不思議の御坊(2022.8.7)
<コース> 特急サザンは日中30分間隔で運転
【往路】難波(7:45) → (特急サザン3号) → 尾崎(8:22)
尾崎 → 徒歩8分 → 浪速酒造 → 徒歩5分 → 尾崎神社 → 本願寺尾崎別院 → 徒歩10分 → 市役所分室
【復路】尾崎(9:51) → (特急サザン16号) → 難波(10:28)

本願寺 尾崎別院 (浄土真宗本願寺派)
尾崎神社参拝に続き隣接する寺院へ。
地名を冠した点は同じですが、神社がこぢんまりとした一般家屋並みの広さなのに対し、
寺院は大伽藍というに相応しい寺域を持っています。
阪南市のガイドブック等には「浜街道沿いに佇む古寺」の名で紹介。
正門は街道に向いてはいませんが、街道に沿って長い白壁が続くまさに巨刹という表現がぴったりきます。

神社に続く長い壁
この奥に正門が控えるが、ここは浜街道沿いではない。

別院の正門
浜街道から直角の道に面し、北東向き。

こちらが浜街道に面した入口
車はこちらから境内へ入る。

文政13年(1830年)再建の正門
格式高い四脚門で、彫刻欄間が施されている。

正門の扉・欄間彫刻

正門の屋根の下の彫刻
本願寺尾崎別院(ほんがんじおざきべついん)は、
『当院の嚆矢は、善徳寺という小さな草堂に遡る。
ある時、一人の老父が来て善徳寺で一夜を明かした。その時、背負ってきた笈を残し、
中には蓮如上人御染筆の六字の名号、善導大師釈文の一軸があったと伝わる。

由緒記

境内の様子
本堂(左)と庫裏・台所(奥)

正面から見た本堂
もうすぐ法要が始まる直前。
善徳寺はその後焼失するが、そういった経緯もあってか、慶長3年(1598年)領主桑山伊賀守が再建を計画。
浄土真宗に信仰の篤かった家臣・石川次郎左衛門に命じて新たに十一間四面の堂宇を建立して、
本願寺第12代宗主准如上人に寄進し尾崎御坊となった。

いよいよ法要の始まり

本堂前の蔀戸とそれを引っ掛ける金具

本堂の向拝の下にて

向拝の柱の獅子
しかし、元禄13年(1700年)11月晦日に火災に拠り再度焼失。人々は茫然自失したが、
その4年後の嵐の翌朝、尾崎の浜に巨木を積んだ大船が漂着しているのが発見される。
村人は、この材木を天からの贈り物だと大いに喜び、再建の材と成すことを決定。
宝永2年(1705年)9月18日に上棟式を行い、御坊再建を成し終えた。
それ以降、誰言うとなく「不思議の御坊」と呼ばれるようになった。

向拝下から正門を見る

本堂内陣

玄関及び庫裏・台所(左から)

玄関の唐破風

唐破風屋根瓦にある下り藤の寺紋と牡丹の鬼瓦

寺務所(旧お茶所)

寺務所前に残る江戸時代の茶釜
その後、本堂の傷みも激しくなり、平成5年に屋根や内陣等の大修復が行われ、
再建当時の姿を取り戻し今に至る。』 とあります。
由緒記では伽藍焼失後、偶々浜に流れ着いた材木を再建に用いる事が出来たので
「不思議の御坊」と呼ばれるとありますが、私的には、焼失してもその都度各所から
寄進があり再建を果たしている方が驚き。宛ら「不死の御坊」と言った所でしょうか?

鐘楼

寺務所前の大銀杏

境内の樹木群
クスノキ(左)とカイヅカイブキ(右)

尾崎別院 説明書
[参考書]



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【往路】難波(7:45) → (特急サザン3号) → 尾崎(8:22)
尾崎 → 徒歩8分 → 浪速酒造 → 徒歩5分 → 尾崎神社 → 本願寺尾崎別院 → 徒歩10分 → 市役所分室
【復路】尾崎(9:51) → (特急サザン16号) → 難波(10:28)

本願寺 尾崎別院 (浄土真宗本願寺派)
尾崎神社参拝に続き隣接する寺院へ。
地名を冠した点は同じですが、神社がこぢんまりとした一般家屋並みの広さなのに対し、
寺院は大伽藍というに相応しい寺域を持っています。
阪南市のガイドブック等には「浜街道沿いに佇む古寺」の名で紹介。
正門は街道に向いてはいませんが、街道に沿って長い白壁が続くまさに巨刹という表現がぴったりきます。

神社に続く長い壁
この奥に正門が控えるが、ここは浜街道沿いではない。

別院の正門
浜街道から直角の道に面し、北東向き。

こちらが浜街道に面した入口
車はこちらから境内へ入る。

文政13年(1830年)再建の正門
格式高い四脚門で、彫刻欄間が施されている。

正門の扉・欄間彫刻

正門の屋根の下の彫刻
本願寺尾崎別院(ほんがんじおざきべついん)は、
『当院の嚆矢は、善徳寺という小さな草堂に遡る。
ある時、一人の老父が来て善徳寺で一夜を明かした。その時、背負ってきた笈を残し、
中には蓮如上人御染筆の六字の名号、善導大師釈文の一軸があったと伝わる。

由緒記

境内の様子
本堂(左)と庫裏・台所(奥)

正面から見た本堂
もうすぐ法要が始まる直前。
善徳寺はその後焼失するが、そういった経緯もあってか、慶長3年(1598年)領主桑山伊賀守が再建を計画。
浄土真宗に信仰の篤かった家臣・石川次郎左衛門に命じて新たに十一間四面の堂宇を建立して、
本願寺第12代宗主准如上人に寄進し尾崎御坊となった。

いよいよ法要の始まり

本堂前の蔀戸とそれを引っ掛ける金具

本堂の向拝の下にて

向拝の柱の獅子
しかし、元禄13年(1700年)11月晦日に火災に拠り再度焼失。人々は茫然自失したが、
その4年後の嵐の翌朝、尾崎の浜に巨木を積んだ大船が漂着しているのが発見される。
村人は、この材木を天からの贈り物だと大いに喜び、再建の材と成すことを決定。
宝永2年(1705年)9月18日に上棟式を行い、御坊再建を成し終えた。
それ以降、誰言うとなく「不思議の御坊」と呼ばれるようになった。

向拝下から正門を見る

本堂内陣

玄関及び庫裏・台所(左から)

玄関の唐破風

唐破風屋根瓦にある下り藤の寺紋と牡丹の鬼瓦

寺務所(旧お茶所)

寺務所前に残る江戸時代の茶釜
その後、本堂の傷みも激しくなり、平成5年に屋根や内陣等の大修復が行われ、
再建当時の姿を取り戻し今に至る。』 とあります。
由緒記では伽藍焼失後、偶々浜に流れ着いた材木を再建に用いる事が出来たので
「不思議の御坊」と呼ばれるとありますが、私的には、焼失してもその都度各所から
寄進があり再建を果たしている方が驚き。宛ら「不死の御坊」と言った所でしょうか?

鐘楼

寺務所前の大銀杏

境内の樹木群
クスノキ(左)とカイヅカイブキ(右)

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