<コース>
淀屋橋 → (京阪特急) → 出町柳 → 徒歩20分 → 哲学の道 → 法然院 → 徒歩10分 → 熊野若王子神社 → 徒歩3分 → 永観堂 → 徒歩7分 → 安楽寺

住蓮山 安楽寺(浄土宗系単立寺院)
本堂内に安置された両上人と両姫像。
安楽寺は別名・松虫鈴虫寺と呼ばれますが、これは住蓮・安楽上人との悲話に拠ります。
『安楽寺は法然の弟子・住蓮上人と安楽上人の念佛道場所縁の地。
二人の法話の声明は美しく多くの信者を獲得したが、その中に後鳥羽上皇の女官の鈴虫・松虫の二人の姫がいた。
容姿端麗で教養にも恵まれた両姫は上皇からの寵愛も篤く、他の女官達からの嫉妬も相当なものであったと言う。
そのような日常に苦悩した両姫は、いつしか出家を望むようになる。
建永元年(1206年)、後鳥羽上皇が熊野詣の留守中に両姫は夜中に御所を忍び出て、
鹿ヶ谷草庵にて両上人の前で剃髪出家し尼僧になった。時に松虫十九歳、鈴虫は十七歳であった。

境内の南側にある両上人の墓

両上人の墓石

両上人の辞世の詠
(右) 極楽に 生まれむことの うれしさに 身をば佛に まかすなりけり 住蓮上人
(左) 今はただ 云う言の葉も なかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには 安楽上人
これには後鳥羽上皇が激怒し、専修念仏教団に対し弾圧を掛ける。
上人二人は斬首、75歳であった師の法然を讃岐に、親鸞を越後へ流罪とした。
これは「建永の法難」と呼ばれる。
後に都に戻った法然が二人の上人の菩提を弔うために建てたのが住蓮山安楽寺で、
山号寺号には両上人の名を冠している。
出家した両姫は紀州の粉河寺に逃れた後、瀬戸内海の生口島の光明坊に移り、念仏三昧の余生を送った。
松虫は三十五歳、鈴虫は四十五歳で往生を遂げたと伝わる。』 とあります。

両上人の墓の更に奥にある両姫の墓へ

両姫の供養墓

供養墓入口から参道を見返る
右に建つのが客殿。
これが尼僧になった女官の為に二僧が死罪となった「建永の法難」の顛末。
因みにその時に後鳥羽上皇は27歳でした。
密通を疑ったと言う説が有力で、今も昔も【みっつー】は避けるべきものですが、
若かったとはいえ治天の君としてはかなり過酷な処罰と言えます。
両上人の美声が人々を虜にしたとありますが、両姫も鈴虫・松虫という名前からして
美声を以て帝に寵愛された可能性が大。もし轡虫(くつわむし)や螽斯(きりぎりす)という名前ならば、
ここまで上皇も執着しなかったに違いありません。
後に上皇は鎌倉幕府に対して挙兵して失敗。隠岐の島に遠島となり現地で没しますが、
その遠因にこの法難が関わっていたと考えるのは、歴史の仮設としては【上級の編】に当たるでしょうか?

両姫の供養墓

供養墓近影
[参考書]
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