<コース>
JR北新地 → (東西線) → JR加島 → 徒歩8分 → 富光寺 → 徒歩5分 → 尼崎戸ノ内〒

長慶山 富光寺(高野山真言宗 摂津八十八ヵ所第七番札所)
職場が変わる事になり、日程に余裕ができたので定期券の範囲を散策。府下に住まいながら訪れる事の少ない淀川区。
企業と住宅地の印象しかありませんが、摂津八十八ヵ所第七番札所が鎮座。駅から僅かの距離というのも魅力です。
目指す富光寺は神崎川を渡れば兵庫県になるという大阪市の端に鎮座。富に光と字面は良いですが、
「ふこう寺ではなぁ」と思っていましたが「ふっこうじ」と読むそうで、復興ならばOK。やはり発音は大事ですね。

山門に掲げられた扁額
長慶山富光寺(ちょうけいざんふっこうじ)は、
『天正19年(1592年)の富光寺縁起の奥書に拠れば、大化2年(646年)頃、
インドより渡来した法道上人が雲に乗って都から播磨へ戻る途中、加島の辺りに五色に光る霊光を発見。
この地に降りて光っていた木を伐り阿弥陀如来を刻んで寺を建てたのが嚆矢。
一説には、同じ法道上人の作だが、京都より流れてきた「流如来」とも言われる。
本尊の阿弥陀如来は一丈六尺の立像で、法道上人が刻んだとされるが、調査の結果、
藤原期の作であることが判明している。開山法道上人は孝徳天皇の信任篤く、
この本尊の話を聞いた天皇は自ら「富光寺」と命名、勅額を与えたとされる。

山門前の山号寺号標
孝徳天皇勅願も刻んである。

山門の正面に建つ本堂

本堂は昭和59年の新築

本堂の張出した向拝と屋根の庇

本堂は新築ながら天竺様に似た構造に見える
元久4年(1207年)、法然上人が土佐へ配流される途次、当寺に一泊して法話を聞かせた。
この時、上人の話を聞いた神崎の遊女五人が入水するという事件が起こり、
これが後世、上田秋成『雨月物語』の「宮木が塚」になった。
鎌倉時代には香具波志神社を訪れた執権北条時頼が当寺にも参拝、大梵鐘を寄進した。
時頼は庭前の梅花を眺め、
・吹くは憂し 花をばさけよ 春の風
と詠んだ。
現在は、弘法大師1150年御遠忌事業として昭和59年に新築された本堂に安置。
平成21年に篤信者より寄進された等身大の観音菩薩と勢至菩薩の立像を脇侍に三尊仏として崇められている。

本堂内陣へ参拝

内陣に置かれた由緒記

内陣の様子

御本尊
本堂右手には阪神淡路大震災後に新築された護摩堂に不動明王、客殿に弘法大師像が祀られている。
不動明王には「空海上人八躰不動之壱」の銘が記され、貞和4年(1348年)作と台に記載がある。
弘法大師作との説もあったが、南北朝時代の作とも言われる。
延元元年(1336年)、足利尊氏を追った楠木正成が当地に本陣を置き、佐々木秀栓と一線を交えた時、
神崎橋上から本尊を一心に祈念し勝利を収めたと言う。この頃、この陣で熱病が流行るが、
この不動尊に祈念する事で収束。以来「熱切不動明王」の名で信仰されて来た。
戦国武将・三好長慶も願をかけ本陣にしており、山号はこれに由来している。
現在当寺所有の両界曼荼羅は成立年代から三好長慶に所縁があると考えられている。
慶長年間には僧侶実印が再興、豊臣秀吉は寺領、朱印地一町八反歩を寄進している。
江戸初期には小浜光隆が加島領主となり、江戸幕府大坂初代の船奉行として、
大坂湾を中心に海川の水上治安に当り、「川口殿様」と呼ばれた。
明治の初期の境内は今より遥かに広い1万5千坪に及び、老松昼なお暗い大寺院であった。
現在の本堂は昭和58年(1983年)の新築である。』 とあります。

本堂向拝下から不動堂を望む

不動堂近影
寺伝は孝徳天皇まで遡っていますが、空飛ぶ法道上人など荒唐無稽な話ですし、
北条時頼が歌を詠んだとあるのも内容は俳句で鎌倉時代には未だない筈。
要は、古くからある寺院に箔を付けるために歴史上の偉人を持って来たのでしょう。
加島は神崎川・淀川・中津川の三角洲の西端にあり、弥生時代後期から漁撈民の集落があったという
古くから人が集まった場所。中世以降は交通の要衝として宿場町ができ、淀川河口の江口と並んで
遊女の里として知られる歓楽街だったそう。今の十三はその名残でしょうか?

不動堂前面

不動堂前から見た境内

境内に置かれた鬼瓦
それだけに様々な人の争奪の地となったようで、領主も転々と変わって【かしま】しい状態だったでしょう。
楠木正成や三好長慶が祈願したのはほぼ確実でしょうが、そのため戦禍を受けたと考えるのが普通。
今の伽藍が新しいのも先の大戦だけが理由でない気がします。
そんな不幸から復興できたのも【寺号自得】とは言えそうです。

摂津八十八ヵ所の石碑

富光寺御朱印 (摂津八十八ヵ所)

宝篋印塔
参拝後は神崎川を渡り尼崎市内の郵便局へ。
戸ノ内郵便局が2022年4月1日の開局50周年を記念して風景印を刷新。
従来は、近松門左衛門の『冥途の飛脚』のヒロイン梅川と市花ベゴニアでしたが、
市内の殆どの局がほぼ同じデザイン。今回の独自の変更は貴重と言えます。

富光寺の屋根を見ながら大阪市から尼崎市へ

尼崎戸ノ内郵便局 ; 市木・ハナミズキの外枠に神崎川に架かる毛斯倫大橋、ハナミズキの花
描かれているのは神崎川に架かる「毛斯倫(もすりん)大橋」。
大正末期に尼崎市戸ノ内町に工場があった毛斯倫(もすりん)株式会社が、
対岸の大阪市と繋ぐために架けたもので、会社が無くなった後も町の象徴として親しまれてきました。
公共ではなく一事業者が橋を架けるなど、当時でも珍しかったでしょうが、名前がまた特徴的。
戸ノ内大橋ならばここまで有名になったかどうか。橋も呼び名が大切なのは寺院と同じです。

神崎川に架かる「毛斯倫大橋」
大阪側からの眺め。

大橋の上から下流を見る

尼崎市内から見た大橋
[参考書]
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