馬にひかれて善光寺詣り(2022.10.1)
<コース>
【往路】JR大阪(6:56) → (快速) → JR草津(7:57→8:02) → JR手原(8:09)
手原駅(8:30) → (こんぜめぐりちゃんバス) → 金勝寺(9:10) → 金勝寺 → 徒歩20分 → 道の駅こんぜの里りっとう(11:40) → (こんぜめぐりちゃんバス) → 手原駅(12:10)
栗東市観光協会 → (レンタサイクル7分) → 鈎の陣跡 → (レンタサイクル5分) → 安養寺 → (レンタサイクル10分) → 萬年寺 → (レンタサイクル5分) → 旧和中散本舗・六地蔵尊 → (レンタサイクル5分) → 新善光寺 → (レンタサイクル10分) → JR手原
【復路】JR手原(16:12) → JR草津(16:17→16:21) → JR大阪(17:12)

九品山 新善光寺(浄土宗知恩院派)
旧法界寺の地蔵尊から直ぐ直角に曲がって北へ300m行くと左手に「新善光寺道」と彫られた道標が見えます。
そこを左折し草津線を越えると眼前に近江富士と呼ばれる三上山が迫り、壮大な楼門が目に入ります。
その門を潜ると八棟造の堂々とした本堂が。ここがかつては如来堂と呼ばれた新善光寺。

楼門前の寺標

正面より見た壮大な楼門

楼門欄間の彫刻

楼門軒回り組物
扁額は擦れているが「九品山」と読める。

楼門の天井部

境内側より見た楼門
九品山新善光寺(くほんざんしんぜんこうじ)は、
『寺伝に拠れば平清盛の長子小松内府重盛の末裔、小松左衛門尉宗定がこの地へ逃れ住み、
当地の名を採って高野宗定と称した。
宗定は平家一門の菩提を弔うために信濃善光寺へ48度の参詣を発願。
12年を経てこの願を成就するが、その満願の未明、夢の中で
「江州一円の衆生済度のため、我を連れ帰れ」
との善光寺如来のお告げを賜る。
夢から覚めると分身の如来が眼前に立っており、喜んだ宗定は分身の如来を頂き、この地に請来した。
時に建長5年(1253年)1月13日の事とされる。
開山上人となった宗定の御影は50年に一度の秘仏として奉安されている。

楼門から本堂へ続く参道

参道左手の石塔
五輪塔が主か?

こちらは石地蔵

参道右脇に置かれた「佛使の牛」
牛が鎮座するのは天神様だけではない。
江戸時代の寛文元年(1661年)になると、膳所城主本多俊次が善光寺如来に深く帰依し、
三間四面の本堂を寄進。
寺域を整備し略縁起を著し奉納するに及んで新善光寺と称するようになったという。
城主の庇護を受けるようになって以降、一円に当寺の名が広まり
中でも1月13日の御判日・春秋彼岸・盂蘭盆会には多くの参詣者で賑わった。
明治元年(1868年)、有栖川宮殿下の三回忌に当り、宮家より追善のため御尊牌が当寺に奉安。
この際、宮家から御幕と提灯の寄進と各種証文を賜っている。

善光寺様式の本堂

本堂正面

向拝欄間の龍の彫刻

唐破風下の彫刻
多くの信者が集まる湖南屈指の名刹となり、明治22年(1889年)には本堂・楼門を再建。
その後、風雪に拠る傷みが生じたので、昭和54年(1979年)から1年9ヵ月掛け解体大修理を実施。
昔日の威容を取り戻した。この際に1億数千万円の巨費が投じられたが、
「御本尊の霊夢を受けた」と多額の寄付をした篤信者もあったと言う。
本堂の御本尊は信濃と同じ一光三尊善光寺如来であるが、当寺には加えて
慈覚大師円仁作とされる木造阿弥陀如来を御内仏に安置している。』 とあります。

本堂向拝下

本堂前面に掲げられた「善光寺」の扁額

本堂隅の尾垂木と二手・一手の組物

木鼻の獅子像

本堂内陣の様子

内陣に掲げられた「九品山」の扁額
山門と伽藍が一際目立つのは善光寺の特徴。規模は同じではないものの、
信州善光寺と類似の造りになって居り戒壇巡りがあるのも信州と同じ。
寺紋の立葵も善光寺と同じですが、江戸時代に当寺に帰依した膳所本多家の家紋も立葵。
これも仏縁でしょうか。参道脇に置かれた「佛使の牛」は青銅製で日本最大とか。
‘牛にひかれて善光寺まいり’ゆえでしょうが、栗東では馬にひかれてとなりそうですが。
枯山水の庭園は拝観できませんでしたが、受付で御朱印は無事拝受。
月毎に季節の植物をあしらったものが用意されていますが、この日は1日なので10月の準備は未だ。
一般的な御朱印拝受となりました。

本堂より楼門を見る

側面より見た本殿(二棟造り)

後方より見た本殿

新善光寺説明書

新善光寺御朱印
こうしてこの日の巡礼も無事終了。
土産には昔ながらの「善光寺ういろ」なるものがあると聞き、自転車を飛ばして157号線沿いの店へ。
信州や他の善光寺では類似のものはなかったので近江のオリジナル。江州米の産地だけの事はあります。
阿波屋清重は江戸時代の文化年間創業の老舗で現在七代目。
黒砂糖の適度な甘さにしっとりとしたコクのある逸品とありますが、残念ながら時刻が遅く売切れ。
考えが甘かった訳ですが、店主の方の御好意で切れ端を分けて頂く事に。
足りない分は最中で補充しました。帰ってから食べると評判通りの味。
栗東なので、牛ではなく馬にひかれてと思いましたが、実際はういろに惹かれた善光寺でした。

