時代館(道の駅 越後出雲崎)
海の向こうは佐渡島の遠影。

 午前中の彌彦神社参拝に続き午後は天領出雲崎へ。

弥彦行電車の運行本数も大概少ないですが、越後線出雲崎行の電車もいい勝負。

吉田方面から出雲崎着の電車は日中9:14、13:06、16:21の僅か3本。

しかも3本目では観光は無理なので、実質は2本だけ。

実を言えば出雲崎には1994年のお盆に訪問済。正確な時刻は分かりませんが、当時の時刻も今と似たり寄ったり。

その時には新潟駅を朝出発して9時過ぎに出雲崎に到着。当時は未だ有人駅で、

お盆の時期だったので汗だくになりながらレンタサイクルで山を越えて港まで行った事を覚えています。

398-9-2.jpg
宝形寺院風の出雲崎駅舎

 信越本線に比べ日本海沿いを走る越後線ですが、出雲崎前後は一山超えて内陸側へ。

どうして港を避けたのか疑問でしたが、後で訊いた話では、漁業関係者が強硬に反対したからだとか。

港からの水産物の運搬には便利だとは思うのですが、蒸気機関車を嫌ったのは農業だけではなかったようです。

当時、出雲崎に行ったのは、

① 駅スタンプ押印

② 良寛さんの生まれた地

③ 松尾芭蕉が奥の細道で訪問

とガイドにあったのが理由。しかしいざ行って見ると一通り見たら時間を持て余し、

昼過ぎに駅に戻る結果に。観光地としては今一つ力を入れていないと感じました。

398-9-3.jpg
有人駅時代に押印した出雲崎駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)

しかしその後、出雲崎には

④ 徳川時代には天領

⑤ 北国街道沿いに妻入り街並みが残る

⑥ 近代石油産業発祥地

⑦ 紙風船生産高日本一

という面もあることを知り今回再訪。

④~⑦について以前からあった事なので、これは観光にも力を入れ始めたからでしょう。

それにしては電車の本数も相変わらずで、しかも駅は無人化。これではレンタサイクルもままなりませんが、

代わりに駅前に観光案内所「ホッと陽だまり」が出来て電動レンタサイクルも取り扱い。

取り敢えずは【ホッと】しました。

398-9-4.jpg
レンタサイクルのオマケは地場産の紙風船
イチゴは越後の洒落か?

『出雲崎は、戦国時代に上杉謙信が軍事・経済上の重要性から直轄地として陣屋を置いた地である。

元和2年(1616年)には佐渡の金銀輸送の要地として江戸幕府直轄地となり、出雲崎代官所が置かれた。

代官所は数度移転し、最終的には現在の石碑が立つ尼瀬の出雲崎代官所跡に移され幕末を迎えたが、

慶應4年1868年5月に戊辰戦争で焼失している。

398-9-5.jpg
小高い丘の上から出雲崎の街並みを一望
左奥の建物が 「道の駅」

398-9-6.jpg
街並みを描いた東京藝術大学生のスケッチが各所に置かれる
この絵は、上の写真の場所を描いたもの。

 国道352号線出雲崎夕日ブリッジの袂に建つのが道の駅「越後出雲崎天領の里」。

観光物産センターや公園は多くの観光客で賑わっている。

併設されている天領出雲崎時代館には妻入りの街並みや代官所が再現され、

佐渡から金銀を運搬した御奉行船を復元・展示している。

佐渡金山や北前船について簡単に学べる展示もあり、

また地元の紙風船・凧作りの実演も楽しむことが出来る。

日本のエネルギー産業の黎明期を担った出雲崎の石油産業を紹介する

コーナーも設けられている。』 とあります。

398-9-7.jpg
道の駅にある良寛さまと子供の像

398-9-8.jpg
出雲崎代官所の復元

 真っ先に向かったのは海岸沿いの西にある道の駅。前回訪問時にはありませんでした。

出雲崎駅で下車したのは、私も含め3名でしたが、道の駅の駐車場は車やバイクでほぼ満杯。

特に、佐渡を遠望する海岸沿いに革ジャン姿のライダーが多かったのが印象的でした。

398-9-11.jpg
人の波が途切れるのを待って撮影した 「道の駅」 に隣接する海岸

398-9-10.jpg
駐車場にある出雲崎マンホール蓋

398-9-9.jpg
道の駅で配布中のMHCと 「道の駅」 スタンプ

 先ずは野暮用のMHCを入手して、2階へ向かうとレストラン「陣や」が閉店ギリギリのラストラン。

陣や御膳・海鮮丼は売り切れで、唯一残った「生姜焼き定食」を注文。

出雲崎に来て生姜焼きとは【トン】でもない話ですが、豚はこの付近の名産なのだとか。

唯、閉店間際とあって時間が掛かり、時代館見学はお預け。【しょうが】ない話です。

【冬が来る前にもう一度巡り合いたい】と思うのは紙風船の町だからでしょうか?

