<コース>
【往路】JR金沢(7:54) → JR粟津(8:42)
粟津駅前 → レンタサイクル25分 → 那谷寺 → 粟津駅前
[路線バス] 粟津駅前(9:55) → 那谷寺(10:12) → 徒歩5分 → 那谷寺 → 那谷寺(11:30) → 粟津駅前(11:44)
JR粟津(12:11) → JR大聖寺(12:24) → 徒歩10分 → 十二寺院群 → 宗寿寺 → 全昌寺 → 実相院 → 徒歩5分 → JR大聖寺(14:29) → JR福井(14:59→15:08) → サンダーバード28号 → JR大阪(17:06)

熊谷山 全昌寺(曹洞宗)
宗寿寺の後は、寺一つ隔てた全昌寺。
広い境内の手前には瓦葺の立派な山門と寺標が建ちますが閉鎖中。
さてはと通用門らしき入口から入って受付を探すも分からず。
どこから入ったものかと、境内をうろついていると、「こっちです!」の声。
危うく無断侵入になるところでした。

道路に面した山門と寺号標
但し山門は閉鎖中で、右側の通用門から入る。

全昌寺由緒
見所は本堂と五百羅漢堂の内部、加えて境内に建つ芭蕉と曽良の句碑の三ヵ所ですが、
拝観者のお目当ては五百羅漢像。但し巡礼の作法に従って、本堂内陣からスタート。
御本尊参拝だけと思っていましたが、西国三十三観音像・十六羅漢像・涅槃図が周りを取り囲み、
書院には駕籠や前田利昌公愛用の甲冑も展示。さながらミニギャラリーの趣です。
前田家から分かれた大聖寺藩なので前田家所縁の品があるのは当然ですが、
当寺はそれ以前の藩主にも深い関りがあります。

境内の眺め
左が本堂、中央に書院、右が受付。

境内から見た山門
熊谷山全昌寺(ゆうこくざんぜんしょうじ)は、
『大聖寺城主・山口玄蕃頭宗永の菩提寺で曹洞宗寺院。釈迦牟尼仏を本尊とする。
元は山代にあったが、慶長2年(1597年)宗永の信仰を得て大聖寺に移転。自らの菩提寺とした。
山口玄蕃頭宗永(げんばのかみむねなが)は天文14年(1545年)、
織田信長に仕えた武将山口秀景の子として生まれた。
豊臣秀吉に仕えた後の慶長2年(1597年)小早川秀秋の付家老となり、
慶長の役、領内の検地では秀秋を補佐。しかし主君の秀秋とは折り合いが悪く、
秀秋が慶長3年に越前へ転封されると大聖寺城の独立大名になった。

正面から見た本堂

本堂玄関
内陣へはこちらから。

玄関の扁額は「熊谷山」ではなく「熊谷峰」

本堂玄関前から見た書院玄関
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宗永は西軍に与したが、そのため金沢城の前田利長の攻撃を受ける。
これは関ヶ原の前哨戦というべきものであったが、2万の前田軍に対し、5百の山口軍は衆寡敵せず。
8月3日に大聖寺城は落城、宗永・修弘父子は自害した。

本堂内陣

内陣に掲げられた「全昌寺」の扁額
江戸時代の大聖寺は、当初は加賀藩の城代、後には郡奉行が支配するが、
寛永16年(1639年)加賀藩二代藩主利常が三男利治に7万石を割いて
加賀藩支藩の大聖寺藩が成立した。
大聖寺藩主は山口家から前田家に代わったが、境内の墓地には山口宗永公の招魂碑、
久谷創始期の奉行・土田清左衛門、大聖寺藩文人・草鹿蓮渓一門、
心陰流達人・関新五右門の墓がある。』とあります。

内陣の御本尊

中央には釈迦如来、脇侍には日光・月光の二菩薩?

御本尊の脇には十六羅漢像(右)

同じく十六羅漢像(左)
山口宗永は一介の武将から大名にまでのし上がった人物。
若い小早川秀秋を補佐して功績があり、それだけの器量を持った人物だったのでしょう。
そんな英傑が戦下手な石田三成、反りが合わない旧主小早川秀秋の属する西軍に
与したのは理解に苦しみますが、彼なりの勝算があったのでしょうか?
唯、隣接する金沢城に居たのが前田利長だったのが不運。
善戦したとはいえ、というよりも善戦したが故に落城の悲劇となったと思います。

本堂に繋がる書院

書院の展示室

前田利昌公の甲冑と達磨の掛軸

本堂内陣手前に吊るされた二駕籠
関ヶ原の前哨戦に敗れた山口玄蕃頭の菩提寺が【ぜんしょう】寺と言うのも皮肉な話ですが、
当寺に参拝しなければ彼を知る事はありませんでした。
成程、歴史を知るには【げんば】を訪れるに如くはありません。

全昌寺説明書

全昌寺御朱印
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