<コース>
【往路】JR大阪(6:30) → (サンダーバード1号) → JR金沢(9:13→9:27) → 高岡(10:08)
高岡駅前4番(10:43) → (加越能バス) → 国泰寺前(11:03) → 徒歩10分 → 国泰寺 → 徒歩20分 → 雨晴駅前(12:33) → (加越能バス) → 伏木一の宮(12:42) → 徒歩3分 → 越中国分寺跡 → 氣多神社 → 徒歩15分 → 伏木駅前(13:50) → (加越能バス) → 高岡駅前(14:12)

氣多大社(越中国一宮 式内社 旧県社) 大伴神社全景
重要文化財の本殿の周辺には参集殿・御輿殿・拝受所が続きますが、
一番高台に鎮座するのが大伴家持を祀った大伴神社。
また神社から見下ろす場所には彼の顕彰碑も建っています。

社殿右手前に建つ参集殿

社殿左手の御輿殿

大伴神社に続く参道脇の拝受所
人気はなく使用されている様子はなし。
『家持は越中に赴任した翌年の夏、立夏にホトトギスが鳴かないのをきっかけに
都と全く異なる越中の風土を本格的に体験する事になった。
「この思いを都の人に伝えたい。」と思った家持は、越中を代表する「二上山」
「布勢の水海」「立山」と言う三つの景観を「越中三賦」と呼ばれる大作に纏め上げた。
この家持の思いを偲び、顕彰碑の脇には「越中三賦」を象った石が配されている。

鳥居の奥に鎮座する大伴神社

大伴神社本殿

大伴神社由緒
摩滅の上、解説もないので、内容は分からず。
「立山の賦」には立山連峰を源とする黒部川上流の石を、
「二上山の賦」には麓を流れると詠まれた射水川(現小矢部川)上流の石を、
「布勢の水海の賦」には詠まれている渋谿の崎から掘り出した石を、
と言う様に、家持の詠んだ越中の素晴らしい景観を表すのに
相応しい石で彼の歌の世界を象っている。』 とあります。

上から見た大伴家持顕彰碑

大伴宿祢家持卿顕彰碑

顕彰碑脇の「越中三賦」を象った石

越中三賦象形石の説明

境内下遠望
本殿の脇に小さく鎮座するのが大伴神社ですが、
果たして一ノ宮に付随した末社と考えて良いのでしょうか?
ここで時間的なスケールを追うと、大伴家持が越中国守に赴任したのは
天平18年(746年)6月から天平勝宝3年(751年)の6年間。
一方、氣多大社が能登国の同名社から勧請されたのは、それよりも後の天平宝字元年(757年)以降。
その時は既に家持は越中には居ませんでした。

参道右手にある総社跡

総社跡解説

結界を示す縄の奥にある総社跡伝承地

伝承地の標
古代の名族出身の中央政界の官僚で、歌人として名声を得ていたとはいえ、
一ノ宮の境内に一個人の社を建てるものなのか?
思うに家持赴任中に彼が氏神を祀る神社を建立した場所に、
後から一ノ宮を勧請したと考える方が無理のない気がします。
随分せこい気もしますが、【勘定】高いともいえます。
それなら大伴神社は取り壊せば良さそうなものですが、
歌人に敬意を表したか、後の祟りを怖れたか、そこが萬葉人の大らかさでしょう。

総社跡伝承地から社殿を見る

境内から見た市街地と富山湾

入口左手にある今の社務所
御朱印はここで拝受。
こうして越中一ノ宮参拝の後は、伏木駅方面へ。
徒歩でも15分程度ですが、鉄道だけでなく、バス路線もある交通の要衝。
いざ到着するとほんの数分待ちで高岡駅行きバスが。
鉄道やレンタサイクルを使わず、只管バスと徒歩の巡礼は久し振り。
バスに恵まれた半日でした。【時刻に仏】とはこの事でしょう。

神社説明書

氣多神社御朱印

JR伏木駅スタンプ
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