398-9-12.jpg
遅めの昼食は生姜焼き定食

398-9-13.jpg
日本海と佐渡を眺めながらの昼食

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/27 20:34時点)



新・にいがた歴史紀行6柏崎市 出雲崎町

新品価格
¥5,104から
(2023/12/27 20:37時点)



探訪ガイド 良寛との旅

新品価格
¥1,650から
(2023/12/27 20:37時点)



良寛記念館と出雲崎

新品価格
¥2,200から
(2023/12/27 20:37時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

寶光院 弥彦の婆々杉 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <寶光院 其の弐>

2023.12.26(20:16) 1683

鬼婆、天女になる(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14)

弥彦駅前 → (徒歩15分) → 弥彦神社 → 徒歩5分 → 寶光院 → JR弥彦(11:49)

398-8-1.jpg
紫雲山 龍池寺 寶光院(真言宗智山派 弘法大師越後十三番霊場)  「弥彦の婆々杉」

 寶光院では阿弥陀堂と本堂の両御本尊に参拝しましたが、見落とせないのが境内奥の裏山に聳える婆々杉。

阿弥陀堂と本堂を繋ぐ回廊の下を潜ると両側に杉の大木が迫りますが、これではなく、

更に墓地と石仏を横目に見て石段を上った先に出現するのがそれ。

398-8-2.jpg
境内に建つ 「婆々杉」 案内標

398-8-3.jpg
阿弥陀堂と本堂の間の参道

 樹齢千年、樹高40m、幹周10mの杉の巨木は昭和27年に天然記念物に指定され、

当山に安置されている妙多羅天女(みょうたらてんにょ)に纏わる伝説から、

俗に「婆々杉(ばばすぎ)」と呼びならわされている。

398-8-4.jpg
参道両側から迫る杉木立

398-8-5.jpg
参道脇の石仏群

 越後の民話の中でも異彩を放つ妙多羅天女縁起は、

『承暦3年(1079年)、彌彦神社の造営工事が斎行された時、上棟式の奉仕の事で

工匠(大工棟梁)と争って負けた鍛冶匠の黒津弥三郎の母が憤懣やるかたなく

恨みの念が昂じて遂に鬼女と化し、形相物凄く雲に乗って飛び去った。

その後、佐渡の金北山、蒲原の古津(現新津)、加賀の白山、越中の立山、信州の浅間と

諸国で悪業の限りを尽くし 「弥彦の鬼婆」 と世人に恐れられた。

398-8-6.jpg
石段の先に杉の巨木が聳える

398-8-7.jpg
「婆々杉」 近影

 保元元年(1156年)、弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が弥彦の大杉の下で鬼婆を説得し

秘密の印璽を授け 「妙多羅天女」 の称号を与えたところ見事に改心。

その後は神仏、善人、子供の守護に尽くしたので、村人はこの大杉を婆々杉と呼ぶようになった。

398-8-8.jpg
杉の梢を見上げる

398-8-9.jpg
幹に巻かれた注連縄

 杉の横には

・世の中の 悪を正して 諸人を 救わん誓い 南無妙多羅天

の歌碑、少し離れて良寛の歌碑が建つ。また阿弥陀堂へと続く参道脇には芭蕉の句碑も建っている。

同行した曾良の日記では、奥の細道の途中、元禄2年(1689年)7月3日に彌彦神社に詣で、

この地で宿泊したとある。』 とあります。

398-8-10.jpg
杉の手前に建つ 「南無妙多羅天」 を詠んだ歌碑

398-8-11.jpg
その横にある良寛上人歌碑
・水鳥の 鴨の羽の色の 青山の 木梢去らずで 鳴くほとゝぎす

 鬼が仏教の教えで改心するのは鬼子母神と釈迦、鬼と聖徳太子等が有名ですが、当寺もそれに類する話。

唯、一般に伝わる鬼に比べて非常に人間的。今でいうクレーマーに似た事実があったのでしょう。

そのような揉め事を丸く収めるのも住職の務めと言えますから、それだけでは伝説にはなりません。

要は改心して人のために尽くしたという所がミソ。

「このように立派な人間になりなさい。」 という願望を込めたものだったのでしょう。

このような教訓は何度語っても【多すぎ】る事はありません。

398-8-12.jpg
阿弥陀堂と本堂、二つの参道の間の庭園

398-8-13.jpg
天鵞絨の様な苔の絨毯

398-8-14.jpg
観音様石像

398-8-15.jpg
観音様の足元の龍
これが湧水ならば、ここに寺院がある有力な理由になりそう。

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/25 20:29時点)



遍路の旅 越後八十八カ所霊場

新品価格
¥1,712から
(2023/12/25 20:31時点)



巡礼の旅 (越後三十三観音札所 巡礼の旅)

中古価格
¥150から
(2023/12/25 20:32時点)



越後八十八ヶ所霊場めぐり

中古価格
¥682から
(2023/12/25 20:32時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

寶光院 阿弥陀堂と本堂 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <寶光院 其の壱>

2023.12.25(20:32) 1682

神仏集合のお寺(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14)

弥彦駅前 → (徒歩15分) → 弥彦神社 → 徒歩5分 → 寶光院 → JR弥彦(11:49)

