<コース>
御堂筋線梅田(10:07) → 中百舌鳥(10:40 → 南海電鉄10:45) → 河内長野(11:05) → 南海バス3番乗場(11:15) → 観心寺(11:25) → 観心寺 → 徒歩30分 → 楠妣庵観音寺 → 金剛バス東條線 東甘南備(14:10) → 富田林(14:30) → 近鉄富田林(14:43) → 近鉄阿部野橋(15:17)

峰條山楠妣庵観音寺(臨済宗妙心寺派)
入麺を食べた後は入念に地図を見て、河内長野から山を越えて富田林へ徒歩30分。
峰條山楠妣庵(ほうじょうさんなんぴあん)観音寺の寺伝では、
『楠木正行(小楠公)が1339年に吉野の行宮で崩御した後醍醐天皇のために河内の峰條山の一角、
甘南備に帝の念持仏千手観音を祀ったのが始まり。
その後、四条畷の戦いで正行・正時が戦死した後、母親で正成正室の久子がここに草庵を結び余生を過ごした。』
と言われます。
久子は甘南備の豪族南江氏の出身。二十歳で正成に嫁ぐまで兄から厳格な教育を受けました。
嫁いでからは六子を設け、正成征戦の折は留守を預かり子供を教育してその功を称えられたと言います。
湊川の戦いで敗れた正成の首級が届けられた際には、自害しようとする正行を諭して留めた女性でもありました。
隠棲後は名を敗鏡尼と改め、一族の菩提を弔い在住十六年にして正平十九年(1364年)六十一歳で生涯を終えたと言われます。
現在と単純に比較はできませんが、当時としては長命であり夫に加え我が子も戦で亡くした後の十六年間の余生は
彼女にとって人生の半ばを過ぎるものであったのではと思います。

観心寺から歩くとこちらの裏門入口へ

甘南備バス停にある石標 こちらが正門

山門
山梨県恵林寺塔頭青松軒にあった四脚門を昭和39年の夫人六百年祭に移築。右にあるのは大楠公石像

山門前にある楠母子像
夫人久子が正行を持仏堂で訓戒の像で、大楠公六百年祭り(昭和10年)に竣工。久子の詠は
・世の憂きも 辛きも忍ぶ 思いこそ 心の道の 誠なりけり

境内の遠景

観音寺本堂 大正十一年に完成。
その後、明治六年に廃寺となりますが、大正時代に篤志家加藤鎮之助が購入。
建築家伊東忠太により南北朝様式の観音堂・草庵が再建されました。本堂から階段を上がった墓所の地です。

観音堂への階段

再建に尽力した加藤鎮之助像

階段上から本堂を望む

夫人久子が十六年隠棲した草庵
大正四年に伊東忠太により南北朝時代の様式で再建。大正六年には東宮であった昭和天皇が行啓された。

草庵横の庭

観音堂
草庵同様、伊東忠太により再建。

観音堂横の久子夫人の墓
近くには昭和天皇と秩父宮様が大正時代に植樹された楠がありますが、秩父宮様の楠の方が大きくなっているのが不思議。
天皇家にとって楠木氏は忠臣だからでしょうが、それでは足利氏とは不仲なのかというと、足利家先代当主の
足利惇氏(あつうじ)氏は学習院時代に昭和天皇の御学友だったそうです。
また氏の夫人は足利義教を弑逆した赤松氏の流れを汲む有馬家の姫ですので、高貴な方々の事は庶民には理解し難いです。
カーナビが無いと不便な甘南備にありますが、楠木氏に【観心】のある人にはお勧めの寺院です。

昭和天皇御手植えの楠

秩父宮様御手植えの楠 日当たりが良好か?

左が観音堂への石段

楠妣泉
裏門を出た所にあり、今も清泉が湧き出ているとか。

楠妣庵観音寺説明書 ¥100

観音寺御朱印
[参考書]
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