<コース>
【往路】JR大阪(6:30) → (サンダーバード1号) → JR金沢(9:13→9:27) → 高岡(10:08)
高岡駅前4番(10:43) → (加越能バス) → 国泰寺前(11:03) → 徒歩10分 → 国泰寺 → 徒歩20分 → 雨晴駅前(12:33) → (加越能バス) → 伏木一の宮(12:42) → 徒歩3分 → 越中国分寺跡 → 氣多神社 → 徒歩15分 → 伏木駅前(13:50) → (加越能バス) → 高岡駅前(14:12)

越中国分寺跡
国泰寺参拝の後は、総門前の道路を山を迂回しながら富山湾方面へ徒歩移動。
氷見線雨晴駅までどれくらい掛かるかは未知数でしたが、1時間近くあるので、
乗り過ごす事はなかろうと安心して歩けました。415号線を横切ると富山湾が間近に。
線路沿いの細い道路を進むと、ここは路線バス道。駅近くのバス停まで来て時刻表を見ると
何と5分後にバスが、しかも次の目的地の最寄りのバス停にも停車するルート。
当初の予定より30分以上時間短縮できるという幸運でした。

バスの車窓から見た雨晴海岸と立山連峰
「伏木一の宮」で下車すると道路の向かいに「氣多神社」の大きな道標が。
そこを山方面に進むと神社ですが、少し進んだ左手に古代の国分寺跡が。

バス停の向かいに建つ社号標
越中国分寺は
『越中国に造営された国分寺であり、その造営時期ははっきりしないが、天平20年(748年)に
国師に付き従う僧であった清見(せいけん)の送別会を催した事が、大伴家持が詠んだ歌で確認できる事から、
この頃既に越中国分寺の造営が進んでいたと考えられる。
また『続日本紀』に拠れば天平勝宝8年(756年)までには全国の国分寺が完成していたとみられる。

国分寺跡に残る御堂

越中国分寺跡解説
当地は昭和初期の発掘調査に拠って、昭和40年(1965年)には富山県の史跡に指定されており、
周辺には一過寺、大門、国分堂等の字や国分道と称する参道の一部が遺存している。
また昭和41年(1966年)の調査からは礎石の根石と見られるものが六ヶ所確認され
金堂或いは講堂の基礎と推定される。
更に奈良時代から平安初期に属する均整唐草文を施した軒平瓦や八葉蓮華文の丸軒瓦が出土し、
越中国分寺がこの地に存在した事を示している。』 とあります。

御堂正面
傷みが激しく内陣には入れない様子。

御堂の向拝と軒垂木

境内に並んだ石は墓碑か?
国分寺と一の宮が近接している例。一の宮と異なり、国分寺は跡だけですが、
それでも敷地内には小さな堂宇が健在。
かつて国分寺そのものかどうかは分かりませんが、一時は後継寺院でもあったのでしょう。
今は無住で、大分傷んでいますが、残っているだけでも感謝に値します。

国分寺跡碑

朱い実はピラカンサス

境内の紅葉
[参考書]
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