398-7-1.jpg
紫雲山 龍池寺 寶光院(真言宗智山派 弘法大師越後十三番霊場)
山門の代わりに建つ山号標、左手は弥彦競輪。

 一宮に参拝し、競輪場を見た後は、唯一今に残る一宮の神宮寺へ。

「この【方向】で良いのか?」 と【彷徨】することなく、競輪場の直ぐ脇に寺の入口が。

紫雲山龍池寺寶光院(しうんざんりゅうちじほうこういん)は、

『建久6年(1196年)8月8日。征夷大将軍源頼朝の発願に拠って大日如来を本尊として開基された。

 鎌倉幕府から弥彦に派遣された地頭僧禅朝が薬師堂を弥彦山麓北谷薬師平に移した紫雲山龍池寺は、

12の房舎と山門を持った堂々たる伽藍を有し修行者の修練道場になったという。

398-7-2.jpg
山号標を進んだ先にある境内入口

398-7-3.jpg
石段の先は阿弥陀堂への参道

398-7-4.jpg
阿弥陀堂右手には本堂への参道が

 その後、大いに繁栄するが延徳3年(1491年)に取り壊された。寶光院はその末寺に当たり

廃仏毀釈で衰退するが、隣接する競輪場内にあったかつてのお堂は、大正2年(1913年)に現在地へ移り復興。

阿弥陀堂は明治26年(1893年)当時のもので他はその後新築されたものである。

現在当院に安置されている諸仏の中には廃寺となった諸寺から移されたものが多く、

本堂の御本尊の大日如来は明治2年に廃寺となった真言院より移されたもの。

製作年代は不詳であるが、その気品に溢れる御姿で、参詣者の心を和ませてくれる。

398-7-5.jpg
阿弥陀堂参道前に建つ御本尊 「上品上生阿弥陀如来」 の碑

398-7-6.jpg
阿弥陀堂前から見た参道

398-7-7.jpg
本堂前から参道を振り返る

 阿弥陀堂の御本尊は上品上生の阿弥陀如来で鎌倉時代の常長の作と伝わる。

彌彦神社とも深い繋がりがあり中世に於いては彌彦大明神の本地は阿弥陀如来とされ、

弥彦の地は安養九品の荘厳があると喧伝された。

明治2年(1869年)に廃寺となるまでは彌彦神社の神宮寺の本地仏であり、

また明治維新までは住職が神社に仕える社僧として神社に出仕していた。

彌彦神社に参拝する人の中には神社だけでは片参りとなるので、

当寺の阿弥陀如来に詣でる人も多かったという。

398-7-8.jpg
寶光院由緒記

398-7-9.jpg
俳聖芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月3日に当山に一泊したという。

 阿弥陀如来の頭部に斧で数回打ち付けられた跡が見られるのは、神仏分離の際に焼却しようとしたもの。

幸いに同如来は信者の願いによって焼却は免れ、三島郡出雲崎の民政局へ送られ、

その後西蒲原郡西川町曽根の土堤に仮堂で安置されていた。

明治26年、寶光院兼龍池寺住職の海傳和尚は神宮寺再建を意図し

同30年に現在の堂宇を落成し阿弥陀如来を入仏している。

尚、如来頭部に斧を振り下ろした者は、後に蒸気船の機械に巻き込まれて死亡したと伝わっている。

398-7-10.jpg
阿弥陀堂正面

398-7-11.jpg
阿弥陀堂向拝下から内陣へ参拝

398-7-12.jpg
御本尊阿弥陀如来 (解説書より)

 薬師如来は全盛期には越後・奥州・佐渡の三国の別当を務めたといわれる龍池寺の御本尊で、

山門には毘沙門天を安置し、十二神将は十二坊の一坊一坊に奉安。修行者の修練道場であったと言われる。

毘沙門天は鎌倉時代の作、高さは六尺一寸九分(190㎝)で厳めしく胸を張り脚を踏ん張った木像で、

胸の内面には梵字三文字が、背面には「嘉暦三年(1328年)八月一日龍池寺住人律師頼円」と墨書されている。

十二神将には天正5年(1577年)鈴木門之助に拠り修理された旨が記されている。』 とあります。

398-7-13.jpg
阿弥陀堂から廊下で続く本堂

398-7-14.jpg
横から見た阿弥陀堂

398-7-15.jpg
正面から見た本堂

 越後一宮である彌彦神社には多くの寺院が付随していたようですが、明治の廃仏毀釈で全て廃寺に。

唯、仏像群は有志の方々の努力で各地を転々とした後に、所縁の当地へ戻って来ましたのは不幸中の幸い。

 寺務所へ伺うと御住職は不在でしたが、対応下さった夫人から書置きの綴じ込み式御朱印を拝受、

同時に説明書も頂きました。その説明書に曰く

私 ; 「紫雲山龍池寺寶光院がこちらの正式名称なのですね。」

夫人 ; 「えぇ、そうですか?」

私 ; 「ここにそう書いてありますけど」

夫人 ; 「まあ、本当ですね。」

と、夫人でも名前の事は良く御存じではないようでした。

398-7-16.jpg
本堂の山号 「宝光院」 の扁額

398-7-17.jpg
本堂の御本尊 「大日如来」 (解説書より)
実際に拝観すると意外に小さい。

398-7-20.jpg
本堂向拝下から阿弥陀堂を望む

 正式名称の紫雲山龍池寺寶光院は、廃寺となった寺院の名前に由来。

鵺(ぬえ)とかキメラと言うと怒られますが、言わば寄せ集めのようなもの。

仏さまを集めたので名前も合体したのでしょう。

ややこしくはありますが、由来が分かり易い面も確かにあります。

神仏分離でバラバラになった仏さまが【神仏集合】で一ヵ寺に祀られているのも奇縁といえます。

398-7-21.jpg
庫裏(寺務所)玄関から見た本堂と阿弥陀堂

398-7-18.jpg
寶光院解説書

398-7-19.jpg
寶光院御朱印 (弘法大師越後第十三番霊場)

