<コース>
【往路】JR大阪(6:30) → (サンダーバード1号) → JR金沢(9:13→9:27) → 高岡(10:08)
高岡駅前4番(10:43) → (加越能バス) → 国泰寺前(11:03) → 徒歩10分 → 国泰寺 → 徒歩20分 → 雨晴駅前(12:33) → (加越能バス) → 伏木一の宮(12:42) → 徒歩3分 → 越中国分寺跡 → 氣多神社 → 徒歩15分 → 伏木駅前(13:50) → (加越能バス) → 高岡駅前(14:12)

護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
庫裏入口と雪吊り
法堂に参拝した後は、東側にある庫裏で御朱印拝受。
境内の庭の木々には雪吊りがしてあるのは、冬場は1m程の積雪があるからだとか。
御朱印拝受の後は辞去する積りでしたが、法堂北側にある庭園と方丈内陣も
無料で拝観できると聞き思わぬ収獲。庫裏西側の大玄関の横にある廊下を経て方丈へ向かいました。

庫裏玄関

庫裏玄関前の庭と雪吊り

雪吊りの奥に建つ庫裏
大方丈は
『前庭に月泉庭を配し、「降魔道場」の大額を掲げる大伽藍で圓通閣の別名で呼ばれる。
南北朝以降の国泰寺は守護代神保氏の崇信を受けるが、応仁以後の戦乱に拠り荒廃。
二十七世雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受けて再興を果たすが、天正13年(1585年)
前田利家に方丈を守山に取られ、現在地に移って来たと考えられる。
江戸時代の貞享3年(1686年)には現在の大方丈が建立。将軍綱吉は当寺を以て法燈派本山とし、
享保年間には萬壑和尚等に拠って伽藍の大整備が行われほぼ現在の形になった。

庫裏(右)に続く大方丈玄関
但し、ここからは入らない。

玄関近影

方丈へは法堂右の通路を往く

通路内部
明治維新になり当寺も廃仏毀釈の余波を受けたが、越叟・雪門和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、
天皇殿の再建を始め諸堂宇の修造に務めた。
また若き日の西田幾多郎や鈴木大拙が北条時敬の勧めに拠って雪門に参じている。
当山で現存する伽藍中では最古のもので堂内には山岡鉄舟筆の「圓通閣」、
その内陣に釈迦三尊像を安置し、有栖川宮熾仁親王御下賜の「北鎮禅林」の扁額を掲げる。
また幕末に新選組局長近藤勇が着用したとされる甲冑が山岡鉄舟に拠って当寺に奉納されている。』
とあります。

入口(東)より見た大方丈内陣

西側からの大方丈の眺望

方丈の唐獅子の襖絵

御本尊を祀る大方丈中央付近
幕末三舟と呼ばれる山岡鉄舟は禅に深く帰依した人物。
旗本であれば幼少時の教育は禅宗僧侶から学ぶ事が多かったと思うので、
関連する書が当寺に残っていても不思議はありません。
禅に加えて剣の達人でもあった鉄舟は幕府内でも一本筋の通った人でもあったのでしょう。
世間が新政府に靡く中で、幕府のために奔走。駿府で薩摩の西郷隆盛と会見し、
江戸無血開城と将軍慶喜の助命への先鞭を付けました。

山岡鉄舟筆の「圓通閣」の扁額

御本尊正面に向かう椅子

御本尊近影
扁額は「北鎮禅林」とある。
明治初期、廃仏毀釈の嵐は国泰寺にも及び寺は荒廃。その窮状を見兼ねた鉄舟は
自らの揮毫で広く浄財を求め、当寺は見事復興したとか。
剣・禅・書の達人であった鉄舟ですが、単なるお飾りの趣味ではなく、
その書で浄財を集めるなど、中々如才なさも持っていました。
新政府からは恨まれた新選組の遺品を奉納したのも相通ずるものを感じます。
この甲冑を見るにつけ思うのは【火中】の栗を拾った鉄舟の人柄。彼は【撤収】の名人でもありました。

方丈内に展示されている奉納された甲冑の写真

甲冑と鉄舟の解説

山岡鉄舟と近藤勇の全身写真
後に十年に亘り明治天皇の教育係として仕え、生涯を日本文化の発揚に尽くしたと言われます。
その死後、葬列が皇居付近を通った際には、明治天皇は窓越しに見送ったとか。
国泰寺を復活させた英傑は我が国の国体も形作った人でした。

国泰寺説明書

国泰寺御朱印 (御本尊)
[参考書]
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