<コース>
【往路】JR大阪(6:56) → (快速) → JR近江八幡(8:16)
駅リン君 → レンタサイクル20分 → 長光寺 → レンタサイクル30分 → 沙々貴神社 → 浄厳寺 → レンタサイクル10分 → 安土城址・摠見寺 → レンタサイクル30分 → JR近江八幡
【復路】JR近江八幡(15:09) → (新快速) → JR大阪(16:13)

金勝山慈恩寺浄厳院(浄土宗知恩院派)
沙沙貴神社に続いて、その南西に建つ寺院へ。
堂々たる本堂伽藍とありますが、周囲の人家に紛れて見つかるかどうか不安でしたが、
少し走ると田圃の向こうに大きな伽藍が。迷う事はありませんでした。

田圃の向こうに見える伽藍
安土駅から直ぐJR琵琶湖線(東海道本線)の線路の南側ですが、
線路を越えた場所にある黒門は裏門。
正式には南東に向いた楼門からの入山になります。
神社同様、中山道・安土街道に配慮した造りになっているのでしょう。
金勝山慈恩寺浄厳院(きんしょうざんじおんじじょうごんいん)は、
『当寺は正平年間に、近江守護六角氏頼が母の菩提のために建立した
威徳山慈恩寺と称する天台宗寺院であったが、その後、戦国時代の兵火で焼失。
天正5年(1577年)織田信長は安土築城の際に、近江栗太郡金勝山の
浄厳坊応誉明感(じょうごんぼうおんよみょうかん)上人を招き、
浄土宗金勝山浄厳院として再興。近江・伊賀両国の浄土宗総本山としたと言う。

正式な入山は南東に向いた楼門から

正面から見た楼門

楼門に掲げられた山号の扁額

楼門の金剛力士阿像(右側)

同じく金剛力士吽像(左側)
表門である楼門は室町時代後期の建立で重用文化財。
かつてこの地にあった慈恩寺の門をそのまま利用したもの。
正面の柱間三間、中央に板扉を構える三間一戸の二階建門で南向き、
左右に仁王像を配する。

境内から振り返った楼門

境内鳥観図

線路を越えた場所に建つ黒門

黒門脇に建つ由緒記

黒門近影
門の奥には鐘楼が見える。
本堂は桁行七間・梁間六間、入母屋造・本瓦葺で、重要文化財。
信長が近江八幡多賀村の興隆寺弥勒堂を移したもので、和様を主体とした古い形式を残しており、
太い丸柱と大きい屋根が重厚な構えを感じさせる。
本尊の木造阿弥陀如来坐像は像高273㎝、平安時代作の丈六定印で重用文化財。
台座の銘に拠ると、天正6年(1578年)愛知郡の二階堂から移されたものである。
光背も立派で、雲上に楽を奏し華蔓や幡などを捧げる十二飛天が
極楽浄土の雰囲気を醸し出しており、重厚な本堂に相応しい仏像である。
寺宝としては、鎌倉時代の厨子入銅製舎利塔・厨子入銀造阿弥陀如来立像・
絹本著色山王権現像・絹本著色阿弥陀聖衆来迎図等、計7点の重要文化財を有する。』 とあります。

楼門の向こうに見える本堂屋根

本堂近影

本堂説明

正面から見た本堂
朱塗りの楼門を過ぎると正面に建つのが本堂。広い境内でも一際目立ちますが、
向拝の下に吊るされた幕の織田家紋(丸木瓜)、徳川家紋(三つ葉葵)が目につきます。
御本尊の阿弥陀様は重文ですが、残念ながら内陣には入れず参拝は外陣のみでした。
前もっての予約が必要なようです。
戦国時代に南近江を支配した六角氏は足利幕府にも対抗しましたが、後に近江を追われます。
その後に入ったのが織田信長ですが、彼はかつての六角氏の寺院を再利用。
といっても伽藍は焼失していたので、新たに建立すると思いきや、
伽藍・仏像を始め各地からの寄せ集めで対応しました。
権力者は往々にして己の力を誇示するために大土木工事を行いますが、
そうしなかった所にリアリストとしての信長が垣間見えます。

本堂壁面

垂れ幕に描かれた織田・徳川の家紋

本堂側面

本堂脇から楼門を望む
中国には「三武一宗の法難」と呼ばれる四度に亘る仏教弾圧がありますが、
その最後が後周の世宗柴栄(さいえい)に拠るもの。
彼は勅許を得ない寺院の仏像を壊して銅銭に鋳造し貨幣経済を流通させました。
東洋史学者宮崎市定は、近世的な視野を持った点から柴栄を織田信長、
宋の太祖趙匡胤を秀吉、太宗趙国義を家康に擬えましたが、慧眼といえましょう。

浄厳寺御朱印 (平成4年拝受分)
現在、浄厳寺では御朱印を行っていないので貴重なもの。
[参考書]
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