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/25 20:29時点)



遍路の旅 越後八十八カ所霊場

新品価格
¥1,712から
(2023/12/25 20:31時点)



巡礼の旅 (越後三十三観音札所 巡礼の旅)

中古価格
¥150から
(2023/12/25 20:32時点)



越後八十八ヶ所霊場めぐり

中古価格
¥682から
(2023/12/25 20:32時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

境内並びに施設 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の陸>

2023.12.23(19:52) 1681

神の降臨から自転車の後輪へ(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14)

弥彦駅前 → (徒歩15分) → 弥彦神社 → 徒歩5分 → 寶光院 → JR弥彦(11:49)

398-6-1.jpg
彌彦神社(式内社 越後国一宮 旧国幣中社 別表神社)
舞殿(左)と参集殿(右)の奥に見える十柱神社。

 列車が少ないことからゆっくり参拝した彌彦神社とも愈々お別れ。行きとは別の東参道を抜けて

次の場所へ向かいますが、4万坪の境内と60万坪にも及ぶ社叢林には数多くの施設が建てられています。

 摂社・末社から向かうと、舞殿(ぶでん)・楽舎(がくしゃ)とその向かいに建つ旧拝観所である参集殿。

398-6-2.jpg
参集殿前から見た舞殿全景

398-6-3.jpg
張り出した舞台

『舞殿に用いられた扇状形式垂木は唐の建築様式であり、舞楽が唐から伝来した事への拘り・敬意とも考えられる。

当社の舞楽は三種より成り、第一は神歌楽・天犬舞、第二は大々神楽、第三は小神楽(乙女舞)、

いずれも国の重要無形民俗文化財に指定されているが、この舞殿で奉奏されるのは大々神楽だけである。

この舞殿の北脇に建つ参集殿は間口十一間、奥行三間半、幅四尺廊下を付けたもので、

多くの大々神楽講員の拝観に供する場となっている。』

398-6-4.jpg
舞台前から参集殿を遠望

398-6-5.jpg
舞殿学舎
演じる人の楽屋か?

398-6-6.jpg
参集殿全景

 更に旧勅使館である斎館(さいかん)を経て宝物殿へ至りますが、その前にあるのが旧本殿址。

『明治45年3月、当社は門前町から起こった大火に類焼して、この地点にあった本殿までも炎上。

再建に当たり故実を調べ、将来の災害を避けるために本殿は現在地に移設。

その旧地に元本殿の礎石を据えて記念とした。

398-6-7.jpg
参集殿の奥に建つ十柱神社

398-6-8.jpg
斎館は旧勅使館

398-6-9.jpg
宝物殿の前には旧本殿址が

 更に進むとお盆に奉納相撲が開催される相撲場(土俵)が現れ、万葉の昔を偲ぶ鹿苑(しかえん)には

十数頭の鹿が、鶏舎には天然記念物に指定された蜀鶏(とうまる)を始めとする十数種の在来種の鶏が

飼育されている。』 とあります。

旧地の跡を残すことで、窮地に陥った時代を偲ぶよすがとしたのでしょうが、

歴史が古く面積も広い割には新潟県下には最近まで国宝がなかったのは、

火災に拠る所が大きいのでしょう。

398-6-10.jpg
帰路は東参道から

398-6-11.jpg
東参道脇の相撲場
夏の奉納相撲はこの場所で挙行か。

 春日大社を持ち出すまでもなく鹿と神社の関りは深いですが、『萬葉集』にある

・伊夜比古 神の麓に今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣きて 角つきながら

は彌彦神社を詠っているので繋がりは深いと言えます。

398-6-12.jpg
鹿苑で憩う鹿たち

398-6-13.jpg
鶏舎で飼育中の鶏

 鹿苑・桜苑を抜けて弥彦参道杉並木を行きますが、神社とこれから向かうかつての神宮寺の

寶光院の間にあるのが村営の弥彦競輪場。競輪場が何故一宮の直ぐ横にあるのか不思議ですが、

神社にお参りした御利益があるのでしょう。

弥彦山に降臨された御祭神も競輪までは予想できなかったと見えます。まさか【後輪】繋がりとは思いませんが…。

398-6-14.jpg
弥彦参道杉並木

398-6-15.jpg
弥彦競輪入場口

398-6-16.jpg
宝光院前に隣接する競輪場

 会場警備の人の御厚意でチケット購入なしで兼学がてら見学させて貰いました。

勿論、競輪を見るのは生涯初。日曜でしたが観客はガラガラ。電車といい勝負でした。

警備の人の話では、この日は男子競輪のみ。

「場所が弥彦村ならば、人が少なくてもしょうがないか!」 と思いましたが、

帰ってからテレビで近々三笠宮杯のレースがここで開催されると知って吃驚。

最近は 「ガールズケイリン」 も開催されているそうです。

398-6-17.jpg
客席から見た競輪場

398-6-18.jpg
レースは6人か?

