<コース>
【往路】JR大阪(6:56) → (快速) → JR近江八幡(8:16)
駅リン君 → レンタサイクル20分 → 長光寺 → レンタサイクル30分 → 沙々貴神社 → 浄厳寺 → レンタサイクル10分 → 安土城址・摠見寺 → レンタサイクル30分 → JR近江八幡
【復路】JR近江八幡(15:09) → (新快速) → JR大阪(16:13)

沙沙貴神社(式内社 旧県社)
沙沙貴神社と言えば、忘れてはならないのが近江源氏佐々木氏。
拝殿には近江源氏祭の幕が掲げられ、社務所には近江源氏全国佐々木会の看板が架かります。
『平安時代になると、宇多天皇の皇子敦実(あつみ)親王の子孫と称する
宇多源氏・源雅信(まさのぶ)の孫成頼がこの地に住み付き、佐々木を称した。
これが佐々木姓の始まりである。

楼門から拝殿を見る
提灯には四ツ目紋が描かれている。

社務所に掲げられた全国佐々木会の看板

神殿側から見た楼門

楼門から続く西廻廊

東廻廊
右の楼門下にあるのは御神酒。

東廻廊の前に広がる御祓所
その奥には社務所が建つ。
平安末期には佐々木秀義が源為義の娘を娶る事で、源氏と婚姻関係を結び、
源頼朝の平家追討の挙兵に加わって武勲を建てたので、鎌倉幕府成立と共に近江守護に任ぜられた。
『平家物語』の宇治川先陣争いの主人公、佐々木四郎高綱は秀義の息子である。
その後、佐々木氏は近江にあった山門領の荘園を蚕食して、山門と抗争しつつ勢力を拡大。
その過程で、古代の豪族狭々城山君の子孫を包含、同化していったと考えられる。

拝殿近影
弘化5年(1848年)、丸亀藩主・京極高朗に拠り再建。桁行・梁間ともに三間方形。

拝殿前面の様子

拝殿左手の庭園 「呑月の庭」

「呑月の庭」説明

呑月の庭 全景
ここから眺める繖(きぬがさ)山は観音寺山・佐々木山とも呼ばれるが、
大和の三輪山を連想させる神奈備型で、元は神体山であったとされ、
霊山の名に恥じない山容を誇っている。
現在、佐々木氏の子孫は全国に300万人いるとされ、京極・黒田の旧大名家、
旧財閥の三井氏、日露戦争の乃木希典大将なども一族で、
社頭にはこれらの人々の奉納した石灯籠や寄進札が三間される。
また境内社には乃木将軍も祀られている。』 とあります。

幣殿と奥に建つ本殿

御祭神の説明碑

塀越しに見た本殿
拝殿と同じく、弘化5年(1848年)の再建。五間社流造で、向拝三間。

奥から見た本殿

少彦名命を祀る磐境
源平藤橘と言われる程、国民の大部分はどこかに属すると言えますが、
中でも近江源氏佐々木氏は多士済々。
本流からは六角・京極、京極から尼子。支流から黒田と大名が出て
京極・黒田の両家は幕末まで続きます。
経済界では財閥の三井氏、軍人では乃木大将と各界の逸材を輩出していますが、
その理由は何か?

権殿

権殿御祭神
神様と歴史上の人物が一緒に祀られている。

権殿正面

西側より見た権殿
佐々木高綱は源頼朝に仕えて守護職を得、佐々木(京極)道誉は足利尊氏に協力して
幕府の四職に取り立てられました。
こうして見ると決して自らはトップ立とうとせず、トップに付く事で地位を得ています。
ここで重用なのは必ずと言って良い程、勝ち組に乗っている事。
一族の浮沈が掛かっている時の的確な判断。これも優れた才能と言えます。

本殿裏側の様子

裏手に置かれた干支の石像

権殿前にある「乃木大将お手植えの松」

乃木さんのお言葉

西廻廊前に建つ絵馬殿
何故か休憩所として利用されている。
佐々木氏は宇多源氏に由来するとされる源氏の名門なので、清和源氏とは同格と言ってよいでしょう。
しかし敢えてトップを争わなかった故に滅亡することなく後世まで続いたと言えます。
その原動力となったのは、一族の持つネットワークだった気が。
江戸時代に近江商人として全国に名を轟かせた源流はここにあった気がします。

縁起、佐々木氏系図、クリアファイル がセットとなって¥500

沙沙貴神社御朱印
(左) 平成4年拝受 当時はこれ一種 (右) 今回の拝受分、花の印は月毎に変わる。

御朱印の説明書
[参考書]
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