<コース> 紀州路快速は15分間隔で運転
【往路】JR大阪(8:38) → (紀州路快速) → JR和泉砂川(9:53)
泉南市観光協会 → レンタサイクル20分 → 信達神社 → 金熊寺 → 金熊寺梅林 → レンタサイクル20分 → 泉南市観光協会
【復路】JR和泉砂川(14:51) → (紀州路快速) → JR大阪(15:58)

一乗山 観音院 金熊寺(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所第二十九番札所)
神社参拝後は、寺院へ。石の鳥居の直ぐ横に入口があり神宮寺であった事が分かります。
梅林があるので門前には石碑と立派な盆梅が。前の空き地はこの時期、¥500の駐車場に早変わり。
一乗山観音院金熊寺(いちじょうさんかんのんいんきんゆうじ)は、
『真言宗御室派の仁和寺の末寺で如意輪観音を本尊とする。
この本尊は、天武天皇の白鳳10年(682年)、役小角が夢のお告げに拠って金銅六寸の尊像を
土中より掘り出し、四肘の木像を造り安置したのが嚆矢とされる。
役小角は金峯・熊野の両神を勧請し、当寺の鎮守として信達神社に合祀したので、寺名を金熊寺と呼ぶようになった。

寺標脇には梅林石碑と盆梅が

盆梅近影

梅近影
正安元年(1299年)1月28日には、永仁の徳政令の煽りを受けて焼討ちに遭い諸堂が焼失。
しかし本堂と薬師堂は残り本尊も難を免れた。人々は不思議な事と噂したと言われる。
応長2年(1312年)3月28日に本堂・薬師堂・鐘楼・中門・金銅三尺鏡・両界曼荼羅等を補修、
延元3年(1338年)には足利尊氏が元の姿に近いように修復したが、天正13年(1585年)の
豊臣秀吉の根来攻めの兵火に罹り焼失した。

書院前からの境内眺望

本堂とその向こうに見える書院

本尊・如意輪観世音菩薩を祀る本堂

正面から見た本堂
戦国時代に兵火に遭ったが江戸時代に元に近い形で再建された。
慶長12年(1608年)、豊臣秀頼の家臣・大桑平右衛がこの地に狩りに来た際、白鷹を失った。
平右衛が祈願したところその効果あって白鷹を紀伊国で捕らえる事ができたので、返礼として本堂を修復した。
承応2年(1654年)9月には、信達十三ヵ村の人々の善意に拠って現在の堂宇が再興。
寛文5年1665年には岸和田藩主岡部氏から山林と新田を寄進された。
かつての金熊寺は多くの堂宇、塔頭を有する一山であったが、今は塔頭であった観音院のみが残り、
金熊寺の寺跡を継承している。1500坪の敷地に本堂・庫裏・行者堂・薬師堂等があり
信達神社、金熊寺梅林に接し、閑静な佇まいを見せている。』 とあります。

本堂前面
天竺様式に見えるが…。

向拝と庇部分

本堂前の「金熊寺」の扁額

本堂の参拝は外陣から
度重なる火災にも拘らず、御本尊は生き延びたようです。本堂は外陣からの参拝のみですが、
内陣には如意輪観音の巨大提灯が吊るされ、正面奥には金色に輝く観音様があります。
ですが、これはあまりにも金ピカなので御前立、御本尊は御厨子の中のようです。

本堂入口から見た内陣の様子

御本尊・如意輪観世音菩薩
といっても金ピカのこの観音様は御前立。

こちらが秘仏の御本尊 (説明書より)
金熊の由来は神社と同じ。神仏習合であったので当然ではあります。
根来攻めの際の焼失は修験道との関係で理解できますが、
徳政令関連で焼討ちに遭うとは一体どういった事情でしょう?
まさか【きんゆう】関連の仕事をしていたとも思えませんが…。

山門脇の釣鐘堂

書院とそれに続く寺務所(庫裏)

書院玄関に建つ山号寺号碑

金熊寺略記

金熊寺御朱印 (和泉西国札所)
[参考書]
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