 知人のお嬢さんが最近デビューしたので、帰宅後、尋ねると

『国内唯一の村営で初めてレースに参加する人は、「本当にここでいいの?」と不安になるそうですが、

お米は美味しいし、お土産には名人のお婆ちゃんの笹団子を、夏にはレアな枝豆を届けて呉れました。』

との事。

村営には村営の良さがあるようです。男子ならば越乃寒梅でも届けてくれるのでしょうか?

勿論、自転車でも立派な飲酒運転なので試合前はNGです。尤も、賞金が越後名産の米と酒という事はないでしょうが…。

398-6-19.jpg
レースを終えて退場する選手

398-6-20.jpg
MHCの発行が期待される弥彦村マンホール蓋

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/18 21:16時点)



中央・上信越590駅 (JR・私鉄全線各駅停車)

中古価格
¥356から
(2023/12/18 21:17時点)



神社百景DVDコレクション再刊行 22号 [分冊百科] (DVD付) (神社百景DVDコレクション 再刊行版)

新品価格
¥2,200から
(2023/12/18 21:19時点)



弥彦神社

新品価格
¥5,980から
(2023/12/18 21:20時点)



峰の櫻: おやひこさま物語 (22世紀アート)

新品価格
¥800から
(2023/12/18 21:21時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

十柱神社 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の伍>

2023.12.22(23:34) 1680

拙者は摂社を接写する(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14)

弥彦駅前 → (徒歩15分) → 弥彦神社 → 徒歩5分 → 寶光院 → JR弥彦(11:49)

398-5-1.jpg
彌彦神社(式内社 越後国一宮 旧国幣中社 別表神社)  重文・十柱神社

 本殿に参拝したら一先ず目的は達成。後は次へ移動ですが、

ここで見落としてはならないのが参道右奥に建つ摂社・末社。

普通、このような付随の社は見過ごされがちですが、

本殿に参拝して帰路にお参りする方の姿もチラホラ見えます。

398-5-2.jpg
随神門の手前を右折し摂社・末社へ

398-5-3.jpg
境内各社と各柱の説明板

 入口に掲げられた説明板に拠ると、

『摂社は、左手奥から武呉(たけくれ)・船山・草薙・今山・勝(すぐる)・乙子(おとご)神社と右手前に続く。

祭神はいずれも御祭神である天香山命(あめのかごやまのみこと)の子孫神で後継一代から六代に及ぶ。

越後の開発は、御祭神の子孫が六代に亘って継承し産業文化の基礎が築かれた。

更に二十二所・八所・十柱の末社へと続き、更に妃神を祀る妻戸神社等が鎮座する。』 とあります。

398-5-4.jpg
石段を上った場所から摂社・末社を眺める

398-5-5.jpg
本社側から見た摂社・末社全景

 六祭神を摂社で祀るのは、越後の開発には相当な年月がかかったという歴史的事実があったのでしょう。

並んでいる社の数は記されている御祭神と合いませんが、

船山神社の様に境外にも鎮座されている神が居られるためでした。

その中でも注目すべきは最も下手に鎮座する十柱(とはしら)神社。

398-5-6.jpg
最も本社側に建つ武呉神社

398-5-7.jpg
武呉神社に摂社が続き、突き当りに十柱神社が鎮座

『十柱神社は、元禄7年(1694年)長岡藩主牧野忠辰は和霊のために奉建したもの。

入母屋造・単層・茅葺で、間口二間半、奥行三間である。

江戸時代中期の造営であるが、蟇股・虹梁の彫刻に桃山時代の手法が見られる。

本来は大己貴神(おおなむちのみこと)のみを祀る社であったが、

奉建の際に牧野氏に関わる四神を合祀して社殿が建てられ五所宮とされた。

398-5-8.jpg
下手に鎮座する重文・十柱神社

398-5-9.jpg
十柱神社を見上げる

398-5-10.jpg
向拝と茅葺屋根

 明治6年(1873年)信濃川分水工事中止の際、同工事のため民部省土木司の石湊に創建させる神社祭神を祀る。

明治8年には燕市渡部の十柱から合祀して牧野氏の四神を除き、以後は十柱神社と称した。

明治45年(1912年)の弥彦大火の際にも難を逃れ、昭和25年に重要文化財の指定を受けた。』 とあります。

398-5-11.jpg
向拝正面から参拝

398-5-12.jpg
茅葺屋根と屋根の組物

398-5-13.jpg
蟇股の牡丹の彫刻

 通常、摂社は本殿に付随しているので、参拝する人も少ないものですが、ここだけは別。

重文になっている事もありますが、それは【十分】条件ではなく、昔の社の様式を留めている理由が大。

神様の名前だけ持ってきて、新たに祠を建てたものとは根本的に異なります。

祠は小さくても独立した立派な御祭神、【とはしら】なかったと言う参拝者が殆どでしょうが。

398-5-14.jpg
向拝と蝦紅梁

398-5-15.jpg
年代を感じさせる苔生した茅葺屋根

398-5-16.jpg
摂社の後方から接写!

