<コース> 電車は日中10分間隔で運行
【往路】阪急梅田 → (阪急電車) → 東向日 → 徒歩2分 → 西国街道

向日神社(式内社 旧府社)
ひな人形めぐりの途中、街道沿いに石鳥居があったので参拝することに。
鳥居の奥には真っ直ぐな参道が長く伸び、社殿は遥か先。
歩いて行くと右手に古風な社家が建ち、石畳の参道脇には桜の木が多数。
花見シーズンには賑わうと思いましたが、後で伺うと夏は青もみじ、
秋は紅葉と季節を通して楽しめる参道だとか。
(この後、3月24日に訪れると予想通り桜が満開。近所の人も写真撮影に興じていました。)

一際大きな社号標

桜に彩られた一の鳥居 (3月24日撮影)

一の鳥居に掲げられた扁額
石畳の参道は200m。直ぐ右手には神職の自宅が厳かに建ち、更に進むと
境内社の勝山稲荷神社を見て階段を上ると正面に見えるのが舞楽殿。
途中、桜の枝が参道に張り出し宛ら花道を行く心地。
訪れる人は皆、【賛同】してくれるものと信じます。

真直ぐに続く桜の参道

こちらが、神職の御自宅

参道に並んで神職の塀が続く
向日神社(むこうじんじゃ)は、
『延喜式にも登場する古社。社殿では養老2年(718年)創祀と伝えられる古社。
古くは向日神(むかひのかみ)を祀る上ノ社と火雷神(ほのいかづちのかみ)を祀る下ノ社があり、
前者は五穀豊穣、後者は祈雨・鎮火の信仰がある。
平安時代には山城国五社の一つに数えられている。
下ノ社の宮司は承久の乱では後鳥羽上皇側に付いたため敗北、
福知山の荘園・六人部荘(むとべのしょう)に身を隠した。
許されて戻った時には、下ノ社は荒廃。そこで建治2年(1276年)に下ノ社を上ノ社に合祀、
向日神社と改称し付近一帯の総鎮守となった。

参道の奥に微かに社殿らしきものが見える

境内社 勝山稲荷神社
応永29年(1422年)には近郷の七村が協力して本殿を再建した。付近は西岡と呼ばれたが、
明応7年1438年の西岡の土一揆は西岡向大明神に集結して蜂起したもので、
長享元年(1487年)には向日宮で「国の寄合」があるなど、山城国一揆勢の拠点の一つとなった。
神主は平安時代から六人部(むとべ)氏が継承、幕末の六人部節香(ときか)と
甥の是香(よしか)は平田派国学者として著名である。
また六人部暉峰(きほう)は竹内栖鳳門下の女流画家として知られる。』 とあります。

階段の先に建つ舞楽殿

舞楽殿と桜

拝殿前から見た舞楽殿
近隣では長岡天神(天満宮)が有名ですが、由緒はこちらがずっと古い。
平安時代から六十部(むとべ)氏が神職を務めるとガイドにはありましたが、
御朱印拝受の際に社務所で確認。対応下さった神職夫人の話では、
夫人 ; 「平安よりも古くて、奈良時代まで遡ります。」
私 ; 「神社は古い家系が多いですね。阿蘇さんとか海部さんとか。」
夫人 ; 「籠神社さんも古いですが、あちらは養子さんもいるので。うちは95代全て男系です。」
私 ; 「国宝の系図とかはあるのでしょうか?」
夫人 ; 「国宝ではないですが、文化財として保管しているものがあります。」
私 ; 「そういえば、以前「旅してゴメン」の撮影でウド鈴木さんが来られましたか?」
夫人 ; 「ええ、いらっしゃいました。それからは「テレビで見ました!」と
北海道から沖縄まで参拝者が大勢来られて、もうキャイーン状態でしたわ。」
と中々面白い話でした。

舞楽殿の前を右手に進み社務所へ

参集殿も兼ねた社務所
奈良時代云々はさておき、承久の乱で六人部荘に難を逃れた時が
一つの転機だった事は間違いなさそうです。
テレビ撮影では幼い男の子を抱いて居られたので、96代目までは先ず大丈夫のようです。
家系も伝統も継承するのは苦労が多い筈、キャイーンの末裔にならないよう注意しなければいけません。

向日神社説明書

向日神社御朱印
コロナのため書置きを拝受。
[参考書]
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