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勧修寺(京都府山科区) 古池を囲む名園のある古刹

2019.12.04(23:41) 499

玉の輿に乗ったのは?(2019.11.26)

<コース>
JR大阪 → JR山科 → 徒歩15分 → 毘沙門堂 → 徒歩10分 → 安祥寺 → 地下鉄山科 → 地下鉄小野 → 徒歩5分 → 勧修寺 → 徒歩10分 → 随身院

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亀甲山 勧修寺(真言宗山階派大本山 門跡寺院)

 山科駅周辺の二ヵ寺参拝の後は、地下鉄で小野まで移動。

古代の名族小野氏所縁の場所として有名ですが、その前に西側の勧修寺へ参拝。

寺名は「かじゅうじ」、地名は「かんしゅうじ」。

鎌倉の「じょうみょうじ」を寺は浄妙寺、地名は浄明寺と漢字を変えますが、

京都では読み方を変えるのが【かんしゅうじ】の様です。

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道路から見える寺標と案内板
御朱印は勧修寺ではなく、隣接する佛光院で拝受する。

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白壁に沿って拝観入口へ

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勧修寺山門

 亀甲山勧修寺(きっこうざんかじゅうじ)は、

『平安中期の昌泰3年(900年)、醍醐天皇が生母の藤原胤子(いんし)追善のために、

東大寺の承俊律師を開山として創建された勅願寺。

 敷地は胤子の祖父に当たる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を用い、

造営は胤子の同母兄弟の三条右大臣藤原定方が行った。

勧修寺の寺号は胤子の父の藤原高藤の諡号に由来する。

 以来、皇室や藤原氏に所縁の寺院で、代々法親王が住職を務めたので、山階門跡と称された。

文明2年(1470年)の兵火で堂宇は焼失、江戸時代に皇室と徳川家の援助で再興。

現在残る書院は天皇の旧殿を移築した。』 とあります。

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拝観入口 ここから先は ¥400

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入口を入った場所にて
門扉には門跡寺院らしく菊の御紋(裏八重菊?)が。

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勧修寺説明板

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入口から続く参道の紅葉

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紅葉近影

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宸殿前庭

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宸殿前庭
前庭の枯山水は海と山。石組が蓬莱山でハイビャクシンの木が波を表す。

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宸殿前面の造り
入母屋造、桟瓦葺。元禄10年(1697年)に明正天皇の旧殿を賜り移築したもの。内部は書院造で明治5年から9年間勧修小学校の校舎として利用された。

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宸殿の扁額「明正殿」
扁額後ろの横木は欅の巨木。

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宸殿前庭のツワブキ

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宸殿横を通り書院へ

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参道脇の紅葉群

 寺院参拝のつもりで訪れましたが、ここは参拝ではなく庭園観賞がメイン。

庭園は約2万㎡の広さで、「氷室園」又は「氷池園」と呼ばれる平安時代の遺構。

 氷室池とは、古く平安時代に毎年1月2日にこの池に張った氷を宮中に献上し、

その氷の厚さによって五穀豊穣を占ったとされ、

氷室の池を中心に周囲の山を借景にした広大な自然美を楽しむ趣向です。

 池には蓮・睡蓮・杜若が、前庭には樹齢750年とされるハイビャクシン(這柏槙)が

地面を這うように枝を伸ばし、境内には桜、梅、楓が季節を通して花を咲かせています。

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書院前庭
手前のハイビャクシン(這柏槙)は樹齢750年で地を這うように今も成長を続けている。ビャクシンに隠れているのが「勧修寺型灯篭」で、奥に見えるのが観音堂。

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水戸光圀の寄進による「勧修寺型灯篭」
京都へ来たときには「見て通ろう」と言われる灯篭であるとか。

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書院(左)と宸殿
書院は入母屋造、杮葺で延宝元年(1673年)から3年に掛けて造営された後西天皇の旧殿を賜り移築したとされる。

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境内に咲く四季桜越しに書院を見る

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昨年の台風被害に拠り修理中の本堂
寛文12年(1672年)に霊元天皇より仮内侍所を賜り移築。本尊は醍醐天皇の等身大の伝えられる千手観世音菩薩で室町期の作。

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本堂前からの景色

 これ程の庭園を所有していた宮道弥益、藤原高藤、

いずれも政治の主流からは縁遠い家系でしたが後に高藤は内大臣に至っています。

これには次のようなエピソードが伝わっているとか。

『若い頃、山科に鷹狩りに出かけた高藤は雨宿りのために立ち寄った邸の

娘・宮道列子(みやじたまこ)と深い仲になる。

数年後、再訪した彼が見たのはその時の娘と幼い女児であった。

「雨宿りの時の…」と思った彼は親子共々引き取り生涯他に妻を持たなかったという。

その後生まれたのが定国、定方の兄弟である。

 これだけなら絵にかいたようなロマンスで終わるところだが、

雨宿りの女児胤子が一家の運命を変える。

彼女は父の勧めで源定省という官吏と結婚し男子が生まれた。

光孝天皇が崩御されたとき、源定省は皇族に復帰し宇多天皇となり、

男子は皇太子(のちの醍醐天皇)となった。高藤一家は一躍帝の外戚になった。』 と。

政治的には別段功績の伝わらない高藤ですが、醍醐帝の時に内大臣に至ります。

息子の定国は政治の世界で、定方は文化面で活躍。特に定方は醍醐天皇の時代に

歌・管弦といった【えんぎ】で朝廷の中心人物、小倉百人一首の「名にし負わば…」でも知られます。

 女性が高貴な身分や資産家に嫁ぐのを「玉の輿に乗る」といいますが、

これは列子(たまこ)に由来した語と解説にありました。

どちらかと言えば「玉の輿に乗った」のは列子よりも胤子の方。

勿論、俗説でしょうが、婚姻により高貴な身分になった事実が庶民の願望となったのでしょう。

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昭和6年再建の観音堂
氷室池に面した楼閣風の建物。

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氷室池の蓮と池にかかる紅葉

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池越しに境内を見る

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池に映る観音堂と紅葉

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勧修寺御朱印を拝受する佛光院

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勧修寺説明書
絵葉書の裏面である。

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勧修寺御朱印
平成6年の拝受。佛光院で拝受した記憶はないのだが…。

[参考書]

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