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/18 21:16時点)



中央・上信越590駅 (JR・私鉄全線各駅停車)

中古価格
¥356から
(2023/12/18 21:17時点)



神社百景DVDコレクション再刊行 22号 [分冊百科] (DVD付) (神社百景DVDコレクション 再刊行版)

新品価格
¥2,200から
(2023/12/18 21:19時点)



弥彦神社

新品価格
¥5,980から
(2023/12/18 21:20時点)



峰の櫻: おやひこさま物語 (22世紀アート)

新品価格
¥800から
(2023/12/18 21:21時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

彌彦神社 本殿 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の肆>

2023.12.21(20:23) 1679

おやひこさま(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14)

弥彦駅前 → (徒歩15分) → 弥彦神社 → 徒歩5分 → 寶光院 → JR弥彦(11:49)

398-4-1.jpg
彌彦神社(式内社 越後国一宮 旧国幣中社 別表神社)

 二の鳥居を過ぎ参道両脇の老杉・古欅の鬱蒼とした樹林を抜けると随身門が目の前に。

精悍な表情の阿吽の狛犬に黙礼して門を潜ると、急に広々とした視界が開け、

越後平野の中央に聳え立つ御神体弥彦山を背に堂々とした拝殿が正面に鎮座します。

これが古くから“おやひこさま”の敬称で親しまれている越後国一宮。

398-4-2.jpg
二の鳥居を抜け随神門へ

398-4-3.jpg
階段の上に聳える随神門

『御祭神の天香山命(あめのかごやまのみこと)は、天照大神の曽孫。

高天原より天孫降臨の際に一緒に降り、紀州熊野に在住。

神武東征の際には韴霊(フツノミタマ)の剣で大功を立てた。

 神武天皇が大和橿原で即位した4年後に越後地方開拓の詔を受け、日本海の波濤を舟で渡り、

越の野積浜に上陸。その地で漁民に漁撈・製塩法を伝授し、更には弥彦に宮居を定め蛮族を平定。

住民に稲作や酒造りの術を指導したという越後開拓・産業文化の始祖神である。

398-4-4.jpg
随神門の唐破風

398-4-5.jpg
回廊前の狛犬(吽像)

398-4-6.jpg
狼を彷彿とさせる狛犬

398-4-7.jpg
門の右手の阿像狛犬

398-4-8.jpg
境内側の随神門に願懸絵馬を架ける参拝者

 当社の由緒は社記に拠れば、第十代崇神天皇の御代に勅命により社殿を造営したとあり、

創建は2千年以上前に遡る。

和銅4年(711年)、詔に拠り神域を広げ社殿を造り改め、続日本紀天長10年の条に「名神に預る」とあるように

延喜の制では名神大社に列し、村上天皇の天暦元年(947年)には正一位に進んだ。

398-4-9.jpg
正面から見た拝殿

398-4-10.jpg
流石に越後一宮は参拝者が絶えない

398-4-11.jpg
拝殿の背後には御神体の弥彦山が聳える

 古来より朝廷の崇敬篤く、江戸時代には越後高田藩主松平忠輝が500石の社領を寄進、

朱印地となった。社家は越の国造の流れを汲む高橋氏が明治時代まで世襲している。

本殿を始めとする諸社殿は明治45年(1912年)に門前町から出た大火に拠る焼失後に、

東京帝国大学教授であった近代建築の泰斗・伊東忠太の設計に拠り

5年の歳月を掛けて大正5年(1916年)に再建されたものである。

398-4-12.jpg
拝殿の向拝前にて

398-4-13.jpg
拝殿屋根の唐破風と千鳥破風

398-4-14.jpg
山の上のロープウェイ山頂駅を遠望

 本殿は三間社流造向拝付、回縁高欄、脇障子を具えた銅板葺き。祝詞舎は20坪両流箱棟造りで、

それに続く拝殿は50坪で入母屋造、向拝、裳階付きの銅板葺きである。

平成10年(1998年)には造形の規範となっている建造物として有形文化財に登録された。』 とあります。

398-4-15.jpg
拝殿から回廊に続く場所は修復中

398-4-16.jpg
拝殿脇の隙間から見た本殿

398-4-17.jpg
社殿を巡る回廊

 由緒記には天香山命が御祭神と記されていますが、元は背後に聳える弥彦山を御神体とするもの。

この辺りは大和一宮である大神神社と同じで、古代の神社信仰に通じるものがあります。

天香山命は神武天皇との血縁が述べられていますが、恐らくは全く別の神様。

後に大和朝廷の勢力が越後まで及んだ時に組み込まれたと思います。

糸魚川の奴奈川姫には翡翠を介して出雲地方との交流があったとか。距離的には離れていますが、

古代の越には出雲に匹敵するような強大な勢力があったとしても不思議ではありません。

 6世紀に男系の天皇(大王)が断絶すると、入婿の形で後を継いだのは

越の国出身の継体天皇であることを考えると、古代の越後の底力に驚きを感じます。

398-4-18.jpg
社殿全景

398-4-19.jpg
彌彦神社解説冊子 ¥200

398-4-20.jpg
彌彦神社御朱印

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/18 21:16時点)



中央・上信越590駅 (JR・私鉄全線各駅停車)

中古価格
¥356から
(2023/12/18 21:17時点)



神社百景DVDコレクション再刊行 22号 [分冊百科] (DVD付) (神社百景DVDコレクション 再刊行版)

新品価格
¥2,200から
(2023/12/18 21:19時点)



弥彦神社

新品価格
¥5,980から
(2023/12/18 21:20時点)



峰の櫻: おやひこさま物語 (22世紀アート)

新品価格
¥800から
(2023/12/18 21:21時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

