庶民のパワーと河内音頭(2019.2.18)
<コース> 近鉄電車は日中10分間隔で運転
JR大阪 → JR鶴橋 → 近鉄鶴橋 → 近鉄八尾 → 徒歩5分 → 八尾地蔵尊

初日山常光寺(臨済宗南禅寺派)
大阪府は旧国名では摂津・河内・和泉の三国。河内に住んで随分になりますが、本来の河内と呼ぶのはどの辺りでしょうか?
いまはJR環状線周辺が栄えていますが、江戸時代以前は大阪湾に続く巨大な内陸湖があったようで中心は現在より東側。
藤井寺に旧国府跡があって、誉田山古墳(応神天皇陵)などの古市古墳群もあり古代より重視されたのが分かります。
この日は藤井寺の北の八尾に所用があり、空き時間を見つけてちょっと立ち寄り。
初日山常光寺(しょにちざんじょうこうじ)は近鉄八尾駅から直ぐにあります。
寺伝によると、聖武天皇の勅願で行基が創建。
奈良時代の弓削道鏡は河内の出身なので開祖にしても良いとは思いますが、政治的に微妙な立場にあり、
【道鏡】の人よりも【行基】の良い人に軍配が上がったのでしょうかね?

外から見た常光寺三門(楼門)
江戸時代末期から明治初期にかけ建築

境内から三門を見る

境内の様子
弘仁年間(810~824年)には六道の辻でお地蔵さまに出会ったと言う小野篁が木造等身大の地蔵菩薩を作り安置した
と言われます。お地蔵さまに会うのもなかなかのものですが、現世と冥界を行き来した篁ならではの伝えと言えましょう。
狂言の演目に『八尾』というものがあって、地獄に落ちる筈の人間が八尾のお地蔵様の力で極楽にいく話です。
これも篁の伝説からの発送でしょうか。誰も【冥界】な答えは見つけていないようですが…。
平安時代の寛治二年(1088年)には白河法皇が熊野詣の途中に立ち寄るなど、都にも知られた寺でしたが、
南北朝時代に南朝方になったため兵火で焼失。
その後、至徳二年(1385年)に藤原盛継の手で復興し翌年には将軍足利義満から「初日山」「常光寺」の扁額を寄進されています。
尚、現在の地蔵菩薩はこの頃に造られたもののようです。

本堂 天明二年(1782年)築の入母屋造り。

阿弥陀堂 明和九年(1772年)築の宝形造り。

庫裡と方丈 御朱印はここで拝受。
1615年の大坂夏の陣では一帯は激戦地になりましたが、寺は家康の政治顧問の以心(金地院)崇伝の配下にあったため無事。
南北朝の教訓が生きたと言えますが、家康が『寺を荒らすな!』と言った事が【以心伝心】伝わったのが大きかったと思います。
唯、ここでは藤堂高虎と長曾我部盛親の激戦があり多くの死傷者が出ました。
勝者の藤堂側も一門や多くの家臣を失いましたが、これは徳川方に二心のない事を示す為だったとか。
主君を渡り歩いた事で戦国武将としての評判は芳しくない高虎ですが、家臣を抱える身としては辛い所があったのでしょう。

方丈横の庭園
禅宗らしく砂で波紋が描かれている。この奥に藤堂藩の戦死者の墓がある。
以後、江戸時代は平穏で特に後半は河内木綿の一大産地として栄えます。
その肥料が蝦夷地のニシン粕でしたので、北前船を通して全国に繋がっていました。
どこの人も【北前】という開放的な町となります。
大阪人にとって八尾といえば河内音頭ですが、その原型は南北朝時代に再建された常光寺での木遣り歌
「流し節正調河内音頭」とされています。お盆の供養の時に関係者の間で歌われたものが、外に広がったものです。
『こんなオモロイもの、寺だけに独占させる事あらへん!』 と言った感じでしょうか。
その後、歌詞に色々な要素を取り入れることで全国的に。
大坂夏の陣以降、大阪人は徳川嫌いなので、御政道批判の歌詞などが一層拍車をかけた様です。

山門脇にある河内音頭発祥の碑
塩川正十郎書というのが時代を感じる。
今でも8月23・24日に地蔵盆踊りが開催されていますが、お寺の方に伺った処、
『常光寺は檀家がなく、どなたでも参加OK』
との事でした。
地域の活動が衰退している昨今ですが、有り余った力を発散できる場としても見直す必要があるのではないでしょうか。
何事も【木綿】ないのが一番と思った次第です。

盆踊りにはこの境内が人であふれる

本堂前の大楠 盆踊りではこの辺りが櫓か?

