<コース>
広島駅 → レンタサイクル20分 → 不動院

新日山 安国寺 不動院(真言宗別格本山)
境内にはお堂に加えて鐘楼もあって楼門と共に重文に指定されています。
その後は、境内を見渡す高台の墓地へ。
『金堂の右手、不動堂の前にあるのが永享5年(1433年)の建立の鐘楼。
屋根は入母屋造、杮葺きで桁行三間、梁間二間、重層袴腰付の建物。
架けられている銅製梵鐘は、安国寺恵瓊が朝鮮より持ち帰ったとされる
高麗王朝初期の梵鐘で、鐘楼と共に重要文化財になっている。

重要文化財・鐘楼
朱色が鮮やかであるが、室町時代の永享5年(1433年)建立。

正面より見た鐘楼
金堂の左手、放生池の間の坂を上ると墓地に至るが、一般の墓に混じって
・豊臣秀吉遺髪塔
・福島正則供養塔
・武田刑部少輔墓
・安国寺恵瓊墓
の四基が建つ。
当山中興の祖である安国寺恵瓊は鎌倉以来の安芸国守護武田氏の一族。
大内氏との戦いで武田氏が滅亡した際には、安国寺に身を寄せ12年間仏道修行に励んだ。
時に恵瓊4、5歳であったとされる。
笠雲恵心(じくうんえしん)に師事した恵瓊は上洛し東福寺へ入山。
35歳で安芸安国寺の住持になり、後に東福寺、南禅寺の住持を兼ねた。

金堂と放生池の間の道を上り墓地へ向かう

坂の途中から見た楼門と金堂

一般の墓地の中央には十三重石塔が建つ
下で支えるのは亀。

墓地から境内を望む
安国寺住持になった頃から毛利氏の外交僧として手腕を発揮。
豊臣秀吉との交渉に当たった事から、秀吉の直臣として6万石の大名に取り立てられる。
毛利家の顧問を兼ねながら朝鮮出兵でも渡海するなど武将としても働いた。
大名になって以降も住持は手放さず、当寺をはじめ京都の東福寺、
建仁寺の再建等にも多大な功績を残している。
秀吉没後の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗北。
捕虜となった石田三成・小西行長と共に京の六条河原で斬首された。享年63歳。
当寺の墓所には恵瓊の首塚が現存する。』 とあります。

墓地の一角を占める戦国期の武将の墓四基

武田刑部少輔墓

豊臣秀吉遺髪塔と安国寺恵瓊の墓

福島正則供養塔
最後にお参りした墓所で偶然出会った四人の墓。
いずれも戦国武将ですが、秀吉以外は余り良い最期とは言えません。
恵瓊も毛利の外交僧であった故に処刑されたと思われがちですが、
当時の僧侶・連歌師等が外交・スパイに関わっていたのはほぼ常識。
恵瓊の場合はその自出に加えて外交能力が際立ったためでしょう。
毛利氏も滅ぼした武田の末裔をよく己の陣営に取り込んだものだと思いますが、
それを補って余りあるものがあったと考えるべきです。
関ヶ原の戦いでは、毛利家当主の輝元は西軍の総大将に立ちますが、
そこに持って行ったのは恵瓊。毛利、徳川両家にとっては危険な存在だった訳ですから、
死んでホッとしたところでしょう。
尤も恵瓊にしてみたら、一度は底辺に沈んだ身からのし上がることができた訳ですから
死んでも悔いはのこらなかったに違いありません。

安国寺恵瓊像 (不動院案内より)

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広島城址
戦前は国宝であった。

隅櫓

大手門

復元された天守閣
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