<コース> 南海電鉄・京阪電鉄は日中10~15分間隔で運転
【往路】なんば → (南海電鉄急行) → 岸和田 → 徒歩10分 → 岸和田漁港 → 岸和田 → 堺 → 徒歩20分 → 堺東 → 大阪狭山 → 徒歩10分 → 狭山池博物館 → 大阪狭山 → 中百舌鳥 → (御堂筋線) → 淀屋橋 → (京阪特急) → 樟葉 → (普通) → 石清水八幡宮
石清水八幡宮駅 → 徒歩5分 → 飛行神社 → 徒歩5分 → 神應寺 → 杉山谷不動尊 → 徒歩10分 → らくがき寺
【復路】石清水八幡宮 → 樟葉 → 淀屋橋

単伝庵(臨済宗妙心寺派)
男山の寺院拝観後は再び放生(ほうじょう)川を渡り 「らくがき寺」へ。
途中、松花堂昭乗の歌碑や後村上天皇の行在宮跡の碑が建ちます。
南北朝動乱期に後村上天皇はこの地に行在所を構えて、足利尊氏・直義兄弟の内紛で一時期
京の都を奪回しますが、尊氏の息子の義詮の軍に攻められここから退いたとか。
山城と河内の国境ではありますが、このような歴史を見ると都の影響を直接被っているようでした。
その後、5分歩いて寺院へ到着。正式には西門が正門のようですが、碑を見ながら【来たもん】で、
北門から境内へ。後門というよりも小学校の校門の様な雰囲気でした。

詠み人知らずの句碑

後村上天皇行宮址碑

住宅地の奥に建つ西門が正門

西門近影

こちらが裏手にある北門
左手には市街地へ向かう道路が走る。

北門脇の 「らくがき寺」 石碑
小学校の校門の
『単伝庵の起源は不明であるが、現存する記録に拠ると正徳元年(1711年)、臨済宗妙心寺派の僧侶である瑞応が
人々の不慮の災難を救う事を発願。怪我除け・厄除けの救苦観音を安置し祈祷修繕したのが再建の経緯。
単伝とは瑞応が単伝和尚と呼ばれた事に由来する。
その後、何度か移転を繰り返し20世紀初頭には荒廃していたが、地域からの支援と寄進に拠り
昭和32年(1952年)に現在の地へ復興した。

北門からの眺め
正面は茶室、右は庫裏。

参道から北門を振り返る
右に建つのは豊川稲荷社。

正面から見た茶室

茶室脇の参道を抜け本堂へ

茶室と道路の間に挟まれた内庭

参道左手に建つのが大黒堂
境内には本尊の釈迦牟尼仏、江戸時代から伝わる観世音菩薩を祀る本堂に加え、地蔵堂、大黒堂が建つ。
大黒堂に祀られている大黒天は南北朝時代、石清水八幡宮の改築に際して、楠木正成が武運長久を祈願して
寄進した楠の残り株から刻まれたと伝えられる。足を前に踏み出したその姿から「走り大黒」と呼ばれ、
開運・福徳円満を授ける神として信仰されている。

正面から見た大黒堂

大黒堂内陣の諸仏

想像していたよりも小さい御本尊の 「走り大黒天」

左側にある仏像奥の壁に書かれた落書き群

こちらは右側の壁

大黒堂前からの眺め
正面が西門。
再建に寄付をしてくれた人々の願いが叶うようにと、60年ほど前から大黒堂の白壁に
自身の願いを落書きし、祈願を成就する事が始められた。
大黒天に願い事を見て貰うようにするためであり、絵馬の役割も果たしていると言う。
今では「らくがき寺」として知られるようになっている。』 とあります。

大黒堂から右に見える庫裏・書院

庫裏玄関近影

御朱印をお願いするため玄関に入る

単伝庵説明書

単伝庵御朱印

庫裏玄関前から大黒堂を望む

玄関前から西門を望む
手前の十三重石塔と大銀杏が映える。
このように記されたものは、書き手の希望か不満かどちらかに向かうのが常ですが、当寺は前者。
似た言葉に落首がありますが、これは主に大衆が世間を風刺したもので後者に相当でしょうか?
現在は否定的に捉えられ勝ちな落書きですが、歴史的を経て残ったものは当時の世相を知る貴重な史料。
単に人に伝えるだけの内容ではないようです。
本来、両者は同じルーツの筈ですが、長い年月の間に格差がついてしまったのでしょう。
御朱印を拝受する際、「落書きの様なものだったらどうしよう。」と不安になりましたが、流石にそれはなし。
大黒天の走り書きという、落ちのない「らくがき寺」参拝となりました。

大黒堂と手前の石碑

石碑近影
句碑と言うよりも落書きの案内か?

南側の塀添いの岩と植木

西門前の地蔵堂

祀られているのは道祖神のようなペアのお地蔵様

西門から見た境内
[参考書]
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