<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36)
大垣駅(9:08) → (養老鉄道) → 養老(9:30) → (レンタサイクル10分) → 養老寺 → 徒歩15分 → 養老神社 → 徒歩15分 → 養老の滝 → 徒歩30分 → 養老寺 → (レンタサイクル5分) → 大菩提寺 → (レンタサイクル50分) → 道の駅 月見の里 → (レンタサイクル10分) → 徒歩10分 → 行基寺 → (レンタサイクル10分) → 駒野駅
【復路】駒野(15:16) → 大垣(15:53→16:04) → JR米原(16:39→16:47) → JR大阪(18:13)

臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所) 本堂
山門を潜り境内を軽く一周した後は伽藍に参拝。
山門直ぐ左手に建つ小振りなお堂は、扁額では真影堂とありますが観音堂。
当寺は西美濃三十三ヵ所札所なので、このお堂に札所の御本尊が祀られている筈で、
先ずはここに参拝。開放されていたので内陣まで入って拝むことが出来ました。

山門左手の観音堂

観音堂内陣で御本尊に参拝
続いて山門の正面に建つ本堂へ。境内の拝観は自由ですが、本堂の内陣・書院・庭園は
入山料¥400を納めての参拝。
臥龍山菩提院行基寺(がりょうざんぼだいいんぎょうきじ)は、
『天平時代に行基が聖武天皇の勅願を得て建立した古刹であるが、その後、徐々に衰退。
当初の伽藍は延元元年(1336年)に結城友定の兵乱で焼失し、正平年間に再建された。

山門の正面に本堂が建つ

本堂とその後方に見える石垣

本堂の向拝前にて

本堂に続く書院玄関
拝観受付はこの左手にある。

臥龍山行基寺説明書

行基寺御朱印 (西美濃観音霊場)
元禄15年(1702年)、尾張二代藩主徳川光友の次男松平義行が美濃高須藩に封ぜられると、
当寺を菩提寺として再建に着手、宝永6年(1709年)に改修工事が完了した。
山門は文政3年(1820年)、本堂は天保3年(1832年)の再建である。
尚、明治維新に至るまで、一般庶民の登山参拝は禁止であった。

本堂向拝下にて

本堂前面に掲げられた扁額
菩提院とは当寺の院号か?

向拝と蝦虹梁

先端部の兎の彫刻

木鼻の部分はお馴染みの象
当寺は濃尾平野を見下ろす高台にあり、高い石垣を持つ城郭風の伽藍であるが、
これは緊急時には高須藩の城としての機能を持たせるためであったと言う。』
とあります。

本堂扉の浮彫はカラー版六つ葉葵?

本堂内陣にはこんなポスターが
当寺は浄土宗なので本尊に祀られているのは阿弥陀如来。徳川幕府は天台宗と浄土宗を
自身の信仰の柱に据えたので、当寺を菩提寺としたのは自然な流れといえます。
本堂の前面には菩提院の扁額が架けられ、扉等には三つ葉葵の紋が描かれているのは
藩主の菩提寺としての格式を表しているのでしょう。
内陣に吊るされた駕篭は当寺の住職が使用したのでしょうか?

内陣に架けられた 「行基寺」 の扁額

扁額の奥に鎮座する御本尊阿弥陀如来

内陣柱の極彩色装飾と黄金の三つ葉葵の家紋

内陣の閻魔様の掛け軸

内陣に吊るされた駕篭
本堂の左側(西側)は山肌が露出していますが、ここはTVでも紹介された場所。
山の中腹なので平地を最大限に利用した結果、このように山肌が間近に迫る構造になったのでしょう。
TVの説明でもありましたが、太古の昔に海底に堆積した岩が隆起してできたのが25㎞続く養老山地で
この付近は丁度断層地帯。濃尾傾動運動と呼ばれるものでできた地形だそうです。
露出しているのは砂岩を主体に泥岩が間に入ったもので、その続きに石垣を積み上げています。
天然と人口の交差と言うよりも、自然を上手く取り込んだもので、これなら左官職人の手を煩わすこともなく、
かつては【盛ん】に造られたのでしょう。別段、設計した人が地質マニアであった訳ではないようです。

本堂の前を通り西側の石垣へ向かう

本堂の間近に迫る石垣

砂岩に石垣を組合わせた独特の構造

砂岩と石垣の接する部分

本堂前から山門を見る
[参考書]
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