常光寺説明書

常光寺御朱印

駅近くにある「與兵衛桃林堂」
代々河内木綿の問屋で、大正期に板倉家が移り住み、菓子屋を営む。

八尾市マンホール蓋

八尾市マンホール蓋(市制70周年)

市役所西館にある説明

八尾市マンホールカード 配布場所はこちら

八尾郵便局 ; 河内音頭、高安山気象レーダー観測所
八尾駅前郵便局 ; 府天然記念物・楠、綿、高安山
[参考書]



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初日山常光寺(臨済宗南禅寺派)
大阪府は旧国名では摂津・河内・和泉の三国。河内に住んで随分になりますが、本来の河内と呼ぶのはどの辺りでしょうか?
いまはJR環状線周辺が栄えていますが、江戸時代以前は大阪湾に続く巨大な内陸湖があったようで中心は現在より東側。
藤井寺に旧国府跡があって、誉田山古墳(応神天皇陵)などの古市古墳群もあり古代より重視されたのが分かります。
この日は藤井寺の北の八尾に所用があり、空き時間を見つけてちょっと立ち寄り。
初日山常光寺(しょにちざんじょうこうじ)は近鉄八尾駅から直ぐにあります。
寺伝によると、聖武天皇の勅願で行基が創建。
奈良時代の弓削道鏡は河内の出身なので開祖にしても良いとは思いますが、政治的に微妙な立場にあり、
【道鏡】の人よりも【行基】の良い人に軍配が上がったのでしょうかね?

外から見た常光寺三門(楼門)
江戸時代末期から明治初期にかけ建築

境内から三門を見る

境内の様子
弘仁年間(810~824年)には六道の辻でお地蔵さまに出会ったと言う小野篁が木造等身大の地蔵菩薩を作り安置した
と言われます。お地蔵さまに会うのもなかなかのものですが、現世と冥界を行き来した篁ならではの伝えと言えましょう。
狂言の演目に『八尾』というものがあって、地獄に落ちる筈の人間が八尾のお地蔵様の力で極楽にいく話です。
これも篁の伝説からの発送でしょうか。誰も【冥界】な答えは見つけていないようですが…。
平安時代の寛治二年(1088年)には白河法皇が熊野詣の途中に立ち寄るなど、都にも知られた寺でしたが、
南北朝時代に南朝方になったため兵火で焼失。
その後、至徳二年(1385年)に藤原盛継の手で復興し翌年には将軍足利義満から「初日山」「常光寺」の扁額を寄進されています。
尚、現在の地蔵菩薩はこの頃に造られたもののようです。

本堂 天明二年(1782年)築の入母屋造り。

阿弥陀堂 明和九年(1772年)築の宝形造り。

庫裡と方丈 御朱印はここで拝受。
1615年の大坂夏の陣では一帯は激戦地になりましたが、寺は家康の政治顧問の以心(金地院)崇伝の配下にあったため無事。
南北朝の教訓が生きたと言えますが、家康が『寺を荒らすな!』と言った事が【以心伝心】伝わったのが大きかったと思います。
唯、ここでは藤堂高虎と長曾我部盛親の激戦があり多くの死傷者が出ました。
勝者の藤堂側も一門や多くの家臣を失いましたが、これは徳川方に二心のない事を示す為だったとか。
主君を渡り歩いた事で戦国武将としての評判は芳しくない高虎ですが、家臣を抱える身としては辛い所があったのでしょう。

方丈横の庭園
禅宗らしく砂で波紋が描かれている。この奥に藤堂藩の戦死者の墓がある。
以後、江戸時代は平穏で特に後半は河内木綿の一大産地として栄えます。
その肥料が蝦夷地のニシン粕でしたので、北前船を通して全国に繋がっていました。
どこの人も【北前】という開放的な町となります。
大阪人にとって八尾といえば河内音頭ですが、その原型は南北朝時代に再建された常光寺での木遣り歌
「流し節正調河内音頭」とされています。お盆の供養の時に関係者の間で歌われたものが、外に広がったものです。
『こんなオモロイもの、寺だけに独占させる事あらへん!』 と言った感じでしょうか。
その後、歌詞に色々な要素を取り入れることで全国的に。
大坂夏の陣以降、大阪人は徳川嫌いなので、御政道批判の歌詞などが一層拍車をかけた様です。

山門脇にある河内音頭発祥の碑
塩川正十郎書というのが時代を感じる。
今でも8月23・24日に地蔵盆踊りが開催されていますが、お寺の方に伺った処、
『常光寺は檀家がなく、どなたでも参加OK』
との事でした。
地域の活動が衰退している昨今ですが、有り余った力を発散できる場としても見直す必要があるのではないでしょうか。
何事も【木綿】ないのが一番と思った次第です。

盆踊りにはこの境内が人であふれる

本堂前の大楠 盆踊りではこの辺りが櫓か?

常光寺説明書

常光寺御朱印

駅近くにある「與兵衛桃林堂」
代々河内木綿の問屋で、大正期に板倉家が移り住み、菓子屋を営む。

八尾市マンホール蓋

八尾市マンホール蓋(市制70周年)

市役所西館にある説明

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八尾郵便局 ; 河内音頭、高安山気象レーダー観測所
八尾駅前郵便局 ; 府天然記念物・楠、綿、高安山
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