<コース> 日中は10分間隔で運転
京阪電鉄淀屋橋(9:40) → 枚方市(10:01 → 交野線10:05) → 宮之阪(10:07) →徒歩5分 → 百濟王神社

百濟王神社
「京阪沿線 梅の名所」というパンフが駅にあり貰って眺めると、枚方市駅の傍に梅園がある模様。
気候も良いので観梅がてらに出掛けました。
天野川近くに来ると百濟寺跡があったと思い出し、礎石でも見ようと言ったところ、そこは百濟王(くだらおう)神社がありました。
地元にいて全く知らずにいたのも情けない話ですが、早速御参り。

百濟王神社への階段 中宮交差点から直ぐの道路沿い。

階段を上った所に立つ鳥居
この神社の由緒を貰ったパンフで見ると、
『天智天皇二年(663年)白村江の戦いで日本・百濟の連合軍は唐・新羅に敗れて百濟は滅亡。多くの百濟人が日本に移住。
持統天皇七年(693年)に百濟第三十代義慈王の子・善光(禅広)は「百濟王(くだらのこにきし)」という氏族名を賜り、
百濟の亡命貴族等を率いて朝廷に仕えた。
聖武天皇の御代に陸奥守であった百濟王敬福(善光の曽孫)が東北で見つけた黄金を大仏塗金の為、900両献上。
その功績に拠り敬福は従三位・河内守に任ぜられ、河内國交野郡中宮に領地を貰い移り住み、
その後、百済寺と神社を建立した。』
とあります。恐らく事実を伝えているのでしょう。
平安京遷都の桓武天皇は母高野新笠が百済系で家臣にも百濟王の一族を取り立てており、
坂上田村麻呂も渡来人の系譜に連なります。この地を訪れることも度々で 『百濟王は朕の外戚なり』 との詔勅も発しています。
傍系から天皇の位に就いた事で宮中に気の許せる臣下が少なかったからでしょうか。

神社東側にある百濟寺跡の礎石
ここは西塔で金堂は左手と推定されている。

西塔跡から神社方面を見る
その後、嵯峨・仁明天皇の時代は一族の女性を天皇家に送り込みますが、藤原氏の時代となり百濟王氏も衰え、
平安中期には百濟寺も焼失。いまは神社を残すのみとなっています。
神社の御祭神は百濟王(くだらおう)と進雄命(すさのうのみこと:牛頭天王)。
唯、神社も古代から継続していた訳ではなく、江戸中期の1700年頃にこの辺りを新田開発した人々が土地神である
百濟王神(くだらおうがみ)と進雄命を祀ったと地元では考えられているとか。
百濟王族の誇りと、戦で国を失ったという意識からではないようです。

鳥居正面にある拝殿 平成十四年の建築。

拝殿奥の本殿

神社の説明板

鳥居右手にあるかつての拝殿

旧拝殿内には地元の方々が不要の雛人形を奉納
対応して下さった妙齢の権禰宜の話では、
権禰宜:「神社の記録は氏子の家に保管されていましたが、戦時中の昭和14年3月1日の火薬庫の爆発事故で殆ど焼けてしまいました。」
鉄丈:「お寺を再建する話はあるのですか?」
権禰宜:「再建しようにも記録がないので難しく、また宗派の問題もあって遺跡のままにしています。」
鉄丈:「中宮や宮之阪の地名はこの神社由来でしょうか?」
権禰宜:「よくわからないのですが、桓武天皇はこの辺りの宮で祈祷を行っていたと言う話を聞いた事があります。」
修羅場を潜り抜けて皇位についたものの怨霊に悩まされ続けた帝らしい話です。
鉄丈:「埼玉県日高市に高麗神社というのがありますが。」
権禰宜:「時々、こちらにもお見えになります。それから韓国からの修学旅行生が結構ここを訪問する事が多いです。」
鉄丈:「色々と知って居られますね。」
権禰宜:「仕事ですからね。」
時代は移っても、歴史は【韓流】しているという事でしょう。
枚方・交野周辺には王仁博士の墓など渡来人の旧跡と、星・妙見信仰も見られます。
教団としての道教は日本では発達しませんでしたが、これは道教の影響ではないかと大昔に大学の講義で習った事を
思い出しました。

特別史跡 百濟寺跡 百濟王神社 説明書

百濟王神社御朱印

枚方郵便局 ; わが国初指定史跡公園・百濟寺公園、市花・菊
枚方宮之阪郵便局 ; わが国初指定史跡公園・百濟寺公園、桜
[参考書]
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