近畿にある三奇の奇岩に祈願(2019.2.20)
<コース>
JR大阪(10:15) → 明石(JR10:53 → 山陽電鉄11:02) → 高砂(11:19) → 徒歩10分 → 高砂神社 → 高砂(12:40) → 伊保(12:45) → 徒歩45分 → 生石神社 → 徒歩15分 → JR宝殿(14:45) → JR大阪(15:43)

生石神社 詰所(手前)と本殿(奥)
高砂神社参拝の後は、JR宝殿駅の名前の由来となった神社まで山陽電鉄から新幹線を抜けてJR線までウォーキング。
生石(おうしこ・おいし)神社は宝殿山腹にある巨石を御神体とする社。
御祭神は大己貴命・少彦名命で、社伝に拠ると
『崇神天皇の西暦97年頃、播磨に疫病が流行した際、天皇の夢枕にこの両神が現れ祀るように仰せになり創建された』
と言われます。

法華山谷川からの遠景

生石神社鳥居
徒歩ではこの鳥居を過ぎ参道の急な石段を登る

石段途中より見上げた絵馬殿
文化十三年以降の建築。かつては拝殿であったが、今は絵馬殿として休憩所の様になっている。

本殿前にある詰所
江戸末期の建築で、通常御朱印はここで拝受するが生憎留守。

本殿(本社)
天保十五年の建築。この下から御神体へ向かう。
しかし神話時代の話なのでどこまで真実を伝えているかは疑問。
後世の 『播磨国風土記』 には 『聖徳王の御代に、弓削大連が造れる石なり』 と書かれていますが、
これも時代考証が合っておらず、古代の人にも何かわからない不思議な巨石としか判断できなかったのでしょう。
その代り知名度は高く、記録にも度々登場し幕末にはシーボルトもスケッチを残しています。
幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7mの立方体に近い刳り貫いた岩、我々の世代にはブラウン管型テレビに似た印象を受けます。
周囲は人が通れる幅があり、ここで作業をしたのでしょう。
下には水があり浮石と呼ばれることもありますが、勿論浮いてはおらず、一部で下の岩盤と繋がっています。
誰が言い出したか 『四口の塩竃(鹽竈神社)』 『天之逆鉾(霧島神宮)』 と並んで日本三奇とか。
人口的に作ったものながらその目的が分からない事が想像を刺激するのでしょうか。

御神体の石の宝殿に御対面

石の宝殿の正面

御神体下には水が溜まり決して水位が【推移】しないと言われる

後方からの御神体

本殿横の御神体の一部の岩
これを力一杯押して祈願するという事で早速実践。

本殿横から山上公園へ

石の宝殿から南を望む

山上の行幸碑

山上から高砂方面を望む
この地域は竜山山地に連なり、白亜紀の凝灰岩層で出来ています。
花崗岩に比べ加工し易かったので、古墳時代には石材として使われていました。
墳墓として造営されたものが未完成に終わったと考古学では言われていますが、古墳の石棺を切り出した名残にも見えます。
ここまで加工した岩ならば、後世の誰かが利用しても良さそうですが、結局そのまま。
神社の祟りを恐れたこともあるでしょうが、石質が需要に合わなくなってきたこともあるでしょうか。
今も周囲では採石が行われていますが、年々縮小しているのもそのためかもしれません。
生憎、人が不在のため御朱印はなし。文字通り、高砂から生石まで河口の砂から山手の石まで遡る巡礼になりました。

御神体と竜山石採石場

御神体の上には草木が繁茂

帰路は駐車場への道を下る

駐車場前の鳥居 今はこちらが正門か?

播磨國石乃寶殿 生石神社略記
[参考書]



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生石神社 詰所(手前)と本殿(奥)
高砂神社参拝の後は、JR宝殿駅の名前の由来となった神社まで山陽電鉄から新幹線を抜けてJR線までウォーキング。
生石(おうしこ・おいし)神社は宝殿山腹にある巨石を御神体とする社。
御祭神は大己貴命・少彦名命で、社伝に拠ると
『崇神天皇の西暦97年頃、播磨に疫病が流行した際、天皇の夢枕にこの両神が現れ祀るように仰せになり創建された』
と言われます。

法華山谷川からの遠景

生石神社鳥居
徒歩ではこの鳥居を過ぎ参道の急な石段を登る

石段途中より見上げた絵馬殿
文化十三年以降の建築。かつては拝殿であったが、今は絵馬殿として休憩所の様になっている。

本殿前にある詰所
江戸末期の建築で、通常御朱印はここで拝受するが生憎留守。

本殿(本社)
天保十五年の建築。この下から御神体へ向かう。
しかし神話時代の話なのでどこまで真実を伝えているかは疑問。
後世の 『播磨国風土記』 には 『聖徳王の御代に、弓削大連が造れる石なり』 と書かれていますが、
これも時代考証が合っておらず、古代の人にも何かわからない不思議な巨石としか判断できなかったのでしょう。
その代り知名度は高く、記録にも度々登場し幕末にはシーボルトもスケッチを残しています。
幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7mの立方体に近い刳り貫いた岩、我々の世代にはブラウン管型テレビに似た印象を受けます。
周囲は人が通れる幅があり、ここで作業をしたのでしょう。
下には水があり浮石と呼ばれることもありますが、勿論浮いてはおらず、一部で下の岩盤と繋がっています。
誰が言い出したか 『四口の塩竃(鹽竈神社)』 『天之逆鉾(霧島神宮)』 と並んで日本三奇とか。
人口的に作ったものながらその目的が分からない事が想像を刺激するのでしょうか。

御神体の石の宝殿に御対面

石の宝殿の正面

御神体下には水が溜まり決して水位が【推移】しないと言われる

後方からの御神体

本殿横の御神体の一部の岩
これを力一杯押して祈願するという事で早速実践。

本殿横から山上公園へ

石の宝殿から南を望む

山上の行幸碑

山上から高砂方面を望む
この地域は竜山山地に連なり、白亜紀の凝灰岩層で出来ています。
花崗岩に比べ加工し易かったので、古墳時代には石材として使われていました。
墳墓として造営されたものが未完成に終わったと考古学では言われていますが、古墳の石棺を切り出した名残にも見えます。
ここまで加工した岩ならば、後世の誰かが利用しても良さそうですが、結局そのまま。
神社の祟りを恐れたこともあるでしょうが、石質が需要に合わなくなってきたこともあるでしょうか。
今も周囲では採石が行われていますが、年々縮小しているのもそのためかもしれません。
生憎、人が不在のため御朱印はなし。文字通り、高砂から生石まで河口の砂から山手の石まで遡る巡礼になりました。

御神体と竜山石採石場

御神体の上には草木が繁茂

帰路は駐車場への道を下る

駐車場前の鳥居 今はこちらが正門か?

播磨國石乃寶殿 生石神社略記
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