<コース>
【往路】JR新大阪(6:00) → (山陽新幹線) → JR新山口(8:18→8:28) → JR防府(8:44)
防府駅観光案内所 → レンタサイクル30分 → 阿弥陀寺 → レンタサイクル15分 → 周防国分寺 → レンタサイクル3分 → 防府天満宮 → レンタサイクル10分 → JR防府駅(12:23)

浄瑠璃山 国分寺(高野山真言宗 別格本山)
阿弥陀寺を十分に巡った後は中心部へ。
旧山陽道の北側に東から毛利氏庭園、周防国分寺、防府天満宮が一直線上に並びます。
毛利氏庭園を過ぎると、かつての国衙ですが今は石碑が建つばかり。
その先に白壁と大楠が見えたら周防国分寺。
浄瑠璃山国分寺(じょうるりさんこくぶんじ)は、
『奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇の勅願に拠って各地に建立された国分寺の後継寺院。
当初は、金光明四天王護国之寺或いは金光明寺などの寺号があったが、
後に浄瑠璃山国分寺と称せられるようになった。

国衙跡
今は石碑が建つばかり。

周防国衙跡説明板
国分寺は宗教に拠って国家を統治する勅願所で、皇室との所縁が特別に深く、
住昔の規模が寺域61町歩余りにまたがり、七堂伽藍と25の塔頭と末寺を擁していた事でも覗える。
後世、寺領の減少や維新後の寺院制度の変革等に拠りその規模は縮小され、
現在では往時の遺構遺跡と建造物の一部を残すのみになったが、北に多々良山、
南に市街を通して三田尻湾を望む景勝の地に建つ大伽藍は、創建当初の地にあり、
当時の官寺の偉容を表している。
旧態を現存する事においては、全国の国分寺中極めて稀である。
本尊は創建当初は丈六の釈迦如来であったが、奈良時代末期から平安時代初期に薬師如来に替わっている。

国分寺の南東隅にて

西側から見た国分寺築地塀
塀脇に大楠が聳える。
境内を囲む築地塀は元禄14年に毛利吉広の修築したもので、仁王門から東方38間半、
西方53間の間に残る古雅重厚な白塗土塀である。
正面に建つ仁王門は重層入母屋造、建坪36坪の堂々とした楼門。
創建当初のものは応永24年に焼失したので、文亀3年大内義興が復興。
現在のものは、慶長元年毛利輝元が建立し、ついて明和4年に毛利重就が修築した。
門の左右には金剛力士像を、楼上には十六羅漢像を安置している。』 とあります。
遥か天平の昔、聖武天皇の勅命で国ごとに国分寺・国分尼寺が設置。
一の宮と並ぶ国を代表する宗教施設と言うより国家機関でしたが、
長い年月の間に多数の寺院が衰頽・廃絶の目に。
本家の東大寺は今も健在ですが、寺が消滅して国分寺跡の石碑だけが残っている所もあります。
特に明治の神仏分離令が痛かった気がします。

入口に建つ石碑

国分寺説明
そんな中で寺領は縮小したものの元の場所に建つ当寺は貴重な歴史の生き証人。
当時の規模を知る格好の例になります。
境内に入って気付くのは巨大な伽藍を誇る本堂ですが、
その他の堂宇や庭園は小規模で大部分は空地の状態。
当初はもっと広い場所を占めていた筈ですが、何故こんなに広い場所を必要としたのか?
国分寺は、疫病退散を願った聖武天皇の発願に拠りますが、
単なる祈りの場所だけでなく、病院も兼ねた役割を担っていたのでしょう。
国分寺の御本尊の大部分は薬師如来。
後世は極楽往生を願う観音信仰が盛んになりますが、古代に於いては先ずは命が一番。
民間医療など無きに等しい時代に、民が拠り所にした場所と言えます。
よく天皇の気紛れで各地に国分寺を建てたという説もあるようですが、
そのような一方的な見方は今後、改めるべき時に来ているのではないでしょうか?

壮麗な仁王門
ここを抜けて境内へ。

境内側から見た仁王門
白壁の美しさもそうですが、注目は築地塀に書かれた筋。
定規筋と呼ばれる水平線ですが、皇室に由来する格式を表しており、
三本・四本・五本とあって五本が最高とか。
五摂家に関わるとも言いますが、当寺は最高位の五本でした。

築地塀にある五本の定規筋
[参考書]
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