御菓子司 阿波屋清重

名物「善光寺ういろ」
[参考書]




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手原駅(8:30) → (こんぜめぐりちゃんバス) → 金勝寺(9:10) → 金勝寺 → 徒歩20分 → 道の駅こんぜの里りっとう(11:40) → (こんぜめぐりちゃんバス) → 手原駅(12:10)
栗東市観光協会 → (レンタサイクル7分) → 鈎の陣跡 → (レンタサイクル5分) → 安養寺 → (レンタサイクル10分) → 萬年寺 → (レンタサイクル5分) → 旧和中散本舗・六地蔵尊 → (レンタサイクル5分) → 新善光寺 → (レンタサイクル10分) → JR手原
【復路】JR手原(16:12) → JR草津(16:17→16:21) → JR大阪(17:12)

九品山 新善光寺(浄土宗知恩院派)
旧法界寺の地蔵尊から直ぐ直角に曲がって北へ300m行くと左手に「新善光寺道」と彫られた道標が見えます。
そこを左折し草津線を越えると眼前に近江富士と呼ばれる三上山が迫り、壮大な楼門が目に入ります。
その門を潜ると八棟造の堂々とした本堂が。ここがかつては如来堂と呼ばれた新善光寺。

楼門前の寺標

正面より見た壮大な楼門

楼門欄間の彫刻

楼門軒回り組物
扁額は擦れているが「九品山」と読める。

楼門の天井部

境内側より見た楼門
九品山新善光寺(くほんざんしんぜんこうじ)は、
『寺伝に拠れば平清盛の長子小松内府重盛の末裔、小松左衛門尉宗定がこの地へ逃れ住み、
当地の名を採って高野宗定と称した。
宗定は平家一門の菩提を弔うために信濃善光寺へ48度の参詣を発願。
12年を経てこの願を成就するが、その満願の未明、夢の中で
「江州一円の衆生済度のため、我を連れ帰れ」
との善光寺如来のお告げを賜る。
夢から覚めると分身の如来が眼前に立っており、喜んだ宗定は分身の如来を頂き、この地に請来した。
時に建長5年(1253年)1月13日の事とされる。
開山上人となった宗定の御影は50年に一度の秘仏として奉安されている。

楼門から本堂へ続く参道

参道左手の石塔
五輪塔が主か?

こちらは石地蔵

参道右脇に置かれた「佛使の牛」
牛が鎮座するのは天神様だけではない。
江戸時代の寛文元年(1661年)になると、膳所城主本多俊次が善光寺如来に深く帰依し、
三間四面の本堂を寄進。
寺域を整備し略縁起を著し奉納するに及んで新善光寺と称するようになったという。
城主の庇護を受けるようになって以降、一円に当寺の名が広まり
中でも1月13日の御判日・春秋彼岸・盂蘭盆会には多くの参詣者で賑わった。
明治元年(1868年)、有栖川宮殿下の三回忌に当り、宮家より追善のため御尊牌が当寺に奉安。
この際、宮家から御幕と提灯の寄進と各種証文を賜っている。

善光寺様式の本堂

本堂正面

向拝欄間の龍の彫刻

唐破風下の彫刻
多くの信者が集まる湖南屈指の名刹となり、明治22年(1889年)には本堂・楼門を再建。
その後、風雪に拠る傷みが生じたので、昭和54年(1979年)から1年9ヵ月掛け解体大修理を実施。
昔日の威容を取り戻した。この際に1億数千万円の巨費が投じられたが、
「御本尊の霊夢を受けた」と多額の寄付をした篤信者もあったと言う。
本堂の御本尊は信濃と同じ一光三尊善光寺如来であるが、当寺には加えて
慈覚大師円仁作とされる木造阿弥陀如来を御内仏に安置している。』 とあります。

本堂向拝下

本堂前面に掲げられた「善光寺」の扁額

本堂隅の尾垂木と二手・一手の組物

木鼻の獅子像

本堂内陣の様子

内陣に掲げられた「九品山」の扁額
山門と伽藍が一際目立つのは善光寺の特徴。規模は同じではないものの、
信州善光寺と類似の造りになって居り戒壇巡りがあるのも信州と同じ。
寺紋の立葵も善光寺と同じですが、江戸時代に当寺に帰依した膳所本多家の家紋も立葵。
これも仏縁でしょうか。参道脇に置かれた「佛使の牛」は青銅製で日本最大とか。
‘牛にひかれて善光寺まいり’ゆえでしょうが、栗東では馬にひかれてとなりそうですが。
枯山水の庭園は拝観できませんでしたが、受付で御朱印は無事拝受。
月毎に季節の植物をあしらったものが用意されていますが、この日は1日なので10月の準備は未だ。
一般的な御朱印拝受となりました。

本堂より楼門を見る

側面より見た本殿(二棟造り)

後方より見た本殿

新善光寺説明書

新善光寺御朱印
こうしてこの日の巡礼も無事終了。
土産には昔ながらの「善光寺ういろ」なるものがあると聞き、自転車を飛ばして157号線沿いの店へ。
信州や他の善光寺では類似のものはなかったので近江のオリジナル。江州米の産地だけの事はあります。
阿波屋清重は江戸時代の文化年間創業の老舗で現在七代目。
黒砂糖の適度な甘さにしっとりとしたコクのある逸品とありますが、残念ながら時刻が遅く売切れ。
考えが甘かった訳ですが、店主の方の御好意で切れ端を分けて頂く事に。
足りない分は最中で補充しました。帰ってから食べると評判通りの味。
栗東なので、牛ではなく馬にひかれてと思いましたが、実際はういろに惹かれた善光寺でした。

御菓子司 阿波屋清重

名物「善光寺ういろ」
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