橋を渡り二の鳥居へ (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の参>

2023.12.20(20:02) 1678

絵馬と石と神木と(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14)

弥彦駅前 → (徒歩15分) → 弥彦神社 → 徒歩5分 → 寶光院 → JR弥彦(11:49)

398-3-1.jpg
彌彦神社(式内社 越後国一宮 旧国幣中社 別表神社)  
参道を左折すると二の鳥居。

 一の鳥居を進むと二の鳥居を過ぎて社殿へ向かう事になりますが、

本殿以外にも種々の建造物群が点在するのが彌彦神社の特徴。二の鳥居に至るまでにも、

神符授与所・手水舎・絵馬殿・神木石柵と4点の国登録有形文化財があります。

神符授与所には神社関係者が居られたので御朱印をお願いしましたが、拝受は拝殿前との事。

私 ; 「この辺りは積雪が多いと思いますが、年末年始はお休みですか?」

神職 ; 「いいえ、どんな大雪でも当社は365日開けています。」

との心強い返事。一宮なら当然とも言えますが、神職の寝食を忘れて取り組まれる姿勢に大いに感謝です。

398-3-5.jpg
先ずは手水舎で身を清める

398-3-2.jpg
四つ角にある井戸?

 神符授与所で参道は四つ角になって社殿へは左折、直進すると宝物殿に至ります。

わざわざ参道を曲げるとは不思議でしたが、なんでも明治の大火に遭うまでは

本殿は宝物殿前に建っていたとか。それなら理由が分かります。

 四つ角には井戸、米俵の記念碑がありますが訪れる人は稀。

しかしその奥の石には人だがりがしていて近寄ると「重軽の石」。

別名「津軽の火の玉石」と言うのは津軽藩が奉納したと伝わる石占(いしうら)で、

持ち上げた時の重量感で吉凶を占うというもの。神社では良く見かける光景ですが、

奉納が津軽藩ならば皆軽いとなりそうですが。

398-3-4.jpg
米どころらしい記念碑?

398-3-3.jpg
こちらは力石ではなく重軽の石

 手水舎の奥に建つ絵馬殿は休憩所も兼ねた場所のようで、歴史を感じる絵馬が奉納されていましたが、

面白いのは鰐の剥製と思しき絵馬。説明書きでは軍艦の乗組員が遠洋航海記念に大正時代に奉納したもの。

旧日本海軍とはいえ実物の鰐とは勇壮ですが、どのような効果を狙ったものでしょうか?

398-3-6.jpg
手水舎の奥に建つ絵馬殿

398-3-7.jpg
奉納された牡丹の絵馬

398-3-8.jpg
勇ましいのは義経か

398-3-9.jpg
するとこちらは弁慶?

398-3-10.jpg
これはリアルな 【鰐の庭】 ではなくて絵馬

 愈々二の鳥居から社殿に向かおうとすると右手に御神木の看板が。

『彌彦神社の神が越後国開拓のため、この地にお出ましになった際に、携えられた椎の杖を地中に挿し、

「この世が自分の住むべき土地ならば繁茂せよ。」

と仰せられたところ、芽を出し根を張りたちまち大木になった。

地面に立てた杖が繁茂して大樹になったことから彌彦神社の位置が定まったと伝わる。

文字通りの御神木で樹種は椎の木である。御神木を囲む石柵は国登録有形文化財である。

手前には良寛作とされる御神木讃歌が掲げられている。』 とあります。

398-3-11.jpg
石の柵に囲まれた高台にあるのが椎の御神木

398-3-12.jpg
良寛さまの御神木讃歌

 御神木といえば千年杉のような巨木を想像しますが、そのようなものは見当たらず。

参道両脇に吊るされた簾の前で作業中の方に尋ねて漸く石柵に囲まれた枝振りの木がそれと判明。

神様や開山が地面に突き刺した杖から大木が成長したという伝説は間々ありますが、

椎の木というのは珍しいパターン。太古の昔に食用であった椎の実に敬意を表したとも言えそうですが、

これで【親睦】を図ることが出来たかは疑問です。

 両脇の簾は屋台の出店準備かと思いましたが、11月1~24日に開催される弥彦菊祭りの準備だそう。

紅葉まつりも含めて参拝が一ヵ月フライングでした。

今年は無理ですが、いずれ霜月に再訪せねばなりません。何せ見ると【きく】とは大違いですから。

398-3-13.jpg
柵には錠が掛けられ御神木を守っている

398-3-14.jpg
二の鳥居を過ぎて本殿へ
鳥居の両側の簾は弥彦菊祭りの準備。

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/18 21:16時点)



中央・上信越590駅 (JR・私鉄全線各駅停車)

中古価格
¥356から
(2023/12/18 21:17時点)



神社百景DVDコレクション再刊行 22号 [分冊百科] (DVD付) (神社百景DVDコレクション 再刊行版)

新品価格
¥2,200から
(2023/12/18 21:19時点)



弥彦神社

新品価格
¥5,980から
(2023/12/18 21:20時点)



峰の櫻: おやひこさま物語 (22世紀アート)

新品価格
¥800から
(2023/12/18 21:21時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
タイトル画像

御手洗川に架かる二橋 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の弐>

2023.12.19(20:34) 1677

神は【たいこ】から、二橋道や!(2023.10.8)

<コース>
【往路】JR燕三条(7:44) → JR吉田(7:58→8:06) → JR弥彦(8:14)

弥彦駅前 → (徒歩15分) → 弥彦神社 → 徒歩5分 → 寶光院 → JR弥彦(11:49)

398-2-1.jpg
彌彦神社(式内社 越後国一宮 旧国幣中社 別表神社)
神社通りの突き当りに建つ一の鳥居

 神社通りの突き当りには正真正銘の朱塗りの一の鳥居が屹立。電車から遠望した大鳥居のモデルで、

左の制札台に掲げられた由緒記に目を通してから、鳥居前で一礼して直進。こちらが表参道になります。

参道の行く手には石橋を渡りますが、その下を流れるのが御手洗川。御神体の弥彦山から流れ出る清流です。

橋の直ぐ左には川へ降りる階段があり、川の名前から想像するに禊をする場所に思えましたが、

後で神社の関係者に伺うと、やはりかつては禊を行っていたようでした。

398-2-2.jpg
一の鳥居脇に建つ壮大な社標

398-2-3.jpg
参拝はここからスタート

398-2-4.jpg
御由緒

398-2-5.jpg
正面から見た一の鳥居

398-2-6.jpg
鳥居に掛けられた扁額

 橋の上から上流に目を遣ると半円形の朱塗りの太鼓橋が。川沿いに近付くと、

石橋が人の渡る橋であるのに対し、太鼓橋は神の渡る橋で玉の橋、

御神橋(ごしんきょう)の別名でも呼ばれています。

『玉の橋(御神橋)は、当社古記録に拠れば和銅4年(711年)勅命により

宮殿が改められた境内建造物の中に御池「玉の橋」が記載されている様に、

古くから参道中程に「御神橋」があり、室町時代の境内古地図にも描かれている。

398-2-7.jpg
御手洗川に架かる石橋(祓川)を渡る
奥の朱塗りは玉の橋。

398-2-8.jpg
石橋横の石段を下りると禊の場所

398-2-9.jpg
石橋上からの眺望

398-2-10.jpg
石橋上から玉の橋を見る

 「玉の橋」について古伝は、

「今の人心の玉の橋を求めて神慮に通わしめて真の道を得る心なり」

と述べている。

 明治45年(1912年)の弥彦大火の際には、社殿始め境内建造物を焼失した中で、

明治29年(1896年)改築の玉の橋だけは難を免れた。

その後の境内拡張、社殿立替え事業に際しては外苑弥彦公園に一時移転されていたが、

昭和60年(1985年)の御遷座70年奉祝を機として霊峰弥彦山の清流御手洗川に修理復元された。』

とあります。

398-2-11.jpg
覆いも含めた玉の橋全景

398-2-12.jpg
朱塗りが鮮やかな玉の橋

398-2-13.jpg
神様はこんな急な橋をお渡になられるのかしらん?

 玉の輿はしばしば聞きますが、玉の橋は初耳。人と神は厳正に区別されるべきと言う考えが、

このような別橋の建造となったのでしょう。御神体は弥彦山なので、【太古】の昔に御手洗川に沿って

下って来た神は人よりも上流で社殿のある境内へ入られたのでしょう。

神様は万能の筈なので、わざわざこのような手順を踏まずとも良さそうなものですが、

そこが当社御祭神の人間的な魅力とも言えます。

まさか人間に【たいこ】う心を燃やした訳ではないでしょうが、神様の【御心境】は不可解です。

398-2-14.jpg
駐車場から境内へ入る朱塗りの橋

398-2-15.jpg
橋から玉の橋を遠望

398-2-16.jpg
弥彦郵便局 ; 彌彦神社大鳥居、ロープウェイ、弥彦山

[参考書]

新潟県の歴史散歩

新品価格
¥1,320から
(2023/12/18 21:16時点)



中央・上信越590駅 (JR・私鉄全線各駅停車)

中古価格
¥356から
(2023/12/18 21:17時点)



神社百景DVDコレクション再刊行 22号 [分冊百科] (DVD付) (神社百景DVDコレクション 再刊行版)

新品価格
¥2,200から
(2023/12/18 21:19時点)



弥彦神社

新品価格
¥5,980から
(2023/12/18 21:20時点)



峰の櫻: おやひこさま物語 (22世紀アート)

新品価格
¥800から
(2023/12/18 21:21時点)




ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング


御朱印ランキング


にほんブログ村


にほんブログ村

和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)


新潟県 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
2023年12月
  1. 良寛堂 (新潟県三島郡出雲崎町石井町)(12/31)
  2. 光照寺 (新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)(12/30)
  3. 北国街道出雲崎宿 (新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)(12/29)
  4. 出雲崎代官所跡と獄門跡 (新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)(12/28)
  5. 出雲崎 天領の里 (新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)(12/27)
  6. 寶光院 弥彦の婆々杉 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <寶光院 其の弐>(12/26)
  7. 寶光院 阿弥陀堂と本堂 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <寶光院 其の壱>(12/25)
  8. 境内並びに施設 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の陸>(12/23)
  9. 十柱神社 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の伍>(12/22)
  10. 彌彦神社 本殿 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の肆>(12/21)
  11. 橋を渡り二の鳥居へ (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の参>(12/20)
  12. 御手洗川に架かる二橋 (新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦) <彌彦神社 其の弐>(12/19)
次のページ
次のページ