藤原定家と小倉山 (2018.09.19)
<コース>
阪急梅田 → 阪急嵐山 → 徒歩15分 → 常寂光寺 → 徒歩5分 → 二尊院

朝の渡月橋
・来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ [権中納言定家 新勅撰集]
(訳) 私はひたすら来ぬ人を待っている、この松帆の浦で…。夕凪時に焼く藻塩のようにこの身を恋い焦がしながら。
(解説) 詞書に建保六年内裏の歌合とある。
萬葉集にある笠金村の長歌
・名寸隈(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海未通女(あまをとめ) ありとは聞けど 見にゆかむ よしの無ければ ますらをの 心はなしに たわやめの 念ひたわみて たもとほり 吾はぞ恋ふる 船梶を無み
を本歌取りしたもので、身を焦がすのは若い海女である。
四季の歌で知られる定家にしては珍しい恋の歌であるが、自身も認める自信作である。
藤原定家が選んだ「小倉百人一首」。その誕生の経緯は、僧侶蓮生(宇都宮頼綱;定家の息子為家の妻の父に当たる)の
依頼で嵯峨野の山荘の襖の色紙として選んだ「百人秀歌」が始まりで、後に少し修正したのが「小倉百人一首」となります。
当初の呼び名は「小倉山荘色紙和歌」でした。定家については
『万葉の柿本人麻呂、古今集の紀貫之と並ぶ和歌史上の大立者。新古今和歌集、新勅撰和歌集と二つの勅撰集の撰者。
父俊成が唱えた幽玄を確立し、後世の和歌の規範を築く。
家集・歌論書も著し、中でも18~74歳まで書き続けられた日記「明月記」は有名で史料的価値も高い。』
と言うのが一般的解釈。
芸術家としての反面、激しい性格で強情な面を持ち、若いころは殿上人との乱闘沙汰で出仕を止められたことも。
年を経てもその性格は変わらず、歌の第一人者として後鳥羽上皇からは目を掛けられますが、
歌の良否を巡って対立し、謹慎を食らったとあります。
ただ謹慎期間中に酒に溺れることもなく、古典の筆写・注釈や著述に従事したことは後世への遺産となりました。
もし定家が周囲に気を配るような性格であったなら、日本の古典文学はそうとう貧弱なものになった事でしょう。
今回は、その事績を訪ねて小倉山へ。定家は山荘「時雨亭」を建て隠棲しますが、その跡と言われるものが残っています。

天龍寺横の竹林を通り小倉山へ

野宮神社にある定家の歌碑

常寂光寺への道と小倉山
小倉山常寂光寺(おぐらやまじょうじゃっこうじ) は、山号の通り小倉山中腹にある日蓮宗寺院。
『平安末期には藤原定家の「時雨亭」があったとされる地で、
慶長元年(1596年)に、今は山科にある日蓮宗本山本圀寺の十六世日禎上人が隠棲地として建立。
角倉了以に土地を、小早川秀秋に伽藍の寄進を受けた。
小倉山は都の西にあるので、そこに仏の理想郷「常寂光土」を求めたというのが、寺号の由来。』
と言われます。
と言うと政財界に強い影響があったのかと思いますが、歌人でもあった日禎は藤原日野氏流、広橋家の出身。
それくらいの人脈があっても不思議ではありません。貴族的な思考は先達定家に通じるものがあるのでしょうか?

常寂光寺山門(日蓮宗) 1595年(文禄4年)の創建だが、山門は江戸後期の作

常寂光寺仁王門 本圀寺客殿南門として貞和年間(1345~49)に建立されたものを1616年に移築した

紅葉の向こうに見える常寂光寺本堂

常寂光寺本堂裏庭園

元和6年(1620年) 建立の重文・多宝塔
高さ12m、方三間、檜皮葺

時雨亭跡 多宝塔の南にある。江戸期には建物が存在していたとあるが推測の域を出ないらしい

常寂光寺御朱印
ここでは書置きを拝受。
続いて北に少し歩いて二尊院へ。
本尊に釈迦如来と阿弥陀如来を安置する事が院号の由来。
『正式名は、小倉山二尊教院華台寺(おぐらやまにそんきょういんけだいじ)、
天台宗寺院だが天台・真言・律・浄土の四宗兼学の道場でもある。
承和年間に嵯峨天皇の勅願で円仁が創建し、鎌倉時代に法然の弟子により再興。
そのため浄土宗嵯峨門徒の拠点となり、法然上人の画像が収められている。』
ここにも境内を上った場所に藤原定家の「時雨亭」があったとされる地が。
亭跡からの眺めはここからの方が良いですが、本尊も二体あるくらいですから、
時雨亭も一ヵ所に固執する事も無く、両寺院にあったとすれば別段問題はないのかと考えた次第です。

小倉山二尊教院華台寺(天台宗)
この総門は伏見城の薬医門を移築したものとされる。

二尊院寺標と小倉餡発祥の碑
小倉餡は、小倉山→ 紅葉→ 鹿→ 鹿の子饅頭 という連想からとか。

総門を抜けた紅葉の馬場

紅葉の馬場 黒門近く

紅葉の馬場脇の西行の碑

黒門を過ぎた境内にて 後ろは小倉山
左;二尊院本堂 右;九頭竜弁財天堂

境内の貞信公(藤原忠平)の歌碑

定家の歌碑

二尊院本堂
永正18年(1521年)、三條西実隆により再建。

二尊院本堂内には法然上人御影も

後柏原天皇筆の二尊院扁額

九頭竜弁財天堂
この横を通り時雨亭へ向かう。

二尊院の時雨亭跡
弁財天堂横の階段を上った左手に佇む

時雨亭説明書き

時雨亭跡(二尊院)からの眺め 市内を見渡す事ではこちらに軍配か?

二尊院御朱印
通常は御朱印帳に頂くが、季節限定の薄版を頂く。次は紅葉とか。
二寺の参拝を終えて周囲を歩くと、定家の別荘「厭離庵」の案内が。
期間限定の拝観のため外観だけでしたが樹木に囲まれた異空間。
時雨亭以外にも別荘があったとは、定家はいったい何軒別宅を持っていたのでしょうか。
武家の事は自分には関係ないと言い切った彼の事、世間に邪魔されずに文学に浸れる場所があったと
考えるのは当然と己の浅学を反省する旅とはなりました。

もうひとつの定家の山荘という厭離庵
但し、拝観は期間限定。(11~12月)

厭離庵門には拝観謝絶の看板が…。

塀越しに撮影した厭離庵の敷地内
厭世気分に浸るならこちらか?

中院山荘跡
定家に百首の色紙を依頼した僧蓮生の山荘跡で、前は民宿となっている。

中院の説明書き
この辺りの字も中院。

慈眼堂(中院観音)
定家の念持仏の千手観音が安置されているが、現在修理中。

慈眼堂の説明

京都桂西口郵便局;桂離宮書院
京都西郵便局;嵐山渡月橋
[参考書]
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