<コース>
【往路】JR新大阪(6:00) → (山陽新幹線) → JR新山口(8:18→8:28) → JR防府(8:44)
防府駅観光案内所 → レンタサイクル30分 → 阿弥陀寺 → レンタサイクル15分 → 周防国分寺 → レンタサイクル3分 → 防府天満宮 → レンタサイクル10分 → JR防府駅(12:23)

浄瑠璃山 国分寺(高野山真言宗 別格本山)
壮麗な仁王門(楼門)を過ぎるといよいよ国分寺境内。境内には主要伽藍が幾つか建ちますが、
最も大きいのは中央に位置し南面して建つ金堂(本堂)。
『当初の金堂は応永24年(1417年)に焼失し、同28年に大内盛見が再建。
現在のものは安永8年(1779年)毛利重就の建立したものである。
荘重な二層入母屋造の仏殿で建坪116坪余、堂内の須弥壇は桃山時代のものと伝わる。

仁王門正面に建つ金堂(本堂)

境内の案内

境内の伽藍配置
内陣には多くの仏像が安置されており、須弥壇中央には丈六の御本尊薬師如来、
日光・月光両菩薩が両脇侍として控える。
その前面には十二神将が護持し、四方には四天王像が守護している。
薬師如来は室町期の寄木造り、両菩薩は平安時代の一木造り、
四天王像は藤原時代の一木造りで、いずれも重要文化財である。
加えてこの堂内の左右後方には阿弥陀如来はじめ計50余の仏像が所狭しと安置され、
宛ら古美術館の観がある。

正面から見た重要文化財・金堂

金銅説明板

金堂側面

庫裏より見た金堂北面

北側より見た金堂
また境内の聖天堂には商売繁盛の聖天像が秘仏として祀られ、
寺務所東にある持仏堂には半丈六の阿弥陀如来坐像、
聖武天皇像及び行基菩薩像が安置されている。』 とあります。
創建当時の御本尊は釈迦如来でしたが、奈良時代末期頃には薬師如来に変更。
これは各地の国分寺に共通なので、当寺もそれに倣った事になります。

金堂南側の向拝と入口
内陣拝観はこちらから。

入口の唐破風

向拝柱の突き抜けた部分の象と獅子の彫刻

金堂の屋根の反り

金堂側面の桟唐戸と花頭窓
当寺が旧格を維持し時代毎の霊宝を保存してきたのは、全国的にも稀有な事です。
創建当初は東大寺、その後は西大寺の傘下に入りますが、
戦国時代に入る頃には両寺の影響力も低下。
普通なら衰退の一途を辿っても不思議ではありませんが、
替わって世俗の領主が庇護者になった事が今まで存続できた理由でしょう。
金堂再建に関わった大内盛見は大内氏第11代当主、毛利重就は長州藩第7代藩主です。

北東から見た金堂

金堂北側の向拝

向拝の唐破風

周防国分寺説明書

周防国分寺御朱印 (平成6年拝受分)
パトロンに恵まれた当寺ですが、山口の瑠璃光寺五重塔を建てたとはいえ、
大内・毛利氏共に単なる信心から庇護を加えたものかどうか?
大内氏の経済基盤は当時独占的に行っていた日明貿易、
毛利氏も本州の西端という地理的条件を利用した海外との密貿易を行っていた形成が濃厚です。

金堂の北側に建つ聖天堂
聖天尊は諸仏諸神の母体である大日如来の化身とされ、あらゆる御利益を授けて下さるとか。

北側の庫裏に続く持仏堂(客殿)
宝永3年毛利吉広が建立。半丈六の阿弥陀如来坐像を初め、聖武天皇像及び行基菩薩像が安置される。
当時は僧侶、特に禅僧が通訳兼外交官として貿易に同行するのが常。
周防国分寺は学問所としても周囲に知られた存在でしたから、
そこで学んだ僧侶達が選ばれたと考えるのが妥当な事。
そうなると両大名が庇護者になったのも、宗教的ではなく経済的な理由。
特に他国にスカウトされて独占貿易が出来なくなることを怖れたからに違いありません。

蘇鉄と築地塀

水鑑の井戸
延喜元年(901年)菅原道真が太宰府に左遷される途中、当寺参詣の際にその姿を水に写し、自画像を描いた伝説がある。

水鑑の井戸の説明

国分寺隊の招魂碑

招魂碑の説明

仏足石
釈迦牟尼仏の象徴として拝まれてきた。